虚構の時代の果て 4480091971, 9784480091970

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虚構の時代の果て
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増補虚構の時代の果て

大澤真幸

筑摩書房

ま学芸文庫

増補虚構の時代の果て

大澤真幸

筑摩書房

目 次

第一章妄想の相互投射

もう一つの戦争

半世紀後の二つの戦争

半世紀後の戦争 妄想の相互投射

あらん限り近い他者 虚構の時代

新新宗教としてのオウム真理教

虚構の時代の反現実主義

オウムの

反対方向の反転

009

39 Ô

妄想の相互投射 第二章理想の時代

理想の時代の現実主義

哲学的レッスン

/

理想の時代と虚構の時代

二 つの可能世界

虚構への反転

両方向からの越境

理想を否定する理想

終末論という倒錯

/

虚構世界

. . . . . . . . . . . . . . . . . /

/

OIO

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . ^

/

/

502 0 72

/

/

21 °

/ /

1 2 1 2 3

オウム真理教の終末論

サリンという身体

終末論の氾濫 第三章

腐海を護るオーム

毒 ガ ス の 恐 怖

サリンの恐怖

サリンが ==

近代的な時間

家族の根源的否定

サイバーパンク的想像力

永続ということ

極限的に直接的

.. . . . .

家族否定の歴史的文脈

身 体 の 「ここ」 性 と 「そこ」 性

シ ャ ク テ ィ パット

身体の微分

極限的な直接性

浮揚する身体 な コ ミ ュ ニ ケ — ション



家族性の肯定

家 族 の 無 化

イエスの方舟 クンダリニ

クンダリニーリサリン

終末という理想

有限の時間

決して終わらない時間屮

二つの終末論

二つの終末論

第四章

°96

089

143

/

° 9°

/



. . . . . . . . /

/

/ /

^

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. . . . . . . . . . . . . .

/

/ /

1 2 3 4 1 2

止揚された終末論

「不 可 能 な 教 義 」 と し て の 予 定 説 こと

〈 超 越 性 〉 の消耗

資 本 の 背 理

資本の原理 破壊する神

千 年 王国論

否定的終末論

天皇ごっこ 〈 超 越 性 〉 の生成

追 い着かないことと追い越す

合理化の逆説

視野狭窄

俗 物 ということ

%

絶対の否定

他者の想定

真我の理論

.. . . . .

/

. . .

/

. . .

空しさ

第 五 章 虚 構 口 現 実 …………

空虚な言葉

アイロニカルな没入

ア イ ロ ニ ー の意識 左翼

「ご っ こ 」 の 存 立 構 造

右翼

〈内 在 〉 と 〈超 越 〉

科 学 とオカルト

現 実

不可能性の実体化 虚構

.. . . . /

^ /

言 説 の二つの体制

真我の理論

/

21 °

/

^ /

262

/

/

/

/

U U

/

/

165 /

/

3 4 1 2 3 4 5

現実

他者として生きる

ホロコーストのような

ポアの思想を越えて 共存の技術

、 :…… ……:

"

虚構 終章 「 総 括 」 と 「ポ ア 」 権 力 構 造 の 転 換

あとがき

. . . . . . . . . . . . . . .

/

補論オウム事件を反復すること

文庫版あとがき

見田宗介

^

文 献 表 解 説

)

^

/

/

. . . . . . . . . . . . . .

327

..

/

" (

【 増補】虚 構 の 時 代 の 果 て

第一章妄想の相互投射

半世紀後の二つの戦争

世 界 大 戦 は 、 ヨー ロ ッ パ が 世 界 で あ る ——

世界の代表

表 象 で あ る ——

限 り に お い て の み 、 世界

(

大戦である 、第 二 に 、 人 類 が 自 ら を 死 滅 に 追 い や る こ と が 可 能 で あ る こ と が 、 初 め て 確

H

大 戦 は 、 第 一 に 、 初 め て 地 球 規 模 の 真 の 「世 界 」 戦 争 で あ っ た と い う 点 に お い て 第 一 次

ここで世界最終戦争というのは、 もちろん、第二次世界大戦のことである。第二次世界

すなわち一九九五年に、 その日本で、 二つの戦争が勃発した。

世界最終戦争と見なされるべき戦争で日本が敗北してからちょうど半世紀を経た年に、

半世紀後の戦争

1

それでは、 この戦争の終結後五〇年を経たときに日本で生じた二つの戦争とは、 どの戦

世界最終戦争だったのである。 われわれは最終戦争後の世界を生きているのだ。

つまり、第 二 次 世 界 大 戦 は 、 空 間 的 規 模 と 時 間 的 展 望 の 両 方 向 か ら の 特 徴 づ け に お い て 、

実なものとして示されたという点において、世界最終戦争と認定されるべきものであった。

)

010

争 の こ と で あ ろ う か 。 その一つは、 一九九五年一月一七日に、 兵庫県南部に壊滅的な被害

を与えた、震度七という未曾有の規模の地震のことである。他の一つは、 この地震から約

サ リ ン を ば ら ま く と い う 、 前 代 未 聞 の テ ロ を 核 に し た 、 「サ リ ン 事 件 」 と 総

ニカ月後の三月二〇日の朝、通勤客で混んでいた首都東京の地下鉄の三路線の五列車に、 突然毒ガス

称されている一連の出来事である。 こ れ ら の 出 来 事 が 「 戦 争 」 で あ る こ と の 理 由 は 、 これ

ら を 同 時 代 的 に 生 き た も の に と っ て は 、 お お よ そ 見 当 が つ く だ ろ う 。 二 つ の 「戦 争 」 を 並

列 さ せ て み た の は 、 た ま た ま こ れ ら が 同 じ 国 で 同 じ 年 に 起 き た か ら だ け で は な い 。 これら

をまさに「 戦争」 として受けとめさせた経験の構造を追究してみるならば、両者の同時性 に偶然以上のものを認めることができるからである。

地 震 は 、 言 う ま で も な く 自 然 災 害 だ が 、 兵 庫 県 南 部 地 震 を こ こ で 「戦 争 」 と 呼 ん だ の は 、

この地震が、 マスコミによる報道の中で、 あるいは私的な会話の中で、 しばしば戦争の比

喩 に よ っ て 語 ら れ た か ら で あ る 。 つまり、 地 震 が 、 一 種 の 戦 争 と し て 感 覚 さ れ た の で あ る 。

たとえば、地 震 へ の 対 処 策 と し て 「 危機管理」が問題にされ、 また地震の被害が空襲の被

害と比較されたりした。 まぎれもない自然災害である地震に関して、人 災 の場合のように、

そ の 結 果 に 全 面 的 に 責 任 を 負 う 人 物 や 集 団 を 特 定 す る こ と は で き な い 。 に も か か わ ら ず、

兵庫県南部地震を天災であると言い切ってしまうと、 なおその断定の内に回収されていな

い違和感が残るように感じられたのである。 この違和感が、人をして、 この地震を戦争の

第一章妄類の相互投射

oil



比喩で語らせたのだ。

もちろん、地震を原因とする災害のある部分は、ごく単純に考えてみても、 人為的な災

害としての側面をもっている。建物の耐震性が十分でなかったことなど、地震への対抗策

があらかじめ準備されていなかったことが、災 害 を よ り 深 刻 な も の に し た の だ か ら と は

いえ、 災 害 の す べ て を 人 為 性 に 還 元 し 尽 く す こ と は 、 も ち ろ ん で き な い 。 に も か か わ ら ず

兵庫県南部を襲った大震災は、全体としての特徴づけにおいて、 人災であったかのような

との噂

印象が、人々に共有されたのである。 たとえば、 マスコミによって報道されることはなかったが、 この地震と、被災地の近辺

で地震の直前に行われた大規模な土木工事との間に因果関係があるのではないか

が 流 れ た こ と が あ る 地震学的にみてこのような因果関係に信憑性があるかどうかはともかく

だろう 。 あ る い は 、 地 震 の 究 極 の 原 因 が 、 人 間 に よ る 地 球 生 態 系 の 破 壊 に あ る の で は な

因を人間の行為に帰属させようとする強い志向が潜在していたことを、社会学的には示している

と し て 、少 な く と も 厳 密 な 実 証 を 経 る こ と な く こ の よ う な 噂 が 流 布 し た と い う 事 実 は 、 地 震 の 原

(

いか、 と 示 唆 し た 者 も い た 実際、 このようなことが十分にありそうにも思う 。 こ れ ら の 言

)

)

の と し て 、 多 く の 者 に 受 け 取 ら れ た と い う こ と 、 を 。 そ し て 、、 地 震 に 「人 為 性 」 を 見 出 そ

元しきれないものとして、 つまり人災と天災のいずれとも断定しがたい中間性を呈するも

説 は 、次 の こ と を 示 し て い る 。 兵 庫 県 南 部 地 震 は 、 本 来 は 天 災 で あ り な が ら 、 天 災 に は 還

(

012

う と す る こ れ ら の言説の最 も 極 端 な も の と し て 、端 的 に 「 地 震兵器」 によって地震が引き

起 こ さ れ た と す る 、 妄 想 的 な 推 論 が あ った。 こ の よ う な 推 論 に 立 脚 す れ ば 、 兵 庫 県 南 部 地 震 は 、 比 喩 で は な く 文字通り戦争だということになろう。

兵庫県南部地震が記憶に留められるのは、 六三〇八人もの多数の人々が一挙に突然の死

に襲われたからである。誰も予期していなかった、 この大量の突発死は、 われわれの生が、

常 に 根 本 的 な 偶 有 性 に 隣 接 し て い る 、 と い う こ と を 教 え る 。 偶 有 性 と は 、 「他 で も あ り う

る 」 と い う 可 能 性 が 留 保 さ れ て いる、 と い う こ と で あ る 。 わ れ わ れ の 生 は 、 予 期 が 及 ん で

いない「 他でありえた可能性」 を潜在的に維持させる限りにおいて、成り立っているのだ。

予期が届き難い偶有性の極点に、突如として生が全面的に否定されてしまう可能性が、要

す る に 「死 」 が 、 置 か れ て い る 。 地 震 は 、 生 が 突 然 中 断 さ れ て し ま う 可 能 性 が 本 当 は い つ

で も あ っ た の だ 、 と い う こ と を あ ら た め て 想 起 さ せ た の で あ る 。 こ の よ う な 生 の突 然 の 中

断は、定義上、 「 無 念 の 死 」 で あ る 。 し か し 、 各 々 の 人 生 の 中 か ら 何 が 「無 念 」 の 内 に 失

わ れ た かというその内容は、 死 が あ ら か じ め 予 期 さ れ ていなかったことがらである以上は、



ホールのような極端な偶有性がありうるということの驚 愕 やとまどいに対する

必然的に、 記録や記憶にとどめることはできない。 それゆえ、 記憶の光が反射して来ない ブラック

反作用として、 地震の記憶は形成されることになるのである。

だ が 、 そ れ に し て も 、 この地 震 が 一 種 の 戦 争 と し て 感 受 さ れ た の は な ぜ だ ろ う か ?

第一章妄飯の相互投射

013



争 で あ る と い う こ と は、確 認 し て お い た よ う に 、 そ れ が 、 単 な る 偶 然 の 産 物 で は な く 、

〈他 者 〉 の 選 択 に 帰 し う る 行 為 の 結 果 だ と い う こ と で あ る 。 し た が っ て 、 地 農 を 戦 争 の 一

種 と見 な す 無 意 識 の 感 受 性 が 広 範 に 見 出 さ れた と い う事実は、次 の よ う な 推論を促すので

はないか。 地震が想起させたような極端な偶有性は、何らか の 不 確 定 で予期できないへ他

者 〉 へ の 感 応 と い う 形 態 で の み 、 実 質 化 す る こ と が で き る の で は な いか、 と 。 突 然 の 死 と

いう偶 有 的 な 可 能 性 は 、 わ れ わ れ の 生 を 突 然 中 断 さ せ る か も し れ な い 不 確 定 で 不 気 味 な

〈他 者 〉 の 存 在 を 想 定 す る こ と の 相 関 項 と し て 、 設 定 さ れ る の で あ る 。 た と え ば 、 宝 塚 で

地 震 に 遭 遇 し た 内 田 隆 三 に よ る と 、 地 震 の 後 し ば ら く の 間 は 、 見 る 物 す べ て が 「凶 器 」 に

感 じ ら れ て い た と い う 。 つ ま り 、 事 物 の 背 後 に 、 〈他 者 〉 の 不 可 解 な 攻 撃 的 な 意 志 を 読 み

その偶有性をもたらすにたる

不確定な意

取 っ て し ま う の だ 。 わ れ わ れ の 生 を 取 り 囲 む 偶 有 性 を ま ざ ま ざ と 実 感 す る こ と は 、 そのこ との反作用として、 その偶有性に見合う

-

〈他 者 〉 は 、 わ れ わ れ の 「 自己」 のもう一っの相である、 と言うべきであろう。極端な偶

わ れ わ れ 自 身 の 生 の 偶 有 性 が 外 部 に 投 射 さ れ た 姿 な の で あ る 。 そ う で あ る と す れ ば 、 この

しうるだろう。 も ち ろ ん 、 こ の 〈他 者 〉 は 、 外 部 に 実 在 す る 誰 と も 特 定 す る こ と は で き な い 。 そ れ は 、

〈他 者 〉 が 引 き 起 こ し た 戦 争 と い う 表 象 は 、 こ の よ う な 〈他 者 〉 の 想 定 の 一 っ の 結 果 と 解

志 を 担 っ た 〈他 者 〉 の 存 在 に つ い て の 想 定 を 、 無 意 識 の 内 に 招 き 寄 せ る の で は な い か 。

-

。3

有性は、予想された人生の内に限定されていた「 自己の同、 一 性 」 を 越 え た 可 能 性を示唆

す る 。 地 震 が 体 験 さ せ た こ と は 、 自 己 が 、 「自 己 の 同 一 性 を 越 え た も の 」 で も あ る 、 とい うことなのである。

こ こ ま で 、 地 震 に 遭 遇 し た り 、 そ の 驚 き の 体 験 を 記 述 し た り す る 当 事 者 の 視 点 に対して、

地震がどのように現れたか、 ということに準拠して議論してきた。客観的な観察者の視点



が 述 べ る よ う に 、 都 市 、と り わ け 近 代 都 市 は 、 そ れ が 備 え る イン 一994 〕

簡 単 な こ と で あ る 。 つ ま り 、 そ れ は 、 〈自 然 〉 そ の も の で あ る と 言 う ほ か

に 定 位 し た 場 合 に は 、 当 事 者 た ち が 〈他 者 〉 と し て 感 受 し た も の は何 で あ っ た と 言 う べき であ ろ う か ? ない。多 木 浩 二

フ ラ ス ト ラ ク チ ュ ア に よ っ て 自 然 生 態 系 か ら 間 接 化 さ れ 、 か な り の程 度 の 自 律 性 を 獲 得 し

て い る 。 こ の こ と は 、 イ ン フ ラ ス ト ラ ク チ ュ ア が 、 半 ば 「自 然 」 と し て 、 つ ま り 「偽 装 さ

れ た 第 二 の 自 然 」 と し て 、 体 験 さ れ て い る こ と を 意 味 し て い る 。内 田 隆 三 〔 が端的 1996 〕 に 述 べ る よ う に 、 兵 庫 県 南 部 地 震 の よ う な 超 大 型 の 自 然 災 害 は 、 〈自 然 〉 か ら の 都 市 の偽

装 さ れ た 分 離 を 、 一 瞬 に し て 無 化 し て し ま い 、 都 市 を 〈自 然 〉 の 水 準 に 引 き 下 ろ す の で あ る。

第一章安強の相互投射

oï5

イ ン フ ラ ス ト ラ ク チ ュ ア が 〈自 然 〉 か ら の 都 市 の 一 定 の 分 離 を 保 証 す る 。 近 代 都 市 に お

いて、 こ の よ う な イ ン フ ラ が 整 備 さ れ え た 理 由 に 関 し て 、 内 田 隆 三 〔 は、 フィリッ 1996 〕 ア リ エ ス や 片 木 篤 の 議 論 を 援 用 し つ つ 、 都 市 の空 間 か ら 死 が 排 除 さ れ た こ と を 指 摘 し

プ •

を 都 市 の 郊 外 郊 外 の 庭 園 風 の ——

)

(

地 下 」 の 対 立 と 並 行 し て い た 「生

つまり死 の匂

死」 の 宇 宙 論 的 な 二 元 論 か

へと排除し、都 市 を 生 者 の 空 間 へ と 純 化 す る 過 程 を と も な っ て い る 。

て い る 。 近 代 都 市 の 建 設 は 、 死 者 屍体 墓地

そ れ は 、 同 時 に 、 「地 上

/

いのない—

(

ブを基幹とするインフラストラクチュアは、 その場合、循環器になぞらえられ

)

ショエや内田、 ま た 富 永 茂 樹

が指摘しているように、近代都市の開発にあたっ 〔 1996〕 は、 し ば し ば 、 都 市 を 人 間 の 「 身 体 」 にたとえてい

に引き入れることでもあったのは、 けだし、当然のことだったのである。

震 が 、 都 市 を 〈自 然 〉 の 水 準 に 引 き 戻 す こ と は 、 同 時 に 、 排 除 し た は ず の 死 を 都 市 の 内 部

ような人間が運ばれるチューブが敷設される、最も豊穰な整備対象となったのである。地

の チ ュ ー ブ が 、 ま た 通 信 網 の よ う な 情 報 が 流 れ る チ ュ ー ブ が 、 そ し て 何 よ り も 、 地下鉄の

ている。 とりわけ、 死から解放された地下は、水路やガス管などの物やエネルギーのため

分 け る 象 徴 的 な 境 界 で あ っ た 大 地 に 、 鉱 山 技 術 や土木技術が投入された、 と片木篤は論じ

は じ め て 、 生 者 の 利 便 性 だ け に 指 向 し た 開 発 の 対 象 と な り え た の で あ り 、 かつて生と死を

ら、都 市 が 自 由 に な る こ と で も あ る 。地下や地表がこう し て 意 味 的 に 中 性化 す る こ と で、

/

)

た 指 導 者 た ち オ ス マ ン 、 ルードン る。 チ ュ

(

的 な 「身 体 」 を 、 〈自 然 〉 の 物 質 性 に 直 接 に 連 な っ て い る 〈身 体 〉 の 水 準 に 引 き 下 ろ す 力

ユアが、 偽 装 さ れ た 「 自 然 」 であった、 ということの言い換えである。地 震 は 、 この擬制

る 。 も ち ろ ん 、 こ れ は 、 擬 制 的 な 「身 体 」 に 過 ぎ な い 。 こ の こ と は 、 イ ン フ ラ ス ト ラ ク チ

|

oi6

だった、 と要約することもできる。

都 市 の イ ン フ ラ ス ト ラ ク チ ュ ア は 、 も ち ろ ん 、資本の原理に従い、 その要請によって整

備される。兵庫県南部地震は、資本の効率性にのみ指向していたインフラストラクチュア



が示唆しているよ 一996 〕

が、 予想外の激震による破壊に遭遇したとき、 とてつもない非効率性をもたらしうる、 と い う こ と を 明 ら か に し た 。 こ の 点 に 着 眼 す る な ら ば 、内 田 隆 三

う に 、 地 震 が 露 呈 さ せ た の は 、 資 本 の 原 理 の 内 在 的 な 限 界 や そ の 自 己 破 綻 で あ っ た 、 と見

な す こ と も で き る 。 も ち ろ ん 、地震は、突 然 、 資本の運動の外部から 襲 っ て く る の だ が 、

そ の 被 害 の 有 り 様 は 、 ま る で 、 資 本 が そ の 原 理 に 徹 底 し て 準 拠 し た こ と に よ っ て 、 か えっ

て 自 壊 し て い く か の よ う に も 見 え る の で あ る 。 〈自 然 〉 の 力 が 、 同 時 に 資 本 の自 己 破 壊 で

も あ る と い う 両 義 性 は 、 〈他 者 〉 の 両 義 性 に 、 ち ょ う ど 対 応 し て い る の で あ る 。

もう一つの戦争

さ て 、 一 九 九 五 年 の も う 一 つ の 戦 争 は 、 サ リ ン 事 件 で あ る 。 都 心 の 地 下 鉄 に 突 然 サリン

を教 祖 としてお

を ば ら ま い た の は 、 新 興 宗 教 「オ ウ ム 真 理 教 」 の 教 団 メ ン バ ー で あ る と い う こ と が 、 現 在 、 ほ ぼ 確 実 視 さ れ て いる。 オ ウ ム 真 理 教 は 、 麻 原 彰 晃 本 名 松本智 津 夫

)

り 、 彼 の 圧 倒 的 な カ リ ス マ の 下 に 信 者 を 結 集 さ せ て い た 。 こ の 教 団 は 、 一九八 四 年 に 小 さ



妄おの相互投射

第一掌

017

(

な ヨ ー ガ 教 室 の よ う な も の と し て 発 足 し 、 八 六 年 に は 「オ ウ ム 神 仙 の 会 」 と 名 乗 る よ う に

な る 。 八 七 年 に は 、 信 者 数 も 約 一 〇 〇 〇 人 に 到 達 し 、 名 称 も 「オ ウ ム 真 理 教 」 と 改 称 し た 。

八 九年に、東 京 都 より宗 教 法 人 と し て の 認 証 を 受 け 、 九 〇 年 の 衆 議 院 総 選 挙 に は 、麻 原 彰

晃 と 信 者 二 十 四 人 が 立 候 補 し て 話 題 と な っ た 全員落選ニ サ リ ン 事 件 当 時 に は 、 出 家 信

悲惨なものであった。ま た 毒 ガ ス

サリンは、前 年 九 四 年 の 六 月 二 七 日 の 深 夜 、松本の閑

地下鉄にサリンをばらまく無差別テロは、 死者十 一 人 、重 軽傷者は約五五〇〇人を出す

者 が 一 三 〇 〇 〜 一 四 〇 〇 人 、 在 家 信 者 が 約 一 万 人 い た と 言 わ れ て いる。

(

は警 察 を 支 持 し て い る 日 本 社 会 の マ ジ ョ リ テ ィ

と の 間 の 「戦 争 」 と 了 解 さ れ た 。 テ レ ビ に

(

る で 戦 時 下 で あ る か の よ う に 「厳 戒 体 制 」 が 敷 か れ た 。

連 想 さ せ た 。 また、首 都 を は じ め と す る 大 都 市 に は 、 サリンのさらなる散布に備えて、 ま

映 し 出 さ れ た 、迷 彩 服 や 防 毒 マ ス ク を 付 け て 教 団 施 設 を 捜 索 す る 警 官 た ち の 姿 は 、 軍隊を

)

サ リ ン 事 件 は 、 地 震 と 違 っ て 、 あ か ら さ ま に 、 自 覚 的 に 、 犯 行 グ ル ー プ と 警 察 あるい

知事宛に爆弾を仕掛けた小包を送りつけ、都庁職員に大怪我を負わせている。

スを仕掛けている。 ま た 教 団 メ ン バ ー は 、 教 祖 麻 原 彰 晃 が 逮 捕 さ れ た 五 月 一 六日 には、都

されている。 この教団は、 さらに、 九 五 年 五 月 五 日 に は 、新宿の地下街のトイレに青酸ガ

た く 不 可 解 だったこの出来事も、 現 在 で は 、 同 じ オ ウ ム 教 団 の メ ン バ ー によるものと見な

静 な 住 宅 街 に も ば ら ま か れ 、 七 人 の 死 者 と 約 六 〇 〇 人 の 重 軽 傷 者 を 出 し た 。 事件当時まっ



018

——

予 告 も な く 猛 毒 ガ ス を ば ら ま き 、 罪 の な い 人 々を何人

サリン事件が戦争と見なされた理由は、 はっきりしている。第一に、通勤電車の中に あ る い は 住 宅 街 の 真 ん 中 に ——

も殺害してしまうというテロ行為は凶悪すぎて、 もはや、法の効力の下にある通常の犯罪

の 範 疇 に 収 め る こ と は で き ず 、 法 の 実 効 性 を 完 全 に 無 視 す る 戦 争 行 為 と し て 、 つまり社会

体 制 そ の も の に 対 す る 攻 撃 と し て 解 釈 さ れ る ほ か な か っ た か ら で あ る 。第 二 に 、 事 件 を 引

き 起 こ し た と 見 な さ れ て い る オ ウ ム 真 理 教 団 自 身 が 、 自 ら を 「国 家 」 に 擬 し て お り 、 そし

て 国 家 間 の 戦 争 の 一 環 と し て テ ロ 行 為 を 決 行 し て い る よ う に 見 え た か ら で あ る 。 後 に詳し

く 考 察 す る よ う に 、 オ ウ ム 真 理 教 は、真 の 世 界 最 終 戦 争 が 迫 っ て い る と い う 予言を信奉し

ていた。 テロ行為は、 そ の 最 終 戦争の一部、 あるいは少なくとも前 哨 戦 の ようなものとし

て、 実 行 し た 教 団 メ ン バ ー や 教 祖 麻 原 彰 晃 に よ っ て 位 置 づ け ら れ て い た 可 能 性 が 高 い 。 都

心 へ と 向 か う 通 勤 電 車 に 対 し て 、 ま さ に 、 そ の 電 車 が 官 庁 や 警 察 が 集 中し て い る霞ヶ関を

に呼 応 し て 、 攻撃

を 、 さ ら に 限 定 す れ ば 警 察 を 目 標 と し て い た 、 と考 え ら れ る 。 教 団 が テ

通 過 し て い る瞬 間 に向けられた攻撃は、 漠 然 と 日 本 国 民 を 目 標 としていただけではなく、 日 本 政 府 官僚

口行為 を 「 戦 争 」 と し て 位 置 づ け て い た と い う こ と についての推測

日 本 社 会 の マ ジ ョ リ テ ィ も 、 こ れ を 「戦 争 」 と し て 理 解 し た 。 た と

)

)

)

え ば 、 野 中 広 務 国 家 公 安 委 員 長 は 、 「こ れ は 犯 罪 で は な く 、 国 家 間 の 戦 争 で あ る 」 と 明 言

さ れ た と推測した

(

(

したのである。

第一章妄翘の相互投射

oi9

(

二 つ の 「戦 争 」 が 同 じ 年 に 生 起 し た 。 こ の 同 時 性 は 、 ご く 単 純 な 意 味 に お い て も 、 単 な

る 偶 然 以 上 の も の で あ る 可 能 性 は 高 い 。 大 震 災 を 「戦 争 」 の 比 喩 で 捉 え る 感 受 性 が 広 く 認

められたということを述べておいたが、 このような感受性を最も強く刺激されたのが、ほ

か な ら ぬ オ ウ ム 真 理 教 団 だ っ た ちなみに、教 祖 麻 原 彰 晃 は 、 教 団 の 占 星 術 担 当 者 の 助 け を 借

り て 、年 頭 に 、 「 神 戸 近 辺 で 地 震 が 起 こ る 」 と い う こ と を 予 言 し て い た 。 た と え ば 、 「地 震 兵

(

によるものである。 教 団 の 顧 問 弁 護士青山吉伸は、地 下 鉄 サ リ ン 事 件 の 直 後 に 放 映

(

地 震 兵 器 に よ って )

一部

器」 によって地震が引き起こされたとする、 先に言及した妄想は、 オ ウ ム 真 理 教 信 者 の

)

さ れ た 民 放 の デ ィ ベ ー ト 番 組 で 、 神 戸 の 地 震 が おそらくアメリカの

団 発 行 の 雑 誌 『ヴ ァ ジ ラ ャ ー ナ

サッチャ』 の



8

一九九五年三月二五日刊 (

)

象を刻みつけただろう、 ということは想像に難くない。

の 「世 紀 末

い、 救 援 活 動 を 行 っ て い る 。 教 団 メ ン バ ー が 、 こ の と き 、 被 害 の 大 き さ に 驚 愕 し 、 強 い 印

オウム真理教団は、地 震 の 直 後 、 多 く の 宗 教 教 団 と 同 様 に 、救援物資をもって神戸に向か

兵庫県南部地震と地下鉄サリン事件の間には直接の因果関係があったかもしれないのだ。

ら れ た 攻 撃 に 対 す る 反 撃 を 一 つ の 目 的 と し て い た 、 と い う 可 能 性 を 否 定 し が た い 。 つまり、

唆 し て い る 。教 団 に こ の ような認識があったとすると、 地 下 鉄 で の テ ロ は 、神戸に仕掛け

サバイバル」 と題した特集は、地震兵器について紹介し、 これと神戸の地震との関係を示



引き起こされた可能性がある、 ということを示唆して、多くの参加者を啞然とさせた。 教

(

)

020

からではない。 これから述べるように、地震

だ が 、 ここで、 「 半 世 紀 後 の 二 つ の 戦 争 」 を 並 列 さ せ て み た の は 、 両 者 の 間 に、 こ の よ う な 直 接 の 因 果 関 係 が あ る かもしれない )

ラ ク チ ュ ア の収蔵場所だったのだから。

妄想の相互投射

妄想の相互投射

.

こ と は 暗 示 的 で あ る 。地 下 こ そ が 、 兵 庫 県 南 部 地 震 が 内 的 な 破 綻 へ と導 い た イ ン フ ラ ス ト

味な手掛かりを与えてくれるように思われる。教団の攻撃が、 地 下 鉄 に 向 け ら れたという

解 明 す る た め に 、地震とサリン事件の間にある種の同型性を認めうるという事実は、 有意

ら を 恐 る べ き テロリズム へ と 駆 り 立 て た 理 由 を 、 考 察 し て み た い と 思 う 。 こ れ ら の 問 題 を

か ら 、 こ の 時 代 に オ ウ ム 真 理 教 が 多 く の 信 者 を 集 め 、 「成 功 し た 」 理 由 を 、 そ し て ま た 彼

よ う と 考 え る に 至 っ た 心 的 な 構 造 と の 間 に 同 型 性 を 認 め る こ と が で き る か ら で あ る 。 これ

を 「戦 争 」 と し て 受 容 さ せ て し ま っ た 心 的 な 構 造 と 、 オ ウ ム 真 理 教 団 が 自 ら 戦 争 を 仕 掛 け

(

一九九五年 三 月 二 〇 日 以 来 の サ リ ン 事 件 に 関 し て は 、 マ ス コ ミ が 伝 達 し 、 ま た 視 聴 者

第一事妄夜の相互投射

02 I

2

読 者 が 受 容 し た 情 報 が、事 実 に 対 し て 常 に 先 行 し て い た よ う に 見 え る 。 言 い 換 え れ ば 、 通

常 だ っ た ら 事 実 と 確 認 さ れ る ま で に 経 由 す る 厳 密 な 検 証 の 手 続 き の ほ と ん ど を 省 略 して、

情 報 が 、 「事 実 」 を 伝 え る も の と し て 散 布 さ れ 、 ま た 受 け 取 ら れ て き た よ う に 見 え る ので

お そ ら く 多 く は 警 察 ——

か ら の 情 報 として、 犯 行 を教団

あ る 。 犯 行 が オ ウ ム 教 団 に よ る も の で あ る と の 厳 密 な 証 拠 が 獲 得 さ れ る よ り もはるかに先 立 っ て 、 明 示 さ れ な い 情 報 源 ——

や そ の 一 部 の メ ン バ ー と 関 係 づ け る 雑 誌 記 事 、 新 聞 記 事 が 書 か れ 、 そ し て ワ イ ド ショーや

ニ ュ ー ス な ど の テ レ ビ 番 組 が 放 送 さ れ た 。 長 く 報 道 の 現 場 に た ず さ わ る 者 に よ れ ば 、 これ

ほ ど 大 量 の 非 公 式 の 「リ ー ク 情 報 」 が 、 マ ス コ ミ を 通 じ て ば ら ま か れ た こ と は か つ て な か

った。 こ の よ う に 情 報 が 事 実 に 先 行 し て い た と い う こ と は 、 事 件 を め ぐ る と り わ け 初 期 の

言 説 が 、 事 実 の 客 観 性 よ り も 、 わ れ わ れ 自 身 の 想 像 力 の 方 に よ り 強 く 規 定 さ れ てきた、 と

いうことを意味しているだろう。 まず最初に、 このことを確認しておかなくてはならない。

さて、 サリン事件を引き起こしたとされているオウム真理教団は、妄想的とも形容しう

の、 そ し て さ ら に そ の 背 後 に

る 「陰 謀 史 観 」 を 持 っ て い た 、 と い う こ と が わ か っ て い る 。 た と え ば 、 日 本 の 公 安 警 察 や 国家権力の、 またその背後にあるアメリカ帝国主義や



サッチャ』



6

一九九五年一

(

れ、教団自身が弾圧されてきた、 というわけである。 教 団 が 一 般 向 け に 発 行 し て い た 雑 誌 『ヴ ァ ジ ラ ヤ



あるユダヤ系大資本やフリーメーソンの不可視の陰謀によって、 日本社会や世界が支配さ

C I A 1

022



で は 、 「恐 怖 の マ ニ ュ ア ル 」 と 題 す る 特 集 を 組 ん で い る 。 こ の 特 集 の 基 本 的 な 主 張 は 、

等 の 有 力 通 信 社 を 媒 介 に し て、

ユダヤ人が世界征服の野望を抱いており、 実際、着実にその企図が実現されつつある、 と い う こ と で あ る 。 た と え ば 、 時 事 、 共 同 、 ロ イタ—、

—ナ

サ ッ チャ』 の 特 集 が 示 し て い る よ う に ユ ダ ヤ 人 である。 しかし、 日本政府や警察等

が 、 陰 謀 の 究 極 の 担 い 手 と 見 な す の は 、 し た が っ て 究 極 の 敵 と 見 な す の は 、 『ヴ ァ ジ ラ ヤ

の 撃 は 、 こ の 陰 謀 史 観 に よ って正当化されていた可能性が高い。 オウム教団の陰謀史観

オウム教団が、 「 市 民 社 会 」 や 「国 家 」 に 対 し て 「戦 争 」 を 仕 掛 け た の だ と す れ ば 、 そ

現 天 皇 等 も フ リ ー メ ー ソ ン の メ ン バ ー で あ る 等 々 の こ と が 、 こ の 特 集 の 中 で 強 調される。

の政府」 として政治的経済的意志決定に影響を与えている、 小沢一郎、細川護熙元首相、

人 の 巨 大 な 資 本 が 世 界 の 政 治 を 左 右 し て い る 、 ユ ダ ヤ 系 の 秘 密 結 社 フ リ ー メ ー ソ ン が 「影

ユ ダ ヤ 人 が 情 報 を 操 作 し て い る 、 ロ ス チ ャ イ ル ド や ロ ッ ク フ ェ ラ ー 、 モ ル ガ ン 等 の ユダヤ

A P

い は 教 団 の 内 部 や 背 後 の 未 特 定 の 集 団 や 人 物 に 、 事 件 を 引 き 起 こ し 、 社 会 秩 序 を 転 覆 しよ

思 い 到 る べ き で あ る カ オ ウ ム を 取 り 巻 く 「市 民 社 会 」 と 名 乗 る わ れ わ れ は 、 教 団 に 、 あ る

「わ れ わ れ 」 の オ ウ ム に 対 す る 眼 差 し も ま た 、 一 種 の 陰 謀 史 観 の 構 成 を 取 っ て き た こ と に

われわれは、 この陰謀史観を一片の現実性も も た な い も の と し て 嘲 笑 する。しかし、

も 、 と き に、 そ の 「手 先 」 と 見 な さ れ て い る の で あ る 。



う と す る 企 図 を 読 み 取 ろ う と し て き た の だ か ら 。 わ れ わ れ の判 断 は 、 オ ウ ム の そ れ と は 違

妄観の相互投射

第一章

023

)

い、 確 実 な 「事 実 」 に 立 脚 し て い る 、 と 言 わ れ る か も し れ な い 。 し か し 、 こ こ で冒 頭 で 確

認 し た 留 意 点 を 、 つ ま り 想 像 力 に 媒 介 さ れ た 情 報 が 事 実 に 先 行していたということを、想

い 起 こ す 必 要 が あ る 。 事 実 の 確 実 性 は あ と か ら や っ て き て 、 わ れ わ れ が 想 像 力 によってす でに受け入れてしまっている判断を充塡し、追認したに過ぎない。

に投射する〔 押 し つ け る 〕 こ と で、 そ の 社 会 の 現 状

陰 謀 史 観 と は 、社会に許容し難い反秩序を見出したとき、 その反秩序の原因を直接には 見 出 し 難 い 外 部 の 他 者 の邪悪な意志 )

「真 の 原 因 」 と し て 、 想 定 さ れ る か ら で あ る 。 わ れ わ れ と オ ウ ム 教 団 と は 、 互 い に 相 手 を 、 そ の よ う な 他 者 の温床

と見立てること

)

によって、 まるで合わせ鏡のように妄想を相互に投射しあっていることになる。 そして、

(

ともと、 そ の 他 者 は 、直 接 に 知 覚 で き る 要 因 の 範 囲 内 で は ど う し て も 説 明 で き な い 事 象 の

の 他 者 の 謀 略 の 行 為 そ の も の は 、 一般には、 影 に 隠 れ て お り 、 人 々 の 目 か ら 見 え な い 。 も

にほかな ら な い 。 それゆえ、 最 終 的 に 陰 謀 を 遂 行 し て い る 他 者 は 、 あ る い は 少 な く と もそ

を 背 後 に も っ て い る 「反 秩 序 」 の 説 明 し 難 さ を 弁 済 す る た め に 、 妄 想 的 に 措 定 さ れ た も の

を左右しているからだと説明される。 もちろん、 その他者は、本来極度に複雑な因果関係

れ、 また国連が世界中の紛争を解消しえないのは、 ユダヤ系の軍需産業が国連の意志決定

ダヤ人によって牛耳られている多国籍大資本や大国による反日本政策の一環として説明さ

を歴史的に説明しようとする態度である。 たとえば、 日本社会の不況や失業の増大は、 ュ

(

024

こ の よ う な 相 互 投 射 は 、 互 い に 互 い の 妄 想 を 、結 果 と し て 現 実 化 し て し ま う こ と になる。

オウムにとってわれわれが危険な他者であるとすれば、 オウムはわれわれに対して警戒的

で 敵 対 的 に 対 応 せ ざ る を え ず 、 こ の こ と が 、 オ ウ ム こ そ が わ れ わ れ に と っ て 危 険 で迫 害 的

な他者であるとする、われわれの側の想像を「 実 証 」 す る こ と に な る か ら で あ る 。陰 謀史

観 は 、 こ の よ う に 相 互 に 投 射 し あ う よ う な 関 係 の 中 で 抱 か れ て い る と き には、 自 己 成 就 的 な仕方で充足されてしまうのである。

サリン事件やそれに連なる他の事件をめぐるオウム真理教の疑惑を追求する報道の中で、

「 裏 の 〜 」、 「影 の 〜 」、 「シ ー ク レ ッ ト 〜 」 と い っ た 形 容 が 頻 用 さ れ た 。 教 団 に は 、 一般の

信 者 に す ら よ く 知 ら れ て い な い 、 ま し て 非 信 者 の 前 に は 決 し て 姿 を 現 す こと が な い 「 裏の

実 行 部 隊 」 や 「影 の 実 行 部 隊 」 が あ り 、 そ の 組 織 が テ ロ を 企 画 し 、 実 行 に 移 し た と い う わ

ワ ー ク 」 と 呼 ば れ 、 信 者 た ち にす ら 隠 さ れ て い た 、 と い う わ け だ 。 こ の 種 の 用 語 は 、

けだ。あるいは、 サリンの製 造 や テ ロ 活 動 な ど 「 戦 争 」 に か か わ る 仕 事 は 、 「シ ー ク レ ッ ト

出 家 信 者 た ち の 教 団 の 自 己 理 解 に お い て も 使 用 さ れ て い る の だ が 、 い ず れ に せ よ 、 マスコ

ミ の 報 道 の 中 で 、客観的な事実の伝達に必要な分を越えて過剰に、真 の 実 行犯 が 「 裏」や

「 影 」 か ら 「糸 を 引 い て い る 」 こ と が 強 調 さ れ て い た こ と に 注 意 し な く て は な ら な い 。 報

道 の こ の よ う な 態 度 を 実 証 す る 事 例 を あ げ る のは、 あ ま り に も 容 易 で あ る 。 少 な く と も ワ

イ ド シ ョ ー や 週 刊 誌 の 記 事 の ほ と ん ど が 、 こ の よ う な 態 度 を 示 し て い る か ら だ たとえば

(

第一隼妄想の相互投射

025



『 週刊朝日』 の 五 月 五

一ニ日合併 号 は 、古 く か ら の信 者 で ティローパなる 宗 教 名 を も つ 早 川 紀 与

いている 。 だ い た い に お い て 、 常 に 、 そ の 段 階 で 未 だ に 逮 捕 さ れ て い な い あ る い は逮捕

—ナ ン ダ こ と 井 上 嘉 浩 の グ ル ー プ を 、 テ ロ か ら 死 体 処 理 ま で を こ な し た 「 暗 黒 組 織 」 であると描

のし ば ら く 後 に 出 さ れ た 『 週 刊 現 代 』 の 五 月 三 一 日 号 は 、教 団 の 「 諜 報 省 」 の指 導者であったア

秀 を 、 教 祖 麻 原 す ら も頼 り に し て い る 「 裏 の 指 揮 官 」 と 名 付 け て 、 そ の 半 生 を 追 求 し て お り、 そ



(

者 の 中 で 最 も 指 導 的 な 地 位 に あ る と 目 さ れ た 信 者 が 、 麻 原 に 次 ぐ 教 団 の 「ナンバ

)

」 と 見 な さ れ 、 「影 の 部 隊 」 の リ ー ダ ー と 呼 ば れ る 傾 向 が あ る 。 こ れ ら の こ と は 、 事

直後の



)

と き に は 麻 原 の さ ら に 背 後 に 麻原彰晃すらもあやつる外国の謀略組織など

見出そうとす

)

る 態 度 を 代 表 し て い る も っ と も 実 際 に も 、 一 連 の 事 件 に 、 未 だ 知 ら れ て い な い 、 あるいは今

(

件を引き起こした他者を、見えている他者の背後に、 見えている信者と教祖麻原の隙間に、

2

後も広くは知られることのない、 いろいろなグループがかかわった可能性はある 。

(

陰 謀 史 観 が 反 陕 序 の 原 因 を 帰 属 さ せ る 攪 乱 的 な 他 者 は 、 必 然 的 に 、 あ ら ん 限 り 心理的

い る 、 「本 当 に 凶 悪 な ャ ッ 」 と し て 想 定 さ れ る し か な い か ら だ 。

われわれの前に現れ出てしまったり、 われわれに素性を知られていたりする他者の背後に

反 秩 序 の 原 因 を 一 元 的 に 特 定 の 攪 乱 的 な 他 者 に 担 わ せ よ う と す れ ば 、 そ の 他 者 は 、 すでに

て事件に臨んでいたことを、 よく示している。先に述べたように、事態の複雑性を還元し、

こ れ ら の 事 実 は 、 オ ウ ム 真 理 教 を 取 り 囲 む 多 数 派 で あ る わ れ わ れ 自 身 が 陰 謀 史 観 によっ

)

(

026

に 遠方の他者、他者たちの中でも最も遠くにいる他者として、 措 定 さ れ る 。 その他者は、

われわれにとって最も許容できない秩序を敢えて望む他者であり、 したがってわれわれに

対 し て 全 的 に 敵 対 的 で あ る よ う な 他 者 で あ る ほ か な い か ら だ 。 そ の よ う な 他 者 が 、常にそ

四月二三日 、 右

の度に、 ほ と ん ど 無 限 遡 行 的 に 「 裏 」 の 隠 れ た 場 所 に い る は ず の も の と し て 追 求 されてい く の は 、 こ の よ う に 、 他 者 が い つ ま で も 「遠 い 一 か ら で あ る 。

あらん限り近い他者 「出 家 信 者 の お よ そ 四 割 は ス パ イ で あ る 」。 サ リ ン 事 件 の 捜 索 が 続 く 中

)

翼を名乗る青年に刺殺された、 マ ン ジ ュ シ ュ リ ー ミトラこと村井秀夫は、 このように言

(

ってい た と いう 。 こ れ は 、 地 下 鉄 サ リ ン 事 件 の お よ そ 一 〇 カ 月 前 に 出 家 し 、 村 井 の直属の

よ り 、 私 が 直 接 の インタヴュ

ケ イ マ の 宗 教 名 を も つ 石 井 久 子 の次に麻

部 下 だ っ た 元 信 者 事件の約一カ月後に教団施設を脱出した — を 通 し て 聞 い た こ と で あ る 。 村 井 は 、 マハー

)

の指 導 者 で あ り 、 サ リ ン 事 件 の 総 指 揮 に あ た っ て い た と 一 般 に は 考 え ら れ て い る 。 村 井 は 、

15〕)



信 者 た ち の 中 で も 最 も 興 味 深 い 人 物 の 一 人 で あ る 。 元 信 者 は、 村 井 の 奇 妙 さ に つ い て 、 手

9 9ニ6

妄強の相互投射



原 が 信 頼 し て い た と 考 え ら れ る 信 者 で 、 教 団 の 大 幹 部 で あ る 。 彼 は 教 団 の 「科 学 技 術 省 」



(

記 で 次 のように書 い て い る 高 橋 口 (

第一草

027

)

「村 井 さ ん は 不 思 議 な 人 だ っ た 。 … … ほ か の 幹 部 た ち が 過 激 な 教 え に苦 悶 し て い る と

き も 、 村 井 さ ん だ け は い つ も 涼 し げ な 表 情 で 、 物 静 か な 態 度 を く ず さ な か った。」

このように述べたあと、 この信者は、真 に 「 グ ル 〔 麻原〕 への絶対 帰 依 」 を な し え た 唯 一の人物が村井だったのではないか、 と述べる。

「ア ー ナ ン ダ も 、 科 学 技 術 省 の 豊 田 亨 さ ん も 、 そ の 人 間 的 な 面 に 触 れ る こ と が で き た 。

だが村井さんについては、最後まで僕は彼の内心というものをうかがい知ることがで き な か っ た 。」

村井の言葉は、 この教団が、強迫的にスパイを恐れていたということを示している。元

チ ェ ッ ク 」 と 称 す る 検 査 が な さ れ て い た と い う 。 スパイは、 本

出 家 信 者 に よ る と 、 と り わ け 九 四 年 の 初 夏 頃 よ り 、 教 団 内 部 に 「ス パ イ が い る 」 と の 噂 が 広 ま り 、 頻 繁 に 「ス パ イ

完 全 に 証 明 し っ く す こ と は で き な い 。 こうして、 すべてのメンバーが、自分の仲間がスパ

な の だ か ら 。 そ う だ と す れ ば 、 誰 も が 自 分 が ス パ イ で は な い と い う こ と を 、仲間に対して

性 上 、 た だ ち に は 特 定 で き な い 。 スパイは、 まさに外部から確認しえないがゆえにスパイ



028

たとえば教団が推奨する「

」 なるヘッド

イかもしれないとの疑心暗鬼に絶えず苛まれることになるのだ。実 際 、 スパイに対して過 敏 に な っ た 教 団 は 、ご く 些 細 な こ と を

ス パ イ で あ る こ と を 示 す 指 標 と み な し 、 そ の 度 に仲

P S I

チェックにかけることになる。 スパイと見なされた者は、懲 罰 用 の 個 室 コ

ギアを付けなかったということを

-

外 部 に 想 定 さ れ た あ の 攪 乱 的 な 他 者 ユダヤ人

(

こ そ が 、 ス パ イ を 送 り 込 ん で く る に違い

多 く は 、 上 九 一 色 村 や 波 野 村 と いった田 舎 で 閉 鎖 的 な 共 同 体 を 形 成する教 団 に 、攪 乱 要因

他 者 の こ の 両 義 性 に 関 し て も 、 わ れ わ れ は オ ウ ム の 「鏡 像 」 に な っ て い る 。 わ れ わ れ の

同 時 に 最 も 近 い と い う 両 義 性 を ここに見 る こ と が できる。

い、 自 分 た ち の 内 部 に 深 々 と 浸 透 し て い る か も し れ な い と い う 感 覚 で あ る 。 最 も 遠 い 者 が

恐怖が示しているのは、 その遠くの他者が、同時に自分たちのすぐ近くにいるかもしれな

か ら は あ ら ん 限 り 遠 い と こ ろ に い る 他 者 で な く て は な ら な い 。 し か し 他 方 で、 ス パ イ へ の

方 述 べ た よ う に 、 外 部 の 攪 乱 的 な 他 者 は 、 その本 性 上 、 直 接 に は 姿 を見 せ な い 、 自分たち

こ の 外 部 の 他 者 に つ い て の 感 覚 に 奇 妙 な 両 義 性 が あ る 、 と い う こ と で あ る 。 一方で、 今 し

な い 。 ス パ イ に 対 す る こ の 強 迫 神 経 症 的 な 恐 怖 が 表 示 し て い る の は 、 陰 謀 史 観 が 想 定 する

(

もちろん、陰 謀 史 観 を 前 提 に し た 場 合 には、

に閉じ込められる、 というのが信者たちの間の噂である。

間をスパイ

-

だが、 スパイは誰が送り込んでくるのか?

ンテナ



と な る 「外 部 の 他 者 」 を 見 た 。 と 同 時 に 日 本 の 人 口 の 〇 。〇 一 パ ー セ ン ト の 規 模 にあ た る

第一章妄/の相互投射

029

)

)

教 団 を 人 々 が 恐 怖 し た のは、 外 部 に い る は ず の そ の 他者 が 、 わ れ わ れ 自 身 の す ぐ 脇 に 、隣

の 部 屋 や 隣 の 座 席 に い る か も し れ な い 、 と い う 感 覚 を も っ た か ら で は な い か 。今回の事件

と の 関 連 で 、 自 衛 隊 員 や 警 察 官 や マ ス コ ミ 関 係 者 に 多 数 の 信 者 が い る と い う こ と 本当は 正 確 に は わ か ら な い 、半 ば 憶 測 の 情 報

(

が、 ス キ ャ ン ダ ラ ス な 事実として何度も報道された。

)

が い る 、 と い う こ と を 「衝 撃 の 事 実 」 と し て 伝 え て い る 。 あ る い は 、

たとえば、 五月一八日、六 月 一 日 の 『 週 刊 文 春 』 は 、 現 職 の 自 衛 隊 化 学 部 隊 に 、 オウムの 関 係 者 オウム信者 )

た 「坂 本 弁 護 士 一 家 殺 人 事 件 」 に 先 立 っ て 、

の 社 員 が 坂本弁護士に無断で (

坂本

)

こ の 出 来 事 に人々が関心を持ったのは、 これが、

に オ ウ ム 信 者 オ ウ ム シンパ

(



)

に、 自 分 た ち 自 身 に 内 在 し て い る と い う こ と 。 この両義的な 感 覚 の 延 長 上 に は 何 が あ る の

たのと同じように恐れたのである。 自 分 た ち に と っ て の 非 常 に 基 本 的 な 規 範 に す ら 従 わ な い 最 も 遠 い 敵 対 的 な 他 者 が 、 同時

れ 自 身 の 中 核 に 、外 部 の 他 者 が 侵入していることを、 ちょうどオウム信者がスパイを恐れ

ミ等は、 わ れ わ れ の 社 会 の 奏 会 性 や 同 一 性 を 保 証 す る 要 石 で あ る わ れ わ れ レ わ れ わ

が い た と い う こ と を 示 し て い る 、 と 受 け 取 ら れ た か ら に 違 い な い 。 自 衛 隊 、 警 察 、 マスコ

T B S

ンタヴューの放映を中止し、 しかもこの事実をずっと隠していたらしいということだが、

弁 護 士 の 反 オ ウ ム の イ ン タ ヴ ュ ー の 録 画 を オ ウ ム 信 者 に 見 せ 、 信 者 の 意 向 にそってそのイ

T B S

地 下 鉄 サ リ ン 事 件 の 一 年 後 の 最 大 の マ ス コ ミ の 話 題 は 、 オ ウ ム の 一 連 の 事 件 の 発 端 と なっ

(

030

か?



そ こ に は 、 ま さ に 自 分 たち

自身こそが、 その他者である、 という 恐 ろ しい逆転

ワ ー ド の 内 に よ く 反 映 さ れ て い る 。 マ ス コ ミ の 解 釈 で 頻 用 さ れ た 「マ イ ン ド

コント

《他 者 》 へ の 恐 怖 が 、 わ れ わ れ に と っ て も 無 縁 で は な か っ た と い う こ と は 、 事 件 解 釈 のキ

あろう。

か な る 機 制 を 通 じ て 、 彼 ら に と っ て現 実 的 な も の と し て 信 憑 さ れ た の か 、 と い う こ と で

へ の 衝 動 を 駆 り 立 て て い た の だ と す れ ば 、 探 究 す べ き こ と は 、 こ の よ う な 《他 者 》 が 、 い

こ の 遠 く か つ 近 い 《他 者 》 へ の 恐 怖 が 、 オ ウ ム 真 理 教 信 者 た ち の 陰 謀 史 観 を 支 え 、 戦 争

を 「 教 団 」 として認定することが、ぎ り ぎ り の ところでかろうじて正 当 化 さ れ る の で あ る 。

り ぎ り の 数 字 、 こ れ を 越 え た ら 半 数 に な っ て し ま う 数 字 で あ る 。 こ の こ と に よ っ て、 集 団

こ と に な ろ う 。 「四 割 」 と い う 数 字 に 注 目 し な く て は な ら な い 。 そ れ は 、 半 数 を 下 回 る ぎ

団 は オ ウ ム 真 理 教 徒 の 集 団 な の か 、 スパイの集団なのか、 ほ と ん ど 判 別 が つ か な いという

ている。 もしこれほどに大量のスパイが本当に潜入しているのだとすれば、 もはやその集

先 に 述 べ た よ う に 、 村 井 秀 夫 は 、 出 家 信 者 の 四 割 を ス パ イ リ 《他 者 》 で あ る と 見 積 も っ

感 覚 さ れ る 他 者 を 、 《他 者 》 と 表 記 し て お こ う 。

が ま っ て い る だ ろ う 。 こ の 最 も 遠 く 敵 対 的 で あ る こ と に お い て 同 時 に 最 も 近 い も の として

)

,

わ れ に 内 在 し て い る 《他 者 》 を 馴 致 す る 効 果 を も っ た と 言 う こ と が で き る の で あ る

Q本 当

C31第r妄想の相互投射

(

ロ ー ル」 と い う 概 念 は 、 こ の 概 念 の 精 神 医 学 的 な 妥 当 性 は 別 と し て 、 社 会 学 的 に は 、 わ れ



は , 「マ イ ン ド

コ ン ト ロ ー ル さ れ て 信 者 に な っ て し ま っ た 」 と い う 言 明 は 、 ト ー ト ロジ

コ ン ト ロ ー ル と い う 概 念 が 用 い ら れ 、 「本 •

ま た オ ウ ム は ユ ダ ヤ 人 に 寄 生 さ れ て い る こ と を ——

恐れているのである。 オ

の 大 衆 的 な 感 覚 を 要 約 し て い る よ う に 思 わ れ る 。 こ の こ と を 端 的 に 示 し て い る の が 、 オウ

ウ ム と の 関 係 と い う 文 脈 を 離 れ て も 、 「寄 生 」 と い う 語 が 、 一 九 九 〇 年 代 中 盤 の 日 本 社 会

る こ と を ——

が こ の 自 己 に 「寄 生 し て い る 」、 と い う こ と に な ろ う 。 わ れ わ れ は オ ウ ム に 寄 生 さ れ て い

内 在 し て い る か も し れ な い と い う こ と 、 こ の よ う な 事 態 を 感 覚 的 に 表 現 す れ ば 、 《他 者 》

敵 対 的 な 《他 者 》 が 、 自 分 自 身 か も し れ な い と い う こ と 、 敵 対 的 な 《他 者 》 が 、 自 己 に

蔽される。

さ れ る こ と に な る の だ 。 こ う し て 、 《他 者 》 の 近 さ が 遠 さ へ と 変 換 さ れ 、 そ の 両 義 性 が 隠

当 に 凶 悪 な 外 部 の 他 者 が 背 後 に い て 彼 ら は そ れ に 操 ら れ て い る だ け だ 」 という解釈が適用

ことを発見してしまう。 このとき、 マインド

ら に つ い て 知 れ ば 知 る ほ ど 、 彼 ら が 大 方 わ れ わ れ と よ く 類 似 し 、 わ れ わ れ と 近 接 している

な い と き で あ る 。 実 際 、 わ れ わ れ の 多 く は 、 オ ウ ム 信 者 についての情報を大量に集め、彼

そ の 他 者 が わ れ わ れ に 十 分 に 近 く 、 そ れ ゆ え わ れ わ れ 自 身 が そ の 他 者 で あ り え た か も しれ

遠 く か ら 襲 っ て く る と き に は 、 さ し て 恐 ろ し く な い 。 本 当 の 恐 ろ し さ が 湧 き 起 こ る の は、

れ に 独 特 な 社 会 心 理 学 的 な 効 用 が あ っ た か ら で あ る 。 秩 序 を 根 本 か ら 覆 す 攪 乱 的 な 他 者 が、

カ ル で 、何 も 説 明 し て い な い 。 にもかかわらず、 このような言明が繰り返されたのは、こ

*

。32

ム 真 理 教 事 件 で 日 本 中 が 大 騒 ぎ を し て い る 同 じ 九 五 年 に 、 「バ イ オ ホ ラ ー 」 と 呼 ば れ る

イヴ』 である。 これは、 寄生生物としてのミトコンドリアの反乱

く読まれた。 これは、表 題が示すように、

についての物語であり、少女の怨念によ

を 描 い た も の で あ る 。 売 れ 行 き で は こ れ に は 及 ば な か っ た が 、 鈴 木 光 司 の 『ら せ ん 』 も 広

が 著 し た 『パ ラ サ イ ト

の ジ ャ ン ル が 大 流 行 し た と い う 事 実 で あ る 。 こ の ジ ャ ン ル の べ ス ト セ ラ ー は、 瀬 名 秀 明

S

と外 見 上 は ま っ た く 区 別 が つ か な い 。 し か し 、 寄 生 獣 は 人 間 を 食 っ て 生 き る の で あ る 。

(

少 な く と も 現 代 の 日 本 社 会 は ——

、 何 ら か の理

い る と 考 え ら れ な い か 。 突 発 的 な 大 地 震 が 、 内 部 と も 外 部 と も つ か な い 《他 者 》 に 取 り つ

兵庫県南部の大地震が「 戦 争 」 の 隠 喩 に よ っ て 捉 え ら れ た のも、 同 じ と こ ろ に起因して

真 理 教 と の 対 峙 を 通 じ て 、 こ の 感 覚 を 行 動 の 上 に 表 現 す る に ま で至 っ た の で は な いか。

のだ。 オ ウ ム 真 理 教 は 、 こ の 感 覚 を 最 も 過 激 に 行 動 化 し て お り 、 わ れ わ れ も ま た 、 オウム

者 》 に 自 ら が 寄 生 さ れ て い る と い う 想 像 力 に 現 実 性 を 与 え る よ う な 感 覚 を 、醸成してきた

由 に よ っ て 、 「人 間 を 食 う 」 と い う こ と に よ っ て 表 象 さ れ る よ う な 極 限 的 に 敵 対 的 な 《他

と が で き る だ ろ う 。 わ れ わ れ の 社 会 は ——



『 寄 生 獣 』 が あ る 。 寄 生 獣 に 侵 さ れ た 人 間 は 、 完 全 な ス パ イ と 同 様 、 他 の 人 間 つまり仲

って操られたウイルスが寄生するという設定になっている。 マンガとしては、岩明均の

D N A

これら の 事 実 を 考 慮 に 入 れ る こ とから、 とりあ え ず 、次 の よ う な 仮 説 を 提 起 し て お く こ

)

か れ て い る 、 と い う ほ と ん ど 識 閩 下 の 感 覚 を 、 顕 在 化 さ せ た の で は な いか。 そ う だ と す れ

弱一韋妄想の相互投射

Q33



F

ば 、 二 つ の 「戦 争 」 の 同 時 性 に は 、 深 い 必 然 的 な 連 関 が あ る

お そ ら く 、 そ の 《他 者 》 が 、

についての探究は、 日 本 の 人 口 の 〇 〇一パーセントの例外的な人々について考えること

わ れ の 態 度 の 内 に 最 も 明 確 に 示 さ れ る と い う こ と 、 で あ る 。 そ う で あ る と す れ ば 、 オウム

せ鏡の関係になっているということ、 しかもそのことは、 オウムを攻撃し、否定するわれ

を探究してみよう。 ここまでの議論が示していることは、 オウムとわれわれは完全に合わ

信者を前代未聞のテロリズムに駆り立てるまでの帰依を引き出すことができたのはなぜか、

こ れ か ら 、 オ ウ ム 真 理 教 が 、 若 者 を 中 心 と し た 多 く の 信 者 を 集 め る の に 成 功 し 、 一部の

新新宗教としてのオウム真理教

体 性 に よ っ て 充 実 化 さ れ な く て は 、 そ の 《他 者 》 は 現 実 化 し な い だ ろ う が 。

という ことはさしあたって二次的なことである。 もちろん、 そうは言っても、何らかの具

オ ウ ム であ る と か 、 ア メ リ カ で あ る と か 、 ユ ダ ヤ 人 で あ る と か 、 謎 の ウ イ ル ス で あ る と か 、

Q

と い う よ り 江 戸 時 代 の 終 わ り こ ろ ——

ことは、 オウムを日本の宗教史の文脈に位置づけた場合にも、当てはまる。 宗 教 学 者 は 、 十 九 世 紀 の 初 め こ ろ ——

から後に誕

ま さ に そ の 例 外 性 に お い て 典 型 的 で あ る と 言 う べ き で あ る 。例外性と典型性の一致という

ではなく、現代社会の総体としての構造と意識について考えることでもある。 オウムは、



034

生した宗教を「 新 宗 教 」 と 呼 ぶ 。 新 宗 教 は 、 何 回 か の 発 生 の ブ ー ム が あ っ た 。 そ の ような

新宗 教 の 中 に あ っ て 、 一九七〇年以降の宗教ブームに生まれたり、拡大したとりわけ新し

い新宗教は、教 義 内 容 や 組 織 の あ り 方 、信者の人格類型 等 の 多 く の 点 に お い て 、 それ以前

の 新 宗 教 と か な り 異 な っ て い る こ と が 知 ら れ て お り 、 そ の た め 「新 新 宗 教 」 と 呼 ば れ 、 以

前 の 「旧 新 宗 教 」 か ら 区 別 さ れ て い る 。 一 九 八 〇 年 代 の 中 盤 に 生 ま れ 、 後 半 に 発 展 し た オ

教団等

に対しては、 ま ず 入 信 動 機 が 一 律 で 、 わ

ウム真理教は、新新宗教の中でも特に新しいものに属する。 旧新宗教と新新宗教との相違 は、 ど の 点 に あ る の か ? 旧 新 宗 教 創価学会、立正佼成会、

)

織 と し て は 、 信 者 間 の 助 け 合 い を 重 視 し 、 共 同 体 の 和 調和

を追求する。 )

そ れ に 対 し て 、 新 新 宗 教 阿含宗、世界基督教統一神霊教会、 幸福の科学等

)

(

の特徴として、

場 合 が多い。 したがって、教義内容は、 現世利益を約束する現世志向的なものである。組

気 や 家 族 不 和 な ど の 極 端 な 生 活 苦 に あ え い で い る人 が 、 そ こ か ら の 救 い を 求 め て 入 信 す る

か り や す い 。 す な わ ち 、 一 般 に 「貧 病 争 」 と 要 約 さ れ て い る よ う な 不 幸 、 つ ま り 貧 困 や 病

P L

参照二 今 、 そ の 宗 教 社 会 学 者 は 次 の よ う な 諸 特 徴 を 指 摘 し て き た たとえば島 〔 一 992 〕 間 の 論 理 的 な 繫 が り は 無 視 し て 、 ラ ン ダ ム に 列 挙 し て み よ う 。 第 一 に、 入 信 動 機 が 貧 病 争

(

»

の よ う な わ か り や す い 生 活 苦 か ら 特 定 し が た い 「生 の空 し さ 」 に 変 化 し た こ と 。 第 二 に、

(

現 世 外 の 霊 的 な 世 界 を 重 要 視 し 、 現 世 離 脱 の志 向 が 強 い こ と 。 第 三 に 、 心 理 統 御 技 法 や 神

第一章妄細の相互投射

。35

(

秘 現 象 を も た ら す 心 身 変 容 の技 法 に強 い 関 心 を 示 す こ と 。 第 四 に、 組 織 内 の 共 同 体 的 な 繫

が り よ り も 個 人 に 価 値 を 置 き 、 救 済 に つ い て の 自 己 責 任 の 論 理 を 徹 底 さ せ て いること。第

五 に 、 破 局 的 な 終 末 の 意 識 や そ れ と 相 関 し た メ シ ア ニ ズ ム を 有 す る こ と 。 第 六 に 、 信者の 多くが若者であること。

こ れ ら の 諸 特 徴 は 、 い ず れ も オ ウ ム 真 理 教 の 特 徴 で も あ る 。 オウム真理教は、新新宗教

の 典 型 な の で あ る 。 こ こ で 「典 型 で あ る 」 と い う の は 、 数 あ る 新 新 宗 教 の 平 均 値 的 な 一 般

像 を 呈 し て い る 、 と い う こ と で は な い 。 そ う で は な く 、今述べたような、新新宗教の特徴

と 見 な さ れ て い る 諸 性 質 の ほ と ん ど す べ て を 、 徹 底 さ せ 純 化 さ せ た 形 式 に お い て 所 有 して

したがってその極端性のゆえにむしろ少数派であることにお

、 オ ウ ム は 典 型 な の で あ る 。 た と え ば 、 オ ウ ム ほ ど 現 世 利 益 よ り も 現 世離脱に志

い る と い う 意 味 に お い て —— い て ——

向 し て い る 宗 教 は 少 な く 、 また後にも述べるようにある種の終末観をオウムほどに究めた

宗 教 は な い 。 また、 二〇歳代から三〇歳代前半までの若い人々が熱心な信者の圧倒的な多

数 で あ っ た 点 で も 、 オ ウ ム は ず ば ぬ け て い る 。 要 す る に 、 オ ウ ム 真 理 教 は 、新新宗教の

あえ

、 それが時代的な必然

「理 念 型 」 的 な 代 表 な の で あ る 。 そ う で あ る と す れ ば 、 オ ウ ム 真 理 教 の 例 外 性 は —— て テ ロ ま で 引 き 起 こ し て し ま う よ う な 過 激 さ を 備 え た 例 外 性 は ——

の外部にあったことに由来するのではなく、 むしろ逆に、 その必然をあまりに純粋に体現 し過ぎたせいであるかもしれないのだ。

036

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第二章理想の時代

虚構の時代

/

理想の時代と虚構の時代

(

)

最 終 戦 争 、 つ ま り 二 度 目 の 最 終 戦 争 だ っ た こ と に な る 。 こ こ で 、 最 初 の 最 終 戦 争 第二次

し て 行 わ れ た 、 と い う 仮 説 に 立 っ て み よ う 。 そ う で あ る と す れ ば 、 これは、 最終戦争後の

オ ウ ム 真 理 教 に よ る テ ロ が 、 教 祖 麻 原 彰 晃 が 予 言 し て い た 世 界 最 終 戦 争 の前哨戦 と

一一つの可能世界

1

世界大戦 か ら の 五 〇 年 の 流 れ の 中 で 、 オ ウ ム 真 理 教 が ど の よ う な 位 置 を も つ の か を 概 観

(

ることができる、と 論 じ て い る 見 田

と に 示 さ れ る 。 す な わ ち 「現 実 と (

現実が秩序を有することができるのは、 1995〕) 。 〔

理 想 」、 「 現 実 と )

(

夢 」、 「 現 実 と )

(

虚 構 」。 見 田 に よ れ

つ で は な い 。 こ の こ と は 、 「現 実 」 と い う 語 が 三 つ の 代 表 的 な 反 対 語 を 有 す る 、 と い う こ

そ れ が 参 照 す る こ と が で き る 反 現 実 の 様 相 が あ る か ら で あ る 。 し か し 、 反現実の様相は一

(

現実」 に準拠することによって組織されているかに応じて、戦後史を三つの段階に区分す

見 田 宗 介 は 、 戦 後 四 五 年 の 段 階 で 書 い た 論 文 の 中 で 、 「現 実 」 が ど の よ う な 形 態 の 「反

してみよう。

)

)

040

ば 、 日 本 社 会 の 戦 後 史 に お い て 、 現 実 が 照 準 し て い る 反 現 実 の 様 相 は 、 「理 想



虚構」

1

に 引 き 裂 か れ る よ う な 二 重 性 を も っ て い る 。 「夢 」 は 、 あ る 種 の 「理 想 」 と い う 意 味 に も

の 順 に 転 換 し て き た 。 私 の 考 え で は こ の 内 、 「夢 」 と い う 語 は 、 「理 想 」 と 「 虚 構 」 の両方

1

使われれば 「 将 来 の 夢 」、 「 虚構」という意味にも使われる 「 夢のようにはかない」。 「 夢」 (

)

るはずだ。 理想と虚構の相違はどこにあるのか?

に 着 地 す る こ と が 予 期 期待

虚 構 」 の 二 段 階 に 圧 縮 す る こ と が でき →

さ れ て い る よ う な 可 能 世 界 で あ る 。 だ か ら 、 理 想 は、 現実

む し ろ 広 義 の 現 実 世 界 の 一 局 面 で あ る 。 そ れ に 対 し て 、 虚 構 は 、 現 実 へ の 着 地 と い う こと

についてさしあたって無関連でありうる可能世界であり、 それゆえ純粋な反現実である

戦 後 の 日 本 社 会 は、 人 々 が 理 想 と の 関 係 に お い て 現 実 を 秩 序 だ て て い た 段 階 か ら 、 虚 構

五 〇 年 を 折 半 す る 中 間 点 は、 丁 九 七 〇 年

との関係において現実を秩序だてる段階へと転換してきた、 とおおむね整理す る こ と が で

Q

の因果的な延長上になくてはならない。 その意味では、 理想は、純 粋 な 可 能世 界 で は な く 、

)

可 能 世 界 と し て 現 実 世 界 と の 間 に 有 す る 関 係 が 異 な っ て い る 。 理 想 は 、 未 来 に お い て現実

て、 す な わ ち い わ ゆ る 可 能 世 界 で あ る と い う 点 に お い て 共 通 し て い る 。 し か し 、 そ れ ら が

理 想 も 虚 構 も 現 実 世 界 で は な いという点におい

に の み 注 目 す る な ら ば 、 三 段 階 は さ ら に 、 「理 想

が中間段階にあるのは、 このように意味的にも中間だからだ。 それゆえ、中核的な意味素

)

(

きる。時 代 の 転 換 点 を ど こ に 見 定 め る べ き か ?

第二章理動の時代/虚構の時代

042

(

一九七二年

が あ る。 サ リ ン 事 件 以 降 、 非 常 に

で あ る 。 七 〇 年 前 後 の時 期 、 に 、 理 想 の段 階 か ら 虚 構 の 段 階 への 転 換 が 生 じ た と 考 え ら れ る ほぼこの転換点の位置に、連 合 赤 軍 事 件 )

およびそれに同時代性を感覚した

を 代 表 し て い る と す る な ら ば 、 オウム真

と し て 述 べ て お け ば 、 次 の よ う に な る 。 連 合 赤 軍 ——

オ ウ ム 真 理 教 が 戦 後 史 の 中 で 占 め る 位 置 に 関 し て 、 こ こ で 示 し た い 提 題 を 、第一次近似

有された感覚には、根拠がある。

多 く の 人 が 、 オ ウ ム 真 理 教 と 連 合 赤 軍 と の 間 の あ る 種 の 「類 似 」 を 感 覚 し た 。 こ の 広 く 共

(

が 、 理 想 の 時 代 の 終 焉 あるいは極限

人 々 —— (

)

そしてそれらの原因

つまりそれぞれが歴史的

と見なす

、 両 者 の 間 に は 、 述べたよう

な 照 応 関 係 が あ る 。 オ ウ ム 真 理 教 を た と え ば 「オ タ ク の 連 合 赤 軍 」 大 塚 英 志 理解は、 このような照応関係に対する直観を含んでいるだろう。

)

Q

は暫定的なもので、後のもう少し厳密な考察の中で棄却されることになるからである。

と こ ろ で 私 は 、 こ こ で 提 案 し た 命 題 を 「第 一 次 近 似 」 で あ る と 述 べ て お い た 。 こ の 命 題

(

な コ ン テ キ ス ト の 中 で 占 め る 位 置 の み に 注 目 す る な ら ば ——

を 構 成 す る 二 つ の 段 階 の 極 値 を 象 徴 し て い る と い う 意 味 で は ——

^ ―は 、 そ れ 自 身 と し て 取 り 出 せ ば 、 ま っ た く 異 な っ て い る 。 し か し 、 そ れ ぞ れ が 戦 後 史

オ ウ ム 真 理 教 団 が 行 っ て き た こ と と 連 合 赤 軍 に 帰 せ ら れ た 悲 劇 ——

を 代 表 す る よ う な 位 置 を 担 っ た の だ 、 と。 も ち ろ ん 、

理 教 は 、 虚 構 の 時 代 の 終 焉 極限 )

(

042

理想の時代の現実主義 理 想 の 時 代 の 序 盤 特に一九六〇年あたりまでの段階

を ——

とりわけ知識人の水 準 で

社 会的にリードした理想は、 二つの対立しあう覇権国によって表象された。 もちろん、

)

「ア メ リ カ 自 由 と 民 主 主 義 」 と 「ソ 連 コ ミ ュ ニ ズ ム 」 が 、 理 想 を 表 象 す る 覇 権 国 で あ

——

(

(

)

進 歩 派 知 識 人 の 代 表 的 論 客 の 一 人 丸 山 眞 男 は 、 「『現 実 』 主 義 の 陥 穽 」

一九五二年

)

とを よ く 示 し て い る

の中

が、 そ れ 自 身 、 現 実 へ の 志 向 で あ る こ と を 、 言 い 換 え れ ば 、 理 想 は 現 実 の 一局面であるこ

真 に 現実を見る者だ、 とする。 見田宗 介 が 述 べ るように、丸 山 の こ の論は、 理想への志向

現 実 の 第 二 の 側 面 に 着 眼 す る 者 を、 つまり現 実 に 変 革 志 向 的 に か か わ る 自 ら の理 想 主 義 を 、

準 し た 場 合 に は 、 保 守 的 な 通 常 の 「現 実 」 主 義 者 に な る 。 だ が 、 こ れ に 対 し て 、 丸 山 は 、

現 実 を 形 成 し 、能 動 的 に 決 定 し て い る と い う 側 面 も あ る の だ 。 現 実 の 第 一 の 側 面 に の み 照

よって制約され、受動的に決定されているという側面もあるが、同時に、 わ れ わ れ の方が

で 、 次 の よ う に 論 じ て い る 。 「現 実 」 に は 二 つ の 側 面 が あ る の だ 、 と 。 わ れ わ れ が 現 実 に

(

る。 こ れ ら の 理 想 を 標 榜 す る 知 識 人 は 「 進歩派」 と呼ばれ、保守派の権 力 と 対 抗した。

)

理 想 の 時 代 の 、 大 衆 的 な 水 準 で の 黄 金 期 は 、 一九六 〇 年 代 で あ る 。 も ち ろ ん 、 こ れ は 、

©

高 度 成 長 期 に あ た る 。 この時期、 たとえば、 国 民 の 圧 倒 的 な 大 多 数 に よ っ て 広 範 に 欲 求 さ

第二章理速の時代/虚構の時代

043

(

れ た 家 電 製 品 が 、 大 衆 的 な 「理 想 」 に 物 質 的 な 表 現 を 与 え た 。 念 の た め に 述 べ て お け ば 、

世界的規模で

信憑されたがゆえに、経済が成長することがで

経 済 成 長 や 科 学 技 術 の 進 歩 が あ っ た か ら 理 想 が 抱 か れ た の で は な く 、逆 に 、 理想が可能 的 な 「現 実 」 と し て 広 く )

に よ っ て 表 現 さ れ る の に 対 し て 、 「現 在 六 〇 年 代 前 半 」 は 「ピ ン ク 」 に よ っ て 表 現 さ れ

何 色 が 適 当 か 、 と い う 質 問 で あ る 。 そ れ に よ る と 、 戦 争 中 は 「黒 」、 終 戦 直 後 は 「灰 色 」

る。 そ れ は 、 明 治 維 新 以 降 の 百 年 の 日 本 の 近 代 化 の 各 時 期 を 、 色 彩 に た と え る と す る と 、

見田宗介は、 一九六三年に行われた全国的な社会心理調査の次の質問項目に注目してい

き、 ま た 科 学 や 技 術 が 進 歩 し て い る と 感 受 さ れ た の で あ る 。

(



)

に も 見 田 は 注 目 し て い る 。 大 正 期 に 確 立 し た 日 本 独 特 の 艶 色 調 歌謡曲調

)

に取って代わ

声 を で き る だ け 屈 折 さ せ な が ら し ぼ り だ す よ う に 発 声 す る と こ ろ に 特 徴 が あ る 。 それに対

本 は 浪花節であり、 それは、肺から息が出てくる途上で、 のどでも鼻でも抵抗をつくり、

純 粋 に 西 欧 的 な 曲 調 が 、急 速 に 支 配 的 な 地 位 を 占 め る に 至 っ た の で あ る 。艶色の発声の基

って、 つ ま り ヨ ナ 抜 き 短 音 階 を 基 調 と す る 半 近 代 的 で 半 伝 統 的 な 曲 調 に 取 っ て 代 わ っ て 、

(

こ の 同 じ 六 〇 年 代 前 半 が 、 日 本 近 代 の 流 行 歌 史 上 、 最 大 の 変 換 点 で あ っ た 、 という事実

能の円滑さによって支持されている「 泰平ムード」 に対応した色彩であろう。

の 現 実 的 な 可 能 性 に つ い て 広 く 信 憑 さ れ て い た 時 代 で あ る 。 「ピ ン ク 」 は 、 こ の 理 想 の 機

て い る 。 一 九 六 〇 年 代 、 と り わ け そ の 前 半 は 、 「理 想 」 が 最 も 円 滑 に 社 会 的 に 機 能 し 、 そ

(

044

し て 、 六 一 年 の 「ス ー ダ ラ 節 」 植 木 等

や 「上 を 向 い て 歩 こ う 」 坂 本 九

)

(

以降の歌謡曲

)

なくとも戦後の

極端な生活苦が、 旧新宗教へと入信する理由を構成しているのである。 このことは、 少

数 の 明 確 な 主 題 に 分 類 で き る 。 す な わ ち 、 「貧 病 争 」 と い う 標 語 に よ っ て 要 約 さ れ て い る

と 一 致 し て い る こ と が わ か る 。 旧 新 宗 教 への入信動機は、 先 に も 述 べ たように、比較的少

ところで、 理想の時代から虚構の時代への転換点は、 旧新宗教から新新宗教への転換点

られたことからくる、困難の非在に対する、音楽的な対応物であろう。

の感覚をよく代表している、 と見田は指摘する。 それは、 理想への到達可能性が広く信じ

の 発 声 法 は 、抵 抗 を ま っ た く は さ ま ず に 声 を つ き ぬ け さ せ る 。 この抵抗感の非在は、時代

(

旧新宗教が理想の時代に対応する宗教であった、ということを示してい

(

接 近 が 著 し く 困 難 に な り う る よ う な ——

(

理 想 か ら の 永 続 的 な 疎 外 を 余 儀 な く す る よう

す で に 理 想 へ の 疎 外 によって条件

、 到 達 の 蓋 然 性 が 十 分 に 高 い 現 実 性 と し て 理 想 を 恢 復 す る こと

宿 命 的 な 環 境 条 件 を 代 表 し て い る 。 不 幸 は 、 ——

づ け ら れ て い る 以 上 は ——

な ——



において二重に疎 外 さ れ る ことであ る 真 木 悠 介 〔 によると、 人 が 何 も の か か ら 疎 外 さ 1978〕 れるのは、 ま ず そ の 「 何 も の か 」 へ と 疎 外 さ れ て い る か ら で あ る 二 「貧 病 争 」 は 、 理 想 への 到

時 代 に お い て 、 最 大 の 不 幸 と は 、 理 想 か ら 永 続 的 に 疎 外 さ れ る こと、 つまり理 想 と の 関 係

る ロ 理 想 の 時 代 と は 、 社 会 が 全 体 と し て 理 想 へ と 疎 外 さ れ て い る 時 代 で あ る 。 このような

)

によってしか、解 消 さ れ な い 。 旧 新 宗 教 が 果 し て いたのは、 まさに、 このようにして不幸

第二掌理想の時代/處構の時代

045



を 解 消 す る こ と に よ って、 理 想 か ら 疎 外 さ れ た 人 々 を 理 想 の 圏 域 へ と 引 き 戻 す こ と で あ る 。

だ か ら 、 旧 新 宗 教 が 約 束 す る 救 済 は 、 ど う し て も 、 い わ ゆ る 「現 世 利 益 」 で な く て は な ら

な い 。 この時 代 の 新 興 宗 教 は 、 理 想 の 時 代 の ス ウ ィ ー パ ー と し て 働 い て い た わ け だ 。

以 降 の 虚 構 の 時 代 と は 、情報化され記号化され

を 構 成 し 、 差 異 化 し 、 豊 穰 化 し 、 さ ら に 維 持 す る こ と へ と 、 人々の行

と り わ け そ の 後 半 ——

虚構の時代の反現実主義 一 九 七 〇 年 代 —— た 擬 似 現 実 虚構 )

に 、 た と え ば 「東 京

ディズニーランド」 )

一九八三年開園

)

に よ っ て 象 徴 さ れ よ う 。 デイ

外 部 の 現 実 を 徹 底 し て 排 除 し て お り 、 このことによ

たとえば入場者が自然に使用してしまう視線の

(

空間として自律している。ディズニーランドの興行的な成功は、日 )

本社会が虚構の時代のただ中にあったことを示している。

っ て 虚 構 の 幻想の

配 備 を 巧 妙 に 計 算 に 入 れ る こ と で ——

ズ ニ ー ラ ン ド は 、 慎 重 な 配 慮 に よ っ て ——

(

虚 構 の 時 代 の 黄 金 期 は 、 一九八〇年代である。虚 構 の 時 代 は 、 見田宗介が指摘するよう

のが、虚構の時代の下にある社会であった。

等 々 と 名 付 け ら れ 、 いくぶんニュアンスを違えながらさまざまな角度から分析されてきた

為 が 方 向 づ け ら れ て い る よ う な 段 階 で あ る 。 「情 報 社 会 」、 「脱 産 業 社 会 」、 「消 費 社 会 」

(

(

^



ま た 明 治 以 降 の 東 京 の 「盛 り 場 」 の 変 遷 を 辿 っ た 吉 見 俊 哉 の 研 究 に よ れ ば —— 1987〕 、 戦 後 の 盛 り 場 の 中 心 は 、 新宿か

見 田 も こ の 研 究 を 引 用 し つ つ 再 確 認 し て い る よ う に ——

ら 渋 谷 へ と 移 行 し た 。 渋 谷 が 東 京 の イ メ ー ジ を 代 表 す る よ う な 盛 り 場 に な る の は 、 一九 七

〇 年 代 後 半 以 降 の こ と で あ る 。 渋 谷 が 成 功 し た の は 、 と り わ け 西 武 系 資 本 の 投 入によって、

つまり先進的な

空間へと仕立てあげられたからである。要するに、渋谷は虚構の

街 の 全 体 が 、 消 費 社 会 に 適 合 し た 、 「ハ イ パ ー リ ア ル 」 で オ シ ャ レ な —— 記 号 的 差 異 に 満 ち た —— 時代に適合した盛り場だったのだ。

見田宗介は、東京ディズニーランドが開園した同じ年に発表された、森田芳光監督の映

画作品『 家 族 ゲ ー ム 』 に 言 及 し て い る 。 わ れ わ れ と し て も 、 後 の 考 察 と の 関 係 で、 この作

タイトルが示唆しているように

ゲームリ虚

品に注目しておくのが都合がよい。 この作品は、社 会 的 な 現 実 性 の中 で も 、最も生活的で 実体的なものである家族でさえもが、

古 典 的 な リ ア リ ス ト は 、 こ の よ う な 食 事 風 景 を 「不 自 然 」 で 「非 現 実 的 」 な も の と し て 批

に向いてしまうので、互いの存在を確認しあうような形で相互に交叉しあうことがない。

な く 、 同 じ 方 向 を 向 い て 、 完 全 に 一 列 に 横 並 び に な る のであ る 。 全 員 の 視 線 は、 同 一 方向

たのは、家族の食卓における食事風景である。家 族 は 食 卓 を 囲 む よ う に 対 面し あ う の では

構 と 化 し つ つ あ る 風 景 を 、 映 像 化 し て み せ た 。 こ の 作 品 の 極 度 な 斬 新 性 と し て 話 題 になっ

-

判 す る か も し れ な い が 、 テ レ ビ を 見 な が ら 食 事 す る こ と が 多 い 現 代 日 本 の 家 族 にあ っ て は 、

第二章理您の時代/虚:稱の時代

047

-

実 際 に も 、 食 事 時 の 家 族 の 視 線 は 、 同 一 方 向 を 向 い て ほ ぼ 並 行 し て い る に違 い な い 。 ま た 、

見 田 が 述 べ て い る よ う に 、劇 作 家 の 山 崎 哲 も 、 舞 台 を通 じ て 、 同じような家族の虚構化を

描 い て い る 。 た と え ば 、 次 の よ う な 場 面 が あ る 。 新 聞 を 読 む 夫 と 縫 い 物 を す る 妻の間でご

く 普 通 の古 典 的 な 会 話 が 行 わ れ た あ と 、 妻 が 「わ た し た ち 、 今 日 も 、 夫 婦 の 会 話 を し た わ

であり、

ね 」 と 確 認 し た り す る の だ 。 「あ る べ き 家 族 」 が 演 じ ら れ て い る わ け だ 。 そ の 限 り で 、 家

)

族 は 自 然 な 自 明 性 を 失 い 、自 覚 的 な 努 力 の 中 で 維 持 さ れ て い る と も 言 え る 。 (

である。新 人 類 は 、特 定 の 理 念 や 思 想 にとらわれること

「 虚構」 の時代の若者風俗の上での対応物が、 ま ず は 「 新 人 類 」 八〇年 代 前 半 つ い で 「オ タ ク 」 八 〇 年 代 後 半 )

提にした態度であろう。 オタクは、 こ の 新 人 類 か ら 分 化 発展してきた若者の類型である。

示 す る 若 者 で あ る 。 こ れ は 、 「理 想 」 の 時 代 を 支 配 し て い た 重 い 「理 想 」 か ら の 解 放 を 前

な く 、 フ ァ ッ シ ョ ン や 趣 味 な ど の 消 費 の 水 準 に お け る 「記 号 的 な 戯 れ 」 に よ っ て 自 己 を 提

(

アニメーシ

に、 不 合 理 な ま で に 過 剰 に 熱

か つ て だ っ た ら 趣 味 と し て 片 づ け ら れ る よ う な 一 見 瑣 末 な さ ま ざ ま な 領 域 ——

だとすれば、逆にオタクは、新たな拘泥の身振りによって特徴づけられる。 オタクとは、

新 人 類 が 、過去の時代を支配していた執着からの解放の身振りによって特徴づけられるの



ヨ ン 、 テ レ ビ ゲ ー ム 、 コ ン ピ ュ ー タ 、 ア イ ド ル 歌 手 等 々 ——

)

それ自身として有すると考えられている価値といったような「 意

狂 的 に 耽 溺 す る 人 々 で あ る 。 「不 合 理 な ま で に 過 剰 」 と い う の は 、 そ の 領 域 の 社 会 的 な 必 要 と か 芸術のような (

048

味 」 の 大 き さ と 、 そ の 領 域 に 関 し て オ タ ク が 集 積 す る 「情 報 」 の 濃 度 と の 間 に 、 バ ラ ン ス

が 失 わ れ て い る よ う に 見 え る と い う こ と 、 「意 味 」 の 大 き さ を 「情 報 」 の濃 度 が 圧 倒 し て

虚 構 の 集 合 で あ る 。 そ れ ゆ え 、 オタク

い る よ う に 見 え る と い う こ と 、 である。 オ タ ク が 耽 溺 す る 領 域 は 、 たとえばアニメーショ ンの場合が典型であるように、多くの場合、物 語

は 、 「貧 病 争 」 理 想 か ら の 疎 外

ではない。 信 者 た ち の 入 信 動 機 を 全 体 と し て 通 覧す る と 、

新新宗教が要請されたのは、 このような時代においてである。 もはや、 入信動機の主流

にな っ ているように見えるのである。

に と っ て は 、 ま る で 、 通 常 の 現 実 よ り も 、 彼 ら が 愛 す る 虚 構 の 世 界 の 方 が よ り 重 要 な もの

H

ち ろ ん 、 あ る 種 の 虚 構 霊的世界

)

へと向 け ら れ 、 そ の こ と に よ っ て 、 現 実 と 虚 構 と の 価

救 済 の 様 態 も 、 現 世 利 益 か ら 現 世 離 脱 へ と 転 換 す る 。 現 世 リ現 実 を 離 脱 し た 志 向 性 は 、 も

ど こ に 焦 点 が あ る の か 定 め が た い 、 多 様 で 散 乱 し た 理 由 の 集 合 を 得 る こ と に な る 。 主たる

)

オウムの虚構世界

に 述 べ た よ う に 、 こ の よ う な 新 新 宗 教 の 「典 型 」 であ る 。

値 配 分 が 逆 転 し 、虚 構 の 方 に 圧 倒 的 な 重 要 性 が 置 か れ る こ と に な る 。 オウ ム真 理 教 は 、 先

(

オ ウ ム 教 団が前 提 にしていた世界が虚構的 であるという こ と ほ 、 事 件 を きっかけとして

第二車理源の崎代/虚綱の時代

049

(

こ の 教 団 の 実 態 の一部

の 世 界 を 演 じ 、 そ し て 、 それ

オウムの信

が 一 般 に 紹 介 さ れ る や 、 た だ ち に 多 く の 論 者 に よ って指 摘 さ れ

者 た ち は 、彼 ら が 幼 い 頃 よ り 慣 れ 親 し ん で き た マ ン ガ や

た。 そ れ は 、 一 種 の 仮 想 現 実 で あ り 、 劇 画 調 で あ り 、 情 報 的 で あ る 、 と

)

想現実を前提にして生きているとしか思えなかったのである

リ ー ナ ー は 、松 本 零 士 原 作 で 、 と り わ け 一 九 七 七 年 の 劇 場 公 開 以 降 般 に も 広 く 知られて

を 、 ま さ に そ の よ う に 呼 ぶ に 相 応 し い 集 団 で あ る の を 直 観 し た 、 と 述 べ て い る 。 コスモク

る 大 型 の 空 気 清 浄 器 を 、 彼 ら が 「コ ス モ ク リ ー ナ ー 」 と 呼 ん で い る の を 知 っ た と き 、 教 団

オ ウ ム 教 団 を 「オ タ ク の 連 合 赤 軍 」 と 呼 ん だ 大 塚 英 志 は 、 教 団 の 建 築 物 に 設 置 さ れ て い

Q

るとする神秘的な能力は、科 学 の 常 識 か ら す る と と う て い 不 可 能 な こ と な の で 、虚構の仮

以 上 に 実 際 に 生 き て い る よ う に 、 見 え る の で あ る 。 あ る い は 、 彼 ら が 修 行 によっ て得られ

S F

Q

(

-

に汚染された地球の大気を清浄化するために必要な

い る 『 宇宙戦艦ヤマト』 に登場する装置である。主大公たちは、宇宙船に改造された戦艦 ヤ マ ト に 乗 っ て 、放 射 能 毒ガス!

)

最終戦争の到来を予想するオウム教団の活動は、実際 、 これらのマンガの物語を演じてい

うに、最終戦争的なものは、 一九七〇年代後半以降のマンガの圧倒的な流行の主題である。

このマンガにも、最 終 戦 争 に 比 せ ら れ る 、 異 星 と の 戦 争 が 描 か れ て い る 。後 に 述 べ るよ

に、 空 気 清 浄 器 を た と え て い た の だ 。

コスモクリーナーをイスカンダルまで取りに行くのである。 彼 ら は 、 この放射能除去装置

(

〇50

るように見える。

オ ウ ム 真 理 教 は 、 自 身 の 教 団 を 一 種 の 「国 家 」 と し て 擬 制 し 、 こ れ に 対 応 し て 一 般 の

人々も、多 少 な り と も 、 こ の 教 団 を 仮 想 的 虚構的な国家として想念した。教団が自らを

国 家 と 見 な し て い た と い う こ と は 、 た と え ば 教 団 が 、 さ ま ざ ま な 作 業 に 従 事 す る 彼 ら の組

科 学 技 術 省 、諜 報 省 、 厚 生 省 、車 両 省 等 々 と

という事実に現れている。 このように、自らを国家に擬制している点にオウム真理教

織 を 省 や 庁 の 名 に よ っ て 区 分 し て い た —— ——

が依拠した虚構の顕著な特徴がある。 この特徴は、教 団 が 活 用 し た 虚 構 の 「 虚 構 性 」 を強

化したことの帰結として、 そのような強化に随伴する集団の独特な自閉化の一つの帰結と

して、部分的には説明することができる。先にも述べたように、 理想は現実世界と地続き

の 可 能 世 界 で あ る 。 他 方 で 虚 構 は 、 現 実 世 界 と 独 立 の 可 能 世 界 で あ る 。 「国 家 」 と い う 自

己 了 解 は 、 虚 構 の こ の よ う な 現 実 世 界 か ら の 独 立 性 の 水 準 を 表 示 し て い る だ ろ う 。 国家と

は 、 少 な く と も 規 範 に 関 し て 自 己 充 足 的 で 外 部 に 依 存 し な い 閉 鎖 し た 共 同 体 で あ る 。 そう

で あ る と す れ ば 、自 身 を 虚 構 と し て 現 実 か ら 純 化し よ う と す れ ば 、 そ れ は、 ど う し て も 、

「国 家 」 に 隠 喩 を 求 め う る よ う な 自 律 的 な 空 間 と し て 構 成 さ れ る に 違 い な い 。 も っ と も 、

の 様 相 を 与 え な が ら 、 他 方 で は 、多 く の 紛 争

し た が って 自 他 が 異 な る 国 家 と し て 対 峙

05エ第二軍銀飢の時代/虚磚 の時代



一方で、 自 身 を 独 立 の 国 家 と し て 構 想 し 、 そ れ ゆ え に外 部 の 社 会 と の 紛 争 に、 い か な る 法 規 範 も 前 提 に し な い 戦 争 サリンばらまき

)

を 、 法 規 範 に 徹 底 的 に 依 拠 す る こ と に よ っ て ——

(

す る の で は な く 、 単 一 の国 家 に 下 属 し て い る 二 つ の 部 分 で あ る と の 了 解 のも と で —

解決

を図ろうとする、 という奇 妙 な 両 義 性 が見 出 されることにも留 意 しておく必要があろう。

オ ウ ム 真 理 教 が 、 出 家 と い う 信 仰 の 形 態 に き わ め て 高 い 価 値 を お く 必 然 性 も 、 同じ点に

由 来 し て い る だ ろ う 。 出 家 を 規 定 し て い る の は 、空 間 的 な 移 動 で は な く 、 また共同体所属

れ が 間 世 界 的 移 動 と し て ——

企 図 さ れ て い る か ら で あ る 。 し た が っ て 、身 体 が共同体の間

つ ま り 同 一 の 現 実 世 界 内 の 移 動ではなく現実世界から独立の

の 転 換 で す ら な い 。 あ る 身 体 の 移 動 が 「出 家 」 と 呼 ぱ れ る よ う な 根 源 性 を 呈 す る の は 、 そ

可 能 世 界 へ の 移 動 と し て ——

を 「出 家 」 と い う 形 式 に お い て 移 動 す る と き に は 、 移 動 前 に 所 属 し て い た 共 同 体 と 移 動 後

に所属する共同体の間で、 それぞれを被覆する規範の共通性が極小化されざるをえない。

同 じ 間 世 界 的 な 移 動 を 、 移 動 す る 当 人 や 迎 え 入 れ る 共 同 体 の 視 点 で は な く 、 離 脱 し た共同

体 に 残 留 し て い る 者 の 視 点 で 捉 え れ ば 、 そ れ は 、 「拉 致 」 や 「監 禁 」 と し て 現 れ る で あ ろ

う。 オウム真理教団と外部の社会との間の対立は、 まずは、 この拉致と監禁に関わるもの

両方向からの越境

として現れたのであった。

2

052

理想を否定する理想

日 本 の 戦 後 の 半 世 紀 が 、 理 想 の 時 代 か ら 虚 構 の 時 代 へ の 転 換 と し て 把 握しう る こと、 そ

し て オ ウ ム 真 理 教 が 虚 構 の 時 代 の 先 端 に 登 場 す る よ う な 宗 教 で あ っ た こ と 、 こ れ ら の こと

を 述 べ て き た 。 し か し 、 こ の よ う な 理 解 に よ っ て は 、 「戦 争 」 が 惹 き 起 こ さ れ て し ま っ た

理 由 を 説 明 す る こ と は で き そ う に な い 。 こ の よ う な 理 解 に 立 脚 し た 場 合 に は 、 「虚 構 ヴ

アーチ ャ ル リ ア リ テ ィ 」 と 「現 実 」 と が 取 り 違 え ら れ た 、 と で も 説 明 さ れ る の だ ろ う 。

(

というより正確には連合赤軍に同時代性を自

が、戦 後 史 の 展 開 に与 え た 効 果 を 、 あ ら た め て 考 察 し て み る こ と が、 示唆

を与えるだろう。 われわれの最初の理解は、連 合 赤 軍 事 件こそが、 理 想 の 時 代 の完全な終

覚 し た 人 々 ——

の 中 で 担 っ た 集 団 が 、 す な わ ち 連 合 赤 軍 ——

そのためには、 オウム真理教が虚構の時代に対して担 っ た の と 同じ位置 価 を 理 想 の 時 代

似として提起してきた戦後史の構図を、もう少し繊 細 な 理 解 に 置 き 換 え る 必 要がある。

に 結 論 と し て 提 起 さ れ る に と ど ま る だ ろ う 。 問 題 に 接 近 す る た め に は 、 こ こ ま で 第 一次近

の 最 も 重 要 な 問 題 は 説 明 さ れ な い ま ま に 遺 棄 さ れ 、 結 果 を 記 述 す る 命 題 だ け が 突 然 のよう

と し て も 機 能 し え た の か 、 に あ る のだ 。 こ こ ま で に 提 起 し て き た 単 純 な 構 図 の 中 で は 、 こ

し か し 問 題 は 、 虚 構 と 現 実 と の 落 差 が い か に し て 埋 め ら れ た の か 、 虚 構 が い か に し て現実

)

結を、 し たがってその挫折を、象徴している、 と い う も の で あ っ た。 しか し 、 このような

第二章理想の時•代/虚綱の時代

¢)53



言い方では、必要な精度が欠 けている。

理 想 の 時 代 の 末 期 に は 、 す で に 理 想 の 時 代 の 内 に 包 摂 す る の が 困 難 で あ る よ う な 現象が

突 出 し つ つ あ っ た 、 と い う こ と に 注 目 し な く て は な ら な い 。 理 想 の 時 代 の 最 終 局 面 は、 一

九 六 〇 年 代 末 期 の ラ デ ィ カ ル な 学 生 た ち の 運 動 に よ っ て こ そ 特 徴 づ け ら れ る だ ろ う 。 この

運 動 は 、 も ち ろ ん 、 革 命 を 志 向 す る 運 動 と し て 、 何 ら か の 「理 想 」 を 掲 げ て は い た 。 しか

し 、 そ の 理 想 は 、 理 想 と い う も の の 所 有 の さ れ 方 と し て 、 す で に 末 期 的 な も の であったと

言わざるをえない。 このことは、 六 〇 年 代 末 期 の 若 者 の 社 会 運 動 を 、 そのおよそ十年前の

大規模な社会運動、すなわち六〇年安保の闘争と比較してみると、よく理解できる。

六〇年安保の運動は、戦後の進歩派知識人が有したような積極的な理想を掲げて導かれ

た 。 も う 少 し て い ね い に 言 い 換 え れ ば 、 六 〇 年 安 保 と は 、 ア メ リ カ 的 な も の で あ れ 、 ソ連

的なものであれ一般に積極的な理想を有することと、 理想をもたない体制的な現実主義に

徹 す る こ と と の 間 の 闘 争 で あ る と 、 理 解 さ れ て い た の で あ る そして、 理想主義者が敗北し (

た こ と で 、見 田 宗 介 は 、 理 想 の 時 代 は 、 具 体 的 に は こ こ に 終 息 し た 、 と論じた二 そ れ に 対 し て 、

や ス タ — リ ニ ズ ム ソ連

—— )

を否定することのみをその

年代末期の学生運動が掲げた理想は、 六〇年安保の運動を導いたような戦後的な理想

戦 後 民 主 主 義 アメリカ

(

六 ——

)

性 を 欠 落 さ せ 美 学 的 な 装 い を 帯 び る こ と と な る 。 そして、連合赤軍の活動は、明らかに、

実 質 的 な 内 容 と し て い た 。 理想の否定を 理 想 と す る こ と に よ っ て 、運動は、 政治的な具体

(

0

Q54

このような六〇年代末期の運動の延長上に、 その極端でほとんど最終的な形態として現れ たのだ。

同 じ こ と は 、 「知 識 人 」 の 運 動 の 水 準 だ け で は な く 、 大 衆 的 な 水 準 で も 認 め る こ と が で

きる。 理 想 の 時 代 の 大衆的な表現こそが、高 度 成 長 で あ っ た 。 しかし、 六〇年 代 末 期 は 、

高 度 成 長 の 限 界 が 自 覚 さ れ た 段 階 で も あ る 。 た と え ば 「公 害 」 の よ う な 社 会 問 題 が 、 この

ような自覚に対応して認められる。今し方論じた学生運動も、 もちろん、 このような社会

問 題 へ の 認 知 を 、 一 つ の 背 景 と し て も いた。 し か し 同 時 に 、 一 九 七 〇 年 に は 、 理 想 の 時 代

の最 後 の 祭 典 と も 言 う べ き 「万 国 博 覧 会 」 が 、 「人 類 の 進 歩 と 調 和 」 を テ ー マ に 大 阪 で 開 催されてもいたのである。

だ か ら 、 理 想 の 時 代 の 末 期 は 、 む し ろ 理 想 の 時 代 を 否 定 す る 運 動 や 感 覚 に よ って特 徴 づ

け ら れ る の で あ り 、 そ れ ら の 運 動 や 感 覚 は、 この否 定 的 な ス タ ン ス に よ ってかろうじて理

こ こ で の 基 本 的 な 構 図 か ら は 削 除 し た ——

「夢 の 時 代 」 と い う 段 階 を 設 定 し た の も 、

想 の 時 代 に つなぎとめられていたのだ。見田宗介が理想の時代と虚構の時代の中間に、 ——

理 想 の 時 代 の 内 部 に 今 示 唆 し た よ う な 変 質 が 見 出 さ れ る か ら で あ ろ う 。 と も あ れ 、 ここで

確 認 す べ き こ と は 、 理 想 の 時 代 は 、 そ の 展 開 の 過 程 で、 む し ろ 自 己 否 定 に 導 か れ て い く ら しい、 という ことであ る 。

第二章理短の時代/虚弱の時代

055

虚構への反転 連 合 赤 軍 と そ の 悲 劇 を 同 時 代 的 な も の と し て ——

つ ま り 自 分 自 身 の 問 題 と し て ——

引き

ま で の 人 生 が 、 ち ょ う ど 日 本 の 「理

受 け ざ る を え な か っ た 人 々 と は 、 世 代 的 に 言 え ば 、 主 と し て 、 「団 塊 の 世 代 」 に 属 す る 人 々 で あ る 。 団 塊 の 世 代 と は 、 そ こ 連合赤軍事件

)

こ の 論 考 で こ こ ま で 使 っ て き た 言 葉 で 表 現 す れ ば ——

、 理想を

竹田が、 一986〕 )。



に魅かれるのは、陽水の曲がまさに、今述べた解

竹田の鮮烈な問題意識に満ちた井上陽水論はよく知られている 竹 田 陽 水 ちなみに彼も団塊の世代に属する

(

たとえば、そのような思想家の代表的な例の一人として、竹田青嗣を見ることができる。

さ せ る ことが で き る よ う に 見 え る の で あ る 。

否定しつつ、 いかにしてなお理想を維持するか、 といったほとんど解答不能な問いに集約

思 想 的 課 題 の 中 核 は 、 ——

団 塊 の 世 代 に 属 す る 優 れ た 思 想 家 は 、 共 通 の 課 題 を か か え て い る よ う に 見 え る 。 彼らの

想 の 時 代 」 と重 な っ て い た 人 々 で あ る と 、 言 っ て も 良 い だ ろ う 。

(

)

陽水のファーストアルバム『 断 絶 』 これが出たのは連合赤軍事件の年である

分 析 し て い る 。 こ の 曲 で 、 陽 水 は 、 「さ び し い 時 は 男 が わ か る

/

)

の冒頭に収め

笑顔で隠す男の涙

/

男は

ら れ た 「あ こ が れ 」 と い う 曲 を 、 「陽 水 の 登 場 に 実 に ふ さ わ し い 響 き を も つ 」 も の と し て

(

答不能な問いに直面しているのを直観するからである。竹田は、 『 陽水の快楽』 の冒頭で、

(

Q56

一人旅す る も の だ

荒野をめざし旅するものだ

ラ ラ ラ ……

/

これが男 の姿なら

/

理想的な男性や女性

も つ い あこがれてしまう」 と反復する。 竹 田 に よ れ ば 、 この曲は、世界 • (

私もつ

が、幻想

)

距 離 化 す る 、覚 め た 認 識 が あ る 。 し か し 、 これだけでは、 青春

で あ る 。 こ こ に は 、 第 一 に 、 歌 わ れ て い る 男 性 や 女 性 の 理 想 像 ロマン的世界

あ こ が れ て し ま う 」 には、 微 妙 な 両 義 的 態 度 が 結 晶 し て い る と い う の

へのあこがれを歌ったものでは

あ こ が れ て し ま う 」 と 歌 い 、 同 じ 様 に し て 、 続 い て 女 性 の 理 想 像 を 示 し 、 や は り 「私

/

H



理想の挫折を痛烈に認識した場合 =

て の 側 面 を 嚙 み つ ぶ し 、 理 想 像 の ま さ に 「理 想 」 と し て の 対 象 性 で は な く

理想へとあこが

)

志向性のみを保持しようとしたのだ。幻想に固執する理想主義者でもな

な立場を竹田は評価する。 同 じ こ と は 、 竹 田 の 二 年 後 、 陽 水 の 一 年 後 一九四九年

)

に生まれた小説家村上春樹に

く、 し か し 一 切 の 理 想 に 対 し て 冷 笑 的 な だ け の 現 実 主 義 者 で も な い 、 緊張にみちた中間的

れる内的な欲望

(

竹田によれば、陽水の場合には、同じ認識を共有しつつ、逆に自分の中の現実主義者とし

に、 人 は 、 一 切 の 理 想 を 放 棄 し 、 理 想 を 奥 歯 で 嚙 み つ ぶ す 現 実 主 義 者 に 反 転 す る 。 し か し 、

とする態度が認められるのだ。通常は、 ロマン的世界

には 、 第 二 に 、 理 想 像 の 挫 折 に も か か わ ら ず 、 理 想 を 憧 憬 す る 欲 望 志 向 性 を 維 持 しよう

の喪失や挫折を自己哀惜したり、苦々しく語る定型に収まってしまう。 しかし、陽水の曲

に過ぎないことを対象化

(

な い 。 「私 も つ い

)



/ (

第二章理就の時代/虚構の時代

057

=

年 の ピ ン ボ ー ル 』 に 注 目 し て み よ う 。 一九七 三 年 は 、 連 合 赤 軍 事 件 の

ついても 言 う こ と が で き る 。 た と え ば 、 大 江 健 三 郎 の 小 説 の パ ロ デ ィ ー だ と 思 わ れ る 、村 上春樹の『

マシーンを獲得すること」がこの小説の内部



い っ た 「重 要 な 理 想 」 と 等 価 な も の と し て 並 べ る こ と で 、 重 要 な

覚 で ——

引き受けるのだ。

は、 村 一987 〕 〔

は、 一994 〕 〔

理想の幻想性が暴か

態度だ

「人 は 生 涯 に け っ き よ く 、 一 つ の こ と を 一

上の小説『 世界の終りとハードボイルド

ワンダーラ



ンド』 を 読 み 解 き な が ら 、 自 分 の 立 場 を 示 し て い る 。 一 九 八 五年に発表されたこの小説は、

だと言う。 そ の 加 藤

「一 九 七 二 年 の 経 験 」 だ と す る 。 そ し て 、 加 藤 は 、 村 上 春 樹 を 「一 九 七 二 年 の 同 時 代 人 」

つの経験から学び、生 き て い く も の だ 」 として、自分自身にとってのその一つの経験を

陽水と同年に生まれた加藤典洋

より一層覚めた感

マ シ ー ン を 捜 し 歩 く ——

)

け は 保 持 さ れ る の で あ る 。 こ う し て 、 村 上 は 、 井 上 と 同 じ 両 義 性 を ——

れ 、 破 棄 さ れ て し ま う 。 し か し 、 な お 理 想 を 追 求 す る ——

(

を 理 想 と し て し ま う ことで、 し た が っ て 、 こ れ を た と え ば 日 本 や 世 界 に 革命をもたらすと

で の 「理 想 」 だ が 、 も ち ろ ん 、 こ れ は く だ ら な い こ と で あ る 。 こ の よ う な く だ ら な い こ と

当 て よ う と す る だ け で あ る 。 「ピ ン ボ ー ル

人 公 は 、 日 本 に 三 台 輸 入 さ れ た だ け で 製 造 中 止 に な っ た 幻 の ピ ン ボ ー ル ・ マ シ ー ン を 捜し

違 い な い か ら で あ る 。 こ の 小 説 の 中 で は 、 出 来 事 ら し い 出 来 事 は 何 も 起 き な い 。 ただ、主

翌 年 で あ り 、 こ の 作 品 は 、 こ の 事 件 が 不 可 避 に も た ら し た 時 代 の 転 換 に 触 発 されているに

1 9 7 3

058

「ハ ー ド ボ イ ル ド

ワ ン ダ ー ラ ン ド 」 と 「世 界 の 終 り 」 と い う 二 つ の 物 語 を 交 互 に 交 替 さ

せながら進行するのだが、加藤は後者の終結部に注意を集中させる。 この物語で主人公

「僕 」 は 、 「世 界 の 終 り 」 と 名 付 け ら れ た 、 壁 に 囲 わ れ た 閉 鎖 的 な 共 同 体 に 住 ん で い る 。 こ

これは「 自 我 」 や 内 面 の 「心 」 の 象 徴 で あ る ——

の 閉 鎖 的 な 共 同 体 は 、 オ ウ ム の 上 九 一 色 村 や 波 野 村 の 「国 家 」 を 想 起 さ せ る 。 「世 界 の 終 り 」 で は 、 す べ て の 住 民 が 、 「影 」 ——

を 切 り 離 さ れ た 状 態 で 生 き て い る 。 問 題 は こ の 「影 」 な の だ が 、 加 藤 の 解 釈 を わ れ わ れ の

こ こ で の 文 脈 の 中 で 言 い 換 え る な ら ば 、 そ れ は 、 幼 い 頃 か ら の 成 長 を 通 じ て 獲 得 された

の抑圧の上に成り立っている

「 自 己 の 規 範 化 さ れ た 理 想 」 に よ っ て 規 定 さ れ る 、 個 人 の 内 的 な 原 理 で あ る 。 小 説 は 、 「世 界 の 終 り 」 の 平 和 が 弱 者 一角獣によって形象化されている

)

の で は な い ら し い 。 後 の イ ン タ ヴ ュ ー に 答 え て 、 村 上 は 、 「影 」 と 一 緒 に 「 僕」も脱 出 す

結 末 で あ る 。 こ の よ う な 結 末 は 、 ど う や ら 村 上 自 身 に よ っても最 初 か ら 決 め ら れ て い た も

り 」 に止 ま る こ と を 選 択 す る の で あ る 。 こ こ ま で の 物 語 の 展 開 か ら す る と 、 こ れ は 意 外 な

る。 し か し な が ら 、 物 語 の 結 末 に お い て 、 「 僕 」 は 「影 」 の 説 得 を 拒 否 し て 、 「世 界 の 終

え 、 「僕 」 と 「影 」 は そ こ か ら 脱 出 し よ う と 画 策 し 、 つ い に 唯 一 の 外 部 へ の 通 路 を 発 見 す

「 僕 」 の 「影 」 が 強 調 す る よ う に 、 こ の 世 界 は 明 ら か に 間 違 っ た 世 界 な の で あ る 。 そ れ ゆ

こと、 し か も そ の こ と を 住 民 が い さ さ か も 自 覚 し て い な い こ と を 示 唆 す る 。 要 す る に 、

(

べ き か 残 る べ き か 、 「モ ラ リ ス テ ィ ッ ク な 意 味 で 」 非 常 に 迷 っ た と 述 べ て い る 。 「僕 」 は な

第二掌理您の時代/虚例の時代

059



ぜ残ったのか?

「僕 」 の 選 択 の 意 味 は 、 村 上 自 身 に よ っ て も 最 終 的 に は 答 え ら れ て い な い 。 だ が 、 加 藤 は 、

村上によって示されながら言語化されなかったその答えを、言わば、村上の問題を延長さ

せ て 追 求 す る こ と で 与 え よ う と し て い る 。 「影 」 と 「僕 」 の 対 位 法 と い う 構 成 は 、 規 範 的

な理想に規定されている個人の内面の原理とその個人が置かれている時代の気分や価値観

値観に共感してしまっているということを示している。 このような分裂は、高度成長

が 分 裂 し て い る こと、 し か も 個 人 は た と え 間 違 っ て い る と わ か っ て い て も そ の 時 代 の 気 分 や

裂 が す で に 生 じ て し ま っ た 以 上 は 、 「影 」 の 正 し さ 理 想 の 妥 当 性

に殉ずるべきではない。

理想の

理想を棄てき

これが加藤の意見であり、彼 が 村 上 の 結 末 を 評 価 す る ゆ え ん で あ る 。 これは、 影

)

U

的な理想

影を放棄しつつ、他方では、理 想

影を所有することの可能性だけは維持する

H

だ 。 加 藤 自 身 の 表 現 に 即 し て 言 え ば 、 「心 〔 影 〕」 の な い 場 所 に 「心 〔 影 〕」 の 凹 型 だ け は

〔 を所有すること〕 の 可 能 性 だ け は 、 つ ま り 理 想 が 占 拠 す る た め の 場 所 だ け は 留 保 す る わ け

と い う こ と で あ る 。 直 接 的 な 実 現 を 迫 る も の と し て の 理 想 の 現 実 性 を 放 棄 し つ つ 、 理想

H

が 、村 上 の 解 答 を 極 大 化 し つ つ 示 唆 す る 第 三 の 道 は 、 一方では、 自 分 の 気 分 に 対 し て 抑 圧

れ ずに生きることでもない。前 者 が リ ア リ ス ト の 、 後 者 が ロ マ ン チ ス ト の 道 で あ る 。加藤

可 能 性 を 否 定 し 、抹 消 し て し ま う こ と と は 違 う 。 し か し も ち ろ ん 逆 に 、 影

H

(

のような急激な社会変動の結果として現代日本に生じた、 と加藤は分析する。 こうした分

B

o6o

竹田青嗣の態度と、同じものであろう。

と ど め る 、 と い う こ と に な る 。 こ れ は 、 理 想 の 内 容 的 な 具 体 性 を 拒 否 し つ つ 、 理 想 への志 向 だ け を 確 保 し よ う と し た 、井 上 陽 水

さて、 理想がすでに否定されてしまっており、 それにもかかわらず、 理想への志向性の

一方では、 そ の 現 実 性 が 否 定 さ れ な が ら 、 他 方 で は 、 そ れ を 憧 憬 する

み を 保 持 す る 場 合 に 、 そ の 志 向 性 の 先 端 に 開 示 さ れ る 対 象 は 、 い か な る 性 質 を 帯 び る こと になるだろうか?

志 向 の み が 保 持 さ れ て い る よ う な 対 象 と は 、 も は や 、 ほ と ん ど 虚 構 に ほ か な る ま い 。 理想

こ の 曲 は 彼 に と っ て 初め

が 自 己 否 定 的 に 変 質 し た と き 、 そ こ に 現 れ る の は 、 限 り な く 虚 構 に 近 い 何 か であ る 。 た と え ば 井 上 陽 水 は 、 一 九 七 三 年 に 発 表 し た 「夢 の 中 へ 」 ——

において、次 の よ う に歌う。 「 探しものは

見 つ け に く い も の で す か ?」 と 問 い 、 言 外 に 探 し も の を 求 め る 作 業 を 断念す

て の ビ ッ グ ヒ ッ ト で あ っ た と 言 え る だ ろ う —— 何ですか?

るように勧めたあと、 「 夢 の 中 へ 、夢 の 中 へ 、 行 っ て み た い と思 い ま せ ん か ?」 と誘 う の

は い つくばって」探 さ な け れ ば な ら な 心

だ 。 「カ バ ン の 中 も 、 つ く え の 中 も 、 探 し た け れ ど 見 つ か ら な い 」 探 し も の 、 「休 む 事 も 許 さ れ ず 、 笑 う 事 も 止 め ら れ て 、 は い つくぼ っ て

対 象 と は 、 「理 想 」 で あ ろ う 。 「 探 す の を や め た 時 、 見 つ か る こ と も よ く あ る 話 」 だ と陽水

竹 田 青 嗣 は、 こ の 曲

は 言 う 。 そ の 通 り で あ ろ う 。 し か し 、 積 極 的 な 「理 想 」 と し て 探 究 す る こ と を や め た と き 、 見 つ か る 何 か と は 、 も は や 理 想 で は な く 、 「夢 」 つ ま り 虚 構 で あ る

を 好 ま な い 。 こ こ で は 、 「理 想 」 か ら 「虚 情 一 へ の 越 境 が 完 了 し て し ま っ て い る か ら で あ

O

理観の時代/鹿旗の時代

第二車

o6i

H

ワ ン ダ ー ラ ン ド 」 と 「世 界 の 終 り 」 と い う二 つの展

る 。 竹 田 は 移 行 状 態 の 微 妙 な 中 間 的 位 置 を 評 価 す る か ら だ 。 同 じ 越 境 は 、 村 上 の 小 説 にも 暗 示 さ れ て い る 。 「ハ ー ド ポ イ ル ド

エ ル タ—

方 舟 と し て 登 場 す る 。 安 部 の 結 論 は 村 上 と ま っ た く 逆 に な っ て い る 。 すなわち

こ こ で も 、 オ ウ ム の 閉 鎖 的 な 共 同 体 を 思 わ せ る 閉 じ ら れ た 世 界 が 、 最終戦争に備える核シ

丸 』 と対比させている。 この作品は、村 上 の 『 世 界 の 終 り と 〜 』 の 前 年 に 発 表さ れ て い る 。

加 藤 典 洋 は 、 「世 界 の 終 り 」 の 結 末 部 を 、 彼 が 失 敗 作 と 断 ず る 安 部 公 房 の 『 方舟さくら

への閉鎖を肯定することにきわめて近い意味をもつだろう。

に 配 分 さ れ る だ ろ う 。 「世 界 の 終 り 」 の 世 界 に 残 留 す る と い う 選 択 は 、 内 面 の 虚 構 の 世 界

開 を 対 照 さ せ れ ぱ 、 明 ら か に 、 前 者 が 現 実 性 の 側 に 、 後 者 の お と ぎ 話 的 な 筋 は 虚 構 性 の側



ところで、 オウム教団は、彼らの閉鎖的な共同体の外に出て、攻撃的なテロリズムを敢

軍の経験に対する反作用として結実するものなのである。

維 持 す る 逆 説 は 、 連 合 赤 軍 の 挫 折 を 乗 り 越 え よ う と し た こ と の 帰 結 と し て 、 つまり連合赤

と 述 べ て い る 。 逆 に 言 え ば 、 理想の現実的な具体性を否定しつつ、 その形式的な可能性を

加 藤 は 、 「影 」 の 自 己 と 他 者 へ の 支 配 の 延 長 上 に 、 連 合 赤 軍 の 共 同 者 殺 害 の 悲 劇 が あ っ た 、

そ れ に 体 現 さ れ て い る 「理 想 」 を 現 実 化 し よ う と す る 筋 と な る だ ろ う 。 興 味 深 い こ と に 、

ま で も な く 、 こ の 構 成 を そ の ま ま 、 村 上 の 物 語 の 方 に 転 写 す れ ば 、 「影 」 が 主 導 権 を 握 り 、

主 人 公 が 外 へ と 出 る こ と を 選 択 し 、 そ の 分 身 と な る 脇 役 が 閉 鎖 的 な 空 間 に 残 る の だ 。言う

H

062

行した。 ならば、 その失敗は、連合赤軍の悲劇の再現なのか?

多 分 そ う で は な い 。 そこ

に は 、 「影 」 と 「 僕 」 の 対 位 法 が 、 し た が っ て 「影 」 に よ る 「僕 」 の 抑 圧 の 潜 在 的 な 可 能

性 が 、 も は や な い か ら で あ る 。 む し ろ オ ウ ム の 行 為 は 、 「理 想 」 を 凹 型 と し て の み 内 面 に

封じ込める態度の延長上に、 その態度が内面を内から蚕食する反転として現れたように見

え る の だ 。 言 い 換 え れ ば 、 オ ウ ム は 、 連 合 赤 軍 と は ま っ た く 逆 の 理 由 か ら 、 つ ま り 「影 」

で は な く 「世 界 の 終 り 」 に 止 ま る 「僕 」 の 気 分 を 肯 定 す る 態 度 の 方 か ら 、 逆 説 的 な 反 転 を

被 っ て 「世 界 の 終 り 」 に 比 せ ら れ る 共 同 体 の 外 へ と 出 て き た よ う に 思 え る の だ 。 オ ウ ム の

悲 劇 は 、 「世 界 の 終 り 」 の 境 界 線 を 挟 ん で 、 連 合 赤 軍 の 悲 劇 と は ま っ た く 反 対 側 に 位 置 し ているのではないか。しかし、 この点を結論するのはまだ早い。

哲学的レッスン

と り あ え ず こ こ で 主 張 し て お き た い こ と は 次 の よ う な こ と で あ る 。 第 一 に、 団 塊 の 世 代

の 最 も 良 質 な 代 表 者 た ち が 試 み た こ と は 、 理 想 の 理 想 と し て の 有 り 様 を 単 純 に 放 棄 したり

拒 否 す る こ と で は な く 、 ま さ に 理 想 の 理 想 性 に 固 執 し 、 そ れ を 徹 底 さ せ る こ と で あ ったと

い う こ と 。 第 二 に 、 そ の よ う な 徹 底 に よ って理 想 は 自 己 否 定 へ と 導 か れ 、 ほ と ん ど 虚 構 に

近 い も の と し て 再 生 す る と い う こ と 。 理 想 を 否 定 へ と 導 く 理 想 への 徹 底 は 、 虚 構 の 肯 定 へ

O63第二章理飽の時代/虚為の時代

と 接 続 し て い る の だ 。 わ れ わ れ は 最 初 、 「理 想 の 時 代

越えようとした人々

が象徴したのである。

虚 構 の 時 代 」 という二分割を与え

構 の 時 代 へ と 反 転 し て い く 接 点 の よ う な 場 所 を 、 連 合 赤 軍 と 同 時 代 を 共 有 し 、 これを乗り

連 合 赤 軍 が 象 徴 し て い る の は 、 単 純 な 「理 想 の 時 代 の 終 結 」 で は な い 。 理 想 の 時 代 が 虚

が、 メ ビ ウ ス の 帯 を た ど っ て いくような 仕 方 で 、 や が て 虚 構 へ と 裏 返 っ て いくのである。

ておいた。 しかし、 こ の 分 割 を 導 く よ う な 連 続 性 が あ る よ う に 見 え る の だ 。 理想への内在

/ (

現 実 主 義 に 入 る 。 とこ

理 想 は 、 も と も と 、 広 義 の 「現 実 世 界 」 に 含 ま れ る も の だ っ た 。 だ か ら 、 理 想

への志向は、 も と も と 、虚 構 を 現 実 に 比 し て 低 く 見 る 、 広義の

)

非常に明快に示した哲学者として、廣 松 渉



がいる。 どのような現実も、 必ず、意 1982〕

そも、 現 実 に は 、常 に 、 必 然 的 に 虚 構 が 張 り つ い て い る 、 と い う こ と が わ か る 。 この点を、

こ の 事 実 に 導 か れ て 、 あ ら た め て 、 現 実 の 構 成 と い う も の を 振 り 返 っ て み る と 、 そも

転は、 このことをあらためて教えてくれる。

ろ が 、 理 想 の ま さ に 理 想 性 へ の 志 向 は 、 実 は 虚 構 へ の 志 向 と 同 じ も の な の で あ る 。 この反

(

ろうか?

し か し 、 そ れ に し て も 、 「理 想 へ の 志 向 」 が 「 虚 構 へ の 志 向 」 へ と 反 転 す る の は なぜだ

)

」として現前するということである。

( A )

成の中で、 つ ま り 「 直 接 の 現 実 」 を 「そ れ 以 上 の 、 あ

が 「な に も の か として」という

#

( a )

味を帯びたものとして現前する。廣松が論じているように、意味を帯びて現前するとは、

A

直接に与えられた現実 現実は、「 を

a

064



るいはそれ以外のなにものか」 として認知することにおいて、 まさに現実たりえているわ

け だ 。 た と え ば 、 わ れ わ れ は 眼 前 の 物 質 の 集 塊 を 分 節 化 し て 「コ ッ プ 」 と し て 知 覚 し た り

「 机 」 と し て 知 覚 す る 。 あ る い は 、 あ る 曲 線 を 何 か の 「文 字 」 と し て 理 解 す る 。 こ の 「な

に も の か 」 に あ た る 部 分 、 「そ れ 以 上 の 何 か 」 に あ た る 部 分 が 、 こ こ で い う 「意 味 」 で あ

る 。 と こ ろ で 、 こ の 「な に も の か 」 は 、 直 接 の 現 象 以 外 の 何 か で あ る 点 で 、 む し ろ 一 種 の

〈虚 構 〉 と 見 な す べ き も の で あ る 。 こ の こ と は 、 と り わ け 、 「 儀 礼 」 性の高 い 行 為 の こ と を

た と え ば 、 「あ り が と う 」

思 う と わ か り や す い 。 た と え ば 「あ り が と う 」 と か 、 「 今 日 は 」 と か 、 「ご き げ ん よ う 」 と いった挨 拶 は 、 文 字 通 り の 意 味 に お い て 解 釈 さ れ る の で は な く

を、 「 有り難い」 つ ま り 「 確 率 が 非 常 に 低 い こ と 」 と し て 解 釈 さ れ る ので は な く 、 発 話 者 の 受 話

一 種 の 〈虚 構 〉 で あ る 。

を 獲 得 し て おり、 ま さ に 現 実 たりえている

ら な い 。 つ ま り 、 両 者 の区 別 は 、 当 事 者 に と っ て 、 自 覚 し う る も の で な く て は な ら な い

Q

「本 当 は 」 ど う 思 っ て い る か 、 と い う こ と と は 関 係 が な い。 つ ま り 「 感 謝 」 や 「好 意 」 は

者 に 対 す る 「感 謝 」 や 「好 意 」 を 意 味 す る も の と し て 受 け 取 ら れ る 。 こ の 場 合 、 発 話 者 が

)

し た が っ て 、 と き に、 現 実 を 〈虚 構 〉 に お い て 認 知 す る こ と は 、 一種の 欺 瞞 と 、 真 実 を 覆

065第二章理須.の時代/虚構の時代

(

し た が っ て 、 現 実 は 、 現 実 な ら ざ る も の 、 つ ま り 〈虚 構 〉 と の 相 関 に お い て 内 部 の諸 要 素の同一性 それが「 何であるか」ということ

)

と い う こ と で あ る 。 そ の 場 合 、 現 実 と 〈虚 構 〉 と は 、 十 分 に 区 別 可 能 な も の で な く て は な

(

い 隠 す も の と 見 な さ れ る こ と が あ る 。 た と え ぱ 、 「今 日 は 」 と い う 発 話 や 振 る 舞 い は 、 受

け 手 へ の 「好 意 」 と し て 受 け 取 ら れ る が 、 そ れ は 単 な る 表 面 的 な も の で 、 本 当 は 悪 意 を 隠

し も っ て い る か も し れ な い 、 と 疑 わ れ る 。 あ る い は 、 極 端 な 場 合 に は 、 こ の も の を 「コッ

プ 」 と し て 同 定 す る こ と さ え も 恣 意 的 な も の に 過 ぎ ず 、 「現 象 学 的 な 還 元 」 が 施 さ れ る こ

と が あ る 。 哲 学 者 の い う 現 象 学 的 な 還 元 と は 〈虚 構 〉 を 無 化 し 、 現 実 を 純 粋 に 取 り 出 そ う

と す る こ と で あ る 。 こ の よ う に 、 現 実 を 〈虚 構 〉 と し て 認 識 す る と い う 構 成 は 、 「幻 想 」

の 原 因 と 見 な さ れ る が 、 し か し 、 他 方 で 、 よ り 一 層 重 要 な こ と は 、 こ の 〈虚 構 〉 と い う 夾

雑 物 が な け れ ば 、 現 実 は 決 し て 意 味 を 帯 び た も の と し て 立 ち 現 れ る こ と な く 、 現 実 そのも

と し て 」 と い う 構 成 を 、 つ ま り 現 実 に 〈虚 構 〉 が 張 り つ い て 二 重 化 さ れ る

のが失われてしまうということである。 こ の 「 を

A

二 重 性 、 つ ま り 「意 味 す る も の

なわち、認識する特定の誰某

」 と 「意 味 さ れ る も の

が何者か

B

」 の 二 重 性 を 、 認 識 対 象 一般に

A

としてある限りにおいて、



a

A

として現れる

の好意を示す挨拶として流通するのは、実践的な日本語の共同体のメンバーに対してであ

して受け入れる共同体の一員としての資格で認識している。あ る い は 「 今 日 は 」 が最低限

のである。 たとえば、 こ の 物 体 を コップとして受け取るとき、 人は ま さ に そ れ を コ ッ プと

b

敷衍させたものである。対象の側の二肢性に対応して、認識する側も二肢性を呈する。 す

a

構 成 を 、 廣 松 渉 は 、 認 識 さ れ る も の の コ一肢性」 と 呼 ぶ 。 こ の 二 肢 性 は 、 言 語 記 号 の も つ

a

o66

る。 認 識 さ れ る 側 と 認 識 す る 側 の そ れ ぞ れ の 二 肢 性 を 合 わ せ て 、 認 識 と い う 事 態 は 、 結 局 、

「四 肢 構 造 」 を 呈 す る 、 と 廣 松 は 整 理 す る 。 認 識 者 が 二 肢 性 を 帯 び る と い う こ と は 、 そ の

認 識 者 が 特 定 の 社 会 的 な 規 範 の も と で 共 同 主 観 化 さ れ て い る と い う こ と と 、 ほ ぼ 同 じ こと

で あ る 厳 密 に は 、廣松に と っ て 、 四肢構造は共同主観性よりももっと本源的な事態である 。

)

現 実 に 〈虚 構 〉 が 張 り つ く と き 、 そ れ 自 身 と し て は 、 た え ず 生 成 変 化 し 、 ま た ど こ ま

(



明 る い こ と 」 と し て 認 識 す る こ と は 、 「明 る

でも確定的な区別もなく拡がる現象が、固定的で、周囲から一義的に区別された物体のよ う に 現 れ る こ と に な る 。 た と え ば 「部 屋 が

)

とによって、 両者が差異を保ちつつ、不可分の関係にあることを確認することができた。

最 初 、 わ れ わ れ は 、 現 実 と 虚 構 を 対 立 さ せ た が 、 し か し 事 態 を も う 少 し 精 細 に 眺めるこ

は、 こ こ か ら 生 ま れ て く る 。

事 態 が 構 成 さ れ る こ と に な る 。 単 な る 「作 り 話 」 と い う 意 味 で の 狭 義 の 「 虚 構 」 の可能性

て、 〈虚 構 〉 が 変 転 き わ ま り な い 現 実 と は 独 立 に 、 そ れ 自 体 と し て 存 在 し う る か の よ う に 、

化 は 、 現 象 を 意 味 に お い て 同 定 す る 者 に と っ て は 避 け が た い こ と で あ る 。 このことによっ

さ」 と い う も の が 存 在 し て い る か の よ う な 印 象 を 与 え る 。 こ れ を 「 物 象 化 」 と呼ぶ。物象

(

と も あ れ 、 ここでは、 哲 学 的 な 考 察 を 一 旦 脇 に お い て 、虚 構 へ と 反 転 し た 理 想 現

現 実 と 虚 構 の こ の よ う な 複 雑 な 関 係 は 、 ず っ と 後 の 考 察 に と って重 要 な 意 味 を もつことに ◎

が、 さらにどのような変化を被るか後付けてみよう。

第二章理然の時代/虚瞬の時代

067

なる 実 )

(

反 対 方向の反転

さて、連 合 赤 軍 は 、 理 想 か ら 虚 構 へ の 反 転 を 象 徴 し て い る の で あ っ た 。 オ ウム教団が、

サリンをぱらまく犯行に関与しているのだとして、 このことがわれわれを驚愕させるのは、

へ と 反 転 し 、 理 想 現実 (

と し て 機 能 し て い る 様 を 見 る か ら では )

ここに、連 合 赤 軍 が 代 表 し て い た の と は 逆 方 向 の 反 転 を 、 つまり虚構の方がその徹底によ っ て 今 度 は 理 想 現実 )

っている

る と 、 理 想 の 時 代 の 内 部 に あ っ た 自 己 否 定 の 段 階 それは一九六〇年代の後半あたりに始ま

たのではないか。連合赤軍の悲劇が確認され、 理想の時代が完全に終結した後から振り返

に 入 っ て い た の で は な い か 。 そ し て 、 こ の よ う な 自 己 否 定 の 先 端 に 、 オ ウ ム 真 理 教 が 現れ

を 含 ん で お り 、 わ れ わ れ は そ う と は あ ま り 強 く 自 覚 す る こ と な く 、 す で に こ の 否 定 の段階

含んでいた。 これと同様に、虚構の時代も、 その内部に、自己自身を否定するような段階

ないか。先に見たように、 理想の時代は、 その 末 期 に 、 自己自身を否定するような段階を

(

が見えてくる。同様に、 サリン事件の後から振り返ることでのみ発見されるよ

(

評した。彼らが革命集団に見えるのは、彼らの虚構が、 それ自身、 現実化されるべき理想

中 沢 新 一 や 他 の 何 人 か の 論 者 が 、麻 原 彰 晃 と 彼 が 率 い る オ ウ ム 教 団 は 革 命 家 で あ る 、 と

うな、自 己 否 定 の 段 階 が 、 虚 構 の 時 代 の 内 部 に も 孕 ま れ て い る よ う に 思 わ れ る の だ 。

)

o68

と し て も 機 能 し て い る か ら で あ る 。虚 構 が 理 想 へ と 反 転 す る 何 ら か の 機 制 が 存 在 す る と 、 考えざるをえない。 それは何か?

代 の 半 ば の 世 代 に あ た る 出 家 信 者 の 平 均 年 齢 は 、約 二 七 歳 で あ る 。 ま た 「 幹 部 」 と呼ばれる

メンバーの平均年齢は三〇歳代の前半であると思われる 。 こ の 世 代 は 、 「新 人 類 」 と か 「オ タ

他 方 で 麻 原 の み は 、 「理 想 の 時 代 」 に 内 属 し て い る と 見 な し う る よ う な 諸 属 性 を 有 し て

とき、 自 分 自 身 の そ れ と あ ま り 大 き な 差 異 が な い の を 発 見 し た に 違 い な い 。

ぼその世代にあたる者たちのほとんどは、 メンバーた ち の 過 去の履歴や経験を聞かされた

や 「オ タ ク 」 は、 虚 構 の 時 代 の 世 代 的 な 対 応 物 で あ る と 言 っ て よ い 。 私 の よ う な ま さ に ほ

ク 」 な ど と 呼 ば れ る 若 者 た ち を 輩 出 し た 年 齢 層 に あ た る 。 先 に 指 摘 し た よ う に 、 「新 人 類 」

)

いる。 も う 少 し 厳 密 に 言 い 換 え れ ば 、 理 想 の 時 代 が 不 可 避 に 孕 ま ざ る を え な い よ う な 影の



と り あ え ず 、次 の こ と は 容 易 に 確 認 し う る 。 オ ウ ム 真 理 教 団 は 、麻 原 な し で は 、 と う て

い 成 り 立 つ ま い 。 麻 原 の 存 在 を 欠 き 、 彼 の 教 義 だ け が 存 在 し て い る と い う 状 態 に お い ては

へ の ベ ク ト ル が 混 交 し て い る の を 想 像 す る こと

オウム真理教の発展は、ありえなかっただろう。麻原を含む教団の全体を考えた場合には こ こ で 、 虚 構 へ の ベ ク ト ル と 理 想 現実 ができる。

)

しばしば指摘されたように、 教団の熱心なメンバーの中心は、 二〇歳代後半から三〇歳

(

部 分 を 想 起 さ せ る 諸 属 性 を、 麻 原 は 担 っ て い る よ う に 見 え る の だ 。 一九五五年生まれの麻

第二章理參の時代/虚構の時代

069

(

原 は 、 団 塊 の 世 代 よ り も 後 の 世 代 に 属 し て お り 、 新 人 類 や オ タ ク の世 代 に 近 い 。 し か し 、

は 「貧 病 争 」 と い う 標 語 に 要 約 さ れ 、

彼 が 担 っ た 宿 命 は 、 彼 の 世 代 と し て は 例 外 的 に 、 む し ろ 理 想 の 時 代 に 属 し て い る 。 理想の 時 代 が 不 可 避 に 孕 ま ざ る を え な い 否 定 的 な 影 不幸 )



(

麻 原 は 眼 に 障 害 を も ち 、視 力 が 著 し く (

麻原は小学校一年生の途中で寄宿舎付きの盲学校に転校させられたとき、 「 親に

)

た 。 麻 原 の 人 生 に 関 し て 言 う と 、 ま さ に 、 標 語 が 表 示 す る す べ て の 点 が 、 つ ま り 「貧

こ の 標 語 が 表 現 す る よ う な 環 境 に 置 か れ た 者 が 旧 新 宗 教 の 下 に 集 ま っ た の だ 、 と先 に述べ

(

本智津夫の実家はたいへん貧困だったという 」 と 「 病 低 い 」 と 「争 (

棄 て ら れ た 」 との感覚をもったと述懐している 」 の す べ て が 当 て は ま る の で あ る 。

)

現 実 へ の 志 向 」 が 混 入 した

U

オ ウ ム 真 理 教 の メ ン バ ー が 一 九 九 〇 年 の 衆 議 院 総 選 挙 に 出 馬 し た と き 、 その宣伝のため

う に し て 「触 媒 」 が 作 用 し え た の か を 、 事 態 に 即 し て 解 明 し な く て は な ら な い だ ろ う 。

し て 結 晶 し て い っ た の で は な い か 。 も ち ろ ん 、 こ の よ う な 語 り 方 は 、 比 喩 で あ る 。 どのよ

とき、言わばそれが触媒のように作用して、虚 構 へ の 志 向 が 、 それ自体、 理想への志向と

配 的 な 志 向 性 に 、 麻 原 の 存 在 が 喚 起 し て し ま う よ う な 「理 想

的 で あ ろ う 。 こ の 支 配 的 な 志 向 性 を 、 麻 原 自 身 も 共 有 し て い る だ ろ う 。 と 同 時 に 、 この支

のような推定を誘うのである。教団の基底的な心性としては、虚構への強力な志向が支配

と論じたいわけではない。教団の主要メンバーと麻原との今見たような対照が、 およそ次

も ち ろ ん 、 私 は 、 麻 原 の 私 的 な ル サ ン チ マ ン が 「革 命 」 的 な 破 壊 へ の 衝 動 に 帰 結 し た 、

)

070

巴 一995 〔

は、 こ の マ ン ガ を 、

に配付した『 未来を開く転輪聖王』 というマンガがある。 このマンガは、麻原彰晃の半生 を描いたものだが、完 全 な 作 り 話 で あ る 。 し か し 、切 通 理 作

「 漫 画 を 好 き な 人 間 の 心 情 」 を 正 確 に 反 映 し て お り 、 「描 き 手 側 の 、 本 質 的 な 意 味 で の 『 正

直 さ 』 が あ る 」 と 高 く 評 価 し て い る 。 こ の マ ン ガ で は 、 主 人 公 の シ ョ ウ ち ゃ ん は 、 劣等生

で 不 器 用 な 人 物 と し て 描 か れ て い る 。 彼 は 、 好 き な 女 の 子 に プ レ ゼ ン ト を 買 お う とアルバ

イトに集中していたため、 受験に失敗し、 ま た 肝 心 の プ レ ゼ ン ト も 渡 し そ び れ てしまう。

結局 、勉学への意志を失い、 工場で働くが友人も得られない。 あ る 日 、彼 は ちょっとした

き っ か け か ら 、 か つ て の 同 級 生 で 、 現 在 は 一 流 大 学 に 通 う 優 等 生 の 友 人 に 裏 切 ら れ 、 万引

き の 濡 れ 衣 を 着 せ ら れ て し ま う ちなみにこの友人の名前は「 大 作 」 である 。 こ の 体 験 が 引

)

に捨 て ら れ た こ と で 絶 望 し 、

き 金 と な って、 シ ョ ウ ち ゃ ん は 超 能 力 を 獲 得 す る 。 後 に 教 祖 と な っ た シ ョ ウ ち ゃ ん は 、 超 能 力 を 駆 使 し て 、 か つ て 憧 れ た あ の 女 の 子 が 恋 人 実は大作 自 殺しようとしているところを、助けたりする。

)

つ ま り 虚 構 の 世 界 へ と 飛 躍 す る ——

超 能 力 によって乗 り 越 え ら れ て し ま う 。逆に言

えば、 ここでは、虚 構 へ の 没 入 が 、 理 想 の 獲 得 と 等 価 なも の と し て 作 用 し て い る の で あ る 。

な ——

得 る と い っ た 現 世 的 “現 実 的 な 理 想 の す べ て か ら 疎 外 さ れ る 。 だ が こ の 疎 外 は 、 超 現 世 的

このマンガでは、主 人 公 は 、恋 人 を 得 る と か 、 受 験 で成 功 す る と か 、 信 頼 し うる友 人 を

(

いずれにせよ、 このマンガは寓話であり、 そ こ に 表 現 さ れ た こ とは、 この宗教の教 義 や

071嘉二軍理物の時代/虚術の時代

(

現 実 へ と 再 反 転 し て く る の で は な いか、 と い う仮 説 を

実 践 の 全 体 か ら す れ ば 、 ご く 部 分 的 な も の で し か な い 。 虚 構 が 徹 底 さ れ た と き 、 メビウス の帯のような回路を通じて、 理 想

虚 構 を 経 由 し て 理 想 へと

ほとん

ものに変貌しているのである。彼らが提起する理想とは、破局的な戦争を

ワンダーラン

こ の こ とを

言 い 換 え れ ば 、 終 末 とし

団塊の世代に属する村上春樹が著した『 世界の終りとハードボイルド

終末論の氾濫

終末論という倒錯

解明しなくてはならない。

て 提 起 さ れ た と き に 、虚 構 が 理 想 と し て 機 能 す る こ と が で き る の は な ぜか?

ともなう終末なのだから。終末が理想となりうるのはなぜか?

ど 対 立 す る ——

回 帰 し て く る と き 、 そ の 理 想 は 、 実 は 、 も と も と の 理 想 と は ま っ た く 異 な っ た ——

提起してきた。 オウム真理教にとって、究極の理想とは何か?

=

っ た と 言 え る 。 そ の 乗 り 越 え は 、 「世 界 の 終 り 」 の 終 結 に お け る 主 人 公 「僕 」 の 選 択 に お

ド 』 は 、 彼 が 「理 想 の 時 代 」 の 困 難 や 限 界 を 乗 り 越 え て き た 、 と い う こ と を 証 す る も の だ



3

O72

ここには、 理想の時代から虚構の時代への転換がもたらす帰結へ

い て 集 約 さ れ て 表 現 さ れ る 。 と こ ろ で 、 あ の 閉 鎖 的 な 共 同 体 は 、 な ぜ 「世 界 の 終 り 」 とい う名前なのだろうか?

に書かれているのだから、 そ れ は 予 感 と いう よ り も、

の 予 感 が 秘 め ら れ て い る 。 と い う よ り 、 こ の 小 説 は す で に 十 分 に 虚 構 の 時 代 へ と 深 々 と入 っ て し ま っ て い る 段 階 一九八五年 )

、 予 言 の 時 期 に よ ってい く ぶ ん異 な っ て は い る 。

後 に 若 干 言 及 するが

一般に、 少 な か ら ぬ 新 宗 教 が 、 破 局 的 な 終 末 を 予 期 し て い る 。 と り わ け 、 虚 構 の 時 代 の

的 現 象 が 、 終 末 へ の予兆と 解 釈 さ れ て き た 。 あ る い は 、 いくぶん旧い新 宗 教 にお い ても、

第二掌理/の時代/虚解の時代

ことに注 目 し て お か な く て は な ら な い 。 大 和 之 宮

一 九 八一年創立 、 幸 福 の 科 学

一九八

(

等 に お い ては、 と り わ け 終 末 が 切 迫 し た も の と 考 え ら れ て お り 、 多 く の 同 時 代

)

特 に 虚 構 の 時 代 の 開 始 の 前 後 か ら 、 終 末 が 近 い こ と を 予 言 す る も の は多 い

六年創立

(

大 し て い る こ と 、 し か も 、 新 新 宗 教 が 予 期 す る 終 末 は 、 切 迫 の 程 度 が 高 い こと、 こ れ ら の

新 宗 教 、 つ ま り 新 新 宗 教 に お い て、 破 局 的 な 終 末 へ の 危 機 感 を 表 明 す る も の が 圧 倒 的 に 増

Q早 い 段 階 か ら

——

も っ と も そ の 終 末 が ど の 時 点 と し て 確 定 さ れ る か と い う こ と は 、 ——

予 期 さ れ て い る の で は な く 、麻 原 の 予 言 を 通 じ て 、確 定 的 な も の と し て 規 定さ れ て い る 。

い未来において確実に到来するものと、想定している。終末の時は、未来の不定の時点に

す で に 述 べ た よ う に 、 オ ウ ム 真 理 教 は 、 世 界 最 終 戦 争 を 経 由 す る 世 界 の終 末 が 、遠くな

単純な客観的な認識と言うべきものかもしれない。

(

073

)

終 末 を 唱 え て い た 教 団 と し て は 、 統 一 教 会 、 エ ホ バ の証 人 、 真 光 等 が 知 ら れ て い る 。 ある

一九五四年創立

の 桐 山 靖 雄 も 、 一九八 一 年 以 降 、 一 九 九 九 年 に 破 局 が

いは、 麻 原 を は じ め オ ウ ム 真 理 教 団 の 初 期 の メ ン バ ー の 多 く が か つ て 入 っ て い た こ と で 注 目された阿含宗 )

春樹の小説が象徴的な道標を打ち立てた年





で あ り 、 亠咼度成長がすでに終わっているという

(

め い く つ か の 新 宗 教 が 、 終 末 の 予 言 の 根 拠 の一つ (

として、 ノストラダムスの予言に言

想 の 時 代 か ら 虚 構 の 時 代 へ の コ ー ナ ー を 曲 が り き っ た 年 な の で あ る 。 オウム真理教をはじ

こ と を 抗 い よ う も な い 事 実 と し て 人 々 に 自 覚 さ せ た 年 で も あ る 。 要するに、 この年は、 理

)

ヨ ッ ク の 年 に あ た る 一 九 七 三 年 は 、 連 合 赤 軍 の 悲 劇 的 事 件 の 翌 年 そして先に言及した村上

の五島の最初の本が出版された年が一九七三年であった、 ということである。オ イ ル

か ら 降 り て く る 「恐 怖 の 大 王 」 に よ っ て 人 類 は 滅 亡 の 危 機 に 遭 遇 す る 。 注 目 す べ き は 、 こ

人 に 知 ら し め る 結 果 と な っ た 。 周 知 の よ う に 、 こ の 本 に よ る と 、 一九九九年の七の月に空

ラ ダ ム ス 」 と い う ヨ ー ロ ッ パ で は 少 し は 知 ら れ た 十 六 世 紀 の 占 星 術 師 の 名 を 、 多 く の 日本

ラ ダ ム ス の 大 予 言 』 に つ き あ た る 。 五 島 の こ の 本 は 、 ま た こ れ に 続 く 関 連 書 は 、 「ノ ス ト

新 新 宗 教 が 唱 え る 終 末 論 的 な 世 界 観 の プ ー ム の 端 緒 に 遡 る と 、 五 島 勉 の 著 し た 『ノ スト

訪れるとする終末論を唱えてきた。

(

)

及 し て き た 。 ち な み に 、 私 が 直 接 に 話 を 聴 く こ と の で き た オ ウ ム 真 理 教 信 者 の内の二人 の女性信者

(

も 、 小 学 生 の 頃 、 ノ ス ト ラ ダ ム ス の 予 言 に 衝 撃 を 受 け 、 一九九九年には自分 )

074

が何歳になっているかといったことに思いを馳せた、 と告白してくれた。

以上の諸事実に基づいて、 ここでとりあえず確認しておきたいことは、次の諸点である。

世 界 の 終 末を想定しているということは、 オウム真理教に固有の特徴ではない。終末論的

な世界観は、 かなりの数の新新宗教によって共有されている。 それゆえ、終末論が説得力

を も ち え た 社 会 学 的 理 由 を 、 わ れ わ れ は 、 オ ウ ム 真 理 教 に 固 有 の 事 情 に 求 め る べ き ではな

そ れ は 、 「虚 構 の 時 代 」 と こ こ で 名 付 け て き た 社 会 と 意 識 の 編 成 で あ る 。

く 、 新 新 宗 教 を 興 隆 さ せ た 社 会 的 文 脈 の 内 に 探 さ な く て は な ら な い 。 そ の 「社 会 的 文 脈 」 とは何か?

この論点は、終 末 論 の ブ ー ム が 狭 い 意 味 で の 「 宗 教 」 の 領 域 を 越 え た 文 化 的 な 現 象 であ

つた、 と い う こ と を 確 認 す る こ と か ら 、 あ ら た め て 支 持 さ れ る だ ろ う 。 そ も そ も 、 五 島 の

『 大予言』 に端を発するノストラダムス関連書の流行は、何らかの宗教の 直 接 の 信 者 や 支



、 七 〇 年 代 後 半 以 降 の いわゆるサプカル

持 者 の 範 域 を 圧 倒 的 に 越 え た 人 々 の間 で 生 じ た こ と で あ っ た 。 そ れ だ け で は な く 、 —— リ ン 事 件 以 降 多 く の 論 者 が 指 摘 し た こ と だ が ——

をめぐる想像力が、氾濫しているのである。

チ ャ ー の 中 に は 、 終 末 論 に 関 す る 想 像 力 が 、 と り わ け 終 末 に と も な う 最 終 戦 争 あるいは それに類 似 の 戦 争

(

サブカルチャーの終末論的な想像力を示すものとしては、 『 宇 宙 戦 艦 ヤ マ ト 』 松本零士、 )

(

(

(

等 の マンガや ア ニ メ ー シ ョ ン が 代 表 的 な も の で あ ろ う 。 こ れ ら の 作 品 は 、

嘉二掌理観の時代/虚構の時代

り5

)

劇場版一九七七年 、 『 風 の 谷 の ナ ウ シ カ 』 宮 崎 駿 、 一 九 八 四 年 ニ 『ア キ ラ 』 大 友 克 洋 、 一九 八二〜九〇年

)

し ば し ば 、 核 兵 器 を 使 用 し た と 思 わ れ る 世 界 大 戦 ク ラ ス の 戦 争 第三次世界大戦

)

の後の

い う べ き 戦 争 の 過 程 を 描 い て い る 。 へーゲ ル は 、 偶 発 的 な 出 来 事 が 現 実 化 し 、 歴 史 の 中 で

世 界 を 場 面 と し て 設 定 し 、 そ の 上 で 、 マ ン ガ や ア ニ メ ー シ ョ ン の 中 で、 真 の 最 終 戦 争 と も

(

戦 争 は 、 す で に 始 ま っ て い た も の の 反 復 と し て の み 、真に現

承 認 さ れ る の は 、 反 復 に よ っ て で あ る 、 と述 べ て い る 。 ま る で 、 このテーゼに従うかのよ う に 、 マ ン ガ の 中 の 最終 )

先 立 っ て 、矢 作 俊 彦 と の 共 作 で 『 気分はもう戦争』

一九八二年

っている戦争だけが、 歴 史 的 な 意 味 を 獲 得 す る の だ 。



を 描 い て い る 。 もう始ま

比較的新しい作品としては、 『 美 少 女 戦 士 セ ー ラ ー ム ー ン 』 武 内 直 子 、 一九九二年〜

は、 主 人 公 の 戦 士 が 普 通 の 女 子 中 学 生 高 校 生 で あ る と い う 点 で 、 注 目 に 値 す る 。 この作

も 、 最 終 戦 争 的 な 戦 争 を 戦 う 戦 士 を 描 い て い る と 見 る こ と が で き る 。 『セ ー ラ ー ム ー ン 』

)

) (

(

実 化 す る こ と が で き る か の よ う で あ る 。 実 際 、 『ア キ ラ 』 の 作 者 大 友 克 洋 は 、 『ア キ ラ 』 に

(

っ た く な い 。 し か し 、 そ れ に も か か わ ら ず 、 こ の 作 品 は 、 最 終 戦 争 以 外 に も 「オ ウ ム 的 な

品は、 オウム真理教よりも新しいので、 その教義や世界観に影響を与えている可能性はま



ネ ー ム 」 等 。 大 和 之 宮 の 教 祖 安 食 天 恵 彼 女 は 麻 原 彰 晃 と ほ ぼ 同 世 代 —— (

ン』 に 入 っ て い た と し て も 、 何 の 違 和 感 も な か っ た だ ろ う 。

に 降 臨 し た 「テ レ ペ ー ト 様 」 の 次 の よ う な 終 末 を 語 る 言 葉 は 、 た と え ば 『セ ー ラ

三 歳 年 上 ——

要 素 」 を い く つ も 備 え て い る 。 転 生 、 前 世 の 関 係 を 根 拠 に し た 無 意 識 の 連 帯 、 「ホ ー リ — である —ム

l

)



076

「こ の 地 球 は け が れ に け が れ 、 泥 に ま み れ 、 あ り と あ ら ゆ る も の が 破 滅 に 近 づ い て い

る。 私 た ち は こ の 事 実 を 一 人 で も 多 く の 人 に 伝 え た く て 、 遠 く 金 星 よ り や っ て 来 た 。





)

』 49〕 1992

救いを求める人は数しれない。 しかし真実、 この恐ろしい事実を一刻も早く伝えなけ れ ば な ら な い 。 … …」 一九 八 四 年 一 〇 月 一 四 日 島

®

異教徒

は 最 終 戦 争 を 通 じ て 滅 び 、 し か る べ き 人 々 か ら 成 る 「理 想 の 秩 序 を 有 す る 社 会 」

最 終 戦 争 の直 後 に 到 来 す る 終 末 の 時 は 、 一般に、 究 極 の 救 済 の 時 で も あ る 。 罪 深 い 人々

オウム真理教の終末論

しているのである。

新新宗教の終末観とサブカルチャーの終末観は、 明らかに、同 時代的な現象として共振

(

の 帝 王 転輪王

)

に よ っ て 支 配 さ れ た 理 想 社 会 で あ る 。 ま ず 前 提 と し て 、 終 末 の 破 局 への

イ ス ラ ム 教 に よ る 迫 害 の 下 で 仏 教 が ヒ ン ド ウ ー 教 か ら 移 入 し た 観 念 で、 救 世 主 であ る 理 想

オ ウ ム 真 理 教 の 場 合 は 、 救 済 後 の 理 想 社 会 は 「シ ャ ン バ ラ 」 と 呼 ば れ る 。 シ ャ ン バ ラ は

が 建 設 さ れ る の で あ る 。 一般に、 終 末 の 予 想 は 、 救 済 の 希 望 と 結 託 し て い る 。

) (

第二軍理旭の時代/虚構の時代

077

(

予 感 や 予 言 は 最 初 か ら オ ウ ム 真 理 教 あるいは麻原彰晃 )

の観念の内に含まれていた、と

い う こ と を 確 認 し て お か な く て は な ら な い 。 す で に 一 九 八 五 年 に つ ま り 「オウム神仙の

(

会 」 と す ら ま だ 名 乗 っ て お ら ず 、麻 原 を 中 心 と し た ヨ ー ガ の 修 行 集 団 で あ っ た よ う な 段 階 で 、

(

最 終 戦 争 が 前 提 に な る 。 最 終 戦 争 を 通 じ て 生 き 残 り 、 救 済 さ れ る の は 、 日 本 人 の一部

麻 原 は 「シ ャ ン バ ラ 王 国 」 に 言 及 し て い る 。 シ ャ ン バ ラ の 建 設 に は 、 異 教 徒 を 撃 滅 させる

)

)

す る 世 界 の シ ャ ン バ ラ 化 計 画 が 語 ら れ 、 そ の 一 環 と し て 、 「ロ ー タ ス ヴ ィ レ ッ ジ 」 と 名

る 、 と い う こ と が 、 特 に 注 目 さ れ る の で あ る 。 そ れ で も 、 八 八 年 頃 ま で は 、 日 本 を拠点と

社 会 に つ い て の こ れ ら の 構 想 は 内 容 的 に は 非 常 に 貧 困 で 、 具 体 的 な ヴ ィ ジ ョ ン を 欠いてい

合 も 、 通 常 の 終 末 論 と 同 様 に 、 有 し て い る 。 し か し 、 オ ウ ム 真 理 教 に 関 し て 言 え ば 、 未来

こ の よ う に 、 最 終 戦 争 後 の 理 想 社 会 に つ い て の ご く 初 歩 的 な 構 想 を 、 オウム真理教の場

を 中 核 と す る 、神仙民族である。 その指導者もまた、 日本から出ると予言された。

(

付けられたコミューンの建設が企図されていた。 ロ ー タ ス ヴィレッジは、 オ ウ ム の 「 真



に建設されるべき社会については、 具体的な構想がほとんど主題化されることがなくなる

開 に つ れ て 、 急 速 に 縮 退 し て い く 。 終 末 や 最 終 戦 争 に つ い て は 雄 弁 に 語 ら れ る が 、 その後

て い た の だ 。 し か し 、 理 想 社 会 の 内 実 に つ い て の 積 極 的 な イ メ ー ジ は 、 オウム真理教の展

初期の段階においては、未来の共同体を積極的にイメージする比較的明るい展望がもたれ

理」 によって生活や社会秩序が律せられた完璧な共同体になるはずであった。要するに、



078

の だ 。 た と え ば 、 教 団 発 行 の 雑 誌 『マ ハ ー ヤ ー ナ 』 三 一 号

丁九九〇年五月

)

エルタ—」 である。

で麻原が、

即 刻 建 設 す べ き も の と し て 語 っ て い る の は 、 ロ ー タ ス ヴ ィ レ ッ ジ で は な く 「完 璧 な 核 シ

(

の 時 が 切 迫 し た も の に な っ て い く 。 麻 原 は 、 一 九 八 八 年 に 『ヨ ハ ネ 黙 示 録 』 の 研

(

終 末 の 急 迫 化 と ともに、 予 想 さ れ て い る終 末 や 最 終 戦 争 の 悲 劇 的 破 壊 的 な 性 格 も強 ま

て、 サ リ ン 事 件 の 頃 は 、 一 九 九 七 年 に は ハ ル マ ゲ ド ン に 突 入 す る と 考 え ら れ て い た 。

行 っ た 講 演 で は 、 麻 原 は 、 二 〇 〇 〇 年 ま で に ハ ル マ ゲ ド ン が 起 き る と 予 告 し て い る 。 そし

年 、 中 国 の 滅 亡 を 二 〇 〇 四 〜 五 年 と 予 言 し て い る 。 だ が 、 一 九 九 二 年 の 秋 に 各 地 の大 学 で

究 に 取 り 組 み 、 その成果を八九年に著書として公刊したときには、 ソ連の滅亡を二〇〇四

ゲドン

終 末 後 の 社 会 の 構 想 が 貧 困 化 し て い く の に 並 行 し て 、 予 言 さ れ た 終 末 あるいはハルマ



す る か と い う こ と は そ も そ も 問 題 と は な ら ず ——

し た が っ て そ れ を いかに回避

、最終戦争後に選ばれたわずかな人々の

八 九 年 の 著 書 で は 、 最 終 戦 争 が 回 避 不 可 能 な 前 提 と さ れ ——

っていく。 も と も と は、 最 終 戦 争 は 何 と か 回 避 し う る か の よ う に 語 ら れ て い る 。 し か し 、



み が 生 き 残 る と い う こ と が 、 話 題 の 中 心 と な っ て い く 。 も っ と も 、 こ の と き に は 、 オウム

進 匸 995〕 参照 。

(

教団自身が生き残ることに、

教 団 が 、 外 部 の 人 々 の 生 き 残 り に い か に貢 献 し う る か が、 問 わ れ て い る 。 しかし、 やがて、



ハ ル マ ゲ ド ン を 勝 ち 抜 き 、 とりわけ出 家 信 者 を 中 心 とする 重点が移動していく

(

®

)

第二簟瑾您の時代/虚構の時代

079

)

)

そ も そ も 、 オ ウ ム 真 理 教 が 予 期 し て い る終 末 は 、 終 末 論 を 有 す る 他 の 諸 宗 教 の 終 末 の ヴ

イ ジ ヨ ン と 比 較 し て 、 破 滅 的 で あ り 、 要 す る に 「暗 い 」。 最 終 戦 争 の 到 来 は 確 実 で 、 回 避

は、 一995」



一般に終末のヴ ィ ジ ョ ン は 悲 観 と 楽 観 の 両 義 的なバラ

不 可 能 で あ る と 見 な さ れ て お り 、 ま た そ の 後 に 生 存 し う る と 想 定 さ れ て い る 人 口 の 比率も 非常に低い。対 馬 路 人

ンスの上に成り立つものだが、 オウム真理教が描く終末と大本教が描く終末とを比較する

と 、 オ ウ ム の 場 合 に は 、 圧 倒 的 に 悲 観 の 方 に 傾 い て い る こ と が わ か る 、 と 論 じ て いる。

こ の よ う に 概 観 し て み る と 、 次 の よ う に 結 論 せ ざ る を え な い だ ろ う 。 一般には、 終 末 論

言 わ ば 「一 発 逆 転 」 式 に ——

救 済 さ れ る こ と を 期 待 し て い る の では

を表明する者は、 現 状 に 対 し て 何 ら か の 強 い 不 満 を 覚 え て お り 、 現状を覆した後に建設さ れ る 世 界 に お い て ——

ないか、 と 推 測 し た く な る 。 しかし、 オウム真理教においては、 このような常識的な見解

は成り立たない。 オウム真理教においては、無意識の内に真に欲望されているものは、ま

ず 第 一 に 、 世 界 を 全 的 に 否 定 す る 破 局 そ の も の 、 つ ま り 最 終 戦 争 で は な い か 、 こう推測せ

派生的な意味しかもたないかのようなのである。希望をもって待

ざ る を え な い の で あ る 。 も ち ろ ん 、 終 末 後 に は 救 済 が 待 っ て い る の だ が 、 そ れ は 、 終末の 破局に対して第二義的

巴 は、自 動 車 で 移 動 中 麻 原 と 一 緒 に 『 宇 宙 戦 艦 ヤ マ ト 』 の主 一995 〔

題 歌 を 歌 っ た と き の こ と を 語 る 、 オ ウ ム 真 理 教 の 出 家 信 者 の 言 葉 を 伝 え て い る 。 このとき、

程 な の だ 。切 通 理 作

たれていることは、終末後の秩序である以前にまずは、終末へと至る全的な秩序破壊の過



q8o

麻 原 は 、 「ヤ マ ト は 地 球 の 命 運 を 賭 け た 最 後 の 船 、 自 分 た ち み た い だ な あ 」 と 言 っ た と い

う。 ここには、 ハルマゲドンの到来を、 わくわくしながら楽しげに待望している様子が、 うかがえるではないか。

翻って考えてみると、終末論を唱える他の新新宗教においても、あるいはまた終末のヴ

イジョンを描く同時代のサブカルチャーにしても、 オウムほどには明白ではないにせよ、

終末論が真に指向していることは、終末後の完全な秩序よりもまずは、世界そのものを終

末 へ と 導 く 破 局 で は な い か 、 と 問 い た く な る 。 た と え ば 大 友 克 洋 の 『ア キ ラ 』 に お い て は 、

ア キ ラ と い う 名 の 少 年 の 、 世 界 を 破 滅 に 導 き か ね な い 破 壊 的 な 超 能 力 実 は 、先 の 「 第三

次 世 界 大 戦 」 に 使 用 さ れ た 核 兵 器 は こ の 少 年 の 超 能 力 の 発 動 に よ る も の で あ っ たと い う こと、 そ

を封じ込めるために、 そしてまたアキラの超能力を悪用し

してこの事実はごく 一部 の 人 た ち の 間 で 最 高 級 の 秘 密 と し て 隠 さ れ て き た と い う こ と 、 こ れ らの ことが物語の途上で示唆される

公 た ち が 賭 け て い る 積 極 的 な 構 想 や 価 値 は ほ と ん ど 何 も な く ——

つまり主人公たちがどの

、 マンガは、 た だ 戦 争 の 過 程 だ け を 活 き 活 き と 描 く の で あ る 。 つ ま る と こ ろ、 ア

よ う な 社 会 や 共 同 性 を 実 現 し よ う と し て い る の か と いう ヴ ィ ジ ヨンはほとんど明らかにさ れ ず ——

キラの爆発的な超能力による地球の破壊は防 が れ な く て は な ら な い の か も し れ な い が 、 そ

れ に 対 置 さ れ る べ き 積 極 的 な 理 念 は 空 虚 であ り 、 実 際 上 は 、 ア キ ラ を め ぐ る 攻 防 が 、 ア キ

〇母第二章理募.の時代/虚病の時代

(

よ う と す る 者 を 滅 ぼ す た め に 、 主 人 公 た ち は 戦 っ て い る 。 し か し 、 こ の 戦 争 に お い て 主人

)

ラ の 超 能 力 が 発 揮 し た ら 実 現 し た で あ ろ う よ う な 破 局 を 、 擬 態 し て し ま っ て いるのだ

ほ と ん ど あ か ら さ ま に と い う べ き か ——



欲し

こ れ に 比 べ れ ば 、 いくぶん旧 い 『 宇 宙 戦 艦 ヤ マ ト 』 の 場 合 に は 、 守 ら れ る べ き 、 あるい

て い る の は 、 理 想 化 さ れ た 共 同 の 秩 序 で は な く 、 戦 争 そ の も の で あ る と言う べ き であろう。

う で あ る と す れ ば 、 こ の マ ン ガ が 第 一 に ——

Q

ハ ー ロ ッ ク 』 は よ り 顕 著 に ——

社 会 秩 序 で あ る こ と の 、 最 小 限 の 必 要 条 件 で は な い か 。平和を、精神

内 的 な 葛 藤 を も た な い こと

、 ま る で 、 人 類 が 平 和 に 過 ご し て い る こと自 身 を 、 悪

あ る い は 同 じ 松 本 零 士 の 作 品 で 『ヤ マ ト 』 と 相 補 的 な 関 係 に あ る 『 宇 宙 海 賊 キ ャ プテ

は 実 現 さ れ る べ き 積 極 的 で 気 高 い 価 値 が あ る よ う に 見 え る 。 し か し 、 他 方 で、 こ の 作 品 は —— ン

は 、 理想の

いことであるかのように語 る のである。 も と も と 、 平 和 —— )

理 想 の 時 代 の 理 想 ——

と は ま っ た く 異 な っ た も の に な る ら し い 。 それは、 か

っ た よ う な 可 能 世 界 だ か ら で あ る 。 一般に、 立 脚 す る 思 想 や 規 範 が 異 な れ ば 、 異 な っ た 状

つ て だ っ た ら 、 ど の よ う な 思 想 、 イ デ オ ロ ギ ー、 規 範 の 下 で も 、 決 し て 理 想 化 さ れ え な か

っ た 理 想 ——

の で は な い か 、 と い う も の で あ っ た 。 し か し 、虚 構 か ら 反 転 し て き た 理 想 は 、 もともとあ

に 、 そ の 「虚 構 」 は 、 そ れ 自 身 、 「理 想 」 と し て 機 能 す る よ う な も の に ま で 反 転 し て い く

わ れ われの仮説は、虚 構 の 時 代 を 支 配 す る 「 虚 構 」 を 、 極 限 に ま で 純 化 し て いった場 合

る と考 え ざ る を え な い こ と に な ろ う 。

の 好 ま し か ら ざ る 弛 緩 と 結 び 付 け る の で あ れ ば 、 戦 争 と い う 破 壊 過 程 が 、 理 想 化 されてい

(

-



082

態が理想として構想される。 しかし、任 意 の 理 想 に お い て 否 定 的 に 評 価 さ れ るような、 諸

理想の間の最小限の合意があった。 しかし、虚構から反転してきた理想は、 まさにその合

意 を 裏 切 る 。 つまりそれは、 あ ら ゆ る 理 想 の 中 で 一 致 し て 否 定 的 に 評 価 さ れ て き た 状 態 な

のである。 世界そのもの の 全 的 な 否 定 、 全 的 な 破 壊 の 過 程 が 、 理 想 と し て 措 定されている

し た が っ て ま だ 「核 兵 器 」 の 威 力 が 現 実 化

のだから。 しかし、 それにしても、虚構の時代の果てで、極端な否 定 の み が 、 理 想 た りえ た の は 、 一体 ど う し て な の だ ろ う か ?

近 代 的 な 時間

、次のように書いている。

O83第二軍理分の時代/虚構の時代

ボ ー ヴ ォ ワ ー ル は 、 第 二 次 世 界 大 戦 中 に —— す る 前 の 段 階 で ——

人 おのおのは死にますが、 人 類 は 死 ぬ べきではないことを われわれは知ってい

「 人 類 が 消 滅 す る であ ろ う な ど と わ れ わ れ が 断 言 す る の を 、何 も の といえども許しま せん

真 木 悠介 匚 と 時 間 の 比 較 社 会 学 』 の 冒 頭 で、 9〕が 、 ボ ー ヴ ォ ワ ー ル の こ の 言 葉 を 、 『

ま す 。」

©

近 代 社 会 の時 間 意 識 を 代 表 す る も の と し て 分 析 し て い る 。 こ の 言 葉 が 特 定 の規 範 的 な 要 請

や が て 人 類 が 死 滅 す る だ ろ う と 予 想 す る 方 が 現 実 妥 当 性 が 高い

の 下 で し か 発 し え な い も の で あ る と い う こ と は 、 「人 類 は 死 な な い 」 と い う 命 題 に い か な る 実 証 的 根 拠 も な い ——

こ と か ら 明 ら か で あ ろ う 。 真 木 は 、 人 類 の 不 死 と い う こ と は 、 ボ ー ヴ ォ ワ ー ル に とっ

つ ま り 未 来 に お い て ——

の行為が未来にもたらす結果 目的

何 を も た ら す こ と が で き る か に よ って、

は妥当なものであろうか?

こ の 妥 当 性 は 、 ——

、 この第一

を も た ら し う る か 、 に よ って

目 的 と の 相 関 に よ っ て 評 価 す る と い う 態 勢 を 維 持 す る 限 り は ——

段の結果がさらなる未来においてどのような結果 目的

2 )

行為を結果

1 )

評価されるしかないだろう。 もちろん、第二段の結果も、 それが未来にもたらしうるさら

(

H

(

と呼ぶ。 要 す る に 、 行 為 の 価 値 は 目 的 と の 相 関 に よ っ て 決 定 さ れ る の で あ る 。 しかし、 そ

わ れ わ れ は そ の 行 為 を 評 価 す る だ ろ う 。 行 為 が 、 未 来 に も た ら す 状 態 の 意 味 を 、 「目 的 」

る 。 行 為 が 結 果 と し て ——

わ れ が 、通 常、行 為 の 価 値 を ど の よ う に 評 価 す る か 、 ということを想い起こすと理解でき

営 み の す べ て が 、 無 意 味 化 し て し ま う と 、 考 え ら れ て い る か ら で あ る 。 こ の こ と は 、 われ

人 類 の 不 死 を 前 提 に し て お か な く て は 、 あ ら ゆ る 思 想 、 あ ら ゆ る 実 践 、要するに人間の

か?

いる、 と 解 説 し て い る 。 人 類 の 不 死 が ど う し て も 仮 定 さ れ な く て は ならなかったのはなぜ

て、 カ ン ト に と っ て の 「 神 の 存 在 」 や 「霊 魂 の 不 死 」 の よ う な 、 実 践 理 性 の 要 請 に な っ て

-

な る 結 果 目的

によって評価されるしかない。行為の価値がそれ自身に内在するので

と の 相 関 で 評 価 す る こと

のためのものと

、 ど の ような未来において

つまり行為が誰 何

「 時 間 へ の 疎 外 」 と 呼 ぶ 。 と も あ れ 、 行 為 の 価 値 を 未 来 目的 が 意 味 を も つ た め に は 、 行 為 が 準 拠 す る 単 位 が ——

)

れ て い る わ れ わ れ の 社 会 ——

の下では、 あ る 単 位 が 無 限 の 未 来 にまで持 続 し て い る こ

真 木 の 研 究 は そ れ が 「近 代 社 会 」 と 呼 ば れ る 社 会 類 型 に 対 応

は様々であろうが、行 為 の 価 値 を 未 来 におけるその帰 結 に お い て 評 定 す る こ と が 自明視さ

いずれにせよ、 こ こ で 確 認 し て お き た いことは、 次 の こ と で あ る 。 単 位 の 具 体 的 な 内 実

想定する単位をさらに拡張し、 「 地 球 の 生 態 系 」 の全体に求 め る こ と も で き る だ ろ う 。

不 死 の 要 請 を 、 「人類」 と い う 集 合 性 の 水 準 に 求 め た の で あ ろ う 。 今 日 で あ れ ば 、 不 死 を

だ ろ う 。 ただ、 そ れ で は 、 あ ま り に も 不 合 理 で あ る と 感 じ ら れ た の で 、 ボ ー ヴ ォ ワ ー ル は 、

— ルの、 本 当 は 「 人おのおの」 の不死をこそ要請したい、 と い う 密 か な 願 望 を 示している

も か ま わ な い 。 実 際 、 「人 お の お の は 死 に ま す が 」 と い う 留 保 は 、 実 存 主 義 者 ボ ー ヴ ォ ワ

準 拠 と な る 単 位 が 、 「人 類 」 で あ る 必 然 性 は な い 。 そ れ は 、 た と え ば 「個 人 」 で あ っ て

し て 「人 類 」 を 措 定 し た の で あ る 。

も同一 性 を 保 持 し 、 永 続 し て い な く て は な ら な い 。 ボ ー ヴ ォ ワ ー ル は 、 そ の よ う な 単 位 と

し て 選 択 さ れ て い る か と い う と き に 志 向 さ れ て い る 単 位 が ——

( )

(

はなく、 そ れ が 未 来 に も た ら す 結 果 に よ っ て 決 定 さ れ る と す る こ の よ う な 態 度 を 、 真木は

3 )

し て い る こ と を 明 ら か に し た ——

第二簟理笏.の時代/虚構の時代

q85

(

は、

と が 、 必 須 の 前 提 と な る 。 近 代 社 会 に お い ては 、 政 治 も 経 済 も 思 想 も 、 無 限 の 未 来 の 存 在

を 前 提 に し て営 ま れ て い る の だ 。 た と え ば 、 経 済 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 売買

)

コミュニケーションの連

(

自 身 は 永 続 す る こ と を 前 提 に し て な さ れ て い る 。 あるいは、 思想 の 対 立 や 論 争 は、 い

「企 業 お の お の は 倒 産 す る か も し れ な い 」 が 、 少 な く と も 、 市 場 鎖

(

き で は な い 」 と仮 定 す べ き な の で あ る 。

の 中 で 、 機 能 す る 。 今 し 方 見 た よ う に 、 行為

「理 想 」 と い う も の は 、 時 間 に 対 す る こ の よ う な 近 代 的 態 度 —— 未 来 に お け る 結 果 に お い て 評 価 す る 態 度 ——

目 的 は 、 未 来 へ と 向 け て 連 鎖 し て い く 。 「理 想 」 と い う の は 、 こ の よ う な 連 鎖 の

H

壊 が 未 来 の 特 定 時 点 に 到 来 す る こ と を 確 実 視 し 、 それに備えているという意味では

その

)

終結を目的とさえしている。 このような破局的な終末論は、近代的な時間の構成から見れ

(

オ ウ ム 真 理 教 に 即 し て 検 討 し て き た 終 末 論 は 、徹 底 し た 終 結 が 、 っまり世界そのものの破

見てきたように、近代社会は、 決して終わらない時間を要請せざるをえない。 ところが、

「理 想 」 の ゆ え に 、 正 当 化 さ れ る の で あ る 。

終極に置かれている目的にほかならない。 したがって、目的の連鎖の内部の他の諸目的は、

の結果

つまり営みの価値をその

っ て い る と い う 論 拠 を 、 失 っ て し ま う よ う に 見 え る 。 だ か ら 、 ど う し て も 「人 類 は 死 ぬ べ

け ら れ る だ ろ う 。 ど う せ 人 類 が 死 滅 し て し ま う の で あ れ ば 、 こ の 思 想 が あ の 思 想よりも優

ず れ の 思 想 が 、 人 類 の 福 祉 に 、 し た が っ て 人 類 の 存 続 に 有 利 で あ る か に よ っ て 、 決着がつ

)

086

決 し て 終 わ ら な い 時 間 ——

とは正反対の位置に置かれるはずだ。

ば と て つ も な い 倒 錯 で あ る と 言 わ ざ る を え な い 。絶 対 の 終 わ り を 想 定 す る こ のような終末 論 は 、 近 代 的 な 時 間 ——

Q

もちろん、厳密に言えば、 オウムの終末論においても、生 き 延 び る者が想定されている。

選ばれた者たち、神仙民族が、 最終戦争に勝ち抜き生き残るだろう。 しかし、 先に述べた

こ と を 再 確 認 し て お け ば 、 生 き 延 び た 人 々 が ど の よ う な 社 会 を 建 設 す る か、 と い う こ と に

関 す る 具 体 的 な 内 実 は 、非 常 に 希 薄 で あ る 。 重 点 は 、 明 ら か に 、 戦 争 そ の も の に 、 破壊の

を 想 定 せ ざ る を え な い 。 言い

過 程 に 置 か れ て い る 。 もちろ ん 、戦 争 を 予 想 す る 以 上 、 これを 戦 う 者 を、 これに勝利する 者 を 、 そ し て こ の 戦 い に 正 統 性 を 主 張 し う る 者 神仙民族

つ ま り 近 代 的 な 時 間 の 意 識 に つかっ

方 便 であ る か も し れ な い の だ 。

未 来 の 絶 対 的 な 断 絶 を求めな く て は な ら な か

しぱしぱ潜在的な

わ れ わ れ は 、 近代的な時 間 が、永 続 的 な 未 来 を 想 定 せ ざ る を え な い必 然 性 を 見 て お い た

て い る 人 に わ か り や す く 提 示 す る た め の ——

議 論 を 、 近 代 的 な 時 間 の 意 識 に 寄 生 さ せ る た め の ——

随 伴 物 に 過 ぎ な い 。 さ ら に 言 え ば 、 戦 争 を 特 定 の 一 群 の 人 々 の生 存 に 指 向 さ せ る こ と は 、

換えれば、神仙民族の生存は、 さしあたっては、究 極 の 破 局 を 予 定し た こ と の 、論理的な

)

で は 、 な ぜ 、 現 代 の あ る 種 の 新 新 宗 教 は 、 ま た サ プ カ ル チ ャ ー は 、 —— 無 意 識 の 欲 望 の 水 準 に お い て で は あ る が —— つたのだろうか?

087第二第理旭の時代/庫構の時代

(

第二章サリンという身体

毒ガスの恐怖

サリンによって表象されてきた。 •

九四年三月一一日に、

N T T

の専用通信回線を使って全国の支部 道場に向けて流した

か ら サ リ ン 等 を 噴 霧 し て い る ら し い 、 と 。 た と え ば 、 元 信 者 に よ る と 、 麻 原 彰 晃 は 、 一九

たのである。 教 団 は こ ん な ふ う に 主 張 す る 。 彼 ら の 教 団 施 設 に 何 者 か が 侵 入 し 、 その内側

教団の説明によれば、彼らこそが、 サリン等の毒ガスによって継続的に攻撃を受けてき

ていたのは、 サ リ ン を ば ら ま い た と 見 な さ れ て い る そ の 当 の オ ウ ム 教 団 な の だ か ら 。

内に、 わ れ わ れ と 鏡 像 的 に 対 応 す る 現 象 を 見 る こ と が で き る の で あ る 。 サリンを最も恐れ

い く つ も の 「わ れ わ れ 」 と 「オ ウ ム 」 と の 類 比 に 加 え て こ の 点 に 関 し て も 、 オ ウ ム 教 団 の

つ ま り 、 サ リ ン は わ れ わ れ に と っ て 《他 者 》 の 隠 喩 だ っ た 。 と こ ろ で 、 第 一 章 で 指 摘 し た

わ れ わ れ が 恐 怖 し た オ ウ ム と い う 《他 者 》 は 、 毒 ガ ス

で 概 観 し て お い た 、 近 く か つ 遠 い あ の 両 義 的 な 《他 者 》 の 性 質 を 問 う て お こ う 。

前 章 の 最 後 に 設 定 し た 問 題 の 探 究 へ と 直 進 す る 前 に 、 少 し ば か り 迂 回 路 を 通 り 、 第一章

サリンの恐怖

1



090

「強 烈 な 」 説 法 の 中 で 、 「わ れ わ れ は サ リ ン 攻 撃 を 受 け て い る 」 と 言 明 し て い る 。 麻 原 の 説

明 に よ れ ば 、 第 ニ サ テ ィ ア ン 、 第 三 サ テ ィ ア ン 、 第 五 サ テ ィ ア ン と 呼 ば れ て い る 、 上九一

色村の彼らの教団建築物で、 「 毒 ガ ス の 噴 霧 が 検 出 さ れ た 」。 そ し て 麻 原 は 、 彼 の 左 の コ メ

カ ミ の 水 泡 を 、 イ ペ リ ッ ト ガ ス 、 マ ス タ — ド ガ ス と い っ た 糜 爛 性 ガ ス の末 期 症 状 で あ る と

し 、 さ ら に 自 ら の 命 は あ と 一カ 月 し か も た な い か も し れ な い 、 と 述 べ た と い う 高 橋

外 に 対 し て 隠 蔽 す る た め の噓 で あ っ た 可 能 性 が あ る と

も 言 及 し た 、大 型 の 空 気 清 浄 器 が 備 え つ け ら れ て いるのだ。 オ ウ ム 教 団 が サ リ ン を 極 度 に 恐 れ た の は、 な ぜ だ ろ う か ?

誰 かが教団施設にサリンを

検 出 す る 装 置 を も ち 、 そ し て 彼 ら の 建 物 に は 、 彼 ら が 「コ ス モ ク リ ー ナ ー 」 と 呼 ぶ 、 先 に

あ る に も か か わ ら ず 、 空 気 に 関 し て だ け は、 法 外 な 配 慮 が な さ れ て い る 。 教 団 は サ リ ン を

いる。 彼 ら の 施 設 は 、 意 図 的 に か 、 非 意 図 的 に か 、 通 常 の 感 覚 か ら す る と 著 し く 不 衛 生 で

サ リ ン 等 への恐 怖 は 、 も ち ろ ん 、 空 気 を 清 浄 化 し よ う と す る 強 迫 的 な 意 志 と 対 を な し て

があった、ということには注目しなくてはならない。

し て も 、 少 な く と も 、 こ の 「噓 」 が 、 信 者 た ち の 精 神 の 中 で 「事 実 」 と し て 定 着 す る 水 準

的 に は 、 毒 ガ ス の 開 発 を 教 団 の内

教団は、 日本の支部だけではなく、 ロシア支部においても、毒 ガ ス の 検 知 器 を 〔 1996〕)。 入 手 し 、 毒 ガ ス 噴 霧 の 実 態 を 調 査 し よ う と し て いた。 た と え こ れ ら の 行 為 や 言 明 が 、 部 分

(

継 続 的 に ば ら ま い て き た という 、 一見荒唐無稽な説明が、 直 ち に 本 気 に 受 け 取 ら れ た のは、

Q91第三軍サリンという身体



なぜだろうか?

も ち ろ ん 、 サ リ ン を ば ら ま い た と さ れ る の は 、 あ の 《他 者 》 で あ る 。 つ

ま り 、 ユ ダ ヤ 人 や 、 そ れ に 連 な る 米 軍 や 日 本 の 国 家 権 力 で あ る 。 た と え ば 、 教 団 の スポー

ク ス マ ン は 、 サ リ ン 事 件 以 降 何 度 も 、 写 真 を も っ て 、 米 軍 機 が 上 九 一 色 村 の彼 ら の 教 団 施

設 の 上 空 で 奇 妙 な 飛 行 を し て い る と 、 つ ま り 米 軍 機 が 空 か ら サ リ ン を ば ら ま い て いるかも

し れ な い と 主 張 し 、 自 ら こ そ が サ リ ン の 被 害 者 で あ る と ア ピ ー ル し た の だ っ た。 サリンが

教 団 に と っ て 現 実 性 を も っ た の は 、 サ リ ン と い う 物 質 の 特 性 が 、 彼 ら の 陰 謀史観が想定し

て い る 《他 者 》 に 適 切 な 具 体 的 イ メ ー ジ を 与 え 、 こ れ を 首 尾 よ く 形 象 化 し た か ら で は な い

サリンは、 たとえば冷戦下に外国から飛んで来たかもしれな

か、 こ の よ う に 推 測 す る こ と が で き る だ ろ う 。 サリンの特性とは何か?

どことも特

)

場 所 か ら 発 生 し 、 そ し て そうと

(

か っ た 核 兵 器 と は 確 か に 異 な る 恐 怖 を 喚 起 す る 。 核 兵 器 と 違 っ て 、 サ リ ン の 場 合 、 その発

し か し す ぐ 近 く の 内 部 ——

出 の 地 点 を 、 外 部 に 同 定 す る こ と が で き な い か ら だ 。 サ リ ン は 、 即座には 定 す る こ と が で き な い ——

)

このようなガスの特性に由来する。

は 自 覚 す る こ と が で き な い う ち に 身 体 の 内 部 に 侵 入 し 、 充 満 し て し ま う 。 サリンの恐怖は、

(

のみ

を 正 確 に 殺 害 す る 、 と い う 見 地 か ら す る と 、毒 ガ ス 兵 器 は 、 必ずしも有効な

等 の 毒 ガ ス 兵 器 に 必 要 以 上 に 拘 泥 し て い た よ う に 見 え る 。 安全な場所から攻撃の

こ の よ う な サ リ ン を 教 団 は 恐 れ て い た が 、 同 時 に 、 彼 ら は 、 攻 撃 の 武 器 と し て も 、 サリ ンや 標 的

)

V X (

092

武 器 と は い え な い 。 に も か か わ ら ず 、 伝 え ら れ て い る と こ ろ に よ る と 、 「外 敵 」 を 暗 殺 し

よ う と す る と き 、 彼 ら は 毒 ガ ス を 頻 繁 に 使 用 し て い る 。 たとえば、 スパイかもしれないと



疑惑をも た れ た 人 物 、家 族 を オ ウ ム 教 団 に 奪 わ れ た 「 被 害 者 の 会 」 の会長、 他 宗 教 の リ 一

ダ ー 等 を 暗 殺 し よ う と す る と き 、 彼 ら は 、 常 に 毒 ガ ス を 使 用 し た 使用しようとした

)



る何かが表象されていた可能性を、 示唆していないだろうか?

腐海を護るオ

毒 ガ ス へ の 法 外 な 恐 怖 は 、 あ る 有 名 な マ ン ガ あ る い は ア ニ メ ー ション

サ ッ チャ』

への 連 想 を 導 く 。



5

一九九四年一

(

の特集「 戦 慄 の 世 紀 末 大 予 言 」 に お い て も 、 「現 代 の 予 言 者 た ち が 描 く 戦 慄 の 近 未

よ っ て 、 す で に 指 摘 さ れ て い る 。 実 際 、 『ヴ ァ ジ ラ ャ ー ナ 二月



的 な そ れ と の 類 似 性 は 、 オ ウ ム の 「サ ブ カ ル チ ャ ー 」 的 な 文 脈 を 強 調 す る 何 人 か の 論 者 に

二 年 か ら 九 四 年 ま で の 時 間 を か け て 完 成 さ れ た 。 『ナ ウ シ カ 』 の 世 界 観 と オ ウ ム の 「劇 画 」

は 、 一九 八 四 年 で あ る 。 原 作 と な っ た マ ン ガ の 方 は そ の 後 も 書 き 続 け ら れ 、 結 局 、 一九八

宮崎駿の『 風 の 谷 の ナ ウ シ カ 』 で あ る 。 こ の 作 品 の ア ニ メ ー ショ ン版 が 劇 場 公 開 されたの

)

されている。毒ガスへの不合理なまでの拘泥は、毒ガスの内に彼らの宗教性の根幹に触れ

(

ケ イ 原 作 。核 兵 器 を 越 え る 超 •

第三章サリンという身体

093

(

1

来 !」 の 表 題 の も と で 、 『 未 来 少 年 コ ナ ン 』 アレグザンダー (

)

磁 力 兵 器 に よ っ て 地 球 の 半 分 が 消 滅 し た 後 の 世 界 を 描 く 、 「復 活 の 日 」 小 松 左 京 原 作 、 深作欣

し、 南 極 大 陸 の 各 国 隊 員 を 残 し 、 世 界 中 の 人 が 死 滅 し S3

(

た後、 ア メ リ カ 東 部 の 大 地 震 を 核 兵 器 と 誤 認 し て 作 動 し た 自 動 報 復 装 置 が 核 ミ サ イ ル を 発 射 し 世

二監督。 新 型 細 菌 兵 器 が 事 故 に よ っ て 象

)

等 と と も に 、 『ナ ウ シ カ 』 が

界 が 二 度 死 滅 す る 、 『幻 魔 大 戦 』 平 井 和 正 石 ノ 森 章 太 郎 原 作 。 す べ て を 破 壊 し よ う とする幻 •

によって産業文明が崩壊した後の世界を描いている

魔と、 これに超能力で対抗しようとする戦士の間の戦いを描く 挙げられている。 『ナ ウ シ カ 』 は 核 戦 争 最 終 戦 争

Q

(

)

っており、 す べ て の 住 民 に 厚 く 敬 愛 さ れ て い る 。 風 の 谷 は 、 腐 海 の ほ と り に あ る の だ が 、

民たちに深く尊敬されている風の谷の王ジルの娘であり、彼女自身も強いカリスマ性をも

は 、 上 九 一 色 村 や 波 野 村 に お け る オ ウ ム の 擬 制 的 な 「国 家 」 を 思 わ せ る 。 ナ ウ シ カ は 、 住

らしく、独立の王国の体裁を取っている。非常に孤立性の程度の高い、 辺境のこの小王国

る。 風 の 谷 は 、 住 民 同 士 が 親 密 で 村 落 規 模 の 平 和 な 共 同 体 だ が 、 ほ ぼ 自 給 自 足 状 態 に あ る

主 人 公 は 、 「風 の 谷 」 と 呼 ば れ る 小 さ な 共 同 体 に 住 む 、 十 四 、 五 歳 の 少 女 ナ ウ シ カ で あ

ている。地表の多くの部分が、今 や 、腐 海 に 覆 わ れ つ つ あ る 。

各 地 に 散 在 す る 小 さ な 村 や 都 市 、 王 国 は 、 毒 ガ ス 瘴 気 を 発 す る 菌 類 の 森 「腐 海 」 に 囲 ま れ

ン の よ う な 装 置 に 関 し て は 、 過 去 の 「遺 跡 」 を 「発 掘 」 し て 、 そ れ を 流 用 し て い る の だ 。

人 類 は 原 始 的 な 生 活 に 戻 ら ざ る を え ず 、 か つ て の 高 度 な 科 学 技 術 を 失 い 、 飛行機のエンジ

(

)

)

094





海からの風によってかろうじて腐海のガスを避けることができる。腐海の毒ガスの中では

人間は、 通常の状態では長く生きることはできない。 だから、共同体の外に出るときには

マ ス ク を 付 け ざ る を え な い 。 こ の よ う な 設 定 は 、 外 界 に は 毒 ガ ス が 蔓 延 し て お り 、 したが

戦 争 を 軸 に 展 開 し て い く 。 小 国 「風 の 谷 」 と そ の 王 女 ナ ウ シ カ も 、

つまり双方を破滅

っ て 外 界 へ 出 て い く こ と は 危 険 な こ と で あ り 、 彼 ら 自 身 も 毒 ガ ス 攻 撃 を 受 け て い る 、 とす るオウムの了解とよく似ている 切 通 〔 参照二 一995b 〕 物 語 は 、 大 国 ト ル メ キ ア 王 国 と 土 鬼 諸 侯 国 と の 間 の 自 己 破 綻 的 な —— へ と 導 き か ね な い ——

こ の 戦 争 に 巻 き 込 ま れ て い く 。 ナ ウ シ カ は 、 基 本 的 に は 、 ト ル メ キ ア の 不 遇 の 王 女 ク シャ

ナ に 協 力 す る よ う な 形 で 、 参 戦 す る 。 こ の よ う な 構 成 が 端 的 に 示 し て い るよ う に 、 この作

品 も ま た 、 最 終 戦 争 後 の 最 終 戦 争 、 二 度 目 の 真 の 最 終 戦 争 を 扱 っ て い る の で あ る 。 この戦 争 の 過 程 で 、 ナ ウ シ カ は、 「 腐海の秘密」 を知るに至る。

ここで注目しておきたいことは、 ま さ に そ の 「 腐 海 の 秘 密 」 である。腐海は毒ガスの発

生 源 だ が 、物 語 の 展 開 を 通 じ て 、 や が て そ の 腐 海 の 植 物 こ そ が 毒 ガ ス を 浄 化 す る 作 用 をも

っ て い る こ と が 発 見 さ れ る 。 だ か ら 、 腐 海 に は 、 毒 で あ る こ と と 清 浄 で あ る こ と との際ど

い 二 重 性 が 与 え ら れ て い る の だ 。 同 じ 二 重 性 は 、 「メ ー ヴ ェ 」 と 呼 ぱ れ る ハ ン グ ラ イ ダ ー

風と

の よ う な 装 置 で 風 の 中 を 飛 翔 す る ナ ウ シ カ 自 身 に も 転 移 さ れ る 。 「風 」 は 、 明 ら か に ポ ジ

テ ィ ヴ な 表 象 だ が 、 そ の あ り 方 は 、 同 じ 気 体 であ る 毒 ガ ス 瘴 気 と あ ま り 変 わ ら な い

O

第三草サリンという封体

095

(

毒 ガ ス の 通 底 性 は 、 飛 行 機 ガンシップ

が墜落しかけて取り乱している部下たちを安心

)

堂々とメーヴェで飛んでみせる場面で、あからさまに示されている。 人間を襲うネガティヴな怪物であると同時に、他方で毒ガスの清浄器

る と い う 意 味 で は ポ ジ テ ィ ヴ な 要 素 で も あ る 大 型 の 昆 虫 は 、 腐 海 と同 じ 二重 ム

tt

"

て、 ナ ウ シ カ だ け が 、 非 言 語 的 な 直 接 的 感 応 を 通 じ て 、 王 蟲 と コ ミ ュ ニ ケ ー ト す る こ と が

奪 わ れ て し ま っ た と い う 、 ナ ウ シ カ の 幼 い 頃 の 記 憶 が 、 何 度 も 思 い 起 こ さ れ て い る 。 そし

に 守 り 隠 し て い た 王 蟲 の 幼 生 を 、 「蟲 と 人 と は 同 じ 世 界 に 住 め な い 」 と す る 大 人 に よ っ て

成 長 し て し ま う 。 物 語 は 、 王 蟲 と ナ ウ シ カ の 神 秘 的 な 繫 が り を 何 度 も 強 調 し て い る 。 密か

まで成長 す る の だ が 、 通 常 の 昆 虫 の よ う に 変 態 す る こ と が な く 、 幼 虫 の形態を保ったまま

い る 。 こ の 昆 虫 の 名 前 は 「王 蟲 」 で あ る 。 王 蟲 は 、 脱 皮 を 繰 り 返 し て 小 山 ほ ど の 大 き さ に



を体現して

腐 海 を 守ってい

さ せ る た め に、 ナ ウ シ カ が 、 ほ ん の 瞬 間 で は あ る が 腐 海 の 毒 ガ ス の 中 を マ ス ク も 付 け ず に

(

I

極限的な直接性

できる。 ナウシカは何度か王蟲の危機を救い、 そして王蟲もまた何度 も ナ ウ シ カ を 救 う 。

2

096

浮揚する身体

『風 の 谷 の ナ ウ シ カ 』 は 、 風 に の っ て 飛 翔 す る こ と へ の 強 烈 な 憧 れ に 貫 か れ て い る 。 この

憧 れ は 、 オ ウ ム 信 者 の 超 能 力 へ の 願 望 に 通 じ る も の が あ る 。 オ ウ ム の 超 能 力 の 原 点 が 「空

中 浮 揚 座禅を組んだ姿勢のまま身体がフワッと浮き上がる現象 」 で あ っ た と い う こ と が 、

秘 密 の 開 発 法 』 で も 、 ま た オ ウ ム 教 団 が 制 作 し た 『ア ニ メ 超 越 世

こ の 現 実 世 界 に お い て 有 す る 局 所 性 ——

身体が「 今

こ こ 」 にあ る と い う こ と ——

を克服

のか、 と い う こ と を 示 し て い る 。 そ れ は 、 さ し あ た っ て ご く 表 面 的 に 観 察 す れ ば 、 身 体 が

こ の こ と は 、 オ ウ ム に 共 感 し 参 加 す る 者 た ち の 原 初 的 な 欲 望 が 、 ど こ に 向 け ら れ て いる

界 』 でも、 麻 原 が 空 中 浮 揚 の 能 力 を 獲 得 し た 瞬 間 の こ と を 、 冒 頭 で 紹 介 し て い る 。

最初の著書『 超能力

五 年 に 雑 誌 『ム ー 』 に 掲 載 さ れ た 彼 の 空 中 浮 揚 の 写 真 で あ る 。 八 六 年 に 刊 行 さ れ た 麻 原 の

こ の こ と を 示 し て い る だ ろ う 。 麻 原 彰 晃 を 全 国 的 に 有 名 に し た 最 初 の き っ か け は 、 一九八

)

で 還 元 し て い っ た と き に 得 ら れ る 超 能 力 の 原 型 は 、 空 中 浮 揚 に 類 す る も の 、 つまり身 体 の

れ求めていた超能力も多様だろうが、 それら多くの超能力を欲望の最も譲り難い焦点にま

である。 修 行 に よ っ て 得 ら れ る と 宣 伝 さ れ て い る 超 能 力 は 多 様 で あ り 、 ま た 信 者 た ち が 憧

することにあるのだろう。空中浮揚は、 このような欲望の最も原初的で端的な実現の仕方



局所性を克服する技術になるであろうと推測される。

第三簟サリンという身体

097

(

も っ と も 、 空 中 浮 揚 は 局 所 性 の 克 服 の 方 法 と し て は、 ま だ 不 完 全 な も の だ 。 そ れ は 、 ー

つの局所をもう一つの局所へ移動させるだけだからである。方法の完成度をもう少し上げ

れ ば 、 た と え ば 「体 外 離 脱 」 が 導 か れ る 。 体 外 離 脱 と は 、 「意 識 も う 一 っ の 身 体 、 あるい (

は 身 体 の 能 動 性 」 が 「身 体 通 常 の 物 質 的 身 体 」 を 離 脱 し て し ま っ て 現 実 世 界 を 自 由 に

^ ―た と え ば 壁 を 越 え て 遠 隔 地 に —— ——



に ま で 拡 張 さ れ る こ と も あ る 。 こ の と き 、 そ の 身 体 は 「変 化

の枠を越え、可能世界—

移動していくように感覚される体験である。 さらに、

)

局 所 性 を 克 服 し た 身 体 が 遊 動 す る 空 間 が 、 現 実 世 界 現世 廻 の 多 様 な 世 界 六道

)

(

長 距 離 を 瞬 時 に 踏 破 す る 技 術 ——

空間の屈曲を利用して言わば途中を

省 力 す る こ と に よ っ て 結果的には光速を超える速度で

)

局 所 性 を 真 に 克 服 す る た め に は 、 個 体 と い う 身 体 の 粗 大 な ま と ま り が空間を占拠する

身体の微分

は、 『 宇宙戦艦ヤマト』 を通じて、非常に広く知られるようになった。

(

術 で あ る 。 た と え ば 、 「ワ ー プ 」 と 呼 ば れ る 技 術 ——

メーションが描く「 超能力」 の最も素朴な形態も、 しばしば、身体の局所性を克服する技

も っ て 立 ち 現 れ た 姿 で あ る 。 ち な み に 、 オ ウ ム 真 理 教 と 同 時 代 的 に 流 行 し た マ ン ガ や アニ

統」 と呼ばれる。変化身とは、本源的な身体が、輪廻のさまざまな世界に具体的な形象を

)

(

)

(

(

098

状態

を 解 消 し な く て は な ら な い 。 そのためには、 身 体 を ど こ ま で も 微 分 し 、 そのことに

(

身 体 を 微 分 し て い く 修 行 を 徹 底 さ せ て い け ば 、 つ い に は 、 自 ら の 身 体 を 、 皮 膚 的 界面

た信者の教示による二

と で 、 個 体 を 区 画 す る 境 界 の 恣 意 性 を 実 感 さ せ る 効 果 を も っ て い る 私がインタヴューし

うこのごく初歩的な修行は、皮膚的な界面の内側にまで布を入れ腹中の汚れをかき出すこ

えば、細長い清潔な布を口から腹中に入れ、 再び引き出す修行がある。 「 ダ ウ テ ィ 」 とい

ウ ム の 体 系 化 し た 修 行 は 、 身 体 の 個 体 的 な ま と ま り を 解 除 す る こ と を 指 向 し て い る 。 たと

局所に封じ込めら れ て い る と い う こ と の 意 味 は 、次第に減殺されていくだろう。実際 、 才

よ っ て 、 外 界 と の 境 界 を 融 解 さ せ て し ま わ な く て は な ら な い 。 そうすれば、身体が特定の

)

の 内外に開かれた流体や気体 風

として、あるいはエネルギーの波動や光のようなも

(

ガやクンダリニー

ヨー



「ク ン ダ リ ニ ー 」 と 呼 ば れ る 。 ク ン ダ リ

という よ り むしろその典拠となっているラ ー ジ ャ

ヨ ー ガ の 用 語 系 の中 で は ——

は 、 オ ウ ム の 用 語 系 の 中 で は ——

のとして、 実 感 し う る ま で に な る だ ろ う 。 エ ネ ル ギ ー の 波 動 と し て 感 覚 さ れ た 身 体 の 様 態

( )

)

の内 、

に 通 常 は 眠 っ て い る と さ れ る 、 バイオコ

ラ」 も と も と 「 輪 」 と い う 意 味 の サン ス ク リ ッ ト語 で 、身 体 内 に あ る 霊 的 な 中 枢 を 指 す チ ャ ク ラ 尾能骨 (

)

ニ ー と は 、 脊 椎 基 底 部 か ら 頭 頂 に か け て 七 つ な い し 九 つ 存 在 し て い る と さ れ る 「チ ャ ク



最も下にあるムーラダーラ



(

ス ミ ッ ク な エ ネ ル ギ ー で あ る 。 こ の ク ン ダ リ ニ ー を 身 体 の 中 央 部 を 走 る 経 路 ス シュムナ

(

第三章サリンという身体

099

)

—管

に そ っ て 上 昇 さ せ る と ——

-

、猛

を 得 る と と も に 、 と き に は 超 能 力 を 発 現 さ せ る こと

同 時 に 途 中 の チ ャ ク ラ をク ン ダ リ ニーが貫 く と

烈 な 快 感 や 神 秘 体 験 変性意識状態 )

境 界 を も た な い ——

微 細 な 粒 子 の よ う な も の の 動 的 な 集 合 と し て の ——

な 気 体 や 流 体 の波動



気体

が、自

)

となるということは、十分に技術的に可能なことであろう。

)

「 解 脱 」 で あ る 。 オ ウ ム 真 理 教 麻原彰晃

は 、 仏 教 の 「十 二 縁 起 」 に 非 常 に 独 創 的 な 解 釈 )

書いた著作『 生 死 を 越 え る 』 において 、 そ れ は 、 永 沢 哲



が 述べるように、 基本的に 1995〕

(

のプロセスの最終ゴールまで到達したと、 つ ま り

一九八六年七月にヒマラヤで

「最 終 解

ヨーガの深化として統一的に捉えうるものである。麻 原 彰 晃 は 、解脱 •

)

脱 」 の 境 地 を 獲 得 し た と 、 豪 語 し て い た 。 少 な く と も 、 「解 脱 」 と い う こ と が 、 オ ウ ム 信

(

は、 ク ン ダ リ ニ ー

)

を 与 え る こ と で 、 解 脱 の プ ロ セ ス を 何 段 階 か に 分 節 し て い る が たとえば、麻 原 が二番目に

(

当 然 、個 体 の 内 に 閉 じ 込 め ら れ て い た 「 自 我 」 は 粉 砕 さ れ る こ と に な る だ ろ う 。 これが

え、 クンダリニーの境位を実感しうるほどに、自己の身体を融解させるならば、 やがて、

面 」 が 自 意 識 の 座 と 見 な さ れ て い る か ら で あ る 。 こ の 「内 面 」 が 自 我 を 構 成 す る 。 そ れ ゆ

身体が個体としてのまとまりを特権化するのは、個 体 で あ る 限 り に お け る 身 体 の 「 内

(

らの身体と感覚されるまでに至るようである。当事者自身の感 覚 に 対 し て 身 体 が こ の よう

(

リニーそのものが、あるいはより厳密にはクンダリニーによって顕在化された、確定的な

も で き る 、 と さ れ て い る 。 ク ン ダ リ ニ ー が 身 体 の 中 央 の 管 を 貫 い た 場 合 に は 、 そ の クンダ

(

)

ÏOO

者 の 欲 望 の 琴 線 に 触 れ る も の だ っ た よ う に 思 わ れ る 。 た と え ば 、 「省 庁 」 の ト ッ プ に ま で

高校生の頃に初期のオウムの教えに魅かれた

アーナンダこと井上嘉浩は、 「 解 脱 」 と い う 言 葉 が 心 を 捉 え て 離 れ な か っ たことが、

な っ た 幹 部 の 中 で は ず ば ぬ け て 若 か っ た —— —— 入信のきっかけであったと述べている。

こ う し て 、 解 脱 を め ざ す 修 行 を 通 じ て 、 微 細 な 粒 子 や 気 体 の 波 動 、 あ る い は 光 に よ って

構成された身体を体験することができるようになる。 マ ハ ー ケイマと呼ばれた石井久子

彼 女 は 麻 原 の 弟 子 の 模 範 的 な 「モ デ ル 」 と も 呼 ぶ べ き 人 物 で あ り 、 他 の 弟 子 た ち か ら

は 、 た と え ば 、 修 行 で 得 ら れ た 「光 の 体 験 」 厳 密 に 言

ヨー ガ の 成 就 」 と し て 語 ら れ た こ と で あ る

も 深 く 尊 敬 さ れ て い た ら し い —— えば、 こ れ は 「ク ン ダ リ ニ ー うに描写している。

について、次のよ

(

感に浸っていた。

金 色 の 光 が 、 雨 の よ う に 降 り そ そ い で い る 。 そ し て、 そ の 光 の 中 で 、 わ た し は至福

色の光が頭上から眼前にかけて昇った。

「 快感が走る。 震動する。 しびれる。 そして太陽の光のようにまぶしく、 明るい黄金

)

——



この太陽は、 そ の 後 何 回 も 昇 り 、 そ し て 最 後 に 黄 金 色 の 渦 が 下 降 し 、私 の身体を取 り巻 い た 。

第三軍サリンという身体

IOI



こ の と き 、 私 は 光 の 中 に 存 在 し て い た 。 いや、 真 実 の 私 が 光 そ の も の だ っ た の だ 。



二 93-4〕) 988

Î

その空間の中に、 ただ一人私はいた。 ただ一人だが、 すべてを含んでいた。真 の幸福、 真 の 自 由 は 、私の中にあった。真実の 私— そ の と き 、 私 は 光 だ っ た … … 」 麻原

n

テスタンティズムへ受け継がれたキリスト教。 現 在 の

地区に定着していたキリスト教

)

(

の本

「ヘシ

は、 呼 吸 法 な ど を 含 む 独 特 な 身 体 技 法 を 援 用

現 世 へ の 関 心 を ま っ た く 無 化 し 宗 教 的 な 修 行 に 専 念 す る 東 方 キ リ ス ト 教 の 行 者 ——

も通常の日本人にとっては比較的接触の機会が少ない東方キリスト教では、事情が違う。

流においては、 この種の体験が重視された形跡はあまりない。 しかし、同じキリスト教で

E U

し 、 近 代 社 会 の 誕 生 の 最 も 重 要 な 起 爆 剤 と な っ た 西 方 の キ リ ス ト 教 カトリックからプロ

ス ラ ム 神 秘 主 義 の 「光 の 人 」 と 呼 ば れ る 行 者 は 、 自 己 の 身 体 を 光 で あ る と 直 観 す る 。 た だ

似 の 体 験 が 、 究 極 の 境 地 を 示 す も の と 見 な さ れ て き た 。 た と え ば ス ー フ ィ ズ ム のよ う な イ

こ の 種 の 体 験 は 、 実 は 、 オ ウ ム 真 理 教 に 独 特 な も の で は な い。 多 く の 宗 教 に お い て 、 類

(

ユ カ ス ト 静 寂 主 義 者 」 と 呼 ば れ る 行 者 —— )

5

光」 と見なされ、 へ シ ュ カ ス ト は こ れ と 合 一 す る 落 合 〔 二 東方キリスト教 一99二 〕 — 8 の中心は、 も ち ろ ん モ ス ク ワ で あ る 。 ボンやニューヨークではあまり成功しなかったオウ (

した後に、 やがて、石井久子が見たのと似たような光を見るのだという。 そ の 光 は 「 神の

(

0 5

102

ム が 、 ロ シ ア で の み 、 日 本 に お け る よ り も 多 く の 信 者 教 団 の 説 明 だ と 三 万人

を 獲 得 でき

)



志 向 の 展 開 ——

そのような志向が潜在させていた可

として、 おおむね描きだすことができる。また、彼 ら が

素朴な超能力の内に含まれている

以上のように、 オ ウ ム 真 理 教 が 「 解 脱 」 と 呼 ぶ 体 験 は 、 身 体 の 局 所 性 を 克 服 し よ う とす

く培われてきた宗教的伝統と、うまく共振したと考えられるのだ。

た 理 由 の 一 つ を 、 ここから推察できるかもしれない。 オウムの教義や修行が、 この地で長

(

現 実 のよ う な 情 報 的 世 界 に 没 入 す る 前 に 、 ま ず 修 行 や イ ニ シ エ ー シ ョ ン に よ る 身 体 の 状

れ る 身 体 の状相 が あ る の だ と 考 え な く て は 、 オ ウ ム の 信 者 が 、 た と え ば 直 接 に 仮 想

身体的に参与してはいなかったのだ。 一見身体性を解消するような仕方でかえって獲得さ

世界の通常のあり方においては、 身 体 を ほ と ん ど 喪 失 し かかっており、 そこに実質的には

さ れ て い る の は 身 体 か ら の 脱 出 で は な く 、 身 体 の 恢 復 な の だ 。 逆 に 言 え ば 、 彼 ら は 、 現実

準 し て は い る が 、 私 の 考 え では、 そ れ を ま っ た く 反 対 方 向 か ら 眺 め て し ま っ て い る 。 目指

の志向として捉える論者がいる。 このような把握は、彼らの実践や教義の肝心な部分に照

体 の 局 所 性 を 克 服 し よ う と す る オ ウ ム の 本 源 的 な 欲 望 を 、 「脱 身 体 化 」 や 「 身体の情報化」

に 捉 え ら れ て い る と き に 、 「心 」 が ど の よ う な 過 程 を た ど る か を 理 解 す る こ と で あ る 。 身

「悟 り 」 と 呼 ぶ の は 、 逆 に 身 体 の 局 所 性 が 克 服 さ れ て い な い と き に 、 つ ま り 日 常 の 「 自我」

能 性 を 徹 底 し て 引 き 出 す こ と ——

)

態変化に強い関心を示した理由を理解することはできないだろう。

第三寧サリンという身体

103

(

実 際 、 彼 ら の 宇 宙 論 を 、 身 体 の状 態 と の 関 係 で 整 理 す る こ と が で き る 。 そ れ に よ る と 、

の分節化

の萌 芽

(

が付加されると、 アストラル界

宇 宙 は 三 つ の 世 界 か ら 構 成 さ れ て い る 。 基 底 部 に は 、 微 細 な 波 動 の み か ら な る コーザ ル 界 が あ る 。 そ こ に 、 形 状 ゲシュタルト )

)

で 、 チ ベ ッ ト 仏 教 は 、 中 沢 新 一 と 彼 の グ ル ラマ

であるケツ ン

サンポとの共 著 『 虹の .

こ の テ キ ス ト は 麻 原 や 熱 心 な オ ウ ム 信 者 に 絶 大 な 影 響 を 与 え た と言われている

)

を 、 三 つ の 様 態 に 分 け る 。 ま ず 、 意 識 に よ って措定されるあ

)

階 梯 』 ——

(

象 界 に な る 。 こ の 宇 宙 の 三 層 構 造 は 、 お そ ら く 、 ヨ ー ロ ッ パ 神 智 学 の 影 響 で あ る 。 ところ

になる。 さ ら に 、 そ の 形 状 へ の 物 質 的 な 欲 望 や 執 着 が 付 加され、 それが固定化され る と現

(

に よ る と 、 身 体 仏身 (



変 化 身 で あ る 。中 沢



である。

個 康 と し て の 纏 ま り を も っ て 現 象 す る の が、

自身も述べるように、 コーザル界を法身に相関す 1995 〕

さ ら に 、 こ こ か ら 輪廻のあらゆる局面で 応

)

「個 人

)

(

一990 〕 〔 一992。 〔

)

報 身 丄 法 身 と 下 降 し て く る 線 の 延 長 上 に 、 オ ウ ム が 目 指 す 究 極 の 境 地 であ る ニル

としての身体 」 と 見 な す こ と も で き る だ ろ う 大 澤

応身

1

(

ラ フ に 付 け て お け ば 、 法 身 を 「原 身 体 的 平 面 」、 報 身 を 「過 程 身 体 」、 そ し て 「 応身」を

ぼ対応させることができる。私 が 『 身体の比較社会学』 で描いた身体の諸水準との対応を

る世界、 アストラル界を報身に相関する世界、 そして現象界を応身に相関する世界と、ほ

H

(

に生 起 す る 差 異 の 戯 れ に よ っ て 、 不 確 定 的 な も の と し て 浮 上 す る の が 、 報 身

ら ゆ る 同 一 性 か ら 、 し た が っ て あ ら ゆ る 分 節 化 か ら 逃 れ た 身 体 が 、 法 身 であ る 。 そ の 上

-

1〇4

ヴ ァ ー ナ ダルマダーッ

が待っている。 このような極限においては、少なくとも理論上

は、身 体 は 外 囲 の 環 境 と 融 即 し て い る よ う な 状 態 に 到 達 し て い る こ と に な る 。 この極限は

規 範 化 さ れ た 意 味 の 体 系 か ら 、 つ ま り 文 化 性 の 諸 水 準 か ら 離 脱 し た 〈自 然 〉 そ の も の であ

る と 言 わ な く て は な ら な い 。 解 脱 は 、 〈身 体 〉 が 〈自 然 〉 と 等 置 さ れ る 水 準 へ の 遡 行 で あ

る と 見 な す こ と が で き る こ と に な る 。 私 が イ ン タ ヴ ュ ー し た あ る 熱 心 な 在 家 信 者 が 、 まる

で 工 場 の よ う な 上 九 一 色 村 の 教 団 施 設 こ そ が 究 極 の 自 然 主 義 と エ コ ロ ジ ス ム を 体 現 してい

〈自 然 〉 で あ る よ う な 境 地 は 、 いか

それを理解するためには、彼らが獲得を志向

る の だ 、 と 論 じ た の が 印 象 的 で あ る 。 だ が 〈身 体 〉

身 体 の 「ここ」 性 と 「そこ」 性

る 「秘 儀 」 を 弟 子 た ち に 伝 授 す る 儀 式 で あ る 。

る。 イ ニ シ ェ ー シ ョ ン と は 、 オ ウ ム 真 理 教 で は 、 宗 教 的 指 導 者 で あ る 麻 原 彰 晃 の み が 有 す

ニ シ ェ ー シ ョ ン 」 と 呼 ん だ 、 修 行 と並 ぶ も う 一 つ の 身 体 の 状 態 変 化 の 体 験 と 結 び つ い て い

し た 身 体 の 対 他 的 な 関 係 性 の 次 元 を 、 考 慮 に 入 れ な く て は な ら な い 。 そ れ は 、 彼 ら が 「イ

にして到達可能だと考えられていたのか?

U

周囲から遮断された、 窓 の な い 真 っ 暗 な 部 屋 で 長 時 間こ も り っ き り に な って瞑想する修

嘉三車サリンという身体

105

)

行 、 つ ま り 独 房 修 行 を 、 解 脱 への ス テ ッ プ に 取 り 入 れ た と こ ろ は 、 オ ウ ム 真 理 教 の 完 全 に



(

コンテナ

ユ ニ ー ク な 特 徴 だ と 指 摘 さ れ て い る 永 沢 口 995 : 230ニ サ リ ン 事 件 以 降 の マ ス コ ミ の報 〕 に入れられることが、信者に対する一種の制裁としての意

道の中では、独 房 )

(

な 工 学 的 な 配 備 の も と に あ る 独 房 監獄

フーコーは、 独特



を、近代的な権力の形象化ととらえていた。あ

)

フ ー コ ー が 描 写 し た 独 房 パノプティコン

と は 、 ま っ た く 逆 の 効 果 を も た ら す のだ。 )

の反対側に麻原彰晃を見つける。 二人は、 「 尊 師 !」 と 麻 原 に 呼 び か け 、 彼 を 追 う の だ が 、

超越世界』 には次のような場面がある。 オウム信者の若い男女が街を歩いていると、道路

も 適 合 的 な の が 、 体 外 離 脱 の 場 合 で あ る 。 オ ウ ム 教 団 が 制 作 し た ア ニ メ ー シ ョ ン 『ア ニ メ

「そ こ 」 に あ る と で も 表 現 す る ほ か な い よ う な 状 態 を 可 能 に す る 。 こ の よ う な 言 い 方 に 最

「こ こ 」 性 の 克 服 を 核 に お く も の だ っ た 。 言 い 換 え れ ば 、 身 体 が 「こ こ 」 に あ り 、 かつ

う な も の に ま で 変 容 さ せ る こ と を 志 向 し て い る 。 そ れ は 、 身 体 の 局 所 性 の 、 つ ま り身 体 の

見 て き た よ う に 、 オ ウ ム の 修 行 は 、 身 体 を 流 体 や 気 体 、 あ る い は エ ネ ル ギ ー の波動のよ

(

閉鎖において、 かえって他者へと開かれていくような構成を備えているのである。 それは、

他 方 、 オウムの独房にはまったく穴がない。 オウムの修行は、 しかし、 このような完全な

こ れ に よ って、 身 体 は 、 個 人 の 水 準 に お い て 閉 じ ら れ 、 自 律 し た 主 体 と し て 成 形 さ れ る 。

の 独 房 に は 、 光 に つ い て の緻 密 な 配 慮 に 基 づ い た 窓 が 穿 た れ て い る 。 フ ー コ ー に よ れ ば 、

(

な意味づけはまったくなかった。 よく知られているように、ミ シ ェ ル

味 を 担 っ て い た と い う こ と が 強 調 さ れ た が 、 も と も と は 、 独 房 に こ も る ことに、 このよう

(

io6

麻原は返事をせず、 また二人が追えば追うほど、 不思議なことに、麻 原 は か え っ て 遠ざ か

っ て いく。 そ の 直 後 、 教 団 の 道 場 に 戻 っ た 二 人 は 、 そ こ に い る は ず の な い 麻 原 を 見 出 し て

びっくりして、事の顚末を彼に説明すると、麻 原 は 、自分は今まで体外 離 脱 を し て い た か

ら、 二 人 が 見 た の は 体 外 離 脱 し た 彼 の も う 一 つ の 身 体 な の だ ろ う 、 と 説 明 す る 。 こ の と き 、

麻 原 の 身 体 は 、 「こ こ 道 場 」 に あ り つ つ 、 遠 隔 の 「そ こ 街 」 に も あ る わ け だ 。 体 外 離

に視認され

による体外離脱に

脱 し た も う 一 つ の 身 体 が 、 こ の ア ニ メ の 場 合 の よ う に 、 第 三 者 二人の信者

( )

う る か ど う か は と も か く と し て 、 さ ま ざ ま な 理 由 たとえば臨死体験

)

)

)

と い う こ と を 示 し て い る。 だ が 、 身 体 の 「そ こ 」 性 と は 何 か ?

そ れ は 、 通 常 「こ こ 」 に所 属 す る こ と に お い て 身 体 の 自 己 性 の 根 拠 と な

が 、 「そ

類 推 や感 情 移 入 の よ う

固有 の 身 体としてたち 現 れ る 場 所である。 要 す る に 、 そ れ は、

他者の身体がたち現れる場所なのである。

かし「 自 己 」 と 同 権 的 な ——



Qそ れ ゆ え 、 「そ

っ て い る よ う な 、 身 体 の 志 向 的 な 作 用 知覚や感覚をは じめと す る 任 意 の 心 の 働 き 他所にも帰属したものとして現出する、 という ことを意味しよう

)

こ」 は 、 分 節 化 さ れ そ れ 自 身 が 個 体 と し て 凝 結 し た と き に は 、 「自 己 」 と は 異 な る ——

こ」

(

ういう ことか?

「こ こ 」 に あ る 身 体 が 「そ こ 」 に も あ る 、 と は ど

つ い て の 豊 富 な 報 告 は 、 当 事 者 自 身 に と っ て は 、 こ の 種 の 身 体 の 分 裂 の 感 覚 が 出 現 し うる

(

(

(

繰 り 返 せ ば 、 志 向 作 用 の 帰 属 が 直 接 に 直 観 で き る と い う こ と ——

第三学サリンという身体

107

H

者 の 場 所 に お い て ——

充足されることである

逆 に 言 い 換 え れ ば 、 修 行 に お い て目 指 さ れ



修 行 におい

な 二 次 的 な 操 作 を 経 る こ と な く 、 こ れ が 「見 た り 、 感 じ た り し て い る 」 と い う こ と が 自 明

で あ る と い う こ と 一 は 、 「自 己 」 と い う こ と の 定 義 を 構 成 す る 条 件 で あ る

Q

「 視 野 」 と 同 等 な も う 一 つ の 「視 野 」 の 帰 属 点 で あ る こ と の 確 証 を 得 る こ と は で き な い

異なる視野を帰属させうる身体であるということ

-

は、 こ の 自

内に対象化されている限りは、決して得られないのだ。 したがって、自己と同権的な他者

要 す る に 、 あ れ が 通 常 の 事 物 と 異 な り 、 固 有 の 心 を 帰 属 さ せ て い る こ と の 確 証 は、 視野の

Q

部 に 捉 え ら れ る 要 素 に 対 し て は 、 ま さ に そ れ が 内 的 な 要 素 で あ る が ゆ え に 、 決 し て 、 この

「不 可 能 な 遠 さ 」 に あ る と 言 わ な く て は な ら な い 。 自 己 は 、 自 ら に 帰 属 す る 「 視 野 」 の内

「も う 一 つ の 自 己 」 た る 他 者 の 条 件 は 、 自 己 に 帰 属 す る 直 接 の 志 向 作 用 の 「視 野 」 か ら の

自己ということの最小限の定義が、今述べたことにあるとするならば、自己と同権的な

ていたことは、他 者 の 他 者 たるゆえんを、自 己 の 上 に 実 現 し 、 両 者 を 圧 縮 す ることなのだ。

Q

て 獲 得 が 目 指 さ れ て い る の は 、 だ か ら 、 こ の 自 己 を 定 義 す る 条 件 が 、 他 所 に お い て ——

^

(

視 野 か ら は 到 達 で き な い と い う こ と 、 こ の 視 野 か ら 逃 れ て し ま う と い う こ と 、 によ

であるということ 己の

-

は、極 限 の 近 さ 志向作用の直接性 (

)

と 極 限 の 遠 さ と の 同 一 性 を 意 味 す る か ら であ る 。 も

し た が っ て 、 他 者 性 と 自 己 性 を 圧 縮 す る と い う こ と は 、 非 常 に 奇 妙 な こ と で あ る 。 それ

ってこそ定義されなくてはならない。

)

ïoS

し そ う で あ る と す れ ば 、 こ こ で 、 わ れ わ れ は 、 先 に 《他 者 》 と 表 記 し た こ と の 形 式 的 な 条

件 が 、 す で に 満 た さ れ て い る こ と が わ か る 。 し か し な が ら 、 こ こ で は ま だ 、 他 者 に 、 自己

の存在を否定する「 敵 」 と し て の 性 質 は 付 与 さ れ て は い な い 。 こ の よ う な 他 者 を 〈他 者 〉

と 表 記 し て お こ う 。 〈他 者 〉 と は 、 自 己 で あ る こ と の 条 件 そ の も の に よ っ て 定 義 さ れ る 他

者 、自 己 性 を 構 成 す る 契 機 が 他 所 に お い て 現 れ る こ と に よ っ て 現 出 す る 他 者 で あ る 。

と り あ え ず 、 こ こ で は 、 次 の 諸 点 を 指 摘 し て お こ う 。 第 一 に 、 〈他 者 〉 は 、 共 同 体 の ど

のような共同主観化された規範によっても、決して、妥当なものとして承認さ れ る ことが

それなしでは、 「 責任を帰属させる」 と い うことが不可能になってしまうのだから 、 自 己

な い 経 験 と な る は ず だ 。 規 範 の 適 用 は 、 身 体 の 最 小 限 の 自 己 同 一 性 を 前 提 に し て い る はず だが

性 が 他 者 性 へと通底す る よ う な 関 係 性 に お い て は 、 身 体 は ど こ ま で も 差 異 へ と 解 体 し 、 決

)

を、

が存 在し ているという 事 実 を 自 明 の こ と と して生 き て い

して自己同 一 性 を 確 保 す る こ と が な いか ら である。 し か し な が ら、 そ れ に も か か わ ら ず、 第 二 に 、 わ れ わ れ が 他 者 他人

Q

)

)

る の だ と す れ ば 、 わ れ わ れ 自 身 も 皆 、 そ の 〈他 者 〉 と い う 境 位 自 己 性 と 他 者 性 の圧 縮 (

(

そ う と 自 覚 す る こ と な く 実 践 の上 で は 前 提 に し て い る は ず で あ る

第三章サリンという身体

109

(

極限的に直接的なコミュニケーション

あ る い は 、 自 己 である

したが っ て 、身 体 を ク ン ダ リ ニー の境位にまで変 容 さ せ る な ら ば 、自己でありつつ他者 に 内 在 し て い る こ と を 、 つ ま り 〈他 者 〉 を 実 感 で き る に 違 い な い

さ れ て い た よ う に 見 え る の で あ る 。 こ の よ う な 自 己 の 他 者 へ の あ る い は 他 者 の 自 己 への

様相を呈するだろう。通常のコミュニケーションにおいては、 発信者と受信者は相互に外

内 在 は 、通 常 の コミュニケーションを否定する、極 限 的 に 直 接 的 な コミュニケーションの

)

ことと 他 者 で あ る こ と の 圧 縮 を 技 術 的 に 触 発 す る こ と に よ っ て 、 「 解 脱 」 への歩みが促進

Q (

に 媒 介 さ れ る こ と で 、 は じ め て 実 現 可 能 と な る 。 それに対し

在 し て お り 、 そ れ ゆ え 、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン は 、 共 有 さ れ て い る 第 三 項 に あ た る 、 言語の よ う な 記 号 の 体 系 コード )

に直接に感応

共鳴することによって得られる、 コミュニケーションの様態である。

(

ようなコミュニケーションの極限的な直接性がある。修行によって獲得されると麻原彰晃



を 経 由 せ ず に 、 そ し て と き に は 時 空 的 な 距 離 す ら も 越 え て 、 〈他 者 〉 の 身 体 の 志 向 的 な 作

直 接 性 と は 、自 我 と し て の 同 一 性 の 意 識 に 訴 え る こ と な く 、 し た が っ て 言 語 と い う 媒 介

介 を 必 要 と し な い コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン で あ る 。 す な わ ち 、 コミュニケーションの極限的な

て 、 こ こ で 私 が 「極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 」 と 呼 ん だ の は 、 こ の 第 三 項 の 媒

(

H

実 際 、 オ ウ ム が そ の 修 行 に よ っ て 獲 得 し よ う と す る 身 体 技 法 の 到 達 点 に は 、 まさにこの

)

110

、 い わ ゆ る 「テ レ パ シ ー 」

最も重要な超能力と

が 説 く 超 能 力 は 、 「非 常 に 遠 く の も の が 見 え る 能 力 遠 隔 透 視 」、 「空 中 歩 行 」、 「霊 治 療 」 )

等 多 様 だ が 、 そ の 多 く は 、 「他 心 通 相 手 の 心 を 直 接 に 読 む 」 等 —— さ れ る 「漏 尽 通 相 手 の 迷 い の 程 度 を 見 抜 く 能 力 」 を 含 め て ——

)

(

で あ ろ う と す る 弟 子 た ち の 身 体 の 「そ こ 」 性 を

束 ね 、 統 括 し て い る のだ。 まず修行によっ

逆 に 弟 子 たちの身 体 を麻原自身にとつ

て の 「そ こ 」 と し て 捉 え 返 す こ と に よ っ て ——

の 身 体 で あ る 。 も う 少 し 精 密 に 言 い 換 え れ ば 、 麻 原 の 身 体 は 、 「こ こ 」 で あ り か つ 「そ こ 」

このような極限的な直接性において交流する身体の関係性の焦点にあるのが、麻原彰晃

— ション」 と呼んだ関係性に属している。

を 思 わ せ る も の で あ る 。 そ れ は 、 言 う ま で も な く 、 こ こ で 「極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ

)

(

て 自 己 の 身 体 の 内 に 自 己 の 同 一 性 に 解 消 で き な い 過 剰 性 こ こ で 身 体 の 「そ こ 」 性 と 呼 ん だもの

(

穴 と し て 設 定 す る こ と で 、 弟 子 た ち の 身 体 の内 的 な 過

を 生 み 出 し 、 そ の 過 剰 性 を 麻 原 の 身 体 へ と 収 束 さ せ る の で あ る 。 あ る い は 、麻 原

の 身 体 を 過 剰 性 が 吸 引 されていく

)

い て 出 会 う 、 す で に 解 脱 し た 身 体 な の だ 。 す で に 解 脱 し て い る 者 と し て 他 者 に 実感され

麻 原 の 身 体 は 、 解 脱 を 志 向 す る 任 意 の 身 体 が 、 極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン にお

剰性を引 き 出 し て い る 、 と 言 う べ きかもしれない。 要 す る に 、 オ ウ ム教団の内 にあって、

(

)

Q石 井 は 、 独 房 修

る 身 体 は 、 一 種 の 触 媒 と し て の 機 能 を 果 た し 、 他 者 の解 脱 を 誘 発 す る の で あ る 。

(

先 に 、 石 井 久 子 の 「光 の体 験 」 に つ い て の自 己 記 述 を 引 用 し て お い た

ni第三章サリンという身体

(

-

)

行 の 中 で こ の 体 験 に 遭 遇 す る 。 こ の 体 験 に 先 立 っ て 、 石 井 は 、 麻 原 か ら 「解 脱 は 近 い 」 と

い う 暗 示 を 受 け て い る 。 石 井 は 、 自 ら が 見 た 光 の 渦 の こ と を 「想 念 の 渦 と い う 感 じ 」 とも

表 現 し て い る 。 彼 女 が 見 、 そ し て 自 ら を そ れ と 等 置 す る に 至 っ た こ の 「光 」 こ そ が 、 自 己

が そ こ へ と 内 在 し て い た 〈他 者 〉 の 形 象 で あ ろ う 「そ の と き 、 私 は 光 だ っ た 」 。 〈他 者 〉 と

)

自 己 以 外 のものであ る こと、自 己 以 上 の も の で あ る こ と を 保 証 する。 石井の体験を、東方

は 、 も ち ろ ん 自 己 の 否 定 で あ る 。 そ れ ゆ え 、 〈他 者 〉 の自 己 へ の 重 な り は 、 自 己 が ま さ に

(

あ る い は 自 ら に内在してくる

光を、特権的な他者、無 限者、要するに神として体

キ リ ス ト 教 の 行 者 へ シ ュ カ ス ト の 体 験 と 比 較 し て お い た 。 へシュカストは、 自らが内在し ていく

)



の 内 在 を 直 観 す る こ と を 通 じ て 、自己の身体の内に他者性一般への通路が開削され

代理人として現れることによって、したがって、とりあえずまさにその具体的な他者

て は 、 困 難 な こ と で あ ろ う 。 あ る 具 体 的 な 他 者 が 、 自 己 の 内 に 浸 食 し う る 〈他 者 〉 一般の

だが、他者性の自己への内在を体験することは、 通常は、具体的な他者に媒介されなく

るような無限性への通路が開かれているのが直観されるからであろう。

験 す る 。 〈他 者 〉 が 自 己 に 重 な る こ と で 、 自 己 に 、 ま さ に 「自 己 以 上 の 」 と 特 徴 づ け ら れ

(

の 階 飴 一 に も 書 か れ て い る よ う に 、 チ ベ ッ ト 仏 教 に お い て は 、 ラ マ グル (

)

に 懐 疑 なしに

晃 で あ る 。 麻 原 の 身 体 が 、 解 脱 へ の 「触 媒 」 で あ っ た 、 と い う の は こ の 意 味 で あ る 。 『 虹

る の で あ る 。 オ ウ ム の 場 合 、 そ の 具 体 的 な 他 者 の 機 能 を 果 た し た の が 、も ち ろ ん 、麻原彰

( )

ER®

帰 依 し 、 ラマの心と一体化することを、究極の境地に到達するための最も重要な修行とし

て位置づけている。化学反応の促進剤である触媒は、 その化学反応にとって、 理論上は不

可欠ではないが、 しかし、事実上は、触媒なしには、化学反応はほとんど絶対に生起しな

い。 同 様 に 、 ラ マ な し に 「 解脱」することは、事実上は、 ほとんどありえない。解脱は、

先に述べたように「 自 我 」 を 無 化 す る こ と を 前 提 に す る か ら 、 「自 我 」 に 帰 属 さ せ う る 一

切の判断を停止し、自らを空虚な器へと変形させることを必要条件とする。頼れる何者も

なしに、自身をただ空虚にすることは、絶望的なほどに難しいだろう。逆に、絶対的に信

頼 し う る 他 者 が い る な ら ば 、 一 切 の 判 断 を そ の 他 者 に 委 ね る こ と が 可 能 な ら ば 、 さしあた って、 比 較 的 容 易 に 、 「 自我」を空虚化することができるに違いない。

シ ャ ク テ ィ パット



麻 原 の身 体 と の 極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 技 法 化 し た も の が 、 彼 ら の 言 う

イ ニ シ ェー シ ョ ン で あ る 。 そ し て 、 あ ら ゆ る イ ニシ ェ ー シ ョ ン の 原 型 は 、 シ ャ ク テ ィ

眼 」 に師 が 親 指 を あ て 、 自 ら の 霊 的 な エネ ル ギ ー を 注 ぎ 込 む イ ニ シ ェ ー シ ョ ン で あ る

Q麻

ッ ト と い う 技 術 で あ る 。 シ ャ ク テ ィ 。パ ッ ト と は 、 両 目 と 額 の 中 間 に あ る 弟 子 の 「第 三 の



原 は 、 シ ャ ク テ イ 。パ ッ ト に つ い て 「私 自 身 が 自 分 で 〃 こ れ だ ” と 思 っ て い る 超 能 力 」 で

第三章サリンヒいう身体

i13



あ り 、 「日 本 で こ れ が で き る の は お そ ら く 私 一 人 だ け だ ろ う 」 と 自 負 し て い る 。 弟 子 た ち

パットを受けた者から私自身が直接に聞いたこと、

の 証 言 か ら 判 断 す る と 、 麻 原 は 、 実 際 に 、 こ の 技 術 に 関 し て 非 常 に 優 秀 だ っ た と考 え て 間 違いないだろう。麻 原 の シ ャ ク テ ィ



パ ッ ト の 効 果 は 、 事 後 身 体 が 軽 く な っ た り さ っ ぱ り す る な ど と い っ た 単 純 な マッサー

そ し て オ ウ ム が 自 ら 出 版 物 を 通 じ て 公 表 し て い る こ と か ら 総 合 的 に 判 断 す れ ば 、 シャクテ



パットは、永 沢 哲



が論じているように、第三者の眼から見れば、 1995 〕 〔

「 良い」状 態 で 振 動 し て い る 身 体 師

に、 他 者 の 身 体 弟 子 (

を 、 「引 き 込 み 」 の 原 理 に )

転 送 さ れ 、 そ の こ と に よ っ て 弟 子 自 身 の エ ネ ル ギ ー クンダリニー 解されるのだ。

が活性化した」と了

パ ッ ト は 、師 に と っ て は 異 様 な 消 耗 を と も な う ら し く 、 本 来 は 、 頻 繁 に 行

)

ってはならないことになっている。 しかし麻原は、 一時に数百 人 も の 相 手 に シ ャ ク テ ィ



パ ッ ト を 施 し 、 疲 弊 し 、 つ い に は 倒 れ て し ま っ た こ と も あ っ た と い う 。 私 が 話 を 聴 く こと



シャクティ

(

よ っ て 共 鳴 さ せ る の で あ る 。 こ の 共 鳴 現 象 が 、 当 事 者 に は 、 「師 の エ ネ ル ギ ー が 弟 子 へ と

( )

波 動 と 化 し た 身 体 の 間 の 共 鳴 現 象 の 一 種 で あ る と 解 す る こ と が で き る 。 す な わ ち、 すでに

シャクティ

ある。 が、 ともかく、 それが心身に効果を与えることは確実である。

物の好みや思想的な傾向が変化してしまうといったものまで、 その大きさには非常な幅が

ジの効果に属するものから、途 中 で 神 秘 的 な ヴ ィ ジ ョ ン を 見 た り 、 さらには事後ずっと食



工工4

は、 師 の こ の 壮 絶 な 姿 に 強 い 感 銘 を 覚 え

パ ッ ト は 、 師 を 消 耗 さ せ る だ け で は な く 、 師の

が で き た 古 く か ら の 信 者 ただし八九年には脱会 た、 と話してくれた。 さ ら に シ ャ ク テ ィ

)

連 続 的 な シ ャ ク テ ィ パットは、 この残留物を昇華させるいとまを師に与えない。

の 振 動 に同 調 す る だ け で は な く 、 逆 方 向 の 同 調 も い く ぶ ん か 生 ず る か ら だ ろ う 。 あ ま り に

身体の内に負の重々しい感覚を残留させるのだという。 おそらく、弟 子 の 身 体 が 師 の身体



(

パットが実現しようとした極限 的 に 直 接的なコミュニケーションの代替物であったこ

あった身体論や修行には相当な合理性と実践可能性があったと、 言わざるを えない。

と は 、 間 違 い な い 。 こ の よ う な 代 替 関 係 が 適 切 で あ っ た か ど う か は 別 と し て 、 そ の 背 後 に、



師 の身 体 の 一 部 を そ の ま ま 弟 子 の身 体 に 注 入 す る こ の 種 の イ ニ シ ェ ー シ ョ ン が 、 シ ャ ク テ

髪 を飲 む イ ニ シ ェ ー シ ョ ン が 、 い か に も お ぞ ま し い 呪 術 の 一 種 と し て 伝 え ら れ た 。 だ が 、

が 出 て く る 。 サ リ ン 事 件 と の 関 連 で オ ウ ム の 内 情 が 報 道 さ れ る 中 で、 麻 原 彰 晃 の 血 液 や毛

だ か ら 、教 団 の 規 模 が 大 き く な り 、弟 子 の 数 が増 え る と、 このよ う な 技 法 に は 当 然 限界



5•1 0 n )

C

P S I

を 、 電 子 的 な 方 法 で、 直 接 に 弟 子 の 身 体 に 伝 送 し て し ま お う 、 と

は、

シ ャ ク テ ィ パット の代替物の中で最も顕 著 な も の が 、信 者 た ち によって (Fer, ざコーコ と 呼 ば れ て い た へ ッ ド ギ ア で あ る 。 こ の ヘ ッドギアは、事 件 後 、 feet 巴 オ ウ ム 信 者 の象 徴 と 見 な さ れ る ほ ど に ま で に 有 名 に な っ た ト ッ プ ク ラ ス の幹 部 を 別 に す •

ると、 子 ど も を 含 む ほ と ん ど の 出 家 信 者 が 、 こ れ を 装 着 し て い た か ら で あ る

--

(

O P S I

5 v 0 -

師 の 身 体 の 波 動 脳波

115第三章サリンという身体



)

する装置である。電極の付いたヘッドギアは、導線によって、麻原の脳波を記録したとさ

は 、 「記 録 装 置 」 の 媒 介 を 必 要 と す る が 、 お そ ら く 、 麻 原 と

れる装置に接続されており、 これによって、弟 子 の 脳 波 を 麻 原 の 脳 波 に 同 調させるのだ、 と説明される。実 際 の

(

の作品では、身体それ自身

」 の想

が 弟 子 た ち の 身 体 に 伝 達 さ れ る よ う な 装 置 へ と 成 熟 さ せ よ う と 、 夢 想 し て い た に 違い

像力と同じアイディアである。たとえば、 サイバーパンク

な い 。 こ れ は 、 ア メ リ カ を 中 心 に 一 九 八 〇 年 代 に 流 行 し た 、 「サ イ バ ー パ ン ク



彼 の 弟 子 た ち は 、最 終 的 に は こ れ を 、無 線 の よ う な 方 法 で 即 時 に 麻 原 の 身 体 の 波 動 脳

P S I

れ は 、他 者 と の 具 体 的 な 質 を も っ た 関 係 性 を 形 成 す る 以 前 に 、 他 者

の存在

)

に 直 面 する

関係へと還元し、 これのみによって構成しようとする強力な志向性を宿すことになる。

って前提をなすものである。 オウム教団は、当然、教 団 内 部 の 社 会 関 係 を 、 この原初的な

ことを可能にする機制だからである。 それは、もちろん、質的に多様な任意の関係性にと

(

ミュ ニ ケ ー シ ョ ン は 、 他 者 と の 最 も 原 初 的 な 関 係 性 に 属 す る も の で あ る 。 と い う の も 、 そ

「波 動 」 と し て の 身 体 の 間 の 「共 鳴 」 と し て 客 観 的 に は 記 述 し う る 、 極 限 的 に 直 接 的 な コ

は、 こ の 身 体 に 非 常 に 適 切 な 物 理 的 表 現 を 与 え る も の と 見 な さ れ た だ ろ う 。

る。 身 体 を 、自 己 と 他 者 の 関 係 性 を 横 断 す る 波 動 と し て 感 覚 す る な ら ば 、 確 か に 、 電 磁 波

が コ ン ピ ュ ー タ リ 端 末 と な っ て お り 、 ネ ッ ト ワ ー ク を 通 じ て 互 い の 脳 に 参 与 し あ う のであ

S F

S F

)

iï6

家族の無化

イエスの方舟

ワ イ ド 」 で 、 宗 教 集 団 「イ エ ス の方 舟 」 の 指

地 下 鉄 サ リ ン 事 件 以 降 、 連 日 オ ウ ム 真 理 教 への批 判 が 続 く 中 、 一 九 九 五 年 六 月 二 七 日 に 放 映 さ れ た 日 本 テ レ ビ の ワ イ ド シ ョ ー 「ザ

の 言 葉 に 向 け ら れ た ち な み に 、 私 が イ ン タ ヴ ュ ー で き た 元 信 者 の 一人も井 上 に勧 誘 されたの

教 団 の 中 で も 特 に 人 望 が あ り 、 き わ め て 多 数 の 信 者 の勧 誘 に 成 功 し た ア ー ナ ン ダ 井 上 嘉 浩

ち で 、 オ ウ ム 真 理 教 を 厳 し く 批 判 し た 。 こ の と き 、 千 石 の 批 判 は、 主 と し て 、 オ ウ ム 真 理

導 者 千 石 剛 賢 は 、 『サ ン デ ー 毎 日 』 の 元 編 集 長 鳥 居 守 の イ ン タ ヴ ュ ー に 答 え る よ う な か た



きる、 と語 ってい る の で あ る

それに対して千石は、親 を 殺 すとはとんでもないことであ

を 引 い て み た の は 、 千 石 が オ ウ ム 教 団 に 対 し て 抱 い た 違 和 を 分 析 す る こ と に よ っ て 、 オウ

り、 そ の よ う な こ と を 言 う 者 は 必 ず 地 獄 に 墮 ち る だ ろ う 、 と非 難 す る 。 こ こ で 千 石 の非難

e

深く敬 愛 していた二 井 上 嘉 浩 は 、 尊 師 の 命 令 で あ れ ば 、 た と え 親 で あ っ て も 殺 す こ と が で

が き っかけ で 入 信 し て お り 、 麻 原 と 並 ん で 、 そ し て 麻 原 に 対 す る の と は 異 な った意 味 で、井 上 を

(

ム 教 団 の組 織 と し て の 特 徵 を 浮 か ぴ 上 が ら せ る こ と が で き る か ら で あ る 。

第三車サリンという身体

117

3

千 石 イ エ ス こ と 千 石 剛 賢 と 彼 が 率 い る 「イ エ ス の 方 舟 」 が 、 社 会 的 に 糾 弾 さ れ た の は 、

一 九 八 〇 年 の こ と で あ る 。 こ の 糾 弾 は 、 一現し た と こ ろ 、 オ ウ ム 真 理 教 へ の 初 期 の 告 発 と

よ く 似 て い る 。 イ エ ス の 方 舟 へ の 糾 弾 の 先 頭 に 立 っ た の は 、 信 者 の 家 族 で あ る 。 イエスの

方 舟 あ る い は 千 石 剛 賢 は 、 若 い 女 性 を 中 心 と し た 信 者 を 家 族 か ら 奪 っ た と し て 、 あるいは

誘 拐 し 監 禁 し て い る と し て 、批 判 さ れ た の だ 。 ときには、 そ の 批 判 に は 、若い女性に対す

る 千 石 の 性 的 な 凌 辱 と い う 主 題 が 含 ま れ て い た 。 後 に な っ て 、 こ の 種 の 批 判 が ま ったく的

外 れ な も の で あ る こ と が わ か っ た 。 他 方 、 オ ウ ム 真 理 教 を め ぐ る ト ラ ブ ル が マ ス コ ミ で報

道されるようになったのは、 八九年のことである。 こ の と き オ ウ ム 真 理 教 の 「 被害者」と

名乗る人たちは、 たいてい信者の親であり、 イ エ ス の 方 舟 の と き と 同 じ よ う に 、教団が奪

った娘や息子を返すようにと教団に強く訴えた。 ときに、教団が、脱会を望む信者を、あ

る い は ま た オ ウ ム に 反 抗 す る 者 を 拉 致 し 、 監 禁 し て い る 、 と の イ メ ー ジ も 広 ま っ た 。 この

ような大雑把な構図だけ見ていると、少なくとも初期のオウム批判は、約十年の時を隔て

た方舟批判の再現であるように思えてくる。 どちらも、教団に子どもを奪われた親たちが、

家 族 の 絆 を 楣 に し て 、教 団 を 攻 撃 し て い る わ け だ 。 方 舟 事 件 の と き は 、 マスコミの中で唯

一 方 舟 を 擁 護 し た 『サ ン デ ー 毎 日 』 が 、 オ ウ ム 批 判 に 関 し て は 、 逆 に 、 他 に 先 行 し た 。

千 石 は 、自 ら の 集 団 を 分 析 し て 、 方 舟 は 三 つ の 心 的 な 層 を も っ て い る と す る 。 表 面 は 仲

良しクラブだが、 その下には、各自が自己本位的にふるまう利己的な者の集団がある。 そ

n8

し て さ ら に そ の 下 に は 、 各 自 が 「他 の 中 に 自 己 を 見 て い く 世 界 」 が あ る 。 こ れ が 千 石 の 分

析である。 この自己分析には、千石の聖書解釈の核が表現されている。千石の考えでは、

わ れ わ れ は 「自 愛 自 己 へ の 愛 」 を 抑 圧 す べ き で は な い 。 「自 愛 」 を つ き つ め る と そ れ は )

必然的に「 他 愛 他 者 へ の 愛 」 に 深 化 す る 、 つ ま り 「他 愛 」 は 「 自愛」 の延長上にある、

(

)

期三車サリンという身蚱

O

方舟

だが、 この言葉は、比喩として使わ れ て い る の で あ る 。 それに対 し て 、 オウム真理教 は、

ま っ た く 文 字 通 り の意 味 に お い て、 他 者 性 を 自 己 性 に内 在 さ せ よ う と す る の で あ る

感 情 移 入 に よ って、 他 者 が 感 じ た り 考 え て い る こ と に 共 感 す る こ と で あ る

Q

の文脈で、 「 他者の中に自己を見る」ということは、結局は、想像 力を倒 かした類 推 や 、

U9

たとえば、 千 石 も 「 他 者 の 中 に 自 己 を 見 る 境 地 」 に到 達 し な く て は な ら な い 、 と 述 べ る

文 字 通 り 、自 。

あり、 それが 千 石 のオウム批 判 の 根 拠 に も な っ て い るのだ。 相 違 は ど こ か ら 生 じ た の か ?

にしているように見える。 しかし、実 際 に 両 者 が 実 現 し たも の は ま っ た く 異 な っ たも の で

者 を 圧 縮 しようとした、 オウム真 理 教 の 解 脱 へ の 志 向 性 と 、 方 舟 の 思 想 は 同 じ 所 を ゴ ー ル

このような主張の言語的な表現だけをなぞると、自己性の上に他者性を重ね合わせ、 両

れば自然と仲良くなれる、 という の だ 。

と い う 思 想 が 要 に な る。 相 手 が 他 人 で あ る と い う 意 識 を も た ず 、 自 分 だ と 考 え よ 、 そ う す

が 必 要 だ と 、 普 通 は 考 え ら れ て い る が 、 方 舟 で は そ う で は な い 。 そ の 場 合 、 「分 か ち 合 い 」

と考 え ら れ て い る か ら だ 。 た と え ば 、 互 い に 仲 良 く す る た め に は 、 利 己 性 を 抑 圧 す る こ と

(

が保持され

己 が 他 者 に な る こ と が 問 題 に な っ て い る わ け で は な い 。 自 己 か ら の 類 推 や 、 自己を他者へ

と 感 情 移 入 す る た め に は 、 ま さ に 起 点 と し て 、 自 己 の 自 己 性 自己の同一性

)

集 ま っ て き て い る 日本の新宗教の歴史の中で、超 能 力 と 宗 教 の 結 び つ き が 顕 著 に な っ た の は 、

望はまったく見られない。 それに対して、 オウムの信者は、超能力への強い欲求をもって

端 的 に は 、超 能 力 へ の 志 向 の 有 無 の 内 に 現 れ て い る 。 方 舟 に は 、超 能 力 を 得 た い と い う 願

少なくとも日常の論理の中では、不可能なことである。方舟とオウムのこのような相違は、

他者はそこから世界にかかわっているといった区別すらも横断してしまうこと。 これは、

れる。自 己 と 他 者 の 最 小 限 の 区 別 、 た と え ば 自 己 は こ こ に あ っ て こ こ か ら 世 界 に か か わ り 、

なく自己であること」 の究極の根拠にまで遡り、 その上で、 それを無化することが求めら

し て 全 的 に 、 自 己 を 他 者 に し よ う と し て い る の で あ る 。 そ の た め に は 、 自 己 が 「他 者 で は

ていなくてはならないのだから。 だが、 オウムの修行やイニシエーションは、 現実に、 そ

(

だ ろ う 。 つまり

、 #わ ï ば人間を越えてしまうこと、人間の有する最小限の同一性をすら克

たくたりず、 日常の論理からするとほとんどありえない神秘的な異能に頼らねばならない

ンにおいても使っている類推や感情移入を幾分か先鋭にするといった程度のことではまっ

いう事態を文字通りの現実としてもたらすためには、 われわれが日常のコミュニケーショ

麻原をはじめ初 期 の オ ウ ム の メ ン バ ー は 、阿含宗から出てきたのである二 自 己 と 他 者 の 横 断 と

阿 含 宗 の 桐 山 靖 雄 が 密 教 の 「即 身 成 仏 」 の 技 法 を 超 能 力 の 技 法 と 解 し て か ら で あ ろ う 。 そ し て 、

(

120

服 す る ことが、 オ ウ ム の 教 義 の 中 で は 求 め ら れ る こ と に な る 。

簡 単 に 整 理 す れ ば 、 方 舟 と オ ウ ム で は 、 自 己 と 他 者 を 設 定 す る と き の ベ ク ト ル が逆にな

っ て い る 。 方 舟 で は 、 還 元 不 可 能 な 最 小 限 の 内 容 を も っ た 自 己 の 同 一 性 が 与 え ら れ てい

ることがまず前提になっており、 そ こからの類推や拡張として、他 者 に 到 達 し よ うとする。

オ ウ ム の 場 合 は 逆 で あ っ た 。 起 点 は 、 他 者 の 方 に あ る 。 だ か ら 、 自 己 が そ の ま ま 他 者 化し

な く て はならない。 その た め に は 、 原 理 的 に は 、自 己 の あ ら ゆ る 同 一 性 の 内 実が 、 たとえ

ばごく素朴な欲求とか利害関心すらもが否定されなくてはならず、 そ のことを 通じて自己

が 過 激 に 空 無 化 さ れ な く て は な ら な い 。 要 す る に 、 オ ウ ム が 獲 得 を 目 指 し て い た 〈他 者 〉 性 の 水 準 へ の 指 向 を 、 方 舟 は ま っ た く 持 た な い のだ 。

Q

互いに両 立 し、

プ リ オ リ に 整 合 す る と 見 な す こ と は 、 各 自 の利 己 的 な 欲 求 や 利 害 関 心

方 舟 のよ う な や り 方 で 成 功 す る と 考 え ら れ て い る の は 、 つ ま り 利 己 的 な 「 自 愛 」 の追求 と 「 他愛」 と が ア

す べ て で は な い に せ よ ど う し よ う も な く 譲 れ な い 部 分 に 関 し て は ——

て 受 け 入 れ 、 前 提 に で き る 集 団 だ か ら であ る 。 オ ウ ム 教 団 は 、 こ の よ う な 前 提 を も た な い

の 性 格 づ け が 矛 盾 し な い の は 、 方 舟 が 、 あ る 程 度 の 内 的 な 同 質 性 を 、 与 え ら れ た も の とし

述 べ る よ う に 、方 舟 は 仲 良しクラブでありかつ利己的なものの集まりでもある。 こ の二 つ

調 和 す る よ う な あ る 程 度 同 質 的 な 集 団 で あ る こ と を 、 前 提 に し て い る こ と に な る 。 千石が





こ の 違 い は 、 集 団 の 規 模 と も 関 係 し て い る 。 方 舟 は 、 ニ〇 数 人 の 小 集 団 で あ り 、 そ の 程 度

第三掌サリンという身体

ï2I

-

の 範 囲 で あ れ ば 、 互 い の 間 の 同 質 性 を 前 提 にす る こ と も 無 理 が な か ろ う 。 し か し 、 オウム

は、 最 終 的 に は 出 家 者 だ け で 一 〇 〇 〇 人 を 越 す 集 団 で あ り 、 彼 ら の 間 の 利 己 性 が 予 定 調 和

相違

す る と い う こ と を は じ め か ら 前 提 に す る こ と に 、 あ ま り 現 実 性 が な い 。 だ が 、 方 舟 と オウ

ムの述べてきたような相違は、 このような集団の規模にだけ関係するわけではない は、 集 団 を 溝 成 す る 関 係 の 内 的 な 質 に 、 よ り 顕 著 に 現 れ て く る 。

家族性の肯定

た家族的な関係性を否定する潜勢力がある。

しかし、方 舟 の 場 合 は 、家 族 の 否 定 は 根 源 的 な も の で は な い 。会員たちがそれまで育つ

て き た そ の 特 定 の 家 族 を 否 定 す る か も し れ な い が 、 他 方 で 、 む し ろ 家 族 性 家族的なもの

)

じた家族との間に生じた。 その意味で、 方舟 に も オ ウ ム に も 、 信者がそれまで内属してき

イ エ ス の 方 舟 も オ ウ ム 真 理 教 も 、 周 囲 の 社 会 と の 軋 櫟 は 、 ま ず 、 子 ど も を奪 わ れ た と 感

Q

ってきた会員たちが形成する集団である方舟自身が、 再 び 、家 族 的 な 集 団 、擬 似 家 族 な の

は、 家 族 を 脱 出 し て き た の で あ り 、 そ の 点 で 家 族 を 否 定 し た の だ 。 し か し 、 そ う し て 集 ま

あり、後 者 に よ っ て こ そ 前 者 は 可 能 に な っ て い る の だ 。確 か に 、 方 舟 に 加 入 し た 女 性 た ち

は積極的に肯定されているのである。特定の家族の否定と家族性の肯定は、表裏の関係に

(

122

で あ る 。 た と え ば 、 千 石 は 会 員 た ち に 「お っ ち ゃ ん 」 と 呼 ば れ て い る 。 千 石 は 、 会 員 た ち に 、 親 し み 深 い 「父 親 」 の 隠 喩 に よ っ て 指 示 さ れ て い る の だ 。

実 際 に も 、千 石 は 、会 員 の 女 性 を 「 養女」 にしている。 この点については、芹沢俊介

コ 98 5〕 の 優 れ た 「イ エ ス の 方 舟 」 研 究 が 多 く の 示 唆 を 与 え て く れ る 。 興 味 深 い こ と は 、 千 石 は 、 一方で養女を受け入れつつ、他 方 で は 、自 分 の 妻 を 離 籍 し て い る 、 ということで

あ る 。 一見矛盾しているように見えるこの二 つの行為に、 芹 沢 も 、 また千石に独 占 会 見 し

を 優 遇 す る 意 識 を ——

あ る い は よ り 厳密に

た 『サ ン デ ー 毎 日 』 の 記 者 も 注 目 し て い る 。 千 石 に よ れ ば 、 こ の 二 つ は 、 同 じ 態 度 か ら 出 ている。妻を離籍したのは、特 定 の 女 性 妻

排 す る た め で あ る 。同 じ 理 由 から、養

員 の 間 で 生 ず る 可 能 性 を あ ら か じ め 排 除 し て お く の だ こ の 同 じ 考 え 方 に 基 づ い て 、資 金 繰

いては養子としてしまうことで、 子どもだけが優遇されているのではないかとの疑念が会

女 が 受 け 入 れ ら れ る 。 千 石 に は す で に 実 子 が あ る 以 上 、 養 子 に な る こ と を 希 望 す る 者 につ

は 優 遇 し て い る と 他 の 会 員 に 解 釈 さ れ る 恐 れ を ——

( )

つ ま り ア フ ァ ー マ テ ィ ヴ ア ク シ ョン風 に 身 近 な 者 か ら 過 酷 な 仕 事 を さ せ る と い う 決 断 が 、 導 か

り に苦 し く な っ た と き に 、 実 子 や 養 子 の 方 か ら ま ず 水 商 売 に出 る こ と を 容 認 す る と い う 判 断 が 、

(

れている二 こ こ で 注 意 し て お き た い こ と は 、 千 石 が 会 員 を 平 等 に 扱 お う と す る と き に、

離 婚 の 場 合 と 同 じ よ う に 親 子 関 係 を 切 っ て し ま う こ と で 会 員 た ち と自 分 の 関 係 の 平 準 化 を

はか る の で は な く 、 逆 に 、 親 子 関 係 の 方 を与 件 と し て お い て 、他 の 会 員 と の 関 係 を こ ち ら

第三軍サリンという身体

エ23



の 方 に 近 づ け よ う と す る こ と が 選 択 さ れ て い る 、 と い う こ と で あ る 。 これは、 良い関係の

モデルが、 あ る 種 の 親 子 関 係 の 内 に 求 め ら れ て い る こ と を 示 し て い る 。 千石 イ エ ス は 、家

族的な関係を否定するのではなく、良 い 関 係 の 究 極 の モ デ ルとして肯定しているのである。

養 育 者 を 含 む 集 団 と い う 意 味 で の ——

第 一 に 、 留 意 す べ き こ と は 、 ど の よ う な 人 間 に と っ て も 、 彼 がそこ

広 義 の ——

家族とは何か? に生まれた

家族は自ら自身の選択に先

(

つまり人為的な選択によってではなく自然に与えられる程度 (

係 は 二 重 の 側 面 を 含 ん で い る 。 夫 婦 関 係 あるいは姻戚関係

によって形成されていると

意 図 的 な 選 択 に 服 し て い る 。し か し 、親子関係 )

選択に先立って常に与えられており、自生的なものとして

い う 点 か ら す る と 、 そ れ は 、 ある程度 特 に 子 に と っ て は ——

)

が高く 、 か つ 最 も 一 般 的 に 見 出 さ れ る 集 団 の 形 態 な の で あ る 。 厳 密 に 言 え ば 、 家 族 の 関

中 で 、自生性の程度が最も高く

いるかは、 最 初 か ら 重 大 な 意 味 を も つ だ ろ う 。 要 す る に 、 家 族 は 、 人間が形成する集団の

た幼い者にとって、自 分 が ど の 国 家 に 属 し て い る か は 問 題 で は な い が 、 どの家族に属して

しにどのような社会の形態も考えられない。 たとえば、 国家のない社会はありうるし、 ま

と い う こ と で あ る 。 第 二 に 、 家 族 は 、 個 人 の 生 存 に と っ て 最 も 緊 要 な 集 団 で あ り 、 それな

立って与えられるものであり、彼または彼女は、 さ し あ た っ てこれを受け入れるほかない、

)

家 族 」 と 呼 び 分 け ら れ て い る 。 千 石 は 、前 者 は 解 消 可 能 で あ る と 考 え た が 妻の離籍 、

現 れ る 。 家 族 社 会 学 の 用 語 で は 、 家 族 の 前 者 の 側 面 は 「生 殖 家 族 」、 後 者 の 局 面 は 「定 位

は 、 ——

(

(

)

(

)

124

後 者 は 解 消 不 能 で あ る と 見 な し 、 さ ら に 、 た と え 現 実 の 家 族 が 破 綻 し た と し て も 、 望まし

い 関 係 の モ デ ル を 、 こ こ に 求 め て い る の で あ る 。 こ の こ と は 、 『父 と は 誰 か 、 母 と は 誰 か 』 という彼の著書のタイトルの内に、端的に示されていたことである。

そ し て 容 易 に 離 脱 し が た い ——

条 件 たとえば家族

こ の よ う な 家 族 へ の 態 度 を も う 少 し 一 般 化 す れ ば 、 次 の よ う な 帰 結 が 得 ら れ る 。自らに 初 め か ら 与 え ら れ て し ま っ て い る ——

を、自 分 自 身 に と っ て の 必 然 と し て 受 け 入 れ る こと、 こ れ で あ る 。 先

芹 沢 によ

自身の性的な性

を受け入れられなくなって、逃げ出してきている。しかし、その上で

、 方 舟 は 、身 体 の 性 的 な 性 質 を 否 定 し て し ま う の で は な く 、 逆 に 彼 女 た ち の女性

性 を 肯 定 し 、 そ れ を 受 け 入 れ さ せ て し ま う の で あ る 。 こ の 構 造 は、 家 族 か ら 離 脱 し て き た

る と ——

質 ——

方 舟 に 入 っ た 女 性 た ち は 、 家 族 や 社 会 の 中 で 強 い ら れ て い る 女 性 性 ——

較 は 、 あ と で オ ウ ム 真 理 教 のポ ジ シ ヨ ン を 理 解 す る た め の 参 照 軸 を も 与 え て く れ る 。

〔 一

が 試 み て い る 、 イ エ ス の方 舟 と 連 合 赤 軍 と の 比 較 が 役 に 立 つ 。 と 同 時 に 、 こ の 比 98 5〕

て 必 然 と し て 受 け 取 ら れ た 条 件 か ら 与 え ら れ る 。 この点 を 理 解 す る に は 、芹 沢 俊 介

担 っ て い る と い う こ と か ら 出 発 し て い る 、 と 述 べ た 。 自 己 同 一 性 の内 容 は 、 こ の よ う に し

に、 オ ウ ム と の 対 照 で 、 方 舟 は 、 各 人 が 還 元 不 可 能 な 具 体 的 な 内 実 を も っ た 自 己 同 一 性 を

的な集団への内属

(

^ ^

このような方舟

者 を 家 族 性 を 肯 定 す る 集 団 の 中 に 受 容 す る の と 同 じ 連 関 で あ る 。 こ こ で 、 「女 性 で あ る こ と」が 必 然 と し て 受 け 入 れ ら れ る自 己 同 一 性 の 内 実 を な す 条 件 で あ る

O

第三車サリンという身体

125

)

の志向性は、連 合 赤 軍 の 次 の よ う な 態 度 と く っ き り と し た 対 照 を な す 。

連 合 赤 軍 は 、赤 軍 派 と 革 命 左 派 の 連 合 に よ っ て 結 成 さ れ た 。 彼 ら は 、 共同の軍事訓練を

介 し て 出 会 う 。 一九七一年ニ一月に行われた軍事訓練の中で、 旧 革 命 左 派 の 永 田 洋 子が、

旧 赤 軍 派 の 遠 山 美 枝 子 を 批 判 し 始 め た 。 こ れ こ そ 、 彼 ら が 「総 括 」 と 呼 ん だ 陰 惨 な 私 刑 の

始 ま り だ っ た 。 つ ま り 、 こ の 批 判 を 引 き 起 こ し た 原 因 を 問 え ば 、 「総 括 」 一 般 が な ぜ 生 じ

たのかを窺い知ることができるのである。永田が最初に問題にしたのは、遠山が指輪をし

ていることである。 「 合法時代の指輪をしたままでは、革命戦士としてやっていけない」

というわけだ。批判はどんどんエスカレートして、 やがて、彼女の髪形や生活態度に及び、

ついには、結 婚 し た と い う こ と ま で も が 批 判 の 対 象 と さ れ た 。 そ し て 永 田 洋 子 は 興 奮 し て 、

)

泣きだしてしまう。

指 輪 を し て い る と い う こ と は 、 遠 山 の 身 体 が 対 他 的 な 関 係 性 の 中 で 女 性 性 女らしさ

(

と い う 「理 想 」 を 前 に し た 場 合 に は 、 ど う で も 良 い 偶 有

という性質を帯びていること、 そして彼女がそれを受け入れていることを示している。 こ の よ う な 性 質 は 、 革 命 の成就

)

方 舟 だ っ た ら 、 身 体 が 対 他 的 な 関 係 の 中 で 自 生 的 に 帯 び る 性 質 この場合は女性性 (

)

への

的な性質、あるいはむしろブルジョワ性を示す否定的な性質として現れる。 だがイエスの

(

批判の中で永田が泣きだしてしまうということは、 はからずも彼女の方の

拘泥を、 取り立てて克服すべきものとは見なさず、自然に受け入れたに違いない。実 は 、 連合赤軍の遠

U

E2Ô

女 性 性 が 露 呈 し て し ま う 場 面 な の だ が 、 このことは、女性性の受容へと集団の性向を転換

させることはなく、逆に、 女性性への否定を過激化するような方向で作用する。

に 関 し て は 、 こ れ を 自 然 な も の 必然

として受動的

一般 に 、 方 舟 で は 、 身 体 に 直 接 に 現 象 す る よ う な 性 質 た と え ば 性 的 差 異 に 付 随 す る 諸 性 質、 病気のような身体的拒否反応等

(

)

(

大 義 」 を 準 拠 に し て 、 偶 有 的 な も の と み な し 、 能 動 的 “選 択 的

方舟の

人為的に克服し

U

家族の根源的否定 オ ウ ム 真 理 教 の場 合 は ど う で あ ろ う か ?

け で は な く 、 家 族 的 な 関 係 性 そ の も の を も は や 基 礎 的 な も の と は 見 な し て い な い のだ 。 麻

族 否 定 は 、 イ エ ス の 方 舟 の 場 合 と 異 な り 、 根 源 的 な も の であ る 。 オ ウ ム は 、 特 定 の 家 族 だ

オ ウムも家族を否定する。 しかもオウムの家

れを究極的には肯定し、連合赤軍は意識的な努力によってこれを無化しようとするだろう。

つ た 「僕 」 の 行 為 に 連 な る も の だ と 言 え る 。 家 族 を 試 金 石 と し て 置 い て み れ ば 、 方 舟 はこ

やり方は、村 上 の 『 世 界 の 終 り と 〜 』 に お け る 、 「影 」 の 正 し さ を 拒 否 し 自 ら の 気 分 に 従

よ う と す る 。 そ の 悲 劇 的 な 帰 結 が 、 「総 括 」 と い う 名 の 私 的 な 死 刑 で あ る 。 千 石

「理 想

に 受 け 入 れ る 傾 向 が 支 配 的 で あ る 。 そ れ に 対 し て 、 連 合 赤 軍 は 、 こ の 種 の 性 質 を 、 革命の

)

原 の命 令 で あ れ ば 親 で も 殺 せ る 、 と い う 井 上 嘉 浩 の 言 葉 は 、 こ こ か ら 出 て く る も の で あ り 、

227第三章サリンという身体

H

H

千 石 の批 判 は 、 オ ウ ム の こ の よ う な 「家 族 の根 源 的 な 否 定 」 に彼 が 同 調 で き な か っ た こ と

に由来している。 たとえば麻原は、尊師とかグルと呼ばれており、 父親の比喩では捉えら

れ て い な い 。 因 み に 、 教 祖 や 指 導 者 を 、 「親 」 や 「祖 」 の 比 喩 で 指 示 す る の で は な く 、

新新宗教に

の高橋信 二 も、 また幸福の

「 師 」 と 呼 ん だ り 、 「プ ッ ダ 」 の 具 現 と 見 な す の は 、 旧 新 宗 教 と 比 べ た 場 合 に 広く見られる特徴である。 オウムの麻原だけではなく、

)

プッダの具現であると示唆している 島 蘭

二 一992 〔

オ ウ ム で は 、 と き に 親 子 が とも 6)。

科 学 の 大 川 隆 法 も 、阿 含 宗 の 桐 山 靖 雄 も 、 そ し て 法 の 華 三 法 行 の 福 永 法 源 も 、 み な 自 らが

G L A

(

は、 千 石 だ け で は な く 、 一 般 の 人 々 の 間 に も 直 観 的 に 嗅 ぎ 分 け ら れ て い た よ う

方舟のようなそれまでの宗教をはるかに凌駕する

0 3

事件は八九年一

一月に起きたもので、 弁護士 一家が失踪した直後から、 状 況 証 拠 よ り オ ウ

本 堤 弁 護 士 は 、 家 族 を オ ウ ム に 奪 わ れ た 「被 害 者 」 の 会 に 依 頼 さ れ た 弁 護 士 だ っ た 。 こ の

り を 呼 び 、 象 徴 的 な 意 義 を 担 わ さ れ て い る の は 「坂 本 堤 弁 護 士 一 家 殺 害 事 件 」 で あ る 。 坂

に思う。 オ ウ ム が 犯 し た と 見 な さ れ て い る 数 多 く の 殺 人 事 件 の 中 で 、 最 も 多 く の 人 々 の 怒

過 激 さ ——

家 族 否 定 に 対 す る オ ウ ム の 過 激 さ ——

れ て い る 。 元 信 者 で あ る 高 橋 英 利 (〔 二 一995 — 6〕は 、 こ の よ う な 原 則 に 従 い つ つ 、 し か し 内 心 で は 子 ど も へ の 愛 着 を 捨てきれないある母親出家者の心の揺れを紹 介 し て い る 。

)

生活することが許されるわけではなく、家族への愛着は遮断しなくてはならないものとさ

に 出 家 す る こ と も あ る が 、 一 般 に は 家 族 だ か ら と い っ て 同 じ 部 署 に 配 属 さ れ た り 、 一緒に

(

E28

ム 信 者 の 犯 行 で は な い か と 疑 わ れ て い た が 、 地 下 鉄 サ リ ン 事 件 以 降 の 捜 査 に よ って、 一家

は、 オ ウ ム の 幹 部 た ち に よ っ て 殺 害 さ れ た こ と が わ か っ て き た 。 実 に 悲 惨 な 事 件 で あ る 。

しかし、 この事件は、数 あ る オ ウ ム の 犯 罪 の 中 で 最 も 痛 ま し い も の と 言 え る だ ろ う か ?

たとえば、地下鉄で突如として殺されてしまった通勤客や地下鉄職員、松 本 の 住 宅 地 で 理

由もわからずに殺されていった人々は、ある意味で、坂本堤氏以上に悲惨である。確 か に 、

坂本堤氏一家殺人事件は、あまりに凶悪なものである。 が、 しかし、彼の子どもや妻はと

もかく、 坂 本 堤 氏 は 彼 の 当 面 の 「 敵」 に殺されたのであり、彼の死は、 もちろん理不尽な

ものではあるが「 戦 士 」 と し て の 理 由 が 与 え ら れ る 。 し か し 、 地 下 鉄 や 松 本 で 死 ん で いっ

た人々は対立とおよそ無関係な人々であり、 その死に何らの理由も与えられない。 だ か ら 、

坂 本 堤 弁 護 士 一 家 殺 害 事 件 が 象 徴 的 な 意 義 を 担 う の は 、 そ の 悲 惨 さ ゆ え で は な い。 こ の 事

件 を 報 道 す る 度 に 、 テ レ ビ は、 弁護士 一 家 の 幸 せ そ う な 典 型 的 な 核 家 族 の 映 像 を 映 し 出 す 。

オ ウ ム が 憎 ま れ る の は 、 こ の 幸 せ な 家 族 を 抹 殺 し た か ら で あ る 。 お そ ら く 人 々 は 、 この事

件 を 通 じ て 、 家 族 的 な も の を 根 源 的 に 否 定 し よ う と す る オ ウ ム の 志 向 性 を 直 観 し た のであ

り、 こ れ に 強 い 拒 否 反 応 を 示 し た の で あ る 。 た と え ば 、 犯 人 た ち が 、 麻 原 の 指 示 に 従 っ て

本 人 と 妻 と そ の 幼 い 子 供 の 死 体 を ま っ た く 離 れ 離 れ の 場 所 に埋 め た こ と が 、 人 々 の強い嫌

Q

悪を誘った。 このような埋葬の方法が、麻 原 と オウム教団が家族的な関 係 を まったく問題 に し て い な い こ と を、 あ か ら さ ま に 示 し て い る か ら で あ ろ う

見三破サリノという身体

Z29

オ ウ ム が家 族 を 拒 否 す る の は な ぜ か?

こ の 教 団 の 信 仰 世 界 の 中では、先 に 述 べ た 、

「極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 」 の み が 、 本 質 的 な も の と 見 な さ れ る か ら で あ る 。

極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー ションは、 関 係 性 の 最 も 原 初 的 な 様 態 で あ る 。 これを規準

誰も

、 派生的で

に と れ ぱ 、 家 族 の よ う な 最 も 自 生 的 で 最 も 一 般 的 な 集 団 を 構 成 す る 関 係 で さ え も ——

が最初は与えられたものとして受け入れざるをえないような関係でさえも 偶有的なものとして現れるだろう。

のであり、 言 わ ば 、原 始 主 義 的 な も の で あ る 。 だ か ら 、方 舟 の 家 族 性

の肯定を挟んで

生 的 な も の と し て 現 れ る 家 族 を 、 よ り 一 層 自 然 で 原 初 的 な 関 係 へ と 還 元 し よ う と し て いる

関 係 に 服 さ せ よ う と し て い る か ら で あ り 、 近 代 主 義 的 な も の で あ る 。 他 方 、 オ ウ ム は 、自

が わ か る 。 連 合 赤 軍 が 家 族 を 否 定 す る の は 、 家 族 の 自 生 的 な 性 格 を 、 主 体 的 に 選択された

かし、 オ ウ ム と 連 合 赤 軍 は 、 ま っ た く 反 対 の 位 置 に 立 っ て い て 、 家 族 を 否 定 していること

先 に 連 合 赤 軍 に も 潜 在 的 に 家 族 を 否 定 す る 傾 向 が 孕 ま れ て い る 、 と 指 摘 し ておいた。 し

-

とができる。

連 合 赤 軍 と オ ウ ム の 二 つ の 反 家 族 的 な 志 向 が 対 照 的 な 位 置 を 占 め る 、 という構図を得るこ

( )

の力で克服しようとする態度である。

同 じ 構 図 は 、 身 体 に 対 す る 態 度 を 規 準 に し て 描 く こ と も で き る 。、 連合赤軍が示している の は 、 身 体 が 帯 び る 諸 性 質 を 意 志 「理 想 」 の選択

)

つまり、 身 体 は 否 定 的 な 意 味 だ け を 担 わ さ れ て い る 。 そ れ に 対 し て 、 イ エ ス の 方 舟 は 、 身

(



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い 文 脈 の 中 で 、 た と え ば 「日 本 の 家 族 の 戦 後 史 」 や 、 さ ら に 「 家 族 の 近 代 史 」 の 中 で、 理

解 し て お く 必 要 が あ る 。 戦 後 史 の 中 で 一 貫 し て 擁 護 さ れ 、 強 化 さ れ て き た のは 、 緩 や か な

意 味 に お け る 「個 人 主 義 」 的 な 価 値 観 で あ る と 言 え る だ ろ う 。 し か し 、 個 人 を 第 一義的な

も の と し て 尊 重 す る 原 理 か ら は 、 特 定 の 親 子 関 係 や 親 族 関 係 を 、 あ る い は 一 旦 結 ん で しま

っ た 夫 婦 関 係 を 、 個 人 と 同 様 に 尊 重 す べ き で あ る と す る 命 題 は 、 直 接 に は 導 く こ と が でき

な い 。 む し ろ 個 人 に 準 拠 し た 場 合 に 、 た と え ば 「こ の 人 は た ま た ま 私 の 親 か も し れ な い が 、

特 に 私 が 好 ん で 選 ん だ わ け で は な い こ の 親 と の 関 係 に 、 私 が 拘 束 さ れ な く て はならない必

然 性 は ど こ に も な い 」 と い う こ と に な る だ ろ う 。 要 す る に 、 個 人 中 心 の 社 会 の 中 では、 家

族 を は じ め と す る 自 生 的 な 集 団 は 、 必 然 性 を 欠 い た も の と し て 現 れ て こ ざ る を え な い 。近

代 は 、 個 人 主 義 の 時 代 だ と 特 徴 づ け ら れ て い る 。 だ が 、 か つ て フ ィ リ ッ プ ア リ エ ス は、



なのだ、 と述べたことがある。 しかし、個

家族史についてのその画期的な研究をもとに、近代において勝利したのは個人ではなく、 家 族 近代的と形容しうる特定のタイプの家族

)

迎えることができたのである。

いう、 個 人 に ま で は 還 元 し 尽 く さ れ な い 核 を 残 し て い る と き に 、 か え っ て そ の 黄 金 時 代 を

には、 や が て 少 し ず つ 浸 食 さ れ て し ま う の だ 。 個 人 主 義 は 、 十 分 に 徹 底 さ れ ず に 、 家族と

真理教の登場が暗示していることは、個人主義の方も、家族という母体を解体させた場合

人 主 義 は 、 や が て 、 家 族 の 方 へ と 翻 り 、 家 族 を 浸 食 し て い く の で あ る 。 と 同 時 に 、 オウム

(

り2

祖 先 崇 拝 ——

を、機軸に据えていた。 しかし、今日の新新宗教

こ の 種 の 変 化 は 宗 教 史 に も 反 映 し て い る 。 日 本 の 伝 統 的 な 宗 教 は 、 親 子 関 係 や 、 その延 長 上 に 見 出 さ れ る 関 係 ——

は、祖先崇拝をとりたてて重視することはない。ごく大雑把に図式化すれば、 現実の親子

関係の尊重や祖先崇拝を教義の核に置く宗教から、 イエスの方舟のような、 現実の親子関

係ではなく、 理念化された親子関係を規範化する宗教を間に挟み、 オウムに代表される親

子関係や家族を否定する宗教へと展開してきた、 と整理することができるだろう。

類 似 の 推 移 は 、教 団 の 内 的 な 組 織 の あ り 方 に 即 し て 、見 る こ と も で き る 。森 岡 清 美

ロ 989 〕 に よ れ ば 、 か つ て の 新 宗 教 は 、 内 部 の 関 係 を 「親 子 」 の 比 喩 で 捉 え 、 組 織 を そ の



親 子 関 係 の 積 み 重 ね と し て 理 解 し て い た 。 だ が 、創 価 学 会 や 立 正 佼 成 会 の よ う な 地 域 ブ ロ

ッ ク 制 を 敷 い た 、 一 九 六 〇 年 代 の 大 教 団 は 、 こ の 「親 子 モ デ ル 」 に 代 え て 、 「な か ま

島 ほか 〔 最初、個々の信者は、消費者として教団に接し、 そこからサーヴィス 1996二 〕 を 受 け る が 、 そ れ 以 上 熱 心 な 信 者 に な る と 、 業 務 遂 行 型 の 官 僚 組 織 に 取 り 込 ま れ る 、 とい

の新新宗教においては、「 業 務 遂 行 組 織 —消 費 者 接 合 モ デ ル 」 が 現 れ た 、 と 述 べ て い る

遂 行 型 の 組 織 に 統 合 し て い く 方 法 で あ る 。島 蘭 進 は 、 これ を 受 け て、 さ ら に 七 〇年代以降

僚制連結 モ デ ル 」 を実現した。 それは、地域ブロックごとに、 信者 を 、 企業のような業務

J

う わ け だ 。 以 上 の 推 移 は 、 教 団 の 組 織 が 、 次 第 に 家 族 的 な も の か ら 遊 離 し て く る 過 程 を示

し て い る と言 え る だ ろ う 。 そ し て 、 イ エ ス の 方 舟 の 事 例 は、 八 〇 年 代 の 初 頭 に お い てさえ

第三簟サリンという身体

233

( ®

も 、 家 族 的 な も の へ の志 向 が 、 日 本 の新 宗 教 の 中 か ら 消 え て い な い こ と を 示 し て い る 。 だ が、 オウムはこれを根源から否定したのだ。

家族を含む伝統的な自生的集団に対するこのような徹底した否定の身振りに類似したも

ポ ト は、 地域的 な コ ミ ュ ニティや 家 族 、 そして そ れ に と も

の を 、 歴 史 の 中 に 求 め る と す れ ば 、 た と え ば 、 わ れ わ れ は 、 ポ ル 。ポ ト の 民 主 カ ン プ チ ア を見 出 す こ と が できる。 ポ ル

ポトは、都

• 〔

サ 199

208〕)



ポトの政策がもたらした悲惨さは、次の彼の演説が表明しているような

強 迫 観 念 に よ っ て 規 定 さ れ て い る チャンドラー

のだった。 ポ ル

しかし、 現 在 で は そ の あ ら ま し が 知 ら れ て い る よ う に 、 結 果 は 、 とてつもなく悲惨なも

とが、実際に政策として遂行されているのを見ることができる。

いるのだ。 ここには、 オ ウ ム が 志 向 し て い な が ら 、 ご く 部 分 的 に し か 実 現 で き な か っ たこ

「集 団 化 」 と 呼 ん で い る プ ロ グ ラ ム に よ れ ば 、 家 族 が 一 緒 に 食 事 を す る こ と も 禁 止 さ れ て

解 体 さ せ て し ま う の で あ る 。 そ れ だ け で は な く 、 家 族 も 否 定 さ れ る 。 た と え ば 、 彼らが

市 の 住 民 を 農 村 に 強 制 移 住 さ せ る 。 つまり、 自 生 的 に 成 長 し て き た コ ミ ュ ニ テ ィ を 強 引 に

い、 原 始 的 な 共 同 体 に 再 組 織 し よ う と し た 。 よ く 知 ら れ て い る よ う に 、 ポ ル

な う 一 切 の 文 化 と い っ た あ ら ゆ る カ ン ボ ジ ア の 伝 統 を 一 旦 解 体 し 、 こ れ を 、 貨 幣 も も たな



「わ れ わ れ は ど こ が 病 気 な の か 、 正 確 に 突 き 止 め ら れ ず に い る 。 病 気 は 、 所 在 を 明 ら

(



134

かにして検診しなくてはならない。人民革命の熱気、民主革命の熱気が不十分だから

社会主義革命によって押し出されてしまうだろう

だ が 、 これ以

…… わ れ わ れ は 細 菌 を 探 し て い る の に う ま く い か な い 。細 菌 が も ぐ り 込 ん で い る 。 細菌は、

. .



ポ ト が 政 権 の 座 に あ っ た 一 九 七 六 年 末 の 演 説 で あ る 。 こ こ で 「細 菌 」 と

し て し ま う 信 じ が た い ほ ど の 規 模 の 粛 清 と 、 ベ ト ナ ム こ れ が 細 菌 の 送 り 先 と見なされたか

「 裏 切 り 者 」、 「ス パ イ 」 の こ と で あ る 。 こ れ ら に 対 す る 恐 れ か ら 、 友 人 や 学 者 を 次 々 と 殺

して指示されて、 い る の は 、 彼 ら の 社 会 の 中 に 深 々 と 侵 入 し て い る と 考 え ら れ て い た 「敵 」、

これは、 ポ ル

上 座 視 し て い れ ば 、 細 菌 に よ っ て 本 当 に 損 害 を 蒙 る 可 能 性 が 出 て く る 。」

. .



(

ポ ト が 「細 菌 」 と 呼 ん だ も の を 、 オ ウ ム は 「毒 ガ ス 」 の比

と の 戦 争 が 、 引 き 起 こ さ れ た の だ 。 と こ ろ で 、 こ れ は 、 オ ウ ム の 《他 者 》 へ の 恐 怖 と

同じ種類のものである。ポ ル

翦三摩サリンという身体

B5

. . 喩で捉えたのだ。



)







クンダリニ





サ ==リン

I H

つの特徴のせいである。









だ か ら 、 次 の よ う な 仮 説 を 得 る こ と が で き る の で あ る 。 サ リ ン は ——

よ り厳 密 に は サ リ

入 し て く る の だ 。 サ リ ン 等 の 毒 ガ ス 兵 器 が 特 別 に 恐 怖 の 対 象 と な る の も 、 ま さ に 、 この二

サリンは、場 所 的 に 限 定 し 難 い 気 体 で あ り 、自 覚 さ れ る こ と も な く 皮 膚 か ら 人 の 身 体 に 侵

ざるをえない。 これら二つは、 ま さ に サ リ ン を 特 徴 づ け る 性 質 に ほ か な ら な い 。 す な わ ち 、

が、 こ れ ら の 諸 点 か ら 成 り 立 っ て い る の だ と す れ ば 、 わ れ わ れ は 驚 く べ き こ と に 、 気 づ か

な く 、 〈他 者 〉 に 直 接 に 参 入 す る こ と が で き る の だ 。 彼 ら が 回 復 し よ う と し て い た 身 体 性

波 動 と し て 実 感 さ れ る 身 体 で あ る 。 第 二 に 、 そ の 身 体 は 、 言 語 的 な 疎 通 に 媒 介 さ れ る こと

機 に よ っ て 特 徴 づ け る こ と が で き る 。 第 一 に 、 そ れ は 、 流 体 あ る い は 気 体 と 化 し 、 一種の

理しておけば、 オウムが修行を通じて獲得しようとした身体は、 相 互 に関 係 す る 二 つ の 契

への感受性は、彼 ら が 追 求 し て い た 身 体 の 様 態 に 規 定 さ れ た も の で あ っ た 。 あ ら た め て 整

オ ウ ム は 、家 族 を 、最 も 原 初 的 な 関 係 性 の 方 へ と 向 け て 、解 体 す る 。 こ の よ う な 関 係 性

1

4

ェ36

、 クンダリニーのエネルギーを励起状

気体と化した身体と同じものなのだ、 と。 オウムがサリン等の毒ガス兵

ン に よ っ て 無 意 識 の 内 に 表 象 さ れ て い た も の は —— 態 に 置 き 、流 体

器に不合理なまでに拘泥したのは、 それが、彼 ら が 熱 烈 に 希 求 し て い た 身 体 と 、 まさしく 同じものだったからではないか。

もちろん、 同時に、 サリンこそが彼らが最も恐れていたものでもある。 し た が っ て 、 ま

ったく同じ身体が、 完 全 に 対 立 的 な 意 味 づ け を も つ 異 な る 様 相 へ と 引 き 裂 か れ て い る の で

あ る 。 こ こ で わ れ わ れ は 、 オ ウ ム が 掲 げ て い た 陰 謀 史 観 の 《他 者 》 の 両 義 的 な 性 格 を 想 い

起 こ さ な く て は な ら な い 。 彼 ら が 恐 怖 し て い た の は 、 秩 序 を 根 本 か ら 攪 乱 す る 外 部 の 《他

者 》 が彼らに著しく近接し、 ついには彼ら自身であるかもしれない、 という こ と であった。

ク ン ダ リ ニ ー を 励 起 さ せ た 身 体 と サ リ ン と が 実 は 同 じ も の で あ っ た と す る な ら ば 、 この恐

怖 に は 、 理由がある。 クンダリニーの波動と化した身体は、自らの内的な過剰性を利用し

て 、 〈他 者 〉 に 直 接 に 内 在 す る こ と が で き る 。 そ の 〈他 者 〉 は 、 極 限 の 歓 喜 の 感 覚 の 内 に

享 受 さ れ る だ ろ う 。 し か し 、 そ の 同 じ 〈他 者 〉 が 、 と き に ま っ た く 逆 に 、 存 在 す る こ と す らも許されないような完全な外敵として、拒 否 さ れ もするのだ。

こ の 二重性は、先 に 『 風 の 谷 のナウシカ』 に即して見 出 し た も の と ま っ た く同じもので

あ る 。 『ナ ウ シ カ 』 に お い て は 、 毒 ガ ス を 発 散 さ せ る 腐 海 が 、 同 時 に 毒 ガ ス を 浄 化 す る 働

き を も 担 っ て い る の で あ っ た 。 こ の 物 語 の 中 で は 、 同 じ 二重性 は さ ら に 、 腐 海 を 護 る 王蟲

第三隼サリンとし•'う身体

237



圧 倒 的 な 支 持 を 得 た マ ン ガ に お い て、 ま っ た く

に、 そ し て ま た そ の 王 蟲 と 「極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 」 に よ っ て 結 び つ い て いる主人公ナウシカに、転移されている

オ ウ ム 真 理 教 は 、 か な り 初 期 の 段 階 か ら ——

おそらくサリンの製造に取りかかる前から

こ の 二 重 性 に 規 定 さ れ た 強 迫 観 念 に 苛 ま れ て い た と 思 わ れ る 形 跡 が あ る 。 つまり、 こ

タイト

タイト





サマディとは、周囲を水に覆われ

こ と が で き な い か ら で あ る 。 秋 山 論 文 の 中 に 、 公 開 で な さ れ た 「水 中 エ ア ー マディ」 の こ と が 書 か れ て い る 。 水 中 エ ア ー





件が起きたということをすでに知ってしまったことからくる「 遠 近 法 的 な 倒 錯 」 を免れる

種 の も の を 書 こ う と す れ ば 、 た と え 過 去 の こ と を 客 観 的 に 記 録 し よ う と し て も 、 サリン事

け て 書 か れ た も の と 推 測 さ れ る 。 こ れ は た い へ ん 貴 重 な 資 料 で あ る 。 と い う の も 、今この

山 英 俊 が 千 葉 大 学 文 学部に提出した論文である。論文は、 八九年後半から九〇年一月にか

教 を 参 与 観 察 し 、 それに基づいて書かれ た 卒 業 論 文 を 入 手 す る こ と が で き た 。 それは、秋

言 い く る めたものではないのだ。 私は、 一九八七年末から八九年前半にかけてオウム真理

の強迫観念は、 た ま た ま 製 造 し た サ リ ン が 外 に 漏 れ て し ま っ た こ と を 、 その場しのぎ的に

——

しているものかもしれない、 という推測を誘うことになろう。

偶発的な思い違いに由来する矛盾ではなく、 現代社会の構造に深く根ざした必然性に由来

ガス」 と ほ と ん ど 同 じ も の に な っ て し ま う と いう 、 オウムの実践に懐胎している両義性が、

同型的な二重性がモチーフになっているということは、希求されている純粋な身体が「 毒

Q



138

排泄などの肉体の機能を完全に停

た完全密閉の空間で、 通 常 な ら ば 酸 素 欠 乏 で 死 ん で し ま う ほ ど の 期 間 を 瞑 想 し て 過 ご すこ 飲食





にあることを証明するものであると考えら

とである。 これに成功するということは、 呼 吸 止 さ せ た 、完 全 な サ マ デ ィ 究極の瞑想状態 )



タイト

サマディを公開で試 み よ う としている。 だが公開実験は、 三回とも中止され

れている。 八 八 年 の 三 月 か ら 五 月 に か け て 三 回 、麻 原 彰 晃 と 石 井 久 子 が 、 こ の 水 中 エ ア

(

(

漏 れ て い る 、 と い う こ と だ っ た。 二 回 目 は 、 漏 れ て い る 物 質 が 、 水 か

)

こ と が そ の 他 者 に と っ て功 徳 を 積 ん だ こ と に な る と い う こ と 、 な ど が 信 じ ら れ て い る 。 修

ば 、信者の修行によって毒素が発生するということ、 し か も その毒素を他者が引き受ける

毒 素 が 排 出 物 の よ う な も の と し て 発 生 す る と 考 え ら れ て い る よ う な の だ 。 秋 山 論 文 によれ

ら 、 し か し 反 転 し た 形 で 自 覚 さ れ て も い る 。 つまり、 身 体 が 究 極 の 境 地 に 漸 近 す る と き に 、

悠 行 に よ って得 ら れ る 身 体 と 毒 ガ ス と の 結 び つ き は 、 信 者 た ち に よ っ て も 、 わ ず か な が

内 にそれが毒 ガ ス と 連 合 して しまう、 と い う ことであ る 。

いることは、身 体 を 究 極 の 境 地 へ と 差 し 向 け よ うと す る と 、 その度に、 執 拗 に 、 無意識の

とらしい。 そして三回目もまた有毒ガスの発生が理由で中止される。 この反復が示唆して

ら 有 毒 ガスに変わる。 有 毒 ガ ス が 発 生 し て い る と い う こ と は、麻 原 彰 晃 自 身 が 指 摘 し た こ

いは装置の外へと

る 。 興 味 深 い の は 、 そ の 理 由 で あ る 。 第 一 回 目 の 中 止 理 由 は 、 水 が 内 側 の 水 槽 へ と ある



行する身体と排出物が実は同じものであるとか、身体を流体化する修行がなされなければ

幕三牽り■リンとし•う身体

139



そ も そ も 毒 素 も 存 在 し な い と い っ た こ と が 洞 察 さ れ て い る わ け で は な い が 、 しかし、 両者 の繫 が り が 否 定 的 な 形 式 で 予 感 さ れ て い る わ け だ 。

サ イ バ —パ ン ク 的 想 像 力

の使用に見るこ

「サ リ ン 」 へ の 恐 怖 を 糸 口 に し て 導 出 し た 身 体 の 同 じ 形 式 の 分 裂 を 、 電 子 メ デ ィ ア や 電 磁 波に対する彼らの想像力を手がかりにして剔出することもできる。

コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 通 じ て 共 鳴 す る 身 体 の 様 態 が 投 影 さ れ て い る 。何 人 か の 論 者 に よっ

と が で き る よ う に 、 電 磁 波 に は 、 彼 ら が 獲 得 を 目 指 し て い る 身 体 の 様 態 が 、 つまり直接的

P S I

に 自 ら を 売 り 込 む こと

て 指 摘 さ れ て い る 、 マスコミの力に対するオウムの過度な信頼も、同じような感覚に由来 し て い る と 言 え る だ ろ う 。 も と も と 麻 原 は 、 マ ス コ ミ 特に雑誌

)

子 的 な も の へ の こ の 種 の 過 信 は 、 オウムに限らず、新新宗教的な運動にしばしば見出され

構 成 の 、薄められてはいるが大規模化された再現として、受け取られうるものである。電

師の身体の波動を電子的な方法で弟子の身体に直接に伝送するというサイバーパンク的な

コミによる情報伝達の方法は、 とりわけテレビやラジオの電波を通じた情報伝達の方法は、

積 極 的 に テ レ ビ に 出 演 し て 、 自 ら の 主 張 を 発 表 し 、 外 部 か ら の 批 判 に 応 戦 し て き た 。 マス

で、 急 速 に 多 く の 支 持 者 を 獲 得 す る の に 成 功 し た の だ し 、 ま た 教 団 の ス ポ ー ク ス マ ンは、

(

14°

る も の で あ る 。典 型 的 な の は

科学研究所であり、 ここでは信者の信仰生活のすべて

シール」や

テープ」 な ど の 超 念 カ グ ッ ズ か あ る い は 電 話 を 使 っ て 、 遠 隔 地 で 受 け 取 る こ

E S P

い る の だ 。 た と え ば 『ヴ ァ ジ ラ ヤ ー ナ サ ッ チ ャ 』



一九九五年二月 (

は 、 「悪 魔 の マ

)

コントロール」 と い う 表 現 が 使 わ れ て い る こ と か ら 分 か る よ う に 、 こ こ で も 、

コントロール」 と い う 特 集 を 組 み 、電 子 メ デ ィ ア や マ ス コ ミ を 批 判 し て い る 。

7

サ ッ チ ャ 』 に連載さ

シ ャ ク テ ィ 。パ ッ ト

コントロールは、 オ ウ ム に と っ て 、 気 が つ か な い う ち に 仕 か け ら れ た 催 眠 術 の よ 訴 え る も の と し て 理 解 さ れ て い る 。 『ヴ ァ ジ ラ ヤ ー ナ

う な も の で あ り 、 前 言 語 的 な 「コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 直 接 性 」 に —— と 同 様 に ——

帯電話による洗脳は、 ほとんど

は、 携 帯 電 話 の 電 波 で 人 を 洗 脳 す る 。 携 )

その可能性を極限的に拡張した上で

のパロディである。

—ナ リ ス ト 「 瀬 川 洋 子 」 江川紹子のことだろう

ヨナリスティックな陰謀史観を表現しているが、 その中に、敵の一味として登場するジャ

れ て い る 小 説 「《ニ ッ ポ ン 滅 亡 プ ロ ジ ェ ク ト 》 を 撃 て ! 」 は 、 ア メ リ カ を 敵 と 見 な す ナ シ



インド

オウムを批判する者とオウムが共通の概念枠の内にあることを、確認せざるをえない。 マ

「マ イ ン ド

インド



し か し 、他 方 で 、 電 子 メ デ ィ ア や マ ス コ ミ は 、拒 否 す べ き 否 定 性 の 代 表 と も 見 な さ れ て

と に 尽 き て い る 。超 念 力 が 、 電 磁 波 に 隠 喩 を 求 め ら れ る 何 か で あ る こ と は 、 間 違 い な い 。

「エ ス パ ー

は 、 た だ 主 宰 者 で あ る 「石 井 普 雄 先 生 」 か ら 発 散 さ れ る 超 念 力 を 、 「

E S P P S I

(

麻 原 彰 晃 と オ ウ ム 真 理 教 の 思 想 と 実 践 の 困 難 を ——

141第三簟サリンという身体

• •

• •

——

真 撃 に 問 う な らば、結 局 、 こ こ ま で ま さ に 論 じ て き た こ と に 、 つまり同じ身体が敵対

的 な 二 つ の 相に 引 き 裂 か れ ざ る を え な か ったという こ と に 、 あ っ た と 見 る べきで は な い か 。

は、本 当は、身体の同じ

もしこれら二 つの相が本来同じものであるならば、 こ

ク ン ダ リ ニ ー と サ リ ン ——

彼 ら が 敵 対 し 、 戦 争 を 通 じ て 排 除 し よ う と し た 《他 者 》 は 、 彼 ら 自 身 の 身 体 の 内 的 な 異 和 な の だ 。 彼 ら が 分 離 し た 二 つ の 相 —— 水準に属しているのではないか?

れを敵対的なものとして分極化するのではなく、 まさにその本来性に従って、全的に抱擁 することができたはずではないか?

しかし、身 体 の 同 じ 状 態 が 、 敵 対 的 な も の へ と 分 極 化 し て い っ た の は 、 な ぜだ ろ う か ?

142

第四章終末という理想

二つの終末論

真木悠介

が 述 べ て い る よ う に —— 1981〕 〔

と り わ け 未 来 に ——

二つの契機から構成

いくらでも延長しうるものとして感覚され

ているのだ。 こ の よ う な 二 つ の 契 機 よ り 成 る 近 代 的 な 時 間 が 、 ど の よ う な 機 制 に 媒 介 さ れ

時 間 は 、 過 去 や 未 来 に ——

時間は、直 線 あ る い は 線 分 に よ っ て 表 象 さ れ る 。 第 二 に 、 時 間 の 流 れ は 無 限 で あ る こ と 。

されている。第 一 に 、時 間 は 帰 無 し て い く 不 可 逆 な 流 れ で あ る と い う こ と 。 し た が っ て 、

近 代 の 時 間 意 識 は 、 ——

の時間についての感覚を生み出したのはなぜか、が明るみに出されるかもしれない。

代 的 な 時 間 が 、 そ の す ぐ 脇 に 、 自 ら と 表 裏 を 逆 転 さ せ て し ま っ た よ う な 、 対 極 的 な タイプ

的な時間の存立を可能にしている仕組みを概観しておく必要があろう。 このことから、近

して現れてきたに違いない。 そうであるとすれば、 わ れ わ れ は こ こ で 、 ご く簡 単 に 、 近代

措定である。 しかしそれは、間違いなく、近 代 社 会 のただ中から、近 代 的 な 時 間 の 転 回 と

オウム真理教が提起してきたような破局的な終末論は、近代的な時間に対する完全な反

二つの終末論

1

144

原 始 的 な 共 同 体 に お い て も 都 市 化 さ れ た 文 明 に お い て も ——

て成立しえたかを問わなくてはならない。 古 代 に お い て は ——

、 時間

を直線や線分として表象するよりも、 反復や循環として表象する方が圧倒的に主流であっ

と し て 感 覚 す る よ う に な っ た の は 、古

た 。 仏 教 や ヒ ン ド ウ ー 教 の 「輪 廻 」 の 思 想 も 、 時 間 を 循 環 と し て 描 き だ す 観 念 の 一 種 で あ る。 そ の 中 に あ っ て 、 時 間 を 、 厳 密 に 直 線 線分

)

代 ユ ダ ヤ に起 源 を も つ よ う な 精 神 的 な 伝 統 ヘブライズム

の内から現れてくる。

る 」 よ う な 循 環 す る 時 間 を 念 頭 に 置 い て いる。 始 め と 終 わ り が 区 別 さ れ る 真 正 な 終 末 論 は 、

等 に よ れ ば 、 そ の 初 期 の 思 想 は 、 「始 め と 終 わ り と が 神 の 約 束 に よ っ て 結 ぴ 合 わ さ れ て い

は 循 環 す る の で あ っ て 、 本 当 の 終 わ り は こ こ に は な い。 ユ ダ ヤ 教 に お い て も 、 プ ル ト マ ン

し か し 、 そ れ ら の 終 末 論 に お い て は 、 終 わ り が 同 時 に 始 ま り で も あ る の だ 。 つまり、 時 間

の 終 末 論 で あ れ ば 、 ユダヤ教以 外 に も 、 た と え ば バ ビ ロ ニ ア や ア ス テ カ に も 見 出 さ れ る 。

が完成したからである。 こ こ で 「 真 正 な 」 と 形 容 し た の は 、次 の よ う な 意 味 で あ る 。 広義

古代ユダヤ教が、時間を不可逆な線分として描いたのは、 そこにおいて、真正な終末論

)

代 の ユ ダ ヤ 社 会 で あ る 。 そ し て 、 原 型 的 な 近 代 、 つ ま り 西 欧 の 近 代 は 、 明 ら か に 、 この古

(

(

と 新 し い 世 界 未来 (

と を 区 別 す る 終 末 は 、 一回 起 的

後 期 ユ ダ ヤ 教 に お い て、 つ ま り 『 ダニエル書 』 な ど の 黙 示 文 学 において現れる。真正な終 末 論 に お い て は 、 古 い 世 界 現在

)

)

であり、 それゆえ時間 は 厳 密 に 不 可 逆 な も の と 見 な さ れ る の だ 。

第四章終末という理爆

145

(

——

だがユダヤ教の終末論—

も ち ろ ん こ れ が キ リ ス ト 教 と イ ス ラ ム 教 に継承されていった

は、 オ ウ ム 真 理 教 に 代 表 さ れ る 今 日 の 新 新 宗 教 の 終 末 論 と は 、根 本 的 な と こ ろ で 、 異

な っ た 様 相 を 呈 し て い る 。 オ ウ ム の 終 末 論 は 、破 局 の 過 程 に 、 つまり世界を否定すること

に焦点をおいている。 他方 、 ユダヤ教の終末論は、 もちろん、終末後の世界における救済

に こ そ 関 心 の 中 心 が あ る 。 両 者 を 区 別 す る た め に 、 オ ウ ム 真 理 教 型 の 終 末 論 を 「否 定 的 終

が あ っ た と い う ことを、 ま ず は 確 認

末 論 」、 ユ ダ ヤ 教 の よ う な 古 典 的 な 終 末 論 を 「肯 定 的 終 末 論 」 と 、 そ れ ぞ れ 呼 び 分 け て お こう。 近 代 的 な 時 間 の 起 源 に 終 末 論 肯 定 的 終 末 論



想 定 さ れ て い る 以 上 、時

時間は、有限長でなくてはならないのだ

Q

)

)

し て お き た い 。 し か し 、 こ こ で は 、 終 末 が そしてまた創世が 間 は 無 限 で は あ り え な い 。 この現実世界の

)

(

(

仰の厚い者が、 それにもかかわらずとりわけ不幸であるという事態は、 ウ ェ ー バ ー が 「 苦

的な規模の多くの苦難に彩られていた、 ということが主要な原因となっているだろう。信

進的な大帝国に囲まれており、 それらの大帝国に何度も迫害されたため、 その歴史が民族

ユ ダ ヤ 教 に お い て 真正な終末論が確立されえたことに関しては、 ュダヤ民族が古代の先

からの転換によって、生み出されたのである。

代 の 「 絶 対 に 終 わ ら な い 時 間 」 は、 何 ら か の 理 由 に 基 づ く 、 有 限 の 「 絶対に終わる時間」

(

現在の苦難は現実

現在を否定する態度を産み、 それは、未来にもたらされるはず

難の神義論」 と呼んだ神学上の難題を提起することになる。真木悠介が 論 じ て い るように、 現実

H

H

の救済への希望によって補償されることで、耐えうるものへと変換されたに違いない。 こ

もはや逆戻り

救 済 さ れ る 、 と す る 終 末 論 に 帰 結 す る 。 終末論の

う し て 、 未 来 の あ る 時 点 に 、 つ ま り 終 末 の 時 点 に 、 し か る べ き 者 た ち が —— す る こ と の な い よ う な 形 態 に お い て ——

形成に特に与った聖書中の重要な文章は、不幸なユダヤ民族の歴史の中でもとりわけ不幸

な 時 期 に 成 立 し て い る た と え ば 、 麻 原 彰 晃 も 予 言 の 根 拠 の 一 つ と し て い る 『ヨ ハ ネ 黙 示 録 』

ということが、 この推論を傍証するだろう。

は 旧 約 で は な く 新 約 の 文 献 だ が 、 こ れ は 、 ロ ー マ 帝 国 の ユ ダ ヤ 民 族 へ の 弾 圧 が と り わ け厳 し く 、 エルサレムが陥落した時代に書かれた

未 だ に 救 済 さ れ て い な い 理想に到達していない (

欠如

念 さ れ 、 それとの相関によって、現在と歴史に意味が付与された。 この意味づけの奇妙な

も ち ろ ん 、 終 末 後 の 世 界 こ そ が 、 ユダヤ教を信仰する者にとって、究 極 の 理 想 と し て 想

)

)

終末論は、 西欧中 世 の キ リ ス ト 教世 界 に 受 け 継 が れ る 。

、 そ れ 自 身 聖 化 さ れ 、 逆 説 的 に 救 済 の 確 信 を 高 め る ように

効 果 の 一 つ は 、 苦 難 そ の も の が —— の 状 態 に あ る と い う こ と が —— 作 用 し た 、 という ことである。

有限の時間 後 期 ユ ダ ヤ 教 が 生 ん だ 肯定的

)

す な わ ち 、 西 欧 は 、 中 世 に お い て初 め て 、 キ リ ス ト 教 の 影 響 で 、 時 間 の 不 可 逆 性 リ 直 進 性

終末という理想

第四章

M7

(

(

を 確 立 す る の で あ る 。 一 般の 民 衆 の 水 準 で こ の よ う な 時 間 が 受 け 入 れ ら れ た の は 、 ほ ぼ 紀

元 一 〇 〇 〇 年 頃 で あ っ た と 推 定 さ れ て い る 。 そ れ 以 前 は 、 西 欧 に お い て も 、 一般の人々に

とっては、時間は円環するものだったのである。 もちろん、 西欧中世が確立した直進する 時間は、終末論的な構成に規定された有限の時間であった

て は 馴 染 み の な い も の で あ る 。 す な わ ち 、 時 間 の 中 を 非 常 に 長 く ——

は、 可 滅 性 、 (fempus) 」

あるいは無限に—

た と え ば ——

ベネディクト

ア ン ダ ー ソ ン が 指 摘 し て い る こ と だ が ——

中世の教会にあ

は、 可 滅 的 な 時 間 内 存 在 は 、 彼 ら の そ れ ぞれの人生に即して充実していただろう。

も っ て 経 験 し う る 範 囲 で 、時 間 的 に も 空 間 的 に も ほ ぼ 完 結 し て い た の で あ る 。 その意味で

ではない。 そ う で は な く 、始 ま り と 終 わ り の あ る 世 界 の 拡 が り が 、彼 ら が具体的に身体を

こ の こ と は 、中 世 の 人 々 が 現 世 の 優 さ に 悲 嘆 し て い た 、 ということを意味しているわけ

りもなく繰り返す、最初の人間も最後の人間も存在しない等々といった言明である。

ストに加えている。謬説とされたのは、始まりの運動はない、消滅と生成は始まりも終わ

教 会 は 、 時 間 の 無 限 の 長 さ を 前 提 に す る よ う な 発 言 を 、 公 式 に 、 「断 罪 さ れ た 謬 説 」 のり

非 持 続 性 と い っ た イ メ ー ジ と 結 合 し て お り 、連 続 性 、永続性の反対語で す ら あ っ た の だ 。

存 在 し 続 け る も の と い う 観 念 は 、 こ の 段 階 に は 存 在 し な い 。 「時 間

したがって、 われわれが今日も っ て い る 「 連 続 性 」、 「永 続 性 」 の 観 念 は 、 中 世 人 に と っ

Q

るレリーフや絵画が表現している「 古代」や 「 起 源 」 は 、 わ れ わ れ の 眼 か ら み る と 、 あま



148

り に も 「現 代 的

同 時 代 的 」 である。 つ ま り 「 時代考証」がまったくなされていないよう

に 見 え る の で あ る 。 キ リ ス ト の 生 誕 を 表 す 絵 画 の 中 で 、 聖 母 マ リ ア は 、 一世紀のセム族の

衣 装 を 着 て い る の で は な く 、中世都市の商人の娘の典型的な衣装を身につけていたりする

わ け だ 。 こ の よ う な 表 現 が 中 世 の 礼 拝 者 に と っ て 自 然 で あ っ た と い う こ と は 、 彼 ら にとっ

て、 キ リ ス ト 生 誕 や 楽 園 追 放 や 天 地 創 造 が 、 遥 か な 古 代 の 出 来 事 で は な く 、 彼 ら が 具 体 的

に経験したり、直接に伝え聞くことができる範囲を少しばかり外挿的に延長しさえすれば

到達できる程度の過去であったことを意味する。時間的な深度が非常に浅いのである。

未 来 に つ い て も 同 じ で あ る 。 マ ル ク ブ ロ ッ ク が 述 べ て い る よ う に 、 キ リ ス ト の再 臨 は 、

永続ということ

ったことがわかる。

ボ ー ヴ ォ ワ ー ル が 表 明 し た よ う な 感 覚 は 、 西 欧 中 世 に と っ ては、 ま っ た く縁 遠 い もの で あ

「こ の 世 の 終 わ り に め ぐ り あ わ せ た わ れ わ れ 」 と い う 表 現 を 繰 り 返 し 使 っ て い る と い う 。

い と 実 感 さ れ て い た の だ 。十 二 世 紀 の 有 名 な 年 代 記 者 、 フ ラ イ ジ ン グ 司 教 オ ッ ト ー は 、

も う い つ 訪 れ て も 不 思 議 が な い 段 階 に あ る と 考 え ら れ て い た 。 つまり、 世 界 の 終 末 は 、 近



だ が 、 中 世 の大 転 換 期 に、 つ ま り 十 二 〜 十 三 世 紀 に 、 少 な く と も 、 ス コ ラ 哲 学 に 精 通 し

第四軍緒末という理想

149

U

て い る よ う な 知 識 人 の水 準 で は 、 時 間 意 識 に 関 し て も 大 き な 変 化 が 生 じ た 。 時 間 に 内 在 す

る 連 続 性 、 永 続 性 と い う こ と が 有 意 味 で あ る と 見 な さ れ る よ う に な り 、 また、 世 界 が時間

的 な 始 ま り を も た な い 永 遠 の も の で あ る と 理 解 し て も キ リ ス ト 教 の 教 義 と矛 盾 し な い と す

ら 考 え ら れ る よ う に な っ た の で あ る 。 時 間 の無 限 性 へ の 一 歩 が 踏 み 出 さ れ た の だ 。 あ る い

は、 少 な く と も 、 各 個 人 や 共 同 体 の 直 接 の 経 験 を 遥 か に 越 え る 時 間 の 長 さ と い う こ と に つ

い て の 想 像 力 が 芽 生 え た の で あ る 。 問 題 は 、 何 が こ の 転 換 を も た ら し た のか、 であ る 。

少 な く と も キ リ ス ト 教 神 学 の 領 域 で は 、 時 間 意 識 の 変 容 と 並 行 し て い た 二 っ の 変 化 に注

目 し て お か な く て は な る ま い 。 第 一 に 、 ア リ ス ト テ レ ス の 哲 学 が 導 入 さ れ 、 そ れ がと り わ



参 照 。 もち 1991〕

ア ク イ ナ ス に よ っ て 消 化 さ れ る こ と で 、 人 間 の 経 験 を 越 え た 、 神 の 絶 対 の 〈超

〈無 限 性 〉 が 、 厳 密 に 確 立 し た こ と が 重 要 で あ る 落 合 仁 司

)

けトマス 越性〉

(



と が で き な い 、 絶 対 的 に 〈超 越 論 〉 的 な 存 在 と さ れ て は い た 。 し か し 、 こ の こ と は 、

ろ ん 、 ユ ダ ヤ —キ リ ス ト 教 に と っ て は 、 神 は 、 も と も と 、 人 間 の 経 験 を 通 じ て 規 定 す る こ

U

い て は 、 人 間 の 経 験 的 な 操 作 の 及 び う る 〈内 在 〉 的 な 存 在 者 と し て 扱 わ れ て き た 。 こ の よ

特 に 民 衆 的 な 想 像 力 の 中 で は 、 厳 密 に は 保 持 さ れ て は い な か っ た だ ろ う 。神 は 、実質にお

( )

性 〉 が 、 神 が 創 造 し た 世 界 の 時 間 的 な 無 限 性 を 基 礎 づ け る 、 という連

う な 誤 謬 を 撤 去 し て 、 神 の 〈超 越 性 〉 を 厳 密 に 理 論 的 に 基 礎 づ け た の は 、 と り わ け ア ク イ ナスの功績である。 神 の 絶 対 の 〈国

®

150

そ れ に 対 し て 、 「永 遠 」 は 、

の 視 点 に 相 関 し て い る 。 〈超 越 性 〉 の 理 論 的 な

の視点に対して現れる時間の様相である つまり神—

そ れ は 「天 使 」 の 視 点 な の だ 。 一永続

永続 が 概

u w u m ) 」と い う 三

つ目



関 は 、 い か に も あ り そ う な こ と に 見 え る か も し れ な い 。 し か し 、 神 の 絶 対 の 〈超 越 性 〉 だ

」 というカテゴリーは、可滅性を本性とする時間であった。 (tempus)

け で は 、 ま だ 、 決 し て 時 間 に 内 在 す る 永 続 と い う 観 念 は 帰 結 し な い 。 今 し 方 述 べ た ように 中 世 に お い て 「時 間

こ れ と 対 を な す カ テ ゴ リ ー は、 「 永遠 である。 こ の 「 永 遠 」 は、 今 問 題 に (aeternitas)」 し て い る 永 続 性 と 同 じ も の で は な い 。 「永 遠 」 が 意 味 し て い る の は 、 無 時 間 的 な 永 遠 性 で

つ ま り 人 間 ——

あ り 、 そ れ は 、 時 間 に 完 全 に 外 在 し て い る か ら だ 。 「時 間 」 は 、 現 世 に 〈内 在 〉 す る も の —— 現 世 を 〈超 越 〉 す る も の ——

整 備 は、 さ し あ た っ て 、 「 永遠」 の水準の意味を厳密化するのみである。

が導 入 さ (aevum) 」 であ る 。 =992 〕

し た が っ て 、 中 世 の 哲 学 が 果 た し た 第 二 の 理 論 的 な 躍 進 と は 、 「時 間 」 と 「永 遠 」 のど ち ら で も な い 、 両 者 の 中 間 に 置 か れ る べ き カ テ ゴ リ ー と し て 「永 続 れ た こ と で あ る 。 こ の 革 新 の 意 義 を 強 調 し た の は 、 カ ン ト ー ロヴ ィ チ

あ る い は 時 間に抗する

と こ ろ で 、 「時 間 」 は 人 間 の 視 点 に、 「 永 遠 」 は 神 の 視 点 に 、 そ れ ぞ れ 相 関 し て い るので あ っ た 。 非 時 間 的 な 永 遠 で は な く 、 時 間 化 さ れ た ——

-

念 化 さ れ う る た め に は、 人 間 で も 神 で も な い 第 三 の 視 点 が 導 入 さ れ な く て は な ら な い 。 そ の第三の視点とは何か?

り1第四章終末という理/

Q

の カ テ ゴ リ ー が 成 立 す る こ と が で き た の は 、 一神 人 間 」 の 単 純 な 二 項 対 立 を 越 え た 天 使 /

の 概 念 が 整 備 さ れ た こ と の 産 物 で あ っ た 。 天 使 と は 、 神 と 人 間 を 媒 介 す る 存 在 者 、 〈超 越 〉

と 〈内 在 〉 を 往 還 す る 存 在 者 に ほ か な ら な い 。 天 使 の 媒 介 的 な 視 点 を 発 見 し た こ と に よ っ て、 終 末 論 的 な 直 進 す る 時 間 に 、 永 続 性 と い う 性 質 が 付 加 さ れ た の だ 。

決 し て 終 わ ら な い 時間

一 人 一 人 の 信 走 の 水 準 に ま で 一 般 化 す る こ と で あ っ た 。 要 す る に 、 宗 教 改 革 と は 、 キリス

て 逆 に 言 え ば 人 間 の 絶 対 的 な 従 属 性 を 、 制 度 や 実 践 に お い て も 実 質 的 な も の と し 、 それを

し た こ と は 、 ア ク ィ ナ ス が 思 弁 の 上 で の み 確 保 し た 神 の 絶 対 的 な 〈超 越 性 〉 を 、 し た が っ

し か し そ れ は 、 さ し あ た っ て 、 理 論 や 思 弁 の 問 題 で あ っ た 。 ルタ—以降の宗教改革が果た

ア ク イ ナ ス の 哲 学 が 確 認 し よ う と し た こ と は 、 述 べ た よ う に 、 神 の 〈超 越 性 〉 で あ る 。

準で真に実質を獲得するのは、宗教改革以降のことであろう。

している。中世後期のスコラ哲学が実現しようとしていたことが西欧において民衆的な水

しかし、 スコラ哲学のインパクトは、主要には、 ラテン語を読む知識人の水準にのみ属

「不 可 能 な 教 義 」 と し て の 予 定 説

2

152

ト教の原理主義運動なのである。

ル タ — は、修 道 院 的 な 秩 序 の 価 値 を 否 定 す る こ と を 通 じ て 宗 教 改 革 の 端 緒 を 開 い た 。 修

彼岸的な価値を地上 現

(

に お い て 具 現 す る 制 度 と し て 受 け 取 ら れ て し ま う か ら で あ る 。 人 間 が 経 験 し うる

道 院 が 否 定 さ れ な く て は な ら な い の は 、 修 道 院 が 、 〈超 越 〉 的 実世界

H

世界の内に具現する、 などということは決してありえないはずだ。 つまり神

〈超 越

(

H

フはここにある。修 道 院 の 否 定 の 結 果 は 、 し かし、修 道 院 の 普 遍 化 世 界 化 と で も 呼 ぶ べ

性 〉 は 、 厳 密 に 不 可 視 の 抽 象 的 な 実 在 で な く て は な ら な い 。 ル タ — の 修 道 院 否 定 の モチー



世 界 を 神 が 絶 対 的 に 〈超 越 〉 し て い る な ら ば 、 特 権 的 な 何 も の か が そ れ を 経 験 的 〈 内在〉

)

らねばならないのだ、 といっているが、 こ れ は 宗 教 改 革 の 性 質 の 説 明 と し て ま こ と に核心

革 の 意 義を明らかにしようとして、 い ま や す べ て のキ リ ス ト 者 は 生 涯 を 通 じ て 修 道 僧 に な

き も の で あ る 。 ウ ェ ー バ ー は 、 こ う 言 っ て い る 。 「既 に セ バ ス チ ャ ン 。フ ラ ン ク は 宗 教 改



)

U

だろう。 しかし、 このような制度を一掃すれば、宗教的な

で は 、 日 常 生 活 か ら の 退 却 が 是 認 さ れ 、 行 為 が 直 接 に 宗 教 的 な 意 味 を 帯 び た —— 済 に 奉 仕 す る と み な さ れ た ——

つまり救

を衝いたものである」 ( w e b e r 〔 1962 〕 と 。 修 道 院 に 類 す る 秩 序 を 地 上 か ら 排 す る こ と は 、 〈超 越 〉 的 宗 教 的 な 目 的 リ 理 想 を 、 直 接 に 追 求 す 左 こ と の 不 可 能 性 を 結 果 す る は ず だ 。 〈超 越 性 〉 を 具 現 す る 制 度 で あ る 修 道 院

8 0

-

目 的 に 直 接 に 貢 献 す る よ う な 行 為 の 場 は、 失 わ れ て し ま う 。

第四簟終末という理窟

153

)

理 想 を 、 人 間 的 な 手 段 か ら 完 全 に 分 離 し てしまう

宗教

ル タ — が 先 鞭 を 付 け た こ の方 向 を 純 粋 化 し 、 徹 底 さ せ た の が カ ル ヴ ァ ン で あ る 。 カ ル ヴ アン派は、宗 教 上 の 究 極 の 目 的

Q

理 想 と は 、 言 う ま で も な く 、 神 に よ る 救 済 で あ る 。 カ ル ヴ ァ ン が唱えた

"

神 の 意 志 神の選択

は す で に 決 定 さ れ て お り 、 人 間 の 行 為 は そ の 神 の 意 志 に いささかも

)

し か し 、 ウ ェ ー バ ー が 熱 烈 に 論 じ た こ と だ が 、 救 済 と 人 間 的 な 手 段 日常の実践

のこう

)

たのはなぜだろうか?

理 想 と 人 間 的 な 手 段 と の 分 離 は 、 「目 的

手 段 」 図式の

変換させることになったのだ。 このような逆説的な帰結が生じ

とりあえず、 まず究極の目的

)

な ら な い 。 「目 的

手段」図式が機能し続けるためには、第 二 章

節 で ボ ー ヴ ォ ワ ー ルの

3

な く て は な ら よ ハ 。 さもなければ、未来のいずれかの時点で、目的と手段が直接に合致し

言 葉 に 言 及 しながら述べたように、常に、 より遠方の未来に、後続の目的が設定され続け

/

実 効 性 を 厳 密 に 確 保 し よ う と し た こ と の 結 果 で あ る 、 と い う こ と を 確 認 し ておかなくては

/

つまり宗教的な手段へと

し た 完 全 な 分 離 が 、 か え っ て 、 日 常 的 な 実 践 の 全 体 を 、宗 教 的 な 意 味 を 帯びたものへと

(

行 為 が 、救 済 と い う 最 高 の 理 想 に 貢 献 し て い る と み な さ れ る 可 能 性 が 失 わ れ る 。 ところが、

的 に 救 済 に 結 び つ く 、 と 考 え る こ と は ま っ た く 拒 否 さ れ る の だ 。 こ う し て 、 人 間 の一切の

影 響 を 与 え る こ と が で き な い 、 と い う も の で あ る 。 たとえば、善行を積むことが因果応報

(

の が 有 名 な 予 定 説 で あ る 。 予 定 説 と は 、 誰 が 救 済 さ れ ま た 誰 が 救 済 さ れ な い か は 、 つまり

上の究極の目的

ü

N

(

154

手 段 」 図 式 が 機 能 し な く な る 。 そ れ ゆ え 、 「目 的

手段」

時間的な連鎖か

/

てしまうだろう。そこではもはや、目的との相関において手段リ行為の価値を評価すると い う 態 勢 が 、 す な わ ち 「目 的

図式の実効性を厳密に確保するためには、究極の目的を、行為の経験的

し た が っ て 「目 的

(

)

、 そ れ 自 身 、 「目 的

と 手 段 人間の実践

手 段 」 関 係 の 破 壊 は ——

予 定 説 な の で あ る 。 だ か ら 、予 定 説 に お け る 、 目 的 救済 離 リ 無 関 連 化 は ——



の分

/

)

確率を高 め る

で あ る 。 し か し 、 究 極 の 目 的 ル 理 想 が 、 完 全 に 〈超 越 〉

理 想 は 設 定 されている

(

理想に到達することはない。要するに、終

と い う 構 成 自 身 が 、無 意 味 化 し て し ま っ た。 目 的

が 、 行 為 を い か に 積 み 重 ね て い っても 、 目 的

H

的 な 場 所 に 設 定 さ れ 、 抽 象 化 し た 結 果 、 経 験 的 な 行 為 に よ っ て 、 目 的 に 漸 近 す る 救済の

終 末 論 始めと終わりをもつ時間

このような構成の中から、 はじめて、時間の無限性が成立する。 予定説も、 も ち ろ ん 、

段」関係を恒常的に維持しようとしたことの結果なのだ。

/

(

ら 離 脱 し た 、 純 粋 に 〈超 越 〉 的 な 場 所 に 設 定 す る ほ か な く な る 。 そ の 教 義 上 の 表 現 こ そ が 、

M

/ )

繰り返し確認しておけば— —— 、 神 の 絶 対 の 〈超 越 性 】 を 、 つ ま り 人

に と っ ては、 時 間 は、 無 限 の 長 さ を 有 す る も の と し て 、 実 質 的 に は 現 象 す

以 上 の 結 果 は 、 ——

る こ と になるだろうや

す る 者 人間

わ り が 設 定 さ れ て い な が ら 、 決 し て 終 わ ら な い の で あ る 。 こ の と き 、 経 験 的 な 世 界 に内 属

H

) )

間 の絶 対 の 従 属 性 を 、 厳 密 に 確 保 し た こ と の 結 果 で あ る 。 宗 教 改 革 の 産 物 で あ る 清 教 徒 に

第四章終末という理輝

D5

(

(

おいてこの点 が い か に 徹 底 し て い た か と い う ことは、 た と え ば 、 ウ ィ リ ア ム

ペイドンの

シエパードとを比較





研 究 が 示している。 ペイドンは、 四世紀後半から五世紀 に か け て 生 き た 修 道僧 ョ ア ネ ス カシアヌスと一七世 紀 前 半 の ニ ュ ー イングランドの清教徒ト マ ス



う る と 考 え る こ と 自 体 が 、根 本 的 な 過 ち な の で あ る 大 澤 〔 参照 。 1996 〕 プ ロ テ ス タ ン ト が 、 神 の 〈超 越 性 〉 を 厳 密 な 意 味 で 確 保 し よ う と し て 、 神 を 抽 象 化 し た

それに対 し て 、 シェパード に と っ て は 、 人 間 が い さ さ か な り と も 救 済 の た め に 何 か を な し

し て い る。 カ シ ア ヌ ス に と っ て も 、 傲 慢 は 悪 徳 だ が 、 数 あ る 悪 徳 の 一 つ に し か す ぎ な い 。



)

予定説

性 を 高めるものとして、 つまり理想の実現の可能性が高まるものとして、特定の行為の形

の 形 式 を ど の よ う に も 方 向 づ け る こ と は で き な い は ず だ 。 つまり、 予 定 説 は 、 救 済 の 可 能

に従えば、人 間 の 行 為 は 救 済 に ま っ た く 貢 献 し な い の だ か ら 、 結 局 、 それは、 人間の行為

説が人々を捉え、 その行為を規定することは、 およそ不可能なことではないか?

う。 も し 人 間 の 行 為 が 救 済 の 可 能 性 に 何 ら の 影 響 を 与 え る こ と も な い の だ と す れ ば 、 予定

になる。 ここ ま で 、 こ の よ う に 論 じ て き た 。 し か し 、 誰 も が こ こ で 疑 問 に つ き あ た る だ ろ

に 到 来 す る 可 能 性 は 、 事 実 上 否 定 さ れ て し ま う 。 そ の 結 果 と し て 、 時 間 が 無 限 化 す る こと

とき、 そ の 結 果 と し て 、終 末 が 、行 為 の 経 験 的 な 因 果 連 鎖 の 先 端 に 、 要 す る に此 岸 の 世 界

(

じていない、 ということと同じことに帰するのではないか?

言 い 換 え れ ば 予定説

式を推奨することはできないだろう。 そうであるとすれば、予定説を信じるということは、 何も



こ と に よ っ て —— の 時 間 的 空 間 的 社会的 )

( (

設 定 す る こ と は 、 共 同 体 が か か げ る 規 範 文化

)

の 意 義 妥当範囲

た と え ば ヤ マ タ イ 国 論 争 ——

を 普 遍 的 な も の とし

こ の た め で あ る 。 そもそ

民族が、 どこでも、古代史や

)

代 の 経 験 的 な 出 来 事 たとえばヤマタイ国や大和朝廷 (

)

に求められていたのは、共同体が普

普遍化を実現してしまった場合には、歴史意識に特異な変容が生ずる。 共同体の起源が古

だが、第三者の審級が普遍化の不可能性を自ら具現してしまうことで、逆説的に完全な

成立して以降のことである。

も、 歴 史 が 大 学 の 中 で 講 座 を も つ ほ ど に 有 力 な 学 問 と な っ た の は 、 一九世紀に国民国家が

考 古 学 に 異 常 に 関 心 が あ る の は ——

て確保しようとする傾向の、時間軸への反映である。国 民

(



(

れ、自 ら を そ の よ う な 過 去 か ら 連 続 す る も の と 見 な そ う と す る の で あ る 。 起 源を 過 去 深く

歴史意 識 の 深 化 と で も 呼 ぶ べ き 現 象 が 帰 結 す る 。 共 同 体 の 起 源 が 非 常 に 古 い 過 去 に 求 めら

共 同 体 が 、第 三 者 の 審 級 を 普 遍 的 な 意 義 を 有 す る も の と し て 確 保 し よ う と し た 場 合 に は、



258

遍化へ の 傾 向 を 宿 し な が ら そ れ が 完 結 し て い な か っ た か ら で あ る 。 し か し 、 今 や 、 共 同 体

の同一性を規定する第三者の審級の普遍化が完結したかのように、事態は現れている。 こ

のとき、 共 同 体 の 起 源 は 、 可 能 的 な 経 験 的 歴 史 の す べ て の 端 緒 で な く て は な ら な い だ ろ う 。

したがって、 それは、任意の経験的歴史を越えたさらなる過去に、 歴史以前の歴史に求め

ら れ な く て は な ら な い は ず だ 。 こ う し て 、 経 験 的 歴 史 の さ ら な る 過 去 に あ る も う 一つ の 幻

想 的 な 歴 史 に 、 た と え ば 超 古 代 や 輪 廻 の 時 間 に 、 自 ら の 起 源 を 求 め ら れ る の で あ る 。 この

と き 、 歴 史 的 時 間 は 、 一方では異様に深く、 他 方 で は 異 様 に 浅 い 。 す べ て の 過 去 を 遡 る 過

去が主題化されている点では、歴史的時間は非常に深いとも言えるが、現在が途中を省略

し て 一 挙 に 超 古 代 に 短 絡 し て し ま っ て い る と 感 覚 さ れ て いる点 で は 、 そ れ は 、 こ れ 以 上 あ りえないほどに浅い。

だか ら 、 ここには、次 の よ う な 逆 立 の 関 係 が あ る 。第 三 者 の 審 級 が 抽 象 化されている限

りは、 それを奉ずる共同体は、自 身 の 過 去 を 経 験 的 な 歴 史 の 内に求める。 しかし、 第三 者





の 審 級 が 具 象 的 な も の と し て 経 験 の 領 域 に 回 帰 し た 瞬 間 に 、 共 同 体 は 、 その起 源 を、 経 験

こ う し て 設 定 さ れ た 幻 想 的 な 歴 史 は 、 オ ウ ム の場 合 、 彼 ら を 結 ぶ 「極 限 的 に 直 接 的 な コ





ミ ュ ニ ケ ー シ ヨン」 が 投 影 さ れ る ス ク リ ー ン の よ う な 役 割 を 果 た し て い る よ う に 思 わ れ る 。

的 な 歴 史 の 外 部 の 幻 想 の 内 に 求 め る こ と に な る のだ 。

た と え ば 、 麻 原 と弟 子 と の 関 係 が 、 前 世 で の 親 子 関 係 等 の 因 縁 に よ っ て 説 明 さ れ る わ け だ 。

^

あ る い は 、 オ カ ル ト 雑 誌 の 投 稿 者 た ち が 、 自 分 た ち の 「前 世 名 」 を か か げ 、 そ れ に 「ピン

物 理 的 に は遠く離れ

者 同 士 の 間 の 直 接 的 な 感 応 の 関 係 は 、 「極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 」 を

と く る 人 」 を 探 す と き 、 彼 ら に よ っ て 期 待 さ れ て い る 、 見 知 ら ぬ —— た ——

擬 態 す る ものでもあろう。 こうして、 通 時 的 な 歴 史 意 識 は 、 共時的な社会空間の感覚とも 連動している。

自分自身オウムのことが感覚的によくわかるが、 まさにそれだけに許せないと告白する

日二 一995



こ こ で 「大 人 」 に な っ て い な い と い う の は 、 自 己 と 社 会 の 間 の 断

切 通 理 作 の オ ウ ム 批 判 の ポ イ ン ト は 、 彼 ら が 「大 人 」 と し て 成 熟 し て い な い 、 と い う こと にある 切通

面 識 関 係 の 積 み 重 ね に よ る ——

コミュニケーション

の ネ ッ ト ワ ー ク と は 不 関 与 な 、 抽 象 的 な 統 一 体 と し て 認 識 さ せ る こ と に な る だ ろ う 。 たと

を 、 自 己 自 身 を 中 心 と し た 直 接 の ——

所 属 す る 共 同 性 の 全 体 を 見 渡 す こ と が で き る 。 第 三 者 の 審 級 の 普 遍 化 は 、 このような全体

第 三 者 の 審 級 に 帰 属 す る 視 点 を 仮 定 し 、 そ れ を 類 推 す る こ と に よ っ て 、 人 々 に 、 自らが

い」 と 指 摘 す る わ け だ 。 個 人 と 社 会 の 断 絶 に 対 す る 鈍 感 さ は 、 ど こ か ら く る の か ?

す る と は 限 ら な い 。 こ の よ う な 断 絶 を 痛 烈 に 自 覚 し て い な い 者 を 、 切 通 は 「大 人 で は な

また諸個人が善意で行為したとしても、全体としての社会にとって善と呼べる状態が帰結

て動いている。 たとえば、自 分 自 身 の 感 性 を 社 会 の 全 体 に 一 般 化 す る こ と は で き な い し、

絶 の 意 識 が な い と い う こ と で あ る 。 通 常 、 社 会 の 全 体 は 、 諸 個 人 と は 異 な っ た 原 理 によっ

(

260

え ば 、 人 が 「日 本 」 と か 「 地球社会」 の一員であるのは、 そういった共同体のメンバーの 一人ひとりを よ く 知 っ て い る か ら で は な い 。

さて、今 、 完 全 に 普 遍 化 さ れ た 共 同 性 を 体 現 す る 第 三 者 の 審 級 が 具 象 的 で 経 験 的 に 対 面

可 能 な 他 者 と し て 確 保 さ れ て い る 、 と し よ う 。 実 際 上 は 、 そ の よ う な 他 者 たとえば麻原

つ ま り 普 遍 化 さ れ た 経 験 可 能 領 域 が 現 実 化 さ れ る 場 と し て ——

現れて

この視野狭窄は、実際上は特殊的な共同体が普遍的な意義を有するものとして短絡的に

することになる。

ち を 包 括 す る 全 体 社 会 に 対 す る 想 像 力 の 極 端 な 貧 困 が 、 つまり社 会 的 視 野 の 狭 窄 が 、 帰 結

な る だ ろ う 。 こうして、自 分 たちとはまったく異なった感覚や思想をもった多様な他者た

純 な 類 推 に よ っ て 外 部 の 社 会 を 想 像 し た と し て も 、 大 過 な い か の よ う に 感 覚 さ れ る ことに

いる。 こ の と き 、 当 然 、 共 同 体 の 各 メ ン バ ー に と っ て は 、 共 同 体 の 内 部 で の 経 験 か ら の 単

き る も の と し て ——

は、 そ の 共 同 体 が 包 括 し う る 内 的 な 多 様 度 こ そ が 、 経 験 の 可 能 的 な 普 遍 性 の 全 体 を 代 表 で

し て も 、 あ る 一 定 水 準 を 越 え る こ と は で き な い だ ろ う 。 し か し 、 他 方 で 、 当 事 者 に とって

を中心にして形成されうる共同体の範囲は、人数に関しても、 またその内的な多様性に関

)

認定されていることからくる。同じ短絡が、社会空間に対してではなく、事象に対して向

け ら れ る と き 、 「オ タ ク 」 的 な 熱 狂 が 帰 結 す る 。 オ タ ク を 定 義 す る の は 、 情 報 の 濃 度 が 意

味 の 濃 度 を 圧 倒 的 に 超 過 し て い る よ う に 見 え る 、 と い う こ と で あ っ た 。 つまり、 他 者 か ら

26工第五章虚構=現実

(

見 れ ば さ し て 意 味 が な い 些 細 な 事 象 に 関 し て 、 圧 倒 的 に 大 量 の情 報 が 収 集 さ れ て い る と き 、

わ れ わ れ は こ こ に 「オ タ ク 」 を 見 出 す の で あ る 。 こ の よ う な 意 味 と 情 報 の 不 調 和 は 、 特 殊

つまり重 要 な 外 部 を も た な い 自

設 定 されていることから帰結するように見える。要するに、 客

で 限 定 さ れ た 主 題 が 、 そ れ 自 身 で 普 遍 的 な 領 域 と し て —— 己 完 結 的 な 宇 宙 と し て ——

観 的 に は特 殊 な 有 限 の 領 域 が 、 可 能 的 な 宇 宙 の 多 様 度 を 集 約 さ せ う る 場 と し て 、 つまり無

限 性 と し て 、 設 定 さ れ て い る の だ 。 逆 に 言 え ば 、無 限 な る も の の 有 限 化として、 それぞれ の 「オ タ ク 」 的 な 主 題 が 囲 い 込 ま れ て い る よ う に 思 わ れ る 。

こ の よ う に 、 時 間 的 に は 超 古 代 の 極 端 な 遠 方 へ と 向 け ら れ た そ の 同 じ 視 線 が 、空間的に



現実







は、 身 近 な 人 々 や 事 象 の 範 囲 に し か 、 つ ま り 極 端 な 近 傍 に し か 向 か わ な い 。

虚構

H

し て 機 能 す る の は い か に し て な の か 、 ということを解明することにあった。長い迂回路を

さ て 、 わ れ わ れ の 本 章 で の 課 題 は 、虚 構 と 現 実 と の 混 交 を 理 解 す る こ と 、虚 構 が 現 実 と

H

5

262

経たのち、 この問題に直面するに相応しい段階に到達した。

第 二 章 の 「哲 学 的 レ ッ ス ン 」 の 項 で 述 べ た よ う に 、 も と も と 、 現 実 に は 〈虚 構 〉 が 張 り

つ い て い る 。 し か も 重 要 な こ と は 、 〈虚 構 〉 の 虚 構 性 が 維 持 さ れ て い る 限 り で 、 つ ま り そ

れ が 直 接 に 現 前 し て い る 現 実 で は な い も の と し て 設 定 さ れ て い る 限 り で 、 〈虚 構 〉 は 、 現

実を枠付け、 現実を維持することを可能にしている、 ということである。

現 実 を ま さ に そ れ と し て 構 成 す る 、 現 実 と 〈虚 構 〉 と の 距 離 は 、 ど の よ う に し て 保 持 さ

〈虚 構 〉 は 、 想 定 さ れ た 第 三 者 の 審 級 に 帰 属 す る 認 知 と し て 、 構 成 さ れ

「 皆がそう思っていること」 として 。 し た が っ て 、 そ の 問 題 の 距 離 は 、 第 三 者 の 審 級 が

れているのか? る

ま さ に 決 し て 経 験 的 な 現 実 の 中 に 現 前 し な い と い う こ と に よ っ て 、 つまりその抽象性によ

)

っ て 保 た れ て い る の で あ る つまり、 〈 虚 構 〉 を 本 気 で 受 け 取 っ て い る 他 者 に は 、実 際 に は 会 う ことが で き な い わ け だ 。

(

の だ が 、 今 や 、 こ の 「と し て 」 と い う 構 成 を 可 能 に し て い た 現 実 と 〈虚 構 〉 の 区 別 が 失 わ

れ で あ る 。 現 実 は 「仮 に 〈虚 構 〉 と し て 」 受 け 取 ら れ る 限 り に お い て 、 意 味 を 与 え ら れ る

償 は 、 今 や 明 白 で あ ろ う 。 〈虚 構 〉 と 現 実 の 間 の 距 離 が 無 化 さ れ て し ま う と い う こ と 、 こ

な 実 体 と し て 直 接 に 経 験 的 な 現 実 の 中 に 登 場 し て い る 、 と い う 事態である。 こ の こ との代

し か し 、 今 や わ れ わ れ が 到 達 し て い る の は 、第三者の審級の抽象性が還元され、 具象的

)

れ て し ま う 。 〈虚 構 〉 は 、 も と も と 現 実 と の 差 異 に よ っ て ま さ に 〈虚 構 〉 と し て の 地 位 を

第五章虚構=現実

263

(

獲得していたので、その差異が消えたときには、 た だ の 虚 構 へと差し戻されてしまう。 こ

た だ の 虚 構 が ——

、直接にそ

の と き 、 第 三 者 の 審 級 に 帰 属 す る も の と し て 認 知 さ れ て い た こ と が ら が 、 つ ま り 〈虚 構 〉 が 、 あ る い は む し ろ すでに現実との距離を失っているので

)

も と も と 、 〈虚 構 〉 が 現 実 と の 間 に 保 っ て い た 区 別 が 、 現 実 に 「深 み 現 実 の 直 接 の 現 前

を言う。

う わ け だ 。 虚 構 と 現 実 は こ う し て 完 全 に 等 置 さ れ る 。虚 構 の 現 実 化 と は 、 こ の よ う な 現象

を分節化するための 擬 制 と し て 受 け 取 ら れ る の で は な く 、 そ の ま ま 直 接 に生きられてしま

のまま、言 わ ば 文 字 通 り に 、完 全 に 現 前 す る 現 実 と し て 妥 当 す る こ と に な る 。虚 構 が 現 実

(

に 還 元 で き な い 何 か が あ る と い う 感 覚 」 を 与 え て い た 。 知 覚 し て い る 「こ れ 」 に 尽 く さ れ

(

虚 構 か ら 奪 わ れ て し ま う 。 「こ れ で す べ て で あ る 」 と

さ れ た と き に 、 現 実 に 深 い 「意 味 」 を 読 み 取 る 余 地 が 失 わ れ て し ま う の で あ る 。 「こ れ

きには、 このような深みが、 現 実

のである。第 三 者 の 審 級 が 経 験 的 に 現 象 し て し ま い 、 問 題 の 区 別 が 抹 消 さ れ て し ま っ た と

て い な い 、 「こ れ 」 と は 異 な る 何 か が あ る と い う 直 観 が 、 現 実 に 深 い 「意 味 」 を 付 加 す る

)

U

現実 」 が す で に 解 釈 の 余 地 も な く 「意 味 虚 構 」 だ か ら で あ る 。 こ れ と 同 じ こ と が 、 メ )

(

)

デ ィ ア 等 に よ っ て 技 巧 的 に 作 ら れ た 「現 実 仮 想 現 実 」 に 対 し て も 妥 当 す る 。 た と え ば 、

(

)

他方では、映像が構成する意味内容やストーリーへの注目度が下降していく、 と 論 じ てい

内 田 隆 三 は 、 今 日 の 映 像 技 術 の 高 度 化 に と も な っ て 、 ー方では、 映 像 の 精 細 度 が 上 昇 し 、

(

264



内田 〔 〕二 こ の 二 つ の 傾 向 に は 相 関 関 係 が あ る だ ろ う 。 あ ま り に 精 細 度 が 高 い 反 1993 は 、 知 覚 さ れ て い る 事 柄 を 越 え た 「よ り 以 上 の 意 味 」 を 浮 上 さ せ る 弾 力 性 を も

想 現実

はやもたないのである。 だが、留意すべきことは、知覚的に現前している仮想現実と意味

との間を隔てる余地を埋めてしまうのは、仮想現実の諸知覚に対する精細度だけではない

虚構も、

と い う こ と だ 。 よ り 一 層 重 要 な の は 、 仮 想 現 実 へ の 態 度 を 規 定 す る 〈超 越 〉 的 な も の に 対

す る わ れ わ れ の 関 係 で あ る 。 と き に 、 オ ウ ム 真 理 教 が 作 っ た 拙 い 精細度の低い そのまま現実となる。

)

て い るように見える、 ということであった。 この奇妙な両立は、次 のように説明されるだ

て い る と い う こ と と 、 そ れ を 「本 気 」 で 受 け 取 っ て い る と い う こ と と が 、 ま っ た く 両 立 し

人 を 戸 惑 わ せ た の は 、 オ ウ ム 真 理 教 に お い て 、 虚 構 に 対 し て ア イ ロ ニ カ ル な 意 識 を もっ

(

ろう。 アイロニカルな意識をもたらしているのは、 その虚構が、自 己 で は な く 、他 者 第 三者の審級

(

に 帰 属 し て い る か ら で あ る 。 信 じ て い る の は 私 で は な く 、 他 者 の 方 だ 、 とい

そ の 他 者 、 そ の 想 定 さ れ た 特 異 的 な 他 者 第三者の審級

)

の認知なのである。 そうである

とすれば、 いかにアイロニカルな意識によって虚構から距離をとっても、 なお行為の水準

(

う わ け だ 。 だ が 、 行 為 の 選 択 に お い て 人 が 準 拠 す る の は 、自 己 の 内 面 的 な 信 念ではなく、

)

で は 、 虚 構 に 内 在 し て し ま う だ ろ う 。 だ が 、 準 拠 と な っ て い る 特 異 的 な 他 者 第三者の審 級

(

が 、 そ の 経 験 的 な 実 在 性 に 関 し て あ る 「曖 昧 さ 」 を も っ て い る 間 は 、 つ ま り 存 在 は 想

第五章虚構=現実

265

( )

定 さ れ て は い る が 経 験 的 な 世 界 の 内 に 十 全 に 現 前 し 尽 く さ れ な い 何らかの程度において

)

つ ま り こ こ で 〈虚 構 〉 と 表 記 し た あ り 方 に 止 ま っ て い る 。 し

白 が 埋 め 尽 く さ れ 、行 為 は 、 ま さ に そ の 虚 構 を 直 接 に 演 ず る も の と し て 現 れ ざ る を え な い 。

かし、 そ の 他 者 が 経 験 的 な 世 界 に 完 全 に 回 帰 し て し ま っ た 場 合 に は 、虚 構 と 現 実 の 間 の 余

的 に か か わ る に 過 ぎ な い ——

抽象的な何かとして想定されている間は、虚 構 は 現 実 と の 間 の 区 別 を 保 ち つ つ 現 実 に構成

(

に 帰 属 す る 判 断 に 定 位 し て い る 限 り で 、 「ア イ ロ ニ カ ル 」 と 形 容 し た く な る よ う な

結 局 、 オ ウ ム 信 者 は 、 一方では、 自 己 が 直 接 に 有 す る 一 切 の 判 断 や 信 念 を 停 止 し て 、 他 者 麻原 )

す る よ う に 選 択されているような状態が、極限に待っているのである。 オウム信者は、 日

ような生の様態が、 つまり自己の一切の行為が他者のために、他者が設定する目的に適合

帰 結 す る 。自己の身体の上に現れるあらゆる行為の選択が自己ではなく、他者に帰属する

こ の よ う な 態 度 の 極 限 に は 、 「他 者 と し て 生 き る 」 と で も 表 現 す る ほ か な い 生 の 様 態 が

他者として生きる

かないのである。

的 な 〈内 在 〉 的 存 在 者 と し て 君 臨 す る が ゆ え に 、 そ の 虚 構 を 「本 気 」 で 文 字 通 り 演 ず る ほ

仕 方 で 虚 構 を 相 対 化 し つ つ 、 他 方 で は 、 そ の 特 異 的 な 他 者 が 〈超 越 性 〉 を 保 持 し つ つ 経 験

(

266

常的な感覚によって充実していない空虚な言葉にこそ魅惑されている、 ということを確認

しておいた。空虚な言葉とは、自 己 に と っ て 疎 遠 なままにとどまる言葉である。要 す る に 、

それは、他者に帰属する言葉であって、自己自身には完全には固有化されえない言葉なの

で あ る 。 だ か ら 、 こ の よ う な 言 葉 の 使 用 は 、 他 者 と し て の 生 へ と 方 向 づ け ら れ て い る こと を示す兆候ではないか。

そ し て 、極 限 の 「 自 己 の 生 が 完 全 に 他 者 に 奪 わ れ て し ま う よ う な 状 態 」 と は 、 つまり

「 自分はもはや自分自身ではなく他者であると主張する状態」 とは、分裂病に代表される

を 作 ら せ 、自 ら 演 じ さ せ 、 そ し て やはり精

そ こ に 含 ま れ て い る 二 つ の 筋 の 内 一 つ は す で に 紹 介 し た 。 も う 一つは 、 精 神 病 者 の 演

よ う な あ る 種 の 精 神 病 に ほ か な る ま い 。 『天 皇 ご っ こ 』 の 第 四 章 は 、 精 神 病 者 の 物 語 で あ る 劇療法に関する物語である。 あ る 精 神 病 院 で 、 患 者 自 身 に 芝 居 “虚 構

チルチルミチルが青い鳥を求めて、

でもあるのか、 と看護婦に尋ねたくらいである。脚 本 は 、自 分 は 皇 帝 だ と 主 張 す る元 大 学

等 の 妄 想 を も っ て い る た め 、 主 人 公 は 最 初 、 「天 皇 を 敬 え 」 と い っ た よ う な 治 療 上 の 方 針

る。 あ ま り に 多 く の 病 者 が 自 分 は 天 皇 で あ る と か 、 天 皇 の ご 落 胤 だ と か 、 皇 后 と 結 婚 す る

されたプロの演出家である。 この物語によると、精神病者の間で、天皇は異様に人気があ

神病患者である観客に見せるという治療を試みる。主人公は、 この演劇療法のために依頼

)

教 授 が 書 い た も の で、 と て も シ ュ ー ル な 筋 で あ る 。 ——

第五章虚構=現実

267

(

0

天 国 や 地 獄 の い ろ い ろ な 強 く 偉 い 人 た ち ヒトラー、 ロシアのツアー、 スタ—リン、 乃木将軍、

の所を巡り歩いた後、最後 に 昭 和天皇の所 に至り付き、 そこで玉音放送を賜る。

から降 り 下 り 、 草 な ぎ の 剣 で天皇がそ

般参賀のとき

演 劇 大 会 は 、 た い へ ん な 治 療 効 果 を 発 揮 し た 。 天皇

の腹を割くと、 そこから青い鳥が出てくる。皇 族が ぞろぞろと出てきて、

とそこに、突然、 八岐のおろちが暴れながら

双葉山等

(

日 常 的 な 状 態 に お い て 、 虚 構 を 文 字 通 り 生 き て い る 。 つ ま り 他 者 天皇

として生きてい

)

し か し 通 常 は 妄 想 と し て 否 定 的 に 扱 わ れ て い た ——

引きつける。最後に、オウム的世界観を披瀝したあのパラノイア患者

T

「天 皇 ご っ

二〇三—— 二〇四

悪 化 し て 、 痴 呆 化 が 進 む 。 そ ん な 中 か ら 、何 人 か の 患 者 が 教 祖 を 自 称 し 、他 の 患 者 た ちを

劇 療 法 は 中 止 に な る 。 突 然天皇を失った患者たちは深い虚無感に陥り、彼らの症状は一律

こ の よ う な 劇 的 な 治 療 効 果 に も か か わ ら ず 、 マ ス コ ミ の 注 目 を 恐 れ た 院 長 に よ って、 演

自己肯定からくる逆療法的な効果に違いない。

こ 」 を 、 患 者 自 身 に 自 覚 的 に 自 己 肯 定 さ せ る こ と に な る だ ろ う 。 演 劇 療 法 の 成 功 は 、 この

す で に 生 き ら れ て い た ——

る 。 だ か ら 、創 作 さ れ た 演 劇 は 、 劇 中 劇 で あ る 。 こ の 劇 中 劇 を 演 じ た り 見 た りす る こ と は 、

(

こ こ で は 、 「ご っ こ 」 が 、 つ ま り 虚 構 を 演 ず る こ と が 二 重 化 し て い る 。 患 者 は 、 す で に

覚や関心を取り戻したのである。

が登場すると急に観客が盛り上がり、 たとえば鬱病患者や分裂病患者が活き活きとした感

の よ う に 皆 で 手 を 振 っ て 終 わ る 。 ——

-

U F O

)

(

268



私に帰依して楽になりたま

が 、 電 気 を 受 け た よ う に し て 啓 示 を 受 け 、 白 馬 に 跨 が り 、 「諸 君 、 私 は 天 皇 で あ る 。

皇 祖 皇 宗 の お ん み 霊 を 体 現 す る ス メ ラ ミ コ ト で あ る 。 ……

は、 病 み き っ た 日 本 と 世 界 を 救 う の だ と 指 示 し て 、 病 院 の正門に向か

え !」 と 演 説 す る と 、 演 劇 療 法 の と き と 同 じ よ う に 、 す べ て の 患 者 が こ れ に 感 応 し て 、歓 呼の声を上げる。



理 想 の 象 徴 だ 。 地 上 に は な か っ た 青 い 鳥 は 、 「こ こ 」 つ ま り 虚 構 の 内 に あ っ た

現 実 へ と 直 接 に 穿 た れ た 穴 の よ う な 場 所 に。 だか

の 「世 界 救 済 への 行 進 」 を 動 機 づ け る こ と が で き た の で あ る 。

コーストのような

ら こ そ 、 そ れ は、

のだ。 しかも、虚構の内にあって地上

ろん希望

や っ ぱ り 本 当 の 青 い 鳥 は 地 上 に は な か っ た ん だ よ ! 」 と い う 科 白 で あ る 。 青 い 鳥 は 、 もち

オ ウ ム を 念 頭 に お い て い る 。 あ の 創 作 劇 の 最 後 は 、 チ ル チ ル の 「よ か っ た ね 、 こ こ に 来 て 。

い て し ま っ た の で あ る 。 こ の 『天 皇 ご っ こ 』 第 四 章 の 結 末 部 分 は 、 ほ と ん ど あ か ら さ ま に

っ て行進すると、 患 者 だ け で は な く 病 院 職 員 ま で も が 、感情失禁して思わず涙を流し、跪

T T

U

=

顕 著 な 特 徴 が あ る 。 第 一に注目されるのは、 と り わ け 地 下 鉄サリン事件や松本サリン事件

麻 原 彰 晃 と オ ウ ム 教 団 の 何 人 か の 信 者 が 引 き 起 こ し た と さ れ て い る 数 々 の 殺 人 事 件 には

à

に 見 ら れ る 、 異 様 な 無 差 別 住 で あ る 。 攻 撃 対 象 は 、 ほ と ん ど 誰 で あ っ て も よ か っ た か のよ

第五車•|=現実

269

)

う で あ る 。 そ こ に は 、 警 察 庁 と か 裁 判 官 のよ う な あ い ま い な 核 が あ っ た と は言 え 、 本 質 的

に は 任 意 の 現 代 人 が 無 差 別 的 匿 名 的 に タ —ゲ ッ ト に な っ て い た の だ 。 第 二 に 、 死 体 の痕

特 徴 は 、 オ ウ ム の 殺 人 と ま っ た く 並 行 し て い る 。 つまり、 そ れ は 、 ホ ロ コ ー ス ト の 隠 喩 に

れ が 、 ナ チ ス の 言 う 「ユ ダ ヤ 人 問 題 の 最 終 解 決 」 と い う こ と だ っ た の で あ る 。 こ れ ら の 諸

しなくてはならず、 そしてまた死体等の痕跡を余すことなく消去しなくてはならない。 こ

去ることに指向している。 そのためには、生き残って証言しうる者を残さず、全員を殺戮

いう点である。 ホロコーストは、 この世界にユダヤ人がいた、 という事実そのものを消し

し て い る ユ ダ ヤ 人 虐 殺 の 第 二 の 特 徴 は 、 それが、 殺 害 の 記 憶 の 抹 殺 を 伴 う 殺 戮であったと

り 、 死 か ら 個 人 性 を ま っ た く は ぎ と っ て し ま っ て い る と い う 点 に あ る 。強 制 収 容 所 が 象 徴

可 能 性 も あ る 。 ホ ロ コ ー ス ト の 第 一 の 特 徴 は 、 ユ ダ ヤ 人 を 無 差 別 的 に 殺 戮 の 対 象と し て お

を 尊 敬 し て い た と 言 わ れ て い る 麻 原 は 、 実 際 、 あ る 程 度 ホ ロ コ ー ス ト を モ デ ル に し ていた

こ の よ う な 殺 人 の 方 法 は 、 ナ チ ス の ホ ロ コ ー ス ト へ の 連 想 を 導 く こ と に な る 。 ヒトラー

あと、 まさに殺されたという事実の痕跡が再び殺されているからだ。

死 体 の 痕 跡 が 完 全 に 滅 却 さ れ て し ま う 。 言わば、 信者は二度殺されているのだ。殺された

り、 さ ら に 残 っ た 遺 骨 は 硝 酸 に よ っ て 溶 解 さ れ 、排 水 口 か ら 流 さ れ たという。 こうして、

裏 切 り 行 為 」 の 疑 い で 殺 害 さ れ た 信 者 の 死 体 は 、 何 日 も か け て マ イ ク ロ 波 で焼 却 さ れ て お

跡 を 抹 消 し て し ま お う と す る 徹 底 し た 執 念 に 関 し て 、 際 立 っ て い る 。 た と え ば 「教 団 への



270

よって語りうるような殺害の形態なのである。

を経験の領域において )

と し て 所 有 し た こ と に あ る 。 こ の 逆 説 に よ っ て 、 そ の 〈超 越 〉 的 存

オ ウ ム 真 理 教 を も た ら し た の は 、 〈超 越 〉 的 存 在 第 三 者 の 審 級 現 象 す る 身 体 麻原

(

で あ る 。 麻 原 は 、 信 者 の身 体 に直 接 に 内 在 し て く る と 実 感 さ れ る の で あ り 、 こ の と き 、 こ

き る の で あ っ た 。 「極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 」 と は 、 〈他 者 〉 と の 関 係 の 様 式

の 繫 が り は 、 理 念 的 に は 、 「極 限 的 に 直 接 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 」 と し て 描 く こ と が で

い て 、 つ ま り 〈他 者 〉 と し て 確 保 す る こ と を 意 味 す る だ ろ う 。 実 際 、 オ ウ ム 信 者 の 麻 原 と

第 三 者 の 審 級 を 経 験 の 領 域 に 回 帰 さ せ る こ と は 、 そ れ を 、 そ の 本 来 の 「素 材 」 の 形 態 に お

に 第 三 者 の 審 級 が 措 定 さ れ る こ と に よ っ て 、 逆 に 、 〈他 者 〉 の 水 準 は 隠 蔽 さ れ る 。 だ が 、

いう性 質 を い わ ば 踏 切 板 の よ う に 利 用 す る こ と に よ っ て 、投射されるのである。 このよう

な い 。 も と も と 、 〈超 越 〉 的 な 第 三 者 の 審 級 は 、 こ の 〈他 者 〉 の 対 象 化 か ら 逃 れ て い く と

自 己 に 内 在 し て い る ま さ に そ の 形 態 に お い て は 、積極的に対象化して捕らえることはでき

第 三 章 で 見 た よ う な 、 自 己 に 内 在 し て く る 他 者 の 水 準 で あ る 。 〈他 者 〉 は 、 そ の 本 性 上 、

の 最 も 原 始 的 な 水 準 に 、 つ ま り 〈他 者 〉 に 格 下 げ す る こ と と 同 じ こ と で あ る 。 〈他 者 〉 は 、

っ た 。 〈超 越 〉 的 な 他 者 を 経 験 の 領 域 に 回 帰 さ せ る と い う こ と は 、 そ の 他 者 を 、 他 者 体 験

在の効力は、 当 事 者 たちにとって、完全に普遍化されたものとして現れることになるのだ

)

れ は 「私 」 な の か 「他 者 麻 原 」 な の か 区 別 す る こ と が 不 可 能 で あ る よ う な 状 況 が 出 来 (

)

第五章虚構=現実

271

(

す る の だ 。 事 件 に か か わ っ た あ る 信 者 は 、 法 廷 で 、 職 業 を 「麻 原 尊 師 の 直 弟 子 で あ る 」 と

答 え た 。 お そ ら く 、 麻 原 と は 、 「直 」 弟 子 と 表 示 さ れ る よ う な 直 接 性 に お い て し か 真 に 関

係 す る こ と は で き な い の だ 。 つまり、 理 論 上 、 す べ て の 信 者 が 直 弟 子 な の で あ る 。 し か し 、

規 範 の 普 遍 的 な 妥 当 性 を 保 証 す る 〈超 越 性 〉 を 、 〈他 者 〉 の 形 態 で 保 持 す る こ と は 、 解 消 不可能な矛盾をもたらすことになる。

〈他 者 〉 は 、 自 己 で あ る と い う こ と が 他 者 で あ る と い う こ と と 両 立 し て し ま う よ う な 体 験 であ り 、 あ れ が あ な た たち (

である」 という

)

の 水 準 で あ っ た 。自 己 性 と 他 者 性 の こ の よ う な 圧 縮 は 、 身 体 と 事 物 のあ ら ゆ る 同 一 性 を 停 止 さ せ て し ま う は ず だ 。 「こ れ が 私 た ち

)

規 範 の 照 準 に も 入 ら な い 。 規 範 は 、身 体 を個 )

別化して、そ の 「 役割」 によって同定することを前提にしているのだから

が っ て 、 〈他 者 〉 は 、 ど の よ う な 社 会 的 な

分 割 は 、 他 の 身 体 や 事 物 が 「な に も の か 」 で あ る た め の 最 低 限 の 条 件 だ か ら で あ る 。 し た

(

な い 。 だ か ら 、 自 己 性 と 他 者 性 の 横 断 が 生 ず る よ う な 体 験 だ け は 、 ——

た と え ば 「狂 気 」

は 、 少 な く と も 体 験 の 一 つ の 様 式 だ け は 、 つ ま り 〈他 者 〉 だ け は 、 排 除 さ れ な く て は な ら

体 験 の 可 能 性 の 集 合 を 、 規 範 に よ っ て 承 認 さ れ た 首 尾 一 貫 し た 領 域 と し て 保 持するために

こ と は 、 〈他 者 〉 の 体 験 を も 許 容 す る こ と を 含 意 す る だ ろ う 。 だ が 、 今 し 方 述 べ た よ う に 、

にその本質的な機能を有している。 本 来 、 経 験 の 無 限 に 普 遍 的 な 可 能 性 を 承 認するという

第 三 者 の 審 級 は 、 経 験 可 能 領 域 を 規 範 的 に 承 認 さ れ た 統 一 的 な 領 域 と し て 確 保 す る こと

Q

(

272

と し て ——

規 範 的 な 審 問 の対象から排除しておくことを前提にしてのみ、 経験可能領域の

「 普 遍 性 」 が 確 保 さ れ る の で あ る 。 こ の こ と は 、 ある種の体験の排除を前提にしているとい う意味で

限 定 さ れ た 特 殊 的 な 経 験 可 能 領 域 を 、 無 限 に 普 遍 化 さ れ た 経 験 可 能 領 域 として

(

教 に と っ て の 敵 と は 、 こ の 〈他 者 〉 な の で あ る 。 重 要 な こ と は 、 〈他 者 〉 と は 、 本

説 的 に 得 た 結 論 は 、 オ ウ ム が 獲 得 し た 身 体 、 エ ネ ル ギ ー の 流 れ ク ン ダ リ ニー

としての

)

敵 は も と も と 彼 ら 自 身 の こ と だ ったのである。身 体 を 流 体 気体とし ©

他 者 〉 と で も 表 記 し う る 体 験 を 、 再 び 強 引 に 「自 己 味 方 (



他 者 敵 」と

て実感されうる水準に漸近させるこ と で生ずる自己性と他者性との間の混乱や横断を、 つ

この点に由来する

に い る は ず の 敵 が 自 分 た ち の 内 部 に 深 々 と 浸 透 し て い る の で は ないかという 彼 ら の 恐 怖 も 、

〈他 者 〉 性 を 外 部 の 他 者 に 投 影 し 、 そ れ を 敵 と 見 立 て て い る と い う こ と で あ る 。 遥 か 彼 方

で は な い か 、 と い う こ と で あ っ た 。 こ こ か ら 示 唆 さ れ る こ と は 、 彼 ら は、 自 己 の内 的 な

身 体 の 裏 面 こ そ が 、 彼 ら が 恐 れ た サ リ ン で は な い か 、 彼 ら が 敵 の 表 象 と し て 捉 え た サリン

(

定 し よ う と す る 。 だ が 、 こ こ で 第 三 章 の 考 察 を 思 い 起 こ し て お こ う 。 そこでわれわれが仮

と え ば ユ ダ ヤ 人 と し て 、 あ る い は 公 安 警 察 や 、 はては現代人一般として、自らの外部に特

当 は 自 己 自 身 で あ る と い う こ と 、 自 己 の 分 身 だ と い う こ と だ 。確かにオウムは、敵を、 た

ム真

特 殊 性 と 普 遍 性 の こ う し た 短 絡 は 、 〈他 者 〉 の 過 激 な 排 除 を 帰 結 せ ざ る を え な い 。 オ ウ

提起してしまうことである。

)

ま り 〈自 己

"

) /

( )

第五章虚構=現寞

273

S

である。他 方 、味 方 と し て の 自 己 の 像 の 焦 点 に は 、真 我 が あ る 。

分 節 し 、 身 体 の 自 己 同 一 性 を 恢 復 し よ う と す る 。 こ の と き 、 結 節 す る 敵 の 像 こ そ が 、 《他 者 》 遠くて近い敵 )

)

されなくてはならない、 と見なされるわけだ。 ホロコーストを思わせる彼らの死体処理の



(

す る は ず の な い も の 」 と し て 定 位 さ れ る ほ か な い の だ 。 だ か ら 、 《他 者 》 は 、 抹 殺

抹消

ら被覆されえないような外部 〈 他 者 〉 が 、 「存 在 し て は な ら な い も の 、 「原 理 的 に 存 在

的な規範が普遍化された規範として想定されている限りは、 その規範によって可能的にす

ではなく、共同体の内部にやがて参入してくる可能性すらもってはならない。 彼らの特殊

さ れ な く て は な ら な い 。 つ ま り 、 《他 者 》 は 、 現 在 の 事 実 と し て 共 同 体 の 外 部 に い る だ け

い。 彼 ら が 一 貫 し た 規 範 を 要 求 す る な ら ば 、 述 べ て き た よ う に 、 《他 者 》 は 原 理 的 に 排 除

と い う わ け に は い か ず 、 そ の 《他 者 》 を 抹 殺 し よ う と す る 強 い 攻 撃 性 が 帰 結 せ ざ る を え な

う こ と 、 こ れ で あ る 。 す な わ ち 、 《他 者 》 を 彼 ら の 共 同 体 の 外 部 に 放 逐 し て 無 関 心 で い る

の 短 絡 が あ る と き に は 、 そ れ が 結 果 す る 排 除 は 、 《他 者 》 へ の 攻 撃 性 と し て 現 象 す る と い

留 意 し て お か な く て は な ら な い ことは、次 の 点 で あ る 。基 底 に 規 範 的 な 特 殊 性 と 普 遍 性

投 影 し う る 他 者 は、 誰 で あ れ 敵 た り う る の だ。

る の だ 。 こ の よ う な 無 差 別 性 は 、 も と も と 、 敵 が 自 己 の 分 身 だ か ら であ る 。 自 己 の分 身 を

さ れ て い る が 、 誰 が そ の ユ ダ ヤ であ る か は は っ き り せ ず 、 実 際 上 、 誰 も が ユ ダ ヤ で あ り う

オ ウ ム の 敵 は 、 徹 底 的 に 無 差 別 的 で あ る 。 た と え ば 、 敵 の中 核 は 「ユ ダ ヤ 」 と し て 特 定

(

274



に違反

強 迫 的 な 徹 底 ぶ り も 、 こ こ か ら 説 明 が つ く 。 《他 者 》 が か つ て 存 在 し て い た と い う 事 実 す

ら も、消 し 去 ろ う と し て い る の で あ る 。 教 団 は 、 た と え ば 戒 律 教団内部の規範

)

し た 信 者 の 記 憶 を 消 す 技 術 電気ショックと薬物チオペンタールナトリウムの注入による

)

(

事 実 戒律違反

をなかったも同然のことにすることができるからである。

られた表 現 で あ る と 、考 え る こ と が で き る だ ろ う 。 記 憶 を 消 し て し ま え ば 、 その否定的な

も 、 執 着 を 見 せ て い る 。 記 憶 の 消 去 は 、 《他 者 》 を 抹 殺 し よ う と す る 意 志 の も う 少 し 弱 め

(

かならないからである。結局、 こうした神を信奉する者は、生産的な結果を一切残さない、

れ ば す る ほ ど 、 《他 者 》 の 脅 威 は ま す ま す 増 大 す る だ ろ う 。 《他 者 》 と は 、 自 己 の 分 身 に ほ

の 抹 殺 で あ る 。 し か し 、 そ の 救 済 の 作 業 は 終 わ る ま い 。 そ れ ど こ ろ か 、 《他 者 》 を 殺 害 す

壊 に よ っ て こ そ 〈超 越 性 〉 を 保 持 し て い る 神 で あ る 。 そ の 神 に と っ て 、 救 済 と は 、 《他 者 》

こうして、 われわれが今出会っているのは、第四章の最後に見たのと同じ、徹底した破

)

全的な破壊へと導かれることになるだろう。

第五穿虚綱=現実

275

(

終章ポアの思想を越えて

「 総括」 と 「 ポア」 オ ウ ム 真 理 教 団 の一部

が引き起こしたと見 な さ れ て い る 一連の事件から得られる教

)

いての 判 断 を 留 保 す る こ と を 強 い る は ず だ 。 つまり、 規 範 が 徹 底 的 に 相 対 化 さ れ る の で あ

の実践は、自 我 の 行 為 に 一 貫 性 を 与 え る い か な る 規 範 を も カ ッ コ に 入 れ 、 そ の 妥 当 性 に つ

述べたように、 オウムの修行は、 ま ず は 自 我 の 同 一 性 を 徹 底 し て 解 除 し よ う と す る 。 そ

る のだ。

見 る ところ、教 団の過激な攻撃的行為は、 こ の 悲 劇 と は ま っ た く 裏 返 し の 構 造 を も っ て い

で あ れ ば 、 わ れ わ れ は 比 較 的 容 易 に こ れ を 乗 り 越 え る こ と が で き る だ ろ う 。 し か し 、 私の

だ が 、今日では、 このような悲劇はよく知られている。 オウム教団の失敗も同種のもの

そ が 、 連 合 赤 軍 が 「総 括 」 と 呼 ん で い た 、 凄 惨 な 私 的 制 裁 で あ る 。

る。 善 の 絶 対 主 義 は 、 そ れ 自 体 、 悪 な の だ 。 こ の よ う な 逆 説 が 導 く 自 己 批 判 リ 目 己 否 定 こ

まり にも厳格に追求され、遵守された 場 合 に は 、 悪へと転化してしまう、 ということであ

連合赤軍の悲劇が教えてくれたことは、 どのような積極的な理想や規範であっても、 あ

件 が わ れ わ れ に教示していることは、 明確になる。

訓 に つ い て 、 書 い て お こ う 。 私 の 考 え で は 、 連 合 赤 軍 の 悲 劇 と 対 照 さ せ て み る と、 この事

(

る 。 麻 原 彰 晃 が 仏 教 の 「四 無 量 心 」 を 改 釈 し な が ら 説 い た 条 項 の 一 つ 、 「聖 無 頓 着 何 事

に も 頓 着 し な い こと 」 と は 、 こ の よ う な 過 激 な 相 対 化 の 態 度 の こ と で あ る 。 規 範 の 相 対 化

(

と り わ け 第 五 章 で 。 規 範 の 相 対 化 の 極 北 で 、 突 然 に 、 「高 次 の 」 規 範 の 絶 対 化 が 生 ず る の

し て い る。 わ れ わ れ は こ の 反 転 が 生 じ て し ま う 機 制 に つ い て 、 て い ね い に 見 て き た の だ

自 我 の 相 対 化 が 最 終 地 点 に お い て 真 我 の 同 一 性 へ と 反 転 し て い っ た 教 団 の 運 命 が 、 よく示

だ が、 相 対 化 を 貫 徹 さ せ る こ と は 、絶望的なほど困難なことなのである。 このことは、

いかなる悪 を も犯しうることを意味する。

とは、善なる行為と悪なる行為を等価な選択肢と見なすこと、 したがってその気になれば

)

とっての

であ る 。 こ の と き 人 は 、 一 旦 規 範 の 過 激 な 相 対 化 を 経 由 し て い る が ゆ え に 、 通常の規範に

)

い か な る 過 激 な 悪 を も 、 し か も そ れ を 「悪 」 と し て 自 覚 し た 上 で 、 遂 行 す る こ

(

あ る い は そ こ ま で い か な い と し て も 、 教 団 が 「ワ ー ク 」 と 呼 ん で い た

、 最 高 善 に奉 仕 す る も の と し て 解 釈 換 え さ れ る と き に は 、 判 断

を代表しう

)

から、 判 定 さ れ て い る のである。 今 、 私が内在してい

め て 注 意 し て お か な く て は な ら な い 。 諸 行 為 は 、 輪 廻 す る 世 界 の 全 体 六道 変 化 身 の 視 点 ——

(

の た め の 視 点 は 、 究 極 の 普 遍 性 を 体 現 し う る 地 点 へ と 移 し 換 え ら れ て い る ことに、 あらた

出 家 者 の 日 常 の 労 働 が ——

通 常 の 悪 が ——

と は 、 悪 の 相 対 主 義 が、 絶 対 の 最 高 善 の 輝 き へ と 転 化 す る と い う こ と だ 。

と が で き る の だ 。 そ れ を 、 よ り 高 尚 な 「善 」 と し て 解 釈 換 え し た 上 で 。 オ ウ ム が 示 し た こ

)

る よ う な 視 点 ——

終章ポアの思您を越えて

279

(

る局域の視点からすると、 それは悪に見えたり、 つまらない労働のように見えるかもしれ

な い が 、 そ れ だ か ら と い っ て こ れ ら を 拒 否 す る な ら ば 、 輪 廻 す る す べ て の 魂 に と っ て 善で

あ る は ず の こ とを 斥 け た こ と に な る 、 と い うわけだ。 こ う し た 視 点 の 転 移 に よ っ て 、悪 が、

あ る い は 苦 し い 日 常 の 単 純 労 働 が 、 受 け 入 れう る も の に 変 換 さ れ る のであ る 。

こ の よ う な 変 換 が 導 く 過 激 な 他 者 否 定 を 、 オ ウ ム は 「ポ ア 」 と 呼 ん で い る 。 「ポ ア 」 と

は 、 も と も と チ ベ ッ ト 仏 教 に お い て、 死 に ゆ く 者 の 心 を 確 実 に 身 体 か ら 抜 き 出 し 、 よ り 高 金 剛 乗 の 教 え ——

の中 で 正 当 化 さ れ る 殺 人 を 指 す 語 と し て 使 用 し て い る 。 オ ウ ム

い状態に移し変える技 術 を 指 す 語 ら し い 。 オウムは、 この語を、 独特に解 釈 された救済思 想 ——

の 思 想 と 実 践 は 、 決 し て 相 対 主 義 に よ っ て は 乗 り 越 え ら れ な い 。 少 な く と も 、相 対 主 義 に ともなう逆説を回避する術を獲得していないうちは。

ここで

資本のダイナミズムである。それは、より普遍化

、 相対主義の時代だからである。 相対主義へのトレンドを

こ れ は 、 ひ と り オ ウ ム の み が 直 面 し て い る 困 難 で は な い 。 わ れ わ れ の 時 代 は —— 虚 構 の 時 代 と 呼 ん だ 段 階 は ——

最 深 部 で 規 定 し て い る の は 、 広義の

)

的表現である。 オウムが示したのは、相対主義の困難である。 そして、何らかの規範や理

ことを意味する。 たとえば、デ リ ダ 派 の 脱 構 築 主 義 は 、相対主義の最も洗練された思想

とは、 その内部で既存の諸規範が等価な選択肢として相対化されるような視点を獲得する

された規範への不断の置き換えとして現れる。 より普遍化された規範を獲得するというこ

(

28q

想の原理主義的な絶対化の困難は、 すでに連 合 赤 軍 に よ っ て 知 ら さ れ て い る 。 こうして、

とりあえずオウム

われわれは可能な二つの手を両方とも封じられてしまっているように見えるのである。

権力構造の転換 オウムが提起した困難を、 いかにして超克することができるのか?

真 理 教 事 件 を 経 由 し て 浮 上 し て き た 皮 肉 な 構 図 に 注 意 し て お か な く て は な ら な い 。 そ れ は、

オ ウ ム を 正 面 か ら 批 判 し た り 攻 撃 す る 者 の 方 が 、 し ば し ぱ 、 オ ウ ム に似 て く る と い う 構 図

であ る 。 オ ウ ム を 批 判 し 攻 撃 し た り す る こ と が 、 逆 に か え っ て 、 意 図 す る こ と な く オ ウ ム

を 模 倣 し て し ま う の で あ る 反 対 に 、 オ ウ ム に 比 較 的 に 好 意 的 な 論 者 は、 本 質 的 に オ ウ ム と 似

ていないことが多い 。 こ の よ う な 意 図 し な い 模 倣 が 最 も 顕 著 に 現 れ た の は 、 オ ウ ム を 取 り

(

か れ る 。 この

締 ま る 権 力 の 構 造 に お い て、 で あ る 。 ま ず 、 オ ウ ム の 組 織 内 権 力 を 、 理 念 型 と し て 整 理 し た 場 合 に、 ど の よ う な も の に な る か

を 示 し て おこう。 も ち ろ ん 、 権 力 の 原 点 に は 、師 である麻原彰 晃 の 身 体 が

師 の 身 体 は 、 極 限 の 直 接 性 に お い て 弟 子 た ち を 捉 え る 。 弟 子 が 仮 に 孤 立 状 態 にあ ろ う と も 、

®

師 の 身 体 は 弟 子 の 身 体 に 直 接 に 内 在 す る こ と に よ っ て よ り 厳 密 に は 、 そ の よ う に 弟 子 たち (

に 実 感 さ れ る こ と に よ っ て 、 弟 子 た ち の 行 為 を チ ェ ッ ク す る 。 こ の 師 の 弟 子 への権 力 は 、

2母雒窜ポアの心募を触えて

)

)

そ の あ ま り の 直 接 性 のゆえに

つ ま り 弟 子 の 「こ れ は 私 で あ る 」 と い う 基 礎 的 な 同



、弟子の了解や承認をま

て現れる。 あ る い は 、 た ま た ま 不 運 に し て 見 つ か っ て し ま っ た戒 律 違 反 に 対 す る 、 過剰な 鈿 裁として現れる。 を 経 由 し て 無 意 識 裡 に 作 用 す る 電 波 —— ど ん な 遠 隔 に あ っ て

第三者 が 客 観 的 な見 地 から眺めると、師 の 弟 子 に 対 す る理不尽ないじめのようなものとし

断ぬきの無条件の帰依が求められており、権 力 は こ れ を 根 拠 に 作 用するのだ。 この権力は、

っ た く 経 由 す る こ と な く 作 用 す る 、 と い う 点 に 特 徴 が あ る 。 つ ま り 、 弟 子 に は 、 一切の判

也 の 自 覚 に す ら も 先 立 つ よ う な 水 準 に 照 準 し て い る が ゆ え に ——

-

が、 こ の 権 力 の あ り 方 を よ く 表 象 し て い る 。

他 方 、 地 下 鉄 サ リ ン 事 件 以 後 の 、 警 察 と 司 法 権 力 と そ し て 第 四 の 権 力 た る マ ス メディ

も 瞬 時 に し て 届 く 電 波 ——

P S I

の逮捕された罪とは異なる主題をめぐって

た と え ば ホ テ ル の宿泊

信徒たちは次々と逮捕され、 そ

(

取 り 調 べ を 受 け た の で あ る 。 このような権力が

名 簿 に 偽 名 を 記 載 し た と い っ た よ う な こ と に よ っ て ——

だ っ た ら 決 し て 逮 捕 さ れ る こ と が な い よ う な 「微 罪 」 に よ っ て ——

に 達 し た の は 、 多 数 の 信 徒 に 対 す る 、 公 安 警 察 に よ る い わ ゆ る 「微 罪 逮 捕 」 で あ る 。 通 常

アによる、 オウム真理教への攻撃は、 あ る 過 剰 さ を 呈 す る も の だ っ た 。 そ の 過 剰 さ が頂点



れ ゆ え ま か り 間 違 え ば 非 合 法 な も の と 見 な さ れ う る こ と は 、 多 く の 人 々 に よ って 自 覚 さ れ

罪逮捕が、 はっきりと非合法的であるとは言わないまでも、正常なものではないこと、 そ

「 過 剰 」 なのは、 それが、合 法 性 の 臨 界 を ほ と ん ど 越 え そ う に な っ て い る か ら であ る 。微

)

282

て い た こ と で あ っ た 。 こ の 権 力 の 過 剰 分 は 、 も ち ろ ん 、 こ の 事 件 が 、 「戦 争 」 と 見 な し て

も差し支えないほどに異常事態であるという共通の認識によって埋め合わされていた。 と

は い え 、 も ち ろ ん 、 そ の 「異 常 性 」 の 決 定 す る 基 準 そ れ 自 身 も 、 法 的 な 根 拠 を も っ て い た わけではない。

この過剰な権力は、 それを目の当たりにした人々に、次のことを示したことになる。第

一に、 現 代 社 会 に お い て は 、 い っ た ん 権 力 が そ の 照 準 の 中 に 入 れ て し ま え ば 、 そ の 権 力 は 、

照 準 内 の 者 の 行 動 を す み ず み ま で ほ と ん ど 確 実 に チ エ ッ ク す る こ と が で き る と い うこと、

そ し て 、 彼 が 何 を し て い よ う と も 、 彼 を 捕 ら え る こ と が 可 能 で あ る と い う こ と 、 こういつ

た こ と を 人 々 に 印 象 づ け た の で あ る 。 た と え ば 宿 泊 者 名 簿 へ の 記 載 に よ っ て 逮 捕 されると

い う こ と は、 警 察 に ず っ と 尾 行 さ れ 、 行 動 の す み ず み ま で 観 察 さ れ て い た こ と を 意 味 し て

い る だ ろ う 。 こ の よ う に 、 権 力 は 、 照 準 に 収 め た 者 の 身 体 に 言 わ ば 密 着 し て い る 。 ところ

で、 こ の 直 接 性 は 、 オ ウ ム の 半 ば 幻 想 的 な 組 織 内 権 力 を 、 ま る で 大 規 模 な 社 会 で 具 体 化 し た か の よ う であ る 。

第 二 に 、 行 使 さ れ た 権 力 と 権 力 に向 け ら れ た 承 認 と の 間 の 圧 倒 的 な ア ン バ ラ ン ス が 、 こ

の 過 剰 な 権 力 を め ぐ る 現 象 の 特 徴 であ る 。 権 力 や 支 配 の 理 論 の 一 般 的 な 了 解 か ら す る と 、

権 力 の正 統 性 に 対 す る 承 認 と そ の 権 力 の 効 力 と の 間 に は 、 比 例 的 な 関 係 が あ る 。 人 々 に 承

認 さ れ た 権 力 で な く て は、 広 範 囲 の 社 会 空 間 を 実 効 的 に 捉 え る こ と は で き ず 、 ま っ た く 承

終簟孝アの思翘を锥えて

283



認 を受けていない権力は、 ついには崩壊する、 というわけだ

た 国 政 選 挙 の あるいはその直前の地方選挙の

合 法 性 の領 域 は 、 現 代 の 制

失敗 に よ っ て 、印象的な 仕 方 で 証示されて

承 認 と 権 力 行 使 の ア ン バ ラ ン ス は 、事 件 の 捜 査 が 進 め ら れ て い る 最 中 にたまたま行われ

なく、過激に作動するオウムの組織内権力と類似している。

で き る の で あ る 。 こ の 点 で も 今 日 の 権 力 は 、 了 解 や 承 認 に よ る 支 持 を ま っ た く 受 け る こと

の外にある。 今日 の 権 力 は 、 承 認 を 経 由 す る ことが な く て も 、 ゆ う ゆ う と 機 能することが

度 の も と で 、 人 々 が 権 力 に 与 え た 承 認 の 限 界 値 を 示 し て い る 。 そ こ か ら の 過 剰 分 は 、 承認

Q

しまった。九五年七月の参議院選挙で、投票率がついに五割を割ってしまったのである

)

る こ と す ら も し な い 。 議 会 に よ っ て あるいは自治体の首長によって

自らが代表されてい )

かえってオウ ム と 以 て き て し ま う 自 ら を 見 出 さ ざ る を え な い 。 あわせて、 オウムの組織内

こ う し て 、 た と え ば 権 力 の 構 造 に お い て 、 わ れ わ れ は オ ウ ム を 攻 撃 す る こ と に よ っ て、

を担保とすることなく、末端の権力は過激に作動するわけだ。

は、 し た が っ て 、 承 認 と い う こ と と は 無 関 係 に 行 使 さ れ た も の で あ る 。 中 枢 に 対 す る 承 認

るということに対する不信感が高まっているのである。 そんな中で発動された警察の権力

(

害 に 陥 っ て い る こ と を 示 し て い る 。 人々は、権力 を 承 認 す る こ と も 、 そ し て あ え て否認す

示される。 だが、投票する者が半分にも満たないということは、代表という制度が機能障

今日の制度のもとでは、代表者を決定する選挙によってこそ、人々の権力に対する承認が

Q

(

2^4

フーコーが記述していたような近代的な権力がすでに姿を消したと

権力によって、あるいはまた公安警察や司法当局のサリン事件の捜査によって具体化され た権力は、 ミ シ エ ル

いうことをも示しているように思う。 フーコーは、普遍化された権力の永続的な監視によ

って、 個 人 の 身 体 が 主 体 化 さ れ る 様 を 描 い た わ け だ が 、 こ の よ う な 権 力 が 効 果 を も つ た め

統 一 的 な 意 志 の 表 現 の よ う に 見 え てい

が前提条件となる。 だが、 人々の承認や了解を遥かに越えて行使される権力の

に は 、 そ の 永 続 的 な 監 視 が 統 一 性 を 呈 す る こ と —— る こ と ——

背後には、統 一 的 な 意 志 を 投 射 す る こ と が で き な い 。 過激な直接生において個々の一, 丁為が

チ ェ ックされはするが、 そ れ ら の チ ェ ッ ク を 支 え る 統 一 性 を 見 出 す こ と が で き な い のだ。

そ も そ も 、 だ か ら こ そ 、 そ れ を 承 認 し た り 否 認 し た り す る こ と も で き な い の で あ る 。 この

意味で、 オ ウ ム 事 件 は 、権 力 構 造 の 大 き な 地 殻 変 動 の 指 標 で も あ っ た の か も し れ な い 。

共存の技術

の論考を閉 じ て お こ う 。

れはオウムの挫折をいかにして乗り越えれば良いのか?

解 決 の イ メ ー ジ を提 起 し て 、 こ

オ ウ ム への攻 撃 が 、 と き に オ ウ ム を か え っ て 引 き 写 す 結 果 に な る の だ と す れ ば 、 わ , わ

Q

ナ ウ ム の 絶 望 的 な 攻 撃 は 、 《他 者 》 に寄 生 さ れ て い る こ と の 恐 怖 に 由 来 す る も の で あっ

終簟ポアの展新を超えて

285



た 。 攻 撃 の 究 極 の ね ら い は 、 そ の 寄 生 状 態 の 除 去 に あ る と 言 う こ と が で き る だ ろ う 。 とこ

ろ で 、第 一 章 で 確 認 し た よ う に 、 寄 生 さ れ て い る と い う 感 覚 、 異 和 的 な 他 者 が わ れ わ れ の

身 体 に 内 在 し て い る と い う 感 覚 、 わ れ わ れ 自 身 が ま さ に わ れ わ れ と は ま っ た く 異 な る 原理

で 動 く 他 者 に 近 接 し て し ま っ て い る の で は な い か と い う 感 覚 は 、 現 代 社 会 に お い て広 く 共

有 さ れ て い る 。 そ う で あ る と す れ ば 、 オ ウ ム が 歩 ん だ 道 を 、 わ れ わ れ が ま た 歩 ま な い ため

に は 、 わ れ わ れ の 内 に 侵 入 し て く る 他 者 に 対 す る 徹 底 し た 寛 容 が 不 可 欠 の 条 件 と な る だろ う。

この点で、 われ わ れに創造的なイメージを提供してくれるのが、岩 明 均 の マ ン ガ 『 寄生

獣 』 で あ る 。 こ れ は、 あ る と き 突 然 地 球 上 に 現 れ た 寄 生 獣 を め ぐ る 物 語 で あ る 。 寄 生 獣 は

人 間 の身 体 に 侵 入 し 、 首 か ら 上 を 食 べ て し ま い 、 身 体 の 他 の 部 分 を 残 し た ま ま 首 を 、 し た

が っ て 中 枢 神 経 を 占 拠 し て し ま う 寄生獣自身が、非 常 に 高 い 知 能 を も っ て い る 二 こ の 寄 生

されている。 が、 彼だけは、 ある偶然から、寄 生 獣 は 右 手 に 寄 生 し て い る 。 し た が っ て 、

想像しうる最も危険な他者の象徴である。 このマンガの主人公シンイチも、寄生獣に寄生

題は、寄生獣が人間を食って生きている、 ということである。 したがって、寄生獣とは、

元 して、 そのまま首を占拠しているため、外見からは元の人間と区別がつけられない。 問

き には鋭利な刃物と化す。 が、 通常の状態においては、寄生獣は元の人間の顔を完全に復

獣 は 、異常な可塑性を備えており、 ほとんど自由自在に姿や硬度を変えることができ、 と

(

286

一つの 身 体 の 上 に 、 二 つ の 中 枢 神 経 人 格

が共存しているのである。

マンガは、 シ ン イ チ の こ の 心 の 成 長

(

に出会う。 だが、 驚 い た こ と に 、 ナ ウ シ カ は こ の 浄 化 の 神 を 拒 否 す る の で あ る

染にある程度適応してしまっている。 にもかかわらず、 大 気 を 浄 化 す る こ と に よ っ て 人 頃

と共存してきた人類の身体は、 すでに汚

Qナ ウ シ カ

両義性 を も っ て い る という こ と は す で に 指 摘 し て お い た 。 ナ ウ シ カ は、 最 後 に 、 浄 化 の 神

主 題 となって、ずっと進 行 していく。 この毒ガスが、 オ ウ ム に と っ て の サ リ ン と 類 比 的 な

が 用 意 さ れ て いる。 こ の マ ン ガ は 、 毒 ガ ス に よ っ て 汚 染 さ れ た こ の 世 界 を 浄 化 す る こ と が

多くの点でオウムと世界観を共有している。 だが、 このマンガの結末部には、 微妙なズレ

『 風 の 谷 の ナ ウ シ カ 』 が 、 同 じ 方 向 の 解 決 の イ メ ー ジ を 示 唆 し て い る 。 『ナ ウ シ カ 』 は 、

最愛の母を寄生獣に食われているのである。 それでもなお、彼は、 共存を選んだのだ。

ら れ ているのは、 こ の マ ン ガ が 示 唆 す る よ う な 極 限 の 寛 容 で あ る 。 た と え ば 、 シ ン イ チ は 、

実は、人間の社会が自ら産みだした他者性であることをも示唆している。 われわれに求め

過程を説得的に描きだす。 またマンガは、 そもそも、由来の知れないこの寄生獣たちが、

とき寄生獣は主人公の身体に完全に溶け込んでしまう二

て シ ン イ チ の 心 境 は 徐 々 に 変 化 し て 、 最 後 に は 、 寄 生 獣 と 共 存 す る こ と を 選 択 す る その

こにいることに気がついた人間たちは、策 を 労 し て 寄 生 獣 を 駆 除 し よ う と す る 。 だがやが

物語の序盤は、 この寄生獣と人間との対決が主題となる。 たとえば、寄生獣がそこかし

)

の 主 張 は こ う で あ る 。 長 い 間 、 腐 海 毒ガス源

)

ボアの居、窓を越えて

終章

287

(

(

を 救 済 し よ う と す れ ば 、逆 に か え っ て 人 類 を 滅 ぼ す こ と に な る の で あ り 、 し た が っ て 、 そ

の 「 救 済 」 は完 全 に 欺 瞞 だ 、 と い う の だ 。 こ う し て 、 毒 ガ ス リ 他 者 と の 共 存 が 、 こ こ で も 選ばれるのだ。

『ナ ウ シ カ 』 に は 、 微 妙 な 仕 組 み が 隠 さ れ て い る 。 ま ず 、 腐 海 や 王 蟲 が 、 汚 染 す る も の で

あると同時に浄化するものであるという両 義 性 を もっている。 だ か ら 、 ま ず 単 純 に腐海や

王蟲を敵視する態度が拒否されている。 それゆえ、最初は、 この両義性を利用した完全な

浄 化 が 、 最 終 的 な 救 済 と し て 描 か れ る か の よ う な 印 象 を 、 読 者 は も つ。 そ の 上 で 、 こ の よ

うな逆説的な浄化そのものが、 も う 一 度 、 拒 否 さ れ る よ う に な っ て い る の で あ る 。 つまり、 拒否は二段階にわたっているのである。

すでに述べたように、 オウム真理教を浮上させる基底的なトレンドは、 相対主義へのト

レ ン ド で あ る 。 だ が 、 他 方 で 、 麻 原 は 、 「絶 対 」 と い う 形 容 を 好 む 「 絶対の真理」「 絶対幸 (

福」 等 二 こ れ は 、 相 対 主 義 的 で あ る こ と 「 聖無頓着」 の 絶 対 化 で あ る 。 相 対 主 義 は 単 純 )

だから、 われわれが求める寛容は、内 部 に 二 段 階 の 相 対 化 を 含 ん で ハ な く て は な ら な い

義は、 もともとの相対主義よりもはるかに不寛容なものとして結晶する。

界 を 「 相対主義」 へと純化しようとしているのである。相 対 主 義 か ら 転 化 し て き た 絶 対 主

や が て 相 対 主 義 的 で あ る こ と の 絶 対 化 へ と 転 化 す る の だ 。 『ナ ウ シ カ 』 の 浄 化 の 神 は 、 世

な絶対主義や原理主義よりも寛容な態度であるように見える。 だが、相 対 主 義 の 徹 底 化 は 、

(

288

のである。 オウムの教義や実践の中には、 一段階の相対化しか含まれていない。 最 初 の 相

対 化 を 経 て 、 ま さ に そ れ が 完 結 し 、 「絶 対 」 に 到 達 し よ う と し た そ の 瞬 間 に 、 も う 一 段 階 の相対化が企てられなくてはならないのだ。

ポアの思想を結えて

終覃

289

あ とがき

オウムが、あるいはオウム的なものが、私自身もそうでありうる可能性を示している、 という自 覚なしには、 このようなものを書くことはなかっただろう。

オ ウ ム は 、 少 な く と も 八 〇 年 代 末 期 以 降 の 社 会 を 席 巻 し た 思 想 や サ ブ カルチャーのパ

「歴 史 の

終 焉 」 をめぐる思想の戯画のようなものである。確かにオウムの思想や実践に

ロディである。 たとえば、彼らのハルマゲドン思想は、 八九年以降しばしば語られてきた、



と い う の も、 オウムと、 も う 少 し ば か り洗 練 さ れ て い る ように見 え る 思 想 実践との間の

視 点 を据 え て 、 オ ウ ム を 否 定 し た り 、 嘲 笑 し て い る か が わ か ら な く なってし ま う のである。

自 身 の 立 場 を 同 時 に 無 化 し て し ま い か ね な い も の で あ る よ う に 思 わ れ る 。 つまり、 どこに

も の と し て 切 り 捨 て る こ と は さ し あ た っ て 可 能 だ が 、 そ う す る ことは、 語り、実践する者

に な お あ る 「距 離 」 の ゆ え に 、 洗 練 さ れ た 思 想 や 実 践 の 立 場 か ら オ ウ ム を 考 察 に 値 し な い

い る 、 よ り 洗 練 さ れ た 思 想 や 実 践 と の 間 の 距 離 は 、 微 妙 な も の と な ろ う 。 も ち ろ ん 、 そこ

し ま っ た 根 拠 に ま で 遡 行 す る な ら ば 、 オ ウ ム そ の も の と 、 そ れ が ま さ に パ ロ デ ィ になって

だ が 、 こ う い っ た 「く だ ら な さ 」 が 、 と り た て て 特 殊 で は な い 多 く の 人 々 の 行 動 を 捉 え て

は 、 ど う し よ う も な い 「く だ ら な さ 」 が あ る 。 こ れ を 嘲 笑 す る の は あ ま り に も た や す い 。

)



距 離 は 微 妙 で 、 ど の 地 点 で、 後 者 が 前 者 に 転 ず る か を き ち ん と 確 定 す る こ と は ほ と ん ど 不

あとがき

29I

(

マルクスに見出

可 能 だ か ら で あ る 。 だから、 オウムは、 目 下 の と ころどうしても、考察する者自身が内属 し て い る 〈現 在 〉 と し て 分 析 さ れ ね ば な る ま い 。 この種の態度に立脚した分析の前例を、 われわれは、 たとえばカール

す こ と が で き る 。 「二 月 革 命 」 を 経 過 し た 後 の 十 九 世 紀 半 ば の フ ラ ン ス は 、 当 時 と し て は



デタ を起こして政権を獲得し、しばらくのあいだ独裁的な指導者として君臨する。 民

最も先進的な民主主義体制を敷いていた。 そのフランスで、 ナポレオンを模倣する人物が ク この人 物 、 ル イ

ボ ナ パ ル ト ナポレオン三世 (

)

のク

デタが人民投票で承認された直後 •

に 、 皮 が 政 権 を 獲 得 す る ま で の 過 程 を 社 会 学 的 に 考 察 す る 『ル イ ボ ナ パ ル ト の ブ リ ュメ



主主義体制の下で極端な独裁が国民の広範な支持を獲得できたのはなぜか。 マルクスは、



ル 十 八 日 」を 著 し て い る 。 今 日 で も な お 、 マ ル ク ス の こ の 議 論 は 、 ボ ナ パ ル ト が 成 功 し



ン』 は そ の 代 表 的 な も の で あ る 。 ュ ゴ ー に よ れ ば 、 ク

ュ ゴ ー の 『小 ナ ポ レ オ •

デ タ は 青 天 の 霹 靂 であ る 。 つ ま り 、

トについて書かれた物がいくつも発表されている。ヴ ィ ク ト ル

ら の解放を保証するからである。 今日オウムについての言説が氾濫しているのと同様に、 マルクスの時代にも、 ボナパル

い う の も 、 考 察 の 営 み を 継 続 す る こ と が 結 果 と し て 導 い て し ま う 距 離 だ け が 、 〈現 在 〉 か

な 、 私 た ち が 内 属 し て い る 「オ ウ ム 」 と い う 文 脈 に 対 す る 透 徹 し た 考 察 が 必 要 で あ る 。 と

えた理由についての、最も説得力ある分析であろう。 ちょうどこのマルクスの分析のよう

1



2Q2

ユゴーは、事件を一個人の暴力的な蛮行と見ているのだ

このような見方は、 この個人と

その思 想 を く だ ら な い も の と し て 清 算 す る た め に な さ れ て い る の だ が 、 それは、 むしろ逆

の結果を生むとマルクスは批判している。独裁の成功がボナパルトの暴力行為に起因する

と見なすならば、 このことは、 その個人に、稀に見る個人的な主導力を認めることであり、

結 果 と し て 、 か え っ て そ の 人 物 を 大 き く し て い る こ と に な る の だ 、 と。 私 の 考 え で は 、 今

日 のオ ウ ム に 関 す る 言 説 の 主 流 に 対 し て は 、 ま さ に こ の マ ル ク ス に よ る ュ ゴ ー 批 判 が 妥 当

する。 われわれは詐欺師によって不意打ちを食らわされたのだ、 と言っても何も片づかな

い。 そ ん な 言 い ま わ し を し て も 、 「謎 が 解 け る わ け で は な く 、 謎 の 出 し 方 が か わ っ た だ け 」

なのであって、 われわれはその謎 を 誘 発する同じ文脈の中に呪縛されたままであろう。

地 下 鉄 サ リ ン 事 件 以 来 の 一 年 半 程 の 間 に 、 こ の 問 題 に つ い て 私 と 不 断 に 議 論 し て 下さっ

元 信 者 の 方 々 に深 く 感 謝 し た い 。 こ れ ら の方 々 の 幾 人 か は 、 私 に と っ て 抗 し が た

た 多 く の 方 々 に 感 謝 し た い 。 と り わ け 、 長 時 間 の イ ン タ ヴ ュ ー に 応 じ て 下 さ っ た 、 オウム の信者

い魅力をもっていたということを告白せざるをえない。最後に、時 間 切 れ ぎ り ぎ り の 所 ま

筑 !I房 # 編 集 部 の 山 主 俊 さ ん にも お 礼 を 申 し 上 げ た い

則とが•

293

で私 の 仕 事 に お つき あ い下 さ った 、 一 九 九 六 年 五 月 一 六 日

大 澤 真 幸

O



補論オウム事件を反復すること

反復による乗り越え

オ ウ ム 真 理 教 事 件 と と も に 、 日 本 の 戦 後 精 神 史 の 中 の 一 つ の 時 代 が 終 結 し 、 新しいフエ

— ズ へ と 突 入 し た 。 私 は 、 松 本 サ リ ン 事 件 地下鉄サリン事件へと至る事態の推移が明ら

述 べ て い る の で は な い。 凶 悪 犯 罪 は 、 む し ろ 、 減 少 し つ つ あ る たとえぱ、 日本に お け る殺

お く よ う な 不 可 解 な 暴 力 の 暴 発 を 指 し て い る 。 い わ ゆ る 「凶 悪 犯 罪 」 が 増 加 し て き た 、 と

件 が 反 復 さ れ て き た と い う こ と で あ る 。 こ こ で 「同 種 の 事 件 」 と は 、 無 差 別 殺 人 を 極 限 に

私 は 考 え て い る 。 こ の よ う な 判 断 を 傍 証 す る 事 実 の 一 っ は 、 この時期を境にして同種の事

十 三 年 を 経 た 今 日 の時 点 か ら 振 り 返 っ て も 、 あ の と き の 診 断 は 妥 当 な も の で あ っ た と 、

った時代を、 見田宗介に倣って、 「 虚 構 の 時 代 」 と呼んだ。

か に な り つ つ あ っ た 一 九 九 五 年 に 、 こ の よ う に 診 断 し た 。 そ し て 、 こ の と き 終 結 し つ つあ



:

(

人 の 認 知 件 数 は、 一 九 六 〇 年 が ピ ー ク で 、 以 降 、 長 期 的 な 減 少 傾 向 に あ る 。 こ こ で 問 題 に し て ハる の は 、 動 機 に 関 し て 常 識 的 な 理 解 可 能 性 が 及 ば な い

)

さ り と て 犯 人 が 明 白 に 「狂

2把縮飾オウム事件を反後す令こと

I

気 」 で あ る と は 認 め 得 な い ——

殺人や暴力である。 それは、 犯人が被害者に対して強い個

暴力である。 オウム真 理 教 に よ る 「 無 差 別 テ ロ 」 の場合には、当

ときには当人自身すらうまく

人 的 な 恨 み も も っ て い な い し 、 犯 人 に と っ て 現 金 な ど の 明 確 な 利 益 も 見 込 め ず 、 したがっ 殺人

て 何 の た め だ っ た の か そ の 目 的 を 第 三 者 が 理 解 で き な い —— 説 明 で き な い ——

しえない殺人となっており、 やはり、 こ の 種 の 殺 人 暴力の大規模な一例となっている。

結 局 、 それは、何のためであ っ た の か を 納 得 で き な い 殺 人 、殺 人 の た め の 殺 人 と し か 見 な

求した説明自体があまりに荒唐無稽で、 一般的な理解可能性を与えるものではないので、

事 者 に と っ て は 、 「ハ ル マ ゲ ド ン 」 の 遂 行 等 の 宗 教 的 な 目 的 が あ る が 、 そ う し た 目 的 に 訴



し か し 、 そ れ 以 前 に は 、 明白な精神病者による犯罪を別にすれば

)

二十代の若者



このような殺人や暴力が

である。 無論、 こうした出来事は、統 計 的 な 処 理 に 耐 え う る ほ ど の 多 数 に は 至 ら な い が 、

繰 り 返 し 、起きている。 犯 人 は 、多く の 場 合 、 オ ウ ム 事 件 と 同 様 に 、 十 代

このような不可解な殺人や暴力が、 オウム事件の頃より、 つまり一九九〇年代前半より、



る だ ろ う 。 よ く 知 ら れ て い る 代 表 的 な 例 と し て は 、 「酒 鬼 薔 薇 聖 斗 事 件 」 一 九 九 七 年 、

なかったことを思えば、社 会 の 総 体 と し て の 質 的 な 転 換 を 示 唆 す る も の で あ る と 解 釈 で き

(

(

(

(

)

)

等を

「 西 鉄 バ ス ジ ャ ッ ク 事 件 」 二 〇 〇 〇 年 、 「大 阪 池 田 小 学 校 児 童 殺 傷 事 件 」 二 〇 〇 一 年 、 )

)

)

「佐 世 保 女 子 同 級 生 殺 人 事 件 」 二 〇 〇 四 年 、 「秋 葉 原 無 差 別 殺 傷 事 件 」 二 〇 〇 八 年 挙げることができるだろう。

(

(

296

さ ら に 、 私 は 、虚 構 の 時 代

一九七〇年——

より後は、 日本を、閉じられた社会である

ハイ



件等を考えたらどうであろうか。あるいは、 二〇〇一年の九

利害にも関係しない他者を

ときに無差別に

一一テロさえも、 宗教的な

殺 し て い る と す れ ば 、 そ の 犯 人 にとっ

時 に 、 犯 罪 の 動 機 の 極 端 な 理 解 不 能 性 は 、 犯 人 と 社 会 の 間 に 、 最 小 限 の 規 範すら共有され

て、 他 者 た ち は 、 も は や 、 交 流 可 能 な 生 け る 人 間 と し て は 現 れ て い な い こ と に な る 。 と 同

-

な い ほ ど に 深 い 〈他 者 性 〉 を 帯 び て た ち 現 れ て い る 点 に あ る 。 犯 人 が 、 個 人 的 な 恨 み にも

って自 余 の 社 会 が 、 そ し て 逆 に 社 会 に と っ て 犯 大 が 、 そ れ ぞ れ 互 い に 、 こ れ 以 上 は あ り え

無 差 別 殺 大 を そ の 極 端 な ケ ー ス と す る よ う な 、 不 可 解 な 殺 人 や 暴 力 の 特 徴 は 、 犯 人 にと

地下鉄サリン事件の拡大された反復のように見えてくる。

大義を掲げた、先進国の大都市の中心部で引き起こされた無差別テロであることを思えぱ、



で大規模な暴動、あるいは二〇〇七年にアメリカのバージニア工科大学で起きた銃乱射事

ス ク ー ル銃乱射事件」 や、 二〇〇五年にフランスで起きた移民労働者たちによる無目的的

増 や す こ と が で き る 。 一 九 九 九 年 に ア メ リ カ の コ ロ ラ ド 州 で お き た 「コ ロ ン バ イ ン

野 を 、 日 本 と い う 境 界 を 越 え て 拡 大 し て み よ う 。 そ う し た 場 合 に は 、 類 例 は 、 いくらでも

か のように分析することの社会学的意味は著しく小さくなっていると考えているので、視

)

て い な い こ と を 示 し て い る 。 こ の よ う に 、 犯 人 と 自 余 の 社 会 と は 、 互 い に 端 的 な 〈他 者 〉 として外在しあっている。

オウム4佛を反復すること

鋪*

297

(

-

し か し 、 同 時 に 、 本 文 の 第 一 章 で ——

無 論 オ ウ ム 事 件 に 即 し て —— 恐 怖 や 不 安 の 感 情 ——

論 じ た よ う に 、 こう

は、 ま る で 合 わ せ

し た 相 互 的 な 外 在 性 と は 真 っ 向 か ら 対 立 す る よ う な 事 態 が 、 両 者 の 間 に は 成 立 し て い る。 客 観 的 に 見 て 、 互 い が 互 い に 対 し て 抱 く 感 情 ——

鏡 の よ う に 対 称 的 であ る 。 さ ら に 、 こ う し た 感 情 が も た ら さ れ る 原 因 に ま で 遡 れ ば 、 そ れ

ぞ れ の 側 に 、 外 的 な 〈他 者 〉 で あ る 相 手 を 、 き わ め て 近 い も の と し て 、 そ し て つ い に は 自

ら の ア イ デ ン テ ィ テ ィ に内 在 す る 契 機 と し て 受 け 取 る 主 観 的 な 感 受 性 を 見 出 す こ と に な る 。

相 手 に 対 し て 抱 く 恐 怖 は 、 〈極 端 に 外 的 な も の の 内 在 〉 と い う 矛 盾 を 拒 絶 し 、 忌 避 し よ う とする感情的な反応として解釈することができるのである。

われわれは、 オウム事件以降、 類似の犯罪、類 似 の 暴 力 が 反 復 さ れ る 時 代 に 突 入した

オ ウ ム 事 件 が 、 真 に 徹 底 し て 〈反 復 〉 さ れ て い

し か し 、 こ こ で 、 〈反 復 〉

だろうか。 フ ロ イ ト を 外 部 か ら 批 判 し た 場 合 に は 、 た と え ば フ ロ イ ト を 、 彼 の 理 論 と は 無

た と え ば 、 フ ロ イ ト を 乗 り 越 え る と い う こ と は 、 フ ロ イ ト を 〈反 復 〉 す る こ と で は な い

で、 使 用 さ れ て い る 。 ど う い う こ と か ?

という 語 は 、 ベ ン ヤ ミ ン の 歴 史 哲 学 の 線 で 、 あ る い は キ ル ケ ゴ ー ル が こ の 語 に 込 め た 意 味

ないからだ、 と答えたとしたら、 逆 説 を 弄 し す ぎ で あ ろ う か ?

い て い る。 ど う し て 、 反 復 さ れ る の か ?

この種の出来事が、 まる で 幽 霊 の よ う に 、 現 代 社 会 に 、 わ れ わ れ の 社 会 シ ス テ ム に とり憑

Q

*

098

縁 の脳 科 学 や 行 動 主 義 心 理 学 の 立 場 か ら 斥 け よ う と し た 場 合 に は 、 わ れ わ れ は む し ろ フ ロ

イ トが創設した地平の内部から抜け出すことはできない。 フロイトにとり憑いた謎や問い

が そ の ま ま 残 っ て し ま う か ら だ 。 フロイトを乗り越えるためには、 フロイトが提起した問

い、 フ ロ イ ト の 思 考 を 駆 動 し た 謎 を 、 フ ロ イ ト 以 上 に 徹 底 し て 探 究 し 、 フ ロ イ ト が 挫 折 し

た 地 点 を 越 え て 前 進 す る し か な い 。 つまり、 フ ロ イ ト を 超 え る 新 し さ は 、 た だ 、 フロイト

の 〈反 復 〉 を 通 じ て の み 、 生 ま れ て く る の で あ る 。 た と え ば 、 ラ カ ン が や っ た こ と は 、 こ

ボ ナ パ ル ト の ブ リ ュ メ ー ル 十 八 日 』 の冒頭で、 歴史は繰り返すが、

の よ う な 意 味 で の フ ロ イ ト の 〈反 復 〉 で あ っ た 。 マ ル ク ス は 、 『ル イ

二度目は笑劇となる、 と述べている。 ここで彼は、 二月革命からナポレオン三世がク デ

タ で 皇 帝 に な る ま で の 過 程 は 、 フ ラ ン ス 革 命 の 果 て に ナ ポ レ オ ン が 皇 帝 の 座 に 着 く まで の

Q

出 来 事 の 反 復 だ っ た 、 と 述 べ て い る の で あ る 。 こ の マ ル ク ス の 説 明 は 、 フランス革命に対

す る 彼 の コ メ ン ト と 合 わ せ て 理 解 し な く て は な ら な い 。 マルクスは、自 由 、 平 等 、 同胞愛

を め ぐ る 熱 狂 が 去 っ た 後 の 、 つ ま り 革 命 が 終 わ っ た 後 の な ん と も お 寒 い 現 実 を 嘲 笑 してい

る 。 結 局 、 残 っ た の は 、 利 己 的 。功 利 主 義 的 な 市 場 の 計 算 だ っ た で は な い か 、 と 。 わ れ わ

れ は 、 こ れ を 、 仮 面 の 裏 に 隠 れ た 下 品 な 素 顔 を 暴 く と い っ た 類 の 、 紋 切 り 型 の 一 種 と解 釈

し て は な ら な い 。 こ こ で マ ル ク ス が 言 わ ん と し て い る こ と は 、 ま っ た く逆 の こ とであ る

卑 谷 な 現 実 の 背 後 に、 自 由 や 平 等 、 あ る い は 同 胞 愛 に 彩 ら れ た ユ ー ト ピ ア 的 な 領 域 が 隱 れ

辅働オウム製伤を現後すみこと

299





ており、 一旦革命が起きてしまえば、 そ れは、 現 実 に 取 り 憑 い たまま離 れ る こ と が な い 、

こ れ が マ ル ク ス の コ メ ン ト の 含 意 で あ る 。 功 利 主 義 的 な 世 界 は 、 必 然 的 に 、 その隠れたュ

— ト ピ ア 的 期 待 へ の 裏 切 り や 約 束違 反 と し て 現 れ て し ま う 、 と い う わ け で あ る 。 そうであ

るとすれば、革命は反復されなくてはならない。 果たされなかった約束を果たすために、

である。 と ころが、実 際 に はし ば し ば 、繰 り 返 さ れ た 革 命 が 、 も う 一 度 、 そのュートピア

への 展 望 を 裏 切 る こ と に な る 。 つ ま り 、 約 束 は 果 た さ れ ぬ ま ま 返 上 さ れ て し ま う 。 こ の と

き 、 二 度 目 の 革 命 は 、 も は や 悲 劇 と い う よ り は 笑 劇 の様 相 を 呈 す る 、 と マ ル ク ス は 言 っ て

い る の で あ る 。 言 い 換 え れ ば 、 二 度 目 が 笑 劇 と な る の は 、 真 の 〈反 復 〉 が 実 現 さ れ て い な

い か ら で あ る 。 裏 切 ら れ た 期 待 を 充 足 す る よ う な ほ ん と う の 〈反 復 〉 が 実 現 し て い な い 限

りで、歴史は、笑劇を繰り返さざるをえなくなる。 オウム事件以降に繰り返し起きてきた 不 可 解 な 犯 罪 も ま た 、 こ の 種 の 「笑 劇 」 だ と 考 え た ら ど う で あ ろ う か 。

、潜 在 的 virtuel」 の区別は、 以上のこ ち な み に 、 ジ ル ド ウ ル ー ズ の 「顕 在 的 actuel とと関係がある。革命の顕在的な結果は、 け ち く さ い 資 本 主 義 的 市 場 で あ っ た 。 しかし、

だが、 フ ラ ン ス 革 命 の 実 現 さ れ な か っ た 希 望 と 同 じ よ う な 意 味 で 、 オ ウ ム に よ る テ ロ の

る。

た可能性として、 つまり潜在的な次元として、 顕 在 的 な 現 実 に 対 し て 付 き ま と う こ と に な

希望が託されたユートピア的な社会は、革命が起きてしまった後には、 もう一つのありえ



300

実 現 されなかった希望について語ることができるだろうか?

顕在化

そんなことはまことにおぞ

と し て 、 あ る い は 普 遍 的 な 解 放 に 至 る 試 み の 挫 折 し た 帰 結 と し て 、解釈する

ま し く 、 不 可 能 な こ と に 見 え る 。 つまり、 オ ウ ム 事 件 を 、 解 放 へ の 希 望 の 裏 切 ら れ た 現 実 化

な く て は な ら な い と 論 ず る こ と が で き る が 、 同 じ よ う な こ と を フ ア シ ズ ム ナチズム て 、 こ れ と は 異 な る 「真 の よ い

)

)



フ ァ シ ズ ム 」 が あ り う る か の よ う に 思 い 描 く ことはで

だ が 、 オ ウ ム と ナ チ ス フ ァシズ ム

と の 類 比 を 、 も う 一 歩 前 に 進 め て み よ う 。 ナチス )

そ の 「内

を 蹂 躍 し て い る と 考 え た 。 そ の 哲 学 者 と は、 ニ 十 世 紀 最 大 の 哲 学 者 、 ハ

彼 は 、 ナ チ ズ ム の 極 端 な 人 種 主 義 や 技 術 主 義 が 、 ナ チ ズ ム の 潜 在 的 な 可 能 性 ——

し ろ 、 「真 の ナ チ ズ ム 」 を 救 出 す る た め に こ そ 、 「現 存 の ナ チ ズ ム 」 を 批 判 し た の で あ っ た 。

の 場 合 、 少 な く と も 一 人 の偉 大 な 哲 学 者 が 、 単 に ナ チ ズ ム を 拒 否 す る た め に で は な く 、 む

(

い。 現 存 し た オ ウ ム が 、 オ ウ ム の す べ て で あ っ て 、 そ れ 以 上 で も そ れ 以 下 で も な い の だ 。

き な い 。 同 様 に 、 「現 存 し た オ ウ ム 真 理 教 」 と は 別 の 「真 の オ ウ ム 」 な ど と い う も の は な

(

つ い て 云 々 す る こ と は で き な い 。 つ ま り 、 「現 存 し た フ ァ シ ズ ム 」 な ど と い う 表 現 を 用 い

(

義 が こ と ご と く 失 敗 に 終 わ っ た と し て も な お 、 真 の 社 会 主 義 を 目 指 す 革 命 が 〈反 復 〉 され

る 、 未 だ 潜 在 的 な 「真 の 社 会 主 義 」 と い う こ と を 主 張 す る こ と が で き 、 仮 に 現 存 の 社 会 主

る よ う に 、 社 会 主 義 に 関 し て は 、 「現 存 し た 社 会 主 義 」 と い う 語 を 用 い て 、 こ れ と は 異 な

こ と は 、 と う て い で き な い 。 こ の 事 情 は 、 フ ァ シ ズ ム と 似 て い る 。 ときどき指摘されてい

)

的 な 偉 大 さ 」 ——

オウム核を反復すること

铺鏡

3ox

(

イ デ ガ ー そ の 人 である。 ハ イ デ ガ ー が ナ チ ズ ム の 中 に

勝手に

見 出 し た 「内 的 な 偉 大 )

なると予期してはいなかったはずだ。 だが、今 し が た ハ イ デ ガ ー と ナ チ ス と の 関 連 に 託 し

誤ったのだろう。彼らの中の誰一人として、 オウムがあのようなテロや殺人を犯すことに

て、 師 か ら 離 反 し た 。 確 か に 、 オ ウ ム を 賞 賛 し た り 、 オ ウ ム に 賛 意 を 示 し た 思 想 家 た ち は 、

また罵倒された。 これら思想家たちを信奉していた多くの者が、 このことをきっかけにし

以前にもさまざまな犯罪が、 オウム教団によってなされたことが発覚した後、批判され、

教 団 は ほ か に 見 当 た ら な い 。 オ ウ ム 真 理 教 を 賞 賛 し た 思 想 家 た ち は 、 サ リ ン 事 件 や 、 それ

教よりも大きな教団は、 いくらでもあるが、 これほど知識人からの評判がよかった新宗教

教 を 賞 賛 し 、精 神 的 に 支 援 し た 、 優 れ た 思 想 家 、 批 評 家 、 学 者 が 何 人 か い た 。 オウム真理

オ ウ ム に眼を転じてみよう。 オウム 事 件 が 発 覚 す る 前 に は 、 教祖麻原彰晃やオウム真理

復〉 が求められるだろう。

笑 劇 的 な 繰 り 返 し に 終 わ っ て い た と し た ら ど う で あ ろ う か 。 こ の と き 、 ま す ま す 真 の へ反

う に 、 ロ シ ア 革 命 が フ ラ ン ス 革 命 に 対 し て そ う で あ っ た よ う に 、 ハイ デ ガ ー の 試 み も ま た 、

ら ど う で あ ろ う か 。 つまり、 フ ラ ン ス ニ 月 革 命 が フ ラ ン ス 大 革 命 に 対 し て そ う で あ っ た よ

ガ ー の 思 い 入 れ、 ハイデガーのナチズムに 見 出 し た 可 能 性 も 、 誤 っ た 認 定 であったとした

け て 〈反 復 〉 す る と い う こ と も 無 意 味 で は な く な る だ ろ う 。 さ ら に 付 け 加 え れ ば 、 ハイデ

さ」 ま で を 、 ナ チ ズ ム の 中 に 包 括 さ せ て み れ ば 、 ナ チ ズ ム を 、 そ の 潜 在 的 な 可 能 性 へ と 向

(

302

て述 べ た こ と か ら 類 比 さ せ れ ば 、 だ か ら こ そ 、 わ れ わ れ は 、 オ ウ ム 事 件 を 、 あ る い は オ ウ

ム 事 件 が 提 起 し た 困 難 を 、 〈反 復 〉 し な く て は な ら な い の で は な か ろ う か 。 事 件 の 帰 趨 を

知 っ た あ と で 、 オ ウ ム を 応 援 し た 思 想 家 た ち を 嘲 笑 す る こ と は た や す い 。 だ が 、 われわれ

が な す べ き こ と は 、 事 件 や 教 義 を 外 か ら 否 定 す る こ と で は な く 、 内 側 か ら 〈反 復 〉 す る こ

と で 乗 り 越 え る こ と で あ る 。 私 は 、 一 九 九 六 年 の 前 半 に 、 そ の よ う な 〈反 復 〉 の た め の 小 さな挑戦のつもりで、本書を執筆したのであった。

二つ の 「 追跡」

さ て 、 本 書 の 本 文 で、 私 は 、 オ ウ ム 真 理 教 事 件 を 、 そ れ よ り 四 半 世 紀 近 く 前 の 連 合 赤 軍

事 件 と 比 較 し て い る 。 言 い 換 え れ ば 、 オ ウ ム 事 件 を 、 連 合 赤 軍 事 件 の 一 種 の 「反 復 」 とし

て 解 釈 し て い る の で あ る 。 こ の 論 点 を 、 い く ぶ ん か ず ら し た 形 で 再 論 す る こ と で、 本 文 の 論旨を明確化 し ておこう。

「い く ぶ ん か ず ら し た 形 で 」 と は 、 次 の よ う な 意 味 で あ る 。 こ こ で 、 「 追われる犯罪者」

を 撮 っ た 二 つの映画を比較してみたいのだ。 二つの映画は、互いの間にまったく影響関係

を も た な い が 、 同 じ 年 に 、 つまり二 〇 〇 七 年 に 制 作 さ れ て い る 。 し た が っ て 、 日本での公

開 も ほ ぼ 同 時 期 で あ っ た 。 ど ち ら の 映 画 も 、 国 際 的 な 映 画 祭 で 賞 を 受 け て お り 、 専門家の

オウム*件を反復すること

徳崎

3。3

2

オ ウ ム 真 理 教 事 件 」 という反

country

である。 『 実 録 連 合 赤 軍 』 は 、 ベ ル リ ン 国 際 映 画 祭 で 最 優 秀 アジ for o l d M e n 』註 ア映画賞等をもらい、 『 は 、 ア カ デ ミ ー 作 品 賞 。監 督 賞 等 を 受 け て い る 前 N 0 country 』



N0

対 照 の 再 確 認 に ど う し て つ な が る の か 、 こ の こ と は 、 以 下 の 説 明 か ら 次 第 に 明らかに

間 の評 価 は 高 い 。 こ れ ら の 映 画 の 比 較 が 、 「連 合 赤 軍 事 件 復

/

二 つの映画とは、若 松 孝 二 監 督 の 『 実 録 。連 合 赤 軍 』 と コ ー エ ン 兄 弟 の

なるだろう。



1 )

O

Q

N0



『 実録

連 合 赤 軍 』 では、 言 う ま で も な く 、 犯 罪 者 は 、 つ ま り 連 合 赤 軍 の 若 者

では、 「 追うこと」 は失敗する。単に、 犯罪者を逮捕できないという country 』

連 合 赤 軍 』 は、 い わ ゆ る 連 合 赤 軍 事 件 へ と 到 る 経 緯 と 事 件 の 最 終 的 な 帰 趨 を 、 時

をめぐるこのような落差はどこから来るのだろうか?

だ け で は な く 、 追 う と い う 行 為 そ の も の が 失 効 し て い る よ う に 見 え る の だ 。 「追 う こ と 」

が、

た ち は 追 い 詰 め ら れ 、 最 後 に は 逮 捕 さ れ る 。 つ ま り 、 「追 う こ と 」 は 成 功 裡 に 終 わ る 。 だ

ておこう。 『 実録

に即してみた場合に、両 者 の 間 に は 明 確 な 対 立 を 認 め る こ と が で き る 、 という点を指摘し

い う こ と に 関 し て は 、 若 干 の 説 明 が 必 要 に な る 。 と も あ れ 、 ま ず は 、 「追 跡 」 と い う 主 題

目的に適うことは容易に理解できるだろう。 だが 、 後 者 が 、 オ ウ ム 事 件 と 対 応 し て い ると

者 は 、連 合 赤 軍 事 件 の 詳 細 を ド キ ュ メ ン タ リ ー 調 に 表 現 し た 映 画 な の だ か ら 、 われわれの

(



間 的 な 順 序 に そ っ て 、 そ し て 資 料 に 基 づ い て で き る だ け 客 観 的 に 映 像 化 し て い る 。 「実 録 」



3。4

の名にふさわしいリアリズムに徹しており、事件はまさにこのようであつたに違いない、 と思わせる迫真性がある。

一 九 六 八 —— 六 九 年 が 盛 り 上 が り の ピ ー ク だ っ た 左 翼 学 生 運 動 は 、 七 〇 年 代 に 入 る と 先 細

りになり、 次第に大衆的広がりを失っていく。 映画は、 この過程を描くところから始まる。

一九七〇年から七一年にかけて、赤 軍 派 な ど 新 左翼系のセクトでは、幹部クラスが次々と

逮 捕 さ れ た り 、 拠 点 を 求 め て 国 外 に 脱 出 し て し ま う 。赤 軍 派 に 残 さ れ た 幹 部 は 、敵前逃亡

の経験もあり、 リーダーの器とはとうてい思えない森恒夫だけだった。森が率いる赤軍派

と 永 田 洋 子 が 率 い る 京 浜 安 保 共 闘 が 統 一 さ れ て 結 成 さ れ た の が 連 合 赤 軍 で あ る 。彼 ら は、

警 察 の 追 跡 か ら 逃 れ て 、 北 関 東 の 山 岳 地 帯 に 入 り 、 そ こ に あ る 「山 岳 ベ ー ス」 で 「軍 事 訓

練 」 を 行 う 。 連 合 赤 軍 は 、 そ の 間 、 「総 括 」 と 彼 ら が 称 し た リ ン チ に よ っ て 、 仲 間 を 次々

は、 警 察 の 捜 査 網 を 破 ろ う と し て 逃 亡 した果

と 粛 清 し て い く 。 映 画 は 、 こ の 凄 惨 な リ ン チ 殺 人 を 、 克 明 に 映 像 化 し て いる。 最 後 に 、 広 く 知 ら れ て い る よ う に 、 メ ン バ ー の一部

は、 元 保 安 官 が 語 り 手 と な り 、 彼 の 視 点 から、引 退 の き っ か け と な っ た country』

生 じ た 殺 し 合 い の 現 場 に 残 さ れ た 大 金 を 、 男 モ ス が 持 ち 逃 げ し た こ と であ る 。 モ ス ほ 、 組

連 続 殺 人 事 件 を 描 く と い う 構 成 に な っ て い る 。事 件 の 発 端 は 、麻 薬 取 引 のもつれによって



No

て に、 浅 間 山 荘 に た ど り 着 き 、 そ こ で 、 人 質 を と っ て 十 日 間 籠 城 し た 後 、 逮 捕 さ れ る 。

)

織 が 雇 っ た 殺 し 屋 シ ガ ー に追 わ れ る こ と に な る 。 こ の 殺 し 屋 を 追 う の が 、 保 安 官 ベ ル で あ

縞・Iオウム事件を反復すること

ジ5

(

というかたちで。

る。 し た が っ て 、 こ の 映 画 で は 、 追 跡 は 二 重 に な っ て い る 。 追 う 者 殺 し 屋 安官

(

を追 う 保

)

(

ポ イ ン ト は、 無 論 、 こ の 殺 し 屋 に あ る 。 彼 は 、 た

う上 に 、 肝 心 の 殺 害 場 面 は 省 略 さ れ て い る の だ 。 こ う し て 、 本 来 だ っ た ら 大 団 円 に な る べ

りをするように、必死に巧みに逃げてきたモスは、突 然 、 あ っ さ り 殺 し 屋 に 殺 さ れ て し ま

そは、映 画 の 最 大 の 見 せ 所 な の だ が 、 こ の 逃 走 は 、 途 中 で 、 い わ ば 流 産 し て し ま う 。 綱 渡



は、 ど の よ う な 結 末 を 迎 え る の か 。 モ ス の は ら は ら ど き ど き の 逃 亡 劇 こ N 0 countrv 』

想させないだろうか。

それは、 ハルマゲドンの遂行とい う か た ち で 無 差 別 的 に 殺 戮 を 敢 行 し た オ ウ ム の 犯 罪 を 連

何であろうか。 この殺し屋は、 モ ス の 追 跡 の 過 程 で 人 々 を 無 差 別 的 に 殺 し て い く わ け だ が 、

差別殺人は、 オウム事件以降、 反 復 さ れ て き た 不 可 解 な 殺 人 の 理 念 型 的 な 純 粋 化でなくて、

組 織 が 彼 に 支 払 っ て い る だ ろ う と 思 わ れ る 金 さ え も 、 彼 に と っ て は 重 要 で は な い 。 この無

で、 夥 し い 数 の 人 を 殺 し て い く 。 彼 の 殺 人 は 無 差 別 的 で あ っ て 、 本 来 、 何 の 目 的 も な い 。

もなく誰をも殺す。実際、殺し屋は、 モーテルからモーテル へとモスを追跡していく過程

ま た ま こ の と き に は 組 織 に 雇 わ れ て は い る が 、 も と も と 完 全 な 一 匹 狼 で あ る 。 彼 は 、 理由

ウム事件に対応しているというのか?

し 屋 に よ る モ ス の 追 跡 を 圧 倒 的 な 緊 迫 感 を も っ て 描 く 。 ど の よ う な 意 味 で 、 この映画がオ

本 来 は、 主 人 公 で 語 り 手 で も あ る 保 安 官 に よ る 追 跡 が 中 心 で あ る は ず だ が 、 映 画 は 、 殺

)

3。6

モス」 と い う 追 跡 で は な く 、 こ の 追 跡 を 外 か ら 包 み 込 む

殺し屋」 こそがほんとうの主題だったということを、観客にあとから思い起こ →

き シ ー ン が 回 避 さ れ 、 「殺 し 屋 「 保安官

さ せ る か のように、 モスが死んでしまった後も、映画はだらだらと続く。 それならば、保

安 官 は 、 殺 人 鬼 を 捕 ま え る こ と が で き た の か と い う と 、 それもできないのだ。殺し屋の逃

亡 を 終 わ ら せ た の は 、 彼 の 不 注 意 か ら 起 き た 交 通 事 故 で あ る 。 こうして、 映 画 は 、物語の

N 0 c o u n t r y 』は 、 『実 録



は、 country 』

連合赤軍』が犯罪者たちの逮捕のクライマッ

内 在 的 な 展 開 とはまったく関係がない、偶発的な事故の場面で終わることになる。 したがって、

No



そ れ は 、 両 者 に お い て 「善 と 悪 の ポ ジ ショ

悪を隠す仮

D

面 な の だ 。 た と え ば 永 田 は 、 女 性 と し て の 劣 等 感 か ら く る 復 讐 欲 を 、 共 産 主 義 化 を 口実に

っ て い な い 。 共 産 主 義 化 と い う 美 名 “善 は 、 実 は 、 各 人 の 小 さ な 利 己 的 欲 望

と 非 難 さ れ な が ら 殴 殺 さ れ る 。 し か し 、 こ の 語 が 何 を 意 味 す る の か 、 ほ ん と う は誰もわか

「一 人 ひ と り が 共 産 主 義 化 し な い と ダ メ な ん だ 、 お 前 は 十 分 共 産 主 義 化 さ れ て い な い 」 等

ン」 が 正 反 対 に な っ て い る と い う 点 に 求 め ら れ る 。 連 合 赤 軍 の メ ン バ ー た ち の 符 丁 は 「共 産 主 義 化 」 で あ る 。 彼 ら は 、 「 総 括 」 において、

た差異を規定している究極の要因は何か?

追 跡 の 挫 折 、 追 跡 す る こ と の 不 可 能 性 を 表 現 し て い る の で は な い か 。 二 つ の 映 画のこうし

ク ス へ と 劇 的 に 収 束 し て い く の と は 、 ま っ た く 対 照 的 で あ る 。結局、



し て 実 現 す る 。 本 文 で も 触 れ た 、 遠 山 美 枝 子 殺 害 は 、 こ う し た 欲 望 に発 し た 殺 人 の 典 型 で

オウム事件を反復すること

少歴

3。7

i

あ る 。 あ る い は 森 恒 夫 は 、仲 間 か ら 臆 病 者 で あ る と 見 な さ れ る の を 恐 れ る あ ま り 、容 赦 の

な い 「総 括 」 を 命 じ て し ま う 。 こ の よ う に 、 悪 が 善 の 衣 を 着 て い る よ う な 場 合 に は 、 われ

わ れ は 、 より純 粋 で 包 括 的 な 善 に よ っ て 、 欺 瞞 的 な 善 を 相 対 化 し 、斥 け る こ と が できる。

たとえば、 この社会にいくら欺瞞や小さな悪 が あ ふ れ て い よ う と 、 そこを支 配 している規

範 は 、 「共 産 主 義 化 」 と い う 空 理 空 論 よ り は 相 対 的 に 優 れ た 、 現 実 に 根 付 い た 「善 」 であ

る と感じられる。追 跡 に 成 功 す る と いうことは、 このように、 偽 の 「 善 」 共産主義化

N0



で は 何 か ? 殺 し 屋 が 挑 ん で く る コイン country 』

を 、 相 対 的 に ま し な 「善 」 に よ っ て 駆 逐 す る こ と を 意 味 し て い る の で あ る 。

(

巴 C 「

1 it表 か 裏 か 言 え 」 と。 言 わ れ

)

に、 考 え て み よ 。 ど ん な 利 己 的 な 利 益 に も 屈 せ ず 、 決 め た こ と は 貫 き 通 す と い う こ と は 、

こ の よ う な 無 差 別 的 な 理 由 な き 殺 人 は 、 絶 対 悪 以 外 の な に も の で も な い 。 しかし、 同時

益のために、 たとえばお金を目当てに、人を殺しているわけではない。

手 を 、絶 対 に 殺 す 。先 に 述 べ た よ う に 、 そ の 殺 人 に は 、何 の 目 的 も な い 。彼は、何 か の 利

この殺し屋に殺されてしまうのだ。殺し屋は、 この偶然のゲームによって殺すと決めた相

裏を正しく言い当てることができた場合には、赦されるのだが、 もしはずれた場合には、

た者は、何がなんだかわからないのだが、 その強い命令をどうしても拒みきれない。表

んでくる。 コインを放り投げ、 こう命令するのだ。

投げのゲームである。彼 は 、 誰であれ、出会った人に、 いきなりコイン投げのゲームを挑

「共 産 主 義 化 」 に 対 応 す る の は 、

)

/

(

308

本来の「 善 」 の 特 徴 、 「善 」 が 真 に 純 粋 で あ っ た と き に も つ は ず の 特 徴 で は な い か 。 純 粋

で あ ろ う と す る 善 が 目 指 し て い る こ と は 、 ま さ に こ の こ と で は な い か 。 し た が っ て 、 次の

を 装 い 、 己 を 隠 そ う として

よ う に 結 論 で き る こ と に な る 。絶 対 的 な 悪 が 、純 粋 な 善 の 形 式 を 纏 っ て い る の だ 、 と。連 が 善 の 内 容 共産主義化

)

が 示 し て い る の は 、 悪 が 己 を 隠 さ ず 、 徹 底 し 、純粋化した country 』

合 赤 軍 で は 、 悪 の 形 式 利己的欲望

N0



)

た め である。 連合赤軍』と

No 『

を 隔 て て い る の は、 三 十 年 以 上 の 時 間 で も あ る 。 country 』

の 段 階 へと 、 時 代 は 推 移 し た の だ 。

No 『

Country

と は、 「 for Old M e n 』 C H d s e n 保安 「国 」 は も は や 存 在 し な い 、 とい

(

善 を 偽 装 し て い た 犯 罪 者 の 段 階 か ら 、 絶 対 悪 に よ っ て 善 の 形 式 を 奪 い 取 っ てし ま う 犯 罪 者

『 実録

*

悪 の 権 化 で あ る 殺 し 屋 に 存 在 感 に お い て 圧 倒 的 に 負 け て お り 、 追 跡 にも失敗するのはこの

チ な 欲 望 を 隠 し も っ て い る か ら で あ る 。 古 き よ き 時 代 の 善 を 体 現 し て い る保 安 官 が 、 純 粋

できない。 ど の よ う な 具 体 的 な 善 も 、 この絶対悪ほどには純粋ではありえず、 どこかにケ

善 の 理 念 的 な 形 式 に ま で 到 達 し て し ま っ た 絶 対 悪 は 、 ど ん な 具 体 的 な 善 に よ って も 対 抗

オ ウ ム 真 理 教 の 「ポ ア 」 も ま た 、 純 粋 な 善 、 最 高 善 の 形 式 を 奪 い 取 っ た 、 絶 対 の 悪 で あ る 。

と き に は 、 善 の 高 み に 到 達 し 、 善 の 形 式 を 奪 い 取 っ て し ま う と いう ことである。 そして、

いた。 し か し 、

(

-

オウム・仰を反復賓0こと

(

つまり「 古 き よ き徳 」 のため の -

铺論

3。9

,

官 」 のための )

No

そう

は、 country 』

「善 」 は 、 特 定 の 共 同 体 に お い て 共 有 さ れ て い る 理 想 で あ る と 解 す る こ と が で き る



う 意 味 で あ る 。 ここで確認し て お き た い 肝心なことは、連 合 赤 軍 事 件 が 、本書で言うとこ ろ の 「理 想 の 時 代 の終結 」 を 象 徴 す る 出 来 事 で あ っ た と す れ ば 、 )

「 虚 構 の 時 代 の 終結 」 を 暗 示 し て い る 、 と い う こ と で あ る 。

(

)

え ば 、 す で に 述 べ た よ う に 、 「共 産 主 義 化 」 が 何 を 意 味 し て い る か は 、 も は や 、 メンバ

連合赤軍事件は、理想の時代が終わろうとしているということを示す徴候でもある。 た と

の社 会 は 、 無 論 、 「共 産 主 義 」 と い う シ ニ フ ィ ア ン に よ っ て 表 現 さ れ る 。 だ が 、 同 時 に 、

で あ る と す れ ば 、 連 合 赤 軍 は 、 ま だ 理 想 の 時 代 の 範 囲 に 属 し て い る 。 彼 ら に と っ て の理想

Q

(

端 こ 些 細 な こ と で 、 傍 か ら 見 て い る と 滑 稽 で す ら あ る 「ぬ け が け で 銭 湯 に 行 っ た こ と は 、

—すらもわかっていない。 それゆえ、 この語を用いて争われていることは、 しばしば、 極

( )

(

共産主義化の地平のもとで正当化できるか」 「 ビスケットを盗み食いしたことは、共産主義化の大 義の中で許されるか」 等 。 映 画 『 実録

連合赤軍』 の中には、 理想の時代の終結を予感させる印象的な場面が収め

)

アメリカ帝国主義」

中 の 抜 き 打 ち 的 な 国 交 回 復 を 伝 え る ニ ュ ー ス を 見 て 、 衝 撃 を 受 け る 。 彼ら

の 「共 産 主 義 化 」 に 多 少 な り と も 内 容 が あ る と す れ ば 、 そ れ は 、 「反

だということにあった。 このことは同時に、彼らが、 皆、中 国 の 共 産 主 義 や 毛 沢 東 主 義 、



テレビで、 米

られている。浅間山荘に立て籠もっているまさにその最中に、連合赤軍のメンバーたちは、

• •

"〇

あ る い は 文化大革命に、彼らの理想の現実化された姿を見ていた、 ということでもある。

と こ ろ が 、今 、彼らの理想の定義していた敵と味方が、 彼 ら に 無 断 で 、 握手してしまった

そ れ も ま た 、 「テ レ ビ 」 が 暗 示 す る 。 連 合 赤 軍 の メ

のである。 こうして理想は、完全に効力を失ってしまう。 この後にやってくる時代は何か?

ン バ ー は 、 彼 ら が ま さ に 引 き 起 こ し て い る 事 件 を 、 つ ま り 浅 間 山 荘 事 件 を 、 山荘内のテレ

ビ を 通 じ て 知 っ た の だ 。 彼 ら は 、 こ の 事 件 が 日 本 中 に ど の よ う に 伝 え ら れ 、 日本人にどの

よ う な イ ン パ ク ト を 与 え て い る の か と い っ た こ と を 、 要 す る に 、 浅 間 山 荘 事 件 とは何かと

い う こ と を テ レ ビ で 知 る 。 彼 ら は 、 警 察 が 山 荘 を ど の よ う に 取 り 囲 ん で い る か と い う こと

を 、 テ レ ビ で 確 認 し て 、 作 戦 を 練 っ た 。 要 す る に 、 彼 ら は 、 彼 ら が ま さ に そ の ど真 ん 中 に

現 実 」 の 差 異 を ど う し てもあいまいなものにせざる

を 通 じ て 初 め て 把 握 す る こ と が で き た の で あ る 。 この事 実 は 、

い る と こ ろ の 現 実 の 総 体 を 、 「虚 構 を え な い メ デ ィ ア テレビ

/

No

に お け る 絶 対 悪 の 勝 利 が示 唆 し て い る こ と は 、 ま た 別 の こ と で あ る 。先 country 』

に述 べ た よ う に 、 殺 し 屋 シ ガ ー は 、 コ イ ン 投 げ の ゲ ー ム に よ っ て 、 殺 す 者 と 赦 す 者 を 、 呪



ている。

理 想 の 時 代 に 取 っ て 代 わ ろ う と し て い る 時 代 が 、 虚 構 の 時 代 で あ っ た こ と を 予 兆 的 に 示し

)

わ れ た 者 と 救 済 さ れ た 者 と を区 別 す る 。 これこそ、 ま さ に神が、純粋に超越的な神が行っ

補心オウム事件な反復すること

3り

(

て い る こ と で は な い だ ろ う か 。 神 意 は 、 人 間 か ら は 推 し 量 る ことが できない。 神がどうし

て こ の 者 を 救 い 、 あ の 者 を 呪 っ た のか、 ど う し て こ の 者 に 恩 寵 を も た ら し 、 あ の 者 を 見 放

N0 『

で、 殺 country 』

し た の か 、 人 間 に は わ か ら な い 。 そ う だ と す る と 、 神 の 業 は 、 人 間 の 眼 か ら み れ ば 、 この ゲ ー ム の よ う に 、確 率 論 的 で 偶 然 的 な 戯 れ の よ う に 見 え る は ず だ 。

し屋は、 一種の神として振舞っているのである。無論、 それこそ、麻原彰晃が手に入れよ う と し て い た ポ ジ シ ヨン で も あ る 。

シガーを連 想 させる、猟奇的な無差別殺人者の登場は、規範に妥当性を備給する超越性

のほとんどあらゆる可能性が潰えて、 人間の生の自然な過程を端的に否定すること、 世界

の自然な循環をトータルに破壊してしまうこと、 ただそうした絶対的な否定によってのみ、

かろうじて超越性を呼び戻すことができるような段階に、われわれの社会が入ったという

ことを示している。 人 間 と 世 界 の 自 然 な 必 要 や 欲 望 か ら 導 き 出 さ れ る 「 善 」 は、 述 べ た よ

うに、 いつでもより純粋で包括的な「 善 」 のもとで相対化され、 その超越的な効力を失い

という形式で、超越的な

うる。逆に言えば、 そうした必要や欲望を一切拒否し、 そこから身を引き剝がす、絶対的 な否 定 、絶対的 な 悪 だ け が 、否 定 や 悪 の 操 作 の 帰 属 点 担い 手

)

視 点 が も は や 機 能 し な く な ろ う と し て い る こ と を 示 し て い る 。 つまり、 こ れ は 、 虚 構 の 時

ことは、 さ ま ざ ま な 虚 構 の 世 界 を 現 実 の 可 能 な パ タ — ンとして保持し、 通 覧 す る 超 越 的 な

ものの存在を保証するだろう。超越性をこうした逆説的な仕方でしか呼び戻せないという

(

312

代の末期的な症状として解釈することができるのだ。

さらに付け加えておけば、悪を媒介にした超越性の措定というメカニズムは、 現代社会

が初めて活用したわけではない。 このメカニズムの萌芽は、宗教の歴史の遥かな過去に、

す で に 見 出 さ れ て い る 。 そ れ こ そ 、 ユ ダ ヤ ー キ リ ス ト 教 の 伝 統 の 原 点 に あ る 「原 罪 」 の 観

念 で あ る 。 一般には、 原 罪 は 、 神 の 領 域 か ら 人 間 が 疎 外 さ れ た 原 因 で あ る と 解 釈 さ れ て い

る。 し か し 、 逆 に 、 原 罪 こ そ は 、 人 間 を 動 物 か ら 分 か つ も の で あ っ て 、 動 物 か ら の 人 間 の

超越の基礎であるとも見なすこともできる。原罪がなければ、人間と動物はどう違うとい

一九九

うのか。 とすれば、 ここでは、無 意 味 な 悪 、 罪への堕落だけが、 人 間 を 動 物 か ら 分 か つ 、 人間の超越性の根拠となっているのである。

「不可能性の時 代 」 へ

それならば、虚構の時代の後には何が、 どんな時代がやっ て く る の だ ろ う か ?

六 年 に 本 書 を 書 い た と き には、 私 は 、 オ ウ ム 事 件 を 「 虚構の時代の果て」を象徴する出来

)

で、 私 は 、 理 想 の 時 代

虚構の時

事 と し て 位 置 づ け 、 そ の 「果 て 」 の 後 の 段 階 に つ い て は 、 積 極 的 に は 論 じ な か っ た 。 だ が 、 二 〇 〇 八 年 に 上 梓 し た 『不 可 能 性 の 時 代 』 岩 波 新 書 (

/

代 に 後 続 す る 戦 後 史 の 第 三 フ ェ ーズ を 、 「不 可 能 性 の 時 代 」 と 名 づ け 、 そ の 様 態 を 分 析 し

掃ねオウムシ件を反復する二と

313

3

虚 構

た。 ここで、 そ の 内 容 を 繰 り 返 すことは で き な い が 、 本 書 と の 関 係 だ け 、概 括 的 に 述 べ て おこう。

現 実 の 意 味 的 な 秩 序 の 中 心 に は 反 現 実 が あ る 。 そ の 反 現 実 の モ ー ド が 、 「理 想

I

文化のさまざまな領域で作用している。無論 、 イ ン タ —ネ ッ ト の よ う な サ イ バ ー ス ペ ー ス

二 つ の 傾 向 で あ る 。 一方では、 虚 構 化 の 極 端 な 昂 進 、 超 虚 構 化 と で も 見 な す べ き 力 学 が 、

と り わ け 注 目 し た の は 、 一見、 互 い に 背 反 し て い る よ う に 見 え る 、 現 代 社 会 の 支 配 内 な 、

第三の段階の中心に、不可能性という反現実があると私は認定したわけだが、 その際に

い描くこ と が できる。

の度合いを、 つまり現実からの距離を次第に大きくし て い く 過 程 と し て 、 こ の 三 段 階 を 思

不 可 能 性 」 と 転 換 し て き て い る 、 と い う の が 私 の 考 え で あ る 。 「反 」 現 実 が 、 そ の 「反 」

1

コーヒー、 ノ

の圧倒的な浸透やヴァーチャル リアリティを構成する諸技術の開発 普及のようなもの •

セックス等の流行である。 これらは、 すべて、 対象

も こうした傾向の中に含まれるが、私 が と り わ け 注 目 し た の は 、 デ カ フ ェ ン ア ル コ ー ル ビール、 セ ー フ テ ィ







のである。 だ が 、 い ず れ に お い て も 、 実 際 に は 、 快 楽 は 、 危 険 性 と 分 か ち が た く 隣 接 し て

から危険な要素だけを抜き取り、快 楽 の 部 分 だ け を 安 全 に 享 受 し よ う と し て 案 出 さ れ た も



てしまうことになる。 たとえば、 セ ッ ク ス の 快 楽 は 、 死 を 垣 間 見 る よ う な 危 険 の 中 に し か

おり、 危 険 性 だ け を 除 去 し よ う と す る と 、 そ の 対 象 の 現 実 性 そ の も の を 否 認 し 、 虚 構 化 し

.

バ4

な い ので、 セ ー フ テ ィ

セックスの理念をあまりに律儀に遵守した場合には、 あらかじめ

セックスのようなものになってしまう。

ところが、他 方で、 こうしたトレンドとはまったく逆の指向もまた、 現代社会では顕著

て 「 実 存 の 痛 み 私がまさにここにいるという実感 」 を 得 る 技 法 だ と 言 っ て よ い だ ろ う 。

的 な 事 例 は 、 リ ス ト カ ッ ト の よ う な 自 傷 行 為 で あ る 。自 傷 行 為 は 、 「 痛みの実存」 に よ っ

で 、 と き に 強 い 刺 激 を 五 感 に 直 接 与 え る 現 実 の こ と で あ る 。 「現 実 」 へ の 逃 避 の 、 最 も 端

の こ と で は な く て 、 現 実 の 中 の 現 実 、 「こ れ ぞ 現 実 」 と 実 感 さ れ る よ う な 激 し く 、 暴 力 的

出 さ れ る の で あ る 。 こ こ で 、 鉤 カ ッ コ を 付 し て 「現 実 」 と 表 記 し て い る の は 、 日 常 の 現 実

で あ る 。 「現 実 」 へ の 回 帰 、 「現 実 」 へ の 逃 避 と で も 呼 ぶ ほ か な い よ う な 現 象 も 、 頻 繁 に 見



シナリオのある演技のようなセックスやコンピュータ・モニタを媒介にしたヴアーチャ



)

のベクトルの狭間で、 「 何か

」 が 逸 せ ら れ て い る か ら で あ る 。何 か

が 、 経 験 の対 象 と

X

し て 措 定 さ れ る こ と な く 、 経 験 の 可 能 性 の領 域 か ら 排 除 さ れ て い る の だ 。 そ の 逸 せ ら れ た

X

こ の よ う に 、 ま っ た く 相 反 す る ベ ク ト ル を も っ た ト レ ン ド が 迫 り 出 し て く る の は、 ニ つ

なども、 こうした傾向を代表する事実として挙げておくことができる。

そ の 他 、 「世 界 の 中 心 」 に 行 っ て み た い 、 「戦 場 」 等 の 「現 場 」 に 行 っ て み た い と い う 欲 望

(

こ そ が 、 「不 可 能 性 」 で あ る 。

3纟タ铺版オウム事件を反復すること



「不 可 能 性 」 の 詳 細 に つ い て は 、 前 掲 書 に譲 る こ と に し て 、 こ こ で は 、 オ ウ ム 真 理 教 の 中

X

に、 す で に 、 「不 可 能 性 」 を 囲 う こ れ ら 二 つ の 背 反 的 な ベ ク ト ル が き わ め て 明 白 な 形 で 共

存 し て い た 、 と い う ことだ け は 指 摘 し て お こ う 。 本 文 で も 記 し た よ う に 、 オ ウ ム 教 団 は 、

事 件 当 時 、 「オ タ ク の 連 合 赤 軍 」 な ど と も 呼 ば れ た 。 彼 ら の 世 界 観 が 、 ア ニ メ や マ ン ガ な

空 間 的 な 展 望 は 、 教 祖 麻 原 彰 晃 の 幻 想 的 な 予 言 に よ っ て 規 定 さ れ て い た 。 こ の ような

ど か ら 借 り て き た 虚 構的な要素によって彩られていたからだ。 また、彼 ら の 世 界 の 時 間 的

も 萌 え て お り 愛 着 を も っ て お り 、 「萌 え 」 の 定 義 を め ぐ っ て 、 か ま び す し い 議 論 を 繰 り

「萌 え る 」 と 言 わ れ る 。 オ タ ク た ち は 、 「 萌 え 」 と い う 語 、 「萌 え 」 と い う 現 象 そ の も の に

のある種の愛着を表現する語である。対 象 が 主 体 に ボ ジ テ ィ ヴ な 欲 望 を 誘 発 す る と き 、

置を占めている。 「 萌 え 」 は、 ア ニ メ や マ ン ガ に 没 頭 す る 若 者 た ち の ス ラ ン グ で 、 対象へ

に相応しい。 オタクという若者風俗は、虚構の時代と不可能性の時代を接続するような位

般 こ 浸 透 し て い る 事 実 を ひ と つ 挙 げ る と す れ ば 、 オ タ ク た ち の 「萌 え 」 と い う 現 象 が そ れ

背反する二つのベクトルが直接に共存している状態を直感させる、些細ではあるが、 一

あると同時に、不可能性の時代の始点でもあったのである。

飛 び 込 み 、 「現 実 」 へ の 逃 避 で な く て 何 で あ ろ う か 。 オ ウ ム 事 件 は 、 虚 構 の 時 代 の 果 て で

い か な い 。 だ が 、 他 方 で 、 ハ ル マ ゲ ド ン の 遂 行 や 東 京 都 心 で の テ ロ 活 動 が 、 「現 実 」 への

意味では、現実の虚構化への顕著な傾向を、 オウム信者たちの世界に見出さないわけには



)

返してきた。 「 萌え」という語は、 一部のオタクたちの間では、 一九八〇年代の最末期よ

(

316

り使われていたと言われるが、広く普及したのは、 二〇〇

年代に入ってからである 二

(

〇〇五年に「 流 行 語 大 賞 」 に選ばれている 。 地 下 鉄 サ リ ン 事 件 が あ っ た 一 九 九 五 年 に は 、 こ

0

『 動 物 化 す る ポ ス ト モ ダ ン 』講談社現代新書二 キ ャ ラ ク タ ー は 、 そ れ ゆ え 、 萌 え 要 素 の 中 か

質 で あ る 。東 浩 紀 は 、 こ う し た 性 質 の 一 つ ひ と つ の こ と を 「 萌 え 要 素 」と呼んでいる

「メ イ ド 服 」 「猫 耳 」 「し っ ぽ 」 「触 角 の よ う に 刎 ね た 髪 」 等 が 、 萌 え を 誘 発 す る 関 与 的 な 性

オ タ ク たちの欲望は、特定 の 関 与 的 な 性 質 に よ っ て 誘 発 さ れ て い る の だ 。具体的には、

べき、 明 確 に 定 義 さ れ た 関 与 的 な 性 質 の 集 合 と し て 意 識 さ れ 、規定されているのである。

い る わ け で は な い と い う こ と で あ る 。 対 象 で あ る キ ャ ラ ク タ ー は 、 欲望が差し向けられる

が、 見 逃 し て は な ら な い 重 要 な こ と は 、 その 際 、対象が漠然とした全体として欲望されて

萌 え の 対 象 に な っ て い る の は 、 一般には、 ア ニ メ 、 マンガ、 ゲ ー ム 等 の キ ャ ラ ク タ — だ

の語は、 ま だ ほ と ん ど 知 ら れ て い な か っ た 。

)

ら い く つ か を 選 び 出 し 、 束 ね た も の だ と い う こ と に な る 。 ま た 、 特 定 の萌 え 要 素 に着 眼 す

れ ば 、 作 品 横 断 的 に キ ャ ラ ク タ — を 整 理 し 、 分 類 す る こ と も で き る た と え ば 、 メイド服

の キ ャ ラ ク タ ー は、 さ ま ざ ま な 作 品 に 登 場 す る 。 こ の よ う に し て キ ヤ ラ ク タ ー を 享 受 す る こ

(

キ ャ ラ ク タ — が 限 定 さ れ た 性 質 の 束 に 還 元 さ れ て い る と い う こ と は、 「 萌 え 」 と い う形

と を 、 東 は 「デ ー タ ベ ー ス 消 費 」 と 呼 ん だ 。

)

式 で 現 象 す る 欲 望 が 、 虚 構 の フ レ ーム に よ って緻密に構造化 さ れ 、 そ の 範 囲 を 溢 れ 出 るこ

オウム事件を反復すること

舖*

317

(

と は な い 、 と い う ことであ る 。 キ ャ ラ ク タ — は、 萌 え 要 素 の デ ー タ べ ー ス と い う 眼

超虚構化を代表する現象と解釈することができる。

という虚構の存在を再虚構化するところに成立したというべきであろう

を通

つまり、 これは

じてのみ、欲望の対象としてたち現れるのである。 この意味で、萌 え と は 、 キャラクタ—

#

何らかの関与的な性質

だが他方で、萌え要素がオタクたちにとって重要なのは、 それが、 身体を直接的に刺激

Q

いかなる知的な操作を媒介にする必要もな

を 喚 起 す る か ら で あ る 。 萌 え を 感 じ る の に 、 ——

)

を検出する判断を別にすれば

し 、 欲 望 性欲 萌え要素 -

(

)

れ ば 、 萌 え 要 素 は 、 「現 実 」 の 断 片 に 他 な ら な い 註

。したがって、「 萌え」 という現

2 )

よ り 繊 細 な 萌 え 要 素 の 発 見 と 分 類 が ——

*

進むのである。

った。 普 通 、 オ ウ ム が 行 更 し た 暴 力 は 、 あ ま り に 大 き 過 ぎ た と 考 え ら れ て い る 。 だ が 、 才

「現 実 」 へ の 逃 避 は 、 し ば し ば 、 破 壊 的 な 暴 力 と し て 現 出 す る 。 オ ウ ム の 場 合 も そ う で あ

虚 構 化 が ——

へ の 接 近 と が 相 互 累 進 的 に 進 抄 す る の だ 。 「現 実 」 へ と 肉 迫 し よ う と す れ ば す る ほ ど 、 超

象 を め ぐ っ て 、 超 虚 構 化 と 「現 実 」 へ の 没 入 と が 交 叉 す る の で あ る 。 超 虚 構 化 と 「現 実 」

(

て、 主 体 に ア イ デ ン テ ィ テ ィ や 実 存 の 感 覚 を 与 え る の と 同 じ で あ る 。 こ う い う 観 点 からす

接 性 をもって、身体を刺激するのである。 それは、 リストカットが、皮 膚 へ の 痛 み に よっ

い。 解 釈 や 推 論 等 の 複 雑 な 操 作 を 経 由 す る こ と な く 、 萌 え 要 素 は 、 ほ と ん ど 条 件 反 射 の 直

(

31$

ウムに問題があったとすれば、 それは、 まったく逆のところにある。 オウムの暴力は、 あ

る観点からすれば、 むしろ、 不十分だったのである。暴力のフィジカルなスケールについ

て言っているわけではない。 暴力の内的な構成について述べているのだ。どういう意味か、 説明しなくてはならないだろう。

資本主義を見出すことになる。

本 文 で て い ね い に 論 じ た よ う に 、 オ ウ ム 真 理 教 と い う 新 宗 教 が 登 場 し た 原 因 を 、最も深 い 部 分 に お い て 捉 え れ ば 、 わ れ わ れ は 、 そ こ に 広義の

た と 考 え て よ い 。 だ が 、 に も か か わ ら ず 、 オ ウ ム の 教 義 や 暴 力 は 、 広義の

資本主義の

)

第 三 者 の 審 級 ——

資 本 主 義 は 、規範の与え手として機能する超越的

を、 キャンセルしては未来に再措定する繰り返しのダイナミ

ズ ム に よ って定義される。 オウムが死守しようとしたのは、 ま さ に こ の 「 第三者の審級の

な 他 者 ——

資本主義の根幹的な性質とは何か?

よ う と し 、 無 差 別 テ ロ を 含 む あ ら ゆ る 逸 脱 行 動 に コミットしたと言 っ て も よ い く ら い だ 。

資 本 主 義 の 最 も 重 要 な 性 質 を 不 変 の ま ま に 保 つ た め に こ そ 、 オ ウ ム は、 他 の すべてを変え

れ の 経 済 活 動 や 日 々 の 仕 事 を い か に 攪 乱 し よ う と も 、 このように主張しな く て は な ら な い 。

の 日 常 の 規 範 に 対 し て い か に 逸 脱 的 な も の に 見 え よ う と も 、 ま た オ ウ ム の テ ロが、 わ れ わ

根 幹 的 な 特 性 を 維 持 す る も の だ っ た 、 と 見 な さ ざ る を え な い 。 オ ウ ム の 活 動 が 、 われわれ

(

オ ウ ム の 教 義 や 暴 力 的 な 実 践 は 、資本主義に対する反応、資本主義への抵抗として出現し

)

存 在 」 であ る 。 オ ウ ム 信 者 が 、 と て つ も な い 暴 力 に 手 を 染 め る こ と が で き た の は、 彼 ら が 、

純臨オウム事件を反復するこヒ

319

(

自 分 自 身 を 第 三 者 の 審 級 の 純 粋 な 道 具 と 見 な し 、 自 分 自 身 の 行 動 を 第 三 者 の 審 級 の意 志 の

直 接 の 具 体 化 と 考 え る こ と が で き た か ら であ る 。 無 論 、 彼 ら に と っ て 、 第 三 者 の審 級 は 、

最終解脱者麻原彰晃として実体化されており、 理 論 上 は 「 真 我」 として観念されていた

Q

の存

こ れ と 同 じ こ と は 、 イ ス ラ ー ム 原 理 主 義 の 自 爆 テ ロ リ ス ト に 関 し て も 言 え る 。 彼 ら の自爆

テ ロ が 意 味 を も つ た め に は 、 彼 ら を 道 具 と し て 位 置 づ け る 第 三 者 の 審 級 アッラー 在が不可欠である。

)

的な暴力と神的な暴力とを区分したのである。法を措定したり、 法を維持 し た り す る 暴 力

たからである。 ベンヤミンは、 『 暴 力 批 判 論 』 で、 暴 力 に 関 す る 有 名 な 二 分 法 を 導 入 し た 。 彼 は 、 神 話

真に徹底した勇気とは言えない。 それは、第三者の審級を手放せない臆病に支えられてい

彼 ら は 悪 人 か も し れ な い が 、 「勇 敢 だ っ た 」 と い う 印 象 を も つ 。 だ が 、 彼 ら の 「勇 気 」 は 、

な 善 悪 の 評 価 は 別 に し て 、 い ず れ に せ よ 、 た い へ ん な 「勇 気 」 の 産 物 で あ る よ う に 見 え る 。

十分だと述べたのはこのためである。 オウムの殺人者やテロリストの行動は、 その内容的

らである。 オウムの暴力が、 そのスケールに関してではなく、 その質的 な 構 成 に 関 し て 不

ウム信者が平然と破壊的な行動をなしえたのは、破壊されざるその一点が残されているか

い 一 点 を 残 さ ざ る を え な い 。 そ の 「一点」 は 、 資 本 主 義 を 機 能 さ せ る 命 綱 と 一致 す る 。 オ

それゆえ、 オウムの暴力は、 いかに破壊的なものに見えようとも、決し て 、破 壊 さ れ な

(

ジ〇

として定義された神話的な暴力とは、 われわれの用語で言い換えれば、第三者の審級の存

法を無化してしまう暴力とし

は 、 「神 的 」 と い う 形 容 詞 と は 裏 腹 に 、 第 三 者 の 審 級 の 不 在 を 決 然 と

在 を 前 提 に し た 暴 力 で あ る 。 そ れ に 対 し て 、 神 的 な 暴 力 —— て の 神 的 な 暴 力 ——

引 き 受 け た 上 で の 暴 力 で あ る 。 そ う で あ る と す れ ば 、 オ ウ ム 事 件 を 真 に 〈反 復 〉 す る と い

old 「

に と っ ては Men」

「力

邦 題 は 、 『ノ ー カ ン ト リ ー 』 で あ る 。 し か し 、 こ の よ う に 省 略 し た 場 合 に は 、 タイトル

うことは、神話的な暴力を神的な暴力へと転換することでなくてはなるまい。



の意味がまったくわからなくなってしまう。後に述べるように、 ント リ ー 」 が な い と い う こ と が 重 要 で あ る 。

の発

私 は 、 こ の 点 に 関 し て 、 京 都 大 学 で の 「現 代 文 明 論 基 礎 ゼ ミ ナ ー ル」 京 都 大 学 二〇〇

で の 学 生 た ち と の 議 論 か ら 多 く の ヒ ン ト を 与 え ら れ た 。 とりわけ、溝 口 佑

w

註 七年度授業 言 が 参 考 に な った。

オクム事件を反復すること

海*

321

)

(

| 2

文庫版あとがき



人 は、 あ る 出 来 事 と 自 分 自 身 と の 間 に 強 い 同 時 代 性 を 感 じ る と き が あ る 。 私 に と っ て 、 オウム真理教事件は、そのような特権的な出来事であった。

社 会 学 と い う 知 の 特 徴 は 、 探 究 す る 主 体 が 、 直 接 に 、 探 究 さ れ る べ き 対 象 の一部

)

を、 否応なしにつきつけられたように感じたのである。 そ う で あ る と す れ ば 、 一人 の 社 会 学 者 と し て 、 オ ウ ム 事 件 を

こ の 事 件 が起きた真の

強 く 実 感 し た こ と は な か っ た 。 つ ま り 、 私 は 、 自 分 自 身 も ま た 社 会 現 象 で あ る と い う事実

し 、 学 生 に も そ の よ う に 教 え て き た の だ が 、 オ ウ ム 事 件 が 起 き た と き ほ ど 、 こ の こ と を、

もある、 と いう点にある。 こ う い う こ と は 、無 論 、 私自身、 わかっていたつもりであった

(

自 分 自 身 が ま さ に そ れ の 一部

こうした思いから、

でもあるような社会現象

徹 底 的 に 分 析 し 、 対 自 化 し な い わ け に は い か な い 。 も し そ う し な い な ら ば 、何

のため の 社 会 学 で あ ろ う か ?

原 因 を ——

)

に 対 し て 無 力 で あ る な ら ば 、 社 会 学 と いう知 は何 で あ る と い う の か ? を書いた

文庫版あとがを

*3

(

©

事 件 の 全 容 が 次 第 に 明 ら か に な っ て い っ た 一 九 九 五 年 か ら 翌 九 六 年 に か け て 、私 は 、 『 虚 構 の 時 代 の 果 て 』 ち く ま 新 書 、 一九九六年 六 月 刊 (

)

だ か ら 、 こ の 本 は 、特 別 に 思 い 入 れ の あ る 本 だ っ た の だ が 、 絶 版 に な っ て 、 しばらく入

手 し に く い 状 況 に あ っ た 。 こ の 度 、 増 補 部 分 を 加 え て 、 あ ら た め て 文 庫 版 を 世 に 送 る こと ができることとなった。

文 庫 版 には、 見 田 宗 介 先 生 が 解 説 を 書 い て く だ さ っ た 。 私 に と っ て は 、自著に見田先生

の 解 説 を い た だ く と い う こ と は 、 長 年 の 夢 で あ っ た 。 本 書 の 「理 想 の 時 り 虚 構 の 時 代 」

と い う 戦 後 史 の 時 代 区 分 が 見 田 先 生 の 着 想 に 負 っ て い る こ と か ら も 明 ら か な よ う に 、 私の

思考は、 一八歳のときに先生にお会いしたときから今日に至るまで、先生に深く影響され てきた か ら である。

私のように、学問的にも、人間的にも尊敬できる師を身近にもつことができた者は幸せ

で あ る 。 今 、 「学 問 的 に も 、 人 間 的 に も 」 と 、 あ た か も 、 「学 問 」 と 「人 格 」 と を 分 離 で き

る か の よ う に 書 い た が 、 無 論 、 そ れ は 方 便 で あ っ て 、 両 者 は 本 来 不 可 分 で あ る 学問と人

を、少 な く と も 社 会 学 の よ う な タ イ プ の 知 が 何 で あ る か を 、 わ か っ て い な い 人 で あ る 。 尊 敬 す

格とを截然と分けることができると思っている人がいるとしたら、 そ の 人 は 、 学問が何であるか

(

者として成功しているかどうかはおくとして、成 功 の た め の こ の 必 要 条 件 が 満 た さ れ て い

る学者と直接に交わる機会をもたなかった者が学者として成功す通遮は、難 し い 。 私が学

)

たという意味で、私は恵まれていた。 予想通り、 見田先生の解説は、実に美しかった。私 の 強 引 な お 願 い を お 聞 き く だ さ っ た •

尹4

見田先生に、 心よりのお礼を申し上げたい。

文庫版の編集実務を担当してくださったのは、筑摩書房編集部の高田俊哉さんである。

『 資本主義のパラドックス』 を文庫化した際に、私が、 『 虚 構 の 時 代 の 果 て 』 の文庫化の希

望 を 軽 い 気 持 で 申 し 上 げ る と 、 高田さんは、 これを、直ちに現実の企画へと仕立ててくだ さった。高田俊哉さんにも、 この昜を借りて、感謝申し上げたい。

二〇〇八年一二月四日

大 澤 真 幸

文庫版あとが」

325

文献表

千年王国を夢見た革命』講談社 99 『

5

と略記。 197 8 〕



1 9 9「0新 宗 教 ブ ー ム 」千 葉 大 学 文 学 部 卒 業 論 文 1 9 8『8マ ハ ー ヤ ー ナ ・ ス ー ト ラ 』 オ ウ ム 出 版

直 接 言 及 し た も の に 限 る 。本 文 中 で は 、 例 え ば 真 木

秋山英俊 淳一

麻原彰晃 岩井

)

』 岩波書店

『 プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム の 倫 理 と 資 本 主 義 の 精 神 』 岩波文庫 1955y62

』 勁草書房

月号

ト マ ス 。ア ク イ ナ ス の言 語 ゲ ー ム 』 勁草書房 1 9 9 1『

性 愛 と 資 本 主 義 』 青土社 1 9 9 6『

身 体 の 比 較 社 会 学 口 』 勁草書房 1 9 9 2『

身体の比較社会学 1 9 9 0『

都市の現在」 『 社 会 学 の す す め 』 筑摩書房 1 9 9 6「

資本のゲームと社会変容」 『 社会科学の方法 1 9 9 3「

ウエーバー

内田隆三 大澤真幸

落合仁司

地 中 海 の 無 限 者 』 勁草書房 1 9 9 5『 「『 世 界 の 終 り 』 にて」 『 世界』 1987

1

月号

8

加藤典洋

『 日 本 と い う 身 体 』 平凡社

1 9 9 『2王 の 二 つ の 身 体 』 平 凡 社 』 30

2

J 995 「お 前 が 人 類 を 殺 し た い の な ら 」 『宝 島

a

1994 カントーロヴィチ

切 通 理 作

文触蔑

ジ7



(

• •

I

M

E

島蘭 ——



ジジェク





対馬路人 済

b



1989 Sub m e Object Ideology T a n y 'n g w * h N e g a - iv e D u k e

イ マーゴ』 1995 「君と世界が一緒なら、 ど こ に 支 援 す る の ?」 『 1993

s N ex

9 9『 2新 新宗教と宗教プーム』岩 波 ブ ッ クレット

^

4

5

199 「オ ウ ム と 大 本 」 『ヘルメス』

3



完 全 自 殺 マ ニ ュ ア ル 』 太田出版 99 『

56



宝島 199 「み ん な サ リ ン を 待 っ て い た 」 『

5

巻 6



月号

199 『マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル か ら 逃 れ て 』 恒 友 社

5

1 9 9『 6「オウム現象」 の解読』 筑摩書房 1 9 9『 6オウムからの帰還』 草思社 1 9 9『 4都 市 の 政 治 学 』 岩波新書

198 『「イ エ ス の 方 舟 」論 』春秋社

5

1 9 8『3近代都市』井上書院

6

19 9『 5オウム真理教の軌跡』岩波ブックレット 石井研二編 消費される〈 宗 教 〉』 春秋社 199 『

ショエ

芹沢俊介 —— 高橋英利 多木浩二

-d

竹田青嗣 陽水の快楽』 河出書房新社 198 『 チ ャ ン ド ラ ー 199 『 ポ ル ポ ト 伝 』 めこん

6

滝 本 太 郎 永岡辰哉編著 •

1

1 9 9『 4ぼ く た ち の 「完 全 自 殺 マ ニ ュ ア ル 」』 太 田 出 版

30

鶴見 —— 鶴見済編

00 8

1

0



« •





S F D



9

ジ8

富永茂樹

1 9 9『6都 市 の 憂 鬱 』 新 曜 社 1 9 8『1虹 の 階 梯 』 平 河 出 版 社

5

尊師のニヒリズム」 『 イマーゴ』 199 「





9

中沢新一 ——

5 9

廣 松 渉

6

存 在 と 意 味 』 岩波書店 9 8 2『

6

屈せざる者たち」 199 「 『

現 代 日 本 の 感 覚 と 思 想 』 講談社学術文庫 1 9 9 5『

天皇ごっこ』第三書館 1 9 9 5『

時 間 の 比 較 社 会 学 』 岩波書店 1 9 8 1『

現 代 社 会 の 存 立 構 造 』 筑摩書房 1 9 7 8『

辺 見 庸 遠藤誠 真木悠介 見沢知廉 見田宗介

新 宗 教 運 動 の 展 開 過 程 』創 文 社 1 9 8 9『 都 市 の ド ラ マ ト ウ ル ギ ー』 弘文堂 1 9 8 7『 7

森岡清美 吉見俊哉

R O N Z A 』 月号

永沢 哲 イマーゴ』 巻 号 9 9 「わ が 隣 人 麻 原 彰 晃 」 『 永 沢 哲 大澤真幸 現代』 199 「『オ ウ ム の 埋 葬 』 は 終 わ っ て い な い 」 『

6

月号

月号 5

6

U

1

1

われわれの中のオウム」 『 世界』 1 9 9 5「

文歓」

329









二〇〇六年にあ る 種 社 会 的 な 話 題 と な っ た 映 画 『

——

一九五八 年 と い う 、 高 度 経 済 成 長 の 始 動 期 の 東 京 を 舞 台 と し て い た 。 「人 び と が 未 来 を 信 じ て い た 時 代 」

見田宗介

三 丁 目 の 夕 日 』 は、

というのが、 この作品のほとんどキャッチフレーズのように決まって用いられた評語で あ っ た 。 「未 来 を 信 じ る 」 と い う こ と が 、 過 去 形 で 語 ら れ て い る 。

一九五八 年 と 二 〇 〇 六 年 と い う 半 世 紀 ほ ど の 間 に 、 人 び と の 世 界 感 覚 の 見 え な い 大 き な 転回があった。

一九五 〇 、 六 〇 、 七 〇 年 代 ま で の 青 年 た ち は 、 た と え ば ア メ リ カ 的 な 進 歩 史 観 に せ よ 、

マルクス的 な 発 展 段 階 論 に せ よ 、 未 来 に は 現 在 よ り も 必 ず よ い 社 会 、 豊 か な 社 会 、 すばら

し い 社 会 が 開 か れ て い る と い う こ と を、 ほ と ん ど 当 然 のように前 提 し て い た 。 その未来が

ど の よ う に よ い 社 会 、 豊 か な 社 会 、 す ば ら し い 社 会 で あ る か に ついて、 さ ま ざ ま な イ デ オ

331解説

A L W A Y S

ロギーや考え方が対立していた。 二〇〇〇年代の現在、 このように現在よりもずっとよい

未 来 、豊 か な 未 来 、 す ぱ ら し い 未 来 が 開 か れ て い る こ と を 信 じ て い る 青 年 は 、 ほとんどい ない。

歴 史 の 表 層 の 年 々 の 転 変 と は ベ つ の 層 位 で 、 時 代 の 深 層 潮 流 は 大 き く 方 向 を 転 換 してい る。

本 書 『 虚 構 の 時 代 の 果 て 』 と 、 そ の 続 編 と も い う べ き 近 著 『不 可 能 性 の 時 代 』 の 中 で 大

澤 真 幸 は 、 こ の 大 き な 時 代 の 潮 流 の 変 化 と も い う べ き も の を 、 「理 想 の 時 代 か ら 虚 構 の 寺 代 へ 」 そ し て 「不 可 能 性 の 時 代 」 へ と し て 把 握 し て い る 。

「理 想 の 時 代 」 は ど の よ う に 挫 折 し 、 変 質 し て 虚 構 の 時 代 に 至 る か 。 「 虚構の時弋一はど

のように破綻し崩壊して不可能性の時代に至るか。 この二つの結節点を体現する事件とし

て、 本 書 の 著 者 は 、 一 九 七 三 年 の 「浅 間 山 荘 」 事 件 に 至 る 「連 合 赤 軍 」 の 問 題 と 、 一九九

五 年 の 「地 下 鉄 サ リ ン 」 事 件 に 至 る 「オ ウ ム 真 理 教 」 の 問 題 に 着 目 し て い る 。

この内の第二の結節点、 「 虚 構 の 時 代 」 の 破 綻 と 崩 壊 を 示 す 事 件 と し て 、 「オ ウ ム 真 理

教」 という集団に焦点を当てて、徹 底 的 な 分 析 を 遂 行 し た も の が 、 本 書 『 虚構の時代の果 て』 で あ る 。

*

332

本 書 に 引 照 さ れ て い る よ う に 、 歴 史はくり返される。 ただし、 二度目喜劇として反復さ

れ る と 、 マルクスは言った。 けれども二度目が惨劇であることもある。喜劇であるままで 惨劇であることもある。

明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし 道浦母都子『 無援の抒情』

に お い て 、 す で に あ の 清 冽 な 「理 想 」 は 変 質 し 、 腐 敗 し 、 崩 壊 し て い た 、 と い う こ と で あ

本 書 の明示するとおり、浅間山荘が機動隊に敗退するよりも以前に、 「 連 合 赤 軍 」 の内部

一 九 七 三 年 の 「浅 間 山 荘 」 は 、 こ の 「安 田 智 」 の 反 復 で あ っ た 。 け れ ど も 肝 要 の こ と は 、

ないと思う。

も こ の 時 は い つ か は 「明 日 」 が ほ ん と う に 来 る の だ と い う 確 信 に 近 い 希 望 は 手 放 さ れ て い

と な る ま で 立 ち つ く す と い う 「立 ち 方 」 の 象 徴 性 だ け に 決 意 は 凝 縮 さ れ て い る が 、 そ れ で

「明 日 」 の あ る こ と を 信 じ る 行 動 の 敗 北 の 歌 で あ り 、 具 体 的 な 世 界 の 実 現 で は な く 「旗 」

ひそかに共感された一首である。

こ れ は 一 九 六 九 年 一 月 の 、 全 共 闘 「安 田 碧 」 の 敗 北 の 時 に 、 ニ 一 歳 の 作 者 が 詠 ん で 広 く

)

る 。 「連 合 赤 軍 」 は 、 「理 想 」 の 形 骸 を 無 理 矢 理 に 貫 徹 し よ う と す る 虚 構 に よ っ て 、 「理 想

解説

333

(

の 時 代 」 の 終 焉 を 残 酷 に 明 示 し た だ け であ る 。 「オ ウ ム 真 理 教 」 は 、 「理 想 」 の 時 代 の 崩 壊 の 後 の シ ニ シ ズ ム を こ そ 、 そ の 土 壌 と し て 生

成 し 、 増 殖 し て い る 。 「す べ て は 虚 構 で あ る 」 と い う 「ポ ス ト モ ダ ン 」 的 な 思 考 の 核 心 で

もあった相対化の徹底が、 ど の よ う に 直 接 的 な 「 絶 対 性 」 の 信 仰 へ と 反 転 す る か 、 どのよ

う に 短 絡 的 な 「現 実 性 」 の 妄 想 を 生 む か 、 そ の ス リ リ ン グ な 反 転 の 機 序 を 本 書 は 周 到 に 追 跡 し て い る。

オウム真 理 教 の 「 破 綻 点 」 と な っ た 一 九 九 五 年 三 月 二 〇 日 の 「地 下 鉄 サ リ ン 」 事 件 は 本

淡 路 大 震 災 」 と い う 都 市 災 害 の 、 人 為 的 な 「反 復 」 であ

書 に 洞 察 さ れ て い る よ う に 、 半 世 紀 前 の 現 実 の 〈世 界 最 終 戦 争 〉 の 「反 復 」 で あ る と 同 時 に 、 直 接 に は ニ ヶ 月 前 の 「阪 神 った。

「架

」 されていた、 というようなこともあるが、宝 塚 在 住 で あ っ た 社 会 学 者 の 内 田 隆 三

速 道 路 の 橋 脚 の 鉄 筋 ピ ッ チ が 関 東 よ り も 広 い 等 々 、 い わ ば 構 造 的 な 「手 抜 き 」 工 事 の 上 に

関東大震災を経験していなかった阪神の都市のインフラストラクチュアが、 たとえば高



「 情 報 」 の ハ ー ド ウ ェ ア の 根 幹 が 基 底 か ら 震 撼 さ れ て い た 。 「災 害 救 助 」 に 駆 け つ け た ヴ ァ

よ う な 「薄 型 」 で は な く 、 ど っ し り と し た 重 量 の あ る 「家 具 」 で あ っ た け れ ど も 、 こ の

ンションの隣室との壁を突き抜けて見知らぬ家具が飛来する。 二〇世紀のテレビは現在の

は 、 「テ レ ビ が 水 平 に 飛 ぶ と い う こ と を 初 め て 見 ま し た 」 と 直 後 の 電 話 で 語 っ て い た 。 マ

#

334

ジ ラ ャ ー ナ の 教 団 は 、 こ の 「現 実 」 の 力 の 巨 大 に 「嫉 妬 」 に も 近 い 感 慨 を 抱 い た は ず で あ

る 。 虚 構 の 教 団 は 虚 構 を 貫 徹 す る た め に 無 理 矢 理 「現 実 化 」 を 強 行 す る こ と を と お し て

「外 部 」 の 現 実 と の 接 点 を 破 綻 点 と し て 一 挙 に 崩 壊 し 、 虚 構 の シ ス テ ム の 「果 て 」 を 無 残 に露呈する。

虚 構 の シ ス テ ム が 、 虚 構 を 貫 徹 し き る こ と を と お し て つ い に は 「現 実 」 を 代 位 し て し ま

う こ と も で き る 、 と い う 虚 構 が 、 「外 部 」 の 現 実 と の 接 点 を 「 破 綻 点 」 として一挙に崩壊

シ ス テ ム の 危 機 に お い て も う 一 度 見 る こ と と な る 。 債券化に債券化を重層

す る と い う 光 景 を 、 わ れ わ れ は た と え ば 二 〇 〇 八 年 の 「サ ブ プ ラ イ ム 問 題 」 を 破 綻 点 と す るグローバ ル

す る 金 融 操 作 と 、 「格 付 け 機 関 」 と い う 先 行 的 投 射 に よ る 「第 三 者 の 審 級 」 の 装 置 化 を と

おして擬 似 現 実 化 し た 巨 大 な シ ス テ ム が 、 アメリカ両岸の都市の貧しい人びとの生活収支

と 、 住 宅 需 給 の 実 物 的 な 飽 和 と い っ た 局 所 の 実 体 の 現 実 と の 矛 盾 を 破 綻 点 と し て 、 一挙に

その虚構の臨界を露呈する。 そ れ は 虚 構 の 「果 て 」 を 問 う と い う 本 書 の 主 題 が 、 「現 代 」 と い う 社 会 の シ ス テ ム の 骨

格 的 な 構 造 と そ の 矛 盾 の ダ イ ナ ミ ズ ム と の 、核 心 を射抜く主題であるからである。

解説

335





冒 頭 に ふ れ た『

』 の 一九五八年という年は世界的にみても、現 代 の 情報

消 費 化 社 会 の 開 幕 を 告 げ る 年 と い っていいも の で あ っ た 。 こ の 前 年 五 七 年 の 大 き い 景

A L W A Y S

く、 ケインズ的

ニュー



れ ば 、 そ れ は 人 間 の 歴 史 の 中 で 、 「近 代 」 の 最 後 の 輝 き と い う べ き 時 期 で あ っ た 。 『

や が て こ の 世 紀 の 終 期 に 、 そのいわば地球的な臨界に直面するまで永続する。 巨視的にみ

たからである。情 報 に よ る 消 費 の 「 無 限 空 間 」 の 創 出 と い う こ の 「拡 大 の サ イ ク ル 」 は 、

界 大 戦 前後の中断を経て、 一九五〇年代のアメリカにおいてようやく全社会的な完成をみ

広 告 と ク レ ジ ッ ト 」 の 力 、 つ ま り 〈情 報 に よ る 消 費 の 創 出 〉 と い う シ ス テ ム が 、 第 二 次 世

の 勝 利 」 を も た ら し た 、 「デ ザ イ ン と

デ ィ ー ル 的 な 「大 き な 政 府 」 に よ る 公 共 投 資 で さ え も な く 、 旺



盛な民間の消費需要であった。 一九二七年の「

G M

/

繁 栄 を 支 え た も の は 、古 い 資 本 主 義 の 不 況 脱 出 の 手 段 で あ っ た 「 戦 争 景 気 」 ではもはやな

し、 そ れ 以 降 三 〇 年 位 に お よ ぶ 未 曾 有 の 「 繁 栄 」 の 時 代 を 迎 え る こ と と な る 。 この長期の

れども、翌五八年のアメリカ経済はこの後退を埋めてはるかにあまりある力強い反発を示

気 後 退 は ア メ リ カ を 中 心 と す る 世 界 の 人 び と に 、 二 九 年 大 恐 慌 の 悪 夢 を よ み が え ら せ たけ

/

』 の時代の日本の高度経済成長の力強い始動もまたこのような、 アメリカを中心と

A L W

代社会のあらゆる領域の可能性が大胆な開花を示す一九七〇年代という躍動の時期にその

大 澤 真 幸 は 、 こ の 〈現 代 〉 の 開 幕 の 年 と い う べ き 一 九 五 八 年 に そ の 生 を 享 け て い る 。 現

する、 世 界 資本主義の成功と繁栄の一環として成立していた。

A Y S

3が

一〇 代 を 経 験 し て い る 。 ミ ネ ル ヴ ァ の 森 の ふ く ろ う は 夕 暮 れ に 飛 び 立 つ と い う が 、 〈近 代 〉

という一つの巨大な時代の総体の意味をようやくふり返って見晴らすことのできる地点に

恵 美 子 、 上 田 紀 行 、 宮 台 真 司 、 酒井啓

歴 史 が 到 達 す る 一 九 八 〇 年 代 に 、 仕 事 を 開 始 す る こ と と な る 。 同 年 の 、 あるいは一つちが いの仲間には、佐藤健二、吉見俊哉、平 賀 落合

)

ミ ナ ー ルや研究会は、 その場で触発される着想や批評や構想を語ってだんだんと早口とな

子 た ち が い て そ の 妍 を 競 い 、 い や 研 究 を 競 っ て 切 磋 琢 磨 し て い た 。彼らが一堂に会するゼ

(

宮 台 の 時 の 早 口 の エ ス カ レ ー ト は す さ ま じ かった 。 こ の グ

り 、 そ れ で も 終 了 の 時 間 割 が 度 々 無 視 さ れ て 続 行 し 、 廊 下 や ロ ビ ー で ま た 続 行 す る と いう 壮 絶 な も の だ っ た 特に、 大 澤 vs

)

大 澤 の 最 初 に 公 刊 さ れ た 仕 事 は、 ス ペ ン サ

プ ラ ウ ン の 『形 式 の 法 則 』 と い う 高 度 に

論 理 的 な 抽 象 の 極 致 と い う べ き 著 作 の 邦 訳 で あ っ た 宮 台 真 司 と の 共 訳 、 一九八七、朝日出

1

い う も の が 実 践 的 に も有 効 であると いうことを実証してみせた。

の ゲ ー ム の 論 理 の 構 造 を 明 快 に 解 き 明 か し て そ の 勝 利 の 方 法 論 を 提 示 し 、 す ぐ れ た 理論と

と い う 社 会 学 的 な あ そ び を や っ て い た 。 大 澤 は 、 ほ と ん ど 「一 人 勝 ち 」 を し た あ と で 、 こ

ル ー プ と は ま た 別 の ゼ ミ ナ ー ル だ が 、 夏 の 合 宿 の 夜 中 に 学 生 た ち は ト ラ ン プ の 「大 貧 民 」

(

(

一九八八、 青 土 社

に よ っ て 、 東 京 大 学 の 社 会 学 研 究 科 の 日 本 人 と し て は第一

版 〇 三 年 後大澤は、 この論理を社会学に応用してその透徹した方法論を展 開 し た 『 行為 の代 数 学 』

)

号の課程博士を取得している。同時並行的に書き進められていた最初の大著『 身体の比較

解説

337

(

社会学

』 一九九〇、 勁 草 書 房 (

)

に お い て 、 そ の 「審 級 論 」 「先 行 的 投 射 」 の論 理 、 等 を

記念碑的なモノグラフとして結実している。

果て』 において、実 践 的 に 切 実 な 問 強 意 識 と 、 重 厚 な 実 証 作 業 を 統 合 す る こ と をとおして、

この最初期の仕事において獲得された透徹度の高い論理の骨格は、本 書 『 虚 構 の時代の

機軸とする重層的な社会学理論の具体化がなされることとなる。

I

338

本書は一九九六年六月、筑摩書房より刊行された。

音を視る、 時を聴く〔 哲学講義〕

プラグマティズムの思想

増 補 〈私 〉探 し ゲ ー ム

増補敗 北 の 二 十 世 紀

ク レ オ — ル主義

資 本 主 義 を 語 る

大森荘蔵 坂本龍一

魚 津 郁 夫

上 野 千 鶴 子

市 村 弘 正

今 福 龍 太

岩 井 克 人

音の時間的空間的特性と数学的構造とは。音楽と哲 学、離れた二つが日常世界の無常と恒常の間で語り つくされる。 一九八二年の名対談がここに。

アメリカ思想の多元主義的な伝統は、九 一一事件 以 降 変 貌 し て し ま っ た の か 。 「独 立 宣 言 」 か ら 現 代 のロー ティまで、 その思想の展開をたどる。

「脱 近 代 の 波 頭 」 を と ら え て 時 代 の 変 動 を 告 げ た 卓 抜 な 世 紀 末 ウ オ ッ チ ン グ に、 そ の 後 の 新 し い 時 代 の うねりを分析した新章を増補する。 鶴見俊輔

人間の根 源 が危殆に瀕するほどの災厄に襲われた二 十世紀。知識人たちの応答とわれわれに残された可 能 性 に迫 る 省 察 の結晶。 熊野純摩

植 民 地 に 産 声 を あ げ た ク レ オ — ル 文 化 。 言 語 、民 族 国家など、自明な帰属からの解除を提唱する、 文 化 の 混 血 主 義 のし な や か な る 宣 言 。 西成帝

人類の歴史とともにあった資本主義的なるもの、結 局は資本主義を認めざるをえなかったマルクスの逆 説。人と貨幣をめぐるスリリングな論考。

恋愛の不可能性にっいて

大 澤 真 幸



ポスト近代を考えるうえで資本主義をどう位置づけ るか。 近代を構成する要素を抽出し、 こ の 社 会 の 帰 結過程を予測する意欲的社会論。 多木浩二

愛という他者との関係における神秘に言語学的な方 法論で光を当てる表題作ほか、現代思想を駆使し社 会の諸相を読み解く力作。 永井均

)

)

真 幸

資本主義のパラドックス

サ ー ル、 ロ ー テ ィ 、 ク ワ イ ン ら 巨 人 達 が 形 成 し た 現 代哲学最大の潮流、 アメリカ言語哲学。近 直 念 説 と連続的な、その主要な議論の深層に迫る。

(

冨 田 恭 彦

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)

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)

(

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アメリカ言語哲学入門

+

(

橋 爪 大 三 郎



)

橋爪大三郎の社会学講義

この社会をどう見、どう考え、どう対すれぱよいの か。 自 分 の 頭 で 考 え る た め の 基 礎 訓 練 を し よ う 。 世 界の見方が変わる骨太な実践的講義。新編集版。

(

橋 爪 大 三 郎



(

種のテクノロジーの華 々 し い 登 場 が 、文字文化を 解 体 す る 流 れ を 描 く 壮 大 な メ デ ィ ア 論 。 上 巻 は グラ モ フ オ ンか ら フ ィ ル ム の 章 の 冒 頭 を 収 め る 。

B

治 経

政治は、経済は、 どう動くのか。 この時代を生きる ために、 日本と世界の現 実 を 見 定 め る 目 を 養 い 、考 える材料を蓄え、構想する力を培う基礎講座—

なぜ、弱さは強さよりも深いのか? 薄 弱 断 片 あ や う さ 境 界 異 端 … … と い っ た 感 覚 に光をあ て 、 「弱 さ 」 の も つ 新 し い 意 味 を 探 る 。 高橋睦郎 •

言 語 学 記 号 学 に つ い て の 優 れ た 入 門 書 。 ソシュー ル 研 究 の 泰 斗 が 、 平 易 な 語 り 口 で 葉 の謎 に迫 る 。 術 語 人物解説、図書案内付き。 中尾浩



橘尖三郎

1^1



松 岡 正 剛 丸 山 圭 三 郎

石光泰夫 石光學訳 石光泰夫 石光輝子訳 デリタドウル ズ リオタ—ル クロソウスキ—



林好雄ほか訳 堤康

アントニオ。ネグリ 上村忠男聲駅 堤康徳 中村 己謚



フ ラ ジ ャ イ ル

グ ラ モ フ ォ ン 。フ ィ ル ム

ネグリ講演集 下

的 ポスト近 代 の政治哲学

国 民 国 家 、市 民 権 、社 会 主 義 、 ユ ー ト ピ ア … … グ ロ ー バ ル 化 が 進 む 現 代 の さ ま ざ ま な 「運 動 」 を 横 断 し 、 ポスト社会主義の諸政策を展望する 本邦初訳し

ク ロ ソ ウ ス キ ー の 〈陰 謀 〉、 リ オ ク ー ル の 〈メ タ モ ル フ ォ ー ズ 〉、 ド ウ ル ー ズ の 〈 脱 領 土 化 〉、 デ リ グ の 〈脱 構 築 的 読 解 〉 の 白 熱 し た 討 論 。

近 代 の メ デ ィ ア 技 術 は 何 を も た ら し た の か ? 下巻 は フ イ ル ム か ら タ イ プ ラ イ タ ー の章 を 収 め 、 そ の 普 及 か ら 世 界 規 模 の戦 争 と の 関 わ り ま で を 描 く 。

3

言 葉 と は 何 か



フ ィ ル ム

タ イ プ ラ イ タ グ ラ モ フ ォ ン

蒂 国

アントニオ

〈帝 国 〉と そ の 彼 方

ア ン ト ニ オ 、ネ グ リ 講 演 集 上

ニー チ エ は 、 今 日 ?



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タ イ プ ラ イ タ

1 (

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ス ピ ノ ザ 、フ ー コ ー 、ア ガ ン ペ ン ら の 思 想 を 読 込 み , ポ ス ト 近 代 にお け る 政 治 哲 学 を 語 る 。 マルチチ ュ ド に お い て 生 政 治 は い か に 実 現 さ れ る か 。本 邦 初 訳 。

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の 理 論

空 間 の 詩 学

ジョルジュ。バタイユ 湯 浅 博 雄 訳

聖 な る も の の 誕 生 か ら 衰 減 ま で を つ き つ め 、宗教の 根 源 的核 心 に 迫 る 。 文 学 、 芸 庵 、哲 学 、 そ し て 人間 に と っ て 宗 教 の 〈理 論 とは何なのか、 」

ル た フデイ? —ベント

ガストン ハシュラ ル 岩 村 行 雄 訳

家 、宇宙、貝殻など、 さまざまな空間が喚起する務 的 イ メ ー ジ 。 新 た な る 想 像 力 の 現 象 学 を 提 唱 し、 人 間の夢想に迫るパシュラール詩学の頂点し



ポスト

アウエルバッハ 篠田一士 川村二郎訳

リオタ—ル 管 啓 次 郎 訳

人 間 の 活 動 的 生 活 を 《労 働 》 《仕 事 》 《活 動 》 の 三 側 面 か ら 考 察 し 、 《労 働 》 優 位 の 近 代 世 界 を 思 想 史 的 に批判したアレントの主著。 阿部齊

ホメーロスから ウルフま で 、 ヨ ー ロッパ文学に お け る 現 実 描 写 の 流 れ を 、 犀 利 な 分 析 批 評 により 追求した画期的な文学論。

〈 普 遍 的 物 語 〉 の終 焉 を 主 張 し ポ ス ト モ ダ ン を 提唱 した著 者 が 、 アドルノ、 ベンヤミンらを 想 起 し、 知 のアヴァンギャルドたることを説く の通信。

村 上 陽 一郎 訳



ハ ン ナ アレント 志 水 速 雄 訳









の 条 件

《自 由 の 創 設 》 を キ イ 概 念 と し て ア メ リ カ と ヨ ー ロッパの二つの革命を比較 考察し、そ の 畳 の 精 神を二〇世紀の惨状から救い出す。 川崎修







ハ ン ナ アレント 志 水 速 雄 訳

自由が著しく損なわれた時代を自らの意忠に従い行 動し、生きた人々。政 治 芸 術 哲学への鋭い示唆 を含み描かれる普遍的人間論。 村井洋



革 命 に つ い て

ハ ン ナ アレント 阿 部 齊 訳



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暗い時代の人々