参謀 Volume 1

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まえがき

児島襄

戦 争 を 国 策 の 一 手 段 と 認 め る と き 、 そ の 国 家 と 国 民 の 命 運 を 直 接 的 に 背 負 っ て い る の が 、軍隊

そ こ で 、 古 来 、 ど の 国 で も 軍 隊 を 最 も 有 効 な 組 織 体 に す る 努 力 が は ら わ れ て き た が 、基 本 的 定

である。

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といぅ構造であ

型 と し て は 、 軍 隊 は 「指 揮 官 」 「参 謀 」 「下 士 官 」 「兵 」 の 四 つ の 要 素 で 組 み た て 、 作 動 さ せ る の

「指 揮 官 」 が 指 導 し 、 「参 謀 」 が 計 画 し 、 「下 士 官 」 が 運 営 し 、 「兵 」 が 動 く

が、最も効果的だとみなされている。

る。

こ の 構 造 は 、 現 在 で は 、 お よ そ 組 織 体 で あ れ ば 、軍 隊 の み な ら ず 、 一家族の家内工業に至るま

「参 謀 」 は 、 軍 隊 に お い て は 、 実 質 的 な ブ ラ ン メ ー 力 ー で あ り 、 「指 揮 官 」 候 補 で あ り 、 多 く の

で 不 可 欠 の も の と 解 釈 さ れ て い る が 、 中 で も 「參 謀 」 は 他 の 三 つ に く ら べ て 、 重 要 視 さ れ る 。

場 合 に 所 属 機 関 の 渉 外 責 任 者 と も な る 。 い わ ば 、 軍 隊 組 織 の 中 枢 で あ り 、 「参 謀 」 が 有 効 に 機 能

をはたすかどぅかが、 組 織 体 と し て の 軍隊の能率を左右する, とにもなる、 といえる。

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プロシャ式参謀システム— 考にしたからて—

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「参 謀 」 の 性 格 と 機 能 に 工 夫 !





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一 人 で 全 軍 の 安 否 を

衣 裳 " の 着 こ な し に 没 頭 し て 、機 構 の 中 に 能 力 を 埋 没 さ せ ゼ 成

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ら し 、 その成果が第一一

つ 近 代 肇 隊 で は 、 た だ ー 人 の 天 才 的 頭 脳 に す が り |

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同 時 に 、 「参 謀 」 と い 、 つ ょ り : 2「軍 師 」 の 呼 び 名 を

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こ と

また、 本 書 は 『指 揮 官 』 が 活 躍 し た 戦 場 を 參 謀 の 立 場 か ら 観 察 し て い る ヶ ー ス 、 同 一 の 戦 い を 両 軍 の 参 謀 の 眼 で 眺 め て い る 事 例 も ふ く ん で い る 。 いわば、戦史の側面と背面にも注意をはらつ

なお、本書は、『 指揮官』 と 同 様 、 遍 刊 ポスト」 誌 の 連 載 記 事 を 、 同 誌 の ご 好 意 で 単 行 本 と し

て み た 。 そ の 意 味 で も 、 『指 揮 官 』 の 姉 妹 篇 と し て 読 ん で い た だ け れ ば 幸 い で あ る 。

一九七ニ年二月

て刊行したものである。



謀 上

目次

石 原 莞 爾

ま え が き 中 沢佑 I

9

杉 山元

池 田 純 久

八 原 博 通

今 井 武 夫

大谷藤之助

藤 原 岩 市

野々山秀美

井 本 熊 男

宇 垣纏

前 田 正 実

草鹿龍之介

辻 政 信 富 岡 定 俊

35 48 61 75 206 193 180 167 154 14 1 1 2 8 114 101 88

石原莞爾 9

石原莞爾

天 才 、 そ し て 卓 見 奇 偉 、 気 節 豪 邁 、機 略 縦 横 の 不 世 出 の 名 将 。

として承認されるにちがいない。

,― と い ぅのが、石 原 竞 爾 中 将 に 捧 げ ら れ る 評 言 で あ る 。 こ れ は陸士同期生横山臣平少将の賛 辞 だ が 、 お そらく、石 原 中 将 の 才 幹 を 認 め る 場 合 、 この横山少将の石原評は最大公約数的なもの

代 表 的 著 述 『世 界 最 終 戦 論 』 を は じ め 、 そ の 卓 抜 な 着 想 を 示 す 著 作 、 ま た お ょ そ 何 人 に も 屈 し

な い 剛 直 な 処 世 と 、 最 後 は 極 東 軍 事 裁 判 の 判 .検 事 を あ ざ や か に 煙 に ま い た 舌 力 な ど 、 石 原 中 将

が抜群の鬼才であり、昭和陸軍史に突兀としてそびえる存在であることは、明らかである。

そ し て 、石 原 中 将 を 欽 慕 す る と き 、 し ば し ば 中 将 は 〃 悲 劇 の 将 軍 " とみなされる。あまりにも

すぐれた頭脳と自信のために、 とかく上司にぅけいれられず、 とりわけ太平洋戦争中の首相東条

英機大将ににらまれ、経世の才をふる、 っ 機 会 を 与 え ら れ な か っ た 。 中 将 自 身 に と っ て も 、 また日

だ が-- は た し て そ う で あ ろ う か ?

本にとっても、 これは悲劇であった、 というのである。

石 原 中 将 は 、 明 治 二 十 ニ 年 一 月 十 八 日 に 生 ま れ 、 明 治 三 十 五 年 九 月 一日、 仙 台 陸 軍 地 方 幼 年 学 校に入校した。山形県鶴岡が本籍である。

生 と し て 隊 付 き 勤 務 を 六 か 月 つ と め 、陸 軍 士 官 学 校 に 一 年 半

学 び 、再 び 部

当 時 、陸 軍 の 幹 部 将 校 に な る に は 、地 方 の 幼 年 学 校 で 三 年 間 、次 に 東 京 の 中 央 幼 年 学 校 で 一 年 半 、そのあと士官1

隊 で 六 か 月 間 す ご し た の ち 、 陸 軍 少 尉 に 任 官 す る -- と い う 仕 祖 み で あ っ た 。 幼 年 学 校 生 徒 と し て の 石 原 将 軍 は 、 す で に 後 年 の 風 格 をあからさまに示していた。 石 原 将 軍 の 青 年 時 代 の 写 真 をみると、 あ る い は 斜 め に か ま え 、 あ る い は 帽 子 を と り 、あ る 、 ,ょ

で あ り 、



宇 ど お り に 〃 幼 年 " 臭 が 残 っ て い る か ら 、たちまち 教 室 に は ソヮソヮと動揺の波文 がひろがり、

ラ ミ を な ら べ て 競 走 さ せ て い る の で あ る 。 幼 年 学 校 生 徒 は 、 十 三 、 四 歳 の子 ど も た ち

講義が退屈になってくると、すかさず石原生徒の低い声がひびいた。 . ヘ ン 軸 か らとりだしたシ

「ホ レ 、 が ん ば れ 、 三 番 お く れ たぞ」

軍 人 た る 者 、 つ ね に 戦 場 にある 心 構 え で な け れ ばならぬ、 という 口 実 で 、 フロにはいらず、 シ ラ ミ がわくと 十 匹 くらいをベン 軸 の 空 洞 にいれておく。

が 、 幼 年 学 校 時 代 で も ま ず 発 揮 さ れ た の は 、 こ の ,独 立 性 格 " で あ る 。

腕 を 粗 ん で 柱 に も た れ る な ど 、 い っし .ょ に な ら ぶ 他 の 者 と は 一 人だけ 異 質 のポーズをとってい る

10

石原芙爾

生 徒 た ち は "シ ラ ミ .ダ ー ビ ー " に 横 眼 を つ か う 。

生 徒 た ち の 悩 み の ひ と つ は 、 図 画 の 授 業 で あ っ た 。 亘 理 寛 之 助 教 官 は 熱 心 で 、 「少 な く と も 週

石 原 生 徒 は 、 「な あ に 、 つ ま ら ぬ 講 義 な ん か 聞 く 必 要 は な い 」 と う そ ぶ い て い る 。

と 石 原 生 徒 が 宣 言 し 、 や が て 写 生 帳 提 出 の 時 間 に な る と 、 画用



に ニ 枚 は 写 生 せ よ 」 と 命 じ た 。 と こ ろ が 、 ニ、 三 か 月 は と も か く 、 し だ い に 写 生 の 題 材 に 困 り 、 よ し 、 ォ レ が な ん と か す る ——

生徒たちは一様に不満をもらした。

「写 生 ノ 題 材 ニ 窮 シ 便 所 ニ 於 テ 我 ガ 宝 ヲ 写 ス 、 十 月 一 日 」

紙 い っ ぱ い に 巨 大 な 男 性 の シ ン ボ ル を 描 き 、注 と し て 次 の よ う に 書 き こ ん だ 。

教 官 は 、 「品 性 下 劣 、 上 官 抵 抗 だ 」 と 金 切 り 声 を あ げ 、 教 官 た ち の 間 に は 石 原 生 徒 の 退 校 を 主 張する意見が強まった。

石 原 生 徒 は 泰 然 と し て い た 。 同 期 生 た ち は 、要 す る に 図 画 の 授 業 が 苛 酷 な の が 原 因 だ 、 と生徒

「ォ レ が 退 校 に な っ て も 、 み ん な が た す か る な ら そ れ で い い 」

監 に 意 見 具 申 し 、 校 長 も 入 校 い ら い ト ッ プ の 成 績 を つ づ け る 石 原 生 徒 の 将 来 を 、惜 し ん だ 。

し かし、 写 生 は 戦 術 研 究 に 必 須 の 基 礎 勉 強 だ 、 と確信 す る 亘 理 教 官 は 、学校側の措置を不満と

結局は、写生は随意課目となり、石原生徒も不問に付された。

し て 辞 職 し 、 飄 然 と 中 国 大 陸 に 渡 っ て い っ た (注 、 の ち に 亘 理 教 官 は 学 校 側 の 招 聘 で 復 職 す る )。

石 原 中 将 は 明 治 四 十 年 六 月 、中 央 幼 年 学 校 を 卒 業 し 、明 治 四 士 一 年 五 月 、陸軍 士 官 学 校 を 卒 業 し た 。 第 二 十 一 期 生 、成 績 は 六 番 で あ っ た 。 会 津 若 松 の 第 二 師 団 第 六 十 五 連 隊 に 配 属 を 命 ぜ ら れ 、大 正 四 年 十 月 I 、 陸 軍 大 学校に入校した。 陸 大 の 入 試 は 志 願 で は な く 、 推 薦 で 受 験 す る 。 つまり、 隊 付 き 勤 務 ニ 年 以 上 、 品 行 方 正 、 勤 務

につつむ覚悟でありま

精 勤 、 身 体 強 壮 、 頭 脳 優 秀 の 中 .少 尉 の 中 か ら 、 連 隊 長 が 推 薦 す る の で あ る 。 だ が 、 連 隊 長 が 石

「自 分 は 将 来 、 自 信 あ る 部 隊 長 と し て 、 軍 人 た る の 天 職 に 従 い 、 屍 を 1

原 中 尉 を 推 薦 すると、 当 人 は ことわった。

す か ら 、陸 大 に 入 学 す る 気 持 ち は あ り ま せ ん 」 し か し 、 連 隊 長 は 、 陸 大 合 格 者 を だ すことは 連 隊 の 名 誉 で も あ る の で 、 命 令 で 石 原 中 尉 に 受 験

第 六 十 五 連 隊 で 、 石 原 中 尉 は 兵 の 起 床 時 刻 で あ る 午 前 六 時 に 出 勤 し 、 午 後 九 時 の 消 灯ラッパを

させ、石原中尉は陸大に入校した。

「軍 人 は 陣 中 で 行 李 く ら い し か 身 辺 に な い は ず , だ 。 そ れ を 机 だ 、椅 子 だ と 準 備 し て 、 徹 支 し て 数

のぅで代用した。

室 内 に あ る も の は 軍 刀 、軍 用 行 李 、 フ ト ン 、 丹 前 、 あ と は 軍 服 と 下 着 だ け で 、 力 パ ン は 将 校 用 図

陸 大 に は い っ て か ら も 、 渋 谷 駅 前 の 下 宿 『青 雲 館 』 三 階 六 畳 間 で の 生 活 は 、 変 わ ら な か っ た 。

将 校 集 会 所 の フロ 場 で 聞 き 、 午 後 十 時 す ぎ に 下 宿 に帰り、 しばしば 軍 服 のままゴロ 寝 す る、 とい ぅスパルタ 生 活 を していた。

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ベージの解答を書く。 そんなヤツは将校としての本分を忘れた者だ」

そ ぅ い っ て 、石 原 中 尉 は 三 年 間 の 陸 大 在 学 中 、極 度 の ス パ ル タ 生 活 を お し と お し た 。

相 変 わ ら ず 、 一 見 ズ ボ ラ 、 そ し て 人 を く っ た 型 破 り の 姿 勢 を 維 持 し 、二 年 生 の と き 、高 田 砲 兵 連

隊 に 研 究 の た め 出 張 し た と き な ど 、砲 兵 の 号 令 が お ぼ え ら れ な い の で 、い つ も ヵ ヶ 声 で す ま せ た 。

満州の古戦場視察のさいの報告書作成でも、他の学生は苦心して作文したが、石原中尉の報告

「い つ も の 通 り や れ っ 」

れをネにもっていたのである。

元 宏 中 尉 と 親 し か っ た が 、 校 長 は 斎 藤 中 尉 の 変 人 ぶ り を 嫌 っ て 退 校 処 分 に し た 。石 原 中 尉 は 、 そ

石 原 中 尉 は 答 え た が 、 明 ら か に 校 長 ’河 合 操 中 将 に た い す る い や が ら せ だ っ た 。 同 期 生 .斎 藤

「ハィ、 第 一 装 用 で あ り ま す 」

るのが慣例になっている。

梨 本 宮 は 石 原 中 尉 の 前 に 立 ち 止 ま り 、質 問 し た 。特 命 検 閲 で は 、新 調 し て ま で 服 装 を と と の え

「そ の 服 は 中 尉 の 最 も 良 い 服 か 」

づ て 兵 と 同 じ 木 綿 地 の 軍 服 を 着 た 。将 校 は 一 般 に セ ル 地 の 服 だ か ら 、 す ぐ 目立つ。

そぅかと 思 え ば 、 梨 本 宮 元 帥 が 検 閲 使 と し て 特 命 検 閲 に 来 校 し た と き 、 石 原 中 尉 は こ の 日 に 限

書 は 一 枚 の 紙 に 「所 見 ナ シ 」 の 四 文 宇 だ け で あ っ た 。

石原莞爾

い く つ か の エ ピ ソ ー ド を ひ ろ っ て み る と 、 一 方 で 石 原 中 将 が 生 来 、 豪 毅 性 に 富 ん でいると同時

同 期 生 ,横山臣平少将も、石原流の傍若無人ぶりには少なからず迷惑をこぅむった想い出を

に、 組 織 の 秩 序 といぅ 面 で は 、 ひ ど く 厄 介 な 存 在 であることが 理 解 できる。

述 している。 た と え ば 、 陸 大 受 験 の さ い 、 横 山 少 将 は 石 原 中 将 と同じ 旅 館 に と ま っ た が 、石原 中守よ參考書 は な に も 持 た ず 、 し き り に 話 し か け て 止 め な い 。おもしろ い の で 相 手 に な っ ていると勉強はでき

ま た 、 石 原 中 将 は 陸 大 時 代 、 宿 題 は さっさと す ま せ 、しきりに 横 山 少 将 の 下 宿 を 訪 ね て は意見

ず 、 「悪 影 響 が あ っ た 」 と 、 横 山 少 将 は 嘆 く 。

「傾 聴 の 価 値 はあるが、まだ 宿 題 が 未 完 成 であるので、 彼 の 長 居 はあとの 作 業 に 影 響 する。まさ

の開陳に熱中する。

か 弱 味 を み せ て 早 く 帰 っ て く れ と も い え な い か ら 、 彼 が 帰 っ て か ら 本 格 的 な 作 業 をはじめるので

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ば 協 調 性 を欠くものと し て 、 ハタ迷 惑 視 された。

し か し 、 上 官 、 同 僚 の 別 なく、 勝 手気ままにふるまい

っ"然と自説を主張する態度は、 、ご;

毎 学 年 も 卒 業 時 も 二 番 だ っ た が 、 学 業 は 群 をぬいた 評 点 をえていた。 い わ

石 原 中 将 は 、 陸 大 で も 成 績 が よ か っ た 。 「性 粗 野 ニシテ 無 頓 着 … … と」 いぅ 操 行 点 が災いして、

夜 半 以 後 に お よ び 、 睡 眠 不 足 に な ることが 多 か っ た 」

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横 山 少 将 も 、「 石 原 はあまり 変 わ っ て い る の で 敬 遠 さ れ が ち で 、 同 期 学 生 に は 真 に 胸 襟 を ひ ら

陸 軍 で は 陸 士 、陸 大 の 成 績 優 秀 者 が 重 ん じ ら れ た 。 お そらく、 石 原中将がその多分に〃独善的

い て 語 る 友 人 が 少 な く 」 と、 回 想 し て い る 。

に回教、 キ リ ス ト 教 も 研 究 し 、 中 尉 時 代 に 再 び 日 蓮 上 人 に 帰 依 し て 、大 正 八 年 に は 田 中 智 学 の 日

幼年学校 時 代 に す で に 日 蓮 を 信 仰 し 、 少 尉 時 代 に は 古 神 道 を ま な ん で 敬 神 尊 重 の 志 を 養 い 、 さ ら

石 原 中 将 が 勉 強 家 で あ る こ と は 、 ょ く 知 ら れ て い る 。 とくに、宗 教 に 関 心 を 持 っ た 。仙 台 地 方

た。

える独特の自己顕示エビソードを残しているが、 フリードリヒ大王とナポレオンの研究に熱中し

こ の ド イ ツ 留 学 時 代 で は 、 石 原 中 将 は 相 変 わ ら ず 羽 織 袴 姿 で 人 眼 を ひ く な ど 、 ときに奇行とみ

石 原 中 将 も 、教 育 総 監 部 に は 不 向 き と 判 定 さ れ 、 中 支 那 派 遣 隊 司 令 部 付 き 、陸 大 教 官 を 経 て 、 大 正 十 一 年 七 月 、ドイツ 留 学 を 命 じ ら れ た 。

「横 着 で 不 真 面 目 」 の 考 課 を う け て 昇 進 に 影 響 を う け る 始 末 だ っ た 。

の将校のする仕事じゃない」 と話しかけ、 おかげで調子にのってあいづちをうった横山少将は、

ここで も 、同じ 配 属 に な っ た 横 山 少 将 に な に か と 「オ イ 、 横 山 、 こ ん な つ ま ら ん 仕 事 は 陸 大 出

石 原 中 将 は 、陸 大 卒 業 後 、大 尉 に 進 級 し て ま も な く 、教 育 総 監 部 勤 務 と な っ た 。

を第一とする陸軍の官僚型体質のおかげであったかもしれない。

性 向 , にもかかわらず、 士官学 校 、大 学 校 を 卒 業 し 、 そ の 後 も 重 用 さ れ て い っ た の は 、 この成績

1 5 石原莞爾

石 原 中 将 は 、 健 康 に め ぐ ま れ な か っ た 。 幼 年 学 校 当 時 か ら 胃 が悪く、 中 尉時代に 胃

蓮 主 義 普 及 団 体 『国 柱 会 』 の 信 行 員 に な っ て い た 。

であった。

洗 浄 を

お こ

な い 、 陸 大 学 生 の と き は 神 経 痛 に な や み 、 陸 大 教 官 時 代 は ひ ど い 中 耳 炎 に か か り 、 膀 脱炎が 持 病 石 原 中 将 が 宗 教 に 強 い 関 心 を 持 っ た の は 、 病 身 の た めかと も 想 像 できる が 、 ドィツ留学の こ ろ 、

く なり、

長 く なり、

一方、 政 治 、 外 交 、

「戦 争 は 、 政 治 と 武 力 と の 関 係 で 、 武 力 が 政 治 よ り 優 先 す れ ば す る ほ ど 、 陽 性 で太く洹

中 将 は そ れ ま で に 研 究 し た 古 今 の 戦 史 と 宗 教 とから、 ひ と つ の 戦 争 理 論 を 体 系 づ け て い た 。

武力が絶対的な場合は戦いが迅速果敢で、 、短 期 間 に 解 決 す る 決 戦 戦 争 と な る 。

経 済 な ど の 価 値 が 増 大 し て 、 政 略 が 作 戦 に 優 先 す る よ ぅ に な る と 、 戦 争 は陰性で 細 く

ドィツで、石原中将は自分の理論の同調者を発見した。

持 久 戦 争 と な る 」-- と い ぅ の で あ る 。

ベ ル リ ン 大 学 の デ ル ブ リ ッ ク 教 授 が "せ ん 滅 戦 争 "と "消 耗 戦 争の "区別を唱えていたのが、

画にまでおよんだ。 帰 朝 後 、再 び 陸 大 教 官 と な っ た の ち 、中 佐 に 進 級 し て 、 昭 和 三 年 十 月 に は

関 東軍 作 戦 主 任 參 謀

リ ヒ 大 王 だ と 見 定 め 、 二 人 に か ん す る 資 料 集 め に 没 頭 し た 。 資 料 は 文 献 だ け で な く 、 二人の肖象

そ し て 、 中 将 は 、 前 者 の 天 才 的 指 導 者 がナポレオン で あ り 、 後 者 の代 表 的 リ ー ダ ー が フ ド リ ー

ま さ に 中 将 の "決 戦 戦 争 〃と "持 久 戦 争 " に適合したからである。

16

1 7 石原莞爾

になった。 三 十 九 歳 で あ る 。

といわれる よ う に 、 石 原 中 将 の 事 績 の 中 で 、 満 州 事 変 の 演 出 者 と し て の 役 割 は 鮮 明 で あ る 。

「石 原 竞 爾 と 呼 べ ば 、 満 州 事 変 と こ だ ま が か え っ て く る 」

石 原 参 謀 の 着 任 は 、 張 作 霖 爆 死 事 件 の 四 か 月 後 で あ っ た が 、 当 時 、石 原 中 佐 の 胸 奥 に は 明 確 な

理 論 と 計 画 が 用 意 さ れ て い た 。 理 論 は 、 前 述 し た "決 戦 " ,持 久 " 戦 争 論 を 日 本 に あ て は め た 国

石 原 中 将 の 考 え に よ れ ば 、 近 代 戦 は 持 久 戦 争 を 本 旨 と す る 。 そ の さ い 、 太 平 洋 に 面 し 、 アジ ア

防政策であり、計画は満州国樹立計画である。

大 陸 を 背 に す る 日 本 と し て は 、 い か に 西 太 平 洋 の 制 海 権 を 確 保 し て 米 国 と 対 峙 し て も 、背後の 満

そして、 大陸における日本国防の根拠地は、満州である。

州 、朝 洋 、北 支 に ソ 連 が 進 入 し て は 、国 防 の 万 全 を 期 す る こ と は で き な い 。 ゆ え に 、 日本は国防

た だ し 、 満 州 を た ん な る 日 本 の 権 益 の 対 象 と し て 、 こ れ を 支 配 下 におさめる だ け の 考 え は よ く

の 根 拠 地 を 大 陸 に 置 か ね ば な ら な い ——

「そ れ よ り は 、 日 本 人 、 満 州 人 、 さ ら に 支 那 人 も ふ く めて利 己 的 権 益 は 放 棄 し 、 各 民 族 協 和 の 独

ない 。 そ う な れ ば 、 中 国 側 は 失 地 回 復 を 叫 び 、満 州 は 日 中 両 国 の 永 久 の 争 点 に な る に す ぎ な い 。

立 国 を つくって、 東 亜 に 理 想 国 を つくる。 これこそ、 最 良 の 国 防 政 策 で もある」

この 石 原 中 将 の 思 想 は 、 の ち に 「王 道 で 覇 道 を 制 す る 」、 あ る い は 満 州 を 「王 道 楽 土 」 に す る 、

と い う 表 現 で 強 調 さ れ る が 、 い わ ば 、戦 争 論 と 宗 教 理 念 と が 結 合 し た ア ィ デ ア だ 、 と い え る 。

と 、 そ れ ま で の 国 際 政 治 の 歩 み か ら は 疑 問 だ が 、 石 原 中 将 は 、 「そ れ は 可 能 だ 、 い

は た し て 、 現 実 に 一 国 が 他 国 領 土 を 占 領 し て 、 植 民 地 で は な い 一 種 の "共 同 国 家 " に 転 換 で き る も の か ——

石 原 中 将 は そ の 理 論 と 熱 意 で 高 級 參 謀 .板 垣 征 四 郎 大 佐 、 特 務 機 関 員 .花 谷 正 少 佐 、 張 学 良 顧

ま ま で に な い か ら 可 能 で あ り 、 実 現 せ ね ば な ら ぬ 」 と 確 信 し て 、満 州 に 赴 任 し た 。

問 府 補 佐 .今 田 新 太 郎 大 尉 を 同 志 と し て 獲 得 し 、 極 秘 で 計 画 を ね っ た 。 朝 鮮 軍 参 謀 .神 田 正 種 中

そして、昭和六年はじめには、計画準備はととのい、ただ実施期日をきめるだけとなった。 た

佐 にも、内意を示して賛成をえた。

だ、平 和 な 王 道 の 国 を つ く る た め で は あ る が 、 そ の 計 画 は 、 石 原 中 将 の 性 格 を あ ら わ に し た 強 引 なものであった。 満州では す で に 万 宝 山 事 件 、中村震太郎大尉殺害事件などがつづき、 日支軍の衝突はさけられ な い 旨 の 飛 電 が 、 し き り に 関 東 軍 か ら 東 京 に 送 ら れ て い た 。 參 謀 本 部 は 、 第 一 部 長 .建 川美次少

が 、 い ず れ に せ よ 、建 川 少 将 が 奉 天 に 到 着 し て 、 料 亭 で 痛 飲 し で 寝 こ ん だ 十 八 日 午 後 十 時 三 十

たためだ、 ともいわれる。

も い わ れ 、 あ る い は 、 今 田 大 尉 が 建 川 少 将 を 迎 え て か ら で は ま ず い 、 単 独 で も 決 行 すると 主 張 し

その理由はなお不明で、あるいは建川少将が天皇の命令をもってするといぅ噂があったためと

石 原 参 謀 は 、建 川 少 将 が 奉 天 に 到 着 す る 昭 和 六 年 九 月 十 八 日 を 、決 行 の 日 と 定 め た 。

将 を 派 遣 し て 、 関 東 軍 を な だ め よ ぅ と し た -。

18

関東 軍 司 令 官 .本 庄 繁 大 将 は 、 石 原 參 謀 た ち 幕 僚 とともに、 こ の日、 遼 陽 か ら 旅 順 に 着 い た が 、

分ごろ、奉天北方約八百メートルの柳条溝で鉄道線路が爆破された。

に具申した。

本 庄 司 令 官 の 質 問 に 、石 原 參 謀 は 待 ち か ま え て い た ょ う に 、 答 え た 。

「だ が 、 後 始 末 を ど う す る の か 」

ャンスです」

を 進 め て も 、 ソ 連 は 第 二 次 五 か 年 計 画 が は じ ま っ た ば か り で 、手 出 し は し ま せ ん 、 今が絶好のチ

「こ の さ い 、 一 挙 に 満 蒙 問 題 を 解 決 し て し ま わ な け れ ば 、 悔 い を 百 年 の 後 に 残 し ま す 。 北 満 に 兵

を司|

翌日、 九 月 十 九日朝、 本 庄 司 令 官 一 行 は 奉 天 に 到 着 し た が 、 石 原 參 謀 は 強 硬 に 武 力 行 動 の 拡 大

う な ず い た 。 石 原 參 謀 は 、 す か さ ず 用 意 し た 作 戦 計 画 を す ら す ら と 述 べ た て、 司 令 官 も う な ず き を く り 返 し て 承 認 し 、各 部 隊 に 出 動 命 令 が だ さ れ た 。

す べ て は 石 原 參 謀 の 計 画 ど お り で あ る 。 本庄司ム卫目は、 や む を え ぬ 、 と い う 表 情 で 石 原 參 謀 に

る 板 垣 參 謀 か ら 、 「島 本 大 隊 が 北 大 営 で 張 学 良 軍 と 衝 突 し 激 戦 中 」 と 伝 え て き た 。

-、, や 、 待 て と、 本 庄 司 八 卫目が疑わしげに首をひねると、 建 川 少 将 出 迎 え の 名 目 で 奉 天 に い

原 参 謀 は 、直 ち に 出 動 を 意 見 具 申 し た 。

奉 天 特 務 機 関 か ら 、支 那 兵 が 満 鉄 線 を 爆 破 し て わ が 守 備 隊 と 衝 突 し た 、 と い う 報 告 が 届 く と 、 石

石原莞爾 19

「全 満 州 を 占 領 し 、 満 州 を 支 那 か ら 切 り は な し て 、 在 満 民 衆 の 手 に よ っ て 新 政 権 を つ く り 、 独 立 国 家 と し て 王 道 政 治 を し き ま す 。 日 本 が 在 来 の 権 益 主 義 を す て て 、 協 和 精 神 でいくなら 必 ず 民 衆

だから、 東 京 に 三 個 師 団 の 増 兵 を 依 頼 し て ほ し い 、 と石原参謀は、強 調 し た 。

は つ い て き ま す … …軍 事 費 も 、 新 政 権 が で き れ ば 間 接 税 そ の 他 で 自 給 自 足 で き ま す 」

"王 道 政 治 ガ "協 和 精 神 " … …本 庄 司 令 官 は 新 鮮 な 発 想 に 眼 を み は っ た 。 冷 静 に 考 え て み れ ば 、 そのような〃石原ィズム, ,が は た し て 満 州 民 衆 に 理 解 さ れ 受 け い れ ら れ る か ど う か 、 も し 満 州 市

つのが得策だ、 と思いあたるはずである。

民 を 主 体 に し て 新 国 家 を 考 え る な ら 、新 思 想 は 与 え る も の で は な く 、 内側から わ き 起 こ る の を 寺

だが 、本 庄 司 令 官 は 、 石 原 參 謀 の 無 類 の 着 想 力 を 高 く 評 価 し て い る 。 しかも、參 謀 の 言 葉 に は 、

と、本 庄 司 令 官 は 、 三 個 師 団 増 兵 の 要 請 電 報 を 陸 軍 大 臣 、参 謀 総 長 に 打 電

新国家樹立後の方策に至るまでの緻密な準備がうかがえる。 よし、 わかった した。 と こ ろ が 、東 京 は 事 変 不 拡 大 を 唱 え 、 日 本 内 地 か ら の 増 兵 も 朝 鮮 軍 か ら の 増 兵 も 拒 否 し て き た 。 I 原 参 謀 は 、朝 鮮 軍 の , だが 、石 同 志 "神 田 参 謀 と 連 絡 を と り 、 満 蛘 国 境 の 吉 林 、 間 島 方 面 に 元

そ の 後 、 関 東 軍 は ハ ル ビ ン に 進 み 、錦 州 も 攻 略 し た 。

させた。

憲兵大尉甘粕正彦を派遣して不安状態をつくらせ、関東軍から要請して朝鮮軍の独断派兵を実現

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錦州には、 天 津 を 追 わ れ た 張 学 良 軍 が 集 結 し 、 仮 政 府 を 組 織 す る 情 報 が 流 れ 、 領 事 館 を 持 つ 米

石 原 参 謀 は 十 月 八 日 、 偵 察 機 六 機 、押 収 支 那 軍 機 五 機 を と ば し 、 自 身 が 司 令 機 に の っ て 錦 州 郊

国な ど国際 連 盟 主 要 国 は 、 錦 州 は 山 海 関 に 近 い だ け に 、 日 本 が 錦 州 に 兵 を 進 め る の は 中 国 北 部 も ねらう の で は な い か 、 と 眼 を 光 ら せ て い た 。

外 の 兵 営 を 爆 撃 し た 。米 領 事 館 も 被 弾 し 、米 国 政 府 は 抗 議 し た が 、石 原 参 謀 は 、泰 然 と し て い た 。

つた。

治 " の 成 果 として 拍 手 す る 陸 軍 部 内 に は 、 石 原 参 謀 が 強 調 す る 理 想 や 思 想 に 注 目 す る 者 は 少 なか

しかし、わずか 六か 月 で つ く り あ げ ら れ た 満 州 国 を 、 ひ た す ら 下 剋 上 に 似 た 強 引 な "幕 僚 政

と、 は き だ す よ う に い っ て い た 。 こ の ま ま で は 、 満 州 は 、 日 本 が 支 配 す る た ん な る 植 民 地 に な り 、 日本 も 参 加 す る "王 道 国 家 , に は ほ ど 遠 い と 思 っ た か ら で あ る 。

満 州 政 府 の お ぜ ん 立 て に 日 本 側 が 干 渉 し す ぎ る の を み て 、 「満 州 人 に ま か せ て お け ば い い の だ 」

そ の 前 、石 原 参 謀 は 満 州 事 変 の 責 任 を と る た め に 辞 表 を 提 出 し 、 また 溥 儀 執 政 の 誕 生 を は じ め

ある 。石 原 参 謀 は 、同 八 月 、大 佐 に 進 級 し て 満 州 を は な れ た 。

清 朝 の 宣 統 帝 溥 儀 を 迎 え 、 その執政就任によって満州国が誕生したのは、昭和七年三月九日で

「わ が女府をして、 このうる さ い 国 際 連 盟 の 束 縛 か ら 脱 退 さ せ る た め に は 、 日 本 政 府 の 立 場 をま すます 困 難 な らしめる と と も に 、 連 盟 に 一 層 強 い 日 本 排 撃 の 空 気 を 釀 成 さ せ る 必 要 が あ る 」

2 1 石原莞爾

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石原莞爾中将は、関東軍作戦参謀から歩兵第四連隊長に転出した。 独 特 の 着 想力 と い い 、 全 身 にあふれる 自 信 と い い 、 石 原 中 将 が 指 揮 官 型 の 将 校 であることは自

「実 戦 に 役 立 つ 兵 士 を つ く る 」 「兵 営 生 活 を 楽 し く す る 」

というのが、石 原 連 隊 長 の モ ッ ト

他ともに認められている。石原中将自身も、連隊長の職を喜んだ。

丨 で あ っ た 。 つまりは、 兵 中 心 の 軍 隊 と い う 考 え 方 で あ り 、 こ の 信 条 は い か ん な く 実 行 さ れ た 。 た と え ば 、 「実 戦 向 き の 兵 士 を つくる た め に は 、 な に はともあれ、 明 確 な 指 導 に よ っ て 兵 士 自

は 確 信 し て い る 。 そ こ で ま ず 採 用 し た の が 、 そ の 場 で ほ め る 『現 場 表 彰 主 義 』 で あ る 。

身 に 自 分 の 行 動 を 認 定 さ せ 、 自 信 ま た は 向 上 へ のI熱 意 を か き た て ね ば な ら な い 」 と 、 石 原 連 隊 長

馬 が あ ば れ だ し た 。 夢 中 で と び つ い た 兵 が 汗 だ く で とりお さ え た 。 と た ん に 、 見 て い た 石 原 連 隊長が中隊集合を命じて叫ぶ。

第三中隊が幅跳び競技に優勝した。すかさず石原連隊長はほめる。

「こ の 兵 は あ ば れ 馬 を よ く お さ え た 。 み ご と だ 。 褒 賞 休 暇 一 日 を 与 え る 」

「第 三 中 隊 は 今 後 〃 幅 跳 び 中 隊 "と 呼 ぶ ことにする」 そういった調子で、欠陥もずばずばと指摘するが、兵士にとって、努力したときは必ず賞賛さ

生 活 改 善 に も 、 連 隊 長 の 眼 は ひ か っ た 。 兵 営 生 活 の 三 大 娯 楽 は 、 入 浴 、 睡 眠 、食 事 で あ る 。 こ

れる 、 と い う 希 望 は は げ み に な る 。第 四 連 隊 に 活 気 が み な ぎ っ た 。

の う ち 睡 眠 は 消 灯 、起 床 時 間 が 規 定 さ れ て い る の で ど う し よ う も な い が 、 石 原 連 隊 長 は 他 の ニ つ

2 3 石原莞爾

フ ロ は 各 大 隊 に ひ と つ ず つ あ る 。 大 浴 場 だ が 、数 百 人 が は い る の だ か ら 、 あ と に な る と 湯 は ど

は、 助 長 で き る と み な し た 。 .

ろ ど ろ に な る 。臭 い 。 兵 た ち は ゴ フ ィ ス カ レ ー " と 呼 ん で 、嘆 い た 。将 抆 も 改 善 法 を 考 え る の だ 「つ ま り 、 湯 が 汚 な い の だ か ら 、 き れ い に す れ ば よ い 」

が 、 名 案 が な い 。石 原 連 隊 長 は 、裁 決 し た 。

各 浴 槽 に 〃 塵 埃 吸 着 装 置 "を つ け た 。 モーター で 湯 の 汚 れ を 浄 化 す る わ け で 、 いらい、 第四連

食 事 も 、 フ 0間 題 と 同 じ 発 想 で 解 決 し た 。 兵 た ち の 苦 情 は 、 量 は 多 い が ま ず い 、 と い ぅ 点 に あ

隊 の フ ロ は つ ね に 清 ら か と な り 、 兵 士 は 「温 泉 な み だ 」 と 喜 ん だ 。

隊長は判決した。

る 。 主 計 責 任 者 は 、 ま ず い の は 認 め る が カ ロ リ ー は 十 分 で あ る 。軍 隊 は 料 理 屋 に あ ら ず 、 と意見 を述べた。 しかし石1

軍属として料理人が雇われ、 とたんに残飯は皆無となった。

「ま ず い の は 、 調 理 が 下 手 だ か ら だ 。 コ ッ ク を 雇 お ぅ 」

昭 和 九 年 十 月 、 陸 軍 特 別 大 演 習 が お こ な わ れ た 。 十 月 二 十 六 日 、演 習 第 四 日 に な る と 、 さすが

に 疲 労 し た 各 連 隊 に は 、落 伍 者 が 続 出 し た 。 だ が 、 東 軍 第 一 線 の 第 四 連 隊 だ け は 、 石 原 式 生 活 改

一兵もへこたれなかった。

善のおかげで、 日ごろたっぶりとぅまい食事をとり、ゆったりとフロで疲れをとってきたせいか、

石 原 連 隊 長 は 、. 天皇の玉座が進行方向の左側にあるのを知ると、 しばらく黙思していたが、 い

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き な り 指 揮 刀 を 抜 き 、攻 撃 を 命 じ た 。

連隊長と軍旗がまっさきに畑のあぜ道を走りだし、千五百人の第四連隊が喊声をあげてつづい

「突 撃 前 進 、 突 つ こ め ご

た。 前 面 に 布 陣 し た 西 軍 は 仰 天 し た 。連 隊 長 が 先 頭 に 立 っ て の 突 撃 な ど 、どんな戦術教科書にも

と ま ど い 、 か つ 当 惑 し な が ら 、 結 局 は 第 四 連 隊 の 接 近 を 待 っ て い る と 、石 原 連 隊 長 が と び こ ん

書 い て い な い 現 象 だ か ら で あ る 。 し か も 、縦 隊 で や っ て く る 。

縦 隊 で ァ ゼ 道 だ け を 走 っ て き た の は 、 農 民 の 大 切 な 畑 を あ ら し て は な ら ぬ 、 一本の稲もふんで

で く る 寸 前 に 、停 戦 ラ ッ パ が ひ び い た 。

は な ら ぬ 、 と い う 連 隊 長 の 配 慮 か ら だ が 、 ラ ッ パ が ひ び い て 停 止 し て み る と 、第四連隊 の 将 兵 は

天 皇 の 前 に 二 列 に な ら び 、自 然 に 天 皇 の 閲 兵 を う け る 形 に な っ て い た の で あ る 。

感激に身をこわばらせた。

「ひ と 目 、 兵 に 陛 下 を お が ま せ て や り た か っ た ん だ 」 と 、 石 原 連 隊 長 が の ち に 述 懐 し た ょ う に 、 世 に も 珍 し い 〃連 隊 長 突 撃 戦 術 " は 、 石 原 連 隊 長 の "兵 士 想 い " の 演 出 だ っ た わ け で 、 将 兵 は 意 外 な 光 栄 に ひ た す ら 感 銘 し て い た 。

そ の こ ろ 、 「桜 会 」 の 結 成 、 さ ら に 三 月 事 件 、 十 月 事 件 と い 、 っ 未 発 の ク ー デ タ ー 計 画 な ど 、陸 軍 部 内 に は 次 第 に 〃 革 新 気 運 "が高ま り 、派 閥 意 識 も 強 ま っ て い た 。 が、石 原 連 隊 長 は 、

「軍 人 に し て 徒 党 を く み 政 治 行 動 に 出 る 者 を 軍 閥 と い う 」

と い っ て そ れ ら グ ル ー ブ を 憎 ん だ 。 ど の よ う な 誘 い に も 応 ぜ ず 、 ひ た す ら "役 に 立 つ 明 る い 軍

お か げ で 昭 和 十 年 八 月 、 參 謀 本 部 第 二 課 長 (作 戦 ) に 転 出 す る と き は 、 第 四 連 隊 の 兵 士 は 心 か

隊 " の養成に没頭した。

作 戦 課 長 として 石 原 大 佐 が 着 意 し た の は 、 対 ソ 連 軍 備 の 完 成 で あ っ た 。

ら別れをおしみ、駅頭で泣く者が多かった。

' 当 時 、 『国 防 方 針 』 の 改 訂 が 論 議 さ れ て い た 。 『国 防 方 針 』 は 明 治 四 十 年 、 米 国 、 ロ シ ァ 、 支 那

の 国 際 関 係 に 応 じ て 、英 国 も 仮 想 敵 国 に 加 え 、 当 然 に 対 多 国 戦 争 を 予 期 す る 傾 向 に な っ て い た 。

を 仮 想 敵 国 と し 、 か つ 一 国 戦 争 (ニ 国 以 上 と の 戦 争 を さ け る ) を 主 旨 と し 策 定 さ れ た が 、 そ の 後

だが、石 原 作 戦 課 長 は 、 国 力 に 応 じ た 戦 争 を 考 え る べ き だ 、 と 対 ソ 連 一 国 戦 争 以 外 の 発 想 を し

そして、 そ の た め に は 、 軍 備 完 成 ま で はいっさいの 国 際 紛 争 をさけるべき だ 、 というの が 、 石

り ぞ け 、 「軍 備 六 十 個 師 団 、 航 空 機 五 十 個 中 隊 一 千 機 」 の 軍 備 案 を 用 意 し た 。

原 作 戦 課 長 の 〃 国 防 方 針 " であった。

と こ ろ が 、 関 東 軍 内 部 に き な 臭 い 動 き が 活 発 化 し た 。 寧 夏 、 察 哈 爾 、綏 遠 三 省 の 内 蒙 古 を 統 合

「途 方 も な い 話 だ 。 そ ん な こ と を す れ ば 、 ソ 連 や 蒋 介 石 中 国 政 府 を 刺 激 す る 。 ソ 満 国 境 紛 争 も ひ

して、徳 王 を 盟 主 と す る 第 二 の 満 州 を つ く ろ う と す る 内 蒙 工 作 で あ る 。

き起こして、 満 州 国 の 育 成 も あ ぶ な く な る で は な い か 」

26

じ つ は 、 石 原 作 戦 課 長 も 、 内 外 蒙 古 を 統 一 す る ,大 蒙 古 帝 国 ,建 設 の 構 想 は も っ て い た 。 しか し、内 蒙 だ け で は い た ず ら に 外 蒙 古 、 ソ連との 衝 突 を 招 き か ね な い 。石 原 作 戦 課 長 は 、関東軍を

と こ ろ が 、 石 原 作 戦 課 長 を 待 っ て い た 関 東 軍 第 二 課 長 (情 報 ) 武 藤 章 中 佐 は 、 石 原 作 戦 課 長 の

説 得 す べ く 、 昭 和 十 一 年 秋 、新 京 に む か っ た 。

話 が 終 わ る と 、眼 を 光 ら せ て 、 いった。 「ぉ 言 葉 は 参 謀 総 長 、 陸 軍 大 臣 の ご 意 図 で は あ っ て も 、 石 原 課 長 ご 自 身 の 意 図 で は な い と 了 解 い

たします。 自 分 ら は 、 石 原 参 謀 が 満 州 事 変 でやられたことを、お 手 本 に してやっ て い る わ け で す

石 原 作 戦 課 長 は の ち に 、 「あ の と き は 息 が つ ま っ て ニ の 句 が 出 な か っ た 」 と 述 懐 し て い る が 、

力 ら .. 」

た し か に 、武 藤 中 佐 の 指 摘 は 、 痛 か っ た 。 す で に 述 べ た ご と く 、満 州 事 変 は 明 ら か に 石 原 参 謀

武 藤 中 佐 の 発 言 に ぐ っ と つ ま り 、会 談 は 中 止 と な っ て し ま っ た 。

あ の と き 、 石 原 参 謀 の 胸 奥 に は "王 道 楽 土 の 理 想 , が 燃 え て い た 。 日 本 の 国 防 に と っ て 満 州 が

の強引なブレーである。

え る だ ろ ぅ 、 米 英 仏 も容 易 に は 出 て こ ま い 、 と い ぅ 国 際 情 勢 判 断も あ っ た 。 そ し て 、 外 交 交 渉 に

必要であるとの確信があった。国際連盟は無力であり、 ソ連は国内整備のために武力発動はひか

一気の武力解決の決意もない、 と の 判 断もくだしていた。

ょ る 解 決 は 、 か え っ て ソ 連 、支 那 に 軍 事 増 強 の 時 間 を 与 え る だ け で あ り 、 と い っ て 、 日本政府に

I

石原莞爾 27

そこで、 石 原 参 謀 は 、 「わ れ 日 本 の 柱 とならん」 という 日 蓮 上 人 の 覚 悟 に 照 ら し て 、 自 分 一 人 が 〃 悪 者 " になる決意で、断 行 し た の で あ る 。

一方、 武 藤 中 佐 た ち の 内 蒙 工 作 は 、 満 州 事 変 が 理 想 と 国 策 と 、 さ ら に 中 国 側 の 抗 日 侮 日 と い う

だが、 そ う は 思 う が 、石 原 ^ ^ 課 長 は 絶 句 せ ざ る を え な か っ た 。

具 体 的 事 実 を 背 景 と し て い た の に た い し て 、 ひ た す ら 謀 略 で あ り 、独 善 的 な 政 治 工 作 で あ る 。

満 州 事 変 を 起 こ し 、満 州 国 を つ く る た め に は 、石 原 参 謀 は 上 司 の 意 向 を 無 視 し た 。当 時 、 昭和

国論の支持と国際関係の調整をしてから行動する。

今 後 約 一 か 年 (昭和七年六月まで) は隠忍自重する。

六 年 六 月 、 参 謀 本 部 は 「満 州 問 題 解 決 方 策 の 大 綱 」 を き め 、 関 東 軍 に も 通 達 し て い た 。



という方針である。

いっさい参謀本部の立案によっておこなう。

① ③

石 原 参 謀 は 、 こ の 中 央 の 指 示 に 反 し て 行 動 し た 。 办下剋上设であろう。 し か も 昭 和 九 年 四 月 ニ

十 九 日 、 第 四 連 隊 長 に な っ て い た 石 原 参 謀 は 、満 州 事 変 の 功 績 が 抜 群 だ と し て 、功 三 級 金 鵄 勲 章 、

勲 三 等 旭 日 章 を 授 け ら れ て い る 。 い か に 心 根 の 違 い を 指 摘 し よ う と し て も "下 剋 上 , の 行 為 と そ

さすがの石原作戦課長も憮然とせざるをえないわけである。

れにたいして黙章をもらった事実をとりあげて、そのお手本にならっております、 といわれては、

28

石 原 作 戦 課 長 は 、 こ の 武 藤 中 佐 と の 問 答 の 前 、 ニ .ニ 六 事 件 で も 、 い ち 早 く 戒 厳 令 施 行 、 反 乱

ぶりがちになった。

部 隊 討 伐 を 主 張 す る 明 快 な 態 度 を 示 し て い た が 、満 州 の 〃 古 傷 , にふれられると、 その鋭気もに

昭 和 十 二 年 三 月 、 少 将 に 進 級 し て 参 謀 本 部 第 一 部 長 (作 戦 ) に な る と 、 や が て 支 那 事 変 が お こ

と こ ろ が 作 戦 課 長 に は 武 藤 中 佐 が 就 任 し て い た 。 再 び 、 「閣 下 の 模 範 に し た が っ て お る ま で で

った。 む ろ ん 、 石 原 部 長 は 不 拡 大 方 針 で あ る 。

り、石 原 部 長 が 現 地 に 長 距 離 電 話 で 不 拡 大 方 針 を 説 く と 、 その電話 が 終 わ る と 同 時 に 、武藤課長

す 」 と い い 、 「現 に 支 那 側 の 抗 日 侮 日 は 激 し い じ ゃ あ り ま せ ん か 。 い ま た た か ね ば … … 」 と せ ま

「た だ い ま の 部 長 の ご 意 見 は 、 個 人 的 見 解 で す 。 省 部 (陸 軍 省 と 参 謀 本 部 〕 は 、 現 地 軍 の 成 功 を

が同じ相手に正反対の意見を伝えるありさまであった。

祈っております。がんばって下さい。どんどん進擊すべきです」 陸 軍 省 、参 謀 本 部 内 は 拡 大 派 、不 拡 大 派 に わ か れ 、次 第 に 拡 大 派 が 強 く な っ た 。関 東 軍 參 謀 長 .東 条 英 機 中 将 も 、 拡 大 派 で あ る 。 武 藤 課 長 の 激 励 ど お り に "ど ん ど ん , 進 む 。

と、 石 原 作 戦 部 長 は 、 少 数 ず つ の 兵 力 投 入 よ

七 月 二 十 七 日 、石 原 作 戦 部 長 は 三 個 師 団 の 動 員 を 決 定 し た 。 「こ れ が 最 大 限 だ 。 こ こ で 一 気 に 解 決 し た い 」

りは 、 一気に大部隊を運び、 支 那 側 を 圧 倒 し て 和 平 交 渉 を 開 始 し よ ぅ 、 と計画した。

I

だ が 、 拡 大 派 に と っ て 、 大 部 隊 の 參 加 は 、 ガ ソ リ ン 不 足 の 自 動 車 を 満 タ ン に し て も ら っ たよぅ

2 9 石原莞爾

石 原 部 長 は 、 近 衛 文 麿 首 相 と と も に 直 接 、蒋 介 石 中 国 総 統 と 会 見 し て 、事 変 を 解 決 す る 計 画 を

なものである。戦火が上海にとぶと戦線はさらにひろがる一方であった。

い わ ば "古 巣 , の 満 州 へ の 赴 任 で あ る 。 が 、 満 州 で 石 原 副 長 は 完 全 に 孤 立 し た 。 参 謀 長 は 東 条

ね っ た が 、 実 行 で き ず 、消 極 性 を き ら わ れ た 結 果 、 昭 和 十 二 年 九 月 、 関 東 軍 参 謀 副 長 に 転 出 し た 。

石 原副長は、 日満協和という満州建国の理想を実現するために、関東軍の満州政治にたいする

中 将 、 軍 司 令 官 は 植 田 謙 吉 大 将 で あ っ た が 、 ともに 石 原 副 長 と は 肌 合 い が ち が い す ぎ た 。

た。 関 東 軍 司 令 部 が 満 州 国 皇 帝 の 宮 殿 よ り も 立 派 だ っ た の で 、 も っ と 粗 末 な 建 物 に 移 れ 、 と進言

内面指導 を や め る よ う 進 言 し た 。 日本人役人の俸給が満州人官吏よりも高いので、減額を進言し

だ が 、進 言 は す べ て 黙 殺 さ れ 、 石 原 副 長 の 身 辺 に は 憲 兵 の 視 線 が つ き ま と っ た 。 東 条 参 謀 長 を

した。

「高 級 副 官 程 度 が 適 任 だ 」 と 論 評 し 、 さ ら に そ の 評 価 が 「軍 曹 適 任 」 「上 等 兵 適 任 」 と 下 落 し た の

「一般 に、 幕 僚 と し て 出 世 し よ う と 思 え ば 、 直 言 し て は な ら な い 、 と い う の が 、 旧 陸 軍 の 鉄 則 だ

で、 東 条 参 謀 長 の 怒 り を ま ね い た の で あ る 。 っ た よ う で すよ」

とは、戦 後 、 自 衛 隊 に も つ と め た 吉 武 敏 一 陸 将 の 回 想 だ が 、 そ の鉄則を無視する石原副長にと

って関 東 軍 、 ひ い て は 自 身 が 生 み の 親 を つ と め た 満 州 が 住 み 心 地 悪 く な っ た の は 、 自 然 で あ る 。 昭 和 十 三 年八月、 石 原 副 長 は 「予 備 役 仰 付 願 」 と 「病 気 静 養 の た め の 休 暇 願 」 を 提 出 し て 帰 京

同 年 十 二 月 、 舞鶴要塞司ム卫目に任命され、 つ い で 昭 和 十 四 年 八 月 、 中 将 に 進 級 し て 第 十 六 師 団

第 四 連 隊 長 い ら い 、 久 し ぶ り の 指 揮 官 勤 務 で あ る 石 原 中 将 は 、再 び 〃 強 兵 政 策 , に熱中した。

長になった。

歩 兵 訓 練 は 、 草 木 で ヵ ム フ ラ ー ジ ュ し て 、 ひ た す ら 匍 匍 前 進 す る ,渗 透 戦 法 , を 命 じ た 。 おか げ で 、 第 十 六 師 団 の 練 兵 場 は 、号 令 も 叱 哺 の 声 も な く 、走 る 姿 も な く 、 いつもシンと静まり返っ

幹 部 教 育 で は 、 と く に 具 体 性 を 強 調 し た 。 た と え ば 、 歩 兵 操 典 そ の 他 の 典 範 令 に つ い て 、将 校

ていた。

たちにあらためてその読み方を教えた。 「典 範 令 は 、 そ の 奥 に ひ そ む ね ら い を 読 み と る べ き で あ る 。 一 例 を あ げ れ ば 、軍 隊 教 育 令 で 分 業

を 教 育 す る こ と だ 。 狙 撃 粗 は 射 撃 を 、 切 り 込 み 組 は 銃 剣 術 を 訓 練 し て 、拔 群 の 技 倆 を 身 に つ け ろ 、

教育をとなえているが、 分業教育はすなわち専門教育をせよといぅことだ。各部門ごとの優秀者

そ の 訓 示 は つ ね に 明 確 で あ り 、 師 団 の 将 校 た ち は 「陸 大 に い か な く て も す む 」 と 喜 ん だ 。 連 隊

といぅのである」

昭 和 十 五 年 秋 の 師 団 演 習 で は 、 神 武 天 皇 御 東 征 を 演 習 想 定 と し 、 神 話 が 伝 え る 〃 神 武 軍 , のコ

長時代に発揮した奇抜な着想力も、おとろえていなかった。

3 1 石原莞爾

— ス に し た が っ て 実 施 し た 。 ,神 武 軍 , に な っ た 連 隊 は 喜 び 、 "賊 軍 " に さ れ た 部 隊 は 不 満 で あ っ た が 、 もともと 太 古 時 代 の 戦 い を 基 礎 に し て い る だ け に 、 演 習 そ の も の は 至 っ て 気 楽 だ っ た 。 兵

士 た ち は 秋 の 近 畿 地 方 の 風 物 を 楽 し み 、 銃 の 先 に タ パ コ 『金 鵄 』 の 箱 を つ け て は し ゃ い だ 。 神 武

あ る い は 、 ふつぅは 静 々と部 隊 の 前 を 通 る 閲 兵 を 、さっそぅと 馬 を 走 ら せ て 視 察 す る "駆 足 閲

天皇の杖に金银がとまった、 といぅ神話にちなんだのである。

兵 " にしたり、 石 原 師 団 長 自 身 も 楽 し み な が ら の 勤 務 で あ っ た 。

だ が 、 一方で師 団 の 戦 力 育 成 に は げ む と 同 時 に 、石 原 師 団 長 の 直 言 癖 も 、 ま す ます強化されて

いた。 師 団 長 と も な る と 、講 演 の 依 頼 が 多 い が 、 と く に 著 名 な 石 原 師 団 長 の 場 合 は 各 大 学 、 団 体

石原師団長はほとんどの依頼に応じたが、 話題は否応なく時局の動向に及び、時局問題は軍人

からしき り に 注 文 が 寄 せ ら れ た 。

の 心 得 に 発 展 し 、 軍 人 の 心 得 は や が て 陸 軍 大 臣 .東 条 中 将 の 批 判 に 焦 点 が 集 中 し た 。

憲 兵 隊 、警 察 か ら 石 原 師 団 長 の 言 動 に か ん す る 報 告 が 東 京 に 届 い た 。人 事 権 を に ぎ る 陸 軍 大 昭 和 十 六 年 三 月 、 石 原 中 将 は 待 命 、予 備 役 編 入 を 命 じ ら れ た 。

臣 .東 条 中 将 が 、 自 分 に た い す る 露 骨 な 批 判 者 に 好 感 を も っ た 処 置 を と る は ず が な い 。

石 原 中 将 は 、 痛 烈 に 軍 人 の 政 治 関 与 を 批 判 し た あ い さ つ 状 「現 役 を 去 る の 辞 」 を 知 人 に 送 り 、

そ の 後 、 昭 和 十 七 年 九 月 ま で 、 立 命 館 大 学 学 長 .中 川 小 十 郎 の 招 き で 、 同 大 学 教 授 に な っ て 国

退職した。

32

防 学 を 講 義 し た 。 教 授 と し て の サ ラ リ ー は 、 恩 給 を も ら つ て い る か ら 不 要 だ 、 とこと わ つ た 。

太 平 洋 戦 争 の 開 幕 を 知 る と 、 「な ぜ 陛 下 に 開 戦 の 決 定 を 仰 が な か っ た の か 。 天 皇 の お は た ら き を 抑 止 し て は な ら な い 」 と、 天 皇 の 決 断 を 求 め れ ば 開 戦 は 防 止 で き た と 無 念 が り 、 明 確 に 敗 北 を

「こ の 戦 争 は 負 け ま す な 。 自 分 の 財 布 に 千 円 し か な い の に 一 万 円 の 買 い 物 を し よ う と す る 日 本 と 、

予言した。

て い る う ち は わ か ら な いが、 そ の う ち に 必 ずダメになります」

百 万 円 持 っ て い て 一 万 円 の 買 い 物 を す る ア メ リ カ と の 競 争 じ ゃ な い で す か 。 百 円 、 二百円と買っ

石 原 中 将 が 京 都 を 去 っ て 、 故 郷 の 鶴 岡 に ひ き あ げ た の は 、 こ う い っ た お り に ふ れ て の "直 言 " にたいして、憲 兵 、刑 事 が 陰 湿 な 警 戒 ぶ り を 示 し 、大 学 側 に 圧 迫 を 加 え た た め で あ る 。 む ろん、 そ の 種 の 指 令 が ど こ か ら 発 せ ら れ て い る か は 、石 原 中 将 に は よ く わ か っ て い た 。 が、 昭 和 十 七 年 暮 れ 、 石 原 中 将 は 元 憲 兵 大 尉 .甘 粕 正 彦 の あ っ せ ん で 上 京 し 、 東 条 首 相 と 会 見 し た 。 東 条 首 相 は 、 在野の傑物である石原中将を味方にひきいれたい気持ちもあったが、 問答はいたってそっけない

唯 一 の 政 治 団 体 で あ る 大 政 翼 賛 会 に つ い て 、 東 条 首 相 は 石 原 中 将 の 意 見 を 求 め た 。 政治的統一

形で終始した。

勢 力 と し て 発 足 し た が 、 国 民 は 政 府 の 御 用 機 関 で あ ることに 反 発 し て 、 人 気 が な か っ た 。どうし たら 強 化 ^ - — か とい 、う 質 問 に 、 石 原 中 将 は ニべ. も なく答 え た 。

爾 3 3 石 原 竞

お り か ら ガ ダ ル カ ナ ル 島 攻 防 戦 が 悲 惨 な 結 末 を 迎 え よ う と し て い た 。東 条 首 相 は 、今 後 の戦争

「キミが作ったようなものだから、 キミが始末してはどうか」 指導に石原中将のアドパィスを求めた。中将は、即答した。

のちに、極 東 国 際 軍 事 裁 判 で 証 人 訊 問 を う け た さ い 、 石 原 中 将 は 、 さ ん ざ ん 、鶴 岡 に 出 張 し て

「戦 争 の 指 導 は 、 キ ミ に は で き な い 。 退 陣 し た ら ど う か 。 キ ミ は 、 総 理 大 臣 を や め る べ き だ よ 」

のさい、東 条 1

と の 意 見 対 立 に つ い て 、 質 問 さ れ た 。 意 見 対 立 の 内 容 を 説 明 し て ほ し い 、 とい

き た 判 .検 事 を 手 玉 に と り 、 か え っ て 石 原 中 将 の 頭 脳 の 明 晰 さ に 相 手 を 感 服 さ せ た も の だ が 、 そ

「そ ん な も の は な か っ た 。 な ぜ な ら 、 私 に は 意 見 が あ る 。 し か し 、 東 条 に は 意 見 は な い 。 だ か ら 、

う の である。 石 原 中 将 は 、 ニコリと も せ ず に 、 答 え て い る 。

との 会 談 に も 、 この 石 原 中 将 の 姿 勢 は う か が え る 。 い ら い 、 東 条 1

意見の対立ということもありえない」 昭和十七年末の東条!

との 対 話 は 回 復 せ ず 、 敗 戦 後 、 東 条 首 相 は 極 東 国 際 軍 事 裁 判 で 処 刑 さ れ 、 石 原 中 将 は 昭 和 二 十 四

肺 炎 と 持 病 の 乳 嘴 腫 が 悪 化 し た た め で あ る 。石 原 中 将 は そ の 日 午 前 ニ 時 ご ろ か ら 、 し き り に 、

年 八月 十 五 日午 前 四 時 五 十 五 分 、 死 去 し た 。

いま何 時 か 、 と 時 間 を 気 に し て い た が 、午 前 四 時 三 十 五 分 に 時 間 を た ず ね た あ と は 黙 り こ み 、 や

石 原 中 将 に た い す る 評 価 は 、 そ の 卓 越 し た 智 力 に つ い て は 一 致 す る が 、幕 僚 と し て 、指揮官と

が て 二 十 分 後 、全 身 に ケ ィ レ ン を お こ し て 絶 命 し た 。

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して、あるいは戦略家として、人間としての面については、 なお定まっていない。 「自 分 が ひ と り で 考 え たことを 他 人 に や ら せ る と き は 、 ひ と か ど の 仕 事 を す る が 、 他 人 と 協 力 し

て や ることと、 他 人 か ら 使 わ れ るという こ と が で き な か っ た 。 人 物 で あ る が 、 "難 物 " で も あ り ましたね」 と 徳 富 蘇 峰 が い え ば 、 元 満 州 重 工 社 長 の 鲇 川 義 介 も 、 いう。 「予 言 者 で し た 。 し か し 、 遠 見 の き く "構 想 や " で はあるが、 途 中 に 一 本 橋 し か な い と か 、 変 な 人間に出会うとか、 そういう道中の問題はまずかった。 ところが多くの人間は先のことはわから な か っ た わ け でしょう」

な い が 、今 日 か ら 明 日 へ と 仕 事 を 追 っ て い る の で す か ら 、 や は り 石 原 さ ん に 従 っ て だ け は い ら れ

3 5 中 沢 佑

ゥム I

と ぅ な っ て 、 軍 令 部 第 一 課 首 席 部 員 .中 沢 佑 中 佐 は 、 唇 を か み し め た 。

(坊 主 の 数 が 二 十 万 人 。 わ が 海 軍 奉 職 者 も 二 十 万 人 た ら ず か … … 〕

昭 和 九 年 秋 。中 佐 が ニ 年 間 の 米 国 駐 在 を 終 え 、軍 令 部 に 配 属 を 命 ぜられてから約六か月後であ

る''そ し て 、 こ の 中 佐 の 嘆 声 は 、 い わ ば 、 海 軍 の 戦 略 、 戦 術 の 主 務 担 当 者 としての 中 佐 の 思 想 と

中 沢 中 佐 は 、海 軍 兵 学 校 卒 業 い ら い 、 つねに同期生のトップグルーブに属して昇進してきた英

信 念 の 発 露 と も 、 いえた。

と く に 、 海 軍 大 学 校 に 学 ん だ こ ろ か ら 、 軍 備 に は 兵 器 、 艦 船 な ど の 『物 的 軍 備 』 と、 そ れ を 操

才 だ が 、同 時 に 、海 軍 軍 人 の 責 務 と 海 軍 軍 備 の 在 り 方 に つ い て は 、厳 格 な 配 慮 を 維 持 し て い た 。

作 し 活 用 す る 『人 的 軍 備 』 と が あ り 、 し か も 両 者 は 不 可 分 の 関 係 に あ る 。 い や 、 む し ろ 、『人 的 軍 備 』 が優先する、 といぅ考えをもっていた。

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「人 は 器 械 を つ く る 。 し か し 、 器 械 は 人 を 生 み だ さ な い 。 組 織 と 器 械 が そ の 能 力 を 発 揮 す る の は 、 人によってである」 からである。 こ の 中 沢 中 佐 の 『人 的 軍 備 』 優 先 論 は 、 米 国 駐 在 に よ っ て 、 ま す ま す 強 化 さ れ た 。 中 佐 が 駐 米 し た 昭 和 七 年 〜 九 年 は 、 満 州 事 変 の あ と 、米 国 の 対 日 感 情 も 硬 化 し て い た 時 代 だ が 、

に、 夏 休 み に は 艦 艇 訓 練 を お こ な い 、 航 空 隊 の 練 習 機 に の せ た り し て 、 志 願 者 の 確 保 と 将 来 の 士

米 国 海 軍 は 、 公 私 立 大 学 に 大 佐 を 長 と す る 士 官 数 人 ず つ を 派 遣 し て 、軍事教育 を ほ ど こ す と と も

官 教 育 の 短 縮 を 計 画 し て い る 様 子 で あ っ た 。 ま さ に 、 『人 的 軍 備 』 拡 張 計 画 で あ る 。 「と く に 、 海 軍 パ ィ ロ ッ ト に つ い て は 、 # 1の ¢ うち 士 官 が 八 十 五パー セ ン ト 、 下 士 兵 十 五 パ — セ ン トという 比 率 に な っ て い る 。 こ れ は 、 き わ め て 強 い 印 象 をうけた。 わ が 海 軍 で は 、 士 官 不 足 が めだっていた。 日清戦争当時は艦艇千トンあたり士官二十九人だったが、 日露戦争ごろは十九人

となり、 昭 和 九 年 頃 は六 人 だ っ た 。 米 海 軍 も 千 ト ン あ た り 九 人 だ が 、きちんと 法 定 定 員 制 に よ っ 中 沢 中 佐 は 、 も し 日 米 戦 わ ば …… と 想 像して、背 筋 に 走 る 不 吉 な 悪 寒 に 身 ぶ る い し た 。

て充実をはかっている」

近 代 戦 は 、 当 時 も 指 摘 さ れ て い た よ う に 国 家 、 国 民 の す べ て を 投 入 す る "総 力 戦 " で あ る 。 日 露 戦 争 時 代 の よ う に 、常 備 兵 力 だ け で 勝 利 を 得 る こ と は む ず か し い 。膨大な人員の損害も予想さ

「兵 は 召 集 と 短 期 間 の 訓 練 で 養 成 で き て も 、 士 官 は そ う は い か な い 。 士 官 の 善 し 悪 し が 兵 の 運 命 、

れる以上、そのときにそなえる準備が必要となるが、問題は士官である。

3 7 中 沢 佑

ひ い て は 海 軍 全 体 の 命 運 を 左 右 す る こ と を 考 え れ ば 、 粗 製 乱 造 は 許 さ れ な い 。まず 大 尉 十 年 、 中 佐 二 十 年 と い う の が 、 平 均 的 な 所 要 勖 育 時 間 と い えましょう」

そ れ な の に 、 日 本 海 軍 で は そ の こ ろ 、 海 軍 兵 学 校 の 採 用 人 員 は 、 百 ニ 、 三 十 人 に す ぎ ず 、予 算

あった。

の 充 実 こ そ 日 本 海 軍 の 急 務 だ 、 と 覚 悟 し て 帰 国 し た が 、さ ら に 研 究 58^5』

も 八 十 パ ー セ ン ト が 『物 的 軍 備 』、 二 十 パ ー セ ン ト が 『人 的 軍 備 』 に あ て ら れ て い るあ り さ ま で 中 沢 中 佐 は 、 『人 的

し て み て そ の 当 時 の 海 軍 総 人 員 (工 廠 そ の 他 後 方 整 備 要 員 を 含 む ) が 約 二 十 万 人 で 、 ほ ぼ 全 国

「ほ か に も 似 た 員 数 の グ ル ー ブ は あ っ た か も し れ な い が 、 坊 さ ん と 同 数 と 知 っ たときはあまりよ

の 坊 さ ん の 数 と 同 じ で あ る こ と を 知 っ て 、憮 然 と し た 。

ね」

い 気 持 ち は し な か っ た 。 な ん と な く 、 一 人 一 人 が 坊 さ ん に 見 守 ら れ ているよう な気分ですから

中 沢 中 佐 は 、 海 軍 兵 学 校 生 徒 の 採 用 人 員 を 四 百 人 に ふ や す 計 画 を 立 案 し 、 人 事 権 をもつ 海 軍 省

用を

当 局 に 具 申 し た 。 ところが、 人 事 局 長 も 教 育 局 長 も 、 ワシントン、 ロンドン 両 軍 縮 条 約 による 人

「で は 、 閣 下 。 作 戦 担 当 者 と し て 、 駆 逐 艦 一 隻 の 建 造 を 中 止 し ま す 。 そ の 分 の 予 算 で 生 ^

員 削 減 政 策 の 名 残 り で 、首 を 横 に ふ っ た 。予 算 も な い 、 と い う 。

ふやしていただきたい、 と思います」

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中 沢 中 佐 は 、 そ う 教 育 局 長 .園 田 実 少 将 に 述 べ た 。 園 田 局 長 も 考 慮 を 約 束 し 、 や が て 江 田 島 分 校を設けて採用人員をふやすことになったが、 それでも中佐の要求の半分または七割にとどまっ

「私 は 最 初 四 百 人 、 つ い で 六 百 人 案 も だ し た の だ が 、 ど う し て も 、 実 現 で き な か っ た 。 そ し て 、

た。

結 局 は 、太 平 洋 戦 争 で こ の 士 官 不 足 が 手 痛 い 打 撃 と な っ て 、 日 本 海 軍 を お そ う こ と に な っ た 。残

要 す る に 、平 時 に お い て 戦 時 を 忘 れ た の が 、 日 本 海 軍 の 敗 因 の ひ と つ で あ っ た 、 と中沢中佐は

念に思っています」

指 摘するが、中佐はまた、海軍の燃料貯蔵量にも注目した。

だ が 、 こ の 計 画もス ム ー ズ に は 運 ば な か っ た 。 石 油 そ の も の は 当 時 一 . トン十二、 三円で買える

「軍 艦 を いくら 用 意 し て も 、 石 油 燃 料 が な け れ ば 動 か な い 」 か ら で あ り 、 中 佐 は 、 そ れ ま で の 備 蓄 量 三 百 万トンを 二 倍 の 六 百 万トンに ひ き あ げ 、 米 国 か ら せ っ せ と 買 い い れ る こ と に し た 。

さ ら に 、 大 戦 艦 『大 和 』 型 の 建 造 に つ い て 、 中 沢 中 佐 は 作 戦 担 当 の 主 務 参 謀 と し て 時 速 三 十 五

の だ が 、 同 時 に トン あ た り 十 二 、 三 円 を か け て 貯 蔵 タ ン ク を つ く ら ね ば な ら な い か ら で あ る 。

中沢中佐は、終戦後、 とくに米内光政海相の登用で中将に昇進した。その識見を評価されたか

ノットの 高 速 を 要 求 し た が 、 つ い に 二 十 八ノットに お さ え ら れ て 、 中 佐 は 、 辞 表 を 提 出 し た 。

ら 1 て い な い 。 (わ ば #ブ ラ ン メ ー ヵ ー " と し て の 能 力 を か わ れ 、 中 将 自 身 も 自 分 の 職 域 を 自 覚

ら だ が 、 中 沢 中 将 の 主 要 経 歴 は ほ ぼ 軍 令 部 勤 務 に 終 始 し て い る 。 戦 闘 場 面 で 勇 戦 の 機 会 は 、与え

中 沢 佑 39

のだが、

¢ ¢あ 5 る 軍 備 計 画 を 実 現 で .き る メ ド を 失 っ た 。

し て い た 。 だ か ら こ そ 、 軍 令 部 作 戦 参 謀 と し て 、 『人 的 軍 備 』 と 『物 的 軍 備 』 の 充 実 に 努 力 し た

「私 は 、 国 防 の 職 務 は た ん な る 事 務 で は な い 、 と 考 え て い ま し た 。 信 念 が な け れ ば な ら な い 。 信

中 沢 中 佐 は 昭 和 十 一 年 十 二 月 、 大 佐 に 進 級するとと も に 連 合 艦 隊 先 任 參 謀 に転出した が 、 一年

念 が も て な い の に 、 そ の 職 に と ど ま る の は よ く な い … …」

後 に は 軍 令 部 に も ど り (第 一 部 第 二 課 長 )、 昭 和 十 四 年 十 一 月 、 第 一 部 第 一 課長と な っ た 。

中 沢 大 佐 は 、 再 び 『人 的 軍 備 』 と 『物 的 軍 備 』 を ととのえる 熱 意 に もえ、 燃 料 の 貯 蔵 量も 一千

"作 戦 部 作 戦 課 長 " で あ り 、 最 も 直 接 に 海 軍 戦 略 の 責 任 をおぅ 高 級 幕 僚 である。

ッ 〇パ大 戦 、 とくにドィッ 軍 の 快 進 撃

万 ト ン に 増 加 し た 。 が 、 同 時 に 、 海 軍 の 戦 略 方 針 を 多 数 国 と の 戦 い を 戒 め た 『国 防 方 針 』 にのっ

とり、そこからは み だ . さぬよぅにつとめた。 ところ が 、支 那 事 変 の 泥 沼 化 と 、前 年 に 開 始 さ れ た ョ ー

は 、 日 本 陸 海 軍 の 思 想 に 微 妙 な 刺 激 を 与 え た 。 海 軍 大 将 .米 内 光 政 の 内 閣 は 約 半 年 で 倒 れ (昭 和

十 五 年 一 月 〜 昭 和 十 五 年 七 月 )、 昭 和 十 五 年 七 月 二 十 二 日 に 第 二 次 近 衛 文麿 内 閣 が 成 立 す る と 、

そ の 五 日 後 、 七 月 二 十 七 日 に は 、 そ の こ ろ の 日 本 の 進 路 を き め た 『世 界 情 勢 の 推 移 に 伴 ふ 時 局 处

こ の 『要 綱 』 は 、 い わ ば "武 力 南 進 ,政 策 を き め た も の だ が 、 中 沢 大 佐 は 陸 軍 側 と 協 議 をかさ

理 要 綱 』 が 、決 定 さ れ た 。

ね て 、修 文 に 努 力 し た 。

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「も と も と 、 海 軍 に は 南 進 論 が さ か ん だ っ た が 、 私 は 、 と く に 当 時 の 第 一 部 長 直 属 .中 原 義 正 大

いた。つまり、 日本が数千年の伝統を もち、試 練 を く ぐ り ぬ け

て き た 漢 民 族 を 征 服 し よ う と し た り 、 あ る い は 中 国 大 陸 に 大 挙 し て 移 住 し よ う と す る の は 、 ただ

佐 の 所 見 に 同 意 も し 、感 動 も し て

そ れ よ り も 、 地 域 が 広 く 、 人 口 が 少 な く 、 資 源 が 豊 か な 東 南 ア ジ ア 各 地 に 、武 力 に よ る 政 治 的

抵抗をうけるだけだ。

ある、 という所論だった」

進出ではなく、開発と相互福祉を目的とする経済的進出をすることが、 日本を発展させる道でも

中原大佐は、自身の見解を実現させるために、わざわざ令嬢を南洋興発会社員にとつがせて、 西 部 ニュー ギ ニ ア に 永 住 する 覚 悟 を も た せ た 。 中 沢 大 佐 も 、 だ か ら 、 『要 綱 』 の 作 案 段 階 で は 、 し き り に 武 力 進 出 を 規 定 しようとす る陸軍側 の主張に抵抗して、あるいは語句をやわらげ、 あるいはただし書きをつけたりした。その成果は、

「… … 支 那 事 変 の 処 理 未 だ 終 ら ざ る 場 合 に 於 て は 、 第 三 国 と 開 戦 に 至 ら ざ る 限 度 に 於 て 施 策 す る

次 の ような 表 現 に も 、 みられる。

も、内 外 諸 般 の 情 勢 特 に 有 利 に 進 展 す る に 至 ら ば 、対 南 方 問 題 解 決 の 為 武 力 を 行 使 す る こ と も あ

だが、中 沢 大 佐 の 〃 工 作 " は失敗だった。

4 1 中 沢 佑

大 佐 も 「私 の 公 的 生 活 中 の 最 大 の 失 敗 」 だ と 回 想 し て い る が 、 右 の 引 用 文 ひ と つ を と っ て み て

「第 三 国 と 開 戦 に 至 ら ざ る 限 度 」 「情 勢 特 に 有 利 に 進 展 」 な ど の 語 句 は 、 一 種 の 行 動 の "歯 ど め ,

も、表 現 は 実 際 に は あ い ま い で あ っ た 。

の 意 味 に なっている。 し かし、 そ の ょ う な 条 件 も 、厳 密 な 内 容 の 規 定 が な い の で 、 どのょうにも

第 三 国 と 戦 わ な い 、 と い い な が ら 、 南 方 へ の 武 力 行 使 は 、植 民 地 を も つ 米 、英 、 ォ ラ ン ダ と の

主観的に判断できる。

開 戦 を 必 須 とする し 、 情 勢 が 「特 に 有 利 」 か ど う か は 、 判 断 規 準 が な い だ け に 、 い つ で も 有 利 と 考 え る こ と も でき る か ら である。

中 沢 大 佐 は 、 不 安 は 感 じ な が ら も 、 「己 の 常 識 を も っ て 判 断 」 し て 、 南 方 武 力 進 出 は め っ た に

しかし、 さらに九月二十三日の北部仏印進駐、九月二十七日の日独伊三国同盟と事態が進むと、

実現しないだろう、 と期待した。

中沢大佐は再び、職務にたいする責任を痛感した。

を か さ ね な が ら 、 きびしく

北 部 仏 印 進 駐 は 、 実 質 的 に は 、 海 軍 が 本 義 と す る "平 和 進 出 " に 反 す る "武 力 進 出 " で あ り 、

「ひ と く ち に い え ば 、 日 露 戦 争 の 直 後 に 制 定 さ れ 、 さ ら に 数 次 の ^

日独伊三国同盟は、 とくに重大であった。

多 数 国 と の 戦 い を 禁 止 し て い る 『国 防 方 針 』 に 違 反 す る ポ リ シ — の わ け で す 。 つ ま り 、 前 年 に 米

内 海 相 、 山 本 五 十 六 次 官 、井 上 成 美 軍 務 局 長 が ト リ ォ を 組 ん で 阻 止 し た 三 国 軍 事 同 盟 案 の 復 活 で

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すが 、 そ の 性 質 は 、 は る か に 日 本 に と っ て 危 険 に な っ て い る 。前 年 の 提 案 は ソ連攻撃を主旨にし ていたが、 こんどはソ連と結び、 ョーロッパはドィツ、 アジアは日本が主導権をにぎる体制をつ

三 国 同 盟 案 に つ い て は 、 中 沢 大 佐 も 直 属 の 上 司 で あ る 第 一 部 長 .宇 垣 經 少 将 も 、 反 対 で あ っ た 。

く ろ う と するね ら い で す 。 し か し 、そうなれば 、 日 本 は 米 英 とまっ 向 か ら 対 立 す ることになる」

海 軍 大 臣 .吉 田 善 吾 大 将 も 、 し だ い に 海 軍 部 内 に も 同 盟 賛 成 の 声 が 高 ま る の を 心 配 し て 、 しば

吉 田 海 相 は 心 労 で 健 康 を 害 す る よ う に な り 、 九 月 は じ め 、 軍 務 局 長 .阿 部 勝 雄 少 将 が 中 沢 大 佐

しば、中沢大佐を呼んで情勢報告をもとめた。

「中 沢 、 あ ま り 大 臣 に 心 配 を か け ん よ う に し た ほ う が い い 。 だ い ぶ 、 お 疲 れ のようだ」

に注意した。

中 沢 大 佐 は 、 憤 然 と し て 、 阿 部 局 長 を 注 視 し た 。 阿 部 局 長 は 慎 重 な 性 格 で あ る だ け に 、あまり

「こ れ は 、 閣 下 の お 言 葉 と も 思 え ま せ ぬ 」

「閣 下 。 い ま や 国 家 危 急 存 亡 の 重 大 時 期 で す 。 こ の さ い に 大 臣 に し っ か り し て い た だ か な け れ ば 、

はっきりした態度を示さない。

悔いを千載に残します。どうか、閣下もいま一段のご努力をして大臣をはげましていただきたい

三 国 同 盟 の 効 果 の 見 通 し に つ い て は 、 当 時 、 米 英 を 硬 化 さ せ る か 、それとも 米 英 が 萎 縮 す る か 、

と思います」

という両論が対立していた。同盟締結論者は後者だが、宇垣少将、中沢大佐ら軍令部の作戦担当

い ぜ ん と し て 、 宇 垣 部 長 、 中 沢 課 長 の コンビの 結 束 は 固 く 、 同 盟 締 結 は 海 軍 の 反 対 で 難 航 を つ

次官も豊田貞次郎中将に代わった。

づ け て い た 。 だ が 、 軍 令 部 次 長 .近 藤 信 竹 中 将 は 、 ド ィ ッ 留 学 の 体 験 も あ っ て や や 親 ド ィ ッ 色 が 強 く 、さらに 海 軍 省 の 新 幹 部 た ち も 、軟 化 の 気 配 を み せ た 。

「も う だ (た い や る こ と に し て は ど う か ね 」 と 、 及 川 海 相 は 宇 垣 少 将 に も ら し た こ と も あ る 。



頼 し て みると、 吉 田 海 相 は 予 想 外 に 心 身 の 疲 労 が激しく、 九 月 五 日 、 及 川 古 志 郎 大 将 と 交 代 し た 。

だ が 、 阿 部 軍 務 局 長 と 別 れ た あ と 、 中 沢 大 佐 が 医 務 局 長 .中 野 太 郎 少 将 に 吉 田 海 相 の 診 療 を 依

が あ え て 、疲 れ て い る 吉 田 海 相 に 奮 起 を 期 待 し た ゆ え ん で も あ る 。

い い か え れ ば 三 国 同 盟 は 「勝 利 な き 戦 い 」 を も た ら し か ね な い の で あ り 、 さ て こ そ 、 中 沢 大 佐

な い 。 つまり、 戦 争 終 末 点 を 見 出 せ ぬ 戦 い に な る わ け で す 」

り 、 あ る い は 少 な く と も 味 方 機 の 制 圧 下 に お か れ ぬ 限 り 、敗 北 し な い 。 が、 日 本 に はその能力が

点 を 見 出 す 。 これ が 、戦 争 の 終 末 点 だ が 、 米 英 両 国 と 戦 う 場 合 、相 手 は そ の 領 土 を 占 領 さ れ ぬ 限

て敗北した、 ということに 非 常 な 感 銘 を う け た 。.自 分 の 能 力 の お よ ぶ 範 囲 内 に 敵 を 屈 伏 さ せ る 焦

「私 は 、 海 軍 大 学 校 の 学 生 の と き 、 ナ ポ レ ォ ン 戦 史 を 読 み 、 ナ ポ レ ォ ン が 戦 争 の 終 末 点 を 見 失 っ

る、 と 判 定 し て い た 。

者 は 、 三国同盟は必ずや米英を刺激し、 その態度を硬化させ、 やがては対米英戦の可能性も強ま

中 沢 佑 43

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のが常識だが、 日独伊三国同盟の場合は、 日本の參戦は条件づきになっていた。

般 に 軍 事 同 盟 で は 、同 盟 国 が 戦 争 す れ ば 、他 の 同 盟 国 も 自 動 的 に そ の 相 手 と 交 戦 す る 義 務 を お う

それが同盟締結への傾斜をなめらかにしたこともあって、 やがて九月二十七日、調印となった。 「帝 国 に と り 、 将 来 祝 杯 と な る か 、 苦 杯 と な る か 、 わ か ら ぬ が 、 自 分 は 軍 令 部 の 当 事 者 と し て 、

宇 垣 ^ : は、 調 印 の 祝 宴 が 外 相 官 邱 で 開 か れ る 夜 、 中 沢 大 佐 に そ う い っ て 、 外 相 官 邱 に む か っ

責任を明らかにするうえから行くのだ」

中 沢 大佐は、 しかし、 すでに調印と同時に二度めの辞意を表明していた。 まだ第一課長に就任

た。結 局 は 、宇 垣 少 将 も 上 司 の 意 見 一 致 を み て は 、同 意 せ ざ る を 得 な か っ た の で あ る 。 してから一年に もならな い が 、 第 一 回 め の 辞 意 のさいと同 じ く 、 「わ が 職 責 に 自 信 な い 」 以 上 、 とどまるべき と 覚 悟 し た か ら である。もっとも、この きと の辞職については、中 ある。中 将 は 、いう。

「し ば し ば 、 開 戦 ま で の 陸 軍 部 内 の 〃 下 剋 上 , 現 象 が 指 摘 さ れるが、 そ の 傾 向 は 海 軍 に も あ っ た 。

職に ではない、 沢中将には多少の感情が

し た 信 念 も な く 、 実 際 に は 出 世 欲 と 自 己 顕 示 欲 の た め に 、威 勢 の ょ い 議 論 を は き 、 ある い は 下 僚

長 年 の 泰 平 に な れ て 心 身 の 習 練 を 忘 れ 、稟 議 制 に 毒 さ れ て 下 僚 の 起 案 を ゥ の み に し た り 、 確 固 と

その意味で、 その後の歩みをふりかえるとき、 はたして、 あのとき、私と宇垣さんがやめたの

を 甘 や か す 上 層 者 も 、 いた。

が ょ か っ た か ど う か 、 考 え 'こ む と き も あ り ま す 。

私 と し て は 、 あ の ま ま 第 一 課 長 を つ と め て も 、 そ れ は 自 己 の 信 念 を 欠 い て い る だ け に 、郵 便 局

しかし、中 沢大佐としては、 と り あ え ず は 「わ が良心に照らして 長 居 は できぬ」 といぅ 思 い が

で 切 手 を 売 るょぅな 事 務 をするにと ど ま る 。 こ れ で は 国 防 の ご 奉 公 は で き ぬ 、 と 思 っ た の だ が 、 私と宇垣さん が 協 力すれば、 太 平 洋 戦 争 の 開 幕 は 防 げ たかもしれぬとも、 思 え る … 」 …

サイ. ハンは、 そ こ に 航 空 基 地 を つ く ら れ れ ば 、 直 接 に 日 本 本 土 が 米 爆 撃 機 の 行 動 半 径 内 に 含 ま

っきり 失 敗 が 認 め ら れ 、 日 本 軍 は 急 ビ ッ チ で 圧 迫 さ れ て い っ た 。 そして六月 十 五 日、 米 軍 は マリアナ 群 島 サ イ パ ン 島 に 殺 到 し た 。

ニミッツ

太平洋戦線では、 昭和十九年にはいると、 マッカーサー軍のニユーギニア北進の歩度は早まり、 軍 は マ ー シ ャ ル 群 島 にとりつき、 ビ ル マ で 開 始 さ れ た 『イ ン パ ー ル作戦』 は 四 月 に は は

タリア

昭和十八 年 六月と い え ば 、 前 月 に ア ッ ツ 島 の 守 備 隊 が 玉 砕 し 、 ヨ I 〇 ッパ戦線では米英軍がイ 進 攻 を 準 備 し て い る さ な か で 、戦 勢 は 明 ら か に 連 合 軍 側 の 有 利 を 示 し て い た 。

も、 中 沢 少 将 に と っ て は 長 く 坐 れ る も の で は な か っ た 。

いかに中沢少将が作戦幕僚として高く評価されていたかを示す人事であるが、第一部長の椅子

人 事 局 長 と な っ た が 、翌 年 、 昭 和 十 八 年 六 月 、 こ ん ど は 第一部長として"軍 令 部 に か え っ て き た 。

太 平 洋 戦 争 の 開 幕 は 、 第 五 艦 隊 参 謀 長 と し て 迎 え 、昭 和 十 七 年 十 一 月 、少 将 に す す ん で 海 軍 省

胸を占め、 昭 和 十 五 年 十 月 、 巡 洋 艦 「足 柄 」 艦 長 に転出した。

4 5 中 沢 佑

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れ る だ け に 、 〃太平洋の防波堤〃 と し て の 確 保 の 必 要 が 強 調 さ れ て い た 。 陸 軍 は 〃 進 攻 不 落 , の 防 備 を ほ ど こ さ れ て い るとも、 主 張 し て い た 。 陸 軍 は 、敵 上 陸 と と も に 直 ち に 増 援 部 隊 を 送 る 計 画 を た て た が 、 十 九 日 、 二十日の両日にわた

軍 令 部 総 長 .嶋 田 繁 太 郎 大 将 が 戦 況 を 奏 上 す る と 、 天 皇 は 、 サ イ パ ン 島 奪 回 の 努 力 を 指 示 さ れ

る 「マ リ ァ ナ 沖 海 戦 」 で 小 沢 機 動 艦 隊 が 敗 退 す る と 、 増 援 の 可 能 性 は う す れ た 。

「ま こ と に 陛 下 の ご 心 配 は 恐 れ 多 い が 、 陸 軍 側 と 協 議 し て み る と 、 サ イ パ ン 奪 回 に は 、 少 な く と

た。

も ニ 個 師 団 を 投 入 す る 必 要 が ぁ る 。 し か し 、 そ の ニ 個 師 団 の 兵 員 と 資 材 を 揚 陸 す る に は 、 まず九 日 〜 十 日 間 は サ イ パ ン の 制 空 権 を 確 保 し な け れ ば な ら な い 。 そ の 力 は 、海 軍 に な か っ た 」 天 皇 は 、 二回にわたって、奪 回 作 戦 は い か が か 、 という主 旨 の 下 問 を さ れ た 。 天皇が同一問題 につい て 再 度 下 問 さ れ る 例 は か つ て な か っ た 。軍 令 部 は 驚 愕 し た が 、 いかに考えても、奪回作 戦

六 月 二 十 四 日 、 嶋 田 軍 令 部 総 長 と 参 謀 総 長 .東 条 英 機 大 将 は 、 サ イ パ ン 島 奪 回 の 断 念 を上奏し

成 功 の 確 算 は 、成 立 し な い 。

梨 本 宮 守 正 陸 軍 元 帥 、伏 見 宮 博 恭 海 軍 元 帥 、 杉 山 元 陸 軍 元 帥 、 永 野 修 身 海 軍 元 帥 の 四 人 が 会 議

た 。 し か し 、 天 皇 は 、直 ち に は 御 裁 可 さ れ ず 、 二十五日、 元 帥 会 議 の 召 集 を 下 命 さ れ た 。

天 皇 は 、 は じ め て サ イ パ ン 島 に 震 部 隊 を 送 る こ と を 、断 念 さ れ て 両 総 長 の 上 奏 を 裁 可 さ れ た

し た (も う 一 人 の 陸 軍 元 帥 、 閑 院 宮 載 仁 親 王 は 欠 席 )。 結 論 は 、 両 総 長 の 上 奏 支 持 で ぁ っ た 。

が 、 中

^ 少 将 は そ の 結 果 を 知 る と 、聖 旨 に そ え な か っ た 責 任 を 痛 感 し て 、 三 度 目 の 辞 意 を 表 明 し "

第 一 線 に 出 て 最 後 の ご 奉 公 を し た い と 、嶋 田 総 長 に 申 し 出 た 。

別 命 あ る ま で 現 職 務 に 精 励 せ よ 、 と い う 指示をうけ、十 二 月 ま で 第 一 部 長 の 職 に と ど ま っ た が 、

中 沢 少 将 と し て は 、 「天 皇 の 幕 僚 と し て 天 皇 の 命 令 を 実 行 で き な い 責 任 」 を 痛 感 し て 、 一 日 も 早

そ の 後 、 中沢少将は昭和十九年十二月に第二十一航空戦隊司ムエ目、 昭 和 二 十 年 五 月 に 高 雄 警 備

い転出を願いつづけた。

府參謀長となって、終戦をむかえた。

か つ て 、 中 沢 少 将 の 後 任 、 後 任 と 歩 ん だ 富 岡 定 俊 少 将 が 、 次 の よ う な "中 沢 評 " を 試 み た こ と

「もし、 日本海 軍 の提督の中で、 最 も 有 能 で 最 も 潔 癖 な 人 物 を 選 ぶ と す れ ば 、 そ れ は 中 沢 中 将 に

がある。

ち が い な い 。幕 僚 と し て 抜 群 の 存 在 で あ り 、 私 心 は な く 、 そ の 出 処 は 水 ぎ わ だ っ て い る 。 しかし、

あまりに 潔 癖 す ぎ 、 ま た 自 己 の 信 条 に 忠 実 す ぎ て 、 い つ も 、 い ま ひ と は た ら き を 期 待 さ れ な が ら 、

あるいま、そのように 厳 格 で 潔 癖 な 幕 僚 が 住 み き れ な か っ た 要 因 が 、 海 軍 の 組 織 と 体 質 の 中 に

そ の 職 を 去 っ て い か れ た 。海 軍 の た め に も 残 念 だ っ た 」

ひそんでいたのかもしれない。

辻 政 信

攻略をめざして、 ル

半島を

注 意 す べ き 男

「… … 辻 中 佐 、 第 一 線 よ り 帰 り 、 私 見 を 述 べ 、 色 々 の 言 あ り し と 云 ふ 。 此 男 、矢 張 り 我 意 強 く 、

ガボー

ま っ し ぐ ら に マ レ ー

小 才 に 長 じ 、所 謂 こ す き 男 に し て 、 国 家 の 大 を な す に 足 ら ざ る 小 人 な り 。使 用 上 也」

シ ン

と 、 第 二 十 五 軍 司 ム 蒼 .山 下 奉 文 中 将 は 、 日 誌 に 書 い た 。 昭 和 十 七 年 一 月 三 日 、第 二 十 五 軍 が

南 下 す る 途 中 、 ク ァ ラ ル ン プ | ル の 北 方 カ ン パ ル の 敵 を 攻 め あ ぐ ん で い た と き で あ る 。



知る

と 、

大 声 で 「辞 め さ せ て

ほ し い 」 と 斗 ん だ

増 強 の 依 頼 で あ り 、

記 述 に あ る 「辻 中 佐 」 は 、 第 二 十 五 軍 作 戦 主 任 参 謀 .辻 政 信 中 佐 の こ と で 、 辻 参 謀 は 、 第 五 師

とは、自 分 の 意 見 が採用されない さす。



団 に 同 行 し て 、 カ ン パ ル 攻 撃 を 指 導 し て い た 。 辻 参 謀 が 述 べ た "私 見 " は 兵 力

こ と を

"色 々 の 言

カンパルは、 そ の 翌 日 、陥 落 し た 。 あ え て 辻 参 謀 が職を賭して増兵を要求せねばならぬほどの 必要は、 なかったわけである。

そ の 意 味 で 、 山 下 中 将 が 辻 参 謀 の 意 見 具 申 を し り ぞ け た の は 、適 切 で あ っ た 。 が、 中将の辻參





官をわずらわしい業務から解放する。

分 身 型 け い わ ば 、指 揮 官 の 分 身 と し て 、 自 ら も 判 断 し て 、指 揮 官 を 補 佐 す る 。

して、1

書 記 官 型 “た ん に 指 揮 官 の 意 思 を 伝 達 す る だ け で 、 自 分 で は 判 断 し な い 。 も っ ぱ ら 雑 務 を 処 理

參 謀 、 つ ま り 指 揮 官 の 補 佐 役 は 、 古 来 、次 の 四 つ の タ ィ プ に 分 類 さ れ る と い わ れ る 。

ろ 、參 謀 と し て の 資 質 に 欠 け る 存 在 と み て い た か ら で あ る 。

「矢 張 り 」 と、 山 下 中 将 が う な ず い た ょ う に 、 中 将 は か ね て か ら 辻 参 謀 の 言 行 を 疑 問 視 し 、 む し

なぜか?

てぃた。 … そ の 迁 参 謀 に た い し て 、 山 下 中 将 は 「ご す き 男 」 「小 人 」 「使 用 上 注 意 す べ き 男 」 と 論 評 す る 。

変 、 ノ モ ン ハ ン 事 件 な ど で 、 "武 勲 〃 を た て 、 と く に そ の 勇 敢 さ と 率 直 さ と 銳 敏 さ が 、 賞 賛 さ れ

う 令 名 が 高 か っ た 。幼 年 学 校 を 二 番 、陸 軍 士 官 学 校 を 首 席 、陸 軍 大 学 校 を 三 番 で 卒 業 し 、 支那 事

表 し 、 "作 戦 の 神 様 " の 賛 辞 を う け る が 、 す で に そ れ ま で に も 、 陸 軍 部 内 で は 最 優 秀 な 參 謀 と い

辻 參 謀 は 、 シ ン ガ ポ ー ル 攻 略 後 、 「〇 〇 参 謀 」 の 名 で 新 聞 に マ レ ー 、 シ ン ガ ボ ー ル 作 戦 記 を 発

謀批判は、 いささか異常であった。

4 9 辻 政 信





独 立 型 “指 揮 官 の 幕 僚 で あ る か ら 、 指 揮 官 の 立 場 を 反 映 するよう努める が 、分身ではなく独立 の 人 格 と し て 判 断 し 、 指 揮 官 を 補 佐 する。 準 指 揮 官 型 “ ③ よ り も 権 限 が 大 き く 、 指 揮 官 と の 必 然 的 な 関 係 は な く 、 と き に 指 揮 官 としての 役割もはたす。

ノ精 神 ヲ 諸 種ノ圧 迫 ヨリ解 放 シ、 ソノ意思ノ独立、自 由 ヲ確 保 シ 、 コレ

て 、た 。

こ の 四 つ の タイブのう ち 、 ② は 米 軍 、 ③ はドイツ 軍 、 ④ はとくにブロ シ ャ 軍 参 謀 長 にその典型

「(幕 僚 ノ任務ハ)^#

を 発 見 で き る が 、 日 本 陸 軍 の 場 合 、 幕 僚 と は 次 のような 存 在 たるべし、 と定義され

ラヲ輔ケテ? ^ ノ 天 稟 ヲ 遺 憾 ナ ク ^ ; シ、 ソノ 将 徳 ヲ 氣デシ、 以 テ 隸 ノ権 威 ヲ 発 揚 セシムルニ

ド イ ツ の 戦 略 家 フ ォ ン .ク ラ ウ ゼ ウ イ ッ ツ の 著 書 『戦 争 論 』 に は 、 「幕 僚 は 、 籍 官 の ア イ デ

在 リ 」 (統 帥 参 考 書 )

ア を 命 令 に 作 り か え る の で あ る 。 こ の さ い 、 た ん に ^ ^ 官 の アイデアを^^ 下 の 部 隊 に 伝 達 す る だ け ではなく、 あ ら ゆ る 細 部 事 項 の 作 業 を し て 、多量の繁 雑 な 業 務 か ら 指 揮 官 を 解 放 す る の で あ

「統 帥 参 考 書 」 の 定 義 は 、 こ の ク ラ ウ ゼ ウ イ ッ ツ の 見 解 の "漢 語 訳 " に ひ と し く 、 い わ ば 「書 記

る 」 と、 述 べ て い る 。

才 を 作 る ことでは な く 、 能 率 と 常 識 を ^

できる 通 常 人 を 作 ることである」 と強調したごとく、

さ ら に 第 一 次 大 戦 後 のドイツ 陸 軍 再 建 を 担 当レ た フ ォ ン .ゼークト将軍が、「 幕僚の 養求 ^ 天

官 型 」 と 「分 身 型 」 の 混 合 体 を 求 め て い る 。

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い わ ば 、 巨 大 か つ 複 雑 な 組 織 体 と し て の 近 代 軍 で は 、 幕 僚 は 、 あ く ま で ^ 4 官 の "チ ヱ 袋 " では あ る が 、 ワキ 役 に 徹 し な け れ ば な ら な い 、 と み な さ れ る 。

辻 参 謀 の 場 合 は 、 こ の "参 謀 道 " を ふ み は ず し て い る 、 と 山 下 中 将 は 、 観 察 し た 。

ふ つ う は 中 学 校 ニ 年 を 終 え て 幼 年 学 校 に は い る が 、辻 参 謀 は 、家 庭 が 貧 し か っ た の で 、 尋常高

辻 參 謀 の 評 判 は 、 ょ か っ た 。 そ の 処 世 と 言 動 は 、 ま さ に "武 人 の 鑑 " と さ え 、 賛 嘆 さ れ て い た 。

等 小 学 校 の 高 等 科 二 年 生 で 、名 古 屋 幼 年 学 校 を 受 験 し た 。 学 力 不 足 の た め 補 欠 と な っ た が 、 学課

し か し 、 辻 参 謀 は 日 曜 日 も 外 出 せ ず に 勉 学 に は げ み 、 前 述 の ご と く 、幼 年 学 校 、 さ ら に 士 官 学

合格者の一人が体格検査ではねられたおかげで、入校できた。

校 も 優 等 で 卒 業 し た 。 そ し て 、 青 年 将 校 と な っ て か ら も 、 ひ た す ら 「刻 苦 勉 励 」 の 日 々 を 送 っ た 。

辻参謀がいかに享楽や ぜ い た く を き ら い 、 ひたすら質実かつ剛健に徹しょうとしていたかのエ

た すぐ: : ;む 。 特 別 に ニ 重 革 、 大 型 の 錤 を う た せ た ク ッ を 注 文 し 、

サーベル も軍 刀仕 立 て の 別 製 と し た 。 つ ね に 「実 戦 に そ な え る 」 心 構 え の た め で あ る 。

いつも走りまわるので、 クッが

戦 略 書 の 勉 強 に は げ ん だ 。机 に も た れ 、毛 布 を 頭 か ら か ぶ っ て ニ 、 三時 間 眠 る だ け で あ る 。

西 郷 隆 盛 な ど 、尊 敬 す る 偉 人 の 肖 像 を ビ ン で と め 、 毎 日 、 ほ と ん ど フ ト ン に 寝 る こ と な く 、 戦 術

少 尉 に な っ て 配 属 さ れ た 金 沢 の 歩 兵 第 七 連 隊 で は 、 宿 舍 の 部 屋 の 壁 に ナ ポ レ オ ン 、 ビスマルク、

ビ ソー ド は 、 数 多 く 伝 え ら れ て い る 。

5 1 辻 政 信

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行 軍 の と き は 、 わ ざ わ ざ 背 の う に 煉 瓦 を い れ て 重 量 を増した。 「将 校 は 兵 以 上 の 困 苦 を克 服 す べ き だ 」 か ら で あ り 、剣 道 の 練 習 に お い て も 、 辻 参 謀 は ひ と き わ 重 い 竹 刀 を ふ っ た 。こ れ ま た

陸 大 を 優 等 で 卒 業 す る と 、 当 時 、優 等 生 は 特 権 的 に 海 外 留 学 が 認 め ら れ て い た が 、辻参謀はあ

「実 戦 本 位 の 修 行 」 の た め で あ る 。

え て そ れ を 望 ま ず 、 そ の こ ろ は 陸 大 出 の 将 校 が さ け て い た 士 官 学 校 の 生 徒 隊 中 隊 長 に就任した。 ま た 、 エ リ ー ト 青 年 将 校 と い う の で 、 少 な か ら ぬ 将 官 か ら 縁 組 を 申 し こ ま れ た が 、 すべてけとば こ れ ら の 事 績 は 、 辻 参 謀 の 人 気 を 高 め た 。 とかく 安 易 な 出 世 を 望 む の が 、 当 時 の 秀 才 将 校 の 一

し、郵 便 局 長 の 娘 を 妻 に 迎 え た 。

般 的 姿 勢 だ と み ら れ て い た だ け に 、辻 参 謀 の 古 武 士 に も 似 た 厳 正 な 態 度 は 群 を ぬ い て 目 立 ち 、上 官 、 同 僚 、 とくに 部 下 の 下 士 官 、 兵 た ち に が 、 っ いされた。

の処分のきっかけをつくったことがある。

れ た こ と が あ る が 、そ の前、迁 中 隊 長 は 士 官 ^

生 の 一 人 を "ス パ ィ " に 利 用 し て 、 過 激 派 将 校

山 下 中 将 は 、 ニ .ニ 六 事 件 で 、 叛 乱 軍 将 校 が 師 事 す る 形 の , , 皇 道 派 幹 部 “ とみなされて左遷さ

誉 心 、あるいは計算された功利主義に裏打ちされているのではないか。

に な り 、 そ の 教 育 役 を つ と め た い と 自 薦 し た 結 果 で あ る 。 辻 参 謀 の め ざ ま し い 言 動 は 、 な に か名

謀が、 士官学校の中隊長に就任したのは、第四十八期生として三笠宮崇仁親王が入校されること

だが、 山 下 中 将 を ふ く め て 陸 軍 部 内 の 一 部 は 、 こうい っ た 辻 參 謀 の 挙 動 に 首 を か し げ た 。辻参

?'

5 3 辻 政 信

む ろ ん 、辻 中 隊 長 の 行 動 は 、軍 部 内 の 不 穏 分 子 を い ち 早 く 探 り だ し 、軍 の 統 制 を 確 保 す る と い

お そ ら く 、 山 下 中 将 の 胸 中 に は 、 こ の 事 件 で ま す ま す 辻 参 謀 に た い す る 不 審 と 不 信 の 念 が 、色

う 名 分 に も と づ く が 、利 用 し た 候 補 生 の 救 済 が 不 十 分 な た め に 、辻 中 隊 長 は 批 判 さ れ た 。

ン事件であった。

濃 く な っ た の で あ ろ う が 、 さ ら に 辻 参 謀 の 參 謀 と し て の 能 力 に 首 を か し げ さ せ た の は 、 ノモンハ

ノモンハン 事 件 は 、 昭 和 十 四 年 五 月 、 外 蒙 古 の ハルハ河 北 岸 で 、 日 本 側 と 外 蒙 古 側 の 騎 兵 が 接

『ノ モ ン ハ ン 』)。

そ こで、 関 東 軍 首 脳 部 が 慎 重 さ を 主 張 し た に も 拘 ら ず 、辻参 謀 は 作 戦 主 任 参

事 件 が 発 生 す る と 、 辻 参 謀 は 「ひ と つ 大 戦 果 を あ げ て 中 央 を 喜 ば せ て や れ 」 と 考 え た (辻 政 信

ぃた。

触 し て 発 生 し た 〃 日 ソ 戦 " であるが、 このとき、関東軍参謀であった辻少佐の行動はきわだって



謀 服 部 卓 四 郎 中 佐 と と も に 、強 硬 に 攻 撃 を 提 案 し た 。

「侵 犯 の 初 動 に お い て 、 敵 を 徹 底 的 に せ ん 滅 す る 必 要 あ り 」 と い う わ け で 、 し か も 「い ち い ち 中

当 時 の 軍 人 の 気 風 と し て 、 と に か く 勇 ま し さ が 尊 ば れ た 。 孔 子 が 説 い た 「匹 夫 の 勇 」 と「大 勇 」

央の認可をうける必要なし」 と強調した。

と の 区 別 は 深 く 配 慮 さ れ ず 、威 勢 の 良 さ と 音 声 の 大 き さ が 議 論 を 制 圧 す る 傾 向 が あ っ た 。 こ の 場

合 も 、 結 局 は 辻 参 謀 の 大 音 声 が 関 東 軍 司 令 部 の 決 意 と な っ た が 、.ノ モ ン ハ ン 事 件 の 結 果 は 、 戦 死

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一 万 八 干 人 を 数 え る 文 宇 ど お り に 惨 と し た 敗 北 で あ っ た 。 主 な 原 因 の ひ と つ は 、 「(敵 が )まさか

う に 、辻 参 謀 の 敵 に た い す る 過 小 評 価 に あ っ た 。

あ の よ う な 兵 力 を 外 蒙 古 の 草 原 に 展 開 で き る も の と は 、夢 に も 思 わ な か っ た 」 と自ら述懐するよ

ビールビンにつめた



しかも、戦 闘 に 参 加 し た 九 人 の 連 隊 長 の う ち 、 三人が戦死、 三人が引責自決し、 三人が解任さ れ た が 、 辻 参 謀 は 一 人 の 連 隊 長 が 前 線 で ビ ー ル を 飲 ん で い た (注 、 事 実 は

当 時 、 病 院 に 収 容 さ れ た "捕 虜 ,将 校 に 辻 参 謀 が 自 決 を う な が し 、 い や が る 相 手 の 号 泣 の 声 が

を 飲 ん だ の を 誤 認 し た ) と 非 難 し 、 ま た 、捕 虜 と な っ て 送 還 さ れ た 将 校 に 自 決 を 強 要 し た 。

山下中将は、 こういった辻参謀にまつわる情報、噂に眉をしかめた。

室外に聞こえた、 と伝えられている。

勇 戦 敢 闘 は 、 軍 人 の 覚 悟 で あ る 。 指 揮 官 が 第 一 線 で 誤 解 さ れ る よ う な 行 動 を と る こ と も 、 つつ

「生 き て 虜 囚 の 辱 し め を う け ず 」 と い う の が 、 日 本 陸 軍 の 誇 り で も あ る 。

しむべきである。

そ の 意 味 で は 、 辻 参 謀 が 「見 敵 必 戦 」 の 勇 心 を ひ れ き し 、 第 一 線 に 出 か け て 負 傷 し な が ら 作 戦 指 導 に は げ み 、 さ ら に は "不 覚 , の 将 校 に 自 決 を 強 要 し た の も 、 い わ ば 陸 軍 精 神 に か な っ て い て 、

しかし、 いかに自らの覚悟が確かであろうとも辻参謀の他人を責める態度はあまりに厳格であ

あながち批判の対象にはなり難い。

り 、 あ た か も 作 戦 参 謀 と し て の 自 ら の 非 を お お う た め に 、 他 人 を 責 め て い る 印 象 を う け る … …。

5 5 辻 政 信

山 下 中 将 が 、 マ レ ー 半 島 進 撃 の 途 上 で 、 自 分 の 意 見 が い れ ら れ ぬ な ら 辞 め る 、 という 辻 参 謀 の

な 背 景 が あ っ た わ け で あ る 。 そ し て 、数 日 後 、激 戦 地 だ っ た カ ン パ ル の 戦 場 を 視 察 し た さ い 、 山

言 葉 に 、 「矢 張 り 」 と 思 い あ た り 、 迁 参 謀 の 「我 意 」 の 強 さ に ひ ん し ゅ く し た の は 、 以 上 の よ う

「一 月 八 日 晴 ( 木曜日)

下中将の渋面はさらにゆがんでいった。

牛 前 十 時 発 、 カ ン パ ル 戦 場 を 見 る … …好 適 の 攻 撃 地 区 を 為 す に 拘 ら ず 、 徒 ら に 道 路 に の み よ ら

I

という

こ と に な る 。

ん と し 攻 撃 、( 十二月) 三 十 、 三 十 一 、(一月) 一、 ニ、 三 、 四 (日) と 六 日 に 及 び 、 而 も 戦 死 者

作 戦 主 任 (辻 參 謀 ) が 直 接 指 導 し な が ら 、 な ん た る ザ マ か

百 、 負 傷 二 百 を 出 せ し は 愚 の 極 な り .. 」

山 下 中 将 が 、 と く に 辻 参 謀 に 不 満 を 感 じ た の は 、 そ の 「我 意 」 に あ る 。 幕 僚 と い う 職 務 と 立 場

か ら い え ば 、 參 謀 に と っ て 、 「我 意 」 の 発 揮 は 最 も 戒 め る べ き 点 で あ る 。 「我 意 」 の 強 調 は 、 しば

辻 参 謀 が 、 カ ン パ ル 攻 撃 に 増 兵 を 求 め た の も 、思 慮 の 浅 い 力 押 し を こ こ ろ み 、損害を増援で力 ^ ようとした に すぎ, な い 。 しかも、 希 望 を かなえられな い と 辞 職 を 口 走 るのは、 失 敗 の 起 因

しば責任回避に通ずるからである。



山 下 中 将 は 、 シ ン ガ ボ ー ル 島 攻 略 戦 で も 、 辻 参 謀 の 「我 意 」 に 遭 遇 し た 。

を 増 援 を 拒 否 す る 司 令 部 に 転 嫁 しようとす る 下 心 ともうけ と れ る 。

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山 下 中 将 は 、敵 に 退 路 が な い こ と 、 マレー半島縦断作戦で部下将兵が疲れていること、弾薬資 材 が 不 十 分 な こ と な ど を 考 慮 し 、 シ ン ガ ボ ー ル 島 の 要 地 .ブ キ テ マ 高 地 の 奪 取 に 手 間 ど る と 、

当 然 、 幕 僚 と し て は 、 指 揮 官 のこの 意 図 にそう 方 策 を 考 え ね ば な ら な い 。 参 謀 長 鈴 木 宗 作 中 将

「一 つ 一 つ 平 ら げ て 行 く ほ か に 方 法 な し 。急 ぐ に 及 ば ず 」 と 指 示 し た 。

を は じ め 、參 謀 た ち は 時 間 を か け て じ っ く り 攻 略 す る 計 画 を た て た 。 と こ ろ が 、辻 参 謀 は 、 単 独 で 第 五 師 団 長 松 井 中 将 と 第 十 八 師 団 長 牟 田 ロ 中 将 を 訪 ね 、松 井 中 将 に は 「第 十 八 師 団 が や り ま す か ら 、 閣 下 も … … 」 と 述 べ 、 牟 田 ロ 中 将 に は 「第 五 (師 団 ) が や り ま す の で … …」 と 、 ブ キ テ マ 高 地 に た い す る 夜 襲 を 勧 誘 し た 。 両 中 将 と も 、 お 互 い に 「そ う か 。 そ れ で は わ が 師 団 も … … 」 と 承 知 し て 攻 撃 し た も の の 、 失 敗 し た 。 思 い つ き に 似 た 突 進 の た め 、 計 画 、準 備 と も に 不 十 分 で あ っ た か ら で あ る 。失 敗 と わ か る

明らか に 、指 揮 官 の 意 図 に 反 す る 身 勝 手 な 行 動 と 判 断 で あ り 、 山 下 中将は、辻 参 謀 の 献 言 を 黙

と、辻 参 謀 は 、 い っ た ん 後 退 を 意 見 具 申 し た 。 殺 し て 、 「幕 僚 と し て 危 険 な 存 在 」 と 考 課 し た 、 と い わ れ る 。 し か し 、 前 述 し た よ う に 、 シ ン ガ ボ ー ル 戦 が 終 わ る と 、 辻 參 謀 は ,作 戦 の 神 様 ガ と し て た た え

本 間 雅 晴 中 将 の 第 十 四 軍 が 、 バ タ ー ン 半 島 に ろ う 城 し た マ ッ カ ー サ ー 軍 を 攻 め な や み 、 フ ィリ

られ、参 謀 本 部 作 戦 班 長 に 栄 転 し た 。 そ の後、辻 参 謀 は 、 ほとんどの 重 要 な 戦 場 で 活 躍 す る 。

ビ ン 攻 略 が お く れ る と 、 辻 参 謀 は 、大 本 営 派 遣 参 謀 と し て 、 現 地 に と ん だ 。

パ タ ー ン 半 島 第 二 次 攻 略 戦 は 、 昭 和 十 七 年 四 月 三 日 に 開 始 さ れ 、同 九 日 に は 早 く も バ タ ー ン の

攻撃したからである。

米 比 軍 は 降 伏 し た 。 兵 力 三 万 人 、 火 砲 二 百 門 、 飛 行 機 九 十 六 機 、戦 車 五 十 台 と い う 十 分 な 陣 容 で 、

辻 參 謀 は 、 シ ン ガ ボ ー ル 戦 の と き と 同 じ く 、勇 敢 に 第 一 線 を か け め ぐ っ た が 、 このフィリピン

った。

戦 線 で 辻 参 謀 の 名 前 が 喧 伝 さ れ た の は 、作 戦 指 導 の 巧 み さ で は な く 、敵 捕 虜 に た い す る 態 度 に よ

辻 參謀は、 シンガボール攻略のあと、 三干人とも五千人ともいわれる華僑処刑の命令を起案し

今 井 大 左 は そ う い っ て 電 話 を き っ た 。命 令 書 は 届 け ら れ ず 、 や が て 事 情がわかった。大本営派

「わ か っ た 。 し か し 、 重 大 な こ と な の で 書 面 の 命 令 を う け て か ら 実 行 し た い 」

団 に た い す る 命 令 は 、直 接 大 本 営 か ら で は な く 、直 属 の 第 十 四 軍 か ら で な け れ ば な ら な い 。

答 え た 。今 井 大 佐 は 不 審 を 感 じ た 。大 本 営 は 最 上 機 関 で は あ る が 、命 令 の 下 達 は 順 序 を 経 る 。旅

びっくりした 今 井 大 佐 が 反 問 す る と 、 旅 団 司 令 部 の 電 話 は 「い や 、 大 本 営 命 令 だ そ う で す 」 と

「な に 、 そ れ は ど う い う わ け だ 。 軍 の 命 令 か ね ?」

「旅 団 命 令 を 伝 え ま す 。 投 降 兵 は 全 部 射 殺 せ よ 、 と い う こ と で す 」

令部から電話してきた。

の 回 想 に よ れ ば 、 ち ょ う ど パ タ ー ン の 米 比 軍 が 降 伏 し た 直 後 、 四 月 九 日 午 前 十 一 時 ご ろ 、旅団司

たが、 フ ィ リ ピ ン 戦 線 で も 捕 虜 処 刑 を 主 張 し た 。 第 六 十 五 旅 団 第 百 四 十 一 連 隊 長 .今 井 武 夫 大 佐

5 7 辻 政 信

58

開 始 さ れ る と 、

遣 参 謀 で あ る 辻 參 謀 が 、大 本 営 命 令 だ と い っ て 、各 部 隊 に 指 示 し た も の で 、第 十 四 軍 司 卫 4 目 .本 間中将は、なにも知らなかった。 昭 和 十 七 年 八 月 、 ガ ダ ル ヵ ナ ル 島 に 米 海 兵 第 一 師 団 が 上 陸 し て 、米 軍 の 反 攻 が 辻 参 謀 は 、再 び 大 本 営 派 遣 参 謀 と し て 、 現 地 に む か っ た 。

ガ ダ ル ヵ ナ ル 攻 防 戦 は 、 よ く 知 ら れ て い る よ う に 、約 ニ 万 人 の 戦 死 、 戦 病 死 者 を 数 え た の ち 、 六 か 月 後 、 将 兵 は 飢 え と マ ラ リ ャ と 赤 痢 に 悩 み な が ら 退 却 す る 敗 戦 に 終 わ っ た 。 辻 参 謀 は 、 ここ で も 勇 敢 な 行 動 を 示 し て 、将 兵 を 感 銘 さ せ た 。 し か し 、 そ の 作 戦 指 導 は 、 困 難 な 現 地 の 事 情 が あ

おら

指 導

当 時 の 迁 参 謀 を 知 る 、 あ る 元 参 謀 は 、 「迁 参 謀 は 、 と き に 鬼 才 と も い う べ き 卓 抜 な 着 想 を 提 示

るとはいえ、 ひたすら遮二無二' の 〃 督 戦 , に終始し、次 々 に 兵 力 を 投 入 す る ば か り で あ っ た 。

反 対 は で き な い か ら 、苦 慮 し て る と

す る こ と も あ っ た が 、 と に か く 断 固 戦 え と い う の と 、卑 怯 な 振 舞 は 許 さ な い と い う ニ 点 で 、 を つ づ け た 。 師団長も軍司八王目も、 こ の 二 つ を 強 調 さ れ

そ う い っ た あ と 、 元 参 謀 は 「辻 参 謀 は 身 辺 は 清 潔 だ し 、 勉 強 家 で も あ る 。 し か し 、 視 野 は 比 較

れましたよ」

というのであるが、

的 せ ま く 、 部 下 思 い だ が 幅 広 い 思 い や り に 欠 け て い ま し た ね 」 と、 つ け 加 え だ 。 自 ら に 厳 し い だ け に 他 人 に も そ れ を 強 要 し 、 思 慮 よ り も 決 心 を 主 張 す る ——

この指摘は、迁参謀がやがて中国戦線から北部ピルマの第三十三軍参謀に転出したさいの処置に

昭 和 十 九 年 七 月 下 旬 、 北 部 ビ ル マ の 要 衝 ミ チ チ (ミ ー ト キ ー ナ ) 飛 行 場 は 、 米 、 中 国 軍 に 包 囲

も、 あ て は ま る 。

危 険 な 存 在 と 知 ら れ な が ら も 、 辻 參 謀 の 強 烈 な 個 性 と 、当 時 の 日 本 陸 軍 の 雰 囲 気 が 、社 参 謀 を

そして、 このようなタィプの 参 謀 が 、 近 代 軍 に と っ て は 、 む し ろ 、 "補 佐 す べ き 上 司 を 亡 ぼ す "

し、 か つ 実 行 し て い たことが 理 解 で き る 。

辻 参 謀 の 業 績 を ふ り か え る と き 、 辻 参 謀 は 先 に 指 摘 し た 参 謀 の 型 の う ち 、 「準 攥 官 型 」 を 志

自決した。

に 第 三 十 三 軍 司 令 部 に 抗 議 し た が 、軍 司 令 部 は 命 令 を 変 え ず 、水 上 少 将 は 部 下 を 撤 退 さ せ た あ と 、

だ が 、 この 考 え 方 は ス ジ がとおらない。 そ れ で は 、 水 上 少 将 が 個 人 的 戦 闘 をしている 形 になり、 ま た 少 将 に 自 決 を 強 制 することになる。 水 上 少 将 の 上 司 、 第 五 十 六 師 団 長 .松 山 裕 三 中 将 は 直 ち

認め る た め に 、 この命令を考えた、 という。

事 件 で 退 却 兵 を 処 罰 せ ね ば な ら な か っ た こ と を 思 い 、 水 上 少 将 だ け に 死 守 を 命 じ 、将 兵 の 退 却 を

の ち に 辻 参 謀 が 、 同 じ く 第 三 十 三 軍 参 謀 .野 ロ 省 己 少 佐 に 語 っ た と こ ろ に よ る と 、 ノ モ ン ハ ン

死守スペシ」

「一、 軍 ハ 近 ク 竜 陵 方 面 ノ 敵 ニ 対 シ 攻 勢 ヲ 企 図 シ ア リ .. ニ、 水 上 少 将 ハ 『ミ ー ト キ ー ナ 』 ヲ

第 三 十 三 軍 司 令 部 は 、辻 参 謀 の 起 案 に し た が い 、次 の よ う な 命 令 を 発 し た 。

さ れ 、 第 五 十 六 師 団 歩 兵 団 長 .水 上 源 蔵 少 将 を 指 揮 官 と す る 守 備 隊 は 、 玉 砕 を 覚 悟 し た 。

5 9 辻 政 信

60

"重 用 " さ せ て い た と い え る 。

衆讓院、 ついで参讓院に籍を置いた



あ と 、 ラ オ ス に

旅行した

消息を絶

抛 棄 の 憲 法 ま ま 、

辻 参 謀 は 、 戦 後 、 戦 争 犯 罪 人 と し て の 追 及 を さ け て 身 を か く し た が 、 や が て 「戦 争 った。 い ま な お 、 生 死 は 不 明 で あ る 。

を護り抜くため」

6 1 富 岡 定 俊

富 岡 定 俊

くて、



そろえば、

あこがれの 眼を そそがれる。

毛なみがよ 秀 才 で 、 ハンサムで… … 条 件 が 女性は一致して む け る が 、 男 性 の 半 数 か ら は せ ん 望 、残 る 半 数 か ら は ね た み の 視 線 を

おかげで、運がよければ女性票にささえられて参讓院全国区で当選するが、 たいていは意外に ふるわぬ人生を送るのが、" いい男の運命のよぅである。

富 岡 少 将 は 、 「四 代 に わ た る 海 軍 家 系 」 に 属 す る 。 祖 父 .宗 三 郎 は 信 州 真 田 藩 士 で 幕 末 に 海 防

と 記 録 さ れる富 岡 定 俊 少 将 の 場 合 も 、 は じ め の こ ろ は 、 い さ さ か こ 日本海軍の抜群の秀才 一^ のガ 恵 ま れ た 者 の 悲 哀 ,を 感 じ たくなる 環 境 に お か れ て い た 。

第 一 部 長 (作 戦 ) で あ っ た 。 日 露 戦 争 後 、 男 爵 と な る 。

隊 長 を つ と め て 、 品 川 台 場 の 建 設 に あ た っ た 。父 定 恭 は 海 軍 中 将 で 、 日 露 戦 争のさいは、軍令部

少 将 の 長 男 定 博 も 海 軍 兵 学 校 生 徒 で 太 平 洋 戦 争 の 終 結 を 迎 え て い る の で 、計 四 代 にわたる海軍

一 家 と い うことになる。 富 岡 少 将 は 大 正 六 年 、 海 軍 兵 学 校 最 終 学 年 の 夏 、 父 定 恭 中 将 の 死 に ょ り 、 男 爵 を 襲 爵 し た 。 この 不 幸 で 、 少 将 は 兵 学 校 卒 業 前 の 第 二 学 期 の 試 験 を う け ら れ な か っ た 。 第 三 学 期 の 成 績 を 基 礎 に し た ガ 見 込 み ^点 を も ら い 、卒 業 成 績 は 第 四 十 五 期 生 九 十 人 中 の 二 十

第二学期のテストをうけていたら、たぶん優等はまちがいないとみられた。そして、男爵で、

番でぁった。

おまけに兵学校きっての美男子の声価を得ている。 一 般 的 な 観 測 で は 、 ま ず ,前 途 洋 々 " の 青 年 士 官 で ぁ り 、 い わ ば / 、ス タ ー 海 軍 〃 的 存 在 と み

「『阿 蘇 』 『周 防 』 な ど と い う オ ン ポ ロ 軍 艦 に 配 属 に な る は 、 シ ベ リ ア 出 兵 で 陸 戦 小 隊 長 にさせら

な さ れ る が 、少 将 の 前 途 は 、 しばしば、酷 遇 と い っ て も ょ い 冷 た い 扱 い に 色 ど ら れ た 。

思 い 直 す き っ か け に な っ た の は 、鈴 木 貫 太 郎 大 将 の 忠 告 だ っ た 。大 将 は 、 いった。

れ る は で 、 さっぱり 将 来 に 希 望 が わ か な い 。 正 直 い って、 くさりました」

「富 岡 、 オレも 前 半 生 は 非 常 な 虐 待 を う け た 。 少 な く と も 本 人 は 虐 待 を う け た と 思 う と っ た が 、

た し か に 、鈴 木 大 将 は 、 海 軍 大 学 校 を 卒 業 す る ま で は 、 い と も み す ぼ ら し い 三 等 軍 艦 、 四 等 軍

な ん と か 今 日 ま で き た 。勤 務 で 虐 待 を う け た と 思 う と き は 、 オ レ の 履 歴 票 を み て 比 較 し て み ろ 」

艦 の 乗 組 を つ づ け 、富 岡 少 将 が 考 え て も 、 に ら ま れ た 配 置 と し か 思 え な い 。富 岡 少 将 は 、 そ の 後 、

昭 和 ニ 年 十 二 月 一 日 、 ト ッ プ の 成 績 で 海 軍 大 学 校 (甲 種 学 生 ) に 入 学 し 、 同 四 年 十 一 月 二 十 七

人事にはいっさい不満をもたぬ覚悟をきめた。

6 3 富 岡 定 俊

日、 ト ッ プ で 卒 業 し た 。恩 賜 の 軍 刀 を も ら っ た 。海 軍 大 学 校 の 記 録 で も 、 入 学 、卒 業 と も に 一 番

も っ と も 、 海 軍 大 学 校 の 成 績 の 効 果 に つ い て は 、富 岡 少 将 自 身 が 、少 な か ら ず 批 判 的 で あ る 。

と い う の は 珍 し く 、 しかも、富 岡 少 将 の 場 合 は 、 同 じ 一 番 で も 空 前 に ひ と し い 高 成 績 で あ っ た 。

「兵 学 校 で は 、 学 業 の み な ら ず 操 行 点 も ふ く め て 、うるさく 評 価 す る 。 し か し 、 大 学 (校 ) では

人 格 、 識 見 、 判 断 、 勇 気 な ど と い う 面 の 評 価 は お こ な わ な い 。 海 犬 の 成 績 優 秀 者 、 必ずしも第一

学 業 点 だ け で す か ら ね 。 キン チ ャ ク 切 り み た い に 抜 け 目 な い の が 、良 い 成 績 を と る こ と が あ る 。

しかし、巨 大 な 組 織 を 持 ち 、平 時 体 制 を と る 海 軍 は 、その ま ま 大 官 庁 で あ る 。 そして官庁であ

級の指揮官でないということになりますょ」

れ ば 、 勇 猛 果 断 型 ょ り も 綿 密 慎 重 な 能 吏 型 が 、 重 用 さ れ る 。能 吏 か 否 か を ま ず 頭 脳 の 回 転 速 度 に

,家 柄 、 頭 脳 、 容I 姿 という 三 拍 子 が す べ て そ ろ っ て も 、 し か し 、 そ れ だ け で は 海 軍 で の 出 世

基準をおくとすれば、海軍大学校の成績優秀者は、 まっさきに適格者である。

の保 証 書 に は な ら な い 。 日 本 海 軍 に は 、 意 外 に こ の ニ ー 一 拍 子 揃 い " が 多 か っ た か ら で あ る 。 だ が 、 海軍大学校の歴史に残る最優秀成績者は、 やはり稀有である。

富 岡 少 将 は 、卒 業 後 、 フ ラ ン ス 駐 在 を 命 ぜ ら れ 、 ジ ュ ネ ー ブ 一 般 軍 縮 会 議 の 随 員 を つ と め 、横

第二艦隊参謀、海軍大学校教官から昭和十五年十月十五日、軍令部第一課長となった。

須 賀 鎮 守 府 参 謀 を 経 て 軍 令 部 第 一 課 (作 戦 ) 勤 務 と な り 、 さ ら に 第 七 戦 隊 参 謀 、 海 軍 省 人 事 課 、

「第 一 課 長 に な っ た と き は 、 感 慨 が 深 か っ た 。 軍 縮 の と き 、 海 軍 を や め よ う と 思 っ た 。 ど こ に 行 っても、 意 気 あ が ら ぬ 雰 囲 気 で 、 い つ ク ビ に な る か 、 い や 、 い つ や め て ' い く ら 退 職 金 も ら っ て 、

れない、 と思ったりしましたよ。

ど こ に 就 職 し よ う と か 、 ち ょ っ と 現 代 の 自 衛 隊 に 似 て い る 。若 い か ら 、 こ ん な 海 軍 な ん か に い ら

も う 一 度 、中 佐 の と き 、家 内 を 亡 く し て 、 小 さ な 三 人 の 子 ど も が 残 っ た と き に も 、 やめようか と思った。面倒をみてくれる者がいない。 さりとて再婚なんか考えられない。結局は思いなおし て、再 婚 し た ら 、 な ん と い う こ と な く 解 決 し ち ま い ま し た が ね 。 し か し 、感 慨 深 か っ た の は 中 学 校 四 年 生 の と き 、 母 親 に つ れ ら れ て 、芝 に 住 む 占 い 師 石 竜 子 の と こ ろ に 行 く と 、 『一』 と い う 宇 を 書 か さ れ た あ と 、 こ の 子 は 芸 術 家 に む い て い る が 海 軍 軍 人 に な る 、 そ し て 帷 幕 の 人 に な る 、 と い わ れ た 。 そ の 言 葉 は い つ ま で も 耳 の 奥 にこ び り つ い て い たが、 作戦課長になってみると、あらためて思いだされました」 占いがあたったことよりも、昭和十五年十月という時期に海軍の作戦用兵の実務責任を負う機

当 時 、すでにョーロッパで第二次大戦の火ぶたはきられ、 日本にも新たな戦雲がせまる気配で

縁 に 、富 岡 少 将 は 感 慨 が 深 か っ た 。

あ っ た 。富 岡 少 将 は 、 当 時 、 大 佐 で あ り 、 昭 和 十 四 年 十 一 月 か ら つ と め た 海 軍 大 学 校 教 官 時 代 に 、

戦争の研究

I

である。海 軍 軍 人 が 戦 争 の 研 究 を す る の は 、 あ た り 前 の こ と だ が 、 少将によれ

ひとつの研究を開始していた。

6 5 富 岡 定 俊

ば 、. そのあたり前のことがさっぱり実行されていなかった。

「私 は ね 、 海 軍 の 参 謀 と い う の は 、 指 揮 権 が な い 。 つ ま り 、 作 戦 に つ い て 説 明 は で き る が 命 令 は

に、 そ の 責 任 を は た す た め に は た ん な る 戦 術 だ け で な く 、 戦 略 、 政 略 も 加 え た 戦 争 の 研 究 が 必 要

できないことになっている。 この事実から、 あくまでガ陛下の参謀" としてのぶんを守るととも

だ、 と考えた」

海軍大学校では、統帥と戦略を担当していたが、 いざ戦争となったときの国家としての方策に

「そ こ が 平 和 海 軍 な んでしょう が 、 たとえば、 第 一 次 大 戦 でドィツが 敗 北 し た 主 因 は 国 民 の 食 糧

ついては、 な に ひ と つ 海 軍 に 具 体 案 が な い こ と に 気 が つ い た 。

不足だった。主食が必要定量の半分以下になると、 もはや国民の戦意は失われるといわれている。

ところが、 では日本人は一日どのくらいのコメを食べ、戦意を維持するにはどれだけのコメが必

だ い た い 、 大 ざ っ ぱ に 一 日 三 合 三 勺 と い う が 、 そ れ じ ゃ ギ リ ギ リ の #一はどれだけか、 と な る と 、

要か、 といった研究は、興亜院でも総力戦研究所でもやってない。

だめだ」

コ メ は



コメも

必要だ、 と判定した。

一 人 一 日 ニ 合 三 勺 、 そ の 確 保 の た め に は 朝 鮮 、 満 州 の 産 米 で は 不 十 分 で 、南 部 仏 印

富 岡 少 将 は 、教 官 仲 間 の 高 木 惣 吉 、志 波 国 彬 、 山 澄 忠 三 郎 中 佐 た ち と 研 究 し 、国 民 の 必 要 最 低 限の

さ ら に 、 第 一 課 長 と な っ て か ら も 研 究 を つ づ け 、 石 油 、鉄 、 ニ ッ ケ ル 、 石 炭 そ の 他 の 戦 略 物 資

(ベ ト ナ ム )

66

に つ い て 詳 細 な 調 査 と 検 討 を 加 え 、 昭 和 十 六 年 三 月 に 一 応 の 成 案 を 得 た 。 こ の 成 案 は 、 いわば日 本 海 軍 の 作 戦 方 針 の 基 礎 と な る も の で 、米 、英 両 国 と の 開 戦 を 想 定 し て い た 。 し か し 、具体的な 作 戦 計 画 で は な く 、 つづいて作戦細項、 出 帥 準 備 計 画 、総 合 作 戦 計 画 と 、情 勢 を に ら み な が ら 、 精 密 な ブ ラ ン に 成 長 さ せ る の が 、富 岡 第 一 課 長 の 仕 事 で あ る 。

日 本 海 軍 は 、 日 露 戦 争 後 に 制 定 さ れ た 『国 防 方 針 』 『用 兵 綱 領 』 に し た が い 、 米 海 軍 を 主 要 仮 マー シ ャ ル

群島付近、 さらにマリァナ諸島区域で待ちうけ、 日本海海戦なみの日米艦隊決戦をお

想敵とする作戦計画の研究、訓練にはげんできた。その方針は、太平洋をわたってくる米艦隊を

岡少将も、 この

先輩が練りあげてきた方針にもとづき、さらに国家の戦争体制の維持という

こなって撃滅する、 という構想であった。 富

と し て ソ ロ モ ン 、 ニ

ュ ー ギ ニァ、

ビルマを制圧する。

そ し て 、 この

外 郭 線 を 強 固 に し な が ら 、米

観 点 を 加 え て 計 画 を つ く り あ げ た 。 ま ず 南 方 諸 地 域 の 資 源 地 帯 を 占 領 し 、次 に そ の 地 帯 の 防 衛 線

艦 隊 の 来 攻 を 待 ち 、決 戦 を い ど む 。 合理的な計 画 で あ り 、少将は、 日米艦隊の決戦は、開 戦後ニ年以内に起こる、 とみこんだ。

決戦の場合は十分に勝算が

あ る と

考えた。

「米 国 の 動 員 能 力 を 計 算 す れ ば 、 本 格 的 反 攻 に の り だ す の は 、 開 戦 約 一 年 半 後 と 予 測 で き た 」 か

「こ こ で 注 意 し な け れ ば な ら ぬ の は 、 決 戦 に 勝 つ の と 、 戦 争 に 勝 つ の と は 別 問 題 だ 、 と い う こ と

ら で あ り 、

6 7 富 岡 定 俊

です。 も と も と

日本は米国を占領なんかできない。長期戦になれば国力がつづかない。 だから、

わ け だ が 、 ま さ か 相 手 は 勝 つ ま で や る 無 限 戦 争 思 想 だ と は 思 え ず 、有限戦争論でいけると思って

私は 決 戦 で 勝 っ て 和 平 の チ ャ ン ス を つ か む こ と を 考 え た 。 いまから考えれば、 ここがアマかった

富 岡 少 将 の ブ ラ ン は 、軍 令 部 総 長 永 野 修 身 大 将 以 下 の 軍 令 部 幹 部 の 承 認 を 得 た 。 ほかにょり有

ぃた」

と こ ろ が 、 〃富岡戦争計画, は 連 合 艦 隊 司 令 長 官 山 本 五 十 六 大 将 の 真 珠 湾 空 襲 案 で 修 正 さ れ 、

力な答案はない、 とみなされたからである。

そ の 後 も 、富 岡 少 将 は そ の 卓 抜 な 事 務 能 力 と 新 味 に 富 む 計 画 能 力 を 讃 え ら れ な が ら も 、 ふしぎに

富 岡 少 将 は 、 山 本 大 将 の 真 珠 湾 空 襲 計 画 を 聞 く と 、相手役の連合艦隊 先 任 参 課 黒 島 亀 人 大 佐 に

その会心の作戦計画を実現する機会を失いつづけた。

「こ れ は 甚 だ 投 機 的 だ 。 敵 が い な い か も し れ な い 。 い て も 奇 襲 は 難 し い 。 味 方 に 損 傷 艦 が 出 た ら

強く反対の意を表明した。

る に

しても、本格的 に 進 攻 し て

と ら ぬ と い う

法は

シ ャ ル

(群 島 ) を

な い 。 こ れ を や ら な け れ ば

く る かどうかはわからない。 むしろ、 マ ー

南方

かじ

棄 て な け れ ば な ら な い 。南 方 と 兵 力 を 二 分 す る の は ま ず い し 、南 に 手 を つ け た ら す ぐ 敵 が 出 て く

「せ っ か く 敵 が 真 珠 湾 に 集 中 し て い る の に 討 ち

らせて、決 戦 に もちこんだほうがいい」

作戦は成りたたぬ」

68

黒島參謀も強硬に押し返し、結局、 ょく知られているょうに、山本大将の辞職をほのめかす熱 意 と 、 陸 軍 が 満 州 の 航 空 部 隊 を 転 用 し て 南 方 作 戦 用 航 空 兵 力 が 十 分 に な っ た の で 、富 岡 少 将 も 真 珠 湾 空 襲 作 戦 に 同 意 し た 。 た だ し 、自 決 覚 悟 で あ っ た 。 「空 母 が や ら れ た と 知 っ た ら 、 す ぐ 自 決 す る つ も り で 金 庫 に 拳 銃 を 用 意 し て お い た 。 い く ら 山 本 長官の責任とはいえ、 やはり作戦主務者である私の不明は避けられないからです」

基地にして、北に突きあげてきたら手ごわい。 ォ ー

だ ろ う と い う

ス ト ラ リ ア を



予想です。 こ

奪っちまおうと考えた。 とにかく、開戦ニ年後には米国の戦力は飛

富 岡 少 将 は 、 ま た 、南 方 地 域 占 領 後 の 第 二 次 作 戦 と し て 、 フィジー、 サ モ ア 諸 島 を 攻 略 し 、米 連 絡 を 遮 断 す る 卩 8作 戦 を 考 え て い た 。

国 と オ ー ス ト ラ リ ア と の

ス ト ラ リ ア を

ス ト ラ リ ア を

艦船も、 こっちの十倍くらいになり、その後は天下無敵になる

「最 初 は 、 ォ ー も

の大戦力がォー

行機

も 欲 し か っ た か ら .. 」

く脱落させるか、 ア メ リ カ と の 連 絡 路 を き っ ち ま わ ね ば な ら な い 。 陸 軍 に 相 談 す る と 、 とても 占領のための)兵力はない、 と い う の で 、 フ ィ ジ ー 、 サ モ ア に 変 え た 。 ニユー カ レ ド ニ ア の ニ ッ ケ ル

(才 — ス ト ラ リ ア

だ が 、 卩 8作 戦 は 、 ま た し て も 山 本 連 合 艦 隊 司 令 長 官 が 主 張 す る ミ ッ ド ウ ユ ー 作 戦 に 変 え ら れ た 。 正 確 に は 、 ま ず ミ ッ ド ウ ヱ ー 作 戦 を や り 、 ? 8作 戦 は そ の あ と に 延 期 す る こ と に な っ た の だ が 、 軍 令 部 は 「山 本 長 官 、 戦 略 を 知 ら ず 」 と い っ て 、 ふ ん が い し た 。

6 9 富 岡 定 俊

山 本 大 将 の 構 想 は 、 ミ ッ ド ゥ ユ ー 島 を 攻 略 し 、 ハワィ、 米 本 土 西 岸 に た い す る 監 視 点 を 確 保 す

る と と も に 、敵 機 動 部 隊 の 日 本 本 土 接 近 を さ ま た げ 、 ついでに敵主力を さ そ い だ し て 決 戦 を い ど

「し か し 、 決 戦 生 起 の 可 能 性 は 卩 5作 戦 で も 同 じ だ 。 い や 、 む し ろ 、 卩 3作 戦 の ほ う が 敵 に 痛 い

む、 というのである。

ミッ ド ゥ , 一—海 戦 (昭 和 十 七 年六月 五 日 )は、 日 本 海 軍 の 精 鋭 空 母 四 隻 ( 「赤 城 」 「加 賀 」 「飛 竜 」

から、 必ず出てくると思いましたがね」

「蒼 竜 」) と 熟 練 パ ィ ロ ッ ト 多 数 を 失 っ て 、 惨 敗 に 終 わ っ た 。 東 京 で 無 線 を 聞 き な が ら 、 よ う す を

いツ」

とヒザをたたいた。

う か が っ て い た 富 岡 少 将 は 、 や が て 山 本 大 将 が 作 戦 中 止 、 引 き あ げ を 命 じ た の を 知 る と 、 「え ら

I

はと心配だった」

そ の ま ま



海 戦 後 、 米 軍 は ガ ダ ル カ ナ ル 島 に 上 陸 (昭 和 十 七 年八月七日) し た 。 ガ ダ ル カ ナ

く し て

「さ す が に 山 本 さ ん は ハ ラ が す わ っ て い る と 思 っ た 。 カ ッ と 興 奮 し て 、 夜 戦 だ 、 夜 襲 だ 、 と と び ミツドゥユ

だして、 さらに 元 も 子 も な

ル 島 は 尸 8作 戦 の た め の 前 進 基 地 で あ っ た が 、 そ う な る と 卩 5作 戦 ど こ ろ で は な く 、 か月におよぶ攻防戦に発展した。

昭和十七年末になると、 ガダルカナル島は無限に陸軍兵力と海軍兵力を吸いこむ底なし沼の様 機とレーダー装備の敵艦に

は ば ま れ 、

海 軍 も 陸 軍 も 困 惑 し た 。富 岡 少 将 は て 力 島 放 棄 論 "を と な

相 を 呈 し て き た 。 ガ ダ ル カ ナ ル 島 の 部 隊 に た い し て 駆 逐 艦 で 物 資 を 補 給 し よ う と す る の だ が 、敵

「気 の 毒 だ が 、 こ れ 以 上 、 戦 力 の な い も の に た い し て 、 戦 力 あ る も の を 消 耗 するのは、 戦 略 の 常

白面 鬼 —

といぅ 言 葉 を 、 富 岡 少 将 は ょ く 口 走 る 。 参 謀 は 、 指 揮 官 と ち が っ て 、 人 情 や 感 傷 は

道に反する、 と考えたからです」

といぅ。

捨て、 ひたすら 合 理 的 な 計 画 を ね る の が 仕 事 で あ る 。 「だ か ら 白 面 鬼 に な ら な け れ ば な ら な い 」

。当時、参謀本部作戦課にいた迁政信中佐などは、涙をふるって富岡少将の非情を責め、

た し か に 、ガ" 島 放 棄 論 " は 白 面 鬼 の 心 理 に 似 た 非 情 な 主 張 と い え る 。放 棄 す な わ ち 玉 砕 だ か らで—

軍 刀 の ッ ヵ を に ぎ っ て 、 「今 後 海 軍 と は 協 力 し な い 」 と、 わ め い た 。’

艦 I 長 に 転 出 し 、 ついでラバウルの南東方面艦隊参謀副長、昭和十九年四月からは

ガ ダ ル ヵ ナ ル 島 守 備 の 第 十 七 軍 は 放 棄 で は な く 、駆 逐 艦 で 救 出 さ れ た 。 そ して、富 岡 少 将 は 、 巡 洋 艦 「大 淀 同參謀長となった。 左 遷 と は い え な い に し て も 、衆 目 が 一 致 し て 、 中 央 の エ リ ー ト コ ー ス を 歩 む と み な し て い た 秀 才 の ポストと し て は 、 や や 意 外 で あ っ た 。 が 、 ラ バ ウ ル の 参 謀 長 と な っ て 、 富 岡 少 将 は 、 む し ろ 、

ラバウルは、米軍がすどおりした 形 で 孤 立 の 気 配 が 強 か っ た 。 富 岡 少 将 は 、 南 東 方 面 艦 隊 司 令

本来の智謀を発揮できた。

長 官 草 鹿 任 一 中 将 、陸 軍 の 第 八 方 面 軍 司 令 官 今 村 均 大 将 に 進 言 し て 、防 備 強 化 と と も に 陸 海 軍 十

7 1 富 岡 定 俊

万人の自給体制の整備をはかった。

延 長 百 五 十 キ ロ に お ょ ぶ 長 大 な 地 下 壕 陣 地 を 掘 り 、 砲 爆 弾 利 用 の 地 雷 をつくり、 食 糧 も自作で

「陸 稲 は 年 に 二 毛 作 で き る が 、 一 単 位 の 土 地 か ら 一 定 期 間 にと れ る 一 番 ヵ ロ リ ー の多い食物は、

ある。

リ 〇ー に おさえて 六 か月ない し 八 か月 耕 作す れ ば 、'

サ ツ マ イ モ だ 、 と わ か っ た 。 ま た 一 人 当 た り の 最 小 必 要 耕 作 面 積 を 主 副 食 あ わ せ て 一 人 十 二 .五 坪 と 算 定 し 、 手 持 ち 食 糧 を 一 人 一 日 千 八 百力

パ パ イ ヤ の 葉 で タ バ コ を つ く り 、 火 山 熱 利 用 で 塩 を 採 り 、 日 産 四 .五 ト ン の 味 噌 の お か げ で 、

自給体制ができると計算した」

ラ パ ゥ ル で は 終 戦 ま で 味 噌 汁 を 欠 か さ な か っ た 。 パ ナ ナ の 茎 で 一日四 千 枚 の 紙 をつくり、 マッチ

ま さ に 、 富 岡 少 将 が 海 軍 大 学 校 教 官 か ら 第 一 課 長 時 代 に 没 頭 し た ,戦 争 研 !^ の成果ともいえ

も つ く り 、製 水 設 備 も と と の え た 。

る が 、 破 壊 さ れ た 飛 行 機 の 部 品 を か き 集 め て 、 戦 闘 機 十 機 、陸 上 攻 撃 機 ニ 機 、水 上 偵 察 機 四 機 を

昭 和 十 九 年 十 月 十 日 、 軍 令 部 第 一 部 長 就 任 の 内 命 が 伝 え ら れ 、富 岡 少 将 は 水 上 偵 察 機 で ト ラ ッ

つくって作戦行動さえ実施した。

ク島にとび、飛行艇で横浜についた。

当 時 、 フ ィ リ ピ ン 決 戦 が 叫 ば れ 、 や が て 米 軍 のレイテ島 上 陸 、それにともなぅ第二艦隊のレイ

72

「要 す る に 、 陸 海 軍 における 決 戦 思 想 の 相 違 に 、 私 は 気 づ い た 。 決 戦 と い え ば 、 海 軍 は 全 滅 する

テ突 入 作 戦 が お こ な わ れ た 。 陸 軍 は 、 台 湾 で の 決 戦 、 さ ら に 本 土 決 戦 を 主 張 し て い た 。 ま で や る 。 ところが、どうも 陸 軍 で は 、 決 戦 と い っ て も 、 現 在 の 総 兵 力 を 統 合 し て 戦 う 大 作 戦 と いう意味らしい」 富 岡 少 将 は 、 そ れ で はずるずると 後 退 する だ け で 、 敵 に 痛 打 を あ び せ ら れ な い 。 文 宇 ど お り の 決 戦 を やるべき だ 、 そ し て 、 そ の 場 所 はあまり 広 い ところは だ め だ 。 沖 繩 以 外 に な い 、 と 強 調 し

「そ の こ ろ 、 ョ ー ロ ッ パ の 戦 況 は ほ ぼ 見 通 し が つ き 、 連 合 軍 の 勝 利 は き ま っ て い た 。 ソ連が続々

た。

と 兵 力 を 極 東 に ま わ し て い ることも、 情 報 で わ か っ た 。 い ず れ は 米 ソ は 対 立 す る か ら 、 ソ 連 に 和

だ が 、 沖 繩 〃 決 戦 " は、 陸 海 軍 の 決 戦 思 想 の 調 整 に 手 間 ど る う ち に 兵 力 増 強 の 機 会 を 逃 が し て 、

平 の 働 き か け を し な が ら 、 沖 繩 で ガンと 戦 果 を あ げ れ ば 、 米 国 は ソ 連 牽 制 の 意 味 か ら も 、 和 平 の チャンスをつくってく る だ ろ う 。 そ う い う 配 慮 も あ り ま したね」

本土決戦が叫ばれ、〃一億総特攻"が呼号されたが、富岡少将は特攻のための特攻には反対し

富岡少将の十分な計画は実施できないままに終わった。

「考 え て も ご ら ん な さ い 。 軍 人 養 成 に は ヵ ネ が か か る 。 私 の 場 合 で 恐 縮 だ が 、 私 が 少 将 に な る ま

た。 でに俸給その他海軍が使ったヵネは、 いまの時価にすれば三億円にもなる。

富 岡 定 俊 73

ど ん な 形 で 戦 争 が 終 わ る に せ よ 、 国 家 が ヵネを か け た 人 材 は 戦 後 に も 役 に 立 つ は ず で す 。 無 理

富 岡 少 将 は 、 だ か ら 、 ポ ッ ダ ム 宣 言 の 受 諾 を め ぐ っ て 、徹 底 抗 戦 を 主 張 す る 軍 令 部 次 長 大 西 滝

な死はさせるべきではない」

「天 皇 と 雖 も 時 に 暗 愚 の 場 合 な き に あ ら ず 」

治郎中将とも激論した。

大 西 中 将 は そ う ま で 極 論 し て 、抗 戦 を 叫 び つ づ け た が 、 や は り 、 聖 断 で 終 戦 と な り 、 中 将 は 自

富 岡 少 将 は 、 昭 和 二 十 年 九 月 二 日 、 東 京 湾 に 碇 泊 し た 戦 艦 「5 ズ ー リ ー 」 の 降 伏 調 印 式 に 参 列

決した。



し た 。 そ の あ と 、 自 決 す る 覚 悟 で あ っ た が 、 〃陛下の幕僚" と し て 、 な に ひ と つ 思 い き り の 作 戦 が で き な か っ たことを 思 い 返 し 、 "最 後 の 作 戦 計 画 を 立 案 し た 。

戦 後 、 ど ん な 混 乱 が 起 こ る か わ か ら な い 。 そ の さ い 、 皇 統 を 守 る 必 要 が あ る かもしれ ぬ 。 富 岡

い ざ 、 と い う と き は 、 海 軍 特 攻 隊 要 員 の 手 で 皇 子 、皇 女 を 大 阪 の 淵 田 美 津 雄 大 佐 、 ついで四国

少 将 は 、松 山 の 航 空 隊 司 令 源 田 実 大 佐 を 呼 び 、秘 か に 計 画 を ね っ た 。

の 源 田 大 佐 の 手 を 経 て 、 九 州 .高 千 穂 嶺 の 奥 、 五 箇 荘 に 移 そ う と い う の で あ る 。

特 攻 隊 士 官 二 人 を 宮 内 省 に 配 属 し て 、 その と き に そ な え た が 、 や が て 終 戦ニ年めごろ、社 会情

「結 局 、 私 の ガ 名 案 , は、 開 戦 か ら 戦 後 ま で 、 .す べ て 実 現 さ れ な か っ た こ と に な り ま し ょ う か 」

勢 の 安 定 が 明 ら か に な っ て 、計 画 は 解 消 す る こ と に し た 。

74

富 岡 少 将 は 、 死 去 す る ま で 、 戦 史 資 料 を 収 集 す る 『史 料 調 査 会 』 を 主 宰 し て い た が 、 晚 年 に は

よくそぅ 述 懐 し て 、 苦 笑 し て い た 。

7 5 草鹿龍之介

草鹿龍之介

草鹿龍之介。

良 い 名 前 で あ る 。 中 里 介 山 の 長 編 時 代 小 説 『大 菩 薩 畴 』 の 主 人 公 、 机 龍 之 介に 似 て 、 な ん と な



く 剣 豪 小 説 の ヒ ー ロ ー を 想 わ せ る 名 前 だ が 、 事 実 、 第 一 航 空 艦 隊 參 謀 長 .草 鹿 龍 之 介 少 将 は 、 日

た だ し 、 机 龍 之 介 は 、 奇 剣 ガ 音 無 し の 構 え # を あ や つ る 虚 無 的 な 浪 人 だ が 、草 鹿 少 将 は れ っ き

本 海 軍 の 英 才 で あ る と 同 時 に 、 ,無 刀 流 " の 達 人 で も あ っ た 。

と し た 帝 国 海 軍 の 幹 部 で あ り 、 ま た "無 刀 流 , を あ み だ し た 山 岡 鉄 舟 に な ら い 、 禅 の 妙 境 も 会 得

そ し て 、草 鹿 少 将 は 終 戦 時 に 中 将 に 昇 進 し て 第 五 航 空 艦 隊 司 令 長 官 に 親 補 さ れ る ま で 、 第 一 航

した武人である。

いわば、太 平 洋 戦 争 を 通 じ て 、第一線の幕僚 長 コ ー ス を つ と め た 、海軍きっての有能な参謀と

空 艦 隊 参 謀 長 か ら 第 三 艦 隊 参 謀 長 、 南 東 方 面 艦 隊 参 謀 長 、連 合 艦 隊 参 謀 長 を 歴 任 し た 。

草 鹿 少 将 の 初 陣 は 、 一 航 艦 參 謀 長 と し て の ハ ワ イ 真 珠 湾 攻 撃 で あ る が 、 草 鹿 少 将 は 、 このハワ

主 な 理 由 は 、 三 つ あ る 。第 一 に 、 日 本 海 軍 は 日 露 戦 争 以 後 、米 海 軍 を 仮 想 敵 と 見 定 め て 整 備 と

イ空襲作戦には、反対であった。

訓 練 に は げ ん で き た が 、敵 の 来 攻 を 日 本 近 海 に 待 ち 、 日本海海戦なみの一大決戦で撃滅する計画

ワイを襲うに は 、 無 理 で あ っ た 。



を た て て い た 。 し た が っ て 、 艦 船 は 高 速 で は あ る が 近 海 用 に 設 計 さ れ 、多 く は 、 三干マイルはな

第 二に、 日本海軍の母艦航空兵力は、 六隻の第一線空母を総計してもせいぜい四百機に満たな

れたハ

い。 敵 は ハ ワ イ 地 区 に 五 百 機 か ら 千 機 を 集 め て い る 可 能 性 が あ る 。

I

ハワイまで 行っても、そのときにはたして敵艦隊は いるのか。 そうでないという 保証は、 なにもないのである。

第三に、敵の動静がつかみ難い。 事前に察知されて逃げられはせぬか

そ の ほ か 、 浅 い 真 珠 湾 で の 魚 雷 攻 撃 法 、 !一-列 に な ら ん で い る 場 合 の 内 側 の 艦 艇 に た い す る 高 々 度 爆 撃 法 、進 撃 途 中 で の 艦 船 給 油 法 な ど 危 惧 を お ぼ え る 難 点 は 、 あ と か ら あ と か ら 発 見 さ れ て 絶

草 鹿 少 将 は 、 だ か ら 、 一 航 艦 司 令 長 官 .南 雲 忠 ー 中 将 と 相 談 し て 、 連 合 艦 隊 司 令 長 官 .山 本 五

え間がない。

十六大将に、作戦中也を意見具申した。

だが、逆 に 山 本 大 将 に 説 得 さ れ 、ハイ、しっかりやります、 答え と て しまった。 そ し て 、草鹿

7 7 草鹿龍之介

参 謀 長 は 、 苦 慮 し た 。指 揮 官 南 雲 中 将 も 細 心 な 性 格 な の で 、 大 損 害 を う け る と 判 定 さ れ た 図 上 演

し か し 、 草 鹿 少 将 は 、 「人 知 れ ず 坐 禅 瞑 想 に ふ け っ た 」 す え 、 剣 の 極 意 の 中 に ひ と つ の 解 決 策

習が現実化するのではないか、 という不安にもかられ、困難な問題を指摘しつづけていた。

「フ ト 心 に 浮 か ん だ の は 、 子 供 の 時 か ら 習 い お ぼ え た 無 刀 流 剣 道 の 型 に 五 典 と い う の が あ り 、 そ

を 発 見 し た 。少 将 は 、 いう。

の な か に 金 翅 鳥 王 剣 と い う の が あ る 。金 翅 鳥 の 羽 翅 を 天 空 一 面 に ひ ろ げ た よ う な 心 で 、太刀を上

段 に と っ て 敵 を 追 い つ め 、 ただ一撃にうち落とし、 そ の ま まもとの上段に返る。その理の詮索は

、 簡 明 で あ る 。 つまり、 真 珠 湾 攻 撃 は 、 敵 の 不 意 を つ く 奇 襲 を 作 戦 の 基 本 性 格 に し

別 と し て 、 こ の 一 手こそ、 と 思 い こ ん だ の で あ る 」 ガ理, は1

し て み れ ば 、第 一 撃 は 成 功 の 確 率 が 高 い 。 かりに、 事 前 に 発 見 さ れ て 強 襲 に な っ て も 、 発見さ

ている。

れ る 時 期 は よ ほ ど 敵 に 接 近 し て か ら だ ろ う か ら 、全 力 を あ げ て 加 え る 第 一 撃 で と ど め れ ば 、効果

す な わ ち 、 満 身 の 気 合 い を こ め て ズ パ リ と 一 太 刀 を あ び せ 、 さ っ と ひ き あ げ る 。剣 の 極 意 は 作

は 大 き く 、味 方 の 損 害 は 少 な い 状 態 を 、期 待 で き る 。

戦 の 極 意 に も 通 ず る 。 「そ の 来 る や 魔 の ご と く 、 そ の 去 る や 風 の ご と し で な く て は な ら ぬ 」 と 、

い ら い 、 草 鹿 少 将 の 胸 奥 は 迷 い が 消 え て 晴 れ わ た り 、 ハ ヮ ィ に む か う 旗 艦 「赤 城 」 の 艦 橋 で も 、

草鹿少将は決心した。

78

う ま く い くか

な ァ」

坐禅の心境で眼を半眼にすえつつ、ゆったりと微笑を絶やさなかった。

「出 る に は 出 て き た が 、 「大 丈 夫 で す よ 。 必 ず う ま く い き ま す よ 」

よ」

草 鹿 少 将 は 、 な お も 心 配 そ う な 南 雲 中 将 に 明 る く 答 え 、 南 雲 中 将 も 、 そ の 声 の 明 る さ に苦笑し

「キ ミ は 楽 天 家 だ ね 。 う ら や ま し い

た。

昭 和 十 六 年 十 二 月 八 日 (日 本 時 間 ) の 真 珠 湾 攻 撃 は 、 期 待 ど お り に 奇 襲 を お こ な う こ と が で き 、

し か し 、米 空 母 は 一 隻 も 湾 内 に い な い 。 せ め て 巡 洋 艦 そ の 他 を た た き 、施 設 も 破 壊 す べ き だ 、

日 本 側 の 損 害 二 十 九 機 に た い し て 、 米 太 平 洋 艦 隊 の 主 力 戦 艦 八 隻 は す べ て 撃 沈破した。

だ が 、 「こ れ ら は い ず れ も 下 司 の 戦 法 で あ る 」 と 、 草 鹿 少 将 は み な す 。

という 意 見 が 、 幕 僚 、 指 揮 官 の 一 部 か ら 出 た 。

「こ の 作 戦 の 目 的 は 南 方 部 隊 の 腹 背 擁 護 に あ る 。 機 動 部 隊 の 立 ち む か う べ き 敵 は ま だ 一 、 ニ に のである」

ま ら な い の で あ る 。 だ か ら こ そ 、 た だ 一 太 刀 と 定 め 、周 密 な 計 画 の も と に 手 練 の 一 太 刀 を 加 え た

も は や 、 い た ず ら に 「獲 物 に と ら わ れ る 」 の は 下 郎 のあさましさ;す 2 ぎぬと、草 鹿 少 将 は 攻 撃 . 隊 が 帰 着 し て 戦 果 を 聞 く と 、 「何 の 躊 躇 も な く 」 南 雲 中 将 に 帰 還 を 具 申 し て 艦 隊 の 針 路 を 日 本 に

111

山 本 連 合 艦 隊 司 令 長 官 は 、真 珠 湾 攻 撃 に 格 別 の 効 果 を 期 待 し て い た 。 たとえば1 0 ニ於 テ 我 ノ 第 一 ニ遂行セザルべカラザル 要 領 ハ、開戦 劈 頭 敵 主 力 艦 隊 ヲ 猛 撃 撃 破シテ、

「日 米戦 争

替 可

山 本 大 将 の 考 え 方 に よ れ ば 、 一太刀は

大根を買って来い

と い ぅ よ ぅ



お ろ か 、 ニ

も の

だ」

太刀、 三太刀いやナ

マスの

如く切りきざ

、 ミ ツ ド ゥ ェ ー 攻 撃 は 中 止 と な り 、南 雲 部 隊 は 昭 和 十 六 年 十 二 月 二 十 三 日 、草 鹿 少 将 の 表

り に ち よ っ と

「獅 子 は 一 匹 の 兎 を 擲 つ に も そ の 全 力 を 傾 倒 す る と い わ れ る .. 相 手 の 横 綱 を 破 っ た 関 取 に 、 帰

あ る が 、草 鹿 少 将 は 、 命 令 に 不 満 を お ぼ え た 。

撃でひきあげた南雲部隊に不満を感じていたのと、 ミツドウヱー基地が重要拠点であったためで

「泥 棒 の 逃 げ 足 と 小 成 に 安 ん ず る 弊 な し と せ ず 」 と 、 連 合 艦 隊 参 謀 長 宇 垣 繮 少 将 も 、 あっさり一

ゥヱー島の米軍基地破壊を命じてきた。

連合艦隊司令部は、 日本に帰る南雲部隊にたいして、 その途中でハワィ列島北端にあるミツド

を 禅 に 求 め て い た 草 鹿 少 将 に と っ て は 、 ね ば っ こ い 戦 い は 、性 に あ わ な か っ た に ち が い な い 。

む 徹 底 攻 撃 を 加 え る こ と に な る が 、電 光 に 似 た 一 刀 の 冴 え を 剣 の 極 意 と 見 定 め 、執 着 を 絶 つ 悟 道

こ の

る。

と、 山 本 大 将 は 昭 和 十 六 年 一 月 、 ハ ワ ィ 作 戦 を 示 唆 し た 及 川 海 相 あ て の 手 紙 の 中 で 、 述 べ て い

米 国 海 軍 及 米 国 民ヲシテ 救 フ !^カラザル 程 度 ニ 、 其 ノ 志 気 ヲ沮 喪 セシムル コ ト 是 ナ リ 」

草鹿龍之介 79

現 を か り れ ば 「意 気 揚 々 と し て 海 を 圧 し て 」、 広 島 湾 に 帰 っ て き た 。 そ の後、南 雲 部 隊 は ま た 出 撃 し て 、 西太平 洋 、 ィ ン ド 洋に至るまで、 約 五 か 月 間 、地球をニ周

す ると、南 雲 部 隊 を 待 っ て い た の は 、 ミ ッ ド ゥ 一 丨攻 略 作 戦 で あ っ た 。

以 上 す る 航 程 の 活 躍 を す ま せ て 、 昭 和 十 七 年 四 月 二 十 二 日 、再 び 内 地 に 帰 還 し た 。

ハワィ



ど こ に

南雲部隊の大

ナ ギ ナ タ を ふ り

述 懐 し .て い る が 、 草 鹿 少 将 も 、 同 感 で あ っ た 。

以 後 の 作 戦 に つ い て 、 「南 方 の

そ こ へ 、 こんど

かぶらねば

草 鹿 少 将 は 、 眉 を し か め た 。 南 雲 部 隊 は 、 疲 れ て い る 。 真 珠 湾 空 襲 部 隊 の 総 指 揮 官 .淵 田 美 津 雄中佐は、

は ミ ッ ド ゥ ュ | だ、 と い ぅ 。

な ら ぬ 敵 が い た か 」 と、 不 満 げ

「機 動 部 隊 の 立 場 か ら い え ば 、 こ こ で 一 応 ニ 、 三 か 月 の ゆ と り を 与 え て も ら い 、 艦 船 兵 器 を 整 備

少 将 は 、考 え

し 、 乗 員 、 と く に 飛 行 機 塔 乗 員 の 交 替 を お こ な っ て 訓 練 を ま き な お し 、編制も経験を基礎として

戦略だ、 と草鹿

大 改 革 を 加 え 、威 容 を た て な お し て 敵 機 動 部 隊 と 正 々 堂 々 、 決 戦 を 求 め る 」

ではないか。

と る べ き で も ょ い 」

これが、南 方 攻 略 と い ぅ 第 一 段 作 戦 を 終 え た 連 合 艦 隊 の て い た 。 ミ ッ ド ゥ ェ ー な ど 「要 地 の 攻 略 は そ れ か ら

こ の 草 鹿 少 将 の 感 慨 は 、真 珠 湾 当 時 の 見 解 に く ら べ る と 、 や や 精 密 さ を 欠 い て い る ょ ぅ で あ る 。 い る 。 し て み れ ば 、 南 方 で の 東 奔 西 走 は 当 然 で あ り 、 ま た 、 「正 々 堂 々 の 決 戦 」、 つ ま り は 、 た だ

少 将 は 、 「一、 ニ に と ど ま ら な い 」 敵 が 南 方 に い る か ら 、 真 珠 湾 で は 第 一 撃 で 止 め た 、 と い っ て

80

一 太 刀 で 敵 を 仕 留 め る 戦 い を 求 め て い る が 、 では、 いつ、 ど こ で 、ど の ょ ぅ な 形 で 対 決 す る か 、 その内容は示していない。

だ が 、 そ れ は と も か く 、 草 鹿 少 将 は 、 結 局 は 気 楽 な 心 境 で ミ ッ ド ウ ヱ ー を め ざ し た 。 「ひ と た

び 機 動 部 隊 が 出 陣 す れ ば 、 それこそ一^ ^ 一触 な に ほ ど の こ と が あ る 」 と い ぅ 自 信 が あ っ た か ら で

そ し て 、 ミ ッ ド ウ ヱ ー作 戦 は 、 草 鹿 少 将 の 予 想 ど お り 、 「な に ほ ど の こ と 」 も な く 、 し ご く 順

ある。 調 こ 進 し で い つ 」】 0

予 定 ど お り に 予 定 の 地 点 に 到 着 し 、 六 月 五 日 、予 定 ど お り ミ ッ ド ウ ユ ー 空 襲 部 隊 を 発 艦 さ せ た 。

電 信 が とどハた。 お り か ら ミ ッ ド ウ ユ ー を 空 襲 し た 味 方 飛 行 機 が 、 南 雲 部 隊 上 空 に 帰 り つ つ あ っ

機 の 能 力 は お と っ て お り 、 次 々 に 護 衛 戦 闘 機 に 撃 墜 さ れ た 。 と こ ろ が 、 飛 ん でき て は 落 と さ れ 、 また飛来して は 撃 墜 さ れ る 敵 機 を 眺 め て い るさなかに、重 巡 「利 根 」 の 偵 察 機 か ら 敵 空 母 発 見 の

飛 ん でき たらし い 陸 上 機 で あ る 。 敵 飛 行 艇 に 触 接 さ れ て い た の で 、 当 然 の こ と と み な さ れ た 。 敵

空 襲 部 隊 発 進 後 、南 雲 部 隊 は 、 敵 機 に 来 襲 さ れ た 。 し か し い ず れ も 、 ミ ッ ド ウユー島基地から

ネ ッ ト 」 「ヨ ー ク タ ウ ン 」 を 、 ミ ッ ド

む ろ ん 、 米 国 側 が 暗 号 解 読 で す で に 日 本 側 の 出 撃 を 察 知 し 、 空 母 「エ ン タ ー ブ ラ ィ ズ 」 「ホ ー ウ ヱー島 北 方 に 配 置 し て い る と は 、 夢 想 も し な か っ た 。

に撃滅する予定である。

島 の 空 襲 に つ づ い て 、 上 陸 部 隊 が 殺 到 す る 。 も し 、 ハ ワ ィ か ら 敵 機 動 部 隊 が か け つ け れ ば 、 一気

8 1 草鹿龍之介

82

「直 チ ニ攻 撃 隊 発 進 ノ 要 ァ リト認ム」 ——

と は 、空 母 「飛 竜 」 の 第 二 航 空 戦 隊 司 令 官山ロ 多 聞 少

た 。 な か に は 、 被 ^;し て 煙 の 尾 を ひ い て い る 飛 行 機 も い た 。

草 鹿 少 将 は 、 し か し 、 再 び 「金 翅 鳥 王剣」 の 極 意 で 対 処 することにした。

将の意見具申である。

ミ ッ ド ゥ ヱ ー 空 襲 隊 指 揮 官 .友 永 丈 市 大 尉 か ら は 、 も う 一 度 ミ ッ ド ゥ ュ ー 島 を 空 襲 す る 必 要 が あ る と 報 告 さ れ 、各 空 母 に 第 二 次 攻 撃 の 用 意 を 命 じ て あ っ た 。爆 弾 は 陸 用 爆 弾 を 積 ん で い る 。敵

用徹甲爆弾が、有効である。

空 母 攻 撃 と な れ ば 、 命 中 し て そ の ま ま 爆 発 す る 陸 用 爆 弾 ょ り も 、甲板を突き ぬ け て 炸 裂 す る 艦 船

そ れ に 、 「直 チ ニ 発 進 」 と な れ ば 、 護 衛 戦 闘 機 も 十 分 に つ け ら れ な い 。 護 衛 な し の 攻 撃 が い か に 惨 め か は 、 現 に 眼 前 で パ タ パ タ 撃 墜 さ れ る 敵 機 が 証 明 し て い る 。 ま た 、頭 上 に 帰 っ て き た 味 方

不時着せざるを得ないだろう。

機 も 、 「直 チ ニ 発 進 」 態 勢 を と れ ば 、 攻 撃 隊 が 発 艦 す る ま で は 着 艦 で き な い 。 燃 料 不 足 で 海 上 に

I

す な わ ち 、 全 力 を 一 太 刀 に こ め て ふ り お ろ す 「金 翅 鳥 王 剣 」 戦 法 を 採

草 鹿 少 将 は 、 ま ず 味 方 機 を 収 容 し 、 次 に 陸 用 爆 弾 を 艦 船 用 爆 弾 、 魚 雷 に と り か え 、戦 闘 機 も た っぶりつけて攻撃する 用した。

だ が 、 こ の 「金 翅 鳥 王 剣 」 は 、 つ い に ふ る う こ と が で き な か っ た 。 ょ う や く 態 勢 が と と の い 、

I

太 陽 か ら 吹 き だ し た ょ う に 敵 急 降 下 爆 撃 機 が 空 母 「加 賀 」 に 落 下 し 、 つ い で 午 前 十 時 二 十 四 分 、

各空母に攻撃隊飛行機が勢揃いしはじめた午前十時二十ニ分

旗 艦 「赤 城 」 か ら 一 番 機 が と び た つ と 同 時 に 、 同 じ く 敵 機 と 爆 弾 が 降 っ て き た 。

つ づ い て 空 母 「蒼 竜 」 も 被 弾 し て 炎 上 し 、 残 る 空 母 「飛 竜 」 も 夕 刻 に は 、 落 日 を 背 に ど っ と 燃

ま こ と に 、 一瞬の惨事といえるが、 こ の ミ ッ ド ゥ ヱ ー の 敗 戦 の 原 因 を さ ぐ り つ く す こ と は 、容

え上がって、南雲部隊の空母は全滅してしまった。

易 で は な い 。 た だ 、 「そ れ 剣 は 瞬 息 」 と 教 え た の は 、 江 戸 時 代 の 剣 客 千 葉 周 作 で あ る が 、 "日 本 海

ズ 」 を 中 破 し た 。 日 本 側 は 空 母 「竜 釀 」 沈 没 (注 、 炎 上 し た あ と 味 方 魚 雷 で , 沈 )。 南 太 平 洋 海 戦 は 、 空 母 「エ ン タ ー ブ ラ イ ズ 」 「ホ ー ネ ッ ト 」 と 戦 い 、 空 母 「ホ ー ネ ッ ト 」 を 撃

第 二 次 ソ ロ モ ン 海 戦 で は 、 米 空 母 「サ ラ ト ガ 」 「エ ン タ ー ブ ラ イ ズ 」 と 戦 い 、 「エ ン タ ー ブ ラ イ

の二つの戦いを体験した。

第 三 艦 隊 は 、昭 和 十 七 年 八 月 二 十 八 日 の 第 二 次 ソ ロ モ ン 海 戦 、同 十 月 二 十 六 日 の 南 太 平 洋 海 戦

った。

えない。 草 ! 少 将 は 、 ミ ッ ド ゥ ヱ ー 敗 戦 後 、南 雲 中 将 を 指 揮 官 と し て 編 制 さ れ た 第 三 艦 隊 の 参 謀 長 に な

を み た と た ん に ま っ し ぐ ら に 突 き の 一 手 を こ こ ろ み て い た ら … … と い う 悔 恨 は 、 つきまとって消

軍 の 剣 客 "草 鹿 少 将 が 、 も し 万 全 の 大 上 段 「金 翅 鳥 王 剣 」 で な く 、 た と え 鈍 刀 で あ ろ う と 、 敵 影

8 3 草鹿龍之介

沈 、 「エ ン タ ー ブ ラ ィ ズ 」 を 大 破 し た が 、 味 方 は 空 母 「翔 鶴 」 「瑞 鳳 」 が 大 破 し た 。

切れ味

呼 ん で 、

末 、南東方

ニ の太 刀 、

本 「ホ — ネ ッ ト 」)。 敵 の ニ の 太 刀 は 、 わ れ の "お胴ガ I 取 っ た (

「敵 の 初 太 刀 は ,面 # を は ず れ て わ が 前 衛 に ,お 小 手 , と き た が 、 そ れ も か す れ た 。 同 時 に わ が

にきた( 「翔 鶴 」 「瑞 鳳 」)。

ほうの初太刀はまさにガお面"と

タ ー ブ ラ ィ ズ 」)」

ガお胴" は 一 本 と ら れ た が 、 防 具 が 固 か っ た の で 致 命 傷 に は な ら な か っ た 。 わ が ほ う は に い っ た (「ヱ ン 面, ,

草 鹿 少 将 は 、 そ う 南 太 平 洋 海 戦 の 経 過 を 回 想 し て い る が 、少 将 が 昭 和 十 八 年 十 一 月

三の太刀と敵のガお

ぃった。

面 艦 隊 参 謀 長 と し て ラ バ ゥ ル に 着 任 す る と 、先 輩 の 戦 闘 機 部 隊 指 揮 官 酒 卷 中 将 が 、少 将 を

「ラ パ ゥ ル の 空 戦 は 、 貴 様 の よ う に 名 刀 一 閃 、 強 敵 を 両 断 し て 万 事 終 わ る も の で は な い 。 I

こ の 忠 告 は 、草 鹿 少 将 に と っ て 、 あ り が た く も あ り 、 ま た 耳 が 痛 い も の で も あ っ た 。 そ れ ま で

は 鈍 刀でも、 ナ タ で 木 を切るように、 う ま ず た ゆ ま ず 、毎 日 毎 日 敵 を た た く こ と だ

の 戦 績 を ふ り か え っ て み れ ば 、 草 鹿 少 将 の 作 戦 指 導 ぶ り は 、 た し か に ,名 刀 一 閃 " の 戦 い に と ら

第 二 次 ソ ロ モ ン 、 南 太 平 洋 両 海 戦 で も 、 草 鹿 少 将 は 、 〃この一太刀, の 機 会 を ね ら っ て 慎 重 に

われすぎていた嫌いがあるからである。

い わ ば 、 間 断 な く パ ン チ を く り だ す 米 海 軍 の 「ポ ク シ ン グ 戦 法 」 と 、 良 を つ め て 大 刀 を ふ る 草

敵 の 動 静 を う か が い 、 し ば し ば 連 合 艦 隊 司 令 部 か ら ^前 進 命 令 " を う け て い た 。

84

極 意 を 近 代 的 海 戦 の 精 髄 と 信 じ こ ん で い た だ け で は な く 、 一刀両断型の戦法

だ が ゝ 草 鹿 少 降 ^^首 を ふ っ た の 燃 料 が 無 い り つ ま り ゝ 小 沢 艦 隊 が 出 撃 し て — も し 敵 が 来 な け

謀 た ち はしき り に 出 撃 を 草 鹿 少 将 に 具 申 し た 。

むべき で あ る 。 敵 機 の サ イ パ ン 空 襲 、 艦 砲 射 撃 が 激 化 し て 、 上 陸 の 気 配 が 色 濃 く な る に つ れ 、 参

当 然 、敵 の サ イ パ ン 来 襲 に そ な え て 有 利 な 場 所 に 展 開 し 、敵 艦 隊 を 待 ち ぅ け 堂 々 の 決 戦 を い ど

もてた。

結 集 し た 兵 力 であり、 こ の 艦 隊 で こ そ 、 日 本 海 軍 が 夢 に み て き た 日 米 大 海 戦 を お こ な え る 期 待 が

第 一 機 動 艦 隊 は 、空 母 九 隻 、航 空 戦 艦 ニ 隻 、戦 艦 五 隻 を は じ め 、 当 時 の 日 本 海 軍 の ほ ぼ 総 力 を

計画した。 ところが、 この計画には致命的な制約があった。

草 鹿 少 将 ょ 、 小 沢 治 三 郎 中 将 が 指 揮 す る 第 一 機 動 艦 隊 で 敵 機 動 部 隊 を 撃 滅 す る 「あ 号 」 作 戦 を

のサイパン島進攻の気配が濃厚となった。

た と え ば 、 草 鹿 少 将 は 昭 和 十 九 年 四 月 、 連 合 艦 隊 参 謀 長 に な っ た が 、 そ の ニ か 月 後 に は 、米軍

以外を考えられぬ事情が、 日本海軍にあったからでもある。

いや、 少 将 が 剣 の

め た の で あ る 。 が 、 草 鹿 少 将 の 「一刀流戦術」 は、直 ら な か っ た 。

酒 卷 中 将 は 、 そ の 点 を 指 摘 し て 、相 手 に 応 じ た こ ま め な 戦 い も あ っ て 良 い 、' と草鹿少将にすす

鹿 少 将 の 「一 刀 流 戦 術 」 と の 相 違 が 目 立 ち 、 あ え て 連 合 艦 隊 が 督 促 し て 生 起 し た 海 戦 で も あ っ た 。

8 5 草鹿龍之介

86

にもどる燃料は、 無い。

れば 、 小 沢 艦 隊 は ひ き 返 す 。そ の す き に や っ て 来 ら れ た ら 、 もはや小沢艦隊には途中でサィパン

だ か ら 、 ど う し て も 敵 が 上 陸 し て 、 敵 艦 隊 も 「そ の 付 近 を 離 れ る こ と が で き な い 。 … …抜 き さ

結 局 は 、 ま た も や 、 一 刀 で 敵 を 仕 とめ る 「金 翅 鳥 王 剣 」 の 剣 理 に 帰 着 するわけだが、 敵 上 陸 後

しならないようになるのを見定めておいて、 そこへ小沢部隊をもって」 いかねばならない。

に い ど む 決 戦 に は 、 有 効 打 は 期 待 で き な い 。 敵 艦 隊 と し て は 、 上 睦 船 団 と い う 足 手まとい も なく な り 、 余 裕 を も っ て 日 本 艦 隊 を 待 ち うけることができるからである。

と も な う

栗田健男中将の第二艦隊突入作戦も、 やはり燃料不足が足かせとなり、

「あ 号 」 作 戦 は 、 航 空 部 隊 の 技 倆 未 熟 も 手 伝 っ て 大 敗 に 終 わ っ た 。 次 い で 昭 和 十 九 年 十 月 、 米 軍 のレィテ島上陸に

ま たし

精 密 な 計 画 を ね り な が ら 、草 鹿 少 将 の 刀 I は、敵 に 十 分 に 届 か ず に 終 わ っ た 。本 来 な ら 、 敵上陸 ても 敵 に 余 裕 を 与 え 、栗 田 艦 隊 は 敵 空 母 部 隊 を 求 め な が ら も 、逆にかろう じ て ザ ぐ 滅 を ま ぬ が れ

直 後 の 混 乱 期 に 艦 隊 が 突 入 す る の が 望 ま し か っ た が 、確 実 な 一 撃 し か 許 さ れ な い 事 情 は 、

こ の よ う に み て く る と 、 草 鹿 少 将 の 「一 刀 流 戦 術 」 は 、 一方で、 満 点 を の ぞ む "優 等 生 心 理 "

て帰還した形になったのである。

Iガンを余儀なくされた海 〇

に支えられているためか、 とかく勝機を逃す欠点が目につくと同時に、 それは、 あるいは艦隊決

にも由来していたことが、理解できる。 ,

戦 を 求 め る 日 本 海 軍 の 伝 統 的 思 想 や 、 一撃必殺、 一 発 必 中 な ど め ス 軍のガムロ所事情

お そ ら く 、

そ の よ う な 背 景 が あ る の で 、草 鹿 少 将 も 重 用 さ れ つ づ け た の で あ ろ う が 、草 鹿 少 将

の剣法極意がみごとな効果を発揮したことも、ある。

草 鹿 少 将 は 中将に昇進して、昭和二十年八月十日、第五航空艦隊司令長官に就任したが、大分

この私を血祭りにあげよ。私も剣には多少腕に覚えがあるが、 いまさらジタバタせぬ」

かった。

の 上 に

端坐した。

う 、 す す り 泣 き を ま じ え た

服従を

誓 う

声 で あ り 、 そ の 後 、第五航空艦隊に 不 安 な 動 揺 は 起 こ ら な

だ が 、 や が て 聞 こ え て き た の は 、 中 将 を め が け る 斬 撃 の 刃 音 で は な く 、 「わ か り ま し た 」 と い

然 と ソ フ ァ —

い (終 わ っ て 草 鹿 中 将 は 、 生 涯 を 通 じ て 修 養 し て き た 剣 と 禅 の 妙 境 を 求 め て 気 息 を ひ そ め 、 黙

ま ず

「私 は こ の 第 五 航 空 艦 隊 の 全 力 を あ げ て 、 終 戦 平 和 に 努 力 す る 決 意 で あ る … … 不 都 合 と 思 ' うなら、

部 下 た ち

前 任 者 宇 垣 纒 中 将 は 、沖 繩 に 特 攻 出 撃 し て い た 。 な お 抗 戦 を 主 張 す る 一 部 の 将 兵 の 声 が 強 く 、 の 中 に も 動 揺 す る よ う す が み え た 。草 鹿 中 将 は 、自 室 に 部 下 を 集 め て 、 い っ た 。

市郊外の司令部に着任したのは、 八月十六日、すでに終戦になっていた。

8 7 草鹿龍之介

前田正実

「戦 争 卩 政 治

戦闘」

「戦 争 は 政 治 の 一 手 段 だ 」 ——: と い う 意 味 の 定 義 を こ こ ろ み た の は 、 ド イ ツ の 戦 略 家 フ ォ ン . ラ ウ ゼ ウ ィ ッ ツ で あ る が 、 こ の 定 義 は 、次 の ょ う な 図 式 に 書 き か え ら れ る か も し れ な い 。 I

「戦 争 卩 戦 闘 +政 治 」



前田少将は、太平洋戦争の開始にあたってフィリピンを攻略する第十四軍參謀長要員であった。

の二つの図式の関係であった、 といえる。

昭 和十 六 年 十 月 、 陸 軍 大 学校 で 開 か れ た 南 方 作 戦 兵 棋演 習 で 前 田 正 実 少 将 が 提 起 し た 質 問 も 、 こ

治とは異質な軍事行動との関係で、どちらに優先順位をおくかが問題になるからである。そして、

つまり、 戦 争 に 戦 闘 は 不 可 欠 で あ る 。 戦 争 を 政 治 の 一 部 門 と み な し て も 、 必 然 的 に と も な う 政

I

だが、 もうひとつ、別 の 図 式も考えられる。

+4

前 田 正 実 89

に "息 も つ か ぬ 突 進 " で あ っ た 。 敵 に 立 ち 直 る 余 裕 を 与 え ぬ た め 、 マ レ ー 、 シ ン ガ ボ ー ル 、 そ し

參 謀 本 部 は 、 ジ ャ ワ 攻 略 を 最 終 目 標 に す る 南 方 各 地 の 攻 略 計 画 を た て た が 、 そ の 思 想 は 、 要する

フ ィ リ ピ ン

作戦も、開戦 十 日

後に第十四軍主力の上陸、 三十五日後に首都マ一ラ占領、 四 十 五

てフィリビンもー気に制圧して、開戦約八十日後にはジャワを攻め落としてしまぅ。

日 後 に は 全 作 戦 を 終 了 し て 、 主 力 部 隊 で あ る 第 四 十 八 師 団 を ジ ャ ワ 作 戦 に ふ り む け る 、 といぅ計 画であった。

前 田 少 将 は 、 兵 棋 演 習 の と き 、参 謀 本 部 の 作 戦 が ひ た す ら 首 都 マ ニ ラ の 攻 略 だ け を め ざ し て い る の に た い し て 、疑 問 を 表 明 し た 。

ス ペ イ ン

軍 が (マ -一 ラ

西方の)

バ タ



半 島 に 籠 城 し た よ ぅ に 、米 ン

フ ィ リ ピ ン

軍がバター



「作 戦 の 方 針 は 要 地 の 占 領 に あ る の か 、 敵 の 野 戦 軍 主 力 の 撃 滅 に あ る の か 。 米 西 (ス ペ ィ ン ) 戦

に退避する公算があるが、 その場合の作戦にかんしてはいかに考えているか」

争で

質 問 は 、第十四軍の上級機関である南方軍総司令部にむけられたが、 この前田少将の指摘は重

前 田 少 将 は 、 工 兵 出 身 だ が 、参 謀 本 部 勤 務 の 大 尉 時 代 、大 正 十 四 年 五 月 か ら 昭 和 三 年 十 二 月 ま

犬であった。

で、 電 気 器 具 商 に 変 身 し て フ ィ リ ピ ン に 潜 入 し 、 情 報 活 動 を し た フ ィ リ ピ ン 通 で あ る 。

前 田 大 尉 は 帰 国 す る と 、 日 本 軍 が フ ィ リ ピ ン に 進 攻 す る 場 合 、米 軍 は パ タ ーン半島とその南端 に^ かぶコレ ヒドール 島 を守り、 日 本 軍 の マニラ湾 利 用 を 妨 害 し な が ら 米 本 国 軍 の 来 援 を 待 つ 持

90

久戦法をとる可能性がある、 と報告した。 い ら い 、 昭 和 四 年 か ら 士 ー 年 度 ま で の 参 謀 本 部 「年 度 作 戦 計 画 細 綱 」 に は 、 フ ィ リ ピ ン 攻 略 軍 の編制. には攻城重砲兵、鉄 道 隊 な ど 、 パターン半島、 コレヒドール島攻略にそなえる兵力が加え

と こ ろ が 、 いま、 現 実 に フ ィ リ ピ ン に む か お ぅ と す る と き 、参 謀 本 部 が 提 示 し た 作 戦 計 画 で は 、

られ、 そ の作戦要領も記述されていた。

バ タ ー ン 半 島 に は ふ れ ら れ て い な い 。 前 田 参 謀 長 は 、 も し パ タ ー ン に 敵 が 逃 げ こ み 、 これを 撃 滅

しよぅと す る な ら ば 、 第 十 四 軍 に は 、 も っ と 兵 力 が 必 要 だ 、 と 注 意 し た の である。 南 方 軍 総 参 謀 副 長 に 予 定 さ れ て い る 青 木 重 誠 少 将 は 、南 方 軍 の 見 解 を ひ れ き し た 。 「も し 、 作 戦 経 過 中 、 米 比 軍 が バ タ ー ン に 退 避 す れ ば 、 そ れ は マニラ 攻 略 後 の 平 定 作 戦 と し て 、

於 -1 ケ ル 敵 ヲ 撃 破 シ 其 ノ 主 要 ナ ル 根 拠 ヲ 覆

ゆ っ く り 処 理 し て も ら い た い 。 と に か く 、.マニラは 政 戦 略 関 係 か ら す み や か に 攻 略 す る 必 要 が あ り、海軍もこれを熱望している」 」 と定められた。

結 局 、 第 十 四 軍 の 作 戦 目 的 は 「比 島 (フ ィ リ ピ ン )

,主 要 ナ ル 根 拠 , す な わ ち 、 首 都 マ ニ ラ で あ る が 、 前 田 少 将 と 青 木 少 将 と の 対 話 は 、 ま さ に 前 述

滅 ス ルニ ア リ

の二種の図式の対立であった。

前田少将が、戦争の目的は敵を屈伏させることを主眼とする、ゆえに敵の野戦軍の撃滅を先決

9 1 前 田 正 実

とすると 主 張 す る の に た い し 、 青 木 少 将 は 、 敵 の 屈 伏 は 政 治 の 中 心 で あ る 首 都 の 占 領 に よ っ て 達

青木少将の考えは、支那事変前までの旧式思想といえるかもしれない。 それまでの戦争は、 た

成 さ れ る 、 という。

し か に 、 敵 の 首 都 を 陥 落 さ せ れ ば 戦 争 は 終 わ っ た か ら で あ る 。 だ が 、 支 那 事 変 で 、首 都 南 京 を 攻

略しても 蔣 介 石 軍 は 大 陸 奥 地 に 逃 れ て 抗 戦 を つ づ け た よ う に 、 政 治 的 中 心 地 の 制 圧 に 重 点 を お く 「戦 争 ” 政治十戦闘」思想は訂正を要求されはじめていたはずでもある。

戦闘」図式を信奉していたからである。

だ が 、 前 田 少 将 は 、青 木 少 将 の 発 省 に あ っ さ り う な ず い た 。 後 述 す る よ う に 、 前 田 少 将 は 、青 木 少 将 と は 別 の 意 味 で 、 「戦 争 ”政 治

リ ン ガ エ ン 湾 か ら マ ニ ラ に む か う に は 、 バ タ ーン 半 島 の 根 も と を 左 折 す る こ と に な る 。 当 然 、

ラ市の非武装都市宣言を発表した。

半 島 に 退 避 す る ら し い 、 と の 情 報 を 入 手 し 、 二 十 七 日 に は 、 米軍司ム卫目マッカーサー大将はマ一

と ころが、前 田 参 謀 長 の 予 感 ど お り 、十 二 月 二 十 五 日 に は 早 く も 、米 フ ィ リ ピ ン 軍 が パ タ — ン

た 如 く 、敵 も ま た 首 都 防 衛 に 全 力 を あ げ る も の と 考 え ら れ た の で あ る 。

予 想 で は 、 マニラ周辺で日米軍の決戦がおこなわれるとみこまれた。 日本側が首都を目標にし

十一月に中将に進級して、参謀長になっていた。

中 西 部 の リ ン ガ エ ン 湾 に 上 陸 し て 、 ま っ し ぐ ら に マ ニ ラ に 突 進 し た 。 前 田 少 将 は 、予 定 ど お り 、

本 間 雅 晴 中 将 が 指 揮 す る 第 十 四 軍 主 力 は 、 昭 和 十 六 年 十 二 月 二 十 二 日 、 フィリ ピ ン 、 ルソン島

4-

92

マ ニ ラ に 行 く 前 に 右 折 し て 、 パ タ ー ン 半 島 の入り口を 押 え 、逃げる米フィリピン軍を 撃 滅 する 色

べし、 と強調した。

要 が あ る 、 と い う 意 見 が 、 幕 僚 た ち の 間 か ら 起 こ っ た が 、 前 田参 謀 長 は 、ま っ す ぐ マ ニ ラ に進む

じ つ は 、 前 田 参 謀 長 は 、 大 尉 時 代 の 研 究 か ら 、 相 手 が パ タ ー ン 半 島 に 逃 げ こ ん だ 場 合 は 、 これ を 攻 撃 せ ず に 周 辺 を 支 配 し て 自 滅 を 待 つ べ き だ 、 と も と も と 考 え て い た 。 図 上 演 習 の とき、 青 卞

からであった。

少 将 に 質 問 し た の も 、 戦 闘 第 一 主 義 の 立 場 か ら で は な く 、逆 に 政 治 優 先 主 義 を 確 認 さ せ た い 希 望

青 木少将が、 マ一ラ攻略 で 十 分 だ 、 と 答 え 、 即 座 に 前 田 参 謀 長 が う な ず い た の も 、青 木 少 将 が

「そ の 件 に つ い て は 、 南 方 軍 と も 大 本 営 と も 、 す で に 協 議 ず み で あ る 。 作 戦 方 針 と し てマニラを

自説と同じ考えをもっているものと解釈したからであった。

手 中 に お さ め 、 爾 後 は 治 安 を 確 保 し 、 フ ィ リ ピ ン 政 府 を 指 導 し て 軍 政 の 基 礎 を固め、残敵の自然 る」

本 間 中 将 は 、前 田 参 謀 長 の フ ィ リ ピ ン に た い す る 知 識 を 高 く 評 価 し て い た 。第 十 四 軍 の 作 戦 目

消 滅 を は か る の が 、 軍 に 与 え ら れ た 使 命 の 達 成 に も か な うものと、 確 信 す

マニラは昭和十七年一月二日、陥 落 し た 。

標 も 、 マ一ラ 攻 略 と 指 定 さ れ て い る 。そこで 前 田 参 謀 長 の 意 見 を い れ て 第 十 四 軍 主 力 に 進 ま せ 、

ところが、参謀たちの間から、異論が出た。 敵 は バ タ ー ン 半 島 に い る 。 そ し て 、敵 が バ タ ー ン 半 島 に 腰 を す え て い る 限 り は 、 マニラ湾の安

全 も保障されないし、 マニラ 市 自 体 が 横 か ら の 脅 威 にさらされ、 か つ フ ィ リ ピ ン 一 般 市 民 に た い

しても、 日 本 軍 の 優 位 をなつとくさせにくくなる。

ま た 、 第 十 四 軍 は 第 四 十 八 師 団 、第 十 六 師 団 、 第 六 十 五 旅 団 を 基 幹 と す る が 、 南 方 軍 は マ ニ ラ

化 さ れ 、 十 や、 第 十 四 軍 は 兵 力 が 減 少 す る の だ か ら 、 ま す ま す バ タ ー ン 敵 軍 の 撃 滅 は 困 難 と な る

陥 落 後 、直 ち に 第 四 十 八 師 団 の 転 出 を 命 じ て い る 。時 間 を の ば せ ば 、 それだけ敵の防禦体制は強

本 間 中 将 は 、 「一 刻 も 早 く バ タ ー ン 米 比 軍 を 掃 滅 す べ き で あ り ま す 」 と い う 高 級 参 謀 中 山 源 夫

あ る サ ン フ ュ ル ナ ン ド 市 に 進 出 さ せ た 。 そ し て 、第 六 十 五 旅 団 に パ タ ー ン 攻 撃 を 命 じ た 。

大 佐 の 意 見 を 採 用 し て 、軍 司 令 部 を マ ニ ラ 北 方 の パ リ ゥ ァ グ 町 、 ついでバターン半島の入り口に

前 田 参 謀 長 は 、 別 に マ ニ ラ に 第 十 四 軍 司 令 部 "支 部 " を 設 置 し た 。 幕 僚 の う ち 、 軍 政 、 情 報 を

担 当 す る 参 謀 副 長 林 義 秀 少 将 、 高 津 利 光 大 佐 (情 報 )、 中 島 義 雄 中 佐 (情 報 )、 和 田 盛 哉 少 佐 (軍

前 田 參 謀 長 は 、 そ う 牧 中 佐 に い っ た 。戦 争 は 戦 闘 と 政 治 の 複 合 体 で あ る 。 そ の 戦 闘 が な く な れ

を担当してもらいたい」

「マ ニ ラ を 占 領 し て 軍 の 作 戦 任 務 は 一 応 終 わ っ た の だ か ら 、 政 治 、 経 済 の 中 心 マ ニ ラ で 軍 政 方 面

いた。

政)、 稲 垣 正 次 少 佐 (後 方 )、 宮 田 三 男 大 尉 (船 舶 ) の ほ か 、 作 戦 主 任 牧 達 夫 中 佐 も 、 マ ニ ラ に 招 前 田 正 実 93

94 ル へ .

助成





ス ル ヲ 以 テ

任務

や、 ト ス 。

フ ィ リ ピ ン

之力為常

、 且 其 企 図 達 成 -シ 一責関任 ヲ 負 フ

主要

,ヴ ァ ル ガ ス を 長 と す る フ ィ リ ピ ン 行 政 府 樹 立

輔佐

決断

ヲ ノ

ナル

モノ

、軍

ノ統

熱 中 し た 。

… 」

ヲ 熟 知 シ ト ス …

其意図 ニ

軍政の運営に

ば 「戦 争 “政 治 」 に な る わ け で あ る 。 そ し て 、 前 田 参 謀 長 は 、 本 来 の 軍 政 担 当 .林 副 長 以 上 に ホ

軍司令官



適時軍司令官

と は 、 「戦 時 高 等 司 令 部 勤 務 令 」 に 規 定 さ れ た 参 謀 長 の 職 責 で あ る 。

ニ関シ

「軍 參 謀 長 帥

前 田 参 謀 長 は 、 マ ニ ラ を 中 心 と す る フ ィ リ ビ ン 政 治 の 安 定 こ そ 、第 十 四 軍 に 与 え ら れ た 使 命 達

る と

明 ら か に 、第 十 四 軍 司 令 部 は 二 分 さ れ

確信していた。 I

て い る 。 し か も 、

参謀長以下十三人の幕僚のう

成への最短、 かつ最有効の方策であり、自分が仕える第十四軍司令官本間中将の意図も実現でき

だが

ち、 八 人 が マ 一 ラ に 駐 在 し 、 第 一 線 に 出 て い る の は 、 中 山 源 夫 大 佐 、 秋 山 紋 次 郎 中 佐 (航 空 )、羽 場 光 少 佐 (情 報 )、 佐 藤 徳 太 郎 少 佐 (作 戦 )、 北 山 三 千 雄 少 佐 (通 信 ) の 五 人 に す ぎ ず 、 こ の う ち 北山少佐は、 マニラと前線とを往来する形であった。

I



「こ ん な こ と で 作 戦 の 指 導 が で き る の か 。 敵 は ま だ 手 を あ げ て い な い 。 そ れ ど こ ろ か 、 が っ ち り

いうのが、中 山 大 佐の主張であり、第六十五旅団の攻撃が頓挫すると、ますます中山大佐の血圧

構えているのだ。 この敵をほったらかしておいて、それで作戦軍の存在意義があるのか」

は上昇した。 第 六 十 五 旅 団 〔奈 良 晃 中 将 ) は、 も と も と 警 備 部 隊 と し て 応 召 兵 を か き あ つ め て 編 制 さ れ て い

っ て い た と こ ろ 、突 然 、 二 十 万 分 の 一 地 図 を 渡 さ れ て 、 バ タ ー ン 半 島 に 突 撃 し た の で あ る 。

る。昭和十七 年 元 旦 に リ ン ガ ヱ ン 湾 に 上 陸 し て 、 二 百キロの 炎 天 下 の 道 を 行 軍 し て へ と へ と に な

第 十 四 軍 で は 、 バ タ ー ン の 米 フ ィ リ ピ ン 軍 は 、兵 力 約 四 万 〜 四 万 五 千 人 以 下 。強 固 な 陣地は半

のも発見されている。 士気も低下しているにちがいない。第 六 十 五 旅 団 に 攻 撃 さ せ れ ば 、ま ず

島 南 端 の マ リ ベ レ ス 付 近 だ け で あ り 、糧 食 も せ い ぜ い 六 か 月 分 以 下 。逃亡兵 の 処 刑 死 体 ら し い も

す 。 兵 力 を 増 加 す る も 地 形 の 関 係 上 、 こ れ を 用 う る 余 地 が あ り ま せ ん .. も っ と も 、 バ タ ー ン 、

を下問した。 し 「バタ ー ン 半 島 はちょうど 小 田 原 、 ^ ^ のよう な 地 形 で あ る た め 、 作 戦 の 進 涉 は お く れ て お り ま

バ タ ー ン 半 島 の 苦 戦 は 天 皇 の 耳 に も は い り 、 天 皇 は 一 月 二 十 二 日 、参謀総長 杉 山 元 大 将 に 状 況

百四十一連隊も半数近い損害をうけて敗退した。

ニ個大隊は半数または全滅に近い打撃をうけ、第九連隊はナチブ山のジャングルに迷いこみ、第

また、 第 十 六 師 団 か ら ニ 個 大 隊 が 半 島 西 岸 に 上 陸 し て 敵 の 側 背 を 攻 め る 作 戦 を た て た が 、 この

隊 〔武 智 漸 大 佐 ) を 中 央 、 第 百 四 十 一 連 隊 (今 井 武 夫 大 佐 ) を 東 岸 沿 い に 進 ま せ た 。

第 六 十 五 旅 団 は 、指 揮 下 の 四 個 連 隊 の う ち 、 第 百 二 士 一 、 第 四 士 ー 連 隊 を 予 備 に 残 - ^ 第 九 連

て持久を覚悟していたのである。

ところが、 バタ ー ン の 米フィリピン 軍 は 、 兵 力 約 八 万 人 、 三 重 の 抵 抗 線 を 築 き 、 あ え て 減 食 し

「二 月 二 十 日ごろ」 に は 南 端 の マ リ ベ レ ス に 到 着 す る だ ろ う 、 と 判 断 し て い た 。

前 田 正 実 95

96

コレヒドー ル が 残 る と し て も 、 南 方 作 戦 全 体 の 障 害 と は な ら ず 、むしろ 志 気 の 関 係 が 重 視 せ ら れ

杉 山 参 謀 総 長 は 、 天 皇 に 奉 答 し た が 、南 方 軍 、第 十 四 軍 に た い し て 、 天 皇 が 憂 慮 し て お ら れ る

ます。 いずれにしても無益のギセィを払わぬようにすることが、 必要と存じます」

日 2 を打電した。 二 月 八 日 、本 間 中 将 は サ ン フ ュ ル ナ ン ド の 司 令 部 に 全 幕 僚 を 召 集 し て 作 戦 会 議 を 開 い た 。議題

中 山 大 佐 は 、断 固 た る 攻 撃 を 主 張 し た 。

は 、 む ろ ん 、 バ ターン 半 島 を ど う す る か 、 で あ る 。

「と に か く 、 敵 主 力 を 撃 破 し な く て は 、 作 戦 目 的 を 達 成 し た と は い え な い と 思 い ま す 。 敵 の 糧 食

は、 い つ の 日 に か こ れ を 陥 落 さ せ え ま し ょ う か 。 迅 速 果 敢 を 旨 と す る 南 方 作 戦 は 、 か か る 悠 長 を

貯蔵量 が 少 な い こ と に 頼 る 、 といっても、確かめたわけではない。 た だ 封 鎖 策 の み . にすがって

許しませぬ。

たしかに、第六十五旅団の攻撃は失敗しておる。 しかし、それは敵が強いめではなく、味方が 各 個 パラパラに攻撃したためであって、もし軍の総力をあげ、東岸に重点を指向すれば、成功の 見 込 み はあります」

V

戦闘十政治」方式を、明確に指摘した。作戦参謀佐藤少佐が同意した。

中 山 大 佐 は 、 攻 撃 こ そ 最 良 の 防 禦 で あ り 「ま ず 勝 ち 、 次 に 支 配 す る 」 の が 攻 略 と い う も の . だ、 と 「戦 争

9 7 前 田 正 実

前田参謀長は、反駁した。

「本 戦 争 の 目 的 は 、 国 防 資 源 の 確 保 に あ る 。 そ し て 、 戦 争 は は じ ま っ た ば か り で あ る 。 し て み れ

リ ピ ン

リピンを平定し、

フ イ リ

全土を眺めるとき、 ビサヤ諸島、 、 、 、ン ダ ナ オ 島な



捲土重来を期すべき

南方地域にはなお

ゲ リ ラ が

うご

ビン民心を把握する点である。

は げ み 、

ば 、無駄な兵力の損耗はつつしみ、戦争目的の達成に邁進すべきである。 すでに、 わが兵力の過

フ イ

少 と 疲 労 が 判 明 し て い る 以 上 、猪 突 攻 撃 は 避 け 、後 方 戦 力 の 補 充 に である。 なによりも大事なことは、 フイ

そ う す れ ば 、残 敵 は 自 然 に わ が 陣 門 に 降 ら ざ る を え な い で あ ろ う 」

イリ

ビンの こ と は

任 せ て も ら い た い 」 ^ ― と い い た げ に 、 前 田 参 謀 長 は ,政 治 優

め い て い る 。無 理 な 攻 撃 で さ ら に 兵 力 の 損 失 と 日 本 軍 の 威 信 の 低 下 を ま ね い て は 、 より深刻な事 態 と な る 。 「フ

ど う や ら 、 第十四軍司八下部は、 "中 山 派 " と "前 田 派 , に 分 裂 し た 感 じ で あ る 。

先 , の 戦 略 論 を 主 張 し た 。 作 戦 主 任 牧 達 夫 中 佐 が 、賛 成 し た 。

本 間 中 将 は 、 熟 慮 し た 末 、 前 田 案 を 採 用 す る こ と に 決 定 し 、 二 月 十 日 「血 涙 ヲ 吞 ミ テ 現 在 ノ 態

というの

バ タ — ン

で あ る 。

、 コレヒド

ー ル は

「封 鎖

ヲ 図 ル 」

と と も に 、 ピ サ ヤ 諸 島 を 攻 略 し て 「敵 ノ

勢 ヲ 整 理 」 す る と い う バ タ ー ン 攻 撃 中 止 案 を 、參 謀 長 名 で 南 方 軍 、参 謀 本 部 に 電 報 し た 。 代わりに、

だ が 、 南 方 軍 は 反 対 し た 。南 方 軍 は 、 参 謀 本 部 の 指 示 を 得 て 、 第 十 四 軍 に 第 二 十 一 師 団 の 一 部

屈 服 ヲ 図 ル 」

と、新 た に 第 四 師 団 の 増 援 を 通 知 し て い た が 、 そ れ は バ タ ー ン の 敵 軍 擊 滅 の た め で あ る 。

南 方 軍 か ら 7ィリビンに視察に出むいた参謀荒尾興功中佐の報告をきいた南方軍高級参謀石井 正 美 大 佐 は 、首 を か し げ た 。 「す で に 兵 力 増 強 が 確 立 し て い て 攻 撃 再 開 の 企 画 が 明 白 に な っ て い る に も か か わ ら ず 、 な お バ タ 丨ンの攻撃を放棄するのは、明らかに作戦方針の無視であり、 国軍伝統の精神に反するものでは

特 ニ

現在 ノ

圧迫態勢

ヲ1 ム ル コ ト ナ ク 、 且 ツ

攻撃再興



時機



遅延

セ シ メ サ ル コ ト ニ 関 シ 、

石 井 大 佐 は 、 二 月 十 七 日 、第 十 四 軍 司 令 部 内 の 攻 撃 論 者 で あ る 中 山 大 佐 に 、直 接 電 報 し た 。

ないか」

ニ、

「 一、 甲 案 (攻 撃 続 行 ) ノ 採 用 ヲ 希 望 セ ラ ル

格別ノ御配慮ヲ得度」

そ し て 、 再 び 前 田 参 謀 長 の "政 治 的 戦 呼 " と 中 山 大 佐 の 〃 作 戦 第 一 主 義 , と が 対 立 し た が 、 こ

本 間 中 将 は 、 ニ月二十日、再 び 幕 僚 を 集 め て 作 戦 会 讓 を 開 い た 。 '

ん ど は 最 後 ま で 攻 撃 続 行 を 主 張 し た の は 中 山 大 佐 だ け に と ど ま り 、 他 の 参 謀 た ち も 「ビ サ ヤ 先 攻 案 」 ま た は 「パ タ ー ン 封 鎖 案 」 を 、 提 議 し た 。 本 間 中 将 は 、 南 方 軍 総 司 ム # 寺 内 寿 大 一将 に 報 告 「軍 爾 後 の 作 戦 方 針 に 関 し 、 其 の 後 更 に 慎 重 検 討 を 加 へ た る 結 果 、 従 来 の 経 緯 に 拘 ら ず 、 乙 案

した。

( ビサヤ 先 攻 案 〕を 以 て 進 むことに 決 心 し た る に 付 報 告 す 。本 件 に 関 し 、御 懇 篤 な る 御 指 導 を 辱

98

前 田 正 実 99

く し た る に 拘 ら ず 、 事 玆 に 至 り 、 総 司 令 官 閣 下 に 多 大 の 御 迷 惑 を 及 ぼ し 、誠 に 汗 顔 の 至 り に 堪 へ ず、深く御詫申上ぐ。

南 方 軍 総 参 謀 長 塚 田 攻 中 将 は 、 一読すると、 ロ ヒ ゲ を は ね あ げ て 激 怒 し た 。

尚 、詳 細 は 明 二 十 一 日 、參 謀 長 を 貴 地 に 派 遣 報 告 せ し む 」

「第 十 四 軍 の 任 務 は 、 す み や か に 米 比 軍 の 根 拠 を 覆 滅 す る に あ る 。 パ タ ー ン 、 コ レ ヒ ド ー ル が そ

の 根 拠 で は な い か 。 ゆ え に 、 こ れ に た い し て 攻 撃 を お こ な わ な い こ と は 、任 務 を 放 棄 す る も の で あ る 。損 害 を 恐 れ る あ ま り 、攻 撃 を 実 行 し な い の は 、 本 末 転 倒 で あ る 」

塚 田 中 将 は 、 敵 の 有 力 野 戦 軍 を マ ニ ラ の 眼 前 に 放 置 し て 軍 政 を 普 及 さ せ よ う と す る の は 、 「木

第 十 四 軍 司 令 部 の 姿 勢 は 、 い わ ば 「任 務 の 割 り 引 き 」、 い や 、 命 令 違 反 に ひ と し い

I

と塚田

に 拠 っ て 魚 を 求 め る 」 よ う な も の で 、フ ィ リ ピ ン 市 民 に 日 本 軍 を 軽 べ つ さ せ る だ け だ 、と 判 断 し た 。

中 将 は 、 寺 内 大 将 に 進 言 し て 、 直 ち に 前 田 参 謀 長 の 罷 免 、 牧 作 戦 主 任 、稲 垣 後 方 参 謀 の 三 人 の 更 迭を発令した。

罷 免 の 電 報 は 、 二 月 二 十 一 日 、 マ ニ ラ に 到 着 し た 。 本 間 中 将 の 寺 内 大 将 あ て 電 文 の 如 く 、 前田 参 謀 長 が サイゴンの 南 方 軍 総 司 令 部 に 出 発 しようとす る 数 時 間 前 で あ る 。

前 田 參 謀 長 は 、後 任 の 和 知 鹰 ニ 少 将 に 引 き 継 ぎ を 終 わ っ た の ち 、 西部軍司令部付として内地に 帰 り 、 十 二 月 、 予 備 役 と なった。

パターン半島にたいする攻撃は、兵力の増強と予行演習をすませ、 四月三日、圧倒的優勢で再

100

ム 卫 目 エ ド ヮ ー ド .キ ン グ 少 将 は 降 伏 し た 。 コ レヒ ド ー ル 島 の 米 軍 も 、 五 月 五 日 に 第 四 師 団 第 六 十 一 連 隊 ( 佐藤源八大佐)

と戦

開 さ れ た 。米 フ ィ リ ピ ン 軍 の 抵 抗 は 予 想 外 に 弱 く 、 わ ず か 一週間後の四月九日、 パターン米軍司

つづいて、 パを吹き鳴らして降伏した。 フ ィ リ ピ ン軍 は 、

ほとんど食 糧 が 涸 褐 し て い た ぅ え 、将 兵 の 四 分 の 三 は

マラ

車 第 七 連 隊 (増 田 梅 喜 中 佐 ) の 一 部 が 上 陸 す る と 、 翌 六 日 、 シ ー ッ で 作 っ た 白 旗 を か か げ 、 ラッ

パターン半島の米

マ ラ リ ャ と 飢 え で 倒 れ て い た 、 と予 想 さ れ る 状 態 で あ っ た 。

リ ャ に か か り 、 お そ ら く 日 本 軍 の 攻 撃 が 一 週 間 遅 れ れ ば 、 否 応 な く 自 発 的 に 投 降 す る か 、 三分の

前 田 参 謀 長 は 、 昭 和 二 十 八 年 七 月 に 死 去 し た が 、 昭 和 十 七 年 二 月 に 故 国 に 帰 っ て い ら い 、 つい

一以上が

にフィリピン作戦については一言も語らずに終わった。

I

そ の 、政 治 を 主 に し て 作 戦

バ タ ー ン の 米 フ ィ リ ピ ン 軍 の 降 伏 状 況 を み れ ば 、 明 ら か に 前 田 參 謀 長 の 〃 政 治 的 戦 略 " にもと

ノ業 務 ヲ 統 制 ス ル 」 の が 、 軍 参 謀 長 の 職 務 と さ れ

づ く 予 言 が 的 中 し て い た と い え る が 、參 謀 長 が 罷 免 さ れ た 理 由 は を従にするかのごとき指導ぶりでは、ない。 「… …幕 僚 ノ 事 務 ヲ 指 揮 監 督 シ … …司 令 部 一 般

る が 、 前 田 参 謀 長 の 場 合 、 フ ィ リ ピ ン 事 情 に 精 通 し て い た こ と を 自 負 し 、 "専 門 家 " と し て の 立

といぅのである。

場 を 強 調 し す ぎ て 幕 僚 の 融 和 と 統 一 を 忘 れ た … … そ れ が 、参 謀 長 と し て は 不 適 格 と み な さ れ た 、

1 0 1 宇 垣 纆

宇 垣 纏

「万 事 ォ ー ヶ ー 、 皆 死 ね 、 み な 死 ね 、 国 の 為 俺 も 死 ぬ 」

I

と、 連 合 艦 隊 参 謀 長 宇 垣 經 少 将 は 、

昭 和 十 六 年 十 一 月 三 日 、 軍 令 部 第 一 部 長 (作 戦 ) 福 留 繁 少 将 か ら 〃 開 戦 決 定 " の 報 せ を う け た

日 誌 『戦 藻 録 』 に 記 述 し た 。

ときである。

宇 垣 少 将 は 、 そ の 三 か 月 前 、第 八 戦 隊 司 令 官 か ら 連 合 艦 隊 参 謀 長 に 転 出 し て き た が 、海軍兵学

校 を 優 等 で 卒 業 し た う え 、 大 学 校 教 官 時 代 に 、 陸 軍 の 『作 戦 要 務 令 』 に あ た る 海 上 戦 術 の 教 科 書

しかも、少 将 は 政 治 、国際情勢にたいする視野も広いうえに、死 ね 、 と自然にヵヶ声を発する

『海 戦 要 務 令 』 を 改 訂 す る な ど 、 そ の 英 才 ぶ り は 高 く 評 価 さ れ て い た 。

I

というァダ名は、どんな事態にも泰然として表情を動かさず、冷徹な心境を維

ょうに戦意にも富んでいる。 ,黄 金 仮 面 ,

102

と こ ろ . で

太平洋戦争開戦をひかえての連合艦隊参謀長として、最適任者とみなされていた。

持して、 」る か ら だ が 、 い わ ば 、 政 治 、 戦 略 、 そ し て 闘 志 に も す ぐ れ た 帝 国 海 軍 有 数 の 逸 材 で あ り 、

-

宇 垣 少 将 が 、 開 戦 決 定 と 知 り 、 と っ さ に 「死 ね 」 と 反 応 し た の は 、 武 人 ら し い 感 奮 だ け で は な

は、 いぅ 。

く、戦 争 の 見 通 し に も と づ い て も い た 。 少 将 は 、対 米 戦 を 無 理 と 判 定 し て い た か ら で あ る 。少将

「之 か ら の 大 戦 争 を 考 ふ る 時 、 弱 気 の 者 は 、 正 に 気 絶 す る か も 知 れ ぬ 。 強 気 の 者 は 、 や つ て や れ ぬ 事 は 無 い と 云 ふ 。 何 れ に し て も 彼 を ^^全 に 屈 服 せ し む る 事 に 於 て 、 何 等 確 信 の 手 段 な き 事 は 同 じ で あ る .. 」 「作 戦 図 に 色 附 け し て 、 壁 に 貼 つ て に ら め つ こ す る 事 に し た 。 何 れ を 見 て も 赤 色 の 敵 ば か り 、 太 平 洋 は 広 い ……。 兵 力 だ け 並 べ て 、 何 で も さ ぅ 行 く な ら 戦 と 云 ふ も の は 苦 労 は な い ..飛 行 機 を い く ら 集 中 し て

『数 の 上 の 数 』

と 云 ふ も の が あ る .. 自 ら の 計 画 に 対 し て は 、 痛 い 処 は 多 い も の だ 」

も、天 候 が 悪 け れ ば 使 へ ぬ の だ ……。

宇垣少将が参謀長に就任した昭和土ハ年八月といえば、連合艦隊の作戦計画はほぼ完成してい た 時 期 で あ る 。真 珠 湾 空 襲 計 画 と 対 南 方 地 域 攻 略 計 画 と の 並 行 作 戦 だ が 、緻密な宇垣少将からみ はば、 ずいぶんとアナだらけであったにちがいない。

宇 垣 纒 103

な り

立 つ ま い 。押 し 切 り

その感慨が、 以上の日誌の記述にもあらわれているが、少将はあえて細かい注文はださなかっ

「如 何 せ 無 理 な 戦 争 な の だ か ら 、 之 を 一 々 気 に し て 居 て は 、 今 度 の 戦 は

た。

に 徹 す る こ と に し た 。

の手と応変の腕だ、そして死力を尽すのだ」 と覚悟し、 またそれ以外に道はないと見定めたから である。 そ こ で 、宇 垣 少 将 は 、参 謀 長 の ガ 第 一 任 務 〃

こ と に あ る が 、

參 謀 長 の 任 務 は 、 「諸 種 ノ 性 格 ヲ 有 ス ル 各 幕 僚 ヲ 統 轄 シ テ 円 満 ニ ー ^ # 合 セ シ メ 、 一 心 同 体 ト

ナ リ テ 指 揮 官 ヲ 輔 佐 ス ル ト 共 —司 令 部 ノ 権 威 ヲ 保 持 シ 、 幕 僚 業 務 ノ 統 一 ヲ 図 ル 」

宇 垣 少 将 は 、 参 謀 長 就 任 後 の 日 も 浅 い 事 情 も あ っ て 、作 戦 指 導 も 多 く は 参 謀 た ち の 意 見 を 採 用 し

し て の

心得」 とは、

ど の ょ ぅ な も の か

I



し か し 、 宇 垣 少 将 が さ ら に 留 意 し た の は 、 「指 揮 官 の 立 場 に た っ て 」 連 合 艦 隊 の 作 戦 を 計 画 し 、

て、 ま ず は 参 謀 相 互 間 の 二 致 和 合 , の 成 就 を は か っ た 。

指導することであった。 で は 、 連 合 艦 隊 参 謀 長 の 「指 揮 官 と

こ と で

ある。

宇 垣 少 将 は 、 ,三 つ の 顔., を 持 つ こ と だと考えた。参謀長は司令長官の女房役である。 し た が って、 ま ず ガ 指 揮 官 型 参 謀 長 , の 第 一 の 顔 は 、 司 令 長 官 の 分 身 と し て 考 え る I い わ ば ,長 官 の 顔 ,を 持つ

104

第 二 は 、 自 分 が 現 場 指 揮 官 だ っ た ら ど う す る か 、 と い う 立 場 に た つ 。 す な わ ち "自 分 の 顔 " で あ り 、第 三 は 、 現 場 指 揮 官 の 位 置 に 自 分 を お く 。第 二 に 似 て い る ょ う だ が 、 この場 合 は 自 分 自 身

こ と で

ある。

の 考 え 、 能 力 は 考 慮 せ ず 、 も っ ぱ ら 相 手 自 身 に な り き っ て 考 え る 立 場 を と る 。 つ ま り "下 級 指 揮

宇 垣 少 将 は 、 こ の ガ 三 顔 方 式 " で 連 合 艦 隊 が 対 面 す る で あ ろ う 難 局 の 処 理 を 覚 悟 し た が 、少 将

官 の 顔 "を 持つ

南雲忠ー中将の第一航空艦隊の

ハワイ

奇襲は成功したが、喚声をあげる広島湾の連合艦隊旗艦

の参謀長ぶりは、 まず真珠湾攻撃作戦で発揮された。

「泥 棒 の 逃 げ 足 と 小 成 に 安 ん ず る の 弊 な し と せ ず 」 と 、 宇 垣 少 将 が 眉 を し か め れ ば 、 参 謀 た ち の

「長 門 」 に、 南 雲 部 隊 か ら ハ ワ イ 再 空 襲 は 中 止 し て ひ き あ げ る 旨 の 電 報 が 届 い た 。

多 く も 、 再 攻 撃 命 令 を だ す べ し 、 と い き ま い た 。 味 方 の 被 害 が わ ず か 二 十 九 機 で あ る 以 上 、 なお

だ が 、 参 謀 長 .宇 垣 少 将 は 、 ひ と 思 案 の の ち 、 参 謀 た ち の 提 案 を 拒 否 し た 。

徹底的に戦果をあげるべきだ、 というのである。

宇 垣 少 将 自 身 の 気 持 ち と し て は 、 「自 分 が 指 揮 官 た り せ ば ..真 珠 湾 を 壞 滅 す る 迄 や る 」 が 、 現場の事情は不明であり、 もともと南雲中将はハワイ空襲計画に不賛成でもあった。

と い う

わ け で あ り 、 結 局 は 、 「自 分 は 自 分 、 人 は 人 」 で あ る 。

「最 も 大 切 な る は 、 精 神 的 状 態 な り 。 本 作 戦 の 経 緯 を 知 る も の 、 誰 か 之 を 強 要 す る の 可 を 唱 ふ る

宇 垣 少 将 は 、 "第 三 の 顔 " を お し だ し て 、 参 謀 連 の 意 見 を お さ え 、 予 定 計 画 ど お り 、 帰 途 に ミ

ものあらん」

宇 垣 辗 105

ッドウユー島を空襲して帰るよう、指 示 し た 。

連 合艦隊の作戦は、きわめて順調に進み、昭和十七年はじめには、 西太平洋から東インド洋に 至るまでの海域は、 ほぼ完全に制圧できた。

当 然 ' 第 一 段 作 戦 に つ づ く 第 二 段 作 戦 計 画 の 立 案 が 必 要 で あ る 。宇 垣 少 将 は 、 一月十四日、 次

「六 月 以 降 ミ ッ ド ウ ユ ー 、 ジ ョ ン ス ト ン 、 パ ル ミ ラ (島 ) を 攻 略 し 、 航 空 勢 力 を 前 進 せ し め 、 右

のような構想をまとめた。

し、之 を 撃 滅 す る 」

に、 自 分 を 指 揮 官 に

さそ

爾 後 、何 を す る も 勝 手 放 題 に

考 え た ,第 二 の 顔 "作 戦 で あ っ た

が 、

近海) の決戦は一見無謀なる

である。

目ざす一連の攻撃で米艦隊を と い う の

ハ ワイを

して

ま た 「(ハ ワ イ

撃滅してしまう、 で

点である。そこで、

沖大海戦,

な り 、

概 ね 成 れ る の 時 機 、 決 戦 兵 力 、 攻 略 部 隊 大 挙 し て 布 哇 に 進 出 、之 を 攻 略 す る と 共 に 敵 艦 隊 と 決 戦

,ハ ワ イ

り 」 と い う

宇 垣 少 将 の 考 え の 基 本 は 「米 艦 隊 の 撃 滅 は 英 海 軍 の 撃 滅 と

出し、 一挙に



て戦争収拾の最捷径な

と い う よ う

いかにも、政 略 と 戦 略 に 通 じ た 宇 垣 少 将 ら し い 、

先 任 参 謀 黒 島 亀 人 大 佐 以 下 の 參 謀 た ち は 、宇 垣 構 想 に 首 を ひ ね っ た 。

如きも成算多分なり」

である。

ガハワイ沖大海戦" を 実 現 し て 勝 利 を お さ め る た め に は 、 宇 垣 少 将 が 主 張 す る よ う に 、 あ ら か じ めミッドウ工ー島その他の前進航空基地を制圧しておかなければならないが、 それはほぼ不可能

106

な ぜ な ら 、 ひ と つ ず つ 攻 略 す る の は 時 間 が か か り す ぎ る の で 、 一気に全基地をたたかねばなら ぬが、 も は や 奇 襲 は 望 め な い 以 上 、大 兵 力 で 襲 わ ね ば な ら な い 。 しかし、 それだけの航空兵力は な い 。 と い っ て 、 艦 船 の 攻 略 も 無 理 だ 。 古 来 、 「艦 船 と 陸 上 砲 台 と の 戦 い は 艦 船 に 不 利 」 と 戦 史

黒 島 先 任 参 謀 は 、 このさい、 イ ン ド 洋 に 出 て セ イ ロ ン 島 を 攻 略 し 、英 艦 隊 を さ そ い 出 し て 撃 滅

は教えているからである。

したうえ、 さらに中近東に足をのばして、 ヨーロッパを南下してくるドイツと連絡する計画を、

重要物資ニッケルを入手

す る と と

ラ リ ア と の

連絡線を遮断する構

東 方 の フ イ ジ ー 、 サ モ ア 諸 島 を 攻 略 し て 、同地で もに、米 国 と オ ー ス ト

ラ リ ア

しかし、 この計画には陸軍が反対した。 セイロン島攻略に兵力をさくよりも、 ビルマ攻略が必

提案した。

要だというのである。



一方、 軍 令 部 は 、 か ね て か ら ォ ー ス ト 産出す

しか し 、山 本 司 令 長 官 は 強 い 興 味 を 示 さ ず 、結 局 、宇 垣 少 将 ら 連 合 艦 隊 幕 僚 は 、米機動部隊の

想をもっていた。

ハワイからの出撃を途中で防止するため、 ミッドウユー島攻略作戦を立案した。

つまり 「六 月 上 旬 に 、 ま ず ア リ ユ ーシャン 列 島 西 部 を 攻 略 し 、 つ い でミッ ド ウ ユ ー 島 を 攻 略 し 、 そ の 後 、 フイジー、 サモア諸島方面にむかう」 という計画である。

1 0 7 宇 垣 經

ミッ ド ウ N 1

島 攻 略 の ね ら い は 、米 機 動 部 隊 に よ る

日本 本 土 空 襲 の 防 止 と 、敵 艦 隊 を さ そ い 出

して、 撃 滅 す る こ と に あ る 。 昭 和 十 七 年 二 月 一 日 、米 機 動 部 隊 が マ ー シ ャ ル 群 島 を 空 襲 し た さ い 、

「… …冒 険 性 は 彼 の 特 徴 な り … … 今 後 と 雖 も 彼 と し て 最 も や り よ く 且 効 果 的 な る 本 法 (注 、 米 機

宇 垣 少 将 は す か さ ず 、米 艦 隊 の 日 本 攻 撃 を 予 感 し た 。

動 部 隊 は 一 撃 離 脱 、 つ ま り ヒ ッ ト .ヱ ン ド .ラ ン 戦 法 を と っ た ) を 執 る ' 〈し 。 其 の 最 大 な る も の

山本司令長官は、 とくに東京空襲を危惧していた。そもそも、山本司令長官が開戦へき頭の真

を帝都空襲なりとす」

珠 湾 空 襲 を 計 画 し た の も 、東 京 は じ め 、 日 本 本 土 が 空 襲 さ れ る と 、 日 本 国 民 の 士 気 が 低 下 す る と

そ こ で 、 山 本 司 令 長 官 も 即 座 に 同 意 し て 、連 合 艦 隊 の ミ ッ ド ウ ユ ー 作 戦 計 画 は 、 四 月 二 日 、軍

見込んだからである。

た ら ず 、 だ い い ち 、 占領し‘ たあとの補給は不可能だからである。

令 部 に 提 示 さ れ た 。軍 令 部 は 反 対 し た 。 い ま ミ ッ ド ウ ユ ー を 攻 略せねばならぬ戦略的理由は見当

I

丨 作 戦 実 施 の 決 意 は 強 化 さ れ 、急 い で 計 画 と 準 備 が 進 め ら れ た 。

だ が 、 四 月 十 八 日 、 ハ ル ゼ ー機 動 部 隊 に よ る 東 京 空 襲 が お こ な わ れ る と 、 山 本 司 令 長 官 の ミ ッ

宇 垣 少 将 は 、 ガ第一の顔" を 明 示 し た 。 す な わ ち 、 山 本 司 令 長 官 の 意 思 を わ が 意 思 と し て 、 そ

ドウ

た と え ば 、 五 月 一 日 か ら 四 日 間 、 広 島 湾 柱 島 泊 地 の 旗 艦 「大 和 」 (注 、 大 和 は 昭 和 十 七 年 二 月

の実現に没頭したのである。

108

十 二 日 、 旗 艦 と な る ) で お こ な わ れ た 「 1 〔ミ ツ ド ウ

1)作 戦 」 図 上 演 習 で あ る 。 X

1作 戦 後 、 戦 艦 の 大 部 分 は 内 地 に 帰 る が 、 残 り の 部 隊 は ト ラ ッ ク 島 に 集 結 し 、

N

あ る 。

それを三対一にするのは、 撃において、 日本側が米国側の三倍の能力をもっている、 と前提するわけである。

長 官 も 兼 ね て い た が 、戦 力 係 数 と は 、戦 闘 技 術 力 で

つまり



砲爆

宇 垣 少 将 は 、 演 習 開 始 に あ た り 、 そ う 宣 言 し た 。 少 将 は 、 統 監 だ け で な く 審 判 長 、 青 軍 (日 本 )

「日 米 の 戦 力 係 数 は 三 対 一 と す る 」

りであった。

まず參会者の多くはうなったが、 さらに仰天したのは、図上演習の統監宇垣参謀長の演習1

北はアリユーシヤンから南はオーストラリアまで、そしてハワイ攻略と、その構想の雄大さに、

ク島に集 結 し て 整 備 し た の ち 、 八 月 以 降 、全 力 を あ げ て ハ ワ イ 方 面 に 作 戦 す る 」

ついで、南 雲 部 隊 で オ ー ス ト ラ リ ア 南 東 岸 、 シ ド 一— 方 面 の 機 動 空 襲 を お こ な い 、 再 び ト ラ ッ

七 月 上 旬 、 フィジー、 サモア諸 島 の 要 地 を 攻 略 す る 。

保する。 、 、 、ッ ド ウ

「六 月 上 旬 、 連 合 艦 隊 の 主 力 で ミ ッ ド ウ - 1I島 を 、 一 部 で ア リ ユ ー シ ヤ ン 西 部 要 地 を 占 領 し 、 確

を は じ め て 知 る 者 も い た 。提 示 さ れ た 作 戦 構 想 は 、次 の よ う な も の で あ っ た 。

指 揮 官 、 幕 僚 た ち は 、南 雲 部 隊 を は じ め 、南 方 地 域 か ら 帰 還 し た ば か り の 者 が 多 く 、作 戦 計 画

隊をはじめ、作戦参加予定の各部隊の指揮官、幕僚が参加した。

図 上 演 習 に は 、連 合 艦 隊 司 令 部 だ け で な く 、南 雲 中 将 の 第 一 機 動 部 隊 、近 藤 信 竹 中 将 の 第 二 艦

\1

宇 垣 經 109

ま り 、

わが機動部隊は空襲をうけた。

一 同 は あ っ け に と ら れ て い た が 、演 習 が 進 展 し て 、 や が て 、 ミ ツ ド ゥ ェ ー 島 の 米 陸 上 機 の 攻 撃

サ ィ コ

を 0 ふ っ た 。 空 母 は 「赤 城 」 に 命 中 弾 九 発 と き ま っ た 。 撃 沈 で あ る 。

演 習 規 定 に し た が い 、統 監 部 員 の 第 四 航 空 戦 隊 航 空 参 謀 奥 宮 正 武 少 佐 が 、 爆 撃 命 中 率 を き め る

がはじ

ため とたんに宇垣少将の声がひびいた。 .

図 上 演 習 で は 、敵 の 技 術 力 は 日 本 な み と み な し て い る 。戦 力 係 数 を 三 対 一 に す る な ら 、宇 垣 少

「た だ 今 の 命 中 弾 は 三 分 の 一 の 三 発 と す る 」

将 の 訂 正 は 当 然 で あ る 。 「赤 城 」 は 小 破 と な っ た 。 と こ ろ が 、 空 母 「加 賀 」 は 、 そ れ で も 沈 没 と

と 、 沈 ん だ は ず の 「加 賀 」 が 參 加 し て い る 。

判 定 せ ざ る を 得 な い 情 況 だ っ た に も 拘 わ ら ず 、 ミ ツ ド ゥ 1 丨作 戦 に つ づ い て フ ィ ジ ー 作 戦 に 移 る

も っ と も 、宇 垣 少 将 も 、 ミ ツ ド ゥ ュ ー 島 を 攻 撃 し て い る と き 、側 背 か ら 敵 機 動 部 隊 に 襲 わ れ る

空 中 戦 で も 似 た ょ う な 判 定 が お こ な わ れ 、 一同は、 宇 垣 少 将 の "お 手 も り 統 裁 " に 啞 然 と し た 。

し か し 、 全 体 と し て は 、 少 将 の 統 裁 は "傍 若 無 人 , の 印 象 を 与 え 、 参 会 し た 指 揮 官 、 幕 僚 た ち

危険を考慮して、そういう場合の注意を南雲部隊にうながしてはいた。

は、 な ん と な く 毒 気 を ぬ か れ た 表 情 で 帰 っ て 行 っ た 。

も ち ろ ん 、宇 垣 少 将 が こ の ょ う な 一 方 的 統 裁 を お こ な っ た に つ い て は 、 理 由 が あ る 。

ス キ が あ る こ と は

承知していた。

し か し 、

作戦は山本司令長官の意思

そ の 実 現 の た め に は 、指 揮 官 た ち に 強 い 不 安 を 持 た せ な い で 参 戦 さ せ ね ば な ら な い 。 ハ

して

が 、

作戦は味方のミツドゥ

1島 攻 撃 後 に 敵 艦 隊 が N

進められ、少将の懸念どおりに、米空母機の空襲で敗れたのである。

滅を求めるょうなものだからである。

敵 機 動 部 隊 、敵 陸 上 機 が 健 在 な の に 、 ハ ダ 力 に ひ と し い 戦 艦 部 隊 を さ し む け る の は 、 あえて自

「敗 将 棋 の も う 一 番 、 も う 一 番 を 繰 り 返 す は 知 慧 な き 愚 者 の 策 也 」

ょ う 、 と、 主 力 戦 艦 部 隊 を 近 接 さ せ て 砲 撃 す る 計 画 を 立 案 し た が 、 宇 垣 少 将 は 、 承 知 し な か っ た 。

沈 さ れ る と 、 旗 艦 「大 和 」 は 殺 気 だ っ た 。 興 奮 し た 参 謀 た ち は 、 せ め て ミ ツ ド ゥ エ ー 島 を 破 壊 し

敵 空 母 機 の 空 襲 で 、 南 雲 部 隊 の 空 母 四 隻 の う ち 、 三 隻 が ま ず 炎 上 し 、 つ い で 残 る 「飛 竜 」 も 撃

宇 垣 少 将 は 、 冷 静 に ミ ツ ド ゥ 11作 戦 の 始 末 を し た 。

あらわれることを前提と

宇垣少将は、敵機動部隊の奇襲を懸念した

「大 東 亜 戦 争 中 再 び 斯 る 日 を 迎 ふ る 事 勿 れ 。 我 生 涯 に 於 け る 唯 一 最 大 の 失 敗 の 日 た ら し む べ し 」

だ が 、 ミ ツ ド ゥ ュ ー 作 戦 は 敗 北 に 終 わ っ た 。宇 垣 少 将 は 、 日 誌 に 無 念 の 文 宇 を 書 き つ ら ね た 。

の自信と決意に変形させたかったのである。

宇 垣 少 将 と し て は 、 あ え て "強 引 " に 図 上 に 勝 ち ど き を あ げ 、 山 本 司 令 長 官 の 意 思 を 各 指 揮 官

あ る 。

ワ ィ 空 襲 で 、 事 前 の 図 上 演 習 の 結 果 が 消 極 的 な た め 、指 揮 官 南 雲 中 将 の 不 安 を 倍 増 さ せ た 先 例 も

で あ る 。

宇垣少将は、作 戦 計 画 に

110

1 1 1 宇 垣 纆

南 雲 部 隊 と 近 藤 中 将 の 第 二 艦 隊 と で 夜 襲 を 計 画 し て み た が 、 行 動 が 積 極 的 で な く 、 「戦 意 を 有

せず」 と 判 断 さ れ る と 、 宇 垣 少 将 は 、 即 座 に 計 画 中 止 を 山 本 司 令 長 官 に 具 申 し て 、内 地 に ひ き あ げることにした。

ま だ 、 連 合 艦 隊 に は 、 建 造 中 の も の を ふ く め れ ば 空 母 は 八 隻 あ る 。 「何 等 力 を 落 と す 必 要 な く 、

や (山

本 ) 長 官 や !^ た ち が 、 口 惜 し

ま ぎ れ に 突 っ こ み ゃ せ ん か と 、そ れ が い ち ば ん 心 配

の ち に 、 連 合 艦 隊 が 内 地 に 帰 っ た と き 、 軍 令 部 作 戦 課 長 .富 岡 定 俊 大 佐 は 、 し み じ み と 連 合 艦

後 図成算 あ り 」 と 判 断 できる か ら で あ る 。

「も し

隊 参 謀 .渡 辺 安 次 中 佐 に 述 懐 し た 。

だ っ た ょ 。 (宇 垣 ) 参 謀 長 の ァ タ マ が 冷 え て い た の で 助 か っ た ょ う な も の だ 。 突 っ こ ん で い た ら 、

宇 垣 少 将 は 、 ミ ッ ド ゥ ヱ ー 戦 の あ と 、 そ れ ま で の ば し て い た 頭 髪 を 刈 り 、丸 坊 主 と な っ た 。

戦艦も半分以上はやられていたろうな」

「新 規 斯 き 直 し を 決 意 」 し た 「記 念 的 表 徴 」 と 、 伝 え ら れ た 愛 犬 エ リ ー (セ パ ー ド ) の 死 を 悼 む

I

だ が 新 規 蒔 き 直 し を 決 意 し た も の の ミ ッ ド ゥ ヱ ー 戦 後 の 戦 局 は 、宇 垣 少 将 に 会 心 の 腕 を ふ る う

ためと、防暑のためと、 三つの理由からであった。

"新 規 " を 与 え な か っ た 。

昭 和 十 七 年 八 月 七 日 、米 第 一 海 兵 師 団 の 上 陸 に は じ ま っ た ガ ダ ル ヵ ナ ル 島 攻 防 戦 は 、 陸 軍 に

112

最 初 の う ち は 、練 り あ げ た 砲 戦 技 術 で 、 小 気 味 よ い ほ ど に 敵 艦 隊 を 撃 破 し た が 、 やがて航空兵

"消 耗 戦 " の 嘆 声 を あ げ さ せ た が 、 そ の 様 相 は 海 軍 に も 共 通 し て い た 。

力 の 消 耗 、敵 艦 の レ ー ダ ー 射 撃 精 度 の 向 上 、潜 水 艦 、魚 雷 艇 の 活 躍 な ど に よ っ て 、 海 軍 も ま た 次

宇 垣 少 将 は 、沈 没 艦 の 艦 長 が 艦 と 運 命 を 共 に す る 慣 習 を や め さ せ た い 、 と 考 え た 。 う っ か り 沈

次 に 艦 船 を 補 給 用 に 投 入 し 、消 耗 を 重 ね て い っ た 。

い か が な も の か 。 山 本 司 令 長 官 も 、宇 垣 少 将 の 意 見 に 賛 成 し た 。

没 艦 を は な れ る と 、 "陛 下 の 艦 , を 見 捨 て た と し て 、 海 軍 省 は 左 遷 ま た は 処 罰 の 対 象 に す る が 、

「飛 行 機 乗 り は パラシ ュ ー ト で 生 還 さ せ て い る の に 、 艦 船 は 違 う と い う の は 、 理 屈 に あ わ な い 。 こ の 戦 争 は 長 期 戦 で あ る 。 優 秀 な 人 材 が 一 人 で も 多 く 戦 い つ づ け ね ば 、勝 て ぬ 。 そ れ な の に 、 あ え て 殉 職 を 要 求 す る の で は 、命 令 の 実 行 を し ぶ る こ と に な り か ね な い 」 宇垣少将は、また特殊潜航艇の使用にも慎重さを求めた。小型で防禦力もとぼしい潜航艇であ

昭 和 十 七 年 十 月 二 十 六 日 、南 雲 中 将 指 揮 の 機 動 部 隊 が 米 空 母 部 隊 と 接 触 し て 、南太平洋海戦と

る 。 安 易 に 利 用 す る の は 「人 命 と 兵 器 を 軽 ん ず る 」 だ け だ か ら で あ る 。

な っ た 。 海 戦 後 、 大 破 し た 空 母 「翔 鶴 」 「瑞 鳳 」 の 両 艦 長 が 「大 和 」 を 訪 ね 、 艦 の 損 傷 と 部 下 の

も損害があるのはあたりまえだよ」 と答えた。艦長たちはびっくりしたようすだった。当然、 し

死 傷 に つ い て 、 宇 垣 少 将 に わ び た 。 少 将 は 、 微 笑 し な が ら 「沈 ま ず に 帰 れ た の は 上 々 だ 。 味 方 に

ぶ い 遺 憾 の 意 が 參 謀 長 の ロ か ら 表 明 さ れ る も の と 思 っ て い た か ら で あ る 。 だが、宇 垣 参 謀 長 は 、

1 1 3 宇 垣 纏

垣 少 将 が 自 戒 す る 參 謀 長 と し て の "第 三 の 顔 " の 活 用 で あ る 。

艦 長 た ち が 指 揮 官 と し て 自 責 の 想 い に ひ た っ て い る こ と を 承 知 し 、 あ え て 笑 顔 で 応 対 し た-- 宇

宇垣少将は、昭和十七年十一月、中将に進級したが、 ひきつづき山本司令長官の參謀長をつと

た だ 、 宇 垣 中 将 は 、 相 変 わ ら ず "三 つ の 顔 " を 使 い わ け て 職 務 を は た し た が 、 ど ち ら か と い え

めた。

あ る い は 、 宇 垣 中 将 が 心 が け る "三 つ の 顔 " は 、 幕 僚 ょ り は む し ろ 指 揮 官 に ふ さ わ し く 、 その

ば 、 そ の "三 顔 方 式 " は 中 将 一 人 の 腹 芸 に 終 わ っ た 嫌 い が あ る 。

こ と を

反省したが、

活 用 は か え っ て 部 下 幕 僚 や 、性 格 の 強 い 山 本 司 令 長 官 の 意 向 を 尊 重 し す ぎ 、計 画 立 案 段 階 で の ク

ガ 島 戦 後 、 宇 垣 中 将 は 作 戦 計 画 が 「司 令 部 の 都 合 第 一 」 主 義 に な っ て い る

丨 ル (冷 徹 ) な 補 佐 を 欠 く 傾 向 が あ る か ら で あ る 。

あ と 、

昭 和 十 八 年 四 月 十 八 日 、 山 本 司 令 長 官 が 戦 死 し た さ い 、宇 垣 中 将 も 重 傷

つづいて 実 施 さ れ た 北 部 ソ ロ モ ン 航 空 撃 滅 戦 も 、 そ の 弊 害 を ぬ ぐ い き れ ず 、戦果不十分に終わっ た。そして、その

そ の 後 、宇 垣 中 将 は 指 揮 官 の 道 を 歩 み 、 終 戦 の 翌 日 、 昭 和 二 十 年 八 月 十 六 日 、 沖 繩 に 特 攻 攻 撃

を負って参謀長の職をはなれた。

とした笑顔であつたと伝えられる。

し て 戦 死 し た 。 出 撃 の さ い 、 中 将 は お そ ら く す ベ て の "仮 面 " を す て た 如 く 、 い か に も 晴 れ 晴 れ

井本熊男

第 八 方 面 軍 参 謀 .井 本 熊 男 中 佐 は 、 昭 和 十 八 年 一 月 十 四 日 夜 、 ソ ロ モ ン 群 島 ガ ダ ル カ ナ ル 島 北 西部のエスペランス岬に上陸した。 夜 明 け と と も に 、 た だ ち に 当 番 兵 二 人 、 暗 号 兵 二 人 を つ れ て 、 第 十 七 軍 司 令 部 を め ざ し た 。食 糧 二 十 日 分 、 ゥ ィ ス キ ー ー ダ ー ス 、 チ ョ コ レ ー ト 、 菓 子 、 魚 の 干 物 な ど の 荷 物 は 、 一人あたり十

道 は 、 な ん と な く 往 復 の 兵 士 に ょ っ て ふ み 固 め ら れ た 程 度 で あ っ た 。井 本 参 謀 た ち は 、 重い荷

数貫になり、五百メートルごとに休息せねばならなかった。

こ の 地名は、太 平 洋 戦 争 を ふ り か え る と き 、最 も 苛 酷 な 響 き を 伝 え て い る 。

た め も あ る が 、 沿 道 の 光 景 が あ ま り に も 悲 惨 を き わ め 、 參 謀 た ち の 胸 を悲しく し め つ け た か ら で

物 を 肩 に ト ボ ト ボ と 歩 い た が 、 何 度 も 投 げ 棄 て た く な っ た 。 捨 て た い 心 境 に な っ た の は 、 重量の

ガ ダ ル カ ナ ル ——

もあった。

1 1 5 井 本 熊 男

昭和十七年八月七日の米海兵第一師団の上陸に と も な っ て

開始されたガダルカナル島攻防戦は、

日 本 軍 に と っ て は 一 木 清 直 大 佐 指 揮 の 一 個 連 隊 、川 口 清 健 少 将 の 一 個 旅 団 、 そ し て 丸 山 政 男 中 将

日本側が不利な戦いにおちこんだ理由は、明白であった。

の 第 二 師 団 、 佐 野 忠 義 中 将 の 第 三 十 八 師 団 を 次 々 に の み こ ん だ "消 耗 戦 “ と な っ た 。

ガダルカナル島を攻撃する日本機の基地は、戦闘機の行動半径ギリギリにあるラパゥルであっ

つまりは、制 空 権 、制海 権 が

た ため、 ガ ダ ル カ ナ ル 島 飛 行 場 に た む ろ す る 米 機 に 容 易 に 迎 撃 さ れ た こ と 、海戦がおこなわれて 戦 果 も あ げ た が 被 害 も う け 、海 軍 の 活 動 も 不 活 発 で あ っ た こ と 1

ては大兵を送りこみながら、 つねに少数で多数にぶたる事態になった。

あ っ さ り と 敵 に 奪 わ れ 、 し か も 、 陸 軍 兵 力 は 戦 術 教 科 書 が 戒 め る 分 散 投 入 の 形 を と り .、 全 体 と し

丨 0 プをひっ

お か げ で 、 昭 和 十 七 年 暮 れ ご ろ に な る と 、補 給 は ほ と ん ど 夜 間 に 駆 逐 艦 が 海 岸 に 近 づ き 、大急

ぎ で ド ラ ム 罐 、 ゴ ム 袋 に つ め た 糧 食 、 弾 薬 を 海 中 に 投 げ お と し 、岸 か ら 兵 が 泳 い で

ところが、制 空 、制 海 権 を 奪 わ れ て い る だ け に 駆 逐 艦 の 接 近 も 容 易 で は な く 、 また投下された

ばりょせる方法だけとなった。

ド ラ ム 罐 を 回 収 す る の も 、難 事 で あ っ た 。米 軍 が 配 置 し た 魚 雷 艇 に 妨 げ ら れ 、敵 機 の 銃撃もうけ

た とえば、 一人一日の主食がコメ六合とすれば、 第 二 、第三十八師団を 主 力 と す る 約 ニ 万 八 千

るほか に 、弱 り は て た 将 兵 に 泳 ぐ 力 も ひ っ ぱ る 力 も 乏 し く な っ て い た か ら で あ る 。

人 (昭 和 十 七 年 十 一 月 現 在 ) を 養 う に は 、 毎 日 約 ニ .五 ト ン の コ メ が 必 要 で あ る 。 ド ラ ム 罐 一 本

116

に 約 百 四 十 キ ロ が つ め ら れ 、駆 逐 艦 一 隻 で 平 均 約 百 七 十 本 を は こ ぶ 。 ほ か に 弾 薬 、医 療 品 な ど も

だが、 実 際 に は 計 画 量 を 十 と す れ ば そ の 六 が た ど り つ き 、 三 を 陸 揚 げ し て 、 現実に手 に は い る

あ る が 、計 画 で は 毎 週 九 隻 の 駆 逐 艦 が 輸 送 す れ ば 食 生 活 は 維 持 で き る こ と に な っ た 。

のはニとい、 っ状況だった。



メ ー パ 赤 痢 で 倒 れ て 減 少 し た 兵 力 の 中 か ら 輸 送 役 を さ く の は 、 む ず か し い 。 たとえ

とりわけ、第 一 線 部 隊 は 、糧 食 は 海 岸 の 集 積 場 ま で と り に い か ね ば な ら ぬ の で 、戦 闘 で 倒 れ 、 マ ラ リ ャ、

歩 兵 第 百 二 十 四 連 隊 の 旗 手 .小 尾 靖 夫 少 尉 の 日 記 に 、 次 の 一 節 が あ る 。

選 抜 し て も 少 数 で あ り 、運 べ る 量 も ま た 少 な い 。

「こ の こ ろ 、 ア ゥ ス テ ン 山 に 不 思 議 な 生 命 判 断 が は や り だ し た 。 限 界 に 近 づ い た 肉 体 の 生 命 の 日 数 を 、 統 計 の 結 果 か ら 次 の ょ ぅ に わ け た の で あ る 。 こ の 非 科 学 的 で あ り 、 非 人 道 的 である 生 命 判 断はけっしてはずれなかった。 立 つ こ と の で き る 人 間 …寿 命 三 十 日 間 身 体 を 起 こ し て す わ れ る も の … 三週間 寝 た き り 起 き れ な い も の ... 一週間 寝 た ま ま 小 便 を す る も の ... 三 日 間

また. た き し な く な っ た も の ……明日 」

も の を い わ な く な っ た も の … … 二日間

1 1 7 井 本 熊 男

米軍は、昭和十七年末には、最初に上陸した海兵第一師団が島を去った代わりにアメリカ師団、

歩 兵 第 二 十 五 師 団 、 海 兵 第 二 師 団 を 主 力 に 、空 軍 、 海 軍 部 隊 を ふ く め て 約 五 万 人 が 、 日本軍を压

しか し 、 日 本 側 は 、米 国 製 の 銃 砲 弾 よ り は 、 飢 え と 病 魔 に よ っ て 倒 れ て い っ た 。

迫していた。

ガ ダ ル カ ナ ル 島 を 簡 略 に 『ガ 島 』 と 呼 ぶ が 、 『ガ 島 』 は い つ か 『餓 島 』 と実 感 を こ . めて唱えら

れ 、 日 本 軍 は 文 宇 ど お り に 〃飢 餓 , と 疲 労 の 中 で 最 期 の 時 を 待 つ 心 境 で あ っ た 。

井 本 参 謀 が た ど る 道 も 、 そ の 『餓 島 』 の 惨 状 を あ ら わ に 示 し て い た 。 ひ ょ ろ ひ ょ ろ と う つ ろ に

は銃剣と飯盒を持っている。

眼 を ひ ら い て 歩 く 兵 、木 の 根 も と に す わ っ て い る 兵 … … い ず れ も 服 は ボ ロ ボ ロ に な り 、 小銃より

死体が散在しているが、 めったに埋葬される機会はなく、病人は死体とともにジャングル内の 木かげにうずくまっているだけである。

井 本 参 謀 は 、 当 時 の 印 象 を そ う 記 述 し て い る が 、 こ の よ う な 『餓 島 』 の "餓 兵 々 の 実 情 を 見 れ

「彼 ら の 相 貌 は 、 ま る で こ の 世 の 者 と は 思 わ れ ぬ 。 (す で に ) 忠 霊 の よ う な よ う す を し て い る 」

使 命 ——

は、 ガ ダ ル カ ナ ル 島 の . 日本軍撤退の命令を伝達することである。

ば 見 る ほ ど 、自 分 の 使 命 達 成 が 困 難 で あ る こ と に 思 い あ た ら ざ る を え な か っ た 。

一般的に考えれば、疲 れ は て 、 明 ら か に 自 滅 寸 前 に あ る 部 隊 に 撤 退 を 指 示 す る の は 、 ごく自然

118

の 屍 体 を 残 し て む ざ む ざ と 敗 退 す る な ど 夢 想 も で き ぬ 日 本 軍 に と っ て は 、 ことは容易ではなかっ

であり、現 地 部 隊 に と っ て も と く に 反 対 は な い は ず で あ る 。 が、 退 却 を 恥 辱 と 考 え 、 まして戦友

井 本 参 謀 自 身 も 、 じ つ は 、胸 中 に 悲 観 的 な 見 通 し を 持 ち 、第 八 方 面 軍 司 令 部 を 出 発 す る さ い 、

た。

同僚の杉田、小山両参謀に次のような意向をもらしていた。 「現 地 に 到 着 し て 、 ど う 努 力 し て も 不 可 能 と い う 見 通 し が つ け ば 、 そ こ で 軍 の 発 意 と な る ご と く

に、 こ の (撤 退 ) 作 戦 で 当 然 失 わ れ る べ き 多 数 の 飛 行 機 、 舟 艇 、 駆 逐 艦 等 の 損 耗 を さ け 、 も っ て

援助して斬り込み玉砕に決し、第十七軍全部が立派な最期をとげて国軍の真価を発揮するととも

つまり、 日 本 軍 の 伝 統 精 神 の 面 か ら だ け で な く 、 敵 の 制 空 、 制 海 権 下 に 大 部 隊 を 無 事 脱 出 さ せ

爾後の作戦遂行に支障のないようにする」

ることは、 ほとんど不可能とみこまれるので、現地軍が反対したさいの説得には限界がある、 と

井 本 参 謀 が 、 ガ ダ ル ヵ ナ ル 日 本 軍 の 指 揮 官 第 十 七 軍 司 令 官 .百 武 晴 吉 中 将 の 司 令 部 に た ど り つ

井本参謀も感じていたのである。

いたのは、 一月十五日夜であった。 井 本 参 謀 が 土 産 の 荷 物 を か つ い で 、 仮 小 屋 の 司 令 部 に は い る と 、 參 謀 長 .宮 崎 周 一 少 将 は 、 お そかったじやないか、 と声をかけた。 「攻 撃 計 画 は 、 も う 少 し 早 く 示 し て も ら い た い も の だ な 、 井 本 参 謀 」

1 1 9 井 本 熊 男

宮 崎 参 謀 長 は 井 本 参 謀 の ^ 一6 を、 上 級 司 令 部 の 第 八 方 面 軍 か ら の 攻 撃 計 画 説 明 の た め だ と 解 釈 した。そして、それは無理もなかった。

ガ ダ ル カ ナ ル 島 の 環 境 は 、 昭 和 十 七 年 十 二 月 に は い る と 、急 速 に 悪 化 し て 、各部隊とも兵力は

「… … 今 や 打 ち 続 く 糧 秣 の 不 足 、 こ と に 二 日 以 後 わ ず か に 木 の 芽 、 ヤ シ の 実 、 川 草 等 の み に ょ る

減 少 の 度 を は や め た 。宮 崎 参 謀 長 は 十 二 月 二 十 四 日 、 そ の 窮 状 を 打 電 し て い た 。

も至難となれり。

生 存 は 、 第 一 線 の 大 部 を し て 戦 闘 を 不 能 に 陥 ら し め 、 歩 行 さ え 困 難 な る も の 多 く 、 一斥 候 の 派 遣

, :… 軍 の 最 も 必 要 あ る と 認 め ら れ る も の は … … 糧 抹 (主 食 .塩 の み に て 可 な り 、 や む を 得 ざ る

今やガ島の運命を決するものは糧秣となれり。 しかもその機は刻々に迫りつつあり。

も 、 一 人 四 合 を 切 望 す ) 並 び に キ ニ ー ネ 、 脚 気 剤 等 衛 生 材 料 な り … …」

し か も

ほとんど傷病者であった。

おそらく、 この電報を東京に送ったころは第十七軍の兵力は一万人をいくらも超えてはいない

し か し 、 宮 崎 参 謀 長 は 、 窮 状 は 訴 え て も 、 だ か ら 撤 退 し た い と い う の で は な く 、 む し ろ 、 いず

程度で、

また、東 京 で のガダルカナル島撤退案は極秘のうちに検討され、 正式に決まったのは一月四日

れ最後の突撃を敢行するが宜しく了承してほしい、 というのが電文の主旨であった。

で あ っ た 。極 秘 電 で 、 ラ パ ゥ ル か ら ガ ダ ル カ ナ ル に も 伝 え ら れ た 。 しか し 、 ガダルカナル島側の 受信事情は悪く、伝達は不完全に終わったものと、 ラ バ ゥ ル でも推測していた。

120

実 際 に も 第 十 七 軍 は 撤 退 命 令 電 は 知 ら ず 、井 本 参 謀 の 派 遣 は 当 然 、第八方面軍からの激励をか ねた攻撃命令の指示のためと思っていた。

井 本 参 謀 が 、 そ う で は な い 、 じ つ は 撤 退 の 大 命 (天 皇 の 命 令 ) が 下 っ た の だ 、 と 経 過 と 撤 退 作

「大 命 に も と づ く 命 令 に そ む く つ も り は な い が 、 こ れ は で き な い 。 貴 官 が 考 え て も 、 こ の 情 況 で

戦 に つ い て 説 明 す る と 、 宮 崎 参 謀 長 と 作 戦 主 任 .小 沼 治 夫 大 佐 は 、 言 下 に 反 対 の 意 を 表 明 し た 。

ど は

思い



よら ぬ 。 軍 の 実 状 、戦 況 か ら み て 、

と て も

敵から離脱して退却で

き る と は



か り に あ る 程 度 の 撤 退 が で き た と し て も 、大 多 数 の 遺 骨 は 戦 場 に さ ら さ ね ば な ら な い 。 しかも、

撤退な

戦 況 は 切 迫 し て 第 一 線 兵 団 も 軍 司 令 部 も 、 す で に 斬 り 込 み 玉 砕 を 覚 悟 し て い る 。 ほかに方法は

宮崎参謀長がやせ衰えた首を左右にふると、小沼大佐も撤退ができぬ理由を数えたてた。

そ ん な こ と が で き る と 思 う か 。 不 可 能 だ よ 、井 本 参 謀 」

① ない。 ② えない。 ③

宮崎参謀長は、小沼大佐の言葉をうけつぎ、双眼に涙をためて井本參謀にいった。

撤 退 し た 者 は 残 骸 に す ぎ な い 。 将 来 の 役 に も 立 た ぬ 満 身 創 痍 のムクロで あ る 。

う け て

戦 っ て き た 。 いま、奪 回 作 戦 が 望 み な い と す る な ら ば 、

こ の ま ま

軍司令官

「方 面 軍 、 海 軍 、 さ ら に 大 本 営 、 国 民 の 支 持 に は 心 か ら 感 謝 す る 。 だ が 、 井 本 参 謀 。 わ れ わ れ は ガ島奪回の命を

1 2 1 井 本 熊 男

以 下 、 一人残らず斬り込んで玉砕し、皇 軍 は か く の 如 く す べ き も の な り と の 道 を 、 無言に示した

いい終わって宮崎参謀長のほおを涙が流れ落ちた。

ほうが、邦 家 、国 軍 の 為 に ど ん な に よ い か 、 と思う」

うす暗い一本のロゥソクの灯がゆれ、下から照らされる参謀長の顔は異様にゆがんでみえた。

「い や 、 閣 下 、 そ う い う ご 意 見 が 出 る こ と は ヲ パ ゥ ル 出 発 前 か ら 想 像 し て い ま し た 。 し か し 、 今









"

しかし、 と

反駁する小沼大佐の言葉にうなずきながらも、 また、再

回 のことは、 とくに陛下から、 ぜひ万難を排して撤退させるように、 とのお言葉がでているので す」 そ

こ こ ろ み た 。

井本参謀は、

あ り ま し た 」

「今 村 方 面 軍 司 令 官 閣 下 か ら も 、 如 何 な る 場 合 で も 、 絶 対 に こ の 命 令 を 実 行 さ せ る よ う に と 、 と

反駁を

ご注意が

井本参謀は、幕僚の任務は上司の意図の実現にあると承知しているし、またできるだけの将兵

く に

井 本 参 謀 と し て は 、自 分 の 責 任 も 感 じ て い た 。井 本 参 謀 は 第 八 方 面 軍 に 転 出 す る 前 は 、参謀本

を救い出したいとも思うので、くいさがつた。

部 作 戦 課 に い た 。 ガ ダ ル ヵ ナ ル 戦 が 惨 状 を 激 化 す る に つ れ 、作 戦 担 当 者 と して深い自責の念にか

「優 勢 な る 敵 機 の 跳 り 广 デ 下 に 海 を 渡 っ て 進 攻 し て も 、 成 算 が な い こ と に 関 す る 見 通 し が 不 徹 底

られてもいた。

12 2

で、 飛 躍 的 に 頭 を き り か え る こ と が で き な か っ た た め に … … 毎 回 攻 撃 は 失 敗 し た の で あ っ た … … 認 識 不 足 の た め に 大 本 営 は … … (昭 和 ) 十 八 年 に 至 る ま で 概 ね こ の 失 敗 を く り 返 し … … 中 央 統 帥 部の独善的作戦指導は、前線の犠牲という大きなる天罰をこうむらざるをえなかった」

も ま た

一致する。 同じ発言をする

井本參謀自身の考え方に



そんな反省が胸中によどんでいるだけに、玉砕を主張する第十七軍司令部と対座する井本参謀

ま さ に

の 心 痛 は激しかった。 な ん と か 、撤 退 さ せ た い 。 こ れ 以 上 の 犠 牲 は さ け た い ……。 し か し 、宮 崎 參 謀 長 と 小 沼 大 佐 が 展 開 す る 論 旨 は 、

陸 軍 軍 人 と し て 、 苛 酷 な 第 一 線 の 幕 僚 と し て 、 立 場 を 変 え れ ば 、井 本 参 謀

しかし、 かといって、 わかりました、 ではご一緒に斬り込みを、 というのではなんのためにラ

はずである。

だが、 と 宮 崎 参 謀 長 が い え ば 、 しか し 、 と 井 本 参 謀 が 反 駁 し 、 そ れ は そ う だ が 、 と小沼大佐が

パ ゥ ル か ら 使 者 に き た の か わ か ら .な く な る 。

, 論議ははてしなくめぐり、 いつの間にか、 三人は流しあった涙がかわいたほおをロゥソクの灯

また反対する。

結 局 、 幕 僚 同 士 の 話 し あ い で は 決 定 は 生 ま れ な い 。 夜 が 明 け る の を 待 っ て 軍 司 令 官 .百 武 中 将

に う き だ させながら、黙 然 と う つ む い て い た 。

の判決を求めることになった。

一月十六日朝、井 本 参 謀 が 司 令 部 か ら 少 し は な れ た 百 武 中 将 の 住 居 洞 穴 に 行 き 、 こ と の 次 第 を 説 明 すると、 中 将 は 、 い っ た 。

「事 重 大 な る を 以 て 、 し ば ら く 考 慮 致 し た い 。 後 刻 、 さ ら に 決 心 を 述 ぶ る ま で 猶 予 せ よ 」

I

「如 何 な る 場 合 に お い て も 絶 対 (命 令 を ) 遵 奉 さ れ る 樣 」

そ の あ と 、 百 武 中 将 は 宮 崎 参 謀 長 を 呼 ん で 意 見 を 求 め た 。 百 武 中将は、井本参謀が伝えた第八

を聞き、心中で撤退命令に従ぅ決心をかためていた。

方面軍司令官今村均中将の言葉

だ が 、 宮 崎 参 謀 長 は 再 考 を 求 め 、 と く に 「真 の 軍 の 道 を 統 帥 の 上 に 具 現 す る よ ぅ に し た い 」 と

く 方 面 軍 の 命 令 は あ く ま で 之 を 実 行 せ ざ る べ か ら ず 。 た だし、之 が 完 全 に で きるや否やは予測で

「現 状 は 各 方 面 よ り 考 察 し て 、 軍 を 撤 収 す る こ と は 難 事 中 の 難 事 な り 。 然 れ ど も 、 大 命 に も と づ

た。

百 武 中 将 は 、 し か し 、 さ ら に 熟 慮 し た の ち 、 十 六 日 正 午 ご ろ 、井 本 参 謀 を 呼 ん で 、判決を伝え

ることに、 日本陸軍の名誉ある針路が見出せるのではないか。

く、 一部兵力の撤収のために貴重な海空戦力を消費する必要はない。 ここは第十七軍が犠牲にな

な ど で き る は ず が な い 。 し て み れ ば 、参 謀 長 が 井 本 参 謀 に い い 、井 本 参 謀 も 心 中 に 考 え て い る 如

宮 崎 参 謀 長 の み る と こ ろ で は 、第 一 線 は 釘 づ け に な り 自 滅 寸 前 で あ る 。 と て も 巧 妙 な 撤 退 作 戦

進言した。

——

井 本 熊 男

124

井本参謀はホッとしたが、同時に、 中将の判決の歯ぎれの悪さに、 はたして命令が実行されう

決 心 し て も 、參 謀 た ち の 大 脳 は 、 玉 砕 以 外 の

ア ィ デ ア を

収容す



余裕はなかった。

現 に 、 そ の 日 、 一月十六日は、 全 線 に わ た っ て 米 軍 の 攻 撃 は 激 化 し 、軍 司 令 官 百 武 中 将 が 撤 退

る か ど う か を 、懸 念 し た 。



といった情況であった。

よ う に す る か 」



ア ゴ を

なで、山本参謀はせっせと遺書の発送

「本 日 午 後 よ り 第 一 線 に 行 き 、 師 団 と と も に 斬 り 込 む 」 と 小 沼 大 佐 が い え ば 、 杉 之 尾 参 謀 は 「ヒ

I

ゲでもそって、醜を後世に残さぬ

十七日になる と、

米軍は第一線の砲弾をうちつ

く し た

のか、戦 場 は 静 か に な っ た 。

これまで

つまり、 參 謀 た ち に と っ て は 、 撤 退 と い う 考 え 方 自 体 が 思 考 外 に お か れ て い た の だ が 、 翌 日 、

先を通信紙に書く

一月

こ の 静 寂 の 訪 れ で 、 よ う や く 参 謀 た ち は 、撤 退 に つ い て 考 え は じ め た 。 百 武 中 将 も 、 いった。

の 例 で は 、 米 軍 が 弾 薬 を 再 集 積 し て 攻 撃 を 再 開 す る ま で に は 、数 日 間 な い し 十 日 間 は か か る 。

「日 本 人 の 流 血 を 見 た る 土 地 は 、 何 時 か は 必 ず 皇 土 と な る 。 ガ 島 も 一 度 こ れ を 失 っ て も 、 い つ か は皇土となることを確信する」 この百武中将の述懐は、 さらに參謀たちの心境を平静化するのに役立ち、小沼大佐が第二、第

小沼大佐は、 こんどは井本参謀の役目を自分が代行するめぐりあわせになった、 と苦笑したが、

三十八師団の説得に出かけることになった。

杉之 尾 参 謀 に 、 いい残した。

1 2 5 井 本 熊 男

「も し 第 一 線 が 、 情 勢 切 迫 し て 玉 砕 す る こ と に な っ て い た ら 、 自 分 も 玉 砕 す る 。 そ の と き は 重 要

小 诏 大 佐 は 、午 後 十 一 時 ご ろ 、 ま ず 第 三 十 八 師 団 司 令 部 を 訪 ね た が 、 大佐の予感は的中してい

書類を焼け」

た。

第 三 十 八 師 団 長 .佐 野 忠 義 中 将 は 、 も は や 師 団 の 持 久 は 限 度 に 達 し た と 判 断 し 、 一 月 二 十 一 日 を期して 総 攻 撃 を す る 旨 、 各 部 隊 長 に 指 示 し て い た 。

小 沼 大 佐 が 到 着 し た の は 、師 団 長 が 命 令 伝 達 を 終 え た そ の 直 後 で あ っ た 。そ し て 、大佐の説明

に、 参 謀 長 を は じ め 師 団 参 謀 た ち は 、 前 夜 、 小 沼 大 佐 が 井 本 参 謀 に 反 対 し た の と ま っ た く 同 じ 理

「こ の 戦 況 で 、 ど ぅ や っ て 敵 か ら 離 れ る の で す か 。 だ い い ち 、 撤 退 輸 送 は 必 ず 敵 に た た か れ 、 わ

由 を 主 張 し て 、首 を ふ っ た 。

しか し 、 そ の 論 旨 の 発 展 に つ い て は 、 す べ て 小 沼 大 佐 は 体 験 ず み で あ る 。井 本 参 謀 と の 問 答 、

が師団の玉砕以上の国家的損失をまねきますょ」

百 武 中 将 の 判 決 な ど を 頭 の 中 で か ら み あ わ せ な が ら 、再 び 、 しかし、 だが、 の論戦がつづいたの ち 、 師 団 長 .佐 野 中 将 は 、 判 決 し た 。

第 二 師 団 で も 同 様 の 経 過 を へ て 、 師 団 長 ,丸 山 政 男 中 将 は 撤 退 命 令 を 受 諾 し た 。

「大 命 と あ ら ば 、 ど こ で 死 ぬ の も 同 じ こ と 。 軍 司 令 官 の ご 意 図 に 従 お ぅ 」

126

小 沼 大 佐 が 第 十 七 軍 司 令 部 に 帰 っ て く る と 、 そ の 報 告 を 聞 い た 井 本 参 謀 は 、感 激 し た 。 第 三 十 八 師団、第 二 師 団 と も 、 結 局 は 予 想 以 上 に あ っ さ り と 説 得 さ れ た 感 じ を う け る 。 だが、 そ れ は 、 たんに死をまぬがれたいための反応だけであろうか。 ちがう、 というのが、井本参謀がうけた感

「よ ろ よ ろ と 杖 に す が り 、 う つ ろ に 死 者 と 一 緒 に 横 た わ っ て い た 兵 た ち の 姿 は 、 忘 れ ら れ な い 。

銘である。

そ し て 、 そ の 兵 た ち が 異 口 同 音 に 私 に た ず ね た の は 、友 軍 機 は い つ く る の か 、 と い う 質 問 だ っ た 。 じ ゅ う ぶ ん に 給 与 さ れ 、優 秀 な 装 備 を 持 っ て い て も 、 ガ 島 戦 は 苦 し い は ず だ 。 そ れ を 傷 者 、 病者

し か も 、

も 、

と も な う

それが命令だからで

将兵は一致して、自分の撤退に

あ り 、

命 令 に は 、自 己 を す て て 従 う 覚 悟 が

ある

味 方 の 損 害 を 心 配 し て 、撤 退 に 反 対 し た 。 そ

であり な が ら 戦 い つ づ け た 。 そ の 意 思 と 能 力 は 、 何 倍 、何 十 倍 に も 評 価 さ れ る べ き だ ろ う 。

あ る 」

れを、結局は 承 知 し た の からで

あ り 、

第 十 七 軍 は "敗

軍 " と み な さ れ

得る

か ら で あ る 。

そ の 意 味 で も 、撤 退 を 承 知 し た 第

あ る い は 、遮 二 無 二 、 玉 碎 し た ほ う が 華 々 し い 名 を 歴 史 に 残 し た で あ ろ う 。撤 退 は 、 す な わ ち 敗北で

こ と

もあって、 二月七日までに無事に終了した。

十 七 軍 に は 、 「無 私 の 誇 り 」 が あ っ た 、 と 井 本 参 謀 は 、 回 想 す る 。 撤 退 作 戦 は 、 欺 瞞 工 作 や 、 米

ガ ダ ル ヵ ナ ル 島 に 投 入 さ れ た 陸 軍 兵 力 約 三 万 一 千 四 百 人 の う ち 、引 き あ げ た の は 九 千 八 百 人 。

軍側が日本軍の移動を攻撃準備と誤解した

ほ ぼ 六 十 六 パ ー セ ン ト の 損 害 で あ り 、 そ の 大 部 分 が 栄 養 失 調 、 マラリャ、 下 痢 、 脚 気 に よ る 病 死

第 十 七 軍 司 令 官 .百 武 中 将 は 、 ラ パ ゥ ル に 今 村 第 八 方 面 軍 司 令 官 を た ず ね る と 、 涙 な が ら に 、 貝 1 任 を と つ て 自 決 し た い 、 と 申 し 出 た 。

「責 任 と い う が 、 あ な た が 兵 を 餓 え し め た の で す か … … す で に 制 空 権 を 失 い か け て い る 時 機 に 、

静 か に 説 く 今 村 中 将 も 眼 に 涙 を う か べ て い た が 、 の ち に そ の 会 話 を 知 っ た 井 本 参 謀 は 、 あらた

補給のことを軽く考え三万もの第十七軍をそこに投じた者の責任ではないでしょうか」

め て 威 儀 を 正 し て 南 の 空 に 黙 禱 し た 。井 本 參 謀 は 〃 生 へ の 使 者 , と し て ガ ダ ルカナルにむかい、

軍 人 と し て の 自 己 の 気 持 ち を 押 え な が ら 、任 務 を 成 就 し た 。 し か し 、前 述 の よ う に 、 そ の 前 、参

にも気づいたからである。

謀 本 部 で は 、 深 い 自 覚 の な い ま ま に ガ 島 作 戦 を 指 導 し 、 "死 の 使 者 , の 役 割 を は た し て い た こ と

野々山秀美

ェーェ、雲 が ァ出たァ

「 ノ ノ ヤ マ さ ん か ら 、雲 が 出 た ア 、

第 十 三 師 団 蠢 .野 々 山 秀 美 中 佐 は 、







いる。

ド ラ ム 罐 の 野 戦 營 に つ か り な が ら 、 上 機 嫌 で 、っ

省 と 広 西 省 の 省 境 に 近 い

で あ る 。ただし〃米山さん" と い う と こ ろ を 、 自 分 の 名 前 に

司 令 所 で あ る 。

昭 和 十 九 年 九 月 十 三 日 午 前 七 時 す ぎ 、南 支 那 の 湖 南

『三 階 節 』



ご 機 嫌 だ っ たからで あ る 。

考 案 し ていた も の で 、 ま だ 誰 に も ひ ろ う し て い な か っ 口 ず さ ん だ 。

それというのも、 とにかく、野々山参謀は最高の

替え歌は、野々山参謀が ひ そ か に つい 朝 風 呂 の 楽 し さ に さ そ わ れ て 、

||

128

た っ . こ 。

た が 、

1 2 9 野々山秀美

第 十 三 師 団 は 、 約 四 か 月 前 、 五 月 ニ 十 七 汩 に 開 始 さ れ た 「一 号 作 戦 」 の 先 陣 に 位 置 し て い た が 、 文宇どおりに連戦連勝の快進撃をつづけていた。

「一 号 作 戦 」 は 、 太 平 洋 方 面 の 戦 局 悪 化 に と も な い 、 支 那 大 陸 の 東 部 を 縦 断 し て 、 と く , に南支那

の米軍飛行基地を占領して日本にたいする空襲を防ぐとともに、 ィンドシナ半島から南方地域に

連 絡 ル ー ト を 開 き 、 補 給 .交 通 路 を 確 保 し な が ら 蒋 介 石 軍 を "封 殺 " し よ ぅ 、 と い ぅ 大 作 戦 で あ

参 加 兵 力 は 、 横 山 勇 中 将 の 第 十 一 軍 (第 三 、 第 十 三 、 第 三 十 四 、 第 四 十 、 第 五 十 八 、 第 六 十 八 、

った。

第 百 十 六 、 第 三 十 七 、 第 二 十 七 、 第 六 十 四 師 団 ) と 第 二 十 三 軍 の 一 部 を 加 え て 、約 三 十 ニ 万 人 。 以 0 上におよぶ。

そ の 中 で 、 第 十 三 師 団 は 南 下 の 先 頭 を き り 、 湖 北 省 の 基 地 .沙 市 を 出 発 し て い ら い 、 ほ と ん ど

各部隊の移動距離はニ千キ

歩く速度をゆるめることなく、敵を撃破しながら進んできた。

しか も 、 そ の 進 撃 は 、 た ぶ ん 野 々 山 参 謀 の 独 特 の 戦 術 思 想 と 独 断 の ガ 功 績 " によるものといえ

野 々 山 参 謀 は 、前 年 、 昭 和 十 八 年 十 一 月 に 第 十 三 師 団 作 戦 参 謀 に 就 任 し た が 、 そ れ ま で は 近 衛

た。

歩 兵 第 一 連 隊 、參 謀 本 部 第 五 課 勤 務 な ど 、 支 那 事 変 が は じ ま っ て か ら も 一 度 も 第 一 線 に 出 ず 、 も

第 十 三 師 団 に 転 出 す る 前 は 、 満 州 東 部 国 境 の 東 安 の 第 二 十 四 師 団 参 謀 だ っ た が 、 こ こ も 、 いわ

っ ば ら 東 京 暮 ら し を つ づ け て 、 自 ら "観 兵 式 用 軍 人 " と 嘆 い て い た 。

130

「ど う も 、 酒 飲 み で 、 ケ ン 力 早 く て 、 お ま け に 陸 大 入 試 は 何 回 も 失 敗 す る し 、 あ ま り 評 価 は 高 く

ば 後 方 基 地 で 、銃 弾 の 音 と い え ば 、 せ い ぜ い 射 撃 練 習 場 で 耳 に す る 程 度 で あ っ た 。 な か っ た で し よ う な 。 第 一 線 に 出 し て も 、 ロ ク な こ と は な い と考 え ら れ て い た か も し れ ま せ ん

野 々 山 参 謀 は 、 そ れ ま で の "冷 や 飯 , 生 活 の 理 由 を そ う 推 測 す る が 、 た だ 、 陸 軍 大 学 校 時 代 に 、 野 々 山 参 謀 の 戦 術 に た い す る 着 眼 と 能 力 は 、抜 群 と 評 定 さ れ て い た 。 む ろん、 野 々 山 参 謀 自 身 も 、そ の 点 に つ い て は 自 信 を も っ て い た の で 、本 来 な ら 、 気楽で出世

そ こ で 、 第 十 三 師 団 参 謀 を 拝 命 す る と 、 ま ず は 「い よ い よ 、 腕 が ふ る え る 」 と 勇 み た ち 、 次 い

が早いはずの中央勤務にあきたらなかったわけである。

I

というのは、 じ つは、野 々 山 参 謀 は 、支 那 事 変 の 開 戦 い ら い 、 事変が 長 び く の は 日 本

で 、 「一 号 作 戦 」 開 始 と な る と 、 「待 っ て い た 、 念 願 の 機 会 だ 」 と 、 さ ら に 武 者 ぶ る い し た 。

念願

I

野 々 山 参 謀 は 、 いう。

軍 の 戦 法 に 主 因 の ひ と つ が あ る と 考 え 、 別 の や り 方 を 実 地 に こ こ ろ み て み た い 、 と思 っ て い た か 日本軍の戦法のどこがまずいのか

らである。

「ま っ た く 簡 単 な こ と で す な 。 孫 子 は 、 〃 敵 ヲ 知 リ 己 ヲ 知 ル 者 ハ 百 戦 殆 カ ラ ズ # と い っ て い る が 、 蔣 介 石 を は じ め 支 那 軍 の 中 堅 ク ラ ス の 幹 部 は 、 ほ と ん ど が 日 本 陸 軍 士 官 学 校 に ま な び 、 日本軍の

1 3 1 野々山秀美

ろ が 、 日 本 軍 の ほ う は 、 相 手 の こ と は お 構 い な し に 、歩 兵 操 典 や 作 戦 要 務 令 ど お り に や る の だ か

戦 法 を よ く 知 っ て い る 。 だ か ら 、 向 こ う は こ ち ら の 裏 を か い て 準 備 し 、 待 ち か ま え て い る 。 とこ

そ こ で 、 野 々 山 参 謀 は 、 一策を考案して、 第 十 三 師 団 に 赴 任 す る と 、参 謀 長 依 知 川 庸 治 大 佐 に

ら、戦 争 が 長 び く の も 当 然 で し ょ う 」

献言した。

「參 謀 長 、 戦 場 は つ ね に 変 化 す る 以 上 、 千 篇 一 律 、 型 通 り の 戦 闘 で は 、 必 勝 は 期 待 で き ま せ ん 。 「フ ン 、 そ れ で … … 」

孫 子 い わ く 、 戦 勝 の 要 諦 は 、 ,予 期 ヲ 以 テ 不 期 ヲ 撃 ッ 二 在 リ と … … 」



「そ れ で 、 で す 。 敵 の 不 期 を 撃 つ に は 、 時 、 所 、位 の 三 点 を 利 用 せ ね ば な り ま せ ん 」 「... ?

野 々 山 参 謀 は 、 「時 の 不 期 」 と は 、 時 間 的 に 敵 の 不 意 を つ く こ と 。 「所 の 不 期 」 は 、 地 形 に よ る

敵 の 不 意 を つ き 、 「位 の 不 期 」 は 、 心 理 的 不 意 を つ く こ と だ 、 と 解 説 し て 、 こ れ ら 不 期 を 発 見 で



る ? 」

き な い と き は 、 こ ち ら か ら 作 り だ し て 攻 め る 。 こ れ が 、 古 来 、 名 将 の 手 段 で あ る 、 と述 べ た 。

た と え ば ——

「も っ と も だ .. も っ と も だ が 、 具 体 的 に は ど う す

あ る 大 隊 が 前 進 し て い る と 、 兵 力 不 明 の 敵 が 前 方 約 三 十 ニ キ ロ 地 点 に い る こ と を発見したとす

る 。 三 十 ニ キ ロ は 約 ー 日 の 行 軍 の 距 離 で あ る 。 歩 兵 操 典 に し た が え ば 、 日 没 後 、 ー時間四キロの

132

し か し 、 こ れ で は 敵 を 逃 す か 、 明 る い の で 、味 方 の 損 害 を 増 す 結 果 を 招 き や す い 。

行 軍 速 度 で 出 発 し 、夜 明 け 前 に 敵 陣 前 に 到 着 し て 、偵 察 の ぅ え 、 日 中 の 攻 撃 と な る 。

そ こ で 、大 隊 長 が 、 兵 の 装 備 を 補 給 隊 に あ ず け て 後 か ら 運 ば せ る ょ ぅ に し て 、统 器 と 弾 丸 だ け 次 に 、 地 形 を 偵 察 し て 、敵 陣 の す き 間 か ら 黙 々 と 敵 の 第 一 線 陣 地 と 第 二 線 陣 地 と の 間 に 、主力

を も っ て 一 時 間 十 キ ロ で 進 め ば 、 深 夜 前 に は 、敵 陣 に 接 近 で き る 。

I

のである。

を潜 入 さ せ る 。 そ し て 、夜 明 け と と も に 一 気 に 突 撃 す る 。 第一線を突破すれば逃げる敵にくいつ

「フ ー ン 。 ガ ほ お か ぶ り " 戦 法 だ な ァ 」

き、 第 二 線 、第 三 線 陣 地 も 押 し 破 る

依 知 川 大 佐 は 、苦 笑 し た 。閨 に ま ぎ れ て 忍 び こ む 、 と へ っ ぴ り 腰 で 説 明 す る 野 々 山 参 謀 に 、 ふ

「い や 、 織 田 信 長 の 桶 狭 間 の 奇 襲 に 似 た "な ぐ り 込 み " 戦 法 で す ょ 」

と、 ほ お か ぶ り し て 夜 中 に ス ィ 力 畑 に 潜 入 す る 田 舍 の 若 者 の 姿 を 想 像 し た の か も し れ な い 。

野 々 山 参 謀 は 、 胸 を は っ て 答 え た 。 依 知 川 大 佐 は 、 や っ ぱ り "ほ お か ぶ り " だ、 と 、 な お も 苦 笑 し た が、 と に か く 、 こ れ ま で と違 っ た 戦 法 は テ ス ト し てみ る 価値がある。第 十 三 師 団に所属す

る 歩 兵 第 六 十 五 、 第 百 四 、 第 百 十 六 連 隊 は 、 野 々 山 式 〃 な ぐ り 込 み "、 あ る い は 〃 ほ お か ぶ り " 戦 術 の 訓 練 を 積 ん で 、 「一 号 作 戦 」 に 参 加 し た 。 上 級 機 関 で あ る 第 十 一 軍 司 令 部 も 、 さ ら に そ の 上 の 支 那 派 遣 軍 司 令 部 も 、第十三師団がそんな 思想を持っているとは、知らなかった。

1 3 3 野々山秀美

知 れ ば 、 一言のもとに放棄を命じたにちがいない。

す で に 、 蔣 介 石 軍 は 、 「磁 性 戦 術 」 を 呼 号 し て 、 あ え て 後 退 戦 法 を と り な が ら 、 支 那 事 変 を 長

びかし、 かつ支那大陸の奥深く日本軍をさそいこんで出血を強要しているのである。

そ れ な の に 、 ,ほ お か ぶ り " で 突 つ こ め 、 ど こ ま で も 追 い か け ろ 、 と い う の で は 、 ま る で 、 み すみす敵の希望をかなえてやるようなものではないか。

こ と に 、 南 下 す る に つ れ て 、 蔣 介 石 軍 の 有 カ な 野 戦 六 個 軍 が 反 撃 办 た め に 北 上 し て い る 、 とい

「一 号 作 戦 」 は 、 だ か ら 、 慎 重 な 包 囲 殲 滅 戦 を 、 つ み か さ ね る 計 画 に な っ て い た 。

う情 報 も は い り 、 第 一 の 主 要 目 標 で あ る 零 陵 飛 行 場 攻 撃 の さ い も 、 第 十 一 軍 は 、 支 那 派 遣 軍 の 指

敵 軍 が 後 退 し て い る 気 配 は 感 じ ら れ た が 、 奇 襲 攻 撃 は お こ な わ ず 、 退 路 を 遮 断 し て 包 囲 す る慎

導 に 従 い 、第 三 、第 十 三 、第 五 十 八 、第 四 十 師 団 を 使 う 二 重 包 囲 作 戦 を 用 意 し た 。

重 な 計 画 で あ っ た 。まず 、数 日 か ら 、 一週間はかかるものと予想された。

ところ が 、野 々 山 參 謀 は 、 九 月 十 五 日 、零 陵 を 攻 略 せ よ 、 と い う第 十 一 軍 命 令 を う け る と 、 す

そ れ ま で に も 、 た び た び 小 規 模 な ,ほ お か ぶ り , 戦 法 で 効 果 を あ げ て い た の で 、 依 知 川 大 佐 も 、

か さ ず 、 ,ほ お か ぶ り , 戦 法 に よ る 挺 身 奇 襲 攻 略 を 進 言 し た 。

奇 襲 命 令 が 起 案 さ れ 、 第 百 四 連 隊 長 .海 福 三 千 雄 大 佐 は 、 第 三 大 隊 長 .人 見 永 寿 少 佐 に 実 施 を

師 団 長 .赤 鹿 理 中 将 も う な ず い た 。

134

命じた。 人 見 少 佐 は 、 命 令 を う け る や 、 直 ち に 大 隊 の 非 常 呼 集 を お こ な い 、 「背 囊 や 弱 兵 は 、 あ と か ら

びだした。

追 い つ か せ ろ 」 と 副 官 に 指 示 す る と 、各 中 隊 ご と に 集 合 し て あ と か ら つ づ け 、 と い い 残 し て 、 と

野 々 山 参 謀 に い わ せ れ ば 、 「ま さ に 、 ま っ 先 か け て 桶 狭 間 に む か っ た 織 田 信 長 そ の ま ま で 、 わ が "な ぐ り 込 み " 戦 法 の 精 髄 を 体 現 し た 姿 」 と い う こ と に な る が 、 人 見 少 佐 は 後 続 の 部 下 を 集 め

そ の 夜 は 、 月 光 が 明 る く 、 "ほ お か ぶ り " ス タ ィ ル で の 接 近 は 困 難 と み ら れ た が 、 敵 兵 は 城 門

な が ら 、 六 日 は 一 晩 で 約 四 十 三 キ ロ を進 み 、 七 日 午 前 一 時 ご ろ 、零 陵 の 北 側 城 壁 前 に 到 着 し た 。

前の家屋の中で眠っていた。左右にわかれた人見大隊は、 たくみにその家屋をまわりこんで城壁

城 門 突 破 に 手 間 ど っ た が 、午 前 八 時 ご ろ に は 、 人 見 大 隊 は 城 内 に な だ れ こ ん だ 。 零 陵 は 、湘江

に近づき、午 前 三 時 、 い っ せ いに攻撃した。 の 支 流 で あ る 瀟 水 に そ っ て い る 。人 見 少 佐 は 、野 々 山 参 謀 の 教 え ど お り に 、逃げる敵兵にくいつ き 、 そ の 退 路 を 遮 断 す べ く 、 一 個 中 隊 に 敵 を 追 い こ し て 渡 河 点 の 橋 を 占 領 さ せ 、午 前 八 時 五 十 分 、 零陵城陥落を報告した。

… … と い う 、 即興の替え歌は、 この零陵の占領報告を聞いたとき、野々山参謀の頭にひらめい

、 ノ ノ ヤ マ さ ん か ら 、雲 が ァ 出 る ゥ

た。

1 3 5 野々山秀美

ま さ に 、 ”ほ お か ぶ り , 戦 法 の 勝 利 で あ り 、 つ ま り は 〃 野 々 山 さ ん , の 戦 術 か ら 勝 雲 が わ き 出

第 十 一 軍 司 令 官 .横 山 中 将 は 、 零 陵 が 陥 落 す る と 、 九 月 七 日 、 次 の 主 目 標 で あ る 全 県 の 攻 略 準

た、 といえるからである。

備を各師団に命令した。

「軍 ハ 四 板 橋 、 広 福 、 冷 水 舗 、 大 結 、 南 側 高 地 及 永 安 関 ノ 線 二 向 ヒ 追 撃 シ 、 全 県 攻 略 ヲ 準 備 セ ン

こ のうち、 四 板 橋 は全県の北、永 安 関 は 東 南 に あ る 。 そ れ ぞれ第四十師団と第五十八師団が四

トス」

ぶ 大 結 と ^ ^ 舗 に 第 十 三 師 団 を 進 出 さ せ て 、 三 方 か ら 全 県 包 囲 態 勢 を と と の え ょ う と す る 計画で

板 橋 、第 三 師 団 が 永 安 関 を 押 え る と と も に 、中央の全県東北約二十 五 キ ロ に 湘 江 を は さ ん で な ら

情 報 で は 、全 県 周 辺 に は 、少 な く と も ニ 、 三 個 師 団 の 敵 が 集 結 し 、 ま た 堅 固 な 陣地を築いてい

ある。

る、 という。慎 重 か つ 入 念 な 攻 撃 準 備 が 必 要 で あ ろ う 。

横山中将は、零陵は予想外に早く片づいたが、それはむしろ、敵は全県で強力な反撃を計画し

て い る た め だ 、 と予 想 し た 。 戦 車 、 重 砲 も 進 出 さ せ て 、 万 全 の 攻 撃 を 実 施 す る の が 得 策 だ と 考 え

た。 支 那 派 遣 軍 司 令 部 も 、 そ れ が 適 切 な 判 断 で あ り 措 置 で あ る 、 と う な ず いた。

野 々 山 参 謀 は 、 し か し 、別 の 判 断 を し て い た 。

136

「わ ず か 一 個 大 隊 の 突 撃 で 零 陵 が 落 ち た 、 と い う 事 実 を な ん と み る か 。 明 ら か に 、 敵 は 戦 意 を 喪

か。 こ れ は 、 後 方 の 机 上 で 推 理 し て は 思 い つ か な い 、戦 場 で 肌 が 感 ず る 着 想 だ っ た 。 お そ ら く 、

失 し て い る か 、 でなけ れ ば 、敵 の 主 抵 抗 陣 地 は 、 全 県 で は な く 、 さ ら に 、 西方の桂林で は な い の

全 県 に 防 禦 陣 地 が あ っ て も 、敵 は ま じ め な 抵 抗 は し な い 、 と い う 考 え が ひ ら め い た 」 だが、 野 々 山 參 謀 の 判 断 に は 、具 体 的 な 根 拠 が な い 。 あ く ま で ひ ら め き に と ど ま る 。野々山参

ところ で 、再 び 第 十 三 師 団 の 先 頭 に 立 っ た 歩 兵 第 百 四 連 隊 は 、軍命令にょる冷水舖をめざして

謀 は 、自 身 の 〃 霊 感 " に自信はあったが、 あ えて、そ れ に も と づ く 進 言 は し な か っ た 。

前 進 し た が 、 さ っ ぱ り ど こ が ど こだかわからない。 湖 南 省 と 広 西 省 と の 省 境 を こ え る わ け だ が 、予 想 で は 、 こ の 省 境 付 近 に は 敵 軍 が 集 結 し て い て 、

だ が 、 い く ら 進 ん で も 敵 弾 の 飛 ん で く る 様 子 は 、 な い 。 お ま け に 、 持 っ て い る 「中 華 民 国 図 集

戦闘がおこなわれるはずだった。

成十万分の一」地図と、あたりの地形はまるっきり符合しない。 さすがに南支那の九月である。照りつける陽光は、肌令やくょうに熱い。それまでの進撃も、

た ち は 、 も っ ぱ ら 、 わ ず か ば か り の 稲 と 冬 が を 主 要 食 糧 に し て 、空 腹 と 疲 労 に あ え い で い た 。

"糧 を 敵 に 求 め る " 式 の 生 活 だ っ た が 、 急 進 撃 の た め と 、 現 地 調 達 が う ま く い か な い の と で 、 兵

日射病で倒れる者がふえた。が、第十三師団の勝ち戦にのった気力はおとろえず、 とにかく、 こ っ ち の方角だ、 と 前 進 を つ づ け た 。

野々山秀美

すると、九月十一日未明、敵陣にぶつかった。

抵抗が弱いので、あっという間に占領したが、敵は第百四連隊の接近に気づかなかったとみえ、

連 隊 長 .海 福 大 佐 も 、 や や ぼ う 然 と し た 。 陣 地 を 視 察 す る と 、 ベ ト ン 作 り の ト ー チ ヵ が つ ら な

連隊が敵陣を占領してから、ぞろぞろと現われ、 ぼう然とする有様だった。

っている。 た か が 、省 境 の 前 線 陣 地 に し て は 、念 が 入 り す ぎ 、 か つ 大 が か り に す ぎ る 。 い っ た い 、

省 境 ど こ ろ か 、 は る か に 敵 の フ ト コ ロ に 入 り こ み 、全 県 の 外 部 陣 地 と い う べ き 戦 線 で あ っ た 。

こ こ は ど こ な の か 、 と捕 虜 に 質 問 す る と 、 黄 沙 舖 だ 、 と い う 。

が 、 海 福 連 隊 長 は 、 「い わ ゆ る 騎 虎 の 勢 い で あ る 。 こ の ま ま 、 軍 の 攻 勢 発 起 ま で 一 週 間 も 待 っ

捕 虜 の 証 言 に ょ る と 、黄 沙 舗 、大 結 に は 蒋 介 石 軍 の 第 九 十 三 軍 第 十 師 団 が 布 陣 し 、全 県 城 内 外

ていては、敵 を 強 力 に す る ば か り だ 」 と判断し、 そ の ま ま 湘 江 対 岸 の 敵 陣 制 圧 に 進 撃 し た 。

だ が 、 報 告 を う け た 第 十 三 師 団 參 謀 長 .依 知 川 大 佐 は 、 怒 っ た 。

に は 同 第 百 十 六 師 団 、新 編 第 八 師 団 が 待 機 し て い る こ と が わ か っ た か ら で あ る 。

師 団 と し て は 、指 揮 下 の 三 個 連 隊 で 三 方 向 か ら 全 県 を 包 囲 さ せ 、 戦 車 や 重 砲 も 加 え て 攻 撃 す る

計 画 を た て て い た 。左 岸 に 進 む の は 、第 百 四 連 隊 で は な く 、第 百 十 六 連 隊 の 予 定 で も あ っ た 。

それに、第 十 一 軍 命 令 は 、 あくまで全最攻略のための 準 備 は 指 示 し て い る が 、早すぎる突進は

「貴 隊 の 行 動 は 任 務 を 逸 脱 し 、 軍 の 攻 撃 計 画 を 破 壊 す る も の に し て 適 当 な ら ず 。 厳 に 戒 慎 す ベ

許していない。

依知川大 佐 は 、 ヵンヵンになって、十三日朝、 叱責電報を海福連隊長に送った。 野々山参謀も、

井 本 中 佐 は 、陸 軍 士 官 学 校 の 同 期 生 で あ り 、遠 慮 の な い 友 人 で あ る 。野 々 山 參 謀 は 、 ドラム罐

電 報 発 信 に う な ず き 、 第 十 一 軍 高 級 参 謀 .井 本 熊 男 中 佐 の 来 訪 を 待 っ た 。

い や 、 そ れ よ り も 、 野 々 山 参 謀 が し き り に 自 作 の "三 階 節 " 替 え 歌 を う な っ て 、 上 機 嫌 だ っ た

の 朝 風 呂 を楽しみながら、井 本 中 佐 な ら 、 わ か っ て も ら え る 、 と確信していた。

の は 、 一方で、 井 本 中 佐 と の 対 話 を 楽 し み に す る と と も に 、 他 方 で は 、 も し 自 分 の 情 勢 判 断 が 正

である。

し け れ ば 、相 談 し て い る 間 に も 全 県 が 陥 落 す る か も し れない 、 という予感がこみあげていたから

井 本 中 佐 は 、野 々 山 参 謀 に 会 う と 、第 十 三 師 団 は 前 進 を 停 止 し て も ら い た い 、 もし進むという

井 本 中 佐 は 、 こ れ 以 上 の 突 進 は 、補 給 が 追 ぃ つ か ず に 自 滅 す る 恐 れ も ぁ る 、 ま ず 後 方 補 給 体 制

場 合 に そ な え て 、 「軍 司 ム 卫 目 の 停 止 命 令 を あ ず か っ て き て い る 」 と い っ た 。

を整 備 す べ き だ 、 とも、 説 い た 。

I

敵 の 抵 抗 ぶ り を み る と 、明 ら か に 敵 は 主 抵 抗 線 を 桂 林 に お い て い る 。 いまここでとまるよ

野々山參謀は、反論した。

り は 、全 県 を 奪 っ て か ら 、次 の 作 戦 準 備 を す べ き だ 。第 十 三 師 団 は 、独 力 で 全 県 を 攻 略 で き る 。

野々山秀美 139

——

敵 か ら 奪 っ た 五 万 分 の 一 地 図 を み る と 、 われわれの地図 と は 大 違 い だ 。 あきらかに敵はィ

兵は勢いなり、 というではないか。敵情は、 たしかに不明である。 しかし、参謀として、

ン チ キ地 図 を 市 販 し て い た が 、 要 す る に 全 県 ま で に あ る と 思 っ た 険 し い 山 も 谷 も 、 な い 。 I

た だ 戦 術 試 験 の 答 案 な み の 考 え を 述 べ る だ け で は 、 師 団 長 に も 将 兵 に も 相 す ま ぬ 。勝機を発見し

つ ま り 、 「勝 機 は 戦 場 で 肌 が 感 じ て く れ る 。 そ し て 、 ォ レ の 肌 は そ れ を 感 じ て い る 」 と い う の

て、 そ れ を 部 隊 の 具 体 的 勝 利 に リ ー ド す る の が 、 参 謀 の つ と め の は ず だ 。

井 本 中 佐 は 、 や が て 全 県 攻 撃 を 承 知 し た が 、 た だ し 、第 十 三 師 団 だ け で な く 、 他 の 師 団 も な ら

である。

そ こ で 、第 十 三 師 団 は 各 連 隊 に た い し て 、敵 情 の 威 力 偵 察 は す る が 、攻 撃 は 軍 命令が出てから

ベて統一攻撃でやる、 と答え、 野々山参謀も、 しぶしぶ同意した。

お こ な う べ し 、 と い う作 戦 命 令 を 打 電 し た 。

と こ ろ が 、 そ の 夜 、 野 々 山 参 謀 は 、 井 本 中 佐 を ま じ え た 師 団 司 令 部 の 酒 宴 で 酔 っ ぱ ら い 、 ぐっ

すり寝こんでいると、九月十四日午前四時ごろ依知川大佐に起こされた。

や っ た か ——

とノ ド の中で歓声をあげるや、 こんどは野々山参謀が井本中佐をゆり起こして、

「お き ろ 、 野 々 山 参 謀 、 全 県 が お ち た ぞ 。 ま た 、 海 福 連 隊 だ 」

威力偵察を命ぜられた第百四連隊は、第一大隊第二中隊長宮本学大尉に実施させた。

報 告 を 告 げ た 。井 本 中 佐 は 、 う っ と り と し た よ う な 酔 眼 の ま ま 、 し ば し 、 啞 然 と し て い た 。

140

宮 本 大 尉 は 、敵 の 動 き が 低 調 な こ と か ら 、敵 は 退 却 中 だ 、 と い う 意 見 を 主 張 し た 。海 福 連 隊 長 も 、 そ の 気 配 を 感 じ と っ て い た が 、 「け っ し て 深 入 り す る な 」 と い う 注 意 づ き で 、 宮 本 中 隊 を 派 遣した。 と こ ろ が 、宮 本 中 隊 が 〃 ほ お か ぶ り ,方 式 で 全 県 城 に 潜 入 し て み る と 、敵 兵 は い な い 。無 線 連 絡 を う け た 海 福 連 隊 長 は 、即 座 に 連 隊 主 力 の 出 動 を 命 じ 、全 県 城 を 占 領 す る と と も に 全 県 西 南 十

全県周辺の敵陣地带は、あるいは岩山をくりぬき、あるいはトーチヵ陣地を配置した長さ三〜

六キロ 付 近 ま で 、 前 進 し た の で あ る 。

I

と、 全

四 キ ロ に お よ ぶ 強 力 な も の で あ っ た 。 もし、第 十 一 軍 が 予 定 ど お り に 腰 を お ち つ け た 作 戦 を 実 施 し て い た ら 、当 然 敵 の 準 備 も と と の い 、 少 な く と も 一 か 月 の 激 戦 は さ け ら れ な か っ た 県 占 領 後 に 視 察 し た 第 十 一 軍 司 令 部 は 、身 ぶ る い し た 。

1 4 1 藤 原 岩 市

藤原岩市

昭和十六年九月十日。

参 謀 本 部 第 八 課 .参 謀 藤 原 岩 市 少 佐 は 、 先 任 課 員 門 松 正 一 中 佐 に 呼 ば れ た 。

「藤 原 少 佐 、 貴 官 は 近 日 パ ン コ ク に 行 き 、 大 使 館 武 官 田 村 (浩 ) 大 佐 を 補 佐 し て マ レ ー 方 面 の エ

作 を 準 備 す る こ と に な る 。情 勢 が 悪 化 し て 、対 米 英 戦 争 冰 ぼ っ 発 す れ ば 、貴 官 は 近 く 編 成 さ れ る

藤 原 参 謀 は 、 お ど ろ い た 。第 八 課 、 つ ま り 謀略工作担当の課に所属している関係で、南 方諸地

南方軍參謀に補佐せられ、同工作を担任する予定だ」

域 に た い す る 工 作 に つ い て は 、前 年 、 昭 和 十 五 年 秋 に 、 も っ ぱ ら 宣 伝 放 送 、 ビラなどを準備する

二月には、東南アジア諸国を視察旅行した経験がある。

「淡 路 事 務 所 」 (神 田 .淡 路 町 の ビ ル を 利 用 し た の で 、 そ ぅ 名 づ け た ) を つ く っ た り 、 昭 和 十 六 年

し か し 、 本 格 的 な 謀 略 工 作 に は ま っ た く 体 験 が な い 。 門 松 中 佐 に ょ れ ば 、 任 務 は マ レ —半 島 在

住 の イ ン ド 人 、 マレー人、 華 僑 の 間 に 対 日 協 力 グ ル ー ブ を 組 織 し 、 い ざ と い う と き に 日 本 軍 に 応

こりゃ ま ず い —

と、藤 原 参 謀 は 、 と っ さ に 唇 を と が ら せ た 。

じて活躍させることだ、 という。文宇ど お り の 謀 略 、 スパイ工作である。

ダメ

もダメ

通用するは

しても、

体 験 も な い う え に 、 そ の 種 の 工 作 に は 必 須 と 思 わ れ る 語 学 能 力 に ま ?た く 自 信 が な か っ た か ら ー語 は 。中国語 。全般的に ずの英語に

にふみきるものと予想された。

ド イ ッ に 敗 北 す る か 、 戦 争 に 疲 れ る か 、 いず れ に せ ょ 、英 国 が 手 を あ げ れ ば 、同 盟 国 米 国 も 和 平

太 平 洋 戦 争 開 戦 に あ た り 、 日 本 側 が 最 も 期 待 を も っ た の は 、英 国 の 降 伏 ま た は 戦 線 脱 落 で あ る 。

に特別の努力をそそぐのには、理由があった。

ク 族 の 秘 密 独 立 運 動 結 社 「1 1 匕」 (イ ン ド 独 立 連 盟 ) を 味 方 に つ け る こ と だ が 、 イ ン ド 人 工 作

工 作 の 対 象 は 、 マ レ ー 人 や 中 国 人 の 反 英 団 体 の ほ か に 、 す で に タ イ に 本 拠 を 置 く イ ン ド .シー

とくに藤原参謀にたいして、 工作の主目的はインドにある、 と強調した。

九 月 十 八 日 、藤 原 参 謀 と 五 人 の 将 校 は 参 謀 総 長 杉 山 元 大 将 か ら 直 接 命 令 を う け た 。杉 山 大 将 は 、

は、 覚 悟 を き め ぬ わ け に は い か な か っ た 。

す ん で い る と 聞 き 、 ま し て 、命令とあれ ば ど ん な 仕 事 も や ら ね ば な ら な い 軍 人 精 神 を 強 調 さ れ て

そ こ で 、 い っ た ん は 辞 意 を 表 明 し た が 、 す で に 部 下 の 大 尉 一 人 、 中 尉 二 人 、少 尉 二 人 の 選 定 も

「中 学 時 代 に な ら っ た だ け で 、 数 え る ほ ど の 単 語 し か 記 憶 に 残 っ て い な い 」 有 様 で あ っ た 。

である。イ ン ド 語 、マレ

142

1 4 3 藤 原 岩 市

こ の 見 込 み は 正 し か っ た 。 米 国 も 英 国 を 弱 点 と み て 、 脱 落 さ せ ぬ た め に 、 ョーロッパ戦線第一 れば、 インドから英国の崩壊をうながす可能性も生まれてくる。

主義をとっていた。 インド市民が日本軍に協力し、 さらにインド国内の反英独立運動が強化され

そ の 意 味 で 、 ま ず マ レ ー 半 島 に お い て イ ン ド 市 民 が 日 本 軍 に 協 力 す る こ と は 、 他の東南アジア

杉山総長が藤原少佐に、 とくにインド人工作の重要性を指摘したゆえんであった。

諸国、 ひいてはインド国内にも影響は大きいはずである。

藤 原 參 謀 は 、 そ の 夜 、 退 庁 後 に 五 人 の 部 下 を 自 宅 に さ そ っ た 。 途 中 、 当 時 の ヒ ッ ト ソ ン グ .レ ド " 愛 染 か つ ら 〃 "男 の 純 情 を" 買 い 、 深 夜 ま で レ コ ー ド に あ わ せ て 歌 い 、 か つ痛 飲 し て 壮

コー

途を祝った。

駐 在 武 官 田 村 大 佐 と う ち あ わ せ た 結 果 、 工 作 と し て は 、 「1 1 し」 の ほ か に 、 マ レ ー 北 部 に 住

藤 原 参 謀 は 、 十 月 一 日 、 駐 タ イ 日 本 大 使 館 員 山 下 浩 一 の 偽 ,名 で バ ン コ ク に 到 着 し た 。

む 日 本 人 谷 豊 、 別 称 「マ レ ー の ハ リ マ ォ (虎 )」 な る 匪 賊 、 ま た 、 現 地 生 活 が 長 い 田 代 重 遠 (本

こ の う ち "田 代 ル ー ト " は き わ め て 可 能 性 が う す く 、 対 マ レ — 人 工 作 と し て の "谷 ハ リ マ ォ "

名岩田) によるシンガボールの埠頭労働者にたいする工作路線が考えられることが、 わかった。

^

」 バンコクの街はずれの漬物屋の倉庫 3 が 最 も 可 能 性 が あ る 。 藤 原 参 謀 自 身 、.

の 存 在 も 、手 下 三 千 人 と 呼 号 し な が ら 実 際 に は 百 人 た ら ず の 実 勢 力 と わ か っ て 、期 待 う す と な っ た 。 結 コ 可 は 、 「1

144

二 階 で 、 「1 1 し 」 書 記 長 プ リ タ ム シ ン と 会 見 し て 、 そ の 祖 国 独 立 を 望 む 熱 意 に 感 動 し て 、 味 方

藤 原 参 謀 は 、 名 前 の 頭 文 字 を と っ て 「卩 機 関 」 を 名 の り 、 「 I I し」 に ょ る 英 軍 内 の イ ン ド 兵

としての有用性を認めた。

リタ

し か し 、 と 、 藤 原 參 謀 は 、 考 え た 。 ひ と く ち に イ ン ド 人 工 作 と い っ て も 、. 異 民 族 で あ る インド

投降勧誘、 マレー在住のインド人の対日協力をはかる計画をねった。

人 を 心 服 さ せ 、心 か ら 協 力 さ せ る こ と は容 易 で は な い 。 苦 慮 し た あ げ く の 結 論 は 、謀 略 と い う 思 想 を 捨 て る こ と で あ っ た 。 「も と も と 、 私 は 謀 略 と い う 秘 密 工 作 め い た 手 段 に つ い て 、 知 識 が な い 。 語 学 も ダ メ だ 。 ブ

ム シ ン 書 記 長 と 話 を す る と き も 、 英 語 通 訳 の 助 け を か り ね ば な ら な い 。 こ れ で は 、微 妙 な 謀 略 エ

志 を 持 っ て い る 。 し て み れ ば 、 姑 息 な 工 作 を 計 画 す る ょ り も 、 彼 ら の 熱 意 を か き た て 、彼 ら 自 身

作 は 無 理 だ 、 と 思 っ た 。 そ れ に 、彼 ら は 祖 国 独 立 の た め に 日 本 軍 に 協 力 し た い 、 と い う 明 確 な 意

、 っ」

の団結を促 進 さ せ る ほ う が 良 い 。 そ の 結 果 は 、彼 ら の 反 英 行 動 と な り 、 われわれの目的にもかな

I

とは、支 那 事 変

藤 原 参 謀 は 、 要 す る に 彼 ら の 信 頼 を 獲 得 す れ ば い い 、 そ の た め に 必 要 な 武 器 は 「理 念 」 「誠 意 」

「戦 勝 の 要 訣 は 戦 わ ず に 敵 を 降 す こ と に あ る 。 そ の 根 本 は 誠 意 と 情 で あ る 」

「愛 情 」 の 三 つ だ 、 と 判 定 し た 。

で 中 国 人 宣 撫 工 作 を 実 施 し た 末 藤 知 文 大 佐 の 述 懐 だ が 、 イ ン ド 人 に た い し て も "東 亜 解 放 、 民 族

自 決 " と い う 理 念 に も と づ き 、 ま っ た く 平 等 の 立 場 で 誠 意 を つ く し 、情 を こ め て 接 す る 以 外 に 、

「?機 関 」 は 、 正 規 の メ ン バ ー 六 人 の ほ か に 、 民 間 人 雇 員 を ふ く め て も 二 十 人 に 満 た な い 。 この

心からの協力を得ることは不可能であろう。

小 人 数 で 、 マ レ ー 英 軍 内 の イ ン ド 兵 を 味 方 に つ け 、 一 般 イ ン ド 市 民 も 協 力 さ せ る た め に は 、 「I I し」 の イ ン ド 人 の 手 助 け を 必 要 と す る 。 し か し 、 も し 彼 ら が 日 本 側 に 不 満 を 持 て ば 、 そ の 不 満

は直ちに敵意に変化し、あるいは逆に英軍に味方しないでもない。それを防止するにはひたすら



員 六 人 を 連 れ て シ ン ゴ ラ 飛 行 場 に と び 、 「卩 機 関 」 工 作 を 開 始 し た 。

昭 和 十 六 年 十 二 月 八 日 の 開 戦 と と も に 、 藤 原 参 謀 は 、 書 記 長 プ リ タ ム シ ン ら 「1 1 し」 の 挺 身

した。 ム チ は 、長 さ ニ メ ー ト ル 、 チ ョ ゥ ザ メ の 尾 で 出 来 て い た が 、 八 十 セ ン チ に 切 り つ め た 。

藤原参謀自身は、階級章と参謀飾緒をつけ、古道具屋で買った銀の握り柄のついたムチを手に

の 乗 馬 服を着用し、戦 線 に 潜 入 す る 者 だ け が 拳 統 を 持 つ こ と に し た 。軍 刀 は さ げ な い 。

藤 原 参 謀 は 、 開 戦 が 近 づ く と 、 ひ そ か に 出 撃 の 準 備 を す す め た が 、 「卩 機 関 」 員 は 、 力 ー キ 色

胸にきざみこんだ。

藤 原 参 謀 は 、 「ゥ ソ を つ か ん こ と だ 、 事 実 の 裏 づ け の な い 約 束 は 絶 対 に し な い 」 と い う 戒 め を

ま れ る か 。

そ し て 、真 の 信 頼 関 係 は 、 見 せ か け や 策 謀 の 中 か ら は 生 ま れ な い 。 では、 ど う す れ ば 信 頼 は 生

相手を匱頼しまた相手に, もこちらを信頼させねばならぬ。

1 4 5 藤 原 岩 市

早 く も 十 二 月 十 日 に 最 初 の 工 作 の 機 会 が 訪 れ た 。 堅 陣 と い わ れ た ?シ ッ ト ラ こ フ イ ン , が 突 破 0ル ス タ ー 市 東 方 に 残 さ れ た イ ン ド 兵 一 個 大 隊 に 投 降 を 勧 告 す る の で あ る 。

藤 原 参 謀 は 、大 き な イ ン ド国 旗 を か か げ た 乗 用 車 で 、 ブ リ タ ム シ ン書 記 長 と と も に宿営地にの

されたため、 ァ

り こ み 、大 隊 長 の 英 人 将 校 に 投 降 を な っ と く さ せ た 。 大 隊 長 の 命 令 な の で 、 イ ン ド 兵 た ち は 容 易 に 武 装 解 除 し た が 、 藤 原 参 謀 は 、 「私 は イ ン ド 人 将

ル 0 ス タ —市 の 治 安 椎 持 に

兵 と の 友 好 関 係 を 確 立 す る た め に や っ て き た 」 と い ぅ言 明 を 立 証 す る た め 、中 隊 長 の 一 人 モハン シ ン 大 尉 を 起 用 し て 、警 察 署 の 警 棒 と 手 錠 を イ ン ド 兵 に 装 備 さ せ 、 ア あたらせた。 イ ン ド 兵 は 喜 び 、街 の 治 安 確 保 に 熱 意 を 示 す と と も に モハンシン大尉の統率下に一人の逃亡者 も だ さ ず 、 平 静 を 維 持 し た 。 第 一 線 を 突 破 し て 敵 中 に 潜 入 し た 「1 丨 1」 工 作 員 の 勧 告 も 成 果 を

藤1

謀 は 、 イ ン ド 兵 が た ん に 投 降 す る だ け で な く 、 積 極 的 に 英 軍 内 の 仲 間 に 呼 び か け 、 さら

あ げ 、次 々 に 投 降 し た イ ン ド 兵 が 集 ま っ た 。

に武 器 を と っ て 立 ち あ が る こ と を 期 待 し て い た が 、 そ れ に は 強 力 な 指 導 者 の 獲 得 と 、. そ の指 導者

「な ん と い っ て も 、 彼 ら は 異 民 族 で あ る 。 習 慣 も 思 想 も 宗 教 も ち が ぅ 。 彼 ら に は 彼 ら な り の 自 主

が心から決起を覚悟することが、必要である。

性 が あ る 。 そ れ を 無 視 し て 、外 部 か ら の 一 方 的 な 強 制 は 、効 果 を 生 ま な い 。彼ら 自 身 の 中 か ら 指

導者が生まれ、その指導者が自発的に彼らをリードしなければならない」

藤原参謀は、 モハンシン大尉を指導者と見定めた。明らかに大尉はインド兵の間に人望があり、 統 率 力 に も す ぐ れ て い る 。 だが、 日 本 軍 の 真 意 に つ い て は 、 なお疑惑をいだいている様子であっ

た0 藤 原 参 謀 は 、 「尸 機 関 」 と 「 I I し」 と 、 モ ハ ン シ ン 大 尉 ら イ ン ド 人 将 校 、 下 士 官 と の 昼 食 パ

丨ティを 計 画 し た 。 インド兵手づくりの辛いインド料理と、同じくインド兵の音楽家によるイン

作戦は有効だと、 しみじみ痛感しました」

「古 い 川 柳 に 『槪 聚 架 食 わ せ て お い て サ テ と い い 』 と い ぅ の が あ る が 、 な る ほ ど 、 胃 袋 に 訴 え る

藤原参謀は、びっくりした。それほどの感銘を与えよぅとは、 まことに夢想外であった。

そ、 日本のインドにたいする誠意の千万言にもまさる実証である」

が 提 供 さ れ た こ と も、 な か っ た 。 こ の 敵 と 味 方 、 勝 者 と 敗 者 、 民 族 の 相 違 を こ え た 温 か い 催 し こ

ド 兵 と 一緒に 食 事 す る こ 七 も な く 、 イ ン ド 人 将 校 の 切 望 に も 拘 わ ら ず 、 将 校 集 会 所 で イ ン ド 料 理

会 食 す る と は 、 心 か ら 感 激 せ ざ る を 得 な い 。 英 軍 で は 、 同 じ 戦 友 で あ り な が ら 、英 人 将 校 が イ ン

「戦 勝 軍 の 参 謀 が 、 敗 戦 軍 の 捕 虜 、 そ れ も 下 士 官 ま で ま じ え て 同 じ 食 卓 で 、 し か も イ ン ド 料 理 を

藤 原 参 謀 と し て は 、 と に か く 、少 し で も 親 睦 の 助 け に な れ ば 、 と 思 っ て 計 画 し た の だ が 、 反応 は 予 想 外 で あ っ た 、 モ ハンシン 大 尉 は 、 藤 原 参 謀 が 席 に つ く と 、 立 ち あ が っ て 演 説 し た 。

ド 音 楽 の 演 奏 が 、食 卓 を 飾 っ た 。

1 4 7 藤 原 岩 市

い ず れ に せ ょ 、 か か る 反 応 こ そ 喜 ば し い 。 藤 原 参 謀 は 、 ゆ っ た り と 微 笑 し 、食 卓 に か が み こ ん

ノド と 口 腔 は 、猛火に焼か



だ が 、 見 渡 し て 当 惑 し た 。 「油 で い た め た 甘 い 飯 や 、 ロ が 裂 け る ほ ど 辛 い カレ や、 皮 つ き骨つ きの トリ肉 な ど 、 私 に は 全 く も っ て 手 の つ け ょ う も な い 」 し ろ も の だ っ た か ら である。だ が 、 一 片 、 一粒でも拒否しては、 せ っ か く 生 ま れ つ つ ある信 頼 関 係 が 、 一 気 に 崩 壊 す る は ず である。 ほうりこむ と 、 ふ た 嚙 み 藤 原 参 謀 は 、 ィ ン ド 兵 に な ら っ て 、 カ レ —料 理 を 手 で つ か み 、 口 中 に

れ る が 如 く ヒ リ ヒ リ と 燃 え た が 、藤 原 参 謀 は 、 必 死 に こ わ ば る ほ お に 微 笑 を 保 持 し て 、 食 べ つ づ

以 上 は 口 内 に 止 め ず 、夢 中 で 飲 み こ ん だ 。 そ れ で も 、度 重 な る う ち に

けた。 つ づ いて藤原参謀は、 手 ご た え あ っ た と 判 断 し た の で 、 モハンシ ン 大 尉 を 、第 二 十 五 軍 司 令 官 山下奉文中将に紹介した。

山下中将は、 モハンシン大尉と、同 行 し た プ リ タ ムシン書記長とにむかい、 ィンド独立運動支 援 を 確 約 し た 。中将はユーモラスな小話を ま じ え て 二人を喜ばせたが、 二人が故国に夫人を 残 し

「お 察 し す る 。 し か し 、 ご 安 心 く だ さ い 。 今 後 は 、 こ こ に お る 藤 原 少 佐 が 、 お 二 人 の 夫 人 の 代 わ

ていると聞くと、

りに良きベタ ー ハーフ と な つ て つ くす こ と で あ り ま し ょ う | 藤 原 参 謀 は 仰 天 し た 。 「ま さ か 、 そ の ヶ は あ り ま せ ん 」 か ら だ が 、 む ろ ん 、 山 下 中 将 が い っ た

1 4 9 藤 原岩市

のは、 で か ケ に か ん す る 意 味 で は な く 、 あ く ま で イ ン ド 独 立 、 ア ジ ア 解 放 の 同 志 と し て の 意 味 で ある。

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を 編 成 し 、英 軍 と 戦 う 、 と い う 決 意 を 、

お そ ら く 、 こ の 山 下 中 将 と の 会 談 が モ ハ ン シ ン 大 尉 の 決 心 を 固 め さ せ た と み え る 。数 日 後 、 大 尉 は 、 イ ン ド 兵 捕 虜 を 組 織 し て イ ン ド 国 民 軍 (1

そ の さ い 、 モ ハ ン シ ン 大 尉 は 、 日 本 軍 が イ ン ド 兵 捕 虜 を 友 情 を も っ て 処 遇 し 、 「1 2 人」を 日 本

藤原参謀に伝えてきた。

藤原参謀は、第二十五軍司令部を訪ね、山下中将と参謀長鈴木宗作中将にモハンシン大尉の希

軍の同盟関係の友軍とみなしてほしい、 と提案した。

かし、 実 質 的 に は そ の 精 神 で 扱 う 、 と 答 え た 。

望 を 報 告 し た 。鈴 木 參 謀 長 は 、 公 式 に 「 INA 」 を 友 軍 と 規 定 す る の は 技 術 的 に 困 難 が あ る 、 し

い ら い 、 「1 1 し」 と 「1 2 入」 は 一 体 関 係 と な り 、 英 軍 内 の イ ン ド 兵 工 作 は 順 調 に す す ん だ 。

飛 行 機 で ま く 投 降 ビ ラ は 、 ほとんど 一 枚 の ム ダ も な く 、 インド兵の ポ ケ ッ ト に お さ め ら れ 、英人

-

指 揮 官 の 眼 を か す め て ジ ャ ン グ ル 内 に ひ そ ん で 「 I I 乙 」 「1 2 人」. 工作員の呼びかけを待ち、

-藤原参謀は、 これら投降兵が相当数になるたびに、ま た 新 し い 町 に は い る た び に 、「

あ る い は 退 却 命 令 が 出 る と 、逆 に 日 本 軍 に む か っ て ビ ラ を ふ り な が ら 走 る 姿 が ふ え た 。

「5 — テ ィ ン グ は 大 衆 宣 伝 上 、 き わ め て 有 効 な る 手 法 で あ る 。 こ と に 東 南 ア ジ ア の 民 族 は 熱 狂 性

「1 2 人」 の 演 説 会 を 開 か せ た 。 / 、1 テ ィ ン グ # の 効 果 は 大 き い か ら で あ る 。 藤 原 参 謀 は 、 い う 。

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に富み、集 会 を 好 む 。 ミ1 ア ィ ン グの心理戦的な特性は、 そ の 高 調 す る 雰 囲 気 か ら う け る 心 理 的 昂奮と感作である」 日 本 軍 の 進 度 に あ わ せ て 、 マ レ ー 半 島 の 町 々 に は 、 す ば や く 広 場 で 演 説 会 が 開 か れ た 。 モハン シン大尉とプリ タ ムシン書記長の熱弁が終わると同時に、町の一角にインド国旗がひるがえり、

投 降 し た イ ン ド 兵 は 、 三十人、 五 十 人 の グ ル ー プ を つ く り 、白 旗 を か か げ 、 日本軍に ま じ っ て

「 I I し」 支 部 の 看 板 が か か げ ら れ た 。

整 然 と 行 軍 し た 。 日 本 軍 は 、 はじめの う ち こ そ 、 ふ し ぎ そ う に そ の 様 子 を 見 て い た が 、 やがて彼 らが、 こ と あ れ ば 日 本 軍 の 手 伝 い を し 、黙 々 と 恭 順 の 態 度 を 示 す の を み る と 、 トラックをとめ、

日本軍がクアラルンブールに突入したとき、すでに投降したインド兵は三千人をこえたと伝え

乗 れ 、 と手をさしのべるようになった。

られた。藤 原 参 謀 は 、 も っ ぱ ら イ ン ド 兵 と 日 本 兵 と の 間 の ト ラ ブ ル 解 決 に 努 力 し た 。 ときに、心 ない日本兵が投降インド兵に侮べつ的態度を示したり、物品を奪うことがあったからである。 し かし、 そ れ 以 外 は 、 す べ て モ ハ ン シ ン 、 プ リ タ ム シ ン両 人 に ま か せ た 。 ま た イ ン ド国旗にた い す る 敬 意 に つ い て は 、各 部 隊 に 厳 重 に 注 意 を 求 め た 。 な に か と い え ば 、 イ ン ド 側 の 肩 を も つ の で 、 藤 原 参 謀 に た い す る 批 判 の 声 も さ さ や か れ 、 第二 十 五 軍 や 各 師 団 参 謀 の 中 に は 、 「貴 官 の 顔 は ま す ま す イ ン ド 人 に 似 て き た 」 な ど 、 皮 肉 を い う 者

1 5 1 藤 原 岩 市

モ ハ ン シ ン大 尉 は 、 そ う い う 藤 原 参 謀 の 態 度 に 一 段 と 信 頼 の 念 を 深 め た と み え 、 大 本 営 か ら 視

「日 本 に は 三 種 の 神 器 と い う も の が あ り 、 そ の ひ と つ の 剣 は 勇 武 を 、 玉 は 慈 愛 を 、 鏡 は 正 義 を あ

察 に き た 參 謀 の 一 人 に 、次 の ょ う に 述 べ た こ と が 記 録 さ れ て い る 。

ら わ し て い る と , き ま し た 。 私 は 、 こ の た び の 戦 い で 、 日 本 軍 の 武 勇 を 確 認 し 、藤 原 少 佐 は じ め

シ ン ガ ポ ー ル が 陥 落 す る と 、 日 本 軍 に ひ き 渡 さ れ た イ ン ド 兵 捕 虜 は 、 五 万 人 を こ え た 。藤 原 参

卩機関の人々に、 慈愛と正義を発見しました」

謀 は 、 こ の 五 万 人 を 「 INA 」 に 参 加 さ せ る べ く 、 フ ァ ラ パ ー ク 競 馬 場 に 集 め た 。

藤 原 参 謀 は 、 〃ミ— テ ィ ン グ 作 戦 " の 効 果 を 確 信 し て い た が 、 結 果 は 予 想 を う わ ま わ っ た 。 藤

した同志愛のトキの声を生みだした。 五万人のインド兵は、互いに身もだえし、足をふみならし、

原 参 謀 が イ ン ド 独 立 支 援 を 訴 え 、 モ ハ ン シ ン 大 尉 が 決 意 を 叫 ぶ に つ れ 、競 馬 場 の 群 衆 心 理 は 熱 狂

と い う 藤 原 参 謀 の 工 作 は 、 み ご と に 成 功 し た 。 日 本 軍 の 伝 統 に 「糧 を 敵

涙 を 流 し て 「1 2 ム」 參 加 を 誓 っ た の で あ る 。 「皇 道 に 謀 略 な し 」 1

中 に 求 め る 」 戦 法 が あ る が 、 藤 原 参 謀 の 場 合 は 、 糧 ょ り も 「力 を 敵 中 に 求 め る 」 こ と に 成 功 し た 、

1

だが。

といえる。

藤 原 ガ 謀 略 " は 、 じ つ は 惨 め な 失 敗 に 終 わ ら ざ る を 得 な か っ た 。 の ち に 、 藤 原 参 謀 は 、 「心 理

152

丨 ル .フ ァ ラ パ ー ク 競 馬 場 に ひ び い た 対 日 協 力 の 喚 声 は 、 ま さ に 作 戦 中 、 藤 原 参 謀 が 日 本 側 に 抵

戦 に た ず さ わ る 者 は 、 ま ず 自 軍 心 理 戦 に 勝 利 し な け れ ば な ら な い 」 と 記 述 し て い る が 、 シンガボ 抗してまで彼らをかばったガ自軍心理戦" の成果でもあった。 と こ ろ が 、 シ ン ガ ボ ー ル 戦 が 終 わ る と 、 「?機 関 」 の 使 命 は と か れ 、 対 イ ン ド 工 作 は 、 本 来 の 謀 略 性 を と り も ど し た 。 "義 兄 弟 " 的 感 覚 を 期 待 し て い た モ ハ ン シ ン 大 尉 ら の 希 望 は 、 次 々 に く

と-の 確 執

の素質不良を理由に一 部 精 鋭 部 隊 の 編 成 を 主 張 し 、大 部 分 の イ ン ド 兵

だ か れ た 。 モ ハ ン シ ン 大 尉 ら は 、 〔1 2 人」 を 正 規 軍 と し て 、 イ ン ド 解 放 の た め の 進 軍 を 望 ん だ 於、 日本側は、 捕虜は労務に使用することにした。

-モ ハ ン シ ン 大 尉 は 日 本 軍 の 〃 違 約 ,を 指 摘 し て 反 抗 姿 勢 を 示 し た 。 さ ら に 「



ルにおいて、 も っぱ ら イ ン ド 人優

も 加 わ っ て 、 昭 和 十 七 年 十 二 月 、 大 尉 は 「 I X ん」 司ム卫目を解任されて、 シ ン ガ ボ ー ル 島 東 北 の

さ ら に 、 も う ひ と つ の 要 因 もあ る 。 マレー半島、 シ ン ガ ボ

孤島の牢獄に監禁された。

遇 と み え る 工 作 は 、 実 力 と 数 の う え で イ ン ド 人 を し の ぐ 華 僑 、 マ レ ー人 の 反 感 を 買 い 、 そ の 結 果

、「 I

I



」 「I

の 分 裂 を も た ら し 、 モ ハ ン シ ン大 尉 の 反 抗 に な っ 2