ヘラクレイトス [55]
 4423196158,  9784423196151

Table of contents :
凡例......Page 4
目次......Page 6
ヘラクレイトス(フライブルク講義・1943夏学期と1944年夏学期)......Page 19
1943年夏学期......Page 22
予備考察......Page 23
§1 彼の語への導入としてのヘラクレイトスに纏る二つの物語......Page 25
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反復......Page 64
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§5 断片一二三......Page 142
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反復......Page 157
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§7 断片五四、八および五一......Page 178
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1944年夏学期......Page 230
前置き......Page 231
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附加......Page 443
訳注〔西洋的思索の元初。ヘラクレイトス〕......Page 459
訳注〔論理学。ロゴスについてのヘラクレイトスの教説〕......Page 467
訳者後記......Page 471
人名•著作名索引......Page 477
事項索引......Page 483
ヘラクレイトスの諸断片の引用箇所一覧......Page 503
原書初版と第二版との異同対照一覧......Page 505

Citation preview

ヘ ラ ク レ イ ト ス I .西洋的思索の元初.ヘラクレイトス I I .論理学.ロゴスについてのヘラクレイトスの教説



第 2部 門

義 (1919~44)

辻 村 麟 =

尺 醐 国 道 直 諄 アルフレド•ク研yツォーニ

汀 かi 公一

砂/~ 9—•

八 い

。ブフ



砂、年

口 ,げ I

ノぎぃ ‘ ヽ } ノ//





} 言 祈 ブ:記昆介 5 。ミュラー

MartinHeidegger Gesamtausgabe I I .A b t e i l u n g : V o r l e s u n g e n1919~44 Ba叫 5 5 H e r a k l i t cCopyrighto ft h ecompleteworks byV i t t o r i oKlostermann,F r a n k f u r ta .M.1 9 7 9 2 . ,durchgeseheneAuflage1 9 8 7 . Japanese t r a n s l a t i o nr i g h t sf o rt h e complete works h e l d bySobunshabyarrangementwithV i t t o r i oKlostermann

M a r t i nH e i d e g g e r :D i ej a p a n i s c h eG e s a m t a u s g a b e B a n d5 5 H e r a k l i t D e rA n f a n gd e sa b e n d l註n d i s c h e nD e n k e n s .H e r a k l i t L o g i k .H e r a k l i t sL e h r evomL o g o s

凡 例

一、本訳書の底本については、訳者後記を参照されたい。

二、本文中のイクリックもしくはゲシュペルトで印刷されている箇所には、編や節の標題の場合を除いて傍点を付した。また 語頭が大文字で表記されているギリシア語はゴチック体とし、小文字のギリシア語とは区別した。

アリストテレス、ディオゲネス・ラニルティオス‘セクストス・エムペイリコス、ヨハネ福音書およびヘラクレイトス

三、本文中、古典語で書かれている部分についての取り扱いは次の通りである。 ー

の諸断片からの主要な引用文の場名、まず標準的な訳文を片仮名で記し、それに続く︿ ﹀の中に原文を挿入し、さらに その後にハイデッガー自身のドイツ語訳を邦訳して載せた。

﹀中に挿入して添える。

2 古典語の語や文が本文の一部を成している場合には、文脈に応じて三つの表記法が併用された。 片仮名混じりの訳文の後に原語を︿

訳文に従うことを一応の原則とした。

付け加えられる訳語・訳文は差し当たり標準的なものに依拠し、ハイデッガーの翻訳と解釈が示された後は、その訳語・

c 最初に原語を示し、その後に必要に応じて訳語を︹ ︺内に補足する。

じて邦訳を︹ ︺内に補う。

b 発音の片仮名表記の後に原語を︿ ﹀内に記す。さらに本文中に対応する翻訳が付されていない場合には、必要に応

a

五、テクスト中の︵

︶ と [ ]はそのまま丸括弧と角括弧で示した。

引用については︾︽を用いた。

例 四 、 テ ク ス ト 中 の 引 用 符 号 は 、 著 作 名 の 場 合 に は ﹃ ﹄で表わし、普通文の場合には﹁ ﹂で表わした。ただし引用文中の再 凡

六、テクスト中の連字符は原則としてそのまま再現されたが、繁雑となるものについては省略した。その他のー│‘⋮⋮、

︺で示した。

等の記号は概ね本文の表記通り。ただし、疑問符•感嘆符は訳文には付さなかった。 七、訳者による補足説明は︹ 八、本訳書において使用された数字については、次の通りである。

ー (1)、︵2)等は原註の番号であり、原註は各段落の後にそのつど示されている。

* 1、 * 2等はクロスターマソ版全集の初版と底本︵第二版︶との異同箇所を示し、異同の内容については巻末の一覧

2 ︹一︺、︹二︺等の漠数字は訳者の訳註箇所を表わし、訳註は巻末に一括して記載された。 3 表に纏められている。

4 訳書上欄のアラビア数字は、全集版のテクストの頁数を大体において示している。

九、巻末には人名•著作名索引と事項索引、およびヘラクレイトスの諸断片の引用索引を作成掲載した。

.1 ・1



目次

予備考察

西洋的思索の元初 ヘラクレイトス

*1

︹一九四三年夏学期︺

思索さるべきものを本来的に思索することとしての哲学。 ﹁西洋的﹂思索の元初について

序論元初的なものと語とに関する予備的省察 § 1 彼の語への導入としてのヘラクレイトスに纏る二つの物語 火と争いとの範囲内におけるそして遊戯への近さにおけるヘラクレイトスの思索

いァルテミスの庇護下におけるヘラクレイトスの語 〇思索家ヘラクレイトスの冥暗

反復 ヘラクレイトスに纏る二つの物語における﹁火﹂と﹁遊戯﹂への指示 アルテミスの徴である竪琴と弓と松明における思索さるべきもの。思索家の冥賠

§ 2 思索の元初における語











︱ ︱ -0



a ) 2) 1 )

・1 ・1



•1

次(西洋的思索の元初)





写一



i v

本質的な思索の﹁冥賠﹂、すなわち思索さるべきもの︵有︶に属する本質上自らを覆蔵する こと

ヘラクレイトスの語が伝承されている姿と思索さるべきものの経験にもとづく諸断片の解明⋮⋮⋮

本質上反対向きのものと弁証法的な思索。弁証法の不適切な言葉

反復

元初的な思索の内で思索されたものと近世的な思索の内で思索されたものとの同一性の問題について。元 初的な思索︵ヘラクレイトス︶の伝承された語と弁証法

主要部有の真性 § 3 元初的に思索さるべきものの元初。断片一六 砂翻訳の課題についての挿注

T 0 6 5て 0

もという主要語の語の性格と形而上学的な思索︵アリストテレス︶

﹁決して没しないもの﹂ への問いと﹁覆蔵﹂ へのそのものの本質関係への問い デュノン︿

空︶

ヽ cノ ト

の主導的問いを手掛りとするその語の解明





の﹁有﹂と﹁有る﹂という単語への表立った省察

反復 翻訳と解釈について。同じことの経験された動揺にもとづく一層根源的な理解への強要 ギリシア的に思索されたーー﹁没すること﹂とその語の本質への問い









a ) ) c ) b b ) ) 2 ) 1



§4

形而上学的な思索︵アリストテレス、プラトン︶の主導的問いの語の接合構造を手掛りとするト

ュノン︿g 忠g t﹀の解明。遡及的解釈の問題について、すなわち元初的な思索家たちと形而上学の その後の開始

これら

オン︿も﹀という語の性格。動詞的な意義の名詞的︵分詞的︶な意義に対する優位

﹀ ) 。 元 初 的 な 思 索 の 根 本 語 ︵ ピ ュ シ ス ︿ 念 ミ S ゾ ー エ ー ︿ 5ef 、 ﹀ の根本語の形而上学的思索への関聯と有の思索への関聯

︱︱︱への指示 11

変 換 の 内 で 獲 得 さ れ た 根 本 語 。 ヒ ュ シ ス ︿ 怠 ミ S﹀とゾーニー︿なふ﹀。 形 而 上 学 の 伝 統 の な か

いて、 お よ び ﹁ 自 然 ﹂ と い う 概 念 に つ い て 。 断 片 一

思 索 す る 言 い 現 わ し の 特 有 の 窮 境 。 元 初 的 な 思 索 に お け る ピ ュ シ ス ︿ 怠 0gs ﹀という語につ

﹀ ︶ への変換における、元初的に 接 合 法 の ﹁不断に立ち現われること﹂︵ピュエイン︿℃ogて

g 逗ぎ芯℃ moNe﹀ と い う 語 の 接 合 法 と そ の 語 の イマダカッテ没スルコトノ全クナイコト︿



Sro"c﹀と て i65

で の 生 の 概 念 と の 対 比 に お け る 、 元 初 的 な 思 索 の 内 で の ゼ ー ン ︿ 58 もとゾーニー︿な e f ﹀と

0 への指示 の根本意義について。断片一︱1 〇変換の﹁強引さ﹂と否定への表立った顧慮

反復 元初的に思索されたヘラクレイトスのイマダカッテ没スルコトノ全クナイコト︿さ

. . . . . 形而上学のオン︿ 6 芯 .

﹁純粋に立ち現われること﹂としてのピュシス︿忘 6ら﹀の元初的に無傷のままの意義と、その意義の



九七

九七



--0

g

3 )

4 )

a ) b ) 1 ) 2 )



V

次(西洋的思索の元初)

二 写

v i

……•••一四四

⋮ ⋮ ⋮ ︱ ︱ ︱ ︱ 九

一 写



ゾーエー︿な茫﹀への本質的近さ。 アエイゾーオン︿甜ぶeg﹀︵断片三0) における﹁生﹂と﹁有﹂ との本質的近さ。生の概念の形而上学的な諸解釈を退けること

[ a ) の単純な本質としての ー︿食 2ヽ、も︵恵み、保証︶。 覆蔵する立ち現われという恵み︵食 i、

ピュシス︿念房﹀

叉 (dPPo

a ) としての。ヒュシ

§ 7 立ち現われることと没すること︵自らを覆蔵すること︶との、 それら の本質の交互の保証における本質的な接合

⋮⋮一究

立ち現われること (P0お 芍 Te0oa ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮一四四 0 ︶と恵み︵食 iia)と自らを覆蔵すること (kP ︶ へ 立ち現われることと没すること︵自らを覆蔵すること︶との交互の本質関聯としての。ヒリア

)。 断 片 三 五 お よ び 一 一 三 へ の 指 示 恵み︵食 2a 、 ヽ

§ 6 立ち現われることと没すること。それらの本質の交互の保証としての

立ち現われることと没することの本質的な関係について。論理学的︵弁証法的︶な諸解釈を退けること

反復

熾言の呼び要めからの逃避としてのもろもろの文献学的翻訳⋮⋮⋮⋮

﹁一致し得ないもの﹂ の前における通常の思索の行き詰まりと本質的な思索の内への飛躍。

との言い方が無効であること

立ち現われることと没することとの﹁矛盾﹂。 この﹁矛盾﹂を目の前にして論理学と弁証法

§ 5 立ち現われることと没することとの本質連関の提示。断片一︱一三 a ) b) b) a )



a )

b) a )

b )

︳六︳

八および五一⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮一六0

ス︿PSも 。 立 ち 現 わ れ る こ と と 没 す る こ と に お け る 同 じ も の の 告 示 。 断片五四、

I緒

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

その顕然性の特有のものとしての、 ピュシス︿念 0ら﹀の接合という目立たないもの。 純粋 に立ち現われることの根源的に高貴な本質

接合の本質契機としての、対抗してかつ反対に引っ張るもの。対抗するものを接合と一

o 。ヒュシス

……………•………………………・・・・・一六四

に思索することの困難について、すなわち普通の思索と本質的な思索との相異 0 ﹀の接合とアルテミスの徴︵弓と竪琴︶。断片九への指示 令 房

………………………………………•••一差

﹀の内で思索された接合に対する論理学︵弁証法︶の資格のなさ。 ピュシ ピュシス︿念ミ S ス︿を房﹀の二重の意義と立ち現われることの疑わしい﹁優位﹂

源的な飾りとしてのコスモス。火とコスモスとにおける同じもの、すなわち広さ︹節度︺を

I

0お よ び ︱ 二 四 ………………………•••一〈――― さ れ た ア レ ー テ イ ア 念 ぷ 含a﹀。断片六四、 六六、 1 ︱ ︱ 明け開けを点火しつつ生ぜしめることとしての火と稲妻。相応しく目立たない接合にして根

有 の 非 覆 蔵 性 へ の 露 I現としての、 イ マ ダ カ ッ テ 没 ス ュシス︿念 。 ﹀ ﹀︵ピ ュ シ ス ︿ Po0 ら ﹀ ︶ の内で思索 ル コ ト ノ 全 ク ナ イ コ ト ︿ P 9 6 5 C 6℃ moTe

g

§ 8 ビ ュ ツ ス ︿ 念 0お ﹀ の 本 質 と 有 の 真 性 。 火 と コ ス モ ス ヘ の 着 眼 に お け る ピ

c )

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ︳n ︳ 与えるもろもろの広がりを発火させかつ明け開くこと .

ピ ュ シ ス 令gも の 本 質 元 初 に し て 本 質 根 拠 と し て の ア レ ー テ イ ア ︿ dぷ寄5﹀。元初的に

.

Vil

次(西洋的思索の元初)

9

思索されたピュシス︿℃

d0 笠S ﹀における、

自らを覆蔵することへの非覆蔵性の本質関聯。 自

﹀ ら を 覆 蔵 す る こ と の 非 覆 蔵 性 と し て の ア レ ー テ イ ア ︿ difoga

﹀ともろも 元初的な思索における有の認取と言い現わしについて、 す な わ ち ロ ゴ ス ︿ 26ros

g ﹀の自己示現としてのアポロンの徴。断片九一︱︱。西洋の歴史におけ

ろの徴。ピュシスな姿 る真有の真性と語について



志四

. . .

Vlll



目・次

前置き

論理学 ロゴスについてのヘラクレイトスの教説

第一編論理学、 その名称とその事柄

︹一九四四年夏学期︺

§ 1 ﹁論理学﹂という標題⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮︱︱︱写

応XU7 テクネー︿ T 。 ﹀



XC7

へぶ﹀。二。ヒステーメ r[0苓 t 7ior

工。ヒステー

⋮ ⋮ ・ ︱ ︱ ︱ ︱ 四

•……———-^

乏5

思索の論理と事柄の論理………………………………·……………•…………………………………………………·―――写

7

ロギケー︿応

現代的学問と技術とへの関わりにおけるギリシアの学︿応rへOT芯p ﹀ 7 と技術令応

エピステーメー︿応rへ0 ふ亙

r 1 ︿5 ミぶ逗﹀とテクネー令応z g﹀

§ 2 論理学、

﹀との意義の親近性。思索と論理学 Xて7

、 ﹀

語の命名のギリシア的連関への遡行、エピステーメー

D 思索と事柄との相互転入。論理学、純粋な思索と反省

反復

) b) a 2)

メー︿応 gへ0 ふ亙﹀とテクネー令応

i x

次(論理学)

a )

との問わるべき連閃の告示⋮⋮⋮⋮⋮

ミ 逗

I内 か ら ー 立 ち 現 わ れ る こ と ︶ 。 理 論 と 実 践 の 区 別 か ら す る テ ク ネ ー

﹀ お よ び ニ ビ ス テ ー メ ー ︿ 虻 Tへ0T テクネー︿汰翌 7 ピ ュ シ ス な さ 0ヽ 苓 7 非覆蔵性への関 s 。 ﹀ 、 ﹀ 聯 に お け る テ ク ネ ー ︿ T応Nて7﹀︵此方へ前へ齋らすこと、 此 方 へ 制 作 的 に 立 て る こ と ︶ と ピ ュシス︿室房﹀︵自らの 合応 Xて7﹀と工。ヒステーメー︿応rへ0T 苓 7﹀ の 解 釈 の 棄 却 自然ノ学企辻含苓

﹀ と の 連 関 に お け る 論 理 ノ 学 ︿ 応 r[OT ミ点﹀と倫理ノ学︿ 80 へkt 7 食0

ついて︵リルケ、ヘルダーリン︶

OOS

きぶ﹀

﹀および理性 ﹀ 。 人 間 本 質 の 規 定 に お け る ラ テ ィ オ ︿ ratio

論理ノ学、自然ノ学、倫理ノ学︿虻 rミぶ逗:∼ orへkこ i と

了 反復

:....

写 ︱ ︱







X

還とへの問い(リルヶ、ヘルダーリン)………·…•0 •一一写

性、人間の本質規定における論理学の普遍的意義について。西洋的歴運の根源として、思索と論理学

﹀、理 ﹀、ラティオ︿ ratio 言明︵概念、判断、推論︶についての教説としての論理学。ロゴス︿ 2drg

反省の支配と主観性とについて。純粋な思索の深みと帰

I

と し て の ロ ゴ ス ︿ 26ros ﹀の普遍的機能と﹃力ヘの意志﹄︵ニーチェ︶におけるその必然的完

ロゴス︿ 26ros ﹀とエートス念

0[Ki9i

事柄への拘束を伴わぬ反省についての反省としての論理学。主観性と純粋な思索との自己反省の力に

へよ﹀としての論理学。反省の支配について ior

反復

b) 1 )

2 )

c ) 4 ) 3 )



次(論理学)

とを等置すること

§ 3 論 理 学 と ロ ゴ ス ︿ i6ros﹀ 。 専 門 部 門 と 事 柄 。 論 理 学 と 西 洋 の 形 而 上 学

哲学における学問分野としての論理学、自然学、倫理学の三分法の由来と西洋形而上学の運

命:・⋮ ﹀の本質展開の阻止 い 論 理 学 と ロ ゴ ス ︿ Aoro しかしながらわれわれがロゴス︿ A令 os 郎

す な わ ち 一 切 カ ラ 離 在 シ タ モ ノ 令 d てgeて keNep ミ P uoも に 関 し て 知 に 齋 ら さ る べ き こ と だ と い う こ と に 注 意 す る な ら ば 、 ロ

﹀についてこれまでに言われた一切に従うならば、 それ︹"ロゴス︺は全体と ロゴス︿ Adros

﹀について言われたかのものは、根源的に守りつつある結集と一に齋らされることは、困難であり、根本において ゴ ス ︿ A令 os はそもそも不可能でさえある。

3 3 4しての有るものの結集、とり分け人間の守りつつある結集として、有るものに向かって関聯づけられねばならないのであって、

隔絶してあたかも物自体のごとくにどこかにそれだけで存立しているのではない、ということは際立たせる特徴としてわれわ

﹀は一者として‘ れ は 予 期 し な く て は な ら な か っ た 。 も し そ れ 、 ロ ゴ ス ︿A令g﹀が隔絶したものであったなら、ロゴス︿ A令 os

一切を根源的に合一する唯一のものとしていかに在るべきであろうか。だがもしかすると、かの篤言は次のことを熟思させる

﹀は守りつつある結集として本質的に全体としての有るものに依然関聯づけ た め の も の か も 知 れ な い 、 つ ま り ロ ゴ ス ︿ A令 os

られてはいるが、それでもこの有るものから独立してあり、自らの内に安らいでいるのだと。だがそのときにはそれ︹"ロゴ

ス︺が﹁隔絶し﹂﹁切り離され﹂そして﹁絶対的だ﹂との規定は誤解を招きやすいし、内容空疎である。その規定は、根源的に

守りつつある結集が全体としての有るものに関係づけられていること、またいかに関係づけられているかということ、そして

この関聯のもとでかつまさにこの関聯のもとにもかかわらず自らの内に安らいでいること、またいかに安らいでいるかという *1

こ と 、 こ れ ら の 決 定 的 な こ と に つ い て は 何 ︱ つ 言 っ て は い な い 。 と す る な ら ば 一 切 カ ラ 離 在 シ タ モ ノ 令 8 x eて keNepヘミp g g ﹀

にしても、もしもそれが一即一切︿四 u 日dug も ﹀ と し て の ロ ゴ ス ︿ A令 os ﹀の際立たせる規定であるとすれば、別のことを

意味しているにちがいない。もしもわれわれが一切カラ離在シクモノ︿日 8苫 e て kczopヘミP 応てg﹀を通例の解釈から自由になっ

て、形而上学的思索の仕方に煩わされないで翻訳し、思索する用意を整えるならば、実際次のような驚くべきことが現われて

く る 、 つ ま り こ の 本 来 的 に 知 ら る べ き こ と 、 つ ま り 一 切 カ ラ 離 在 シ タ モ ノ ︿ g8 もはほかならぬ最終的に要 苫 eUEeXopヘミpgo 求されるものを含むことである。

368

われわれは決定的な語 KC塔op ミ pgo)

にわざわざそのために考え出された意味を強引に押しつける必要はない。 必要なこ

と訳す。 その際ひとびとの念頭にあるのは、或る

KC q 塔 ︶ Pへ

て は NOP公e 忍て 0

とは、われわれがこの語を通俗的で、手垢がつき、皮相的に考え出された意味から解き放ち、ひとりの思索家が、本来的に知

かさに由来するが、これをひとびとは分離する、切り離す、どける、 pi

らるべきものを命名するために言った語の尊厳をここでこの語に認めることにすぎない。



ものを他のものからどけることだけであり、どけることに何が属しているか、そのことの根底と何があるかに注意を払わぬば

かりか、﹁分離する﹂﹁切り離す﹂と訳したのではこのギリシア語の語義のもっとも些小なものすら嗚り初めないことを熟思し

ハ り、それがために菜 epi gピの翻訳として﹁分離する﹂と﹁切り離す﹂とがときに正しいとしても、その訳は zop公災てで名

公 gJ Nep

i



pa

こ Nge ︵

は﹁方面﹂である。この語でわ

POSはあくびをする、口をあける、開く、を意味する

には i 苓 pa•6 苓 Pos〔ともに場所、土地の意〕が含まれている、これを翻訳してわれわれは、滞在を認

づけられているものを現われに到らしめない限りで、やはり依然として真ではない。 動詞

容し授ける環境、取りまく周りの方面とする。名詞 x 志蕊こ苓

こからカオス︿ Xgos﹀が出る︶にさかのぼる、すると取りまく周りの方面としての

ixSPa

g T O Sなる語を持っている。それはそこに或るものが現われ、横たわり、存

は厳密でない言いまわしでは﹁場所﹂とも呼ばれ得る。だが﹁方面﹂と﹁場所﹂とは

れわれは開けた境域と拡がりを理解し、その中で或るものが己れの滞在を受け取り、そこから或るものが由来し、逸脱し、そ して応答する。方面としての

同じではない。﹁場所﹂を表わすにはギリシア人は

チロル地方の方言には﹁視線

続する所である。場所は常に方面の内にあり、周りの方面に由来する環境を自分の周りに持つ。われわれは﹁方位︹ Himmels, gegenden ︺﹂とは言うが、それに代えて場所位︹ Himmelsorte] とはまず言うことができない。

︹ ︱ ︱ 酉 ︺

が邪魔されて自由な狙いがつけられぬ﹂意味で﹁方面がない﹂︹ keine Gegnet habenJ な る 言 い ま わ し が あ る 。 わ れ わ れ が

﹁フェルトベルク山の方面に﹂と言うとき、われわれはただ単に﹁そちらの方角に﹂というつもりでもなければまた、フェル

トベルク山が占める場所のつもりでももとよりなく、取り囲み、場所と方角とを授けつつ、対向して開ける拡がりを、意図し

369

3 3 5ていない。だがその意義は、あらゆるどけることと切り離すこととの根底にすでに横たわっている事柄をまさに指し示してお

§6/第 2編(論理学)

ている。しかしながらこの開けた拡がりは、何か容器という空虚のようなものではなく、多くのものを保持し、独特にも自ら

自己を限界づける控え目な開けた場所であり、 その限界そのものがやはり方面の性質を備えた︹ gegenhaft ︺もの、 というこ

とは拡がりをもち、かつ方向を指示するものなのである。このように理解された方面はその都度場所を取り囲み、場所を与え、

かくしてはじめて場所の設定と占拠とを許すが故に、それは或る点で場所の本質的なものであり、場所性[Ortschaft ︺である。

それ故に、そしてそれ故にのみ xSPa は場所を意味し得るが、 それは占められた処、 ということはすなわち一定の個所に特

別な広さと限界において呼び要められる方面という意味においてである。場所そのものの内で、および場所が環境を占有する

3 3 6その仕方の内で、方面のもつ覆蔵されたままで接合し、刻印する性格が現われ出る、しかもその際方面はことさらに﹁対象﹂

となることはない。方面が対象とならないことは、下落した有のではなく、より高い有の徴なのである。

、"災て︹分離スル︺を NSPa から理解するとしても、それは決して度を過ごした要求でも、強引な さて、われわれが動詞 Nop(

ことでもない。とするとそれが言い現わすのは、取り囲む周りの方面の中へ、方面の中へと持ち込み、そしてこの方面から臨

*1

在させる、ということである。そのようにして或る取り囲む拡がりの中へともたらされ、そこに収容されているものは、次の

ような一一重の条件のもとでは、隔絶していると見倣され得る、すなわちその条件とは、それが他の方面に現われる或る他のも

のと比較され、そしてこの比較に際しもっばら差異に目がつけられる、という条件である。するとこの場合には分離したもの

だけが見えるようになる。隔絶、分離、隔離は方面のもたらす可能的本質帰結であり、また或る方面により取り囲まれている

ものの可能的本質帰結である。或る奇妙で、しかもいたる時、いたる所で現われ出る思索の習慣によれば、この習慣はさらに

特別な詳しい究朋を要するであろうが、ともあれそうした習慣にしたがって、われわれは例えば或るものを或る方面に隔絶し

つつ収容する際に、あるいは取り片づけ分離する際に、結局取り片づけられた物はその都度その物の方面から他の事物へとか

つその他の事物の方面の中へと臨在する、ということを忘れてしまう。われわれが留意するのはもっばら事物そのものと、そ

ミ kexミP

pgg﹀はその本質にしたがえば何はさておき、取

れら事物とともに与えられる相異なる場所とであって、それはまるでそれらの場所も或る事物のように直前に有るもの、区別 可能なものであるかのようにである。しかしながら離在シタモノ︿

370

り片づけられるものというわけでも、取り片づけられるものにすぎないわけでもなく、或る︱つの、そして彼の方面から現わ

れ出るものなのである。上に述べた本質連関を、経験するまなざしの内に当に収めるためには、隔絶と分離とからその前提ヘ

︱つのものを他と結ぶ或る関係があると。というのもかねて端的に関係のない

と単に論議しつつ遡行するだけでは不足である。このように考えてくれば、全く次のように言うことができるであろう、すな わち或る物を他物から隔離することの内にも、

て必然的に﹁お互いに向かって﹂の関係である。分割︿

、 ら﹀はそれでもなおかつすでに総合︿

6へ d[Peq



﹀なのであり、そ

6 0 oco[S

I空

のことをギリシア人はすでに知っていた。だがすでに言われたとおり、分離スルコト︿x epぶ災 e﹀ と 離 在 シ タ モ ノ ︿ENepへ'

念郎てg﹀のギリシア的本質の理解には、分離もまたなお一種の結合であり関係である、とわれわれが言うがごとき形式的

疎な論議では充分でない。むしろ本当の問題はわれわれが方面および方面的なものの独自な本質の存立をまなざしの内に収め、

そしてそこからかつそこからのみ分離スルコト︿x e p i "災て﹀と離在シタモノ含c z o pミpgg﹀とを思索することである。

、 ﹀

A6ros

と有るものと有との間の根源的区別

その内でかつその内から一切が臨在しまた不在する方面的な現前としての

ロゴス︿

︿Adrog﹀は有るもの全体にとっての

1 1ロゴス︺は有るもの全体を守る根源的な結集、つまり有である。ロゴス

、つまり結集し合一し、保留しそして滞在を認容するものである。それはこれら 2r et



レゴーソ

そのものについて言われているからである。それ︹

の で は な い 否 、 一 体 有 る も の に つ い て 、 全 体 と し て の 有 る も の に つ い て 、 言 わ れ て い る の で も 決 し て な く 、 ロ ゴ ス ︿ Adrg﹀

︿ E&o斎瓦てg﹀は何らかの任意の事物について言われているのではない、それどころかそもそも事物について言われている

だが蔵言一〇八の理解のためには最後になおもう一っ別のより本質的な一歩が必要である、というのもここで離在シタモノ

d)

すべて﹁でも﹂あるのではなく、ただひとえにそれなのであり、ロゴス︿ A S g﹀ そ の も の と し て そ う な の で あ る 。 そ の あ と

3 7 1

3 3 7事物はどうしてお互いから分離されてあることすらできるであろうか。事物の﹁お互いから離れて﹂ということはやはりそし

§6/第 2編(論理学)

妾) X a

とロゴス︿ASg﹀ と の 本 質 連 関 へ と 達 す る こ と を 認 識 す る に 到

をわれわれが通例の解釈と翻訳とによってもたらされる先入観抜きで追随しさえすれば、 われわれはロゴス︿ A令g﹀へのこ の本質的まなざしを以って﹁方面﹂という意味での

るであろう。ただ、今や有それ自身を思索することが重要なのであるから、われわれは単なる空間的関わり合いのことを謂う

だ け で あ っ て は な ら な い 。 ほp a は 自 ら を 開 き 、 対 面 し 来 た る 拡 が り で あ る 。 今 や ロ ゴ ス ︿ A令 os﹀ に つ い て 言 わ れ る 、 そ

応 苫 uなる語は受動相と考えら XSPa に注意しないからだけではなく、 kexopへ qP

3 3 8れは方面ニモトヅイテ統ベルモノ︿ EeNepヘミPむ g﹀だと。しかしながら分離した、解き放たれた、絶対的なといった翻訳が適

切でないのは、それが kexopヘミpむ き の 中 の

るべきであり、隔絶し、解き放たれたもの、隔絶と解放に服しているものを意味していると、初めから決めてかかっているから

﹀について言われているとするならば、そしてまたこれ︹ 11ロゴス︺が og

i応

rg として、つま

である。しかしもしも、そしてこのことはいささかの疑いもないのだが、一切ニツイテ方面ニモトヅイテ統ベルモノ︿ mdxeu 応

g ﹀がロゴス︿ A令

ミp kexopヘ

り根源的に守る結集として統べているとするならば、 kexepヘミpgo) は受動相として意図されたものではあり得ず、中動相と

﹀ と し て 一 切 ニ ツ イ テ 方 面 ニ モ ト ヅ イ テ 統 ベ ル モ ノ ︿m ざge) ﹀はロゴス︿ 2令 os して理解されねばならない。ロゴス︿ A令 os

って行く方面である、すなわちその内へとありとあらゆるものが結集され保有される現前であり、 1

端的に方面としての

へ 念 5uot﹀ で あ る 、 つ ま り 有 る も の 全 体 へ の 関 係 に お い て 一 切 を 取 り 囲 み 、 一 切 に 対 し 自 己 を 開 き 、 そ し て 一 切 に 向 か kexep

1 現前︺内からあらゆるものが、立ち現われ、そしてその現出と没落とを、その出現と消滅とを受け取るのである。 ーーその︹ 1

ロゴス︿ A令 0﹀ g﹀の意味するのは、 S に つ い て 言 わ れ た 一 切 ニ ツ イ テ 方 面 ニ モ ト ヅ イ テ 統 ベ ル モ ノ ︿ g8xeと k exopヘミpむ

切から取り片づけられたもの、隔絶したものではなく、一切に向かっておおよそその方面として現前しつつ、自らに向かって

I現 わ れ る も の と 過 ぎ I行くものとが臨在し不在する。

﹀は根源的に守る結集として、方面 もたらすもの、しかも守りつつ結集する仕方でもたらすもの、なのである。ロゴス︿ Adrog 的に対応する現前であり、その内で立ち

今やはじめて、ここに言われる一切ニツイテ方面ニモトヅイテ統ベルモノカラ離在シタモノ︿ gdてgeて kexop[ミpgou ﹀の中

で一緒に言い現わされる別の本質契機さえ同時に看取され得る、否看取されねばならない、すなわちロゴス︿ A令 os ﹀は、そ

372

の内で一切が臨在しかつ不在するところの方面的現前として、それ自らの内から方面として出会われるのであって、個別的な

有るものから、あるいは個別的有るものの総計から算出されたり獲得されたりすることは決してできない。 、、、、 ここには有るものと有との間のかの根源的区別そのものが統べている。

だが有るものに対するこの有の区別は断じて分離でも隔絶でもない。勿論思索家たちの思索は、端的に﹁区別﹂そのもので

3 3 9さえあるこの区別を、これまで追思することが全くなかった。その区別の本質を看取するためにはわれわれはほとんど今なお

視野を欠き、視線の軌道を全く欠いている、ともあれ有るものと有との区別は人間にとって一切の近きものの内でもっとも近

断片七二参照。

(2)

ておりそしてやはり不在でもある有の不思議な近さを予感している。 (2)

て﹀︵断片一〇八︶についていま試みられた解釈はまだ奇 一切ニツイテ方面ニモトヅイテ統ベルモノ合ゃ苫 eて keXep ミP 0 て 郎 異の念をいだかせ、恣意的に思われるかも知れない。プラトン以前の思索についてもあくまでも形而上学的に解釈しようとす

る人にはどのような人であれ、こうした印象は拭いきれない。それにもかかわらず、ここに提示された事柄を自立して吟味し *1

ようとするならば、注意しなくてはならない二つの点に指示がなされなくてはならない。︱つには、一切ニツイテ方面ニモト

ggて keNepへqpむg﹀のこの解釈はこの二つの単語から強引に取り出されたのではなく、ヘラクレイト

ヅイテ統ベルモノ合

スの伝存微言すべてを顧慮した上で遂行されたものだ、ということである。いま︱つは、如上の解釈の支えはそもそもヘラク

レイトスだけではなく、初期の他の二人の思索家アナクシマンドロスとパルメニデスとが有るものの有について言っていると

ころを一緒に配慮している、ということである。それらすべてがここで現示されるわけにはいかない。だがそれに対して、ヘ

ラクレイトスの蔵言からもう二つを引用しておくのがよいであろう、そこで思索されたことがらは内容的に別の視点の内へ指

示しているように見えるけれども、言葉の体裁からして断片一〇八と事柄に即した連関の内にある二つの蔵言である。

373

きものであり、だが人間が把握するにはもっとも遠きものでもある。だがヘラクレイトスも他の初期の思索家たちも、現前し

§6/ 第 2編(論理学)

(3)

反復

︿ idroへ﹀

の関聯的統治。断片

有と有るものとへの人間の関聯としての対向と離反における二重分裂的二重製。 二重懐の一一を含むものにおける裂け目とロゴイ 七二。断片五〇および一〇八への指示

本巻所収﹃西洋的思索の元初﹄参照。

9

さもなくば、かつての講義で行なわれたよう

1 1ロゴス︺

[11ロゴス︺に対向している。

﹀への同様に奇妙な関聯によって対応 ロゴス︿ A令 og ﹀のこの奇妙な現前に人間たちはロゴス︿ Adros

から離反している。篤言はそのことをその前半部で言っている。

しかしながら彼らは同時に、もっとも多く対向しているもの、まさにそうしたものと仲違いするかぎりで、それ︹

する。人閻たちはある際立った仕方でロゴス︿ A令g﹀に関聯づけられている、彼らは大概それ

ということ、 である。

ロゴス︿ A令g﹀は常に現前しており、 そしてそれにもかかわらず大抵は不在であること、そしていかなる点でそうであるか

歳言七︱一の導きによって、われわれは次のことをはっぎりとさせようと試みる、つまりヘラクレイトスの知にしたがえば、

(3)

索の言を一種の﹁金言﹂として捉えることのないよう気をつけなくてはならない。

に、その都度引用されるヘラクレイトスの言葉は﹁蔵言﹂と名づけらるべきであろう。その際われわれはヘラクレイトスの思

I文学的概念の表示である

われわれは断片七二について熟思する。ここで序に注しておきたいが、われわれは﹁断片﹂なる名称をもっばら通例の表示

3 ) を顧慮して使用する。﹁断片﹂はこの場合文献学的

3 4 0

374

︹ 蓋 ︺

まさにそのも

;5ミ苫こ民の 6冷さ5ミ ミg

t2

ロ ゴ ス ︿ Adros 、 ﹀

不断二交渉スルコトノ最モ多イモノデアルロゴスニ対シテ、彼ラハ仲違イヲシテイル。︿aヘ ミ

S a℃e ヽ 4 o r eへggeへO p o x . a [⋮

6

ミ︹貫イテ、分カレテを意味する前綴、前置詞︺が思索されたものの接合

﹁彼らがそれに向かってもっとも多く、 それを担い通しつつ向かい合っているもの、 のと彼らは仲違いをする。﹂

二回にわたり、しかし違う意味で言われている

構造を規定する。徹底的に恒常的で有るものは、その恒常性において同時に、中断とか粉砕とかではないとしても折れ砕けた

この歳言の前半

は次のように言い代えられるであろう、すなわち人間は彼がそこへと、かつそれに対し常に関わるもの、つまり有にもっとも *1

多く対向している、しかもそのために彼は通例それから離反する、と。われわれが、有への人間のこの奇妙な関聯への指示を

初めて認取するときには、おそらくかつての思索家が見当はずれの思弁の内に考え出した何物かが問題にされているのだと想

像する以外われわれには思いもよらないもののように見える。だがわれわれがまさにそう謂う、その事実こそ、有に対する関

聯について言われたことがわれわれをもいたる所で徹底的に支配していることのもっとも直接的な証拠である。すなわちわれ

われは担い通しつつ有にもっとも多く対向しているが故に、われわれはいわば自ずから有を理解しているのである。

人がその話しのなかで﹁有る﹂なる語を用いるとき、理解できぬ者があろうか。たしかにわれわれは﹁有﹂を理解する、し

かしそれにもかかわらず、われわれはもはやそこへと、つまりそのように理解されたものへと振り向くことをしない。有るも

の、それはおそらく到る所に臨在して有る、だが﹁有﹂はどうであろうか。有る又は有りはしないこの山、その山は人間

に関わる、だがその﹁有る﹂はそうではない。有る又は有りはしないこの河、その河は人間を襲う、だがその﹁有る﹂はそう

ではない。有る又は有りはしないこの人間、その人間は人間に関与する、だがその﹁有る﹂はそうではない。有る又は有りは

しない神、その神は人間を圧倒的に支配する、だがその﹁有る﹂はそうではない。山、河、人間、神これらのものおよび

375

﹀のことを根源的な結集と言い、それを有と思索するならば、 3 4 1よ う な も の で あ る 。 わ れ わ れ が ロ ゴ ス ︿ A令 os

§6/第 2編(論理学)

あれやこれやの他の多くのものがわれわれに関わる。しかしながら﹁有る﹂はーわれわれがそれに注目することがあるとすれ

ば、どうでもよい付け足しのごとくに取り扱う。しかしながら﹁有る﹂は有を名づける。人間が一切に先んじて、したがって

もっとも多く有に対向していなかったならば、どうであろうか。もし彼が有の現前の内に立つことがなかったならば、どうで

あろうか、有る又は有りはしない山、有る又は有りはしない河、有る又は有りはしない人間、有る又は有りはしない神、これ

らのものは何であり、どうなることであろうか。有の現前がなかったならば有るものの一切の堆稽と一切の殺到にして何をな

虻 忠 63a5g r gPo

3 4 2し得るであろうか。しかしながら人間は有の現前を排除することなしに、有そのものから大概離反している。だがこの離反の

g i ︹そして︺で導入される部分で語っている。

本質成果は何か。離反は同時にかつ絶えず何をともなうであろうか。 ヘラクレイトスはこのことについて簸言七二の後半、

︹ ︱ ︱ ︱ 窃

マク毎日プッカッテイルモノガ、彼ラニハ見知ラヌヨソノモノト見=ルノダ。︿Ka o[SRao9苓 な g ‘ ピ g﹀ a53勾 念 u ag 突 g

﹁それ故、彼らが日毎にぶつかっている︵雑多な︶もの、それが彼らには疎遠なものに見える。﹂

今やヘラクレイトスが扱うのは単数の有ではなく複数の有るものである、日毎に人間は多様な有るものにぶつかり、その後

にしたがい、その内に解消し、そこで自己を見失う。だがどうしてヘラクレイトスは、有るものが人間に疎遠なものと見える、

と言うことができるのか。人間にとって有るものは熟知したもの、統御されたもの、彼が精通しているもの、そこで彼が居を

構えているところのものではないのか。なるほどそのとおりであるーーしかしここで思索家がもっばら眼中に置いているもの

S 、すなわち有に関しては、有るものはその差し出がましさと性急さと習慣性にもかかわらず、 に関しては、つまりロゴス︿ A令 O﹀

しかしまたあらゆるその利益と成果とにかかわらず、しかしまたその魅力と冷静とにもかかわらず、人間には疎遠なものであ 、、、 る。というのも有るものは、本来のそれとして、つまり有るものとしては、それがその有の内に現前し、有それ自身がことさ

376

ら現前であるときにはじめて、親密であろうし、また親密であるのだから。例えば今日の人間にとって機械はどれほど親しい

ことか、彼にとって技術的装置の使用はどれほど手なれたことであろうか、ときに機械は彼にとって生きものとして出会われ

ているほどである。しかし機械とは何ものであるのか誰が知っているであろうか。技術とは何であるのか誰が知ろうか。誰が

留まるところを知らぬ機械工学の前景を超えて、機械の本質について、この有るものの有について幾分なりとも予感を持って

いるであろうか。たとえ個々の人問がかなたから、この有について幾分かの予感を持ち、その歴史について、つまりその歴運

について幾分か知るところがあったとしても、この知とその内で知られたこととは、日毎に拉致しゅく機械の差し出がましさ

したがって彼は有るものの優勢に屈して、﹁有﹂と﹁有る﹂とを単なる単語の音響として退けてしまう。 だ が 故 意 も し く は 不

知不識のこの防御は有の現前のおかげでのみ生ずるのであり、そのおかげで今なお生ずる。有の現前に対する関聯を人間は、 彼が有るかぎり、担いとおす。

蔵言の前半でヘラクレイトスは有への人間の関聯について語る。関聯は二重分裂的である、つまり一切に先行し立ち現われ *1

5 言の後半でヘラクレイトスは有るものへの人間の関聯につい る対向でありながらそれは同時に大概は離反のままでもある。 咸

て語る。この関聯も二重分裂的であって、不断の出会いでありながら見知らぬことであり、ぶつかり会いであってそれにもか

1 1 有︺は現前しつつも不在するが故に、あたかも有は没し去ってしまったかのごとくにして、有るものだけ

かわらず、すれ違いなのである。だが有るものへの関聯におけるこの二重分裂は有への関聯における二重分裂の本質的帰結に *2

すぎない。これ︹

が見うけるところ前面に押し進む。

だが有への人間の関聯は有るものへの人問の関聯と並列しているのではない。それは有への関聯と有るものへの関聯として

二つの分離した関聯ではなく、そこにあるのは︱つの関聯であり、ただしそれは次のごとき独特な二重懐によって際立ってい

1 1 有︺に関

る、すなわちその二重駿とは、人間は有の現前の内に立ちつつ有るものへと関わること、有るものは有の光の内で出会われる

ことである。だがこの単純な一一重壁、つまり人問がその内から、かつその内で、有るものの只中に立ちつつこれ︹

3 7 7

3 4 3と絶対性とに比べるならばはかなく虚しいものにすぎない。人間は有そのものに対してはまるで為すすべがないのであって、

§6/第 2編(論理学)

わるこの二重岬衣は二つの重なりのどちらにおいても同時にかつ不断に二重分裂的である。二重分裂的な二重蹄字が有るものの内 なる人間の滞在を際立たせる。

われわれがここで別の思索の内から述べ展げることがヘラクレイトスの蔵言を幾分か明らかにすることがでぎる。ヘラクレ

イトスがこれら一切をすでに明示的に思索し言い現わした、とはいわれ得ない。だが、われわれが直前に語られたことを徹底 *1

的に思索し、来たるべき日々にそれを熟思するならば、その歳言のもつ賠く、元初的で、遠くに及ぶものはわれわれの前に開 かれ行くことができる、その厳言はそもそも恐らく初めて、われわれを呼び要めることができる。

3 4 4 人 間 に 対 す る ロ ゴ ス ︿ AChros﹀ の 現 前 に つ い て 幾 分 な り と も 明 ら か に な る 別 の 方 途 は な い 。 だ が す べ て の ﹁ 論 理 学 ﹂ が ロ ゴ

い つ の 日 に か ロ ゴ ス ︿ASg﹀につい

ス︿AS 。s﹀への人間の関聯に由来するとすれば、 そ し て ﹁ 論 理 学 ﹂ が 近 世 的 人 間 の 有 る も の の 内 な る 滞 在 を 支 配 し て い る と すれば、おそらくわれわれは﹁論理学﹂のうちにおいても正しく振舞い得るためには、 てより根源的に、ヘラクレイトスよりもより根源的に追思しなくてはならない。

蔵言七一一は、いったんわれわれ自身がそれを経験し、徹底的に思索したときには、有についての知、さらには有への人間の

有るものの有に対する関聯の二重分裂的二重懐は有るものの只中にある人間の尋常ならざる立場の徴である。二重嬰と二重

関聯についての知に関する最初の遥かなきらめきのごときものである。

分裂との﹁︱-﹂のうちに︱つの裂け目が自らを告げている。しかしながらここでわれわれは形而上学的思索における習慣に従

って、二つということで直ちに、かつもっばら離間することを考え、離間を﹁対立﹂と捉え、対立するものを弁証法的に正当

化する安易な傾向をもっている。だが二重分裂的二重襲の二なるものはまずもって、開けゆく裂け目と開けた場所の方向で考

えられねばならず、その内においてこそ人間の本質が、しかも二璽分裂的一一重嬰という仕方で折りたたまれ、収集され、しか し同時にまた散乱されてあるのである。︵二重分裂的一一重襲、二なることの単純さ、つまり区別︶。

わ れ わ れ は ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ に 対 す る 人 間 の ロ ゴ ス ︿ i令g﹀の関聯を追思しようとしているのだから、篤言七一一に傾聴する ことはいくらかの助けをわれわれに与えてくれよう。

378

有るものの内なる人間の滞在は、二重分裂的二重壁のために不気味とは言わぬまでも尋常ではない。この滞在は、人間がそ

の場所性を必ずしも難なく見出すことはできない或る場所を前提としている。それ故に人間は彼の本質のこの場所を尋ね求め る途上に出立しなくてはならない。

われわれはロゴス︿ASg﹀に対する人間のロゴス︿ 2令g﹀ の 関 聯 を 扱 う 。 だ が 相 応 し い 言 い 方 を す れ ば 、 人 問 の ロ ゴ ス

﹀﹂が他方の関聯分節である、というのではな 0S

く、人間のロゴス︿ 2令 os ﹀ そ の も の が 関 聯 で あ り 、 同 様 に ロ ゴ ス ︿ Adros ﹀も同じ関聯なのである。それはロゴスとロゴス 、、、 ︿2令 O﹀ [令 2 ミ︺が間︹ d ︺ で あ り 、 そ の 間 に ︹ das InzwischenJ なのであって、 [ との間の関聯ではなく、それら as Zwischen

ロゴス︿ A令

*1

﹀ に 対 す る 人 間 の ロ ゴ ス ︿ 2令g﹀ の 関 聯 に つ い て 語 る 以 外 の 方 途 は な い 。 ギ リ シ ア 人 自

0S

その内において一切の間と一切の関係的なものとがその本質とその関聯的統治とを持している。だが当面の理解と案内のため の語り方としては、

身、そしてヘラクレイトスもまたこの根源的に関聯的なものを指すのに相応しい語も言い現わしもどこにも持ち合わせていな

このような言い現わしは、ここで思索さるべき真有が予めその言の内に到来したならば、いつかは言葉に達することであろ

、っこ 。 ヵ t

う。その日のことをわれわれは決して知ることはないが、いつの日にかは真有がかかる言に到来することであろう、というの

も真有は移り行くものではないからであるが、それ独自の真性へと向かう途上にはあるからである。それというのもその真性 へとむかう真有のこの歴運は元初性の内なる真有そのものであるから。

歳言七二からわれわれは、人間のロゴス︿ uros﹀のロゴス︿ Adros﹀への関聯は二重分裂的であること、有るものの只中に

6ミo ioret

て﹀にしても決して素朴な一重襲的に自ずと人間に向かってまっすぐ飛来するのでは

おける人間の滞在はそもそも二重分裂的一一重展によって際立たされていることを経験する。したがって蔵言五0 で要求されて いる等シイモノヲ集メルコト︿

6ミoioて r〉 cと t は根源的な結集ー~つまりロゴス〈 A令 g〉にむかって自己を収集しつつ収集さ

ない。人間は二重分裂的一一重製の内に本来的に立つことに自らを順応させ、そのための用意を整えねばならない。

等シイモノヲ集 メ ル コ ト 〈

379

3 4 5 ︿i 令g﹀がこの関聯を構成している一方の関聯分節であり、﹁ロゴス︿ A令

§6/第 2編(論理学)

、 ogoggG

念 C ℃ ggx



g.ggo



e0 悶 ~r へ:es 岱 Co"

へ so℃ ggr"

へ日

Q 苫

e て岱

zep ミ pgo て.ヽ

︵スネル訳︶。これに

380

れて有ることである。 だがしかしロゴス︿ A令 g﹀に向かって自己を収集し得ることはロゴス︿ Adrg﹀ に つ い て の 何 ら か の 知

を必要とする。おそらくこの知は独自の仕方のものであって、単なる知識ではない。たとえ知識が一命題の内で述べられよう

と も 、 そ の 命 題 と そ の 単 な る 理 解 は 、 い か に 人 間 が ロ ゴ ス ︿ Adros﹀ に 向 か っ て 自 己 を 収 集 し 、 い か に 人 間 が ロ ゴ ス ︿ A令 g﹀ の現前の内に留まるべきかについての知ではないであろう。

g怠 芯 つ ま り 本 来 的 な 知 で あ る 。 こ の 賢 明 ナ コ ト ︿ oo念dt﹀についてヘラクレイトスは繰り返し語って

か の 思 索 家 は ロ ゴ ス ︿ A S g﹀について何を言い現わしているであろうか。 そ れ ︹ 11ロゴス︺に向かって収集されて有るこ

touミ a

*1

I離 さ れ た 或 る も の ︵ 絶 対 的 ナ モ ノ ︿ ab s o l u t u m﹀)であることを認識するまでには至らない﹂ 、

な解釈を受け入れてきたものであるが、それら多様な解釈は、同意という形にせよ、離反という形にせよ、キリスト教的世界

てくる。この名称でもって形而上学は最高の有るものを捉えるのであって、それは一切の有るものの根拠かつ原因として多様

がってまた結局一切から独立したこのように解き放たれたものに対しては﹁絶対的なもの﹂なる名称が明らかに浮かび上がっ

したがえば本来知らるべきものは一切カラ離在シタモノ︿日応てg eてk&op ヘミP g﹀である。これは﹁一切から隔絶したもの﹂ て 応 ﹁一切から切り離されたもの﹂の意味に翻訳されており、ということはそのように理解されている。一切から切り離され、した

から切り

周知の翻訳では次のようになっている、すなわち﹁まさに多くの人たちの言葉を私は聞いたが、誰ひとり賢明なものが一切



知 ガ ア ラ ュ ル モ ノ ノ 外 二 全 ク 別 ノ モ ノ ト シ テ ア ル コ ト ヲ 認 識 ス ル ト コ ロ マ デ 来 テ イ ル 者 ハ ナ イ ノ ダ 。 ︿ 含 念eて 2令 ous

︹︱︱︱=︺

ここでヘラクレイトスは言う、ドレダヶ多クノ人タチノ話ヲワタシハ聞イタコトダロウ。シカシソノダレ一人トシテ、

の︱つである。それは歳言一〇八である。

いる、賢朋ナコト︿ Tdoopdt﹀ つ ま り ロ ゴ ス ︿ A令 g﹀ に つ い て 或 る 際 立 た せ る こ と を わ れ わ れ に 言 い 現 わ し て い る 蔵 言 も そ

と は 賢 明 ナ コ ト ︿g

3 4 6

説明によって汎通的に規定されているが、 世界が経験され、 把握される仕方に応じて移り変わる。﹁絶対的なもの﹂なる形而

︹︱︱-︿]

上学的思想の或る種の予描は、プラトンとり分けアリストテレスのもとにおける西洋形而上学の端初がすでに行なっている。

プ ラ ト ン は ヒ ュ ペ ル ウ ラ ニ オ ス ト ボ ス ︿ 0Tepoミp8 0s"r 含 g﹀ーー士︿の上なる場所を知っているし、アリストテレスは﹃自 ︹ ︱ ︱ ︱ 九 ︺ へ て 然学﹄の最終部分で、己れ独自の場所に統べている不動の動者を考えている。

I制約的なものである。近世の

これによって一切の形而上学に対して︱つの進むべ彦道が指示され、その軌道の上では世界に対する絶対者の関係は原因と なって事物を創り、そして保持する関係、つまり制約的な関係と考えられる。絶対者自身は無

形而上学、すなわちデカルトとライプニッツを先駆とするカントの形而上学において、制約づけと制約とが意識的、超越論的

キリスト教的世界解釈の思弁的に考え貫かれた内容と特異な融合をなしとげている。

この﹁制約づ

事情はドイツ観念論の形而上学に明確に現われてくる、つまりそこでは近世の形而上学の根本思想である超越論的なものにつ いてのカントの思想が、

け﹂の関係はわれわれにとって全くなじみ深いが故に、われわれはこの関係の根源と本質とを問うてみようともしない。この

関係は、われわれがまるで予想だにしないところ、とはいえもしもわれわれが形而上学の本質について何ごとかを知ろうとす

るならば当然予期しなくてはならないところ、すなわち価値の形而上学たるニーチェの形而上学の内でも決定的な役を演じて いる。

tgeモ すでにこのような大まかな指示だけでも、ヘラクレイトスの一切ニツイテ方面ニモトヅイテ統ベルモノ︿月 て へ0' kexep

庶てき﹀を形而上学的に考えられた絶対者の意味に無造作に翻訳し解釈することに対しては少なくとも慎重に、 重々意を用い なくてはならないことは充分に知られよう。

6衷 02Oret

I賢明な も お よ び そ れ と と も に 人 問 の ロ ゴ ス ︿ i令g﹀ に 向 か っ て い か に 統 べ る の か 、 さ ら に そ れ ︹ I

て﹀が、つまり本来的知において知らるべきものが、 まさにこの知、すなわち等シイモノ だがしかし、賢明ナルモノ︿ q0突 d ヲ集メルコト︿

るもの︺がそもそもいかに統べるのか、有るものの全体に対するいかなる関聯において統べるのか、これらをいまわれわれが

3 8 1

3 4 7に理解されることによっても絶対者とその世界に対する制約的関係の思想の本質には何の変化もきたしはしない。そのような

§6/第 2編(論理学)

ヘラクレイトスとともに追思するとしても、それはほんの最初の試みに留まる。

382

§7/第 3編(論理学)

第三編

論理学の根源的方面への遡行

一 五 、

。 根源的に守

) 叉a Po

一 六 、

§ 7 元初的に思索しつつ経験さるべき有の闇明について。

一、 七八 、、 断 片 一 〇 八四 、 六四、一 九 五O、

﹁舵取りの方策﹂と根源的結集の接合︵ハルモニア 念

恙 p7 ﹀とグノーメー︿ r ﹀ A6ros

る結集の方策を授けつつ助言する現前の内における合一する一者としての ロゴス︿

*1

怠もつまり本来知らるべきものが規定され、しかもそれは、その内で一切が臨在する方面的で対 、 、 d00

S﹀がさらに決定的にその無比な姿のままに語り出される、だがそれは同時

0 0突

にロゴス︿ Adros﹀の本質への新たな視線をわれわれに許すような仕方で書き換えられている。歳言四一はテキストの言葉の

応的な現前としてである。篤言四一では知︿

歳言一〇八では知合

a)

結構について議論の余地を残しているが、ここでは次の体裁が保持される。

3 8 3

3 4 8

知ハ一ッ、 ﹀

︹ 四0 ︺

m t苫eg.

一切ヲ貫イテ一切ヲ操ル判断二通ズルコト°盆て

6

T O 0 0℃ ざ

ggy6汰7gBep苓]rgg8a へ 5T、 [03md ミミさ

" d 0 0℃ d

てー

﹁一なるもの、無比の一者は知るものであり︵そして知とは︶ 一切を貫いて一切を操るグノーメー︿ r S こ g﹀ の 前 に 立 ちつつ滞留することだ﹂。

さし当たってわれわれが外面からこの歳言の内容を順次に挙げてゆくとすれば、われわれは、知らるべ含ものー

2郎

r g﹀については語られてはいない。

むしろわれわれはこの蔵言から、われわれがこれまで聞かなかった言葉

て﹀であることを、あらためて知る。しかしながらロゴス︿ A令g﹀ は 一 者 で あ る こ と 、 す な わ ち 一 切 合g苫a﹀に関わる一︿ g 3 4 9とレゲイン︿

g ﹀について語っている。知るべきもの、つまりロゴス︿ Adros﹀が、 を認取する。蔵言は認識令苫︶造﹀と操ルコト︿g B e pて

A令

g﹀ と グ ノ ー

さし当たり﹁認識﹂と翻訳して辞典的に間違いでない語であるグノーメー︿ r 苫0亙 も そ の も の だ と は 奇 妙 に 響 く 。 も し も わ れ わ ロり ゴ﹁ス つま 世︿ 界理性﹂と理解するならば、 れが通常の解釈にしたがってロゴス︿ Adros﹀ を 理 性 と 、 *1

メー︿ rx 念 i﹀との同一視、つまり﹁理性﹂と認識の同一視はいささかの困難ももたらしはしないであろう。だがロゴスソノモノ

ミ令ミ﹀は操る、と言われる。﹁操ること﹂は︱つの行為であり、 念 A令g﹀は、根源的に守る結集である。だがグノーメー︿ r

︹四一︺

実践であり、﹁認識﹂は自体において﹁理論的な﹂ものに留まるかぎり、﹁認識﹂そのものは﹁操る﹂ことはない。それ故にひ

ところで幸なことにわれわれにはヘラクレイトスの二つの歳言が保存されており、その内の一っ断片七八はグノーメー

とびとはグノーメー︿ r苫ざ 7﹀を﹁洞察にみちた意志﹂と訳して窮余の策としてきた。

令呈亙 7﹀とその本質について少なくとも追思する機会をわれわれに与えてくれる。もう︱つの篤言、断片六四はキュベルナ

断片七八は次のとおりである。

g ﹀つまり操ることについていくらかのことをわれわれに言い現わしている。 ン︿g B e pて

384

u6



gxe

︹ 翌 ︺

究極ノ見通シハ、神ノミガモツノデアッテ、人間ノャリ方ニハナイノダ。︿ま 0 忍

芯 [Pさ 念 き goepgooK 匹N g rミ 全 ugg9

OOS

﹁ 滞 在 、 す な わ ち ︵ 全 体 と し て の 有 る も の の た だ 中 に お け る ︶ 人 間 の 滞 在 は 、 な る ほ ど グ ノ ー マ イ ヘ r呈主ミミ﹀︹グノー

﹀ . へ

メーの複数形︺を持たないが、神的な滞在は持つ﹂。

﹀を﹁倫理的態度﹂とは われわれは﹁自然学﹂、﹁倫理学﹂、﹁論理学﹂についての以前の究明にしたがって、エートス︿ ioos 訳さないで、有るもののただ中に住まう意味での﹁滞在﹂と訳す。

ダイモンだ。︿ミ OOS

g ﹀とあり﹁人間にとってその個性は彼のダイモンだ﹂と 含 念 合r eへ忠全

酋︱-︺︹盟︺

ニートス︿苓g﹀ な る 語 は こ の よ う な 意 味 を ま さ に ヘ ラ ク レ イ ト ス の 他 の 断 片 ︵ 一 ︱ 九 ︶ で も 持 っ て い る 。 そ の 断 片 は 、 人 ガラハ人間ノ生涯ヲ支配スル

訳されている。この翻訳の考え方はまさに現代的であり心理学的であり性格学的である。人間にとって彼の素質という持参金

え得よう。だがそれ故にこそそのような考えはヘラクレイトスの歳言の中に持ち込まれてはならない。この断片一︱九は伝存

するもののうちでおそらくもっとも本質的なものの一つに算えらるべきものである。それはおそらく完結したヘラクレイトス

解釈の最後で解朋され得るものであろう。ということは、それはかつてわたくしが別の機会に思索家ヘラクレイトスを全体的 (1)

*1

に追思する試みが依拠せねばならぬ第一のものとして挙げた歳言と一緒に思索されなくてはならないということである。それ

は 断 片 一 六 で あ る 。 断 片 七 八 は 言 う 、 有 る も の の 只 中 に お け る 人 間 の 滞 在 は グ ノ ー マ イ ︿ r苓)ミミ﹀︹グノーメーの複数形︺を持 *2

た ぬ と 。 グ ノ ー メ ー ︿ rミ〇亙﹀とは本来性向︹ Sinnesart ︺を意味し、しかも一切の有るものを出会わしめ、見え得るようにせ

し め る 仕 方 と し て の 性 向 の 謂 で あ る 。 グ ノ ー メ ー ︿ re は心の気分である、しかも根本気分と考えられる。だが﹁性向﹂、 苫 も ﹀ 7

I

﹁心﹂、﹁気分﹂、﹁根本気分﹂これらは何としても全くの今日的観念であり、われわれが心理学的に考察し分析する﹁心的事態﹂

からそんなに遠く隔たったものではない。だがたとえわれわれが﹁心﹂と﹁気分﹂の本質を心理学的に考えないで、脱自的

385

3 5 0は 励 ま し 、 推 進 し 、 追 い た て る も の で あ る 、 と い う 考 え は 正 し さ を 持 つ で あ ろ う し 、 人 間 の 省 察 に と っ て 多 大 な 切 掛 け を 与

§7/ 第 3編(論理学)

苓造﹀をそれらの名称の一っ 露現的なもの、 その内に開けを保持するものと把捉するとしても、 わ れ わ れ は グ ノ ー メ ー ︿ r

で翻訳することには慎重でなくてはならない。 グ ノ ー メ ー ︿ r 苓さ m﹀ の 語 義 は 大 変 豊 か に し て 多 様 で あ っ て 、 そ れ は わ れ わ

れが心︹ Gemiit︺と呼んでいる一切を包含している、しかもその際われわれは心ということを狭義にとって感情の能力と同一

一面性を免れ得

視するのではなく、人がその気になるあらゆる種類の気分を意味しているのであり、したがってグノーメー︿ r苫 主 亙 7﹀は決断

本巻所収﹃西洋的思索の元初﹄参照。

と確信をも、決心と知慧をも意味し得る。ここではどのような翻訳の試みも一面性を敢えて犯すことであり、 ない。 (1)

さてしかしながら断片七八で人間的な滞在とは異なり神的な滞在はグノーメー︿ r 苫合ミ﹀を持つと言われ、神々の滞在とは、

3 5 1此方へ閃き入ってくる者たちの現前であって、したがってその閃きの内で、かつまた彼らによって閃きの内で捉えられたもの

の内ではじめて、有るものは現われ出ることをわれわれが熟思してみれば、グノーメー︿ r 苫 合 亙 7﹀が人間的滞在から脱け落ち

*1

る限り、それは何はさておき何らかの能力とか態度とかを意味することはできない。たしかに人間も有るものに関わり、彼は

有るものを有の開けの内で見て取る。だがこの開けに属する光こそ人間が自らの側から成し遂げるものではまったくない。彼

Iでき

はただこの光の内に立つだけである。眺め得るものを備えることつまり根源的閃き、つまりそれを通して初めて眺め得るもの

が開けた場所へと来たり、開けた場所そのものにとどまるところの根源的閃き、つまりは有るものが現われ出ることが

るようにこのように準備すること、そのことは人間的起源をもつものではない。このように準備しつつ思いを向けることこそ

g

がグノーメー︿ rt全 ﹀で意味されている。おそらくわれわれはこの語をゲルマン語の﹁方策﹂[Rat︺で訳し、それで有るも

のそのものを出会わせること、視界と道とを整えつつ出会わせることと理解することができるであろう。こうした根源的方策 ︹ Rat ︺の内で有るものは予め結集され、保留されている。

断片四一は言う、こうした根源的方策が一切を貫いて一切を操ると。この方策つまり視界と道とを整えつつ、かくして根源

的︵発端的︶意味において助けつつ出会わせることが﹁操る﹂。 操るとは何の謂であろうか。 操ることは前もって一切を一っ

386

の軌道に結集させ、そのように結集させつつ道を示し、道は収集され予め開いた状態に保持されるのである。操ることの内で

は前もって現前が統べており、その現前の内部においてこそ、操られた軌道の上で出会われるものが臨在したり、不在したり することができるのである。

) のうちに現われる。根源 一 切 が 一 切 と の 接 合 ︵ ハ ル モ ニ ア ︿ 念 逗 又a﹀

根源的な方策は一切を貫いて一切を操る、したがっていかなる有るものも他のものに衝突することはないのであるが、すべ てのものがそれぞれの仕方で他のものに接合され、

一切をその臨在と不在とにおいて守る根源

﹀ ミP 郎てot keXep

﹀の本質に ﹀ な る 語 は わ れ わ れ に ロ ゴ ス ︿ Adros つ ま り グ ノ ー メ ー ︿ rg ミ g

的 に 一 切 を 操 る 方 策 、 つ ま り グ ノ ー メ ー ︿r tgg﹀は、 そのように考えられれば、 的結集の現前以外の何物であろうか。 操る方策、

さ し こ む 閃 光 を 与 え る も の で は な か ろ う か 。 操 る 方 策 は 一 切 ニ ツ イ テ 方 面 ニ モ ト ヅ イ テ 統 ベ ル モ ノ 含 g てgeて

き つ つ 軌 道 を 授 け る よ う な 方 面 で な く て は な ら な い の で は な い か 。 操 る グ ノ ー メ ー ︿ r苫ざ 7﹀ を ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ と ︱ つ に 置

く こ と は さ し 当 た っ て は 明 ら か な 恣 意 に と ど ま る か も 知 れ な い 。 し か し そ れ ︹ 11グノーメー︺は神的なもののみに固有であり、

7 0図

a﹀ と ロ ゴ ス ︿ Achros﹀ と の 同 一 視 と い う 見 た 目 に

*1

そ し て 有 る も の の 全 体 の 接 合 構 造 に 関 わ る が 故 に 、 ま た そ の よ う に し て グ ノ ー メ ー ︿ r区 索 さ か ら は 根 源 的 に 準 備 す る 結 集 の 動 向 が 現 わ れ 出 る の で あ る か ら 、 わ れ わ れ は 神 的 ナ グ ノ ー メ ー ︿ r叉索

大胆な歩みを回避することは許されない。もしもわれわれがそれら両者を有るものの全体に関係させて考え、かつまたその際

たしかにそれは最初のことで

なるほど今なお覆われたままの有の真性をギリシア的な意味でアレーテイア︿応ぷ茫へ C﹀ と ピ ュ シ ス ︿ 怠 0へS﹀ と か ら 思 索 す る な ら ば 、 そ れ ら 両 者 は わ れ わ れ に 現 前 の 本 質 に つ い て 本 質 的 な こ と が ら を 言 い 現 わ し て い るI

*3*4 、 〉とが等しい仕方で知ハタダ一ツ〈 5て TOq 念 S〉つまり唯一ー~すなわち唯一っ知らるべきものと名づ pi

﹀ と を 同 一 視 す る こ と へ の 歩 み は 、 ロ ゴ ス ︿ A令 os﹀ 70"ia

*2

はないにせよ本質的なことがらなのである、もしもわれわれがそこまで前もって考えてみることに思いを致すことが許される

ls~苓

と し た な ら ば 。 だ が ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ と 神 的 ナ グ ノ ー メ ー ︿ rミ索 とグノーメ

けられていることにわれわれが注目するならば、もはや避けられないものとなる。この知は断片四一によればエピスタスタイ

387

3 5 2つ ま り 一 切 に む か っ て 到 来 し 、 一 切 を 囲 統 し 、 策 を 与 え 、 現 前 す る 方 面 、 そ の 内 か ら 一 切 の 指 示 と 適 と が 自 ら を 開 き 、 か つ 開

§7/第 3編(論理学)

riogooへ a〉—「その前に立つこと」である。いまやわれわれはこの語をより適切にかつ根源的に捉えることができるの

﹀との意味に限るこ T 応Xu7

への遡源的省察と根源

388



I

つまり根源的に守る

立つー—'根源的な結集の現前の前にかつその内に滞留する、の意味に捉えることができる。

*1

であって、或る事柄に精通するという後の意味、つまりェビステーメー︿虻r [ 3苓 も と テ ク ネ ー ︿ とはないのであって、その前に

知らるべきものはグノーメー︿ r ミ合ミ﹀とロゴス︿ A令 os﹀であり、 しかもそれは合一する一者として、

結集の助言しつつ方策を与える現前として知られるべきものである。しかしそれは全体から隔絶し、分離したものではあり得

な い 。 そ れ は む し ろ 一 切 に 向 か っ て 到 来 し 、 一 切 を 囲 続 し 、 一 切 の 道 を 与 え 、 操 る 方 面 で あ る 。 ロ ゴ ス ︿ Adros﹀は一切ニッ

も ﹀ の 等 ツ イ モ ノ ヲ 集 メ ル コ ト ︿ 念 oioret oxi

イテ方面ニモトヅイテ統ベルモノ︿月 t pgg﹀である。根源的な結集の現前の内に滞留すること、つまりロゴス 苫 e u k e x e p ミ ヘ 1 である。 ︿A令 O﹀ S に 対 す る 人 間 的 関 聯 が 等 シ イ モ ノ ヲ 集 メ ル コ ト ︿ 6さ OAorsl1﹀

い魂全

的 ロ ゴ ス ︿ Aoros ﹀の現前において自己結集しつつ滞留することとしての

2

. o r o c . 人間のロゴス︿ A ﹀が自己を富ますことについての解釈 ︹翌︺*

いったいわれわれはロゴス︿ A6ros﹀ に 対 す る 人 間 の ロ ゴ ス ︿ 2令 os﹀ の 本 来 的 関 聯 を い か に 準 備 す べ き か 、 い か に わ れ わ れ

﹀ が 現 前 で あ り 、 そ の 内 へ と 人 間 の ロ ゴ ス ︿ i令 os﹀ が も っ と も 多 く 担 い 通 し つ つ 転 入 し て い く 方 OS

間の収集する関聯ではあるが、しかしこの人間的関聯はいわばその軌道のどこかで或る境界によって切断され、限界づけられ、

名からあまりにも安易に次のように考えられがちではあるが、それは決して許されない、すなわちなるほど人間のロゴスは人

﹀は、その命 面 で あ る こ と 、 か つ い か に し て そ う で あ る の か を 、 知 る こ と を 意 味 し て い る 。 し た が っ て 人 間 の ロ ゴ ス ︿ 2令 og

がこのことはロゴス︿ A令

ようであった、つまりロゴス︿ A令 os﹀ に 対 す る 人 間 の ロ ゴ ス ︿ i令 os﹀ の 関 聯 を ま ず い っ た ん 知 る こ と が 必 要 で あ ろ う と 。 だ

て﹀を準備すべきか、との問いはすでに提起された︵三六三頁参照︶。当面の答えは次の ほ 等 シ イ コ ト ヲ 集 メ ル コ ト ︿ 念 oioret

3 5 3

0g

そしてその境界へとあらためて、﹁ロゴス︿ A令g﹀﹂へと達する関聯が接続しているかのように、そのように考えられることは



ピ c

*1

令色根源的な結集へともっとも多く担い通しつつ向かい合うこと、である。人間のロゴス︿ 2令g﹀はもし 冷 2ettA

is6

許されない。むしろ魂全exi﹀のロゴス念令g﹀は人間のロゴスとしてモットモ多ク担イ通シッッロゴスニ交ルコト︿溶ざ

g

も根源的な結集へ向かう収集でなかったとしたら、まるでロゴス︿ 2令 os ﹀ではないこととなろう。人間のロゴスは、根源的

結集への関聯として、根源的結集から収集の独自の本質を得る。しかしながらいまやわれわれは次のことを認識する、すなわ

志gこ 苓 苫 ほ 街 念 ふ ℃ ちモットモ多ク担イ通シッッ交ルコト︿溶g t ﹀がすでに収集することであり、しかしまたますますもっ

て等シイモノヲ集メルコト︿念 0J.orsh1﹀も収集することであるならば、収集と収集とは必ずしもいつも同一ではない、 としヽ

うことである。同時にまた次のことも明らかになる、すなわち魂ノロゴス︿ 2drosT ﹀ 苫﹀つまり人間のロゴス︿ 2令 og 苫 含 ox

へと向かう収集として、

つまりは根源的結集へと向かう収集としてのみで

はつねにそして予め、 根 源 的 結 集 へ と 向 か う 収 集 と し て 考 え ら れ な く て は な ら な い 、 と い う こ と で あ る 。 こ の 人 間 の ロ ゴ ス 念令g﹀ 自 ら が そ れ 自 身 で あ る の は 、 ま さ にl

ある。人間のロゴス︿ 2令g﹀そのものに一体何が関わろうとも、また人間のロゴスがロゴス︿ idros ﹀として自らの内から何

内からであり、かつその内においてである。

このことをわれわれがまなざしの内にとどめている限りで、われわれはヘラクレイトスとギリシア人の思索の境域にとどま

る。この境域からのみわれわれは、魂ノロゴス︿ i令g を 迄 s ﹀について語るかのもう一っ別の ﹀つまり人間のロゴス︿ idros

o

︿を迄

S

g 令 へ2 0T 如

芯号ざ念なさ.﹀

ヘラクレイトスの蔵言を追思することがでぎる。それは断片︱一五であり、次のように言われている。 ︹ 哭 ︺

魂ヲ計ロウトスルト、ソレハドコマデモ自分デ増大シテ行ク

﹁取り入れつつ外へ取り出すことには、自らの内から自らを豊かにする収集が固有である﹂。

389

3 5 4であろうとも、人間のロゴスがそれであり得るのは、人間のロゴスがあくまでもそれに向かって収集されている根源的結集の

§7/ 第 3編(論理学)

ここにわれわれが挙げたヘラクレイトスの蔵言はヘーゲルが主導語としてその著作﹃精神現象学﹄の初めに掲げたものである ︹ 唱 ︺

が、その際彼はこの蔵言に説明をつけ加えることもなければ翻訳をさえしていない。しかしながらわれわれは次のように想定

することが許されよう、つまりヘーゲルが熟慮の末にこの蔵言を自分の著作の主導語として選んだとすれば、この著作こそ、こ *1

の蔵言本来の解釈と見倣しているのだと。この関係を追跡し、近世形而上学においてロゴス︿ A令g﹀ が い か な る 形 で 歴 史 的 に

現前しているのか、つまり、いかなる形態で有が近世的人間とわれわれとを呼び求めているのか、何はさておきこうしたこと

2drog

﹀を理性として、また悟性とし

を知ることはさまざまな観点からいって教えるところ多かろう。しかしながらいまはそのような考察をする場合ではない。わ れわれは次のことを指摘するに留めよう、すなわちヘーゲルはヘラクレイトスのロゴス︿

て、しかも﹁神的な﹂﹁絶対的な﹂それとして捉えている、ということである。ヘーゲルは彼の﹃精神現象学﹄で次のことを示

そうと努めている、つまり予め自己意識の主観性として、ということはデカルト的な意味で考えられていた絶対的理性はその自

己出現のさまざまな階梯を経て自己自身に至り、そしてこの歩み出ることのうちでますますその本質を露わにする、ということ

を。このように近世的に思惟され、理性の確実性について絶えず自らを上昇させて行く自己知を顧慮しつつ、ヘーゲルはヘラク

3 5 5レ イ ト ス の 歳 言 を 主 導 語 と し て 選 ん で い る 。 そ の こ と に よ っ て ヘ ラ ク レ イ ト ス の 歳 言 は 、 言 う ま で も な く ギ リ ジ ア 的 思 索 に と

ってはあらゆる点で異質なある非常に厳しく限定された意味を帯びることとなった。篤言︱︱五の今日ごく通常の翻訳もロゴ

ス ︿ 2令g﹀ の 形 而 上 学 的 解 釈 が 支 配 的 で あ る こ と を 洩 ら し て い る 。 例 え ば 次 の よ う に 訳 さ れ て い る 。 ﹁ 魂 に は 、 自 ら を 増 大 さ せ

v意識をヽ持っている﹂(ス

る意識[世界理性]が固有である﹂(デイールス訳︶〇﹁魂はヽ自らの内からますます豊かになつてゆ

ネル訳︶。 翻訳とはそれに伴う解釈なしには何としても理解され得ないものだ、 と い う こ と を わ れ わ れ が 念 頭 に 留 め て お く と

しても、上掲の試訳に関しては、それら翻訳がいずれも形而上学的思索から汲み取られているとは、いずれにせよ言うことが

許されよう。そのような思索がそれ固有の歴史を次の点に認めるかぎり、つまりその歴史の内で、理性の絶えず高まりゆく自

己意識への発展が成し遂げられつつあり、かつ成し遂げられた、という点に認めるかぎり、そのような思索にとって、かかる

ヘラクレイトスの蔵言はどれほど厚い畏敬の念をもって取り扱われようとも、やはり何か或る先駆的なものにして不完全なも

3 9 0

§7/第 3編(論理学)

の、その後の精神が超えて行ってしまったものと見なされる。とにかくヘラクレイトスの篤言は絶対的理性の弁証法的自己発

展を意味するものではなく、人間の本質は有への関聯から発源すること、この根源はそれが絶えずより根源的になり、自性の内

にますます留まる限りにおいて根源であること、以上のことをこの歳言は言い現わしている。このことを追思することは、も

いわば何もしないでわれわれになじみの見解にひたすら固執するかぎ

しもわれわれがヘーゲルのように自己発展する理性の絶対的形而上学をこの篤言に置き入れて解釈しないとすれば、やはりな お、現代のわれわれには困難である。 われわれが、

C oな

eて ﹀ で あ り 、

結 局 魂 の ロ ゴ ス ︿ idros ﹀およびそれとともにほかならぬ人間が

り、さまざまな障害は取り除けられない。 と い う の も こ の 微 言 の う ち で 強 調 し か つ 強 調 さ れ て い る 語 は 明 ら か に ソ レ 自 身 ヲ ︿裳笥合﹀ーつまり、 増大サセル︿ミ

自らの内から自らを豊かにする、ということである。それはあたかも次のように聞こえる、すなわち人間は自らの許に源泉を *1

備えており、この源泉の内から人間は自らかつ自身に依って展開し、かくして現有の可能性を創り出し、実現するのだと。

だが人間のロゴス︿ 2令 g﹀そのものはこのようなロゴス︿ 2念 g﹀としては何であろうか。ロゴス︿ 2 S g ﹀としてはそれは

ロ ゴ ス 念 令g﹀の正しく解された固有な本質の深みは、

ロゴスが自らの内から自らを豊かに

﹀としての人間のロゴスの内で、 ︱つのロゴス︿ idros



3

つまりロゴス︿ Adros ﹀が人間のー

ロゴスを結集しているかぎりにおける人間のロゴスの内で、人間の歴史の展開と充溢とが発源する。有の内へと示されること

﹀そのものの内で‘ のロゴス︿ idrg

ゴス︿ Adros ﹀の﹂ということは有そのものの、通例は不在的である現前が臨在的現前になることによってなのである。 人間

集に向かって一層収集されているときである。人間のロゴス︿ 2 S。もの豊殖は、有るものの附加的増大によるのではなく、﹁ロ

する可能性を、蔵している。何時かつ如何に人間のロゴス︿ 2令 0﹀ S は豊かであり、かつより豊かになるのか。それが根源的結

に向かうべく指示されている。

ほかならない。根源的結集の内へと人間のロゴスは指図されている。それはこのように遠くから示されたものとして豊殖の泉

ロゴス︿ i 令g﹀であり、しかも根源的結集に向かって外に取り出しつつ自己を収集することにおけるロゴス︿ 2令g﹀としてに

己をいわば括って分離させ、そうした上で一切を自らの上に||—自らを求めつつ||ー詰め込む点にはない。それ自身が人間の

すでにかつまさに根源的な結集に向かって収集されている。人間のロゴスの自己性の本質は、それが収集する関聯としての自

3 5 6

はますます取り入れるものとなる。 これ

[11 有︺への収集へと定められており、

*1

これ︹

I I

によって、そして有るものの営みによってではなく、外に取り出すことはますます外へ取り出すものに、内へ取り入れること

ヘラクレイトスの蔵言は言う、 人間はその本質において有に属し、 有]の内から彼自らの可能性を受け取るのだと。

ら﹀である。それ故

g妥P

一瞥したところ篤言︱︱五は篤言五0 に対して逆

その本質的帰結において、人間が固有な、つまりは有を忘却した能力に固執することはすべて高慢︿ *2

に本来的な知は根源的な結集へ向かっての接合に従う自己収集なのである。

のことを言っているように見えるが、しかし両者は真実には同じことを言い現わしている。というのも蔵言︱︱五は、人間の

*3

﹀という仕方での、接合に従う自己収集としてのみ rctt

つまりその本質においては人間のロゴス︿ 2dros ﹀は、︷咸言五0 で要求されているよ

ロゴス︿ i令g﹀が自己充足しており、さらに豊かになるために他者への関聯を何ら必要としない、と言っているのではないか 3 5 7らである。 自分自身のもとにおいては、

うに、結集に向かって自らを収集する等シイモノヲ集メルコト︿ 6 ミ°ざ

ある。だが逆にまた有へ向かっての人間的な自己収集も、一切における盲目的な沈論と顎流ではなく、人間の彼固有の本質への

﹀そのものの現前へと収集されつづけ、 明知をともなう転入であり、その彼固有の本質はロゴス︿ 2令g﹀としてロゴス︿ Adros

したがって区別されたままで留まる。 人間はロゴス︿ASg﹀への自己収集において彼固有の有へと結集される。魂はそのロ

何の内へか、 それは主観的に意味された内面性の内へではないー__そ う で は な く し て 取 り 入 れ

﹀によって有に向かって外に取り出すのであるが、この有を魂は﹁主観的な体験﹂という仕方で取り戻すのでは ゴス︿ i令 os ない。魂は取り入れるl

﹀へと、接合に従って立ち現われることに向か はロゴス︿ idr 。もの内へと取り入れる、そしてそのロゴスは、ロゴス︿ Adros って収集する。

﹀の閃聯は根本においては全く単純であって、まさにその単 ここで思索さるべきロゴス︿ A令g﹀ へ の 人 間 の ロ ゴ ス 念 令 os

純さが確たる関聯点を当にして計算するわれわれの普通の思索をいたる所で挫折させる、というのもわれわれの思索は、客観

的なものとまともに一致する主観性をもった人間的主観に属する周知の諸表象をすぐに引含寄せるからである。人間のロゴス

392

﹀が、 ま た そ れ と と も に 人 間 の 本 質 が そ の 固 有 な 豊 か さ の 内 へ と 展 開 し て 、 有 へ の 関 聯 と し て 、 と い う こ と は す な わ ︿idros 、、、 ち有るものからではなく有の内からの関聯として、開けてくるものであるかぎり、しかしまた人間は差し当たってかつ大概は有

るものに傾き、そればかりか彼が思うところでは、もっばら有るものに対向して留まり、そこで有るものの内に逃げ込もうと

﹀が重要であるかぎり、われわれはヘラクレイトスが本来的知、つまり

6吝o iorctt

支合の 60

ソポン

﹀への適わしい関聯に関しては、いたる所 するものであるかぎり、 また人間に関しては、 そ し て そ れ は 同 時 に ロ ゴ ス ︿ Adros つねに等シイモノヲ集メルコト︿ *1

本 質 を さ ま ざ ま な 仕 方 で 書 き 変 え て い る こ と を む し ろ 容 易 に 理 解 で き る 。 本 来 的 知 の 本 質 を 特 徴 づ け る 際 に な ぜ ロ ゴ ス ︿ 2d'

透 ﹀ と レ ゲ イ ン ︿ 苔g )﹀が挙げられるのかを、われわれはより明瞭に理解することができる。しかし今やまたわれわれは、ロ 郎

﹀のかかる かく解されたロゴス︿ Adros

*2 ﹀ と レ ゲ イ ン ︿ i r g﹀ の 本 質 と を 、 た と え ギ リ シ ア の 元 初 に 経 験 さ れ た 有 の 光 と し て で は な く と も 、 総 じ て 光 の ゴス︿ 2dros

理解の内から、思索の本質をより根源的に教えることのできる根源的な﹁論理学﹂が生長する。

﹀への関聯である。この関聯が人間の本質を成している。この本質 人間的なロゴス︿ i令 0﹀ S は有への関聯、ロゴス︿ A S g ︹哭︺*

3

はその豊かさを自分自身の内から展開する。ヘラクレイトスは言う︵徽言︱︱五︶、魂ヲ計ロウトスルト、ソレハドコマデモ

自分デ増大シテ行クと。︿吝 ox 苫 g Tへidrosggg念なさ﹀﹁取り入れつつ外に取り出すことには、それ自身の内から自らを豊

かにしつつ、収集することが固有なことである。﹂人間のロゴス︿ idros ﹀の自己豊殖は次のような所に基づいている、すなわ

ち 人 間 の ロ ゴ ス は そ れ 自 身 ロ ゴ ス ︿ Adros ﹀への関聯であり、あくまでもその内へと差し向けられており、かくしてロゴスその

1 1ロ ゴ ス ︺ の 結 集 す る こ と の 内 か ら そ の 現 前 の 内

﹀本質を、つまり彼の自己を受け取る、ということである。自己で有 もの︿ d g m A 令 g﹀ か ら 固 有 な 、 ロ ゴ ス 的 ︿ 2令 os-haft ることはロゴス︿ A S g﹀によって呼び要められて有ることであり、 そ れ ︹

へと結集されて有ることである。 人 間 の 本 質 は 、 そ れ が ロ ゴ ス ︿ Adrg ﹀の現前の内で、外に取り出しつつ取り入れながら安

らうときには、自らの内に基づいている。しかしながら人間は差し当たってかつ大概は有るものに傾いたままであり、それが

ため人間はその内に、つまり有るものの内に、ということは近世においては現実的なもの、つまり働きを及ぼしまた慟かれる

3 9 3

3 5 8もとで思索しなくてはならないことを、まずはうすい輪郭においてであれ認識する。

§7/第 3編(論理学)

への注意深い傾聴に存しており、

ロ ゴ ス ︿ Aoros ﹀が心に迫ることと心を動かすこと

3 9 4

ものの内に、彼の逃げ込む境域を持つものと思いなすことができる。人間は有るものに向かって放散されており、有るものの

*1*2

内に四散している。それゆえに彼は有には注意しない。そればかりかあたかも人間には有が有るものによって、かつ有るもの

*3

の内に与えられているかのように、いつも思われる。有るものは実に明らかに、通常の見方では、﹁有﹂で﹁ある﹂。人間が有

の近みから離脱しつつ見たとおりもっばら有るものに従属するまさにその仕方を通して、有るものは自分が﹁有﹂だと主張す

る。だがロゴス︿ A令g﹀はそれらすべて︹の有るもの︺の内に現前しているが、 それにもかかわらず不在である。 しかしな

[II 知]はロゴス︿ Adros ﹀

﹀ に つ い て の 知 知 令 d00p合 ﹀ ー の 内 で 自 ら を 保 と う と は し な い 、 本来的に知ら がら人間はことさらにロゴス︿ Adros るべきものの知は人間にとって疎遠である。 しかしながらそれ

﹀についての本来的な知、等シイモノヲ集メルコト︿ 6 さ r g﹀なのである。ロゴス︿ Adrg 等シイモノヲ集メルコト︿ 6杏0 ミ0.

﹀についてのこうした用 ﹀の準備、根源的なロゴス︿ミ dros 3 5 9苓 包 ﹀ と し て そ の 本 質 に 至 る と こ ろ の か の 人 間 の ロ ゴ ス ︿ 2dros *4

意を整える知こそ根源的な﹁論理学﹂である。﹁論理学﹂とはここでは次のことを言う、つまり根源的結集の現前としてのロ

ものを露現する収集。

n 2ヽ 真 な る も の ︵ 非 覆 蔵 的 な も の ︶ と ロ ゴ ス ︿ A6ros 知 (oo ) の本質 瓦a 灰 。 ﹀ と し て の 真 な る ロ ゴ ス ︿ idros ﹀における非覆蔵性に向かって、 覆蔵された

ゴス︿AS 。s﹀のただ中に立ちつづけることである。

である。

上のもの、および本質的な関聯をますます本質的に見て取るということである。われわれがここで問題とするのは篤言︱︱ニ

つに集め収めて思索させる。ということはしかしながら常に次のことを意味する、すなわち収集された思索のうちにこの本質

ほんのかりそめにではあったがすでに触れたヘラクレイトスの歳言がいまや手助けとなり、これまで考え抜かれた事柄を一

c )



(2)

思慮スルコトガ何ヨリノ強味ニナル。智慧ガアルトイウノハ‘言行ニアヤマリガナイコトデ‘ソレハモノノ本来二即シ ︹四九︺

旱写本の健全ナル弁二︿g e iて﹀に代えてディールスの読み、思索スルコト︿ふミP t ﹀を採る eミP oて o とcて

OJ

dミP 、 ﹀へ0 テノ理解ニモトヅク。︿T t応p i o Tさ g oop[‘7 応2ミogireegへrogビg g,念 )﹄ ga 苫 gs. oてcて ミ. eょ9澄 r (2)

予め通常の翻訳の一っを挙げておこうと思う、それはこのように訳された徽言がヘラクレイトスにとって本来思索さるべき

﹀に対しいかに無関係のままであるかをわれわれはそこで認識するためであり、さらには通常の 事柄、つまりロゴス︿ A令 os

翻訳ではこの蔵言がいかに空疎なものとなり、到底思索に属するものとは思われなくなってしまうかに気づこうからである。 例えば次のように訳される︵スネルの訳︶、

﹁思索とは最高の完全性であり、知慧は、事物に傾聴しつつ事物の本質に従って、真なるものを言い現わし行なうこと である﹂。

*1

og〉について語られているー~この語は、昔からの習慣にしたがって、「真なるもの」と訳 この蔵言では真ナルモノ〈応ぷ

される。この語が何を意味するのか、とり分け初期思索家たちのギリシア的思索においては何を意味していたか、ひとぴと

償 3 6 0知 っ て い る と 思 っ て い る 人 は 、 何 が 真 で あ る か 、 真 な る も の が 何 に 基 づ い て い る か を 知 っ て い る だ け で は な く 、 そ も そ も

学はおよそ熟思しない。﹁真なるもの﹂ーそんなことは誰でも理解している、ように見える。﹁真なるもの﹂ーそのことを 理

真性とは何か、真なるものの本質は何かを知っている、という要求を掲げる。かくしてヘラクレイトスの蔵言のこの翻訳は



﹁真なるもの﹂そのものについてはすでに決着しており、 問題となるのはヘラクレイトスの意見によれば、﹁真なるもの﹂を





まさに「言い現わし」、「行なうこと」ーー—つまり正しいことを正しく発言し、正しく行為に転ずることだと考えていることに

3 7 §

395

なる。真なるものを言葉と行為において遵守し、実現することが重要なのである。このことでヘラクレイトスの思索が射当

てられているか否かはともかくとして、ここに高い要求が発言されていることを否認する人が居るであろうか。しかしなが

ら言葉と行為とにどこから﹁真なるもの﹂がやって来るのか、そして真なるものとは何であるのか。このことについてヘラク

レイトス自身がその歳言で︱つの開示を与えているように見える。上掲の翻訳によれば、彼は次のように言っているのだから、

K a g 寒o e と。言行は﹁事物の本質にしたがって自

﹁知惹は、真なることを言い、行なうこと﹂、﹁事物の本質にしたがって﹂

︹写〇︺

己を正すとき﹂、ということはすなわち事物との﹁合致﹂においてあるとき、真となり真である。真理とは言行と事物との合致

Jo

舌呉而担の*濫只のこのト

は{仁羊捻はカントも {54

A 94O占 え g征 iぇ

4ぃ 、乙てー)て砂瞑 L 却舜-キO 心 竺 ︺

である。アリストテレスの思想の延長上において中世では次のように言われた、衷理トハ知性卜物トガ相等シクナルコトデア tr ル︿ veritas est adaequatio intellectus e e i﹀ し

はこの定義を決着ずみと見倣していたから、このことに関する究明は彼にとっては必要ないものと思われた。ところでいまや、

少なくとも上に掲げられた翻訳に従うならば次のことが示される、つまりすでにヘラクレイトスが真理のこの本質については

知っていたのであり、その本質を知ることは明らかに人間の認識の共有財の︱つである、ということである。さらにほとんど

余計なことと言ってよいが、ヘラクレイトスは物との合致が獲得され得る条件への指示をも与えているーー iつまりひとびとは 物に傾聴し、そのようにして物から性質と状態とを手に入れよ、というのである。

前掲の翻訳の導きに従って与えられるこの蔵言の解明は一切がこの上もなく見事な調和と滑らかさにあるように思わせる。

3 6 1しかしながら追思する者にとっては︱つの困難が残る。その困難とは、この篤言に基づいて与えられた真理の本質の説明はヘ

ラクレイトスの意見ではあり得ないということ、しかもその理由は、ここでこの篤言に付与された言表と行為の物との合致と

いう意味での真理の本質限定は形而上学の形成期に初めてプラトンとアリストテレスのもとで準備されたのであって、微言一

︱二について上に挙げた通例の翻訳で発言された解釈は︱つには歴史的に不可能だということである。だがさらに二つとして

その解釈は常套句に引かれて、元初的思索の尊厳を蔑ろにしていることである。それ故にわれわれはこれまでの熟慮によって 準備されている別の道を行かなくてはならない。

3 9 6

ヘラクレイトスの蔵言の中の﹁真なるもの﹂と訳される語ぉ茎容は文字通りの意味であり、本質において﹁非覆蔵なるも

の﹂の謂である。応2iogrーー非覆蔵性は元初的ギリシア的思索の根本語である。﹁真理﹂の語による翻訳がわれわれにはなお

一般的であり‘言明と物との合致としての真理の本質規定がいまなおわれわれにはよく知られてはいるのではあるが、われわ

れが注意しなくてはならないことは、この微言が形而上学以前の思索の時代、つまり語、とり分け根本語がその根源的な命名

力を繰り展げていた時に語られたことである。だがいまわれわれがこの篤言全体をもっと注意深く吟味してみれば、他の根本

語も、いやそれどころか元初的思索のすべての本質的根本語がこの蔵言によって︱つに接合されているのに気付くのであって、

一度そのことに気付いた人は驚きを禁じ得ないであろう。それは次のことを示唆している。つまり一般的な翻訳と解釈に従う

ならばほとんど︱つの﹁些事﹂を発言するにすぎない歳言がそれとは全く別のこと、つまり元初的なことを言い現わしているの

であり、その元初的なことはおよそそうしたものの常として謎めいており、われわれにとって汲み尽くし得ないものであり続け、

g﹀のほかに。ヒ いつもわれわれの思索を超え出て思索する。少しく羅列してみただけでもこの簸言には非覆蔵ナルモノ︿応ぷo *1



e ︵応と︶﹀が見出される。これらの語のどの︱つをとっ

﹀と傾聴スル︵聴ク︶企日ぇ PC"t



﹀、言ウコト︵ロゴス︶︿ 2 r g ( 2 )﹀、行ナウコト︵為スコト︶含 o ctて( gぶ 6ら︶﹀、知慧︿ q念ぶ﹀、思索ス ュシス念忠・へ 令g S ルコト︿p t および有能性念 p o てcと

る。微言そのものがことさらに語っているのは思索スルコト︿ミ

00 ℃

t ﹀と知慧念°支もについてすなわち﹁思索﹂と Poてcも

*2

S を他の厳言に付けた以前の注釈に従って﹁知﹂と訳す。これまでに究明されたすべてのことから、言うまでもな

﹁知﹂とについてーーそれらが何であるか、を語っている。われわれは℃pgg をひとまず何の注釈もつけないまま﹁思索﹂と 訳し、

く次の一事は明らかである、すなわち﹁思索﹂と﹁知﹂なるこれらの語は当面問いに対する名称、一部は未だ問われたことのな

い問いに対する名称にすぎない、ということである。これらの語および上掲の他の語の翻訳に関する事情は記7 o g をわれわ *3*4

れの語﹁真なるもの﹂によって訳す場合とほとんど変りはない。いまやわれわれは蔵言を一歩一歩閾明するためにここで可能

な若干の道のうちの︱つの道を進もうと試みる。だがわれわれは次のことを視界から逸らすまいと思う、つまりわれわれがこ

397

3 6 2て み て も そ れ は 或 る 本 質 的 な 見 地 の 内 で 、 元 初 的 ギ リ シ ア 的 思 索 と 、 そ の 内 で 思 索 さ れ た 事 柄 と の 根 源 的 本 質 を 命 名 し て い

§7/第 3編(論理学)

の蔵言に注目する最大の理由は、ロゴス︿ uros ﹀がここでレゲイン︿ i応r" へもとして再び知︿ げられており、このロゴスの本質をより一層明る<明瞭にせんがため、ということである。

て﹀との連関の内で名を挙 00pd

蔵言は二つの命題より成る。最初の命題は﹁思索﹂について或る事を言い現わしている。一一番目の命題は知がどこになり立つ

かを言い現わしている。﹁知﹂と﹁思索﹂との関係については蔵言は、少なくとも直接的には何も言っていない。勿論間接的に

︷はヘラクレイトスの言葉の ka

tai ﹀

はそのことについても、この徽言が本質的な見地に従って解明されさえすれば、われわれは微言から充分なものを汲み取ること

しかし

﹁知﹂︶との問の関係は不明のままであるから、第二の命題の初めのソシテ︿

C

c p E r ; 0o

﹁思索﹂︶と ができる。当面ミ Po てet:(

Eaiはたしかに﹁そして﹂を意味する

l

は不定のままにしておくのが賢明であろう。

中では単なる﹁そして﹂を意味することはほとんどない。われわれはこの蔵言の解釈を第二の命題の解明で着手し、この命題

i郎 ree

レゲイン︿ 2応rce﹀とは普通一般の翻訳と解釈に従えば﹁言うこと﹂、

﹀は非覆蔵なるものとの関聯で言い現わされているからである。ロゴス︿ A令 os ﹀はこ

の中から先に取り出されていたところのものに結びつける、すなわち非覆蔵ナルモノ︿応 i 7 o g﹀へと結びつける。というのも この蔵言で発言されるレゲイン︿

﹀との連関の内で出会われる。 こ で は 非 覆 蔵 性 念 ぶ oe[a

*2

ir 郎 ce

﹀と両者

〇応も、非覆蔵性︿応ぷ Oc ︵ヽさ﹀なる語は汎通的に、言う、物語る、知らせる、答える、 27 (3)

の﹂とは何を謂うのか、その語には更に後の形而上学的意味説明をわれわれは添加するのであるが。 お

応 70

a とは非覆蔵なる

もの以外の何を。 そ れ な の に わ れ わ れ 後 代 の 者 た ち の 要 素 の 粗 野 な 混 入 は ど う し た こ と か 。 わ れ わ れ の 翻 訳 語 ﹁ 真 な る も

g は非覆蔵なるものを意味しているの の連関とに関する通例の見解はこの上なく都合よく確証される。しかしながら、応ぷo 、、、、 であり、そのこと以外の何をギリシア人が謂わんとしたであろうか、つまりその語が彼らにとって一義的に言い現わしている

﹀とレゲイン︿ 言明する、といった表現と結びついてのみ現われることが知られる。かくして真性︿応ぷ oe[R

スにおいて、非覆蔵ナルモノ︿お迄容と応

通例な教えに対応している。われわれがさらに遡ってギリシア人の言語使用の源を尋ねてみれば、その最古の証言境域ホメロ

*1

3 6 3とに結びつけられて名づけられていることは、﹁真理﹂とは言明の一性質であり、言明に定位しているとする形而上学のまさに

「言明すること」と理解されている。非覆蔵ナルモノぐ~ぷ〇応邑〉が「真なるもの」として受け取られ、言うこと、言明すること

398



﹀は拾集する、収集する、を意味してお ものを謂う、そしてわれわれはまずそこを離れてはならない。だがレゲイン︿ i r e e 、、、、 り 、 そ し て そ の こ と を わ れ わ れ は ま ず 熟 思 し な く て は な ら な い 。 何 よ り も ま ず 、 非 覆 蔵 ナ ル モ ノ 念 応2 7 o g﹀ と レ ゲ イ ン

︿2郎百 t﹀との間には最前に挙げた連関よりも一層根源的な連関が存立しているのではないかと追思することが必要である。

g|

われわれの所謂「真なる」もの|—はレゲイ

ホメロスとヘラクレイトスとの言語使用を根拠とし、この使用法を在り来たりの理解に従って受け取り、全く一般的に次のよ うに主張することも可能ではあろう、すなわちギリシア人にとって 記苫

2応

*1

r g﹀との連関によって、両者の根源的な共属性も明らかになるだろうと。

ン︿ 2応 唸C﹀の境域に、つまりわれわれの所謂﹁言うこと﹂の境域に属しており、 まさにこのような真ナルモノ︿お茎郎a﹀と 言ウコト︿

o]

g﹀は第六巻三八二 ﹃イリアス﹄には一︱一回の使用例、真実念ぷo e { 7﹀は第二三巻一二六一行、第二四巻四0七行。真ナルコト︿ dぷo

行。g者者のメモによれば﹃オデュッセイア﹄では一四回の使用例

(3)

しかしながら—ー—本来的知が真なることを言うところに存立するとは何を意味するのか。「真なるもの」も、それが知られ、 、、、、 知の内にあるときにはじめて言い現わされ得る。知ることがまず有らねばならない。そして知ることは、それがまず予め真な

為とにおける言うことと為すことも有り、真なるものの現実化が可能である。



og2 rcega iミ

蕊 TO

egg寒 o e﹀であると。ヘラクレイ

しかしながらヘラクレイトスの篤言はその二番目の命題でほかならぬ知ることが何であるかを言わんとしている。篤言は言 う、それは真ナルコトヲ言イ、ピュシスニシタガッテ行ナウコトヘ応

i応

へ て ﹀ 6

て にー—ーつまり収集することと此方へ前へ齋らす 2応 to rceka~ r へe

*2

r g﹀に、行ナウコト︿ TO[Ctて﹀はピュシスニシタガッテ︿Ka"a怠

トスと初期の思索家の言葉に対しいささかなりとも勘をもった人ならば、この厳言がいかに接合されているのか、直ちに見て 取るであろう、つまり真ナルコトヘ応ぷog﹀は言ウ︿

に関係づけられていることを見て取るであろう。知ることは



こととの内に存立している。知ることの構成要素の一である収集の内では何が収集されるのか。応2 7og_ lつまり非覆蔵な

399

3 6 4る も の を 所 有 し て い る 限 り で 有 る 。 知 る こ と が 、 そ し て 真 な る も の の 所 有 が 有 る と き 、 そ の と き は じ め て 帰 結 と し て 言 葉 と 行

§7/第 3編(論理学)

*1

るものがである、それが覆蔵性の内から取り出され、露現され、しかもそれが、覆蔵性から取り出されたそのようなものとして保

存され、保有されるという仕方においてなのである。知ることは、覆蔵性から取り出され、取り挙げられたものを露現しつつ持

有るものである。知ることは、自ら臨在するものを非覆蔵性へと結集するとこ

ち込み、保有することである。このような仕方で非覆蔵なるものとは、自らの内から自らを示すもの、現象するもの、現象し つつ臨在するもの、つまりは臨在するものI

ろの収集である。かくして非覆蔵性そのものが、臨在するものをそのようなものとして臨在させ、その臨在の内に結集して保

ち、保有する当のものである。知ることは非覆蔵性へと向ける収集である。この収集し保有することは、自らを示すものを、持

g﹀は、 ち込み、そしてそれが奪い取られ、隠蔽され、暗まされることのないように保持するのである。 非 覆 蔵 ナ ル モ ノ 念 ぷo

郎さ﹀から取得している。ヘラクレイトスが西洋の思索の端初において知の本質と名づ 270

i応

s n . 1﹀の内に基づくのではなく、 レゲイ ﹁真なるもの﹂として受け取られるならば、言明として受け取られたレゲイン︿ r g ﹀は収集として受け取られるならば、その本質を、覆蔵の内から収集され、非覆蔵性の内へと結集されたものと

ン︿苔 して理解された非覆蔵ナルモノ︿応

けたもの、つまりこの本質はずっと後まで、あらゆる変形にもかかわらず、すべてのギリシアの思索を通して統べている。プ

3 6 5ラトンとアリストテレスとのもとにおいて始まる形而上学もなお知をこの本質の見地から考えている、すなわちアリストテレ

ミ ∼ ﹀ l│ ー現われるものを救う、すなわち自らを示すものをその露現において取り挙 スは現象ヲ救ウコト︿ミ dCeヘ ビ えd 食5令 ヽc

︹奎︺

g 念ga﹀ーー自らを示すもの、現われの内に臨在するもの

げ、保有することについて語っている。かてて加えて現象令a 食

ー は ア リ ス ト テ レ ス の 形 而 上 学 に よ っ て 真 ナ ル モ ノ 令a 応ぷ oi ﹀つまり非覆蔵なるものと呼ばれ、そしてそれは有ルモノ 令a6ug﹀、つまり臨在するものと等義なのである。

応 i 応 ヘラクレイトスの蔵言の内の真ナルモノヲ言ウコト︿応ぷ Oa r g J﹀を覆蔵されたものを非覆蔵性に向かって露現しつつ収

集することと理解するとき、われわれは、ヘラクレイトスが暗々裡に問うている知の本質への問いに対する根源的なギリシア的

答えを獲得するだけではない。われわれは同時にこのいま試みられたギリシア的な解釈をもってすでに一歩踏み込んで、そこ

でこそヘラクレイトスが知慧へo o p i 7﹀の第二の本質要素として挙げるもの、つまりピュシスニ従ッテ行ナウコトヘro(etugt

4 0 0

念o e﹀が理解できるようになる境域に入ったこととなる。 ぅ

先 の 幾 時 間 か に 自 然 ノ 学 企 rへ ﹀について言われた事柄、さらには生︿ ﹀の解明の折、ピュシス︿念 0 S ふ P7 食u0 o へE i

﹀ Cei

﹀とを解明する連関でこの根本語︹"ピュシス︺について書き留められた事柄のうちから、われわれはまだ若干の と 魂 令 uxi

へ S ﹀とは立ち ものを記憶に留めているであろうが、それがいまや新たに本質洞察の内に捕捉されねばならない。ピュシス︿ P苓

現われることを謂うが、それは同時に自らの内へと戻り行くこととして統べている。両者の根源的統一の内で、元初的ギリシ *1

﹀の語が表わしている当のもの、つまりわれわれが有と名づけているものが統べている。だ ア的名称としてピュシス令苓へ S

が立ち現われることの本質には、すなわち開けた場所へと現われ出させること、つまり露現が、ギリシア語で言うならば非覆

e 蔵性へ応ぷ o へ a﹀がある。 だが自らの内へと戻り行くことの本質の内には、取り戻しと留め置くことが、 つまり覆蔵があるの

I命名は発言の欠落と欠如であり、そこにおそらくギリシア的思索の根

であるが、これは言うまでもなくギリシア人もことさらには命名してはいない。 一切の露現の根底に統べている覆蔵のこのような非

本本質の最内奥の密令が覆蔵されている。それゆえギリシア人の元初の思索家たちが非覆蔵性︿応ぷ0ga﹀と。ヒュシス︿ P芍ら﹀

的目撃の内に入っていたことを証しする唯一のものが、パルメニデスの﹁教訓詩﹂からわれわれに伝承された断片なのであ る 。

c 応e わ れ わ れ が 非 覆 蔵 性 念 ぷ Oへ a﹀とピュシス︿ P苓ら﹀との本質的共属性に注目し、そしてレゲイン︿ ir e﹀は収集しつつ

og﹀つまり非覆蔵なるもの、およびその露現とから規定されていることを、熟思する 保有することとして真ナルモノ全`ぷ

ならば、そのときには、 知の第二の本質契機、つまりピュシスニ従ッテ行ナウコト︿ ro W ' l : a 念 0へて﹀がいかなる点で根 へell/I

g起

g足`)は﹁作る﹂︹ machen︺、﹁為す﹂︹ tun︺を意味する。これらドイツ語は広い意味領野を包括

本において同じことに帰着するかが判然とするであろう。 だがこの連関においてピュシスニ従ッテ行ナウコト︿ roget て ﹀とは何を謂うのか。 念 0gu

するが、このギリシア語も同様である。それにもかかわらず、 ro e t uなる語に関してさえも、そしてまさにこの語に関して、 へ

4 0 1

3 6 6との本質統一をどのように思索したかは、 われわれにとってはあくまで不明なままである。 そ れ が 彼 ら の 思 索 に と っ て 予 感

§7/ 第 3編(論理学)

何としてもギリシア的に思索すべく少なくとも努力して試みる時にいまや当たっている。ここで終始求められている﹁ギリシ

ア的に思索すること﹂は元初的思索との話し合いの道として経験され、遂行されるのであって、この話し合いはわれわれに課

せられた独自のドイッ的思索の中へとひたすら導いて行くはずのものである。だがここでは過去のギリシア世界の歴史学的把

握 の 是 正 な ど が 意 図 さ れ て い る わ け で は 全 く な い 。 根 本 意 味 は 此 方 へ 前 へ 齋 ら す こ と [Hervorbringen︺ と此方へ制作的に立

てること︹ Herstellen︺である。 われわれはいまこれらのドイツ語を真面目にーーー語の字義通りに受け取ることがよろしい、

I像 へ と ﹁ 作 り 出

それどころかそのように受け取ることだけが必要不可欠なのである。そのときわれわれはギリシア人によって意図されながら、 、、、 ︺ 進んでそれとしては究明されなかった境域のまっただ中に立っている、つまり覆蔵されているものの内から﹁此方へ﹂︹ her

︺大理石材へと、ということはギリシア的には、立 ﹁齋らす﹂︹ bringen︺、例えば神の姿を﹁前へと﹂︹ vor

I制

足 も の 内 に 一 切 の ﹁ 此 方 へ I制作的に立てる す﹂︹ machen︺。このような此方へ前ヘー齋らすこと、つまり本来的な創作︿ TO 、、、、、 こと﹂︹ HerstellenJ が基づいている、 そ の こ と を わ れ わ れ は 再 び ギ リ シ ア 的 に 次 の よ う に 考 え ね ば な ら な い 、 す な わ ち 木 幹 *1

I制 作 的 に 立 て る こ と で あ る と つ ま り 此 方 へ 前 へ

I立 て る こ と で あ り 創 作 ︿ r oふ 6ら ﹀ で あ り 覆 蔵 の 内 か ら 有 る も の と し て の 有 る も の を 非 覆

とその材木とから角材と用材とを、そして角材から木組みを此方へ 作的に齋らすこと、此方へ

﹁ポエジー﹂と詩作のように使用する。創作術の教説と理論は﹁ポエーティ

3 6 7蔵 性 の 内 へ 現 わ れ る こ と へ 齋 ら す こ と で あ る 、 と そ の よ う に 考 え ね ば な ら な い 。 今 日 な お わ れ わ れ は 全 く 同 化 し た 外 来 語 の

﹁ ボ エ ジ ー ﹂ を ﹁ ポ エ ー テ ィ ッ シ ュ ﹂ をl

ク﹂と呼ばれる。 す で に ギ リ シ ア 人 に と っ て も 詩 作 は ポ イ ニ ー シ ス ︿ g へぶ 0ら>ー│﹁創作﹂であったーーしかしそのとき本

来的に創作されるものは、 詩作しつつ言い現わされた言葉の内に現象し、 輝きに至り、 以来言葉の内で絶えず新たに輝くと

凡もと創作〈 TO

roiら 7〉 6ーーつまり此方へ前へ—制作的に齋らすことと此方へ I立てることーーと

ころのもの、という意味で此方へ前へ齋らされたものなのである。同様に﹁為す﹂も現象の内に到り、現象させるほどの意味 である。創作スルコト〈

が非覆蔵なるものの内へと此方へ前へと齋らし、此方へ立てるのは、それまではまだ現われていなかったものである。創作ス へS

gg﹀はまず第一に人間の振舞として考えられている。この意味で創作︿ roi76 ﹀ は ピ ュ シ ス ︿ 哀 6ら﹀の反対物 ルコト合

402

§7/第 3編(論理学)

である。 ピ ュ シ ス ︿ 寒 房 ﹀ は 自 ら の

現われ出て行かせることi

齋 ら す ︹ bringen ︺の根

﹀は人間によって遂行される此方へ前へ齋らすことである。

TO[70 包S



I内から I立 ち 現 わ れ る こ と 1

椋的意味における此方へ前へ齋らすことを謂う。創作︿

*1

一切の創作〈ro{ら 7〉 6は常にピュシス合忌蕊~〉に差し向けられているのであるが、その意味は、例えば船を此方

こ の 齋 ら す こ と [Bringen︺はそれ自体すでに解明された収集するの全き意味における﹁拾集すること﹂を必然的に前提とし ている。

﹀に応じ、その可能性に従って、その境域を通してずっ も あ る 。 つ ま り ピ ュ シ ス ︿ 念 6へS 0g

ら﹀は。ヒュシス︿怠 0ら﹀を尺度とするー│そ Toi70

l此 方 へ と 閃 き 入 っ て 来 る 者 で あ る 。 こ の よ う に 予 め 立 ち 現 わ れ つ つ 人 間 に 向 か

I齋らされる当のもの、例えば大理石材

ら﹀がピュシス︿寒 qら﹀に頼るのは次のような意味においてもそうなの Toi7q

ヘ l制作的に立てる︹つまり建造する︺には建材、つまり樹木として自ずから立ち現われ、臨在に達した木材と用材を必要と する、というだけではない。 それ以上に創作︿

I立ち現われつつ

である、むしろとくにこの意味においてそうなのである、つまり本来的に此方へ前へ における神の姿は自ずから



って到来するものに、人間が此方へ前へ齋らすことは頼っている。創作︿

gg

れはピュシスニ従ッテ︿

I齋 ら す 人 の こ と で あ る 。 ピ ュ シ ス ニ 従 ッ テ 創 作 ス ル ︿ T O へcttkgga 寒 0へもとは、目

I立ち現われるもの、すなわち自らを露現し、それまでは全く現われることがなく、また現われなかったところものに向

*2*3

Tg が意味している。知者とは、自ず と、なのであって、この「従って」「応じて」「ずっと」「沿って」ー—これら一k 切aを

から かって眼差しを向けつつ、此方へ前へ



もそれ自体だけではやは ro ct

前にあるものの模造の意味で﹁自然に従って或るものを模造する﹂ことを意味するのでは決してない。

t K月 へeて ro

T a 寒 0g て﹀だけがそうなのだと││'すなわち此方へ前

だ が 、 と わ れ わ れ は 異 議 を 唱 え た く な ろ う 、 此 方 へ 前 へ 齋 ら す こ と 、 つまり創作スルコト︿

i~

から

I

立ち現われるものに「従って」の此方へ前へ—齋らすこと

I

つまり露現ーが創作〈



ro7 [0 ら〉

応rへ e て〉が知の本質要素なのだと。此方へ前へ I齋らすことそ

ヘ齋らす際に立ち現われて、露現されるべきものが眼差しの内に収められていること、ということは人間がそれに向かって収集

り、知の本質要素ではなく、ピュシスニ従ッテ創作スルコト︿

されていること

I

すなわち真ナルモノヲ言ウコト〈応ぷa 茫i

のことではなく、自ず

に際しての知の在り方を成しているものだ—ーとそのように見えるかも知れない。

403

3 6 8

しかしながら、そのように考えたのでは、われわれは創作命 0へ、苫.への﹀のギリシア的本質と知のギリシア的本質とをやはり等 *1

﹀が非覆蔵なるものを収集しつつ保有することとして、また創作スルコト︿

ir 郎 ge

が [﹀ TO へCて

しく微妙に誤認することになろう。そのときにはヘラクレイトスの厳言で同じことが一一度言い現わされたこととなろうかーー 然りであり否である。レゲイン︿

*2

立ち現われるものの内からの此方へ前へ齋らすこととして、人間的振舞、すなわちそれを通し、かつその内で人間が非覆蔵性

の内へと立ち現われるものを臨在せしめるごとき人間的振舞の根本動向を示すという点では、同じことが︹言い現わされてい

る〕。このような同一性の内部では、レゲイン〈2郎rg 〉が非覆蔵なるものをそれが自ずから立ち現われるものであれー— *3

l

あるいはそれが現われ出てきたもの、此方へ制作的に立てられたもの、そしてそのようにして臨在するものであれ|—単に収

集しつつ保有するという点においては同じことが言い現わされているのではない。したがってそのとぎには二番目に名づけら

て﹀に対応するレゲイン︿ i 郎 ePCt

芯 gs﹀という契機である。 rgて﹀とは区別される、実践合 P

れ て い る ピ ュ シ ス ニ 従 ッ テ 創 作 ス ル コ ト ︿r tC oへcて a芯 念 0へて﹀が一層強調し、本来的に強調するのは、純粋な観照と考察であ る見ルコト︿寄

この区別、つまり理論的振舞と実践的振舞との区別は、ギリシア的人間形態に根拠づけられた形而上学に遡源するのである

が、われわれはこの区別を、とくにギリシア後の近世的鋳型のままにギリシア的思索の中へ遡って引き移してはならないし、

一切の此方へ前へ齋らすことと此方へ制作的に立てるこ

瓦も自身、創作スルコ TO

とり分け元初的思索の中へ引き移すことは断じて許されない、たとえそのような区別が、断片一︱︱一の通例の翻訳に従えば、

しかもその理由は、

いかにも自明なことのように思われようとも。すなわちギリシア的思索にとっては創作スルコト︿ 3 6 9ト︿r 足e﹀として何はさて措き知なのであり、 o

l齋らすこと、此方へ

瓦 TO

I制作的に立て、彼方へ

われわれが﹁芸術﹂

l立て、

e﹀ は ま さ に

とには或る事柄と作業の知識が属しているからというだけでなく、まさにこの知識はギリシア的な経験によれば、有への︵ピ

I前へ

g 斎ら﹀の本来的関聯を成しているからである、というのも創作スルコト︿

﹀への︶創作︿ ュシス令ぎs

*4

I立 て る こ と 、 つ ま り 非 覆 蔵 な る も の を そ の よ う な も の と し て 収 集 す る こ と で あ る か ら で あ る 。

働きを及ぼして作ることではなく‘字義通りに解された此方へ 起こし

〔 Kunsと t] 、しかも最高の意味で「芸術」と呼んでいるものを表わすギリシア的な概念および語は或る―つの認識概念—ー'

404

の 理 論 編



3 §

テクネー︿

﹀ーである、だがこのような認識は知の本質に従って非覆蔵なるものの露現として把握されねばならない。 T 応X て7

最 高 の 意 味 に お け る 芸 術 は 創 作 合 Oぶ 0ら﹀ーつまりボエジーであり、知であり、だが知として非覆蔵なるものの収集であり、

I非覆蔵なるもの︺の中への自己収集である。だが非覆蔵なるものは、非覆蔵なるものがそれ自身として、自らの内 このもの︹ I

から立ち現われ、非覆蔵性の内でその固有の立場に立つとき、そのときにはじめて適切な自己収集を自己に向かって結集する。

I規定なるものという意味での無際限なものへのぼやけゆく分解なのではなく、有への自己収集はこ

根源的な結集へ向かっての自己収槃はこれ︹結集︺の内で溶解してしまうことはない。真有︹ SeynJに対する根源的関聯はギリ シア的な経験によれば、無

*2*3

mach〕 tのでは決し

、、、、、 のように gg﹀、終極︿応ざ s﹀)立ち現われるようにさせ、そ

れ︹ 11有︺をまさに非覆蔵性の中へ齋らすのであるが、その仕方は収集がその都度有を或る立ち現われゆく有るものの内で収集 *1

されたものとして、ということは同時に輪郭に限定されて︵限界合

I齋らし、したがって有を「作る」〔 して有をー|'つまりは非覆蔵なるものの内へであるが|—此方へ前へ

てない、という仕方においてなのである。このように此方へ前へ齋らすことは、覆蔵されたものを非覆蔵なるものへ露現するこ

とである。此方へ前へ齋らすことは、知るべく与えること、すなわちそれ自身知なのである。知の充全なる本質には、立ち現わ

れることに着目しつつつ此方へ前へ齋らすことが、つまりはピュシスニ従ッテ創作スルコト︿r oへctてka"ap00へt﹀が属している。 郎

もとを区別しているが、彼は知の本質的なものの根源的統一 ヘラクレイトスはレゲイン︿ 2 reへ も と 創 作 ス ル コ ト ︿r oへct 、、、、 性において両者を考えている。そしてもしもわれわれが区別を認知し、保持するならば、次のことを熟思することが重要であ

訊 る 。 す な わ ち こ の 区 別 は 理 論 的 な も の と 実 践 的 な も の と の 区 別 の 以 前 に あ る 、 と い う こ と で あ る 。 レ ゲ イ ン ︿ 2苓gも と 創 作

足 も と の 間 に 立 っ て い る ソ シ テ ヘ cミ ﹀ は 、 知 慧 令 ro スルコト︿ 70 支 3﹀を構成する二つの本質部分を単なる﹁そして﹂︹und︺

2応

r g﹀の充全なる本質には、立ち現われるものを此方へ前へ齋らすことが属しているl

それゆえ一切

として結びつけるのではなく、 それは「そしてそれは同時に」というほどの意味をもっているー — i 収集しつつある自己収集 としてのレゲイン︿

か つ 純 粋 に 言 と し て の 収 集 、 そ れ は 自 体 に お い て 創 作 合 0ぶ ミ も な の で

*4

の収集よりも根源的に収集し、結集するところのかの収集、かのレゲイン︿ 2郎唸 e﹀、すなわちそれが思索しつつかつ詩作しつ つ言い現わすことで言葉に到るときの言における、

4 0 5

2応rg〉となる|—それ故に早くからレゲイン〈 2似rg て〉は収集としてと同時に言い現わす

ある。 言は根源的かつ元初的に露現しつつ、非覆蔵なるものをそのようなものとして﹁収集する﹂︵拾集する︶が故に、 言い

現わす収集は際立ったレゲイン〈

ことを意味する。思索と詩作とは根本的に異なる仕方ではあるが根源的には︵そして初めにおいては︶同じである、つまり言

において自らを収集しつつ、有を言の内へと此方へ前へ賓らすことである。ここにおいて、つまりいま名づけられたこのよう

な本質境域において、われわれははじめてかの源泉の領域、つまりそこからギリシア人のもとにおいて詩作と思索との秘密に

満ちた対抗活動が、かの此方へ前へ齋らすことと︱つに鳴り響きつつ発椋するその源泉の領域に近づくのであり、そのような

此方へ前へ齋らすことをわれわれは構築し、形づくるものとして見識ってはいるーがその内実は到底知りはしない。上に言

われたことに基づいてわたくしは敢えて主張したい、今日なおわれわれはヴィンケルマンとゲーテにも拘わらず、否まさにこ

れらの人達を通してギリシア人のすべての﹁芸術﹂を、詩作については言うに及ばず、誤解しているのだと。

﹀の本質の最終の部分の規定は解明されてはいない。それは だがいまだ蔵言の第一一の命題で言い現わされている知慧︿ 00pid *1

vー つ ま り 或 る も

篤言の終りにあり、知慧念 o 支a﹀ に つ い て 言 わ れ た こ と を 取 り 纏 め て 、 発 言 さ れ て い な い 事 柄 の 内 へ と つ な げ て い る 。 最 後 の 語

は 年 ミggS であり│ー'︹その合成動詞を構成する基本動詞︺応 0 は 吹 く の 謂 で あ る _ ー あ ち こ ち へ と 吹

のに向かって外へ出し取り入れることである。 (AQ の始源的本質についてはここでは語られ得ない︶。われわれはすでにかか

も ︵ 知 慧 ︿ 00℃ 00pd

c

、﹀)つまり知が、根源的結集、すなわちロゴス︿ A令g﹀への注意深い傾 a

、は﹁或るものに向かって﹂をことさらに名づける。わ る も の と し て 魂 合 迄 7﹀の本質を規定した。 5Tab 苫 aS の接頭部の応 T[ れ わ れ は す で に 蔵 言 五0 から、知︿

苫ぢ﹀のソ 3 7 1聴に成り立っていることを経験した。篤言︱︱︱一で問題となる﹁それに向かってのそれ﹂つまり息吹ク人タチ︿応∼ o

oL令g﹀ を 補 う 以 外 の 仕 方 で 規 定 す る こ と は 全 く 不 可 能 で 5 を、ロゴスニ向カッテ企辻g レ ニ 向 カ ッ テ ノ そ れ ︿ das苓 " 0 ﹀ 、、、、 r ﹀に向かって、の謂である。 あ る 。 芹 aio 苔 aS は 事 物 に 傾 聴 す る 、 で は な い 、 そ う で は な く ロ ゴ ス そ の も の ︿ den A6g

I前 へ 齋 ら し つ つ 収 集 す る 自 己 収 集 は 、

*2

ロゴ

かくして円環は閉じられる。そしてその環の中心はさらに根源的に中心を取り囲む根底へと突入する。それ自体において同

r g﹀ ー つ ま り 此 方 へ 応 時 に 創 作 ス ル コ ト ︿r oe へD﹀ で も あ る レ ゲ イ ン ︿ i

4 0 6

スニ向カッテ息ヲ出ストキニ︿虻 maio ﹀生ずる、すなわちロゴス︿ A令 os ﹀に向かって、ということは一切を 苫 RS虻r TO52令 oo

結 集 し 、 根 源 的 に 会 域 を 開 く 現 前 に 向 か っ て 注 意 深 く 外 に 取 り 出 す こ と の 内 で 生 ず る 。 ロ ゴ ス ︿ A令 os ﹀とは、厳言︱︱二によ

つまりピュシス

〉|—非覆蔵なるものーすなわち覆蔵に基づく非覆 ればレゲイン〈 i応rg〉が向かって行く当のものーー真ナルモノ全O 応a ぷ

て﹀が向かって行く当のものと同じものであり、 蔵 性 と 同 じ こ と で あ る 。 だ が 非 覆 蔵 性 は 創 作 ス ル コ ト ︿ roへ e t

﹀は一切を守る現前の根源的な方面と 令苓令 S﹀ で あ り 、 自 ら の 内 へ と 戻 り 行 き つ つ 立 ち 現 わ れ る こ と で あ る 。 ロ ゴ ス ︿ Adros

g

6ミo ioret

て﹀における、かつ等シイモ

tて〉である‘つまり根源的に合一する一なるものー— 唯一なるものである。このように考え l

A oga して、それ自体覆蔵の内に統べる露現であり、自らの内へと戻り行きつつ立ち現われることである。非覆蔵性〈 •ぷ 〉ヽ *1 、、、、 ロゴス︿A令 0﹀ ピュシス︿き S は同じものであるが、それは等しい無差別へと重なり合うという空疎な一様性において 、 ﹀ ~と 0し uて a、 ではなく、区別に満ちた一者たる gt てへの根源的自己結集としてである。ロゴス〈A令 0〉 S は非覆蔵性〈 'A).〉

ピュシス〈全念 g〉 g として一者〈

られるべきこの一者、つまりロゴス︿ Adros ﹀に呼応するのが、等シイモノヲ集メルコト︿ ノヲ集メルコト︿

I収 集 し つ つ 知 の 内 に 立 ち 続 け る こ と 以 外 の 何

の本質の内へのつまり本来的知の本質への洞察が、厳言の最初の命題

I齋 ら す こ と で あ る 、 だ が 両 者 は 、 収 集 さ れ た 自 己 収

6百o て﹀としてのかの人間的な外に取り出しつつ取り入れるところのレゲイン︿ i r 郎 さ﹀であり、これは ioret g

て﹀ーー.つまり此方へ前へ そ れ 自 身 に お い て 同 時 に 創 作 ス ル コ ト ︿ Toget

00Pia

ソビア

集が根源的結集へと謹聴しつつ拾集するという仕方にある。 蔵言一︱︱一の第二の命題によって授けられた *2

を追思する可能性を何よりもまず与えてくれる。というのも思索とは収集され

索しつつ経験された有を指示するために、いまだ全く遠方からではあるが言われ得ることは、断わるまでもなく、ヘラクレイト

︵徽言︱︱︱一の解明のために、またそれとともに根源的ロゴス︿ A令 0﹀ S を閾明するために、またそれとともに元初的に思

*3

自己露現的現前の内に収集しつつ内立し続けることの不成功でもときにはある。

学 3 7 2物 で も な い と し た ら 、 わ れ わ れ は 知 の 本 質 に も と づ い て は じ め て 、 本 来 思 索 の 何 た る か を 認 識 し 、 か つ 経 験 す る こ と が で き る 理 論 のだから。思索は知の内に細心の注意をもって滞在する心くばりである。思索とは関心であり、それが故にまた有それ自身の



3



§

4 0 7

*1

スに関する何らかの新たな発見として、今や性急にかつ器用に評価され売りとばされるためのものではない。初期ギリシアの

思索についてのこれまでの歴史学的解釈はそのままにしておくことができよう、なぜなら単なる博学からは、それが多かれ少

なかれ当たっていようと、われわれに関わるようなことは何本出て来はしないのだから。ここで重要なことは次のことだけで

有へのわれわれの関聯についてのみ思慮深く

ある、すなわちわれわれがこれまでに言い現わされたことを﹁学問的に﹂評価する代りに、われわれ自身のもとにひきすえて 熟思することであり、ただわれわれ自身に関してのみ‘││'ということはだが、

なることである。だがこの思慮を要する‘熟思さるべき関聯は﹁思索﹂そのものであり、この思索が或る根源的な﹁論理学﹂ の中では、固有な光、自ら作られたものでは断じてない固有な光の内に来たって立つようになる。︶

われわれはすでに、人間のロゴス令令o~が >遠くから指示されつつ、遠くまで指示するものであることを聞いた。思索の内

. < o r e , 6百o



へもにとっては、有が会域を開きつつ現前することが、すなわちロゴス も と し て の レ ゲ イ ン ︿ i rc

で﹁魂﹂つまり取り込みつつ外に取り出すことは、根源的な結集から心を動かされる。思索にとっては、すなわち等シイモノ ヲ集メルコト︿

︿A令 os>が、心に迫ってくる。ロゴス︿ A令 0﹀ S によって人間がこのように根源的に心を動かされることにもとづいて、す

べて心はーすなわち人間の心のもっとも内奥にしてもっとも遠くまで達するものは、有に向かって迫られている。本来的思

索の内には、その思索がいつの日にか適えられるとすれば、次のような心が存する。すなわちその心とは、それ自身から会域

を開きつつそれ自身の内に安らいつつ根源的に一切を守るとともに元初的に守られているもの︹すなわちロゴス︺に、心を向

ける心である。根源的に一切を守っているとともに、それ自身をそれ自身の内へ戻して匿っているこのものは、端的に高貴な

3 7 3ものである。本来の知の内に統べている思索は、高貴なものと高貴な心をもったものとに、最高に心を向けることである。そ

"d ミPoてctて れ故にヘラクレイトスは厳言一︱二の前半の命題を次のように言うのである、思索スルコトハ最大ノ徳デアル︿ 包

念 g9perio"7﹀ と 。 思 慮 令 pdg0 S﹀、思ゥコト︿ミ Poてctて﹀、心念令 pさ﹀は、思索︹ Denken︺であるが、それはわれわれ

︽ ︽︹思いを向ける︺の正しく汲み取られるべき意味に従って謂った場合のことである。すなわち︾ sinnen のドイツ語︾ sinnen

とはi 或るものに思いを向けること、そのものに追随しつつ、そのものの意味に思いを致すこと、そしてこのように遠くに

408

§7/第 3編(論理学)

*1

まで到達するという仕方で思いを向けることにおいて或る︱つの心を動かすことを自分の心に要求しつつも同時に自分自身を

省ー察すること、そして思いつつ自分自身の本質の内へ転入することである。自分自身の本質という場合の固有なものは、す

innen︺という べての聴従することがそれに向かって行くところのものへ聴従することにまさしく存する。﹁思いを向ける﹂︹S

t ﹀もまた謂わんとしている彼のものが滞留しつつ外に取り出すということが存して Po℃cて

t ﹀をわれわれはもっとも的確には﹁意味に思いを向けつつ思索すること﹂と翻訳する てcて Po

ことの内には、ギリシア語の思ゥヘミ おり、ギリシア語の思ウコト︿℃

℃[、 a﹀についての命題 00

a﹀ i はここでは、そしてそれはすなわち、

Ka﹀ i がくるが、そのソジテは知︿

ことができる。かくしてその蔵言の前半の命題をわれわれは次のように訳すことができる、すなわち﹁意味に思いを向けつつ 思索することは最高の高貴な心である﹂と。それに続いてソシテ︿

を、思ウコト︿ ppotg ﹀についての命題に単に接げるのではなく、そのソシテ︿ミ

心遣いI



t ﹀は知へ qo という仕方で結合するのである。何故とならば、すなわち思ウコト︿℃ Po 支a﹀の入念さであるが、知は今や言 てeて



て﹀は知︿ 00p[3﹀のための入念さであり、 Pot"t

g 支 g 〉ー~であり、形而上学以前の根源的な意味における哲学である。

われねばならない本質をもっているからである。 思ウコト︿ミ

卜親シイコト〈念i{aT 苫

、 知すなわちソピア︿ 00p[ a﹀の本来の本質を経験しつつ予感することを、われわれが再び学んだとぎ初めて、 われわれは再

びこの知のための入念な心遣いについていささかのことを会得するであろう。そのとき初めてわれわれに次のことが立ち現わ

g ﹀に閃し

‘ れてくる、すなわち本来の知のために思索しつつ心遣いをすることに関しては、知卜親シイコト公g ざ ags00支

ては、﹁哲学﹂に関しては、いかなる事態になっているかということが。哲学は﹁学科﹂ではない。﹁主学科﹂でも﹁副学科﹂ 、、、、 でもない。哲学は︱つの接合条理である。その接合条理において、それが人間の間にあることが接合であるとするならば、思

11

一は、発言されぬままながら、しかしわれわれにとってはなんとしても竿言されねばならない補

索する人問に真有が接ぎ合わされるのである。 ヘラクレイトスの微言︱

足を伴った形では次のようになる。

4 0 9

374

"d e rて RPeg裔 ℃Poピ



d r [ g苔 応 ぷ

00℃ [ 、7 ヽ

. ﹂ 討 CaJKaへro[C0 Ka"aouoa)C rau o苫︵ a s忍

0g

I齋らすことにおいて

Adrou) .

*1

非覆蔵なるものを︵覆蔵から覆蔵のために︶

﹁意味に思いを向けつつ思索することは最高の高貴な心であり、そしてそうであるのは何故かと言えば、すなわち知は、 非覆蔵なるものを立ち現われに従って、此方へ前へと

収集することである||(しかもこれらすべてを)根源的な結集へ傾聴することにおいてである|—からである。」

4 1 0

§8/第 3編(論理学)

3 7 5

ロゴス︿

Aoros ﹀と有の本質と有の真性。

﹁根源的ロゴス︿ Adrg ﹀ へと到るもっとも必要な道は遠い。﹂

§ 8 人間、

解釈の結末

餞言一 ︱︱一の

さ g﹀ と し て の ロ ゴ ス ︿ A6ros 根源的に結集する現前。 一 即 一 切 盆t m 、 ﹀

ロゴス︿ Adros ﹀と有との同一性について。

i郎



ごr oへg g 芯 念 gJ rago苫g(gOAdrou) .﹀ rgKa

有の守り手としての人問と人間への有の関聯、性起に心を向けること 歳言一︱二は次のように謂う。

令dppog 念図 i p ogg 00 て 咆ゞぉ茎芯

‘ き

*1

﹁意味に思いを向けつつ思索することは高貴な心であり、そしてそうであるのは何故かと言えば、すなわち知は、非覆

なるものを︵覆蔵から非覆蔵性の内へと︶立ち現われを眼差しにおさめつつ‘此方へ制作的にかつ起こし立てられたもの

4 1 1

a)

I齋らす、という仕方で収集すること︵だがそうしたことの一切を︶根源的な結集への外に取り出し

I取り入れる関聯において為すことであるからである。﹂

の中へと此方へ前へ つつ

。もである。 生 キ 者 ︿ な 吾 ﹀ は 生 合 ei 人間は古いギリシアの規定に従えばロゴスヲ持ツ生キ物︿なざ uidroて gx ﹀によっ

て規定され、 生合 ei 〉は魂令 ux〉 〉 は、つ 魂x 〈 令 iー~外に取り出しつつ取り入れることによって規定される。人間のu i

まり彼の外に取り出しつつ取り入れることは、等シイモノヲ集メルコト︿ 6苫oioret も の 意 味 で の レ ゲ イ ン ︿ i 応re へもという仕

方を持っているー│'すなわち自らの内に収集されたものほ、根源的な結集として‘つまりロゴス︿ A6ro もとして、根源的に、

ということは本質の根源を授けつつ、ということであるが、そのような仕方で人間にとって心に迫ってくるところのものを収

集する。人間はロゴスヲ持ツ生キ物〈 C令oCi令 ougN〉 oで uある'~つまり根源的結集が自らの内に収集された収集として外

に取り出しつつ取り入れることである。人間は有の真性の所在であり、それ故に人間は同時に虚しき無の迷いの縫れでもあり

11

一から取り出されたこれら指示の後、 この解明の締

得る。人間は絶えず彼そのもので無いことで、彼そのものなのである。この﹁無い﹂は同時に高貴な心と思い上がりとの根拠 である。 ヘラクレイトスによって思索されたロゴス︿ A令 og ﹀に対して微言︱



O5E 冬百0 6

gi記d g o 2令 00

応 E苓 O 8 苫 as

念 oioretuoo念dua0"c

um8xa



﹀ Adros

︵根源的な結集︶に注意を向けたならば、本来的な知、つまり無比なる一なるもので、一切を合一するものの臨在︵すなわ

、、、、 ﹁君たちが単に私に耳を傾けただけでなく、君たちがかのもの︹"ロゴス︺に従順にして、ロゴスそのもの︿

苫U .﹀ c∼

イル通リニ認メルノガ知トイウモノダ。︿

︹ 善

ワタシニ聞クトイウノデハナクテ、言ワレテイルコトワリソノモノニ耳ヲ傾ケテ、万物ガ一ツデアルコトヲ‘言ワレテ

めくくりとして蔵言五0 の翻訳を掲げておこう、歳言五0 は次のように言う。

3 7 6

412

約 理



ち根源的結集の現前︶を、自分自身の内に収集されて収集することの内に成り立つ本来的な知が有る﹂。

云 四 ︺

︵歳言一三一を参照、知ナルモノハ唯一ツアルダケダ。コレヲゼウスノ名デ呼ブコトハ‘ソノ意ニソムクコトデモアルシ‘

マタソノ意ニカナウコトデモアル。︿ g て0ミa .﹀ て "dso溶 ざ 百05tot2応reミミaへ0吝 娑 郎2災 き 芯 娑 応2災 N7てdsd

﹀は ロゴス︿ Adros

「無比なる一なるものでー|合一するもので—ー唯一なるもの、ひとり本来的知の内に現前するもの、それはゼウスの 名において収集を寄せつけず、かつ収集を授ける﹂。︶

﹀そのものの本質への合図を自らの内に蔵しており、 ﹁一ー︳切﹂︿ミ u,日&tg﹀ は ロ ゴ ス ︿ A S g

一切の

tも 無 比 の 一 で あ り 、 そ れ は 一 な る も の と し て 、 合 一 し つ つ 、 ま さ に 統 べ る の で あ っ て 、 し か も 事 後 的 に で は な く 、 ︿

r

根源的に、しかも一切に先んじて統べているのである。ロゴス︿ A S g ﹀は一即︳切︿ て 月 g g ﹀ー│'根源的な結集‘

一切を合一するたぐいのもの

︳即一切 3 t t

ロゴスは、 何故かは

一は一切である、 との言い渡しがなさるべきであるよ

臨在するものがその内で臨在するところの現前、その内であらゆる有るものが有るところの有である。 ﹀は或る﹁意味﹂、 ではない、つまりそれに応じて、 ロゴス︿ Adros

2 郎rgg

て﹀は拾集することとして、

2も 裟 苔 a﹀ は 二 つ の 事 柄 で は な く 、 有 の 唯 一 に し て 同 一 の 本 質 で あ る 。

一は一切であると宣言するがごとき何らかの切り離された本質なのではない。

﹀は一は一切であると言い渡すような、そうした意味の語ではない。 うな意味ではない。ロゴス︿ Adros 知られぬが、 ﹀と︳即一切 ロゴス︿ Adrg

へて﹀である。だがレゲイン︿ 2 郎r g

ヘラクレイトスのロゴス︿ A S g ﹀ は 、 彼 が 非 覆 蔵 性 ︿ 近 苫gg﹀ お よ び ピ ュ シ ス ︿ き 0ら﹀へのレゲイン︿ 2応 益C﹀の関聯

である、しかもそれは保持し、守りつつ、露現する収集という意味においてである。

乱苫 a﹀は根源的なレゲイン︿

編 7

33



/ を 名 づ け つ つ 、 こ の 思 索 家 が 言 い 現 わ し て い る 事 柄 か ら 思 索 さ れ な く て は な ら な い 。 非 覆 蔵 性 ︿1ぷ oeへ3﹀ と ピ ュ シ ス 8 ﹀の根源的にしてギリシア的な本質の内への合図を与える。だがそれを規定するための導きの糸 ︿き房﹀とはロゴス︿ A S g §

413

を、形而上学のラティオ︿ r a t i o﹀も主観性としての理性も決して与えることはできないし、キリスト教神学のコトバ︿Verbum﹀ も与えることはできない。

根源的なロゴス︿ASg﹀へと到るもっとも必要な道は遠い。この道を指し示す徴は当面僅かである。 だが、とうの昔に根

d2 ざ て

﹀ ぶ g. 7rupg

1 1ロゴスの︺注意深い世話と、思いを向けつつ思索す

底を失い、空疎になり果てた世界、そして現代の技術にはじめて水門を開くこととなった﹁文化創造﹂なる近世的思い上がり の内で憔悴せざるを得ない世界、そのような世界の瓦解こそが、その︹ ることへと助力を与えてくれるであろう。

簸言四一︱一ではヘラクレイトスは言う。 ︹ 翌 ︺

高慢ノ情ヲ消スコトハ、火事ヲ消ス以上ノ急務ダ。︿ g ミ店 Xpi33g芯芦へさ ﹁高慢は消し去る必要がある、大火事よりも﹂。 *1

如上の解明は、﹁真なるもの﹂が何か、﹁言う﹂とは、創作スル︿rog へ も﹁為す﹂とは、﹁自然﹂とは何であるか、 を 知 ろ う

I明 さ れ 得 な い こ と を 、 言 葉 に も た ら さ ね ば な ら な か っ た こ と を 驚 嘆 し つ つ 承 認 す る こ と で 、 こ の 思 索

とするような無思慮な思い上がりからは免れていた。その解明は、思索者が、かつて言われたことのないこと、そして終結に 到る仕方では決して言

者に栄誉を贈ろうと試みるものである。

だがその解明は、次のことをも知っている、すなわち蔵言を前にして驚嘆しつつ引き下がることが発源し得るのは、予めこ 5

の 解 明 の 内 で 、 あ ら ゆ る 支 え と 補 助 と を 断 念 し 、 思 索 家 の 語 ら れ た 咸言にのみ答えるような純粋な思索が、来たるべきものに 墓づいて目覚めているときに限られる、ということである。

かの解明は、真有の真性は次のような守りつつある人間を必要としている、という知に安らう、すなわちその人間とは、真

4 1 4

§8/第 3編(論理学)

それらに従って思索され

有に適う自性をもち、真有とともに彼の本質を始め、かつ覆蔵し、真有とともに待ち、かつ合図し、真有とともに沈黙し、か つ語るところの守りつつある人間のことである。

A6ros ﹀の元初において未展開な本質が、

かの解明は、性起に心を向けることの内に安らう。

ロゴス︿

2郎

r g﹀は拾集、拾集すること、収集‘収集することである。

なくてはならないところの指示と見地との総括。有の真性と形而上学的思 索の歴運 ロゴス︿ L令g﹀、レゲイン︿

して、また認取可能なものとして︶匿われたままであるような仕方においてである。

4 拾集することは匿われたものへと向かって行く、しかもそれが非覆蔵なものとして︵そしてそれ故に接近可能なものと

自らの滞留をそこに持つ保有の内から輝き出るようなものである。

3 拾集することは、自らにおいて予め、次のようなものを臨在させることへと向かって行く、つまり次のようなものとは

る滞留するものがいつでも用立てできるままに留まる。

2 拾集すること︵収集すること︶において根本的決定的なことは保存することであり、かくして保存することによって或



b)

5 非覆蔵なものそのものから︵非覆蔵なものに帰属し、 そ れ 故 に 必 要 欠 く べ か ら ざ る 非 覆 蔵 性 と 匿 う こ と と か ら ︶ レ ゲ

415

3 7 8

﹀の本質は規定される。 イン︿ inhree

6 すべて﹁拾集すること﹂は﹁有るもの﹂へ向かって行くことをわれわれが熟思するとき、非覆蔵性︿とぷ寄ミ﹀に発す 、、、、 しかしながらわれわれがこのことを思索するのは、われわれがこの i応 ﹀のこの本質起源は明らかになる。 rce



かつギリシア的な意味でのレゲイン︿ irgも へ の 関 聯 に お い て 思 索 す る と き で

るレゲイン︿ ﹁有るもの﹂というなじみ深い語を思索し、

I在するもの、非覆蔵性の内へと入り来たって立つもの、非覆蔵性の内に庇護さ

2郎

r g﹀に

ある、つまり有るものとは、自らの内から臨 れ、保有され、匿われ、収集されるものである。

われわれが拾集さるべきもの、拾集可能なものの本質︵﹁有るもの﹂︶を追思するならば、 それだけでレゲイン︿

7 より慎重にかつより判然と思索されるならば、非覆蔵性の内へと入り来たって立つものとしての有るものは、すでに、

属するその本質を正しく把握するのに充分である。

9

非覆蔵性の内へと立ち現われ、だが同時にまたその内である仕方において匿われないままであるところのものである。︵光は

照明されるものの世話を引き受け、それを賠黒化と隠蔽化に対抗して出現へともたらす。だが同時に光は照明されたものを放

2

伽‘

棄する。立ち現われたものは非覆蔵性の内へと匿われなくてはならない。これはどのようにして起こるのか。そもそも露現と

2郎

r g、﹀を心要とする。有はそのことで人間に依存するものとなるのではないか、もしもレゲイン︿

しての非覆蔵性が匿うことができるのか。そしてどこへ向かって、かつどのように。

8 有はレゲイン︿

r g ﹀が人間のなす﹁人間的なもの﹂であるとするならば。 2



r g﹀を必要とするのは、それ、つまり有が非依存的なものであるが故だとしたらどうたるであろうか。もし

ここで﹁依存性﹂とは何を意味するのか、が問われなくてはならない。この依存性は有の品位を落とすことなのか。もしも 有がレゲイン︿

416

し た が っ て 収 集 す る も の ー ー ロ ゴ ス ◇ 苓g﹀である、という点に。



有がそれを必要とするのは、 そ の 非 依 存 性

も有のこの依存性の本質が次の点に基づくとしたら、どうであろうか、つまり有ほ根源的に一切を匿うもの、したがって拾集 するもの、

2

r g﹀を要する。

し か も 彼 は 同 時 に ロ ゴ ス ︿ASg﹀ は 何 で あ る

一切の関聯が有るものの領域におけるとは全く異なるような、そのような境域︵真有

有 は ロ ゴ ス ︿A令g﹀であるが故に、 そ れ は レ ゲ イ ン ︿

を守るためである。ここでわれわれは、 の真性の境域︶の中で思索しているのである。

篤言五0 でヘラクレイトスは、 有 は ロ ゴ ス ︿ A令g﹀であると言う、

I集 で あ る 。 そ れ は 一 切 を 露 現 と 覆 蔵 と の あ れ か

I思することを遂行し、

一切の我欲的なものに先ん

語り出されたことのない人間本質を予め思索し得るのは追思する者としてに限られる。われわれはもっばら予め思索する者と

われわれがわれわれの固有の、そしてその後長らく忘れ去られてしまった人間本質、しかもそもそも未だ決してことさらに

じて、元初に言い現わされたことを熟思することが課せられている。

れわれの有にわれわれを接合するだけの畏怖の念を持っているならば、追

I思 す る 者 で あ る 。 わ れ わ れ に は 、 も し も わ れ わ れ が 歴 史 的 な 人 間 と し て こ の わ

有 は 或 る 思 索 す る 厳 言 の 中 で ロ ゴ ス ︿ A令g﹀として語り出される。われわれは、一体われわれがわれわれの本質におい

lこ れ か の 内 へ と 匿 う と こ ろ の か の 取 り 上 げ つ つ 匿 う こ と な の で あ る 。

もので有らしめる、という仕方においてである。この匿うことは根源的な結

合&苫a﹀ で あ る と 。 ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ は 有 る も の と し て の 一 切 を 匿 う の で あ る が 、 そ れ は 置 い つ つ 有 る も の を ひ と え に 有 る

か 、 を 言 い 現 わ し つ つ そ の こ と を 言 っ て い る 、 す な わ ち ︳ ︿tて ﹀ で あ り 、 そ し て か く な る も の と し て そ れ は 同 時 に ま た 一 切

1 0 1 1

て、歴史的にわれわれ自身で有るならば、追

3 8 0

してのみ、かの篤言に注意深くなることができるのであり、かの篤言に対して慎璽のままであり得るのである。

417



§8/第 3編(論理学)

1 2 た と え 遠 く か ら で あ ろ う と も ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ を 真 有 の 本 質 と し て 予 感 す る こ と の で き る 者 だ け が 、 次 の こ と を 認 識

する、つまりそのようなものと考えられたとき、有は、われわれになじみ深い概念によって今日のわれわれにとっては疎遠で

あり、把握しがたいのだと。 だ が 何 よ り も ま ず ひ と は 容 易 に 次 の よ う な 逃 げ 道 に 陥 っ て し ま う で あ ろ う 、 すなわちレゲイン

て﹀は人間の振舞として引き入れられ、その標識として、有の上に引き移される点で、有をロゴス︿ Adros ﹀と解釈する ︿2nhreg ことは有の人間化であると。だがここではまだ次の問いが問われなくてはならない。

2r 郎 gt



さ﹀が、有の引き移し可能な標識として役立つという優位を獲得するのか。 何 故 ほ か な ら ぬ レ ゲ イ ン ︿ 2 rc 、 、 1 有︺に引き移され得るためには、有そのものは如何なる仕方で予め与え へ﹀ が そ の 標 識 と し て そ れ ︹ 1 レゲイン︿

ASg﹀になるために、

1 1 有︺がこのようにしてロゴス︿

お更なる標識の引き移しを必要とするのか。 それ︹

とはどのような見地においても不可能である。

2



r g﹀を有の上にこのように引き移すこ

*1

g ︿ ﹀として

へて﹀が有に呼応する。 有 と 人 間 本 質 と の 間 の 関 わ り 合 2r 郎 e

ピ月

r gg﹀として明るくされているかぎ

人 間 の 人 間 的 な も の の 内 で の 匿 う こ と を 要 請 す る 。 だが有が元初において︳

り、匿うことの唯一可能な人間の関聯および遂行としてレゲイン︿

明 る く さ れ 、 か く し て 未 展 開 な 仕 方 で ロ ゴ ス ︿ A令 os ﹀として、つまりは一即一切︿

3 8 1舞の︺方面として明るくされた、

引き移すことは必要とはしない、そうではなく有は、いずれの振舞に対しても予めすでに、そして本質上先立って、その︹"振

有は他所から借用されてくるような、そしてその実それ︹"有︺によってすでに規定されている標識を自分自身の上に

レゲイン︿

けられているならば、そしてそれらのことは明らかなことであるが、そうだとすると何のためにそれ︹"有︺はその上な

だが有そのものが予めすでに思索され、そしてかくして有として明るくされ、そしてかくして識別可能であり、標識づ

られているのか。

b ) a ) c ) d)

1 3

418

学 理 論

いに関してそもそも引き移しが問題にされ得るとしたら、それは精々のところ、有の本質はそれ︹"有︺に対する人間的振舞

レゲイン︿

2



r g﹀を差

の相応しい仕方への引き移しが問題にされ得るだけである。だがここにはどこにも引き移しなどはない。有は人間本質を要請 するのであり、人間本質は人間の根本動向として︵つまり有の側から彼を要請する根本動向として︶

﹀と知︿ 00 唸、 7

a﹀とは、あらゆ

し出し、かつそれを一切の振舞を通して到る所に持ち出すことによって、人間的に応答するのである。それ故、アリストテレ スにとってさえなお、たとえすでに或る逸脱した形式においてではあれ、あらゆる学︿如r ミ " 苓 ﹀と実践︿mpa5ら﹀とは、到る所でロゴスニシタガッテ︿ PC"d2 る創作︿ roi7ミ S 令g﹀ある。

だが人間への有の関聯において、呼び要めと応答とはいかなる点で統べているのか。それらはすでに、方面がかの会域

を開くことと、それに対する応答との根源的な閃わり合いについての、語と言い現わしから吸み取られた規定ではないのか。

そのとおりである。だがさらに今名づけられたことは、より慎重に追思する仕方で先取りする思惟に対してはじめて‘言い現

わしへと開かれる境域を指示している。この合図に順い得るためには、まずわれわれの思索は長らくなじんで固定化した視界

から脱してしまっていなくてはならない、つまりその視界は人間本質に対する有の関聯を︵そして有るものである人間に対す

る有るものの関わり合いだけではなく︶追思しようとする一切の思索に枷をはめているのであるが、その制約はとり分け枷が 枷として見えてこないということでもたらされる。

I客観 I関 係 に よ っ て 画 さ れ た 視 界 の 内

われわれの表象作用が、有に対する人間の関聯︵つまりは人間への有の関聯はすぐにこのような逆転の内で把捉されて

しまうのであるが︶を思索すべきはずのものだとしても、われわれの表象作用は主観

編 2

1 1 有︺自身は主

観からすれば単なる﹁客観﹂もしくは精々のところ︵カントに対しての場合のように︶客観を客観とする条件つまり客観性と

ならばまさに人間的なものそのものを規定しているところのもの、つまり人間に対する有の呼び要めとそれ︹

338に閉じ込められている。人間本質を主観として解釈することは人間の人間たるところを根源的に経験することを妨げる、なぜ 第

8

§

419

1 4 1 5

して考えられ得るにとどまるからである。

人間本質に対する有の関聯は、同様にそれと︱つに関聯それ自体は、有の真性としてまた人間の現有として、関係性の

2応

i郎

r g﹀が早くから﹁言う﹂︵物がたる、等々︶を意味することは言葉と言い現わしとが拾集と同じく根源

i応

r g )﹀が言い現わしと

﹀はすでにその根源において﹁言い現わす﹂をも意味している、ということである。

2応 ree

へて﹀になったか、との問いもおそらくすでに ﹀が如何にして言い現わしとしてのレゲイン︿ i 応rc

2応 rce

I取するところの関聯である。このような有を黙して I語らぬことは、有るものについて根源的に言

r g﹀は根源的に沈黙である。沈黙の自制の内に、有るものに対する人間の一切の関わりが、それどころか人間と

﹀について妥当すること、つまりそれは根源的な収集として有を 神々とへのあらゆる関わり合いが安らう。だがレゲイン︿ iOhrcgu

3 8 3レゲイン︿

は沈黙のうちに遂行されるだけではなく、それは、そしてそれだけが自れを侍む沈黙の、自らの内に収集された収集なのである。



﹀ て根源的に自己を収集することとして統べる、そしてまたその逆でもある。置いつつ拾集することとしてのレゲイン︿ i ree

響きとなって知られるところのあらゆる語がその内で揺れ動く最初の返答である。黙して語らぬことは人問本質が有へ向かっ

い現わし、名づけることであり、有の方面に応答する根源的な言葉であり、言い現わしの内へ展開し、そして言葉の語において

のとしての有るものを認

において人問がまず沈黙しつつ、そしてその後もさらに沈黙を守りつつ有るものの有を、その有における有るものを、有るも

適切なものではない。有るものをそのようなものとして匿いつつ収集することは根源的にすでにかの関聯である、つまりそこ

収集としてのレゲイン︿

なったのか、その結果レゲイン︿

ち彼らにとって何故また如何にして根源的な収集︵非覆蔵性の内へと匿うこと︶としてのレゲイン︿

的な本質をもつことを示している。ギリシア人はおそらく次のことに思いをめぐらすことは決してなかったであろう、すなわ

レゲイン︿

と人間とを︺委ねわたすが故にであるが、そのような仕方での性起なのである。

内にある有と人間とをのり越えつつ、それというのも、予め覆蔵性とそれが統べることとを匿うこととしての真性の内へ︹有

1 6 1 7

4 2 0

匿いつつ黙して語らぬことだということは、

は根源的に匿い

I言︹Vor wort︺である。前 I ,

一層根源的にはロゴス︿ A令g﹀に妥当する。それ︹"ロゴス︺

つつ黙秘することであり、かかるものとして返答において言葉を語る一切の言い現わしへの前

一切の言葉の前言であ

言は言葉の本質に先んじて予め統べている静けさの沈黙であり、この静けさは言葉が有るべきものとなるためには、まず破ら

1 1 言葉︺よりも根源的であり、

l言 の 黙 せ る 呼 び 要 め で あ り 、 前 I言 が 人 間 に 有 を 黙 し つ つ 送 り つ け る 。 こ の 黙 せ る 送 り

れなくてはならない。 ロゴス︿ A令 og ﹀は言葉ではない。 そ れ は こ れ ︹ る。人間本質へのその呼び要めは前

I渡 し と 、 呼 び I要め

ロゴス︿ A令g﹀ は 自 ら を 人 間 に 黙 し つ つ 送 り つ け る 方 面 で あ る 、 つ ま り 端

つけをわれわれはもっばら不適切に、かつすでにものをいう言い現わしとしての人間的関聯から、言い と名づけている。もっと適切な言い方をすれば、

初を開くすべての合図と指示とを匿いつつ、自らの内に安らう遠い拡がりなのである。方面は自らを人間本質に黙しつつ送り

つけることによって、はじめて方面はそれ本来の静けさに回帰するのであり、かかる回帰としてそれは開けて保持された初め

への出離なのである。人間に自らを黙しつつ送りつける真有の真性、そしてそのようにして人間の人間たることをはじめて黙

I集 と し て 安 ら ぎ を 保 守 す る の で あ り 、 か か る 結 集 と し て 性 起 は 、 有 る

しつつ確保する真有の真性は、人間本質を回帰に向かっての収集の内へ呼び入れる、その収集において真有の真性は、かつて ありしものの静けさの内へと自らを願い、根源的な結

1 1ロゴス︺は言うこととし

I沈 黙 す る 本 質 か ら し て は じ め て 、 外 側 か ら 接 近 し て ロ ゴ ス ︿ 2 令

g﹀ を 眺 め る 考 察 で さ え

ものの一切を有るがままに安んじておくべく自ら性起する。だが本来的には既在のものが、来たるべきものとともに会域にお いて性起するのである。

rg、﹀の収集し

2応

見逃すことのほとんどできないことが、発源してくる。そうした考察が確認することとは、それ︹

学レゲイン︿ 理

C w

0 S寄 Oへ﹀ ﹀との表題の へS S と分割︿ 6[aipe0

下に、ロゴス︿ 2令g﹀ の 共 属 的 契 機 と し て 認 識 し て い る 、 し か も 開 け て 示 す 、 と い う 意 味 で の ﹁ 言 明 す る ﹂ ︹ ロ ゴ ス ︺ の 共 属

仕方は収集のもつまず最初に捕捉可能な標識である。アリストテレスは両者を総合︿

編 4 338て︵そこに破られた沈黙が覆蔵されている︶、取り纏め、より分ける、という仕方で収集する、ということである。この二つの 第

8

§

4 2 1

1 8

4 2 2

的契機として認識しているのである。言明が或ることについて或ることを言明することは、言明が予め或ることを或ることと

して呼び要めるときにのみ可能である。そこでは、或ることが或ることからより分けられ、しかもより分けられたものが呼び

ら﹀とは、言朋的ロゴス︿ idros 令ro℃ R{PC0

i郎

r g﹀の根源的本質のほのかな輝きはカントが思惟の本質を﹁私は結合する﹂として、

つまり私は収集す

aてえ k合﹀の構成の契機としてではないけれども、すでにプラトンによって見

要められたものとまさに一緒に取り纏められる、ということがある。ロゴス︿ 2eros﹀の両契機である総合︿尽忌gへS ﹀と分割 呈 ︹ ︺ 念 へ

て取られている。

レゲイン︿

質と根源とについては問いが発せられないままに、﹁統一﹂の内へと基づけられている。

元初的ロゴス︿ A念g﹀の鈍い輝きは、思惟の先験的概念になお見られ得るのであって、

この逆転は意志とその

真性の内へと先思する思惟にもとづいてはじめて、意志への意志として認められ得るところの意志の本質が覆蔵されている。

出現とに何の関わりを持つのか。有のこのようないまだ謎めいた意志の本質には同時に次のような意志の本質が、つまり有の

志 ﹂ ︵ ニ ー チ こ と し て 現 わ れ る 。 カヘの意志が逆転の逆転であることには何が秘められているのか。

3 8 5いては﹁生の否定への意志﹂︵ショペンハウアー︶として現われ、それはさらにもう一度逆転しつつ転倒を完了し、﹁力ヘの意

性、︵ラティオ、ロゴス︶は﹁生の﹂意志である。この意志はついで、有の非本質が思索家たちに無理強いした逆転の形にお

︵フィヒテ︶、精神の意志として︵ヘーゲル︶、愛の意志として︵シェリング︶考えられている。このような意志としては理

の思弁とにおける理性の本質の展開にとって覆蔵された根拠なのである。 理性は意志として︵カント︶、 行為の意志として

カソトの思惟と絶対的観念論

らの内で、カント的概念に従えば対象の対象性、つまりは有るものの有が思索されるのである。ここでもなお有が、統一の本

後いまや我思ウ︿ ego cogito ﹀の内に移し置かれてしまった根源的結集の諸々の仕方は、悟性概念としての範疇であり、それ

るとして捉えたときに彼が思惟の本質に与えた規定のうちにもなお透けて見える。結合の統一性の諸機能、つまりデカルト以

1 9 20

この意志への意志の内には元初的ロゴス︿ Adros ﹀に対する究極の完了した反対本質が透けて見える。意志への意志において

(1)

は元初的有の一切の本質が消滅してしまったかの観を呈する、それ故に近世の形而上学で考えられた有がもっばら意志として

解釈されることは奇異の念を抱かせもしよう︵真有の歴史を参照︶。ひとびとはすべてを﹁心理学的に﹂解釈し、心理学を *1, 、、、、 ﹁形而上学そのもの﹂と声高に宣する以外の方途を全く知らない。そしてそれにもかかわらず意志への意志に有の元初的本質

i6 応a•O忠 §5 芯 Prg〉 a とし

Iそこに I立て、前に l立 て る 、 と い う 仕 方 で 、 臨 在 性 、 臨 在 の 内 へ と 現 わ

og'全苓もから決定的にイデア、ウーシア、エネルゲイア〈

[M・ハイデッガー﹃ニーチェ﹄一九六一年、ネスケ社刊第二巻三九九頁以下参照°]

の痕跡をなお見出すためには、追思しつつ予め思索するほんのわずかの単純な歩みで足りる。 (1)

有は非覆蔵性ーピュシス怠ぶ

て規定される。そこにあることは、有は、自らを

れ行くことを意味しているということである。そこには次のことが含まれている、すなわち自らを'呈示すること、そしてそ

のことと︱つに、他のものを呈示すること、すなわち代表行為が含まれている。一切のもののうち、かつ一切のものに代って 本来的に有るものは、代表するものであり、代表者である。

I前 に ー 、 か

I貫 I徹 に 到 る ま で 統 一 的 な 本 質 上 の 連 関 が 通 っ て お り 、 そ の 連 関 の 展 開 に お い て は 意 志 的 な も

l齋 ら す こ と 、 自 己 を I貫 き l通すことである。自己を示す典 I型 的 な 視 覚 性 と し て 正 し く 理 解 さ れ た イ デ ア ︿ i8応さ>

これに従えば有は次のことをいう、すなわち自己を臨在性の内へ、決定的な臨在性の内へ齋らすこと、自己を つ貫き の本質から現に支配的な自己

学のがますます決定的に表面に現われてくる︵何故か、またいかなる点においてか︶。有の本質が主観性へと転換するとともに

I立て、そこで自己を、

一切の立てられたもの、立っているもの、確立しているものを支配するところのものとしてう

する。代表という営為は、自らを

I前に I立 て る こ と が 前 へ と 駆 り 立 て る 緊 迫 性 で あ り 、 同 時 に 、 そ こ に こ そ 代 表 が 維 持 さ れ

ち立てるのである。前に立てる意識の公開性の開けた場所で前方に出て、登場することが、臨在性の開けた場所の契機を凌駕

対して

理 ⑬ 3 8 6有 の 意 志 の 本 質 は 全 く 決 定 的 と な る 、 そ れ は 自 己 を I前に I立 て る こ と で あ る が 、 こ の こ と が 一 切 を 自 己 に 向 か っ て 、 自 己 に

3

編 第

8 §

4 2 3

2 1

る根拠もある。臨在性、および臨在性こそその内で一切の駆り立ての登場が統べるということは、唯一の営みを前にして或る

どうでもよいもののごとくに引き退がる。だがその営みも、営みが押し進め、常に新たに求める臨在がなかったならば、現に

1 1 有 ︺

ある営みとはならないであろう。実行上のこと、つまり行動が、到る所で優位を獲得するということは、一切の営みが立つも転

ぶもそこにかかっている臨在が忘却されることを言っているにすぎない。有は意志として統べることによって、それ︹ 自身の忘却がそれ自身によって生ぜしめられることを、いまだ人目につかぬままに証拠だてている。

1 1 意志への意志︺は反対意志的なもの︵この

意志は意志的になればなるほど、それだけ一層断乎として、自己を意志への意志として意志することとなる、というのふ、 あらゆる意志することは自己をー意志することであるからである。だがこれ︹

﹁反対﹂は何に由来するであろうか︶の産出へと駆り立てる、しかも次のような仕方でである、つまり意志への意志は到る所

で同一のことを意志するつまりそれは次のことを意志することである、すなわちこの同一のことは到るところで意志を営

みの極端な対立物の内へと追い立てるようになることを意志することであり、その極端な対立物は真実においては決して対立

物ではなく、単に意志された口実にすぎなく、この口実の庇護のもと同一のものが意志されるのである。意志への意志がこの *1

反対意志的な仮象の内へ自らを追い立てるや否や、それ︹"意志への意志︺は自分自身のために、無制約的な排他性の形で意

志することを意志する。有の忘却はかくして完了される、そして意志への意志は自らを眩惑して、ついには無制約的に盲目た らんと意志することとなる。

だが有は自己をこのような非本質に解き放つのであるが、このような解き放ちを許すことが可能なのは、有はその間にすで

3 8 7に、一切の意志の本質と先駆形式とからきっばりと分かれ、己れの真性の内へと回帰し始めてしまったからである。真有は静

かに向きを変えて明け開けを匿うことへと向かう、その明け開けの内へかつて今なお保有されているいつかのものが、人間本

質に唯一無比なる尊厳を端初的に贈るために、つまり真有の真性の守り手となるために、愛顧を授けるのである。

4 2 4

附加(論理学)



る OJ

*1 ︺

Z ︹u satz と名づけられて、

︹⋮⋮魂は、魂のロゴスそのものが︺レゲイン︿

講義原文に附加された部分である。

6で 0

この部分は原本

ざ rct ℃﹀である、つまり人間の﹁魂﹂すなわち取り入

g﹀において関係づけられている︹ところのものに向かって開かれている

*2

へて﹀は等シイモノヲ集メルコト︿

2 応re

1 1ロゴス︺はその "11ロゴス︺内へと外に向かって遠く指図するがために、

*3

末を見出すことは決してない。だが魂の行き方は大概そうしたものである。だが魂の進行はそのようであってもやはり一種の

際もっばら自身のうちから途上に就き、そしてその途をただ自身から、自らの考量にしたがって辿って行くとしたならば、結

自らを開きつつ立ち現われることである魂はその歩みを進めても結末を見出すことは決してない。すなわち魂が歩みを進める

はロゴス︿A令 0﹀ S の内へと指図する、すなわちそれ︹

っ‘‘つけにロゴス︿ Adros ﹀ に 聴 従 し な い 場 合 で も 、 そ の よ う に し て 規 定 さ れ る こ と に 変 り は な い 。 魂 令 品 f﹀のロゴス︿ i令 0﹀ S

こそ持っているかの収集なのである。人間本質が﹁持っている﹂ロゴス︿ 2dros ﹀の深みは、その深みが注意深く耳を傾け、かつ属 、、、、、 しているロゴス︿AS。も﹁そのものの﹂遠さと覆蔵とから規定される、たとえその人間のロゴスの深みがことさらにそして立て

﹀に向かって自らを収集する限りにおいて、その根本動向をそこに れつつ外に取り出すことが、収集する魂としてロゴス︿ Adros

のである。︺だがこのレゲイン︿

2r 応

の 二 八 二 頁 最 後 の 行 ﹁ 魂 の ロ ゴ ス ︿ 2令g﹀ そ の も の が ﹂ を 継 承 す べ く 講 義 原 稿 と は 別 に 纏 め ら れ て あ っ た も の で あ

[以下は本巻の監修者により附加



レゲイン︿ inhrg ﹀ つ ま り 収 集 と 取 り 入 れ で あ る だ が そ れ は 魂 の 独 自 な 遠 く 指 図 す る ロ ゴ ス ︿ idros ﹀から起こることではな

4 2 5

3 9 1

も﹀であり得るのは、魂が自身の内か い。すなわちこれ︹ 11ロ ゴ ス ︺ が 本 来 の も の 、 つ ま り 等 シ イ モ ノ ヲ 集 メ ル コ ト ︿ 6百oざ rct 、、、、 らそれ自身の途を進むのではなく、ロゴス︿ A令g﹀ に 向 か っ て 注 意 深 く 傾 聴 す る と き だ け で あ る 。 魂 が こ の こ と を 、 一 体 に こ

﹀﹂が認取可能でなくてはならない、しかも他の の こ と を 為 し 得 る は ず の も の と す る な ら ば 、 い う ま で も な く ﹁ ロ ゴ ス ︿ Adros 、、、、 一切に先んじてそうでなくてはならない。 ロゴス︿ A令 0﹀ S はさまざまなヘラクレイトスの篤言に徴してもそのようなもので

﹀は て ﹀ に と っ て 、 そ こ へ と 注 意 深 く 耳 を 傾 け る こ と が 大 切 と さ れ る ロ ゴ ス ︿ Adros あ る 。 等 シ イ モ ノ ヲ 集 メ ル コ ト ︿ 6百02Orct

その他の一切の﹁近き﹂もの、近く把捉可能であり、そして理解しうるものと見倣されているものよりも、さらに身近であり認

﹀のこの不思議な近さはまさに次のよ ロゴス︿ Adros

﹀のこの極度に近い近さは、その︹"ロゴス︺前ではいかなる人間も覆蔵の 取できるものである。しかしながらロゴス︿ A令 os 内にはあり得ない︵断片一六を参照︶ということを伴うものであるが、 ︹ 店 ︺

﹀から離反してしまうこと、それどころか人間たちにとって彼らの う な 帰 結 を も た ら す 、 す な わ ち 人 間 た ち は ロ ゴ ス ︿ A令 og

日々をしてはじめて﹁聖なる時間﹂たらしめるもっとも日常的なものがあくまでも疎遠なものであり続ける、という帰結を伴

3 9 2う 。 ロ ゴ ス ︿ Aさ を ﹀ は も っ と も 認 取 さ れ や す い も の で あ り 、 だ が そ れ に も か か わ ら ず 認 取 さ れ る こ と も っ と も 少 な く 、 他 の

事 柄 に 忙 殺 さ れ て 聴 き の が さ れ て し ま う 。 ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ は 根 源 的 に 収 集 す る も の で あ り 、 自 ら の 内 に 安 ら う 結 集 で あ り 、

﹀をどのように﹁持っ﹂ている そしてそれにもかかわらず人問本質の奇妙な散漫さに出会う。 人 間 の 魂 が そ の ロ ゴ ス ︿ idros

か 、 そ し て そ れ に よ っ て ロ ゴ ス ︿ A S g﹀ へ の 関 聯 の 内 に ど の よ う に 留 ま っ て い る か 、 そ の 仕 方 は 、 一 切 の 心 の 向 か う 所 に 逆

じまなくてはならない尋常ではない事柄の徴である。このことを語っているのが、断片七二として伝えられる蔵言である。

らう類のことであり、奇異な思いを抱かせるものである。だがこの奇異なことは人間が立てつづけに、かつその都度新たにな

不 断 二 交 渉 ス ル コ ト ノ 最 モ 多 イ モ ノ デ ア ル ロ ゴ ス ニ 対 シ テ 、 彼 ラ ハ 仲 違 イ ヲ ジ テ イ ル 。 マタ毎日ブッカッテイルモノガ‘ ︹ 哭 ︺

へ `

o g 8ぶ 彼 ラ ニ ハ 見 知 ラ ヌ ヨ ソ ノ モ ノ ト 見 ニ ル ノ ダ 。 ︿ 思 冷 {2へ ヘ ミ 念 p g g 9ga o{s " 0geへ 6 て gets6 哀 2050へ 2令 e [。 g0 ぷ租 pau5rEupo5 食 g 5 g a 5 3勾 念 苫 哀 さ e gへ.﹀

426

﹁彼らがそれに向かってもっとも多く、それを担い通しつつ向かい合っているもの、ロゴス︿ASg﹀、まさにそのもの

と彼らは仲違いをする。そして彼らが日毎にぶつかっているもの、それが彼らには見知らぬよそものに見える。﹂

へ怠 pge〉であり、 6へg 7ぼ忌 SI6

の最初の意味は、 通して、

6S

へ念 P災て離れて持ちこたえる

の期間ずっと、 或る時間を貫通し

厳言の前半は、同一の語が二回、しかし対立する意味で用いられており、真似のできない語の遊戯を含んでいる、それは担 イ通シッツ—ー仲違イスル〈き

分割する、のでは決してないが、不和にする、である。

て、ずっと担う、 担い通す、でありーー iへ 8 応のもう︱つの意味は﹁別々に割れて﹂であり││' 1

人問の計算と行動はもっとも近きものと﹁近み﹂とを次の次に近いものの内に認めるのであって、彼の意志はこの次の次に

近いものを目標とする。本来の近みは人間の歩みの途上で黙過されてしまう。それゆえこのような歩みがあらゆる途を辿ろう

とも、自由な広い場所に達することもなければ、その歩みが覆蔵された仕方でそれに向かって収集されたままでいるところ

のものに到る結末に達することもなく、狭陰さと、自らが作りなした制約の狭陰さと錯綜とに突き当たる。それゆえ人間本質

がもつ立ち現われる所、根源的に自らを明らめる明け開けの内へと入り来たるものは、静かな明るさではなく、燃えさかりも

そのことに関してヘラクレイトスは断片四三で語って

ざ tfrupka へ 苓 ・ ﹀ Xpi39g 芯芦へさ di

g逹p ら﹀なのである。

のを焦がす火炎である、すなわち専制的にかつ我力的に途を測定することに熱中するかの焦眉の急であり、だがそれは常に自 つまり高慢︿

︹ 尭 ︺

破壊的な火災はすでにいずれも、高慢のかの燃焼の結果にすぎない。火事の鎮火とともに高慢が抹殺されてしまいはしない、

﹁高慢は大火事よりも速やかに消し去らねばならない﹂。

高慢ノ情ヲ消スコトハ、火事ヲ消ス以上ノ急務ダ。︿ g 送苔

いる。

3 9 3己の測り間違い、身のほど知らず、

附 加(論理学)

それどころか対処の手だてさえ立てられていないし、考慮さえ払われてはいない。高慢の消失はロゴス︿ A令 os ﹀への注意深

い傾聴によってはじめてなされる。この傾聴のあるときに、本来的な知—|d "ooPdお )よびそれと共にその内で知らるべき

こと、知られたことが明らかとなる。本来的な知の独自性と知るべきこととを正しく認識することは、多芸で巧みに考案する

人問にとってむつかしい、否もっともむつかしいことである。このことに関しては多くのことが言われもし為されてもきた。 そのことに関聯してヘラクレイトスは次のように︵断片一〇八︶記している。

︹一︵

O︺

ドレダケ多クノ人クチノ話ヲワクシハ聞イタコトダロウ。シカシソノダレ一人トシテ、知ガアラュルモノノ外二全ク別

50" へ忌 u"eukexep へ 念 応 て og.﹀

忌 cS 応食 EetTaへ as ノモノトシテアルコトヲ認識スルトコロマデ来テイル者ハナイノダ。︿含念 eて i令 oogikouqa90

へ 芦 念 Eee6" g苛 こ 0 80"cr へoo 忘 て

﹁私は︵これまでに︶多くの人の言明を聴いたけれど、その誰ひとりとして、本来的な知とその内で知らるべぎことと が一切から外れた或るものであることを認識するところまでは達していない﹂。 *1

; が言い現わすところのものである、とわれわれは聴いてきた。このものはその場 だが知らるべきものとはロゴス︿ A令 o " 1ついて、つまり遠く指図するところの、ということ 、、、、 は ロ ゴ ス ヘ A令 os-> そのものへと向かって外に取り出すところのロゴスについてであることをわれわれは熟思しよう。この

へ て ﹀

2r 応 e

へて﹀が

2r 応c

﹀としてのこのロゴス︿ 2令g﹀は、レゲイン︿ ﹀、我力的で我欲的な魂ではなく、ロゴス︿ i令 os よ う な ロ ゴ ス 令 令 os

﹀である限りにおいて、そのレゲインによって一層豊かになる。レゲインヘ が等シイモノヲ集メルコト︿ d苫0Aorsl11

*1

﹀に向かって自己を収集し、その上に自らをこれ︹ロゴス︺に与え、それだけに耳を傾けるかぎりで 注意深くロゴス︿ A6ros

それは一層豊かになる。魂は歩みやすい途を放棄しなくてはならない、そして本来的な注意深い傾聴の唯一無比なる僅かなこ

とに向かって自己を貧しくしなくてはならない、そのときに、そしてそのときにのみその︹魂の︺ロゴス︿ i令 os ﹀は豊かにな

﹀に向かっての自己収集が一層豊かになることの本質は次の点になり立つ、 すなわち自己収集はこれ︹ロ る。ロゴス︿ A令 og

ゴス︺に傾聴しつつ、たえずそれ︹ロゴス︺に凌駕され、かくしてますます単純にかつ新たに、この凌駕するものの内へと外

に取り出しつつ、比類な含柔順さのままにこれ︹ロゴス︺に自己を順応させることを廿受する、ということである。

さらに魂についてのヘラクレイトスの最後の言葉に触れておきたい、というのもいまや立てつづけに挙げられた魂のロゴス

2応 r

︿︿﹀に呼応するこ 6 7 o ' i ' g﹀が﹁ロゴスそのもの﹂︿﹀﹀ dem A

も の 本 質 が あ る 等 ツ イ モ ノ ヲ 集 メ ル コ ト ︿ 6苫oiorct て﹀との間の関聯に純化した一 ﹀と、 そこにこそ賢キモノ︿ 00pd 令 dros 瞥を投ずることができるようにするためである。魂のレゲイン︿

とにおいて、本来的な知が有る。とすれば何時、そして如何なる魂が、知る者、かつ純粋に知る者そしてもっとも知る者であ

4 2 9

ヘラクレイトスは断片一︱八でそ

・ 7ka ∼念ぶ g.﹀ を xi00pe"令

57

る の か 、 ギ リ シ ア 語 で 表 わ せ ば モ ッ ト モ 賢 イ プ シ ュ ケ ー ︿ 唸uxi60℃egtg﹀であるのか。 のことを言っている。 苔 一 ︺

乾燥シタ魂ハ、コノ上ナク知デ、マタ最モスグレテイル。︿ミ

生気のぬけたものではなく、 澄ったもの

﹁冷静な魂はもっとも知っており、したがってもっとも高貴な心のものである﹂。

aS は﹁乾いた﹂である。だがそれはここでは干からびたもの、萎縮したもの、

3 9 5に 対 す る 乾 燥 で あ り 、 そ し て こ の 湿 っ た も の と は 卑 湿 な う っ と お し い も の 、 あ わ 立 ち 、 ひ た す ら 陶 酔 し た も の の こ と で あ る 。

冷 静 な 魂 は 、 傾 聴 す る ロ ゴ ス ︿ A令 0﹀ S の声によって清浄に調律された魂である。われわれはこの篤言から改めて、ギリシア

人が心の高貴さをどのように理解していたのかを認取する、すなわちそれは知に基づき、知から咲ぎ出る。人間の心の高貴さ

g 念へ 0gs苓﹀

は、合一する唯一無比なるものとして一切であるところの一者への根源的親縁性である。 そ れ 故 に ヘ ラ ク レ イ ト ス ︵ 断 片 四 九︶は次のように言うことができる。 冥 一 ︱ ︺

ワタジニハ‘一人デモ、最上ノ人ナラ、千万人二当タル。︿ c sざ。∼百念葵"虻 ﹁一人が私には一万人に当たる、もしも彼が心高貴な者であるなら﹂。

、、、、 高貴なるものの心は或る思索、否思索そのものたる知の内に安らう。思索は生であるだがどのような思索が。それは遠

ロゴス︿ 2令g﹀ に つ い て 語 る ヘ ラ ク レ イ ト ス の い く つ か の 歳 言 を 解 明 す べ く 試 み た 。

ヘラクレイ

く 指 図 す る ロ ゴ ス ︿ 裟 ros ﹀に滞留しつつ、それ︹ロゴス︺本来の深みから一層豊かになることに向かって、それ︹ロゴス︺ に従う思索である。 われわれはこれまで、

4 . J O



ト ス が ロ ゴ ス ︿ 2令g﹀なる語で何を思索していたのか、 われわれはいまや知っているであろうか。 わ れ わ れ は 若 干 の こ と を

︱つの定式にもたらすことができる、 と い っ た 仕 方 、 し か も そ う し た 種 類

知っており、そしてやはり何も知らない。とりわけわれわれは次のような仕方では知らない、すなわちヘラクレイトスのロゴ ス︿ 2令g﹀についての単なる知識を或る定義に、

の﹁知﹂を、つまり定義に適合した知をわれわれがもっとも厳密な知と見倣したく思うとしても、そのような仕方ではわれわ

れは何も知らないのである。だがおそらく或る事柄についてのこのような種類の知識は、単なる曖昧な感知および頼りない予 感と同様にそもそも知ではないであろう。

わ れ わ れ が ヘ ラ ク レ イ ト ス の ロ ゴ ス ︿ idros ﹀に向かって言われたことを大観してみれば、われわれは、すでにその最初にこ

6百 0

ざ rct て﹀も言うことであり、語ること

の語のもとで対面したと同じ不確実さの内に留まりつづけた。それはまず、言うことを意味することは明らかである、という のもそれは聴くことに関聯づけられているからである。 等 シ イ モ ノ ヲ 集 メ ル コ ト ︿

へて﹀は作ルコト︿ 2r 郎 e

応もと関連し︵断片一︱二︶、そし TO

で あ る が 、 す な わ ち そ れ は ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ の 内 に 認 取 さ れ 得 る も の に 注 意 し 、 そ れ に 従 い 、 耳 を 借 し 、 す な わ ち 呼 応 す る 、 そのような呼応という意味においてである。それゆえレゲイン︿

﹀ 3 9 6て 為 す こ と と は や は り 違 う ‘ 言 う こ と を 意 味 す る で あ ろ う 。 だ が 他 方 、 本 来 的 な ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ に つ い て 、 ロ ゴ ス ︿ Adros

︱つの、唯一の、統合するところの、合

I

すなわちそこでは統一

一するところのものである。

*1

そのものについては次のように言われる、すなわちそれに﹁呼応すること﹂は、一が一切である、と知ることを意味すると。 ロゴス︿ASg﹀は一切に対する一者、

i応 rc

へもなる語そのものが、 呼応

の﹀へのこの最高の指図に就いて離れないでいるのがおそらくよいであろう、 本 来 的 な ロ ゴ ス ︿ Adro 性と統一することとに、 拾 集 す る お よ び 収 集 す る と い う そ の 根 本 意 味 に お い て レ ゲ イ ン ︿

しているという指図である。われわれは脇見をしたり、 留 保 し た り し な い で ま っ す ぐ に 次 の こ と を 把 握 し 、 確 認 す べ き で な

かろうか、すなわちギリシア人、 な か ん ず く ギ リ シ ア 人 の 内 の 思 索 家 た ち は 語 と 言 と に お い て 思 索 し 、 そ し て 彼 ら が 最 高 の

5て月 g 苫 ae~てaへ〉に対

レゲイン︿ 2苓gも と ロ ゴ ス ︿ i令g﹀ と を 認 取 し て い る と い う こ と で あ る 。 われわれ自身、言う、 というレゲ

こ と を 敢 え て 言 お う と し た と こ ろ で は ま ず 確 実 に 、 純粋に呼応する語をー—つまり一ハ一切デアル〈 してはl

4 3 1

加(論理学)

イン︿ i

て﹀のもう一っ別の意味を最初の意味から思索するように試みるべ含ではないのか。 rcg



だがそのためには言うまで

このロゴス︿ A令g﹀ の も と で 或 る こ と を 難 な く す み や

わ れ わ れ は ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ を そ れ が 言 い 現 わ さ れ て い る と お り に 思 索 す る よ う に 試 み な く て

もなく次のことは避けられない、つまりわれわれは今や指図された関聯すべてに入り込んで思索し、同時に一切の旧来のもの を外して思索することである。 はならない。そしてその際われわれおよびわれわれの慣例的意図が、

かに表象することを一層容易にするために、予め裏口から何らかの霊的存在とか人格とか神とか摂理とか何かそのようなもの

をしのび込ませておいてはならない。このような到る所ですでに長らく行なわれてきた行動が一体真剣な思索であろうか。そ

2 応rc

へて﹀および﹁拾集﹂としてのロゴス︿ A令g﹀ と い う こ と で 何 か 充 分 に 確

れが一体言い現わされたことに対する傾聴であろうか。 たしかに﹁拾集すること﹂としてのレゲイン︿

2r 応 gt

へ﹀を外面的に、散在している事物をかき集め、つぎ合わす意味に容易に誤解させてしまう。か

定的で当てになるものを思索することはわれわれには困難である。とり分け﹁拾集すること﹂と拾集とを収集することとして 解明することはレゲイン︿ 郎

1 1﹁収集する﹂をあまりにも外面的に、あ

く し て レ ゲ イ ン ︿ 2 r g﹀ と ロ ゴ ス ◇16ros﹀ と は 単 な る 事 後 的 な 採 集 と い う 致 命 的 な 特 徴 を 帯 び る こ と と な る 。 そ の よ う な 、、、、 ことがロゴス︿ A令g﹀ の 本 質 そ の も の と し て 通 用 し 得 る で あ ろ う か 、 一 切 の も の が そ の 統 一 性 に お い て そ の ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ 3 9 7に よ っ て 規 定 さ れ つ づ け る 筈 な の に 。 明 ら か に 重 要 な こ と は わ れ わ れ が ﹁ 拾 集 す る ﹂

まりにも表面的に、あまりにも空虚に受け取らないことである。狭義における﹁拾集すること﹂つまり文字の﹁拾いつつ読む *1

こと﹂と記号の﹁読み取り﹂とは決して字母のかき集めと羅列ではないし、その由来と経過は分からぬままにやがて﹁意味﹂ が負わされる単語へと複合することでも決してない。

あるいは自身収集されたものであって、われ

*2

︺とは。書きつけられた ︵一体何なのか、拾い読むこと︹ Lesung ︺は、例えばまた﹁拾いつつ読みあげる講義﹂︹ Vorlesung *3

も の の 単 な る 読 み 取 り 、 書 か れ た 文 字 記 号 の 羅 列 的 か き 集 め に す ぎ な い の かl

われを収集に齋らすところの収集、収集に齋らさんと試みるところの収集なのか。︹単語は同じであっても、真の︺収集と講義

とは同じであるわけではなく、そして単に惰性でこれ︹講義︺を行なっている多くの者がそのことを理解せず、その結果週に幾

432

度か拾い読み集められたものをいとも手がるに再び読みあげ、注ぎ出し、何も知らぬ学生たちを驚かせることができるのであ

る。講義︹それが文字通りの︺拾集‘収集であることもあろう、だがそのときでも終業のベルが﹁鳴る﹂とすぐにも気散じが、 多分それは映画ででもあろうが、人々の注目を集める。︶

文字のこの上なく外面的な把握と認取にしたところですでに或る全く異なることであり、もしも自らを示すものと示すこと

とがすでに経験され、われわれに対して予め用意されていなかったとするならば、それ︹文字の把握と認取︺が真実において

そうであるものとは決してなり得ないであろう。この予め用意されているものがわれわれに助言し、記号を認取させるのであ

落穂を拾集する、ブドゥを拾集する、 薪を拾集する、の謂である。 拾集するこ

一体どのようにしてわれわれのもとに達することができようか。

Iのなさ、かかる方策の欠如は、もし予め何らかの方策と備えの

るが、それはわれわれがその記号を全く理解できず、助けもなくその前に仔むときでもそうであり、そればかりかそのような ときにこそもっとも直接的にそうなのである。だがこの方策

i応

r g﹀とは﹁拾集すること﹂、

︺とがわれわれに与えられていなかったとしたら、 策︹ Vorrat レゲイン︿

とをわれわれは、ただ外から見られた手の活動だけに限らないでさらにその先まで一度考えてみよう。まず手の不思議は脇に

置いて、ひたすら次の点に注意しよう、すなわち拾集は取り込み、しまうという意味で収集することだ、という点である。こ

︺を用意する。拾集は事後的に、たくわえの結果はじめて行なわれるのではなく、その根本に のような拾集はたくわえ︹ Vorrat

ておかない。拾集は救護である。拾集は収集であり、つまり取り込むこととしまうこととによってすでに到る所で導かれ、支 *1

えられるような外に取り出すことである。拾集は自らを示すものを救護することである、たくわえの中へと救護し、運ぶこと

である。たくわえに向かって、一切の正しい収集は自らすでに収集されてある、すなわちその恒常性と入念さとの統一性の内 *2*3

へと、自らにおいてかつ自らの内から収集され、共属しているものに向かって調律されてある。収集は運び集め、まとめてお

一体ひとは自らがそれ自体において収集されたものに向かって収集されたままでいないと

くことであるが、それは外面的、事後的にではない。牧人は家畜の群を収集する。家畜の群は決していがみ合う集団ではない し、牧人は警祭官ではない。収集、

433

3 9 8おいてはたくわえの保存に向かって進んで行く。したがって正しい拾集は何物をも漏らさないし、何物をも亡びるままにはし

附 加(論理学)



ソレハモノノ本来二即シテノ理解ニモトヅク。︿ミa 00℃ぶ

i ) )﹀が言うことと為すこと︵言葉と行為︶として把握されて gへe

4 3 4

したら、如何に取り纏め、収集しようとするであろうか。もしもあらゆるたくわえに先んじて自らの内に収集と拾集とを自ら

に向かって収集して備え持つところの唯一なるものがなかったとしたら、純粋にして最高の収集がたとえどれほど遠方におい

てであろうと如何にして与えられるであろうか。われわれがこれらの見地で思索するならば、そのときには拾集と収集とは、 非本質にすぎない外面的なものから脱することになる。

ギリシアの思索家たちは、自分達の思索が現象ヲ救ウコト︿ミ。"災てえ a 食5令包J a﹀つまり自らを示すものの救護である、

と語っている。自らを示すものとはここでは、自らの内から臨在するもの、そして臨在するものとして非覆蔵なものの内へと

立ち現われるもの、および立ち現われたものを謂う。すなわち思索における﹁救護﹂とは、自らを示すものを取り込む、非覆

蔵性のうちに収集する、そして自らを示すものが非覆蔵性の内であらゆる場合にそなえとして有るようにする、ということを 郎

謂うのである。この救護は収集、拾集‘レゲイン︿ 2r ce﹀、つまり真ナルモノヲ集メル︿ 2rgtg ぉ 茎 芯 ﹀ 非 覆 蔵 な 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 るものを非覆蔵性の内へと取り込むことである。拾集、すなわち自らを示すもの、つまり記号を一なる非覆蔵性の内へと取り



冥 四 ︺

込むこと。 われわれはここでヘラクレイトスが、本来的な知であるソ゜ヒニ︿0 0支さ﹀がどこに存立するかをわれわれに言い現

’、 .s 応ざミまa25gt ミ aへm oへ災 t きa"a em a(OX2ぢ . e u 0 て へ

︵前掲三五九原書頁参照︶。

「そしてそのように本来的な知は、非覆蔵なものを

傾聴の内から、言いかつ為すところに存立する﹂。



g2reeg こ こ で は 真 ナ ル コ ト ヲ 言 イ カ ツ 為 ス 念 ぷo

— i ー自らの内から立ち現われつつ自らを示すものに沿いかつ応じた

智慧ガアルトイウノベ言行ニアヤマリガナイコトデ、

わしている厳言にいっとき立ち戻ろう。

3 9 9



いる。レゲイン︿

i70応a i



﹀ rce

﹀を﹁言うこと﹂と翻訳することで本質的なことが言い当てられたかどうかは、 われわれははっきり

ir 郎 ee

未決のままにしておいた。だがいまはそれが妥当でないことをわれわれは認識している。真実ヲ言ウコト全`

とは、単なる真なることよりも根源的なことを発言するを意味し、それは非覆蔵なものをそうしたものとしてまず取り込みつ

つ収集すること、そしてそのようにしてそれ︹非覆蔵なもの︺に向かって自うを収集すること、要するに、ここで考えらるべき

意味においての﹁拾集すること﹂を謂うのである。そのように考えられてはじめて、かの蔵言は、本来的な知と、知りつつ有

ることがどこに存立するかを言い現わすはずの厳言としての内容を持つこととなる。真なることを単に発言することは、たと

えそれがどれほど本質的なことであったとしても、いつもすでに事後的なことであり、真なることを発言することは、真なる

ことがすでに知の内に有るときに、そしてそこでのみそもそも可能なのである。だが知の内に真なるものが有るのは次のよう

な場合になってはじめてであり、またその場合に限られる、すなわちそれは自らを示すものがその非覆蔵性の内に救護され、

すなわち拾集され、そしてそのようにして一切の発言と完遂のためにそなえられた場合である。ところで本来的知は思索の内

に生じそして有る。いまやはじめてわれわれはヘラクレイトスのかの蔵言全体を追思することができる、ということはこれ

までに解明された部分の初めに前置されている言葉を一緒に考慮することができる。そこでは次のように言われる、思慮ス 、、、、 Jノ強味ニナル︿ TdミPoてetu 応pgiper 0T9. ﹀と。思索は最高の能力である⋮⋮思索そのもの、それはここで ルコトガ何ョ l ‘ へ

は後に形成される﹁論理学﹂の意味で思索されるのではなく、思いを向けること、我が身にかえって思いを致すこととしての

i応re〉 e への自己収集である。人間は思索する者であるが故に、人間の本質には自分自身

︹ 歪 ︺

への回帰と帰還とが属していることをヘラクレイトスもすでに知っていた︵断片一︱六︶。

思索‘つまりは収集'~レゲイン〈

Poてelv.﹀

苫 へ

a 人間ニハ誰ニモ、自己ヲ忘レズ、正気ヲ保ツコトガ許サレテイル。︿もミ pgroへ0へ 梵toへP埒 e0Tヽr gokeへu笛 g o苫 E

念 念

﹁ひとり人間にだけ自己自身を認識し、 そしてすなわち知りつつ思索する持ち分がある﹂。 思 索 す る こ と ミ Pouctu は

435

加(論理学)

4 0 0ここではまだ後に形成される﹁論理学﹂の意味で謂われているのではない、

ir 郎 ee

2応

r g﹀はかろうじ

ロゴス︿ iosros ﹀は拾集す

論理学にとってはレゲイン︿

﹀の語は﹁拾集すること﹂と翻訳されて、 すでに別の重点を得ている。

て言明する、および唱える、を意味するだけである。 いまやレゲイン︿

る者、遠く外に出して救護しつつ取り込み、そして備えの策を守る者であり、その備えの策は一切に予め方策を与えることがで

ロゴス︿ AChros ﹀は根掠的な拾集者

gg を根源的に合一するものであるからであり、しかもそれは有る

きる、というのもこの備えの策はほかならぬ一切つまり月

ものとして有るということの唯一無比の統一性の内に向かって合一するからなのである。

であり、その拾集は、一切が何よりもまず己の時にあたって露現され、非覆蔵なものであり得るために、取り入れ、留保しつつ 1 、、、、* 一切をすでに救護してしまっている、そしてそのように救護し匿うのである。だが開けた I非 瑕 蔵 な 場 所 へ の 人 間 の 立 ち 現 わ

れである魂はロゴス〈 i令 g〉を持っている魂の立ち現われは外に取り出し—救護しつつ取り込むという仕方で統べてい

るのであり、 何 を 取 り 込 む か と 云 え ば 、 そ こ へ と 魂 が そ の い や 果 て の 結 末 に お い て ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ に 注 意 深 く 傾 聴 し つ つ 出

掛けて行ったところのものであり、そこにおいては魂はこの拾集によってくつろいで有るようなそうしたものを取り込むので ある。

ここでおそらくわれわれは、われわれに伝えられたヘラクレイトスの断片収集の初めに置かれ、一番、一一番に算えられてい

5, 1407b,

i0 の論評によればヘラクレイトスの著作の冒頭を含む。われわれは

る一︱つの篤言を少なくとも指示すべく試みることが許されよう。 一番の断片はアリストテレス (Rhet.I I I

最初の文の解明に限ろうと思うが、それはアリストテレス前掲書に出る最古の伝承と︹最初の文の︺後半部についてはセクス トス・エムペイリコスに依拠するのであるが、次のようである。



s " O S

3

∼ぷ吝 e gへ文苫苫aへ合忌 Poroヘ ミa 応c



pdミOcて

コトワリハ、コノ通リノモノトシテ、ツネニアルノダケレドモ、人問ドモハコレガワカラナイコトニナル、コレヲ聞カ

︹き*

ナカッタ以前モ、一度コレヲ聞イテカラモ。︿ g52drgg569

4 3 6



加(論理学)

f

a、 g [

応ミ 0 5ミ

芍 gxggge3 ピ.

応ミ 0

﹀への関聯においては、それはここで思索される唯一のもので絶えず臨在しているのだが、人間たちは ﹁ロゴス︿ Adros

︵自らの内から彼らのはかなく移ろいやすい途の上をただ︶次のような所に到る、すなわち彼らはそれを取り纏めること

がない、彼らがそれをことさらに認取してしまう以前にも、取り纏めることがなければ、またすでに聴いてしまった後に も、取り纏めることがない﹂。

冥 竺 ︺

この文章の互いに背馳する解釈を解明することにはわれわれは入り込まぬことにしょう。だが通例の支持し難い見解は次の

﹀とは思索家ヘラクレイトス固有の後続する言表だけを意味する、 と 見 倣 す 見 解 ようなものである、 すなわちロゴス︿ Adros

{ をワカラナイ企食苫 で あ る 。 そ れ に 応 じ て 絶 ニ ズ 念 e﹀ g へ﹀にかけ、ヘラクレイトスはその著作を次のような確認で初めて

いると解している、すなわち﹁ここに呈示する私のこの教説を理解するには人々はいつも余りに愚かにすぎよう﹂というので

﹀に耳を傾けることが重要なのだと力をこ ある。最初に挙げられた断片五0 に よ れ ば 、 彼 の 話 し に で は な く 、 ロ ゴ ス ︿ Adros

めて語る思索家が大学の先生ばりの虚栄にみちたそのような文章でその著作を初めるなどと信ずることは‘断わるまでもなく

﹁解釈者たち﹂の愚かな見解にすぎない。ヘラクレイトスに固有な思索の仕方と言い現わし方とについてごくわずかの知識さ

え あ れ ば 、 す で に 初 め の 数 語 が 名 づ け て い る の は 、 ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ と た だ 我 欲 的 に す ぎ な い 人 間 た ち の 振 舞 と 能 力 と の 間 の

対抗的なことだ、ということは直ちに見て取ることができる。応図﹁絶えず﹂は若きニーチェも、プラトン以前の哲学者たち

についての彼のバーゼルでの講義︵全集第一九巻一七二頁︶で正しく見抜いていたように有ルモノノ︿忠苔g﹀に属する。ただ *1

しその意味は単に﹁存続する﹂︵ニーチェ︶ではなく﹁臨在する﹂、臨在しつつ拾集として拾集することに自己をゆだねる、で *2*3

あ る 。 ロ ゴ ス ︿ASg﹀ は そ の よ う に 絶 え ず 臨 在 す る 、 そ れ に 対 し て 人 間 た ち は 成 ル ︿r i g苫aへ﹀、つまり彼らは彼らの移ろい

や す い 途 の 上 を 自 ら の 内 か ら 進 ん で 無 理 解 ナ 者 食 ふ さ 図 ミ ﹀ そ の も の と し て 漂 泊 す る に 到 る 、 彼 ら に は 纏 メ ル コ ト ︿ 6U cて﹀ t へ て 取り纏めること、つまり自らにおいて根源的に︱つにして統合する拾集として根源的な収集であるところの が欠けているi

437

4 0 1

*1

も の が 。 ロ ゴ ス ︿ A令g﹀の拾集という根源的な収集と、経験しつつかつ傾聴しながら追随しつつ取り纏めること、もしくは取

り纏めないこととが互いに対峙されている。われわれもなお次のような表現を知っている、すなわち或ることを取り纏められ

な い 、 そ れ 以 上 取 り 纏 め ら れ な い 、 と い う こ と は そ れ を 理 解 で き な い 、 つ い て 行 け な い 、 こ と で あ る 。 わ れ わ れ は ロ ゴ ス ︿ Ad. *2



A6r﹀ oを ~取 り 纏 め る こ と が な い 、 彼 ら が そ れ を こ と さ ら に 認 取 し て し ま う 以 前 に も 、

4 0 2箋 ﹀ と 纏 メ ル g ︿[ g﹀ と の 間 に ゆ ら ぐ 反 響 を 聴 き 出 し て 、 ロ ゴ ス ︿ A令g﹀の人間に対する謎めいた関聯および人間のロ ゴ ス ︿ A令g﹀ に 対 す る 謎 め い た 関 聯 を た だ ち に と く と 把 握 し な く て は な ら な い 。 す な わ ち ヘ ラ ク レ イ ト ス は い か な る 点 で 言

︹六八︺

うことができるのか、人間はロゴス〈

またすでに聴いてしまった後にも、と。いったい認取および認取完了以前に取り纏めることが可能なのか、そして取り纏めに

心が向けらるべきなのであろうか。そのようなことを想定することは勿論無意味である。ひとびとが次のことを見損うかぎり

言 う ま で も な く 無 意 味 な こ と で あ る 、 次 の こ と と は す な わ ち 人 間 が こ と さ ら に ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ に 耳 を 傾 け ろ 経 験 を す る 以 前

に 、 ロ ゴ ス ︿ A令g﹀ は 人 間 に 対 し す で に 臨 在 し 、 人 間 に 対 し 絶 え ず 拾 集 す べ く 自 ら を ゆ だ ね て い る 、 と い う 事 実 で あ る 。 し

か し な が ら す で に 解 明 さ れ た 断 片 七 二 に よ れ ば ロ ゴ ス ︿ Adros ﹀とは、人間たちがもっとも多くそれを絶えず担い通しつつ対

話をかわしつつあるものであり、日毎につき当たっているものであって││ーそれでいて把握しそこね、関わり合いそこねてい

るものである。ところでたとえロゴス︿ Adros ﹀がことさらに人間たちの聴き取りのためにもたらされているときにも、いまだ

人 間 た ち は ロ ゴ ス ︿AS 。s﹀に呼応する、ということはすなわちそれに固有な収集においてそれ︹ロゴス︺を取り纏めることが

できる、という保証はいささかも存しない。人間たちの耳に聞こえているとしても、彼らが聞こえたものに耳を傾け、それに 向かって注意深く自己を収集する、という保証はない。

t ︱ハ一切デアル︿5

礼応

xae tミ ﹀ か ら 締 め 出 す の だ 、 と 言

ヘラクレイトスはここで、人間たちがそれを思索するには愚鈍にすぎる、と告知しょうとしているわけでは決してない。彼 は ま た 、 人 間 た ち の 愚 か さ が 人 間 た ち を ロ ゴ ス ︿ A令g﹀から、

いたいわけでもない。むしろ彼が言いたいことは、人間たちはその賢明さによって、我意によって、そして性急な利己的知っ

た か ぶ り に よ っ て 、 そ し て 自 分 自 身 に 対 す る 執 着 に よ っ て ロ ゴ ス ︿ A令g﹀から離反する、 と い う こ と で あ る 。 第 一 の 断 片 に

4 3 8

附 加(論理学)

*1

含まれる本来重要な他の文章は割愛して、ここには断片二を続けておこうと思う、それは以下のごとくである。

ダカラ、共通ナモノニハ従ワネバナラナイ、シカルニロゴスハ共通ナモノトシテアルニモカカワラズ、多クノヒトハ‘

ouoeoiTo2Lo dsiakaugNoてTesppd℃70g﹀

︹ 究 ︺

d8e grgod 自 分 ヒ ト リ ダ ケ ノ 私 的 ナ 思 慮 ヲ 持 ッ カ ノ ョ ウ ニ 生 キ テ イ ル 。 ︿ 6へ へ含恙へ Tooi 令 o u aぷ6Sos6goo へ gi



4 3 9

註︹西洋的思索の元初。ヘラクレイトス︺

N ietzsche, l。 • ニーチェ『ギリシア人の悲尉時代における哲学』の「序言」およびヘラクレイトスの哲学に関する論究箇所をV 参g照

0 四頁以下︶、

﹀ ﹀

9 8 2 ,S Bd. 5 4 : Parmenides. 1 .1 3 3 .

帰 118)' ﹃

an die Muse, d へ des Vaterlandes des Deut.h. an den >Engel

H (Stutgard) の最終連 ( W W ︹ 色甘 g芦 th︺ " Iく ヽ

例えば、ニウリビデス﹃タウリケのイビゲネイア﹄ (Iphigenia Taurica) ︱︱行を参照。 I

︿ ︿ . 1984, s 創文社版ハイデッガー全集第五三巻﹃ヘルダーリンの讚歌﹁イスター﹂﹄一 i . i l d e r l i n s Hymne Der Ister Bd. 5 3 :H . 87 f f . C

︹八︺ソボクンス﹃アンティゴネー﹄︱︱-=三行以下におけるコロスの語の解釈については、以下の諸講義を参照。 Gesamtausgabe. I I . Abt.

とも関連を持つ。 Vgl. Gesamtausgabe. I . Abt. Bd. 4 9 8 1 ,S : Erlauterungenzu Holderlins Dichtung. 1 .1 6 f t .

郷﹄ (Heimkunft) の 第 三 八 、 九0 、 九 一 行 (WW, IV, 108, 110)、さらにはソボクレスの悲劇への献詞の結びの言葉 (WW, V, 91)

schen ︺。この語は、ほかにヘルダーリンの悲歌﹃シュトゥットガルト﹄

︹七︺﹁⋮⋮ムーサ、すなわちドイツ人の祖国の﹁守護神﹂に﹂︹

.•.

︹六︺例えば、﹃ホメロス讚歌﹄ (Hymni Homerici) のなかの﹁アポロソ讚歌﹂一四行以下を参照。

et Latine. London 1 累を削除する。 9 6 9 . 竿すのテクストに従い、ここでは﹀﹀ "0

︹五] 全集版の本文では〉p 〉er て •e 〈〈と印刷されているが、 忌 u`Epg Nestle-Al dm ,Testamentum Graece Na on vu { ぷaf ざp悶 P[S

0頁以下。 ︹四] 該当箇所は、一︱︱-

︹ ︱ ︱ ] 一九四二/四一︱一年冬学期講義﹃バルメニデス﹄参照。 Vgl. Gesamtausgabe.I I . Abt. Bd. 54: Parmenides. 1982, S. 1 4 7 f t ・

標﹄、四四七ー四四九頁︶。

. M. 1 する。 Vgl. Gesamtausgabe. I 9 7 6 ,S 5 5 f . 創 .3 C 文社版ハイデッガー全集第九巻﹃道 . Abt. Bd. 9"Wegmarken. Frankfurt a

︹二︺以下、一 0頁の﹁⋮・・・つまり﹁神々は臨在している﹂のである。﹂まで、﹃ヒューマニズムに関する書簡﹄中の記述と逐語的にもほぽ対応

, 30,4 ,6 7 . W W (GroBoktavausgabe)X

︹ 一 ︺

訳 ︹ 九 ︺ 本 文 中 羞 grop ︿︿と印刷されているのは、﹀﹀ 8心rop9︿︿の誤植である。訂正する。 ︹一〇︺

4 4 1

註(西洋的思索の元初)



Heidegger, Gesamtausgabe.

指摘されているのは次の論文である。 F. Specht:Beitragezurgriechischen Grammatik. I i i r vergleichende i t s c h r i f tf n : Ne 5 9 (1932),S . 58ff.

1-172.

Bd. I .

については、すでに以下の著作に見ることができる。︹ Aristoteles] De

385)

88)

、﹃遣

7 と呼ばれた例は見出すことができな

、﹃善悪の彼岸﹄第六二節 (WW, V I I ,

などを挙げることができよう。本書二四九、二五五頁参照。

189)

は Dianaと同じく﹁輝く女神﹂の意味であるが、アルテミスがギリシアにおいて 4怠 て

、﹃力ヘの意志﹄第一 0 四五番 (WW, XVI, 276)

Hegel: Encyclopadie derphilosophischenWissenschaftenimGrundrisse, hrsg. v . G. Lasson,

4 4 2

︹︱一︺

infiihrungindie Metaphysik. 1983,S . 76. 40: E

Sprachforschungaufdem Gebiete der indogermanischen Sprachen. IL Abt. Bd.

Ni etzsche, WW, I , i参 e照 )。Vgl • ︹︱︱︱-]とりわけ﹃悲劇の誕生﹄ (DieGeburtder Tragodを

6S)

• Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker, iels, Suidaか sらの引用。 VglD

︹一四︺本書二0 四頁以下、参照。 〔二色『スイダス』 Al a . 但し、ヘラクレイトスの異名﹁賠闇の人﹂ ( d とk o "" へ て

. 642; Cicero, De FinibusI trabo, XIV. 25,p I . 5. 15. 396b 20; S

7

塙 ﹄ (WW, X I I I ,

︹ 二 [l 例えば、﹃道徳外の意味における真理と嘘とについて﹄ (Nietzsche, WW, X,



、 。

︹ 二O ] 4へ 含

︹一九]ディオゲネス・ラエルティオス﹃著名な哲学者たちの生涯と学説および各派の要約﹄第九巻六。本書二三頁参照。

︹一八]ヘラクレイトスに関しては、断片二、一七、二九、一 0 四を参照。

は ﹀ ﹀ bei^^を補って読む。なお、[]内の語句はハイデッガー自身による付言°

e h l t Aristoteles...]と印刷されているが、ヘーゲル全集︵グロックナー版︶の原文に従い、ここで トテレスに欠汁ているのは⋮・:﹂︹ Esf

︹て 9] ﹁いうまでもなくアリストテレスのもとに欠けているのは⋮⋮﹂[Es f e h l t bei Aristoteles⋮︺。本文中では﹁いうまでもなくアリス

。 Heraclitus,)

ee、 〔一六]キケロの原文では、「…•••ヘラクレイトスのように故意に隠し秘めて言うのでもなnく 」 ( … c on su lto d i c i s occulte tamquam

Mundo,

5.A u f l . Berlin 1934, 22.

︹︱︱-]例えば、ホメロス﹃オデュッセイア﹄第五巻︱︱︱︱︱︱ー四行、第一︱巻一七一一ー三行、第一八巻二0 ︱-│-︱一行を参照。

Vgl•

︹ニ︱︱]二年後の一八一八年一 0月ニニH に行なわれたベルリン大学就任公開諧義においても、ヘーゲルは再度これとほぼ同じ言葉をその最後

1930,LXXVI.

に掲げている。 Vgl. G. W. Leipzig

F•

註(西洋的思索の元初) 訳

Ham-

︺。出典は、ゲーテの詩劇﹃クウ ︹ ︱ ︱ ︱ ︱ ] ﹁喜びと愛とは偉大なる行為への翼である﹂︹ Lust und Liebe sind die FittigezugroBenThaten

第s 二) 幕第一場、六六五—六六六行。VglG .oethes Werke, Bd. 5 .2 . リスのイフィゲーニニ﹄ (Iphigenie auf Tauri burg 1 9 5 5 ,S .2 5 .

︹︱-四︺ヘラクレイトス断片五0 。本書二七四頁以下、とりわけ一︱1 0七頁を参照。

ほかに、﹃ソビステス﹄二四︱ -DEおよびヘラクレイトスの断片八、一〇、五一、七二︵本書一六六頁以下、一二五一二頁以下︶をも参照°

思 心 起 orepappoてiauT念oogg 2念 g.` ︹︱-五︺プラトソ﹃饗宴﹄一八七 A(TdEur念 逗 。 ミ W念 ep6pgoて a5Tda年心 g逗 5pg ・ ︶ 。

V。 glD • 〔―-六]アリストテレス『弁論術』第一二巻第五0 章七 一四 b 一六、ディオゲネス・ラエルティオス前掲書第二巻〔第五章]-――― iels.a . 0. Bd. I Kranz, a .2 2 . A4.

︹一-七]﹁自らを出現へともたらすこと﹂。本文中においては﹀﹀ das Sich'zum, ︿︿と印刷されているが、ここでは﹀﹀ das Erscheinen bringen bringen ︿︿に訂正して読む。 Sich'zum, Erscheinen,

︹二八]ニーチェについては本書一二六頁の引用箇所のほか、﹃この人を見よ﹄の﹁悲劇の誕生﹂の章第一二節 (WW, XV, 6 4 f . )、﹃遺稿﹄ (WW,

X I I I、75) などを挙げることができよう。

︹︱-九︺以下において最初に掲げられるヘラクレイトスの断片の邦訳︵片仮名︶は、田中美知太郎訳に従っている°筑摩叢書二九七﹃古代哲学 史﹄一九四頁。

T { t d忠苓に統一して表記する。

︹︱︱︱︱-]本文の内では次の頁の二箇所と共に﹀﹀ T{Td6 累と印刷されている。しかし、﹁反復﹂ではすべて疑問符が付けられているため︵本書

I O J 本書一九八頁以下参照。 ︱ ︹ ︹三︱]アイスキュロス﹃救いを求める女たち﹄ (Supplices) 二五五行を参照。 八三頁以下︶、ここでも﹀﹀

9 6 7 ,S ︹︱︱︱︱︱-]パルメニデスの断片一=と断片八、一二四ー一二六行の句とを比較参照。 Vgl. Vortrageund Aufsatze. Teil I . I I . Pfullingen1 2 7 f f .

c f . Arist. Politica A2, 1253a











2 , Ethica 9 1 0 , De Generatione Animalium E7, 786 b 18 2

雪而 I ] ﹁ロゴス︵語︶をもつ生きもの﹂︹なiou2dro と g x色という、人間の本質についてのギリシア的な根本規定がここでは念頭に置かれて いる。本書三0頁、九四頁等参照。 ー

5 , 905 a 20 2 ; Arist. .Problemata XI. 5 , Metaphysica02, 1046 a 36 b 2 3 . NicomacheaA7, 1097 b 33 1098 a 5

443

Aufl•

︹︱︱一六︺出典は、

Das Reich. Berlin S .

1928,

詩行の最初の語を除いて、ゲオルゲの詩旬はすべて小文字で書かれている。第二

130.

4 4 4

︹ ︱ ︱ 五 ] KarlReinhardt, Sophokles, Antigone は、一九四三年のこの年にペルリソで刊行されている。

U B b e t i i . u b t ︺は改行のため本文でははっきりしないが、ベーレント版全集のテクストに従い連字符を付 I気を失って﹂︹ s

13.

ーー﹁古典的なニヒリズム﹂︹klassischer Nihilismus] という表現は、調べ得る限 156, 157, 185)

プラトン﹃ピレボス﹄五九D、﹃パイドロス﹄二四七 E、二四九C、﹃国家﹄第九巻五八五Do

︹四五︺本文の内ではごふーg只^と印刷されているが、これはごふーgg︿^︵もくしは﹀﹀逗ーgi^^︶の誤記であるため、訂正する o

Ni • etzsche, W W`WII、 78) 。なお、本書一 0 五、一︱三、一︱九頁をも参照。 用 (Vgl

e t z t eRaucheinerverdunstendenR e a l i t a t︺。ニーチェ﹃偶像の黄昏﹄第四節からの引 ︹四門﹁蒸発しつつある実在性の最後の煙﹂︹derl

ドルフ︵六月一︱ i- ︱一日︶などである。ここでは、それらのことが念頭に置かれていると思われる。

回に及んだ°攻撃の対象となった主要な都市は、ほかにデュースプルク、ヴッパークール、ドルトムント︵五月ニ︱︱︱ーニ四日︶、デュッセル

した。また一九四一︱一年三月五ー六日のニッセンの空襲を皮切りに、重工業地帯ルールヘの空からの攻撃は七月︱二日に終わるまで、実に四三

︹四三︺一九四二年五月一︱

o i -=-︱日、ケルン市はイギリス空軍一 OOO余機の爆撃機によって夜問無差別爆撃を受け、市の中心部は廃墟と化

︹四︱-] ホメロスのこと。

︹四一︺

りにおいて見出すことができなかった。

志﹄第二二、二三、五五番 (WW,XV,

︹ 四0 ] ﹁能動的なニヒリズム﹂︹aktiver Nihilismus︺という言い方は、ニーチェの作品にしばしば出てくるものの 1 例えば、﹃力ヘの意

︹三九︺ニーチェ﹃力ヘの意志﹄第六一七番 (WW,XVI,1 0 1 ) からの隠された引用。本書︱︱九頁参照。

• ietzsche、WW, VI, ラはこう語った』第一部「序説」三を参照。VglN

Der >Sinnder E r t l e^i s t der >Ubermenschへ"⋮︺°ニーチェ﹃ツァラトゥスト ︹三八︺﹁﹁大地の意味﹂とは﹁超人﹂⋮⋮のことである﹂[

す 。

文中の語﹁甘美に

︹︱︱-七]出典の標題は次のとおり。 JeanPaulsbiographische Belustigungenunter der Gehirnschale einer R i e s i n ・ ーーーなお、引用

全集版の本文に従って翻訳する。

に真っ赤な球体が遠ざかり行くとき、﹂︹Entweicht derfeurigroteB a l l , ] となっている。第二版においても変更はないため、ここでは

a l l :︺であるが、引用された本文では、﹁燃えるよう 行目、原文は﹁燃えるように真っ赤な球体が沈む。﹂︹Eintauchtder feurig rote b

N~ue

︹四六︺ Hamburg 1 9 5 2 ,S 7 0 . なおこの詩の成立の年、一八二九年一 .3

1

1

一月三一日付のツェルター宛の書簡も併せて参照された

ゲーテ晩年の詩﹃遺言﹄ (Vermachtnis) ︱︱︱︱一行目の語︵原文は﹀﹀ Was fruchtbar i s t ,a ︿ ) 。 Vgl. GoethesWerke, s twahr,, ︿ l l e i ni

.2 . Bd. I

9 0 8 ,S .1 9 9 . 46.Weimar 1

10六行。

菜と印刷されているが、これは、﹀﹀な河菜の誤記であると思われる°訂正しておくべ含であろう。﹃イリアス﹄第 5i

︹五九]ニーチェ﹃力ヘの意志﹄第七一五番 (WW, XVl, 1 7 l f . )、および﹃ニーチェの言葉﹁神は死せり﹂﹄︵一九四三年︶におけるハイデッ

. Leipzig 1 ︺である。 philosophie, Berlinu 9 3 8 . 同書の第一章の標題は﹁包括者の有﹂[DasSeindesUmgreifenden

〔五凸「包括者」〔 Umgreife〕 n。 dこ eこ sではおそらくヤスパースの次の著作が示唆されているであろう。 VglK • arlJaspers: Existenz,

︹五七︺該当する箇所として特に第二七節、第一二五ー三八節を挙げることができよう。

hungder Metaphysik. 1 9 2 0 .

︹五六︺﹁形而上学の復活﹂︹ die Auferstehungder Metaphysik ︺。示唆されているのは次の著作であろう。 Peter Wust: Die Auferste,

9 .s . 303 f f . C ﹃道標﹄三八三頁以下︶。

︹五五︺一九四一︱一年のこの年に付された、同名の就任講義への﹁後記﹂ (Nachwort) を参照されたい。 Vgl. Gesamtausgabe. I . Abt. Bd.

︹五門本文の内では迄忠 6 累と印刷されているが、正確には﹀﹀ 6忠g︿︿とされるべきであるため、訂正する。本書九八ー九九頁参照。

妖女たちのこと︵後の伝説では、上半身が人で下半身が鳥︶。﹃オデュッ七イア﹄第一︱一巻三九行以下を参照。

︹ 五 一 ︱ ] 七イレーソたち (Seirenen, X 萎 守 tes)。﹃オデュッセイア﹄によれば、その美しい歌声で近くを航行する者を呼び寄せては命を奪う

1 1 0巻 0七行︶を参照。 ︱1

ニ四巻五五八行︵第一八巻六一、四四二行︶、﹃オデュッセイア﹄第四巻五四0行、第一 0巻四九八行︵第四巻八一言一行、第一四巻四四行、第

︹五︱-]本文の内では﹀﹀

︹五︱]﹃イリアス﹄第五巻二九六行、第八巻︱︱︱︱︱-‘-︱︱︱五行。

J ﹃イリアス﹄第七巻︱︱︱︱︱一行 o﹃オデュッセイア﹄第四巻四五一行、第一四巻一九‘ ︹ 五O

0行、第九巻一五一、二九一二行、第一五巻四三二行° ︹四九︺︹尽寄色﹃イリアス﹄第一巻一︱︱八、四五二行、第二巻五O 八、五︱ 1

• 〔四八]―例として、『力ヘの意志』第四九一―一番を挙げることができるであV ろg うl 。 N ietzsche, W W , XVI, 1 9 .

[四七︺本文の内では﹀﹀なi て︿︿と印刷されているが、これはえを菜の誤記であるため、訂正する。 o

い 。 Vgl. GoethesWerke, Abt. IV. Bd.

Aufl•

ガーの解釈を参照。 Vgl. Gesamtausgabe. I 9 7 7 ,S . Abt. Bd. 5 : Holzwege. 1 C 文社版ハイデッガー全集第五巻﹃柚径﹄、ニ .2 2 7 f f . 創

4 4 5

註(西洋的思索の元初) 訳

田中美知太郎訳。前掲書ニニ五頁°但し、引用された翻訳は訳註内のものである。 引用箇所は次のとおりである。 Heraklit. Fragmente. Griechisch und 2.A ufl. Miinchen 1940,S . 37.

Nietzsche. Bd.I I . Pfullingen

1961,S . 127ff.

9 7Anm.

の方を採る。

1 .

1903.

Herausgegebenund t i b e r s e t z t von Dr.

21

S .

5.

87ff.

( l ! I s i ' ¥は﹀﹀ Mehr als sichtbare gilt

(原文は﹀﹀ Unsichtbare Fi.igung starker als 162

4 4 6

五四頁以下︶。 ︹六〇︺ ︹六一︺ n e l l , Bruno S

引用箇所は次のとおりである。 FranzJosefBrecht: Heraklit. EinVersuchi i b e r den Ursprungder Philosophie. Berlin

10七頁以下︶、

a .a .0 .S . Bd. I .

︹六占本文の内では﹀﹀念蕊ふスと印刷されているが、これは起℃ Rふ ︿ S ︿の誤植である。訂正する。

︹六六︺田中美知太郎訳°前掲書二0 四頁。

︵﹃仙径﹄‘

glG •esamtausgabe. I めて、このデカルトによって開かれた有るものと真性との解釈の内に保持されているV。 . Abt. Bd.

philosophia (一六四一年、第二版一六四二年︶の内で展開されており、ハイデッガーによれば、以来近世の全形而上学は、ニーチニをも含

︹六召念頭に置かれているのはデカルトの形而上学である。デカルトの形而上学の根本的立場は彼の主著﹃省察﹄ Meditationesdeprima

移入理論﹂であろう。 Vgl. Theodor Lipps: Leitfadender Psychologie, Leipzig

︹六四︺﹁⋮⋮何か主観的なものが﹁感情移入される﹂﹂︹・: etwas Subjektives >eingefilhlte • olderlin,W W, IV, の冒頭の語。VglH

4 4 8

訳註︹論理学。ロゴスについてのヘラクレイトスの教説︺



とあるべぎものと思われる。

E'

︹︱] Vgl. Sophokles "Antigone," V. 332 3 7 5 . ︹ ︱ ︱ ] アオリスト語幹悶

kratesund Alcibiades" i n : Holderlin, 0

WW (Hellingrath) III, 16. ただしここでは

Das Problem der Realisierung.

i e f s t e dasTiefste は小文字で dast

Freyer: Zur Philosophie der Technik.I n : Blatter fiir Deutsche Philosophie 3 (1929)、 S. 192ff., M. Schroter:

︹ ︱ ︱ ] 次のごとき著作・論文が該当するものと思われる。F•Dessauer: Philosophie der 1 9 2 7 ,



Technik•

J

Nietzsche "Jenseit vonGutund Bose,"§62, in WW (GroBoktav), VII, 88.

るべき︶論拠として持ち出された文であるから。

︹ 六

A r i s t o t e l e s , Metaph. A2; Bl, 995 a 2 B., 5 .

Vgl. "Also sprach Zarathustra"( W W , VI, 307).

rliger, H. Driesch,0 F•K . Spann

田中美知太郎訳。前掲書一九九頁。ただし文中の﹁智﹂を﹁知﹂に代えた。

0 1︱一頁。ただし文中の﹁智﹂を﹁知﹂に代えた。 田中美知太郎訳。筑摩叢書二九七﹃古代哲学史﹄︱ 1

Vgl. Vorrede von Hegels "Phanomenologie desGeistes" i I ,1 n : Hegel,WW (Glockner),I 4 .

︹八] Vgl.

尼 ︺ ︹ 九 ︺

[1 O J

︹ ニ ︱ ︱ ︺

Aristoteles, Metaph. N1、1028a 2 8 .

る哲学の心理学的方向が意味されているものと思われる。

などによって代表され

︹五] 原文の否定冠詞 (kein) に代えて不定冠詞 (ein) として読む。論理学が倫理学や自然学とは異なり普遍性を欠くことの︵結局は否定さ

とある。

︹四]

Philosophie der Technik. 1 9 3 4 .

H•

︹︱︱-] 田中美知太郎訳。前掲書二ニ︱頁。

︹︱一︺

z•

〔孟巴当時隆盛だったゲシュタルト心理学ないしは全体性心理学を茎礎づけ、

4 4 9

註(論理学) 訳

︹一五︺ ︹一六]

Vgl'z.



1224 1237.

1929.

I I I ,

81.

W ( e d . Gerhardt) IV,

1 0︺ B r e c h t , H e r a k lit, EinVersucht i h e r denUrsprungder Philosophie. J . F . ︱ ︹ ︹三︱] Vgl. B. Snella .a . 0. S . 33.

I,

S.

150.

482.

21940,S .

Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker ここに述べられたロゴスの多様な解釈については下記書物の当該脚註を参照。 Diels,

︹一詈︱] Goethe, "Faust" I e i ! , V. .T [ = ︱ ︱ ︱ ︺ Bd

訳註︹︱-五︺は同じ。

︹三四]シュヴァルツヴァルトの最高峯。一四九三メートル。 ︹三五︺

. 120. 1936,B . 6 4u erlinS

Herausgegebenund i . i b e r s e t z tvon B. S n e l l . Munchen

0695).W

tibingen. 1912T

Kant, "Kritikder reinenVernunft," in"W W (Cassirer),

Heidegger, "Wasi s t Metaphysik?,"

[Lどに同じ。

I

訳 註 [O J に同じ。

Vgl. Leibniz: "Systemenouveaude l a nature,"

︹一八] P . Natorp: "Allgemeine Psychologie nachkritischer Methode,"

] O J

︹一九︺

訳註

weilとあるが weit の誤植と見倣して訳す。

Heraklit, Fragrnente. Griechischund

︹ ︱ ︱ ︱ ] 田中美知太郎訳。前掲書ニ︱八頁。

︱ ︹ ︹ニ︱︺

I]

31.

[ ︱ ︱ ︱ ]

[ ︱ 面

田中美知太郎訳。前掲書一九四頁。

︹︱-五] 田中美知太郎訳に一部加筆。前掲書ニ︱ 0頁参照。 ︹二六︺ ︹︱-七] 訳註[-三︺に同じ。

︹︱-九] 田中美知太郎訳。ただし文中の﹁智﹂を﹁知﹂に代えた。前掲書ニニ0頁 。

︹︱-八] 田中美知太郎訳の﹁暴慢不敬﹂を﹁高慢﹂に代えた、前掲書一 1 0一頁参照。

Deutsch•

4 5 0

B•

︹一七] 田中美知太郎訳。前掲書二0-I二頁。

Vgl• Vgl• Vgl•

. . . . .treffen, ︹︱︱︱{ハ]原文は﹀﹀ Daher auchdas (Vielerlei), woraufsie tagtaglich treffen.︿︿であるが、明らかに脱落が想定される。﹀﹀ .

︹三八︺

︹三七︺

Vgl. Aristoteles, Ph. 0 1 0 .

Vgl. Platon, "Phaidros" 2 4 7 c .

訳註︹二九]に同じ。

(eben) diesesihnenfremd erscheint.︿︿と補って訳す。三五三頁を参照。

︹三九︺

︹ 四O [ ] Snell の読みと同一。 Diels,Kranz は﹀﹀含ミ95p姜 qC︿︿とアオリストに読む。 >der einsichtsvolle Wille ︿ ︿ は Snell の訳。 ︹四︱] ﹀

﹀ ﹀

. a .0 s t dem Dem Menscheni s t seine Eigenart sein Damon.︿︿は Diels、 Kranz a . S. 177 では﹀﹀ seine Eigenart i

田中美知太郎訳。前掲書二二三頁。

︹四︱-] 田中美知太郎訳。前掲書ニ︱二頁。 ︹四三︺ ︹四四] Menschen seinDamon ︿︿の語順になっている。

のとあるが、初版に従い Adros と読む。 ︹四五 ]46ro ︹四六]田中美知太郎訳。ただし﹁たましい﹂を﹁魂﹂とした。前掲書一︱︱︱︱一頁。

不明。しかもそこではこの微言はストバイオスにしたがってソクラテスのものとされている。

︹四七︺この主導語は死後出版された全集版︵一八三二年︶に初めて現われるもので、したがってヘーゲル自身の意図に基づくものかどうかは

︹四八︺訳註︹四六︺に同じ。

︹四九︺田中美知太郎訳。ただし﹁思慮ノ健全トイウコト﹂を異読に従い﹁思慮スルコト﹂に代える。前掲書一︱︱︱一頁参照。

に同じ。

I I ,8 Kant, "Kritikder reinenVernunft," W W ,I 4 .



︹五一︺

現象ガ真ナルモノということについては以下を参照。 Metaph. f5, 1009 bl; 1010bl; f6, 1011 a20, de An. AZ, 404a29; f3,



︹ 五O ] Vgl. Aristoteles, Metaph.r 7, 1011 b2628; E4, 1027b 1828; EllO, 105lbl,9.

︹五二︺

I

O J

訳註[︱-]に同じ。

︹五一︱︱︺訳註[

427b3.

Vgl•

︹五四︺

4 5 1

註(論理学) 訳

V.9 f .

107,

田中美知太郎訳。前掲書一八九頁。

4 5 2

︹五五] 訳註[︱-八]に同じ。

Holderlin, "Heimkunft. AndieVerwandten,"W W, IV,

n t e r p r e t a t i o n e . プラトソにおける総合と分割の問題については特に"Sophistes"を参照。 r i s t o t e l e s ,dei ︹五六] Vgl. A ︹五七︺

o

︹六六︺ 7,

gehorthaben●を補って訳す。四00頁以下を参照。

z•

︹六九] Diels, Kranzとは異なるSnellの読みに従っている。ただしSnellも 忌 へ Cur6[ の後に点を打つ。

150.

Vgl.

.a .0 Kranz, a ,S .I Diels, .

︹六七︺

原文:…•weder bevors i eihneigensvernommenhaben●の後に脱落したと思われる部分、nochwenn s r s tschon i eihne

B . Snell,a. a.0. S.

︹六八︺

︹六五] 田中美知太郎訳。前掲書二二三頁。

︹六巴訳註︹四九]を参照。

︹六三︺田中美知太郎訳。前掲書二0 二頁。

︹六二︺田中美知太郎訳。ただし﹁たましい﹂を﹁魂﹂に、﹁智﹂を﹁知﹂に代えた。前掲書二二三頁参照。

︹六一︺訳註[四六︺に同じ

︹六〇︺訳註︹︱-九]に同じ。

︹五凸訳註︹︱-八]に同じ。

︹五八︺訳註[-一五︺に同じ。

Vgl•

訳者後記

本書は、 Martin Heidegger, Gesamtausgabe, IL Abteilung" Vorlesungen Vorlesungen Sommersemester



e r a k l i t , 1919 1944, B and 5 5 H

von Manfred S r i n g s , .F

Freiburger

2., < l u r c h ・

の今去訳で本ぞる。ナT巻には、フライブルク十盆子における

1943u ndSommersemester 1944, herausgegeben

1987,V i t t o r i o Klostermann. Frankfurtam Main

H e r a k l i t ) と一

手稿のタイプライターによる写しは、生前、ハイデッガーの委託により彼の実弟フリッツ・ハイデッガー ( F r i t zHeidegger)

おいてなされたものである。

切なされていないため、この巻における章別構成は、それに呼応して作成された見出しの語とともに、すべて編集者の責任に

であるという。ただし講義原稿には、手稿とタイプ写本との別なく、編や節さらにはそれよりも小さい小節といった区分は一

がこの巻で見られるように、本文中のそれぞれの箇所に分散して組み入れられているのは、ハイデッガーの指示に従ったため

方、二つの講義のいずれにおいても﹁反復﹂は別個の原稽として起草され、独自の頁付けが与えられているのであるが、それ

く記されており、他方右半分には賂しい数の挿入文が書き込まれていて、原文にはそれぞれの対応箇所が朋記されている。

で打ち直した写本とが、編纂の基礎になっている。それによると、二つ折り判の原稿用紙の左半分には講義の原文が切れ目な

クロスターマン版全集の﹁編集者後書﹂によれば、ハイデッガー自身によって執筆された原稿とこの手稿をタイプライター

義が収められている。

k • 九四四年夏学期講義『論理学。ロゴスについてのヘラクレイトスの教説』(Logi H e r a k l i t sLehrevomLogos) の二つの講

一九四三年夏学期講義﹃西洋的思索の元初。ヘラクレイトス﹄ (DerAnfang des abendlandischen

geseheneAuflage

Denkens•

の手で作成され、その後二人の共同作業によって照合されたものである。しかしながら、このタイプ写本は元のオリジナル原

453





後 訳

稿を忠実かつ完全に転写しているわけではなく、なお若干の箇所において手稿中の挿入文が脱落している。したがって、ドイ ツ語版全集のテクストは、第一次的にはあくまで手稿に基づいて編纂されている。

一九八七年に刊行さ

以上が、フリソグス編集の﹁初版﹄(-九七九年︶の成立のおおよその経緯であるが、かかる方針にもかかわらず、初版には

数多くの誤記と誤植、そしてさらに重大なことに、文章や文の一部分の脱落が含まれていた。そのため、

0箇所、 一九四三年夏学期講義一︱︱︱1

一九四四年夏学期講義一︱1 0九箇

れた﹁第二版﹂においてー│ドイツ語版ハイデッガー全集のなかで第二版が出されたのはこの巻が最初であるー│'抜本的な訂 正が敢行された。その数は、調べ得る限り目次等七箇所、

所の、計五四六箇所にも上る。後に、クロスターマン社から第六三巻の配本に際して配布・補充された﹁正誤表﹂ (Errata)に

その一部が掲載されたが、その数は八一箇所にとどまっている。本書では、これを補うためにも敢えて、テクスト批判の見地 から初版と第二版との異同をすべて指摘し、その内容を原語のまま記載した。

こ の 巻 の 新 た な 改 訂 を 指 導 し た ヘ ル マ ン ・ ハ イ デ ッ ガ ー (Hermann Heidegger) ー ハ イ デ ッ ガ ー の 次 男 に し て 遺 産 管 理

人ー~は、第二版の刊行に寄せたその「あとがき」のなかで、「初版にはいまだ現存していたもろもろの誤りと不一致とはこ

の第二版において取り除かれた﹂と記している。しかし残念ながら、すべての箇所が訂正されたとは言い難い。明らかな誤記

一九四四年夏学期講義の最後の時間の折に、ハイデッガーは、七月一一五

や誤植は固より、疑義が生じた箇所についても、本書では可能な限り訳註のなかで指摘することに努めた。 なお、ドイツ語版全集には収録されてはいないが、

日に四二歳でマールブルクにおいて死去した文学史家、詩人マックス・コメレル (MaxKommerell)を追悼して﹁思い出の言

葉﹂を語った、そしてそれは覚え書きとして講義草稿に挿入されていたという。その短い覚え書きの中で彼はかつての同僚を

34/1985)

に収

﹁折々に思索と詩作との歴史的使命について実りのある対話を交わすことのできたその部門の唯一の人であった﹂としのび、 、、、、、、、、 ﹁M ・コメレルは窮境を感じ取った、そして窮境のために必要な人であった。彼が亡くなって、その空白は埋めがたい﹂と結

んでいる。この﹁覚え書き﹂は一九八五年の M ・コメレル特集号﹃マールバッハ通信﹄ (Marbacher Magazin, められていることを付言しておく。

4 5 4

訳者後 記

本巻に収められた一九四三年と一九四四年の講義は、戦後に再開された二つの講義︵全集では第一部門の既刊著作に収録︶

1

を除けば、フライプルク大学における最後の講義である。その最後の講義において、ハイデッガーは 一千五百年に及ぶ西洋の

思索の歴史のうち、最初の思索家の一人であるヘラクレイトスの思索を取り上げた。二つの講義は、プラトンとアリストテレ

スによって開始される形而上学以前の、元初において思索した思索家ヘラクレイトスに関する最も本格的な講義である。とこ

ろで、ハイデッガーは﹁元初﹂の範囲の内で思索している思索家たちを元初的な思索家と名づけているが、そこにはヘラクレ

イトスのほか、アナクシマンドロスとパルメニデスも属している。一九四0年代前半といえば、ヨーロッパにとってまた全世

界にとって最も困難な時代に当たるが、この時期にニーチェとシェリソグを別とすれば、彼の購義がいずれも元初的な思索家

1

たちの思索︵他に、 一九四一年夏学期講義﹃根本諸概念﹄の第二部はアナクシマンドロス論、 一九四二/四一 一年冬学期講義 1

﹃パルメニデス﹄︶とヘルダーリソの詩︵一九四一/四 一年冬学期講義﹃ヘルダーリソの讚歌﹁回想﹂﹄、 一九四二年夏学期講 義﹃ヘルダーリンの讚歌﹁イスクー﹂﹄︶とに集中していることは、注目に値しよう。

また本巻に収められた二つの講義﹃西洋的思索の元初。ヘラクレイトス﹄と﹃論理学。ロゴスについてのヘラクレイトスの

H e r a k l i t , Fragment と﹃ロゴス﹄ Logos (

16)

50) のそれぞれの成立基盤を成している。さらに、一九六六/六

1

H e r a k l i t , 教説﹄とは、ハイデッガー自身が指摘するとおり、﹃講演と論文﹄所収の 一編の論文﹃アレーテイア﹄ Aletheia ( Fragment

七年冬学期フライプルク大学においてオイゲソ・フィソクと共同して行われた演習の記録﹃ヘラクレイトス﹄を理解する上で も、これらの講義は不可欠の手掛かりを提供していると言えよう。

一部児

本巻の翻訳は、前半の﹃西洋的思索の元初﹄を岡田が担当し、後半の﹃論理学﹄を辻村が担当し、グッツオーニがこれに全

面的に協力した。また巻末に収められた索引その他は、三者の共同作業によっているが、事項索引の作成にあたって、 島伴長君に助力を仰いだ。

4 5 5

翻訳に際しては、基本的に全集第九巻の﹃道標﹄を参照した。また、初稿の段階で京都大学名誉教授辻村公一氏より原摘の 一部に丁寧に目を通して戴き、多数の貴重な指示と助言とを賜った。

なお、ドイツ語版全集において引用文の前後に余白が設けられていない場合がときに認められるが、本訳書では、その場合 にも他の引用箇所に倣って前後に余白を設けたことをお断わりしておく。

本訳書の作成は困難の連続であった。その間、当全集の編集委員各位並びに創文社社長久保井理津男氏は、われわれの仕事

を辛抱強く待って下さった。編集担当の相川養三氏からは、その上しばしば適切な助言を戴いた。これらの方々に心から御礼 を申し上げる次第である。︵岡田記︶

一九九0年 一 0月一六日

辻村誠

岡田道程

アルフレード・グッツオー

4 5 6

人名• 著 作 名 索 引

事 項 索 引 ヘラクレイトスの諸断片の引用箇所一覧 原書初版と第二版との異同対照一覧

人名•著作名索引 (人名および著作名の綴りほ,原則として本文中の表記に従う。但し「ヘラクレイトス」 の項目は除外o セミコロ`ノ(;)の記号は,二つの講義の間の区別を表す。)

アイスキュロス ( A i s c h y l o s ) ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 3 5 0 アウグスティヌス ( A u g u s t i nu sA u r e l i u s ) ・ ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .・ 120;308-309 アナクシマンドロス ( A n a x i m a n d e r ) ・ ・ ・

… … … … … . . . . . .… … … … 6-7,26,48,200;364,373

……………………9,25-26,42,45,62-66,82-91,114,120, 1 2 9 , 1 4 8 ; 2 5 9 , 2 6 3 , 2 6 6 2 6 7 , 2 6 9 2 7 0 , 2 8 8 2 8 9 , 3 0 6 , 3 4 6 , 3 4 8 , 3 5 2 , 3 8 1 , 3 9 6 , 4 0 0 , 4 1 9 , 4 2 1 , 4 3 6 IBekker) ( e d .. 『動物部分論』 ( D ep a r t i b u sanimalium) ・・・ ・ . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 8 1 2 A 5 ,6 4 5a 1 7s q q .・ ・ ・ ・ ・ ・ . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . .・ ・ . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 『形而上学』 ( M e t a p h y s i c a l

アリストテレス ( A r i s t o t e l e s )

; : ! !~~: : :1~!!. . : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :::I羞::::~:~ ・ ・ ・ ・ ・ ・ : :

『弁論術』 ( R h e t o r i c a l

I ' 5 ,1 4 0 7b1 6. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .4 3 6 『魂につ I ,ヽ て』 冗 (e p t< / J u x f J > ' ,Deanimal . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .…• ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1 4 8 ; 3 4 6 『自然学』 ( P h y s i c a l

〔 0 1 0 ,2 6 6a1 0s q q .〕. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 3 1

……………•• •……………... …

ヴィソケルマソ ( Winckelmann,JohannJ o a c h i m ) ・ ・ ・ 4 0 6 ニムペドクレス ( E m p e d o k l e s ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ., . 3 6 オリゲネス ( O r i g i n e s ) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 4 2 ガリレイ

334 ( G a l i l e iG a l i l e o ) ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . . . . . . . .

( K a n t ,Immanuel). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ., 6 ,4 5 ,7 3 , 1 2 6 , 1 2 8 ー1 2 9 , 1 4 2 , 1 7 0 ; 2 6 1 2 6 3 , 2 6 6 2 6 9 , 2 8 4 , 2 8 9 2 9 0 , 3 0 5 , 3 0 9 , 3 8 1 , 3 9 6 , 4 1 9 , 4 2 2 W W( e d .C a s s i r e r ) 『純粋理性批判』 ( K r i t i kd e rr e i n e nV e r n u n f t ) … …………………… 73,126;262,268 I I I ,1 3. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .2 6 3

カソト

~~~: ~!~9~.. :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::~~:=~:~ 3 パ

『人倫の形而上学の基礎づけ』 ( GrundlegungzurMetaphysikderS i t t e n )

I V ,2 4 3 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 6 1 , 2 6 6 2 6 7 『論理学』 ( L o g i k )

V I I I ,3 4 6 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 『実践理性批判』 ( K r i t i kd e rp r a k t i s c h e nV e r n u n f t ) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . .・ … ・・・・・・・・・・・ 262,268 『判断力批判』 ( K r i t i kd e rU r t e i l s k r a f t ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .・ ・ ・ 2 6 2 ,2 6 8 キケロ ( C i c e r o ,MarcusT u l l i u s ) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 5 ,3 3 ,47 『神々の本質について』 ( Denaturadeorum)

I ,7 4 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 5 『旧約聖書』 ( D a sA l t eTestament)・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・・ ・・・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ 1 9 5

142 キルケゴール ( K i e r k e g a a r dS o r e n ) ・ ・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・・ ・・・ ・・ ・ ・ ・ ・・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・ クセノクラテス ( X e n o k r a t e s ) ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 5 8 2 5 9

2 クライスト ( K l e i s tH e i n r i c hvon ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・62 lemensAlexandnnus) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .4 2 クレメンス[アレクサンドリアの〕( C ゲオルゲ ( G e o r g e ,S t e f a n ) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .7 4 『新しき国』 ( D a sNeueR e i c h )

「 海 の 歌 」 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .75

ゲーテ ( G o e t h e ,JohannWolfgangv o n )… … 25,36-37,101-102,121;262,334,366,406 『ファウスト』 ( F a u s t ) [第一部 1 2 2 4 1 2 3 7行〕 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 3 6 6 コペルニク ス ( Kopermkus N i k o l a u s ) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・58,75 シェイクスピア ( S h a k e s p e a r e ,W i l l i a m ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 6 8 ; 3 1 0 『ハムレット』 ( H a m l e t ) [第三幕第一場〕 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 1 0 シニリング ( S c h e l l i n g ,F r i e d r i c hWilhelmJ o s e p hv o n ) ………………… 2 4 ,3 7 ,4 1 ,4 7 ,

1 2 9 , 1 3 2 , 1 7 0 , 1 7 2 ; 2 6 2 , 4 2 2 ジャン・パウル ( J e a nP a u l ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .7 5

WW(ed.Berend) I .A b t . ,B d .V ,2 6 5. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .7 5 ショーペンハウアー ( Schopenhauer A r t h u r ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .. 24,172;422 シラー ( S c h i l l e r ,F r i e d r i c hv o n ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .2 6 2 スネル ( S n e l l ,Bruno). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1 3 6 , 1 6 8 , 1 9 4 ; 3 4 6 , 3 8 0 , 3 9 03 9 5 スピノザ ( S p i n o z a ,Baruch d e ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 5 スペウシッポス ( S p e u s i p p o s ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ., 2 5 9 e x t u sE m p i r i c u s ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .4 2 ; 2 5 7 , 2 5 9 , 2 6 5 , 4 3 6 セクストス・エムペイリ コ ス ( S 『諸学者論駁』 ( A d v e r s u sMathematicos) V I I ,1 6 ・・ ・ . . . . . . . . . . . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . .・ ・ ・ . . .・ ・ ・ ・ ・ . . . .・ ・ ・ . . . . .・ . . . . .・ ・ . . . . . . . .・ ・ ・ . .・ . .・ . . . . . . .・ ・ 2 5 7 2 5 8 ,2 6 5 ソボクレス ( S o p h o k l e s ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .7 2 ; 3 5 0 ディオゲネス・ラエルティオス ( D i o g e n e sL a e r t i u s )… … … . . . . . . . . .… … . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1 3 , 2 3 , 4 2 『著名な哲学者たちの生涯と学説および各派の要約』

4

人名•著作名索引

I X ,3 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ., .1 3 1 6 I X ,6 ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .z 3 プィールス ( D i e t s Hermann) . . . . . . . . .・ . . . . . . . . . .・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 44,50,167;365,390,395 『ソクラテス以前の思索家の断片』 ( D i eFragmented e rV o r s o k r a t i k e r ) ・ ………..44 プィールスークランツ ( D i e t s K r a n z ) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 3 6 ,1 9 4 プィルタイ ( D i l t h e y ,Wilhelm) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 0 3 『体験と詩作』 ( D a sE r l e b n i s undd i eD i c h t u n g ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 0 3 テオプラストス ( T h e o p h r a s t ) . . . . . .・ . . . . . . .・ . . . . .・ . . . . . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . . .・ . .・ 冒 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . .4 z デカルト ( D e s c a r t e s ,Rene) , . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 2 0 ,1 7 0 ;3 0 8 3 0 9 ,3 3 4 , 3 8 1 , 3 9 0 , 4 2 2 『第一哲学についての省察』 ( M e d i t a t i o n e sdeprimap h i l o s o p h i a ) I , 1. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 2 0 ト マ ス ・ ア ク ィ ナ ス (Thomasv on Aquin) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 5 ; 3 5 2 ナトルプ ( N a t o r p ,P a u l ) ・ ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . ., . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 1 9 『一般心理学』 ( A l l g e m e i n eP s y c h o l o g i e nach k r i t i s c h e rMethode)… …………...313

( N i e t z s c h eF r i e d r i c hWilhelm). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .7 ,1 7 ,2 2 ,2 4 ,3 1 ,3 6 ,4 1 , 4 8 ,7 6 7 8 ,8 1 ,9 5 ,1 0 3 1 0 5 ,1 1 2 1 1 3 ,1 1 9 1 2 2 ,1 2 9 ,1 7 0 ,2 0 7 ; 2 4 0 ,2 4 9 , 2 5 5 , 3 0 9 , 3 6 5 , 3 8 1 , 4 2 2 , 4 3 7 W W( G r o l 3 o k t a v a u s g a b e ) 『ツァラトゥストラはこう語った』 ( A l s os p r a c hZ a r a t h u s t r a ) . . . . . . . . . . . . . . . . . . .… . .255 V I ,1 6 7. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 0 4

ニーチェ

V I ,1 6 8 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 0 4 『道徳外の意味における真理と疇とについて』 ( U b e rWahrheitundL i i g eim

a u l 3 e r m o r a l i s c h e nS i n n e ) X ,1 8 9 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .2 4 9 , 2 5 5 『遣稿』 ( U n v e r o f f e n t l i c h t e sausd e rUmwerthungszeit ( 1 8 8 2 / 8 3 1 8 8 8 ) )

XIV,2 6 3. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 5 『力ヘの意志』 ( D e rW i l l ez u r Macht)

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .7 5 XV, 1 4 1f XV, 2 4 1. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .7 7

~~!: 悶~··:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::~『:=~~~

『フィロロギカ』 ( P h i l o l o g i c a )第三巻

XIX, 1 7 2. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .437 『アンチクリスト』 ( D e rA n t i c h r i s t ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .355 ニュートソ ( Newton I s a a c ) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 0 2 ; 3 3 4 ハイデッガー ( H e i d e g g e r ,M a r t i n ) 『有と時』 ( S e i nundZ e i t ) 〔全集第 2巻〕

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 1 3

『パルメニデス』 ( P a r m e n i d e s ) 〔全集第 5 4巻〕

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ ・ ・1 5

『西洋的思索の元初』 ( D e rAnfangd e sa b e n d l i i n d i s c h e nDenkens) 〔全集第 5 5巻〕 5

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 1 5 ,3 7 43 8 6 『ニーチェ』 ( N i e t z s c h e ) 〔全集第 6巻 〕 I I ,3 9 9f f. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .4 z 3 パウ ロ 〔使徒J ( P a u l u s⑭p o s t e l ) 〕

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1 7

『使徒行伝』 ( A c t u sa p o s t o l o r u m )

XIX,3 4. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 7 1 8 パルメニデス ( P a r m e n i d e s )

………・ …•• …… 6-7,26,44,67,150-151,170,181,200,205,

2 0 7 ; 3 7 3 , 4 0 1 ・ ( e d .D i e t s K r a n z )

心:~~門•豆.. :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::~~~

: :り:ュ(~~ス~e:~)点~悶 . ' t ; . ・ . ・ : : : : . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ : . ・ : : . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ : . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ : . ・ . ・ . ・ . ・ . ・ : . ・ : . ・ : . ・ . ・ぷ: i ピンダロス ( P i n d a r ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 0 6 1 0 7 『オリュムピア祭典競技祝勝歌』 ( O l y m p . )

悶言 『 : : : : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::!~! ' 4

『イストミア祭典競技祝勝歌』 ( I s t h m . )

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ 108 I ,3 2行

『ピューティア祭典競技祝勝歌』 ( P y t h . ) V,7 0行 ・; ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 0 8 『ネメア祭典競技祝勝歌』 ( N e r n . )

V I I ,9 2 行 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ 108

F r .( e d .S c h r o e d e r )

i~5 ( 『 悶 : ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::!~! フ ィ ヒテ

( F i c h t e ,JohannG o t t l i e b ) ・・""…• ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・262,422

プラトソ ( P l a t o n ) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 7 ,2 5 ,3 8 ,4 0 ,4 2 ,4 5 ,4 9 ,6 5 6 6 ,8 4 8 5 ,8 7 ,8 9 9 0 ,

9 5 , 1 1 2 , 1 1 4 , 1 2 0 ,i 2 9 ,1 3 7 , 1 5 0 ,1 5 8 ,1 7 0 ; 2 5 8 2 6 0 ,2 6 5 2 6 7 ,2 6 9 2 7 0 ,2 8 6 2 8 9 ,3 0 4 , 3 0 6 , 3 0 8 3 0 9 , 3 4 6 , 3 4 8 , 3 8 1 , 3 9 6 , 4 0 0 , 4 2 2 『饗宴』 ( Symposium) 1 7 8b. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 5 0 1 5 1 〔『パイドロス』 ( P h a e d r u s ) ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .381 2 4 7C〕 ・ プルタルコス ( P l u t a r c h ) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .4 2 フンボルト ( Humboldt KarlWilhelmv o n ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .. 25 ヘーゲル ( H e g e l ,GeorgWilhelmF r i e d r i c h )……………… 2 3 2 6 , 3 3 , 3 5 3 8 , 4 1 , 4 7 4 8 , 6

人名•著作名索引

5 9 , 1 2 7 1 2 9 ,1 3 2 , 1 4 2 , 1 7 0 , 1 7 2 ; 2 6 2 , 2 6 8 , 3 0 7 , 3 0 9 , 3 9 0 3 9 1 , 4 2 2 W W( e d .G l o c k n e r ) 『論理の学』 ( W i s s e n s c h a f tderL o g i k ) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 5 I V ,5 4 0. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ., . . .1 4 2 I V , 547/8 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .1 4 2 『美学講義』 ( Vorlesungent i b e rd i e .A s t h e t i k )

X I I ,1 7 1 / 2. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ., . . . . . . . . . . . . . . . ., .1 4 2 『哲学史講義』 ( Vorlesungent i b e rd i eG e s c h i c h t ed e rP h i l o s o p h i e )

X V I I ,22 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 5 X V I I ,344. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 5 X V I I ,347. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .2 5

~~~~i, ~『~:::

: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ~:=~~

W W( 1 8 3 2f f . ) 『精神現象学』 ( Phanomenologiedes G e i s t e s ) I I. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . . . . . .・ 3 0 7390 ヘルダーリソ ( H o l d e r l i n ,F r i e d r i c h )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 19-20,37;219,242-243,252,262,307

W W( e d .H e l l i n g r a t h ) 『ヒュペーリオン』 ( H y p e r i o n ) I I ,1 8 8f . .. . . . . .・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .・ . . . . . . . .・ . . . . . . . .・ . .・ . . . .・ . . . . . .・ 3 7 3 8 『書簡』弟宛, 1 7 9 6年 1 0月 1 3日付

I I ,379 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .262 『ソクラテスとアルキビアデス』 ( S o k r a t e sund A l c i b i a d e s ) 第 5行

I I I ,1 6. . . . . . . .・ . . . . . . . .・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .・ 2 4 2 2 4 3252 『ドイツ人の心が歌う』 ( Gesangd e s Deutschen)

I V ,1 2 9 1 3 1 第 1行 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 219 第5 7 6 0行 ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .19-20 『ゲルマーニエソ』 ( Germanien) 第 1 1 1 1 1 2行

IV 1 8 5. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .. 219 『記念(サイン)帳』ヘーゲルのために, 1 7 9 1年 2月 1 2日付

VI 2 3 2 ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 37;307 ホメロス ( Homer) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .20 106-108・3163 9 8 3 9 9 『イリアス』 ( I l i a s )

V I ,382行 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .: . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .399 XXI,573行 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .316-317

: 旦 じ : !~~ り : : : : : : : : : : : : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::~~~

『オデュッセイア』 ( O d y s s e e ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 9 9

XX, 7 1行 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .20

ュンガー ( J i i n g e r ,E r n s t ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ., . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

3 1

細 :. . . . . . . . . . . . . . . . .

ヨハネ〔福音史家〕 ( J o h a n n邸〔 E v a n g e l i s t ) 〕 『ヨハネ福音書』 ( EvangeliumSecundumIohannem,J o h a n n e s e v a n g e l i u m )

I ,1 3. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .3 5 5 3 6 6 ( L e i b n i z ,G o t t f r i e dW i l h e l m ) ・ ・ ・… ……………・ ・ ・ 4 5 ,8 5 ,1 0 2 ,1 0 4 ,1 2 0 ,1 2 9 ; 2 6 2 , 3 0 9 , 3 3 4 3 3 5 , 3 8 1 『単子論』 ( M o n a d o l o g i e ) 第3 0節 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 0 4 ライソハルト ( R e i n h a r d tK a r l ) .・ ・ . . . .・ . .・ . .・ ・ ・ ・ . . . .・ ・ . .・ . .・ . . . . . .・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . .・ ・ . . . . . .・ . . . . . .・ . 72 『アンティゴネー』 ( S o p h o k l e sA n t i g o n e ). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .. 72 リルケ ( R i l k e ,R a i n e rM a r i a ) ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . .… . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .•・・・240251254-255 『ドゥイノの悲歌』 ( D u i n e s e rE l e g i e n ) 第八歌, 1 6行 ・ ・ ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ ・ ・ ・ ・ ・2 4 02 5 12 5 4 2 5 5

ライプニッツ

事項索引 (編と節および小節の見出しの語は編者によって作成されたものであるため, 原則として除外する。(;)の記号は二つの講義の間の区別を示す。)

ア 行

有ら—ざるもの,有らざるもの (das N i c h t S e i e n d e ,d a sN i c h t s e i e n d e ) …… 1 8 1

争I ,ヽ ( S t r e i t ) (→エリス)……… 1 2 , 2 2 , 3 1 アニイ,絶ニズ< & s E〉 . . . . . .… . . . . . ., .1 9 1 ; 4 3 7

3 2 , 1 5 1 ; 3 5 4

アエイゾーオンく(訪) & s E如 o砂 現われ ( E r s c h e i n u n g ). .……… ・ 3 1 ,9 2 ; 2 7 0 〔不断二立チ現ワレルコト•立テ続ケ アラワレテイナイ結ビツキ・調和 ニ生キルコト〕…… 1 0 3 ,1 1 0 ,1 1 9 ,1 2 3 , ( a p μ o i , [ a&cpa ッカ>">—→ハルモニアー

( 卜 )

1 5 5 , 1 8 9 ト アニイ ビュオン<てo&d妙 O砂,ト ァエイビュオ‘ノく訪 a sゆVO砂 〔 不 断 0 0 , ニ立チ現ヮレルコト(モノ)〕…… 1

アラワレテイル結ビツキ・調和 (apμovEa< p aッe p力 〉 → ハ ル モ ニ ア ー s e i e n d ,S e i e n d ) 有りつつ,有りつつある ( ・ ・ ・ ・ . .5 4 ,6 7 ,8 7 , 1 1 4 , 1 2 2 ,1 5 6 ,1 9 9

. . .

1 0 3 , 1 1 8 , 1 2 3 あ(有)る ( i s t )………… 3 1 , 8 3 , 9 2 , 1 6 0 , 1 7 4 ; 明るさ,明るみ ( H e l l e ,d a sH e l l e )……… 2 7 9 , 2 8 1 , 2 8 6 , 2 9 7 ,. 3 2 0 ,3 4 0 ,3 9 9 ,4 1 2 2 1 ,2 3 ,2 8 ,4 0 ,1 0 2 ,1 2 2 ,1 4 5 ,1 6 1 1 6 2 , 4 1 3 , 4 1 7 , 4 2 9 1 8 5 ; 2 1 9 , 2 3 8 , 2 7 4 「あ(有)る」(〉i s t < , >sein