大漢和辞典を読む 4469230391

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大漢和辞典を読む
 4469230391

Table of contents :
第一部 『大漢和辞典」を作る 紀田順一郎
大道を歩んだ人
山紫水明の地に育まれて
教学は相長ず
留学で得たもの
漢字無用の風潮に抗して
甘を分かち苦を共にす
廃墟の中から
悠然として南山を見る
第二部 『大漢和辞典』を読む
漢字の威力 森本哲郎
人名と『大漢和』 三國一郎
日本文のなかの漢字 高田宏
ジャーナリズムのなかの漢字 林邦夫
漢字とのつきあい―悩みもたのしみも― 古澤典子
明治の漢語 前田愛
漢詩と『大漢和』 石川忠久
漢字の神話学―文字空間としての― 中野美代子
動・植物名と『大漢和』 山下正男
広告と漢字 後閑博太郎
電字と漢字 林隆男
第三部 『大漢和辞典』を引く 彌吉光長
私の『大漢和』活用法
『大漢和辞典』 「凡例」問答
「四角号碼索引」問答
漢和辞典の歩み
付録 諸橋轍次略年譜/ 『大漢和辞典』 編纂・刊行史
諸橋轍次略年譜
『大漢和辞典』 編纂・刊行小史
あとがき
『大漢和辞典』を読む―執筆者紹介(掲載順)

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﹃大漢和辞典﹄ を 読 む 11もくじ

第一部

1順一郎…… 『大漢和辞典」を作る••……………………………………紀1田

大道を歩んだ人 山紫水明の地に育まれて 教学は相長ず 留学で得たもの 漢字無用の風潮に抗して 甘を分かち苦を共にす 廃墟の中から

『大漢和辞典』を読む………………………·……………………•… ……… 63

悠然として南山を見る

第二部

漢字の威力…………………………………………………………………森本哲郎…••65 風雪に耐えた文字

象徴としての漢字

9 人名と﹃大漢和﹂⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮三國一朗⋮⋮ 7 ある俳優の名前から 風雅な旋律



日本文のなかの漢字……………………………………………………•高田宏⋮⋮ 9 3 ことばの世界をひろげる

漢字は大切に扱いたい

悩みもたのしみも 1

⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・古澤典子⋮⋮ 1 2 1

ジャーナリズムのなかの漢字………………………………………••林 邦夫⋮⋮ 7 ー 現代新聞記事の基本 読みやすい漢字率 簡潔でわかりやすい表現 ﹁扮装﹂か﹁粉装﹂か

用字用語への違和感 校閲部の役割 常用漢字の意味 ﹁斎藤﹂と﹁斉藤﹂

奥深い漢字の世界

漢字とのつきあい I

漢字不用論のアメリカ学生

ハングルと仮名

訓か当てよみか 字体

仮名書きか漢字まじりか

校正屋のなやみ I 誤用と慣用 漢字制限の功罪 頭は箱ではない

明治の漢語⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮前田 ﹁文明﹂を運んだ漢字 漢字の造語力

3 愛⋮⋮ 5 ー



漢 詩 と r大 漢 和 lb⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 石 川 忠 久 ⋮ ⋮ 1 4 貧乏書生の宝物 豊富な熟語と索引 漢詩の楽しみ

1代6 漢字の神話学||文字空間としての||………………………………••中野美 子5 …… 襄臨という怪物 怪物専用の漢字 漢字の方形性と四角号礁 漢字の輪郭と四角号砥

天円地方説と漢字



動・植物名と﹃大漢和﹄⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:山下正男⋮⋮ 1 7 植物名のむずかしさ 中国式分類の原理 両属の生物 意識の変化とともに

隆男⋮⋮ 2 0 7

広告と漢字⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮後閑博太郎⋮⋮ 3 1 9 象形文字の特質 広告には、遊び心が必要である 辞典は‘貝の漢字の宝庫だった 貝の漢字探し、宝の山見つけた

電字と漢字⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮林 新しく生まれたデジタル書体 ﹃大漢和辞典﹄の親字制作期間は八年 デジタル書体は低ドットが新しいイメージ

﹃大漢和辞典﹄ を引く……………………………………··禰吉光長… ••219

書体は書くから作る時代

第三部

ー 活用法……………………………………………••……………… …2… 私の 「大漢和lb •2

世界最大の構想

熟語散策

7

﹃ 大 漢 和 辞 典 ﹄ ﹁ 凡 例 ﹂ 問 答 ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮2 3 ー

5 「四角号砥索サ」問答……………………………·………………………………•… 2… 6…



ー 漢和辞典の歩み…•…………………………………………………………………•… 2… 7…

付録

3 諸橋轍次略年譜⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮2 8 7 2



﹃大漢和辞典﹄編纂・刊行小史 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .t

.................................................................。

4 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .g 2

あとがき . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .2 c 執筆者紹介

●装禎舷津紀之

『大漢和辞典』を作る

1 3 第 1部

大道を歩んだ人 もろはしてつじ

ゆこみちょ

諸橋轍次はその九十九年の生涯にわたって、 ﹁行くに径に由らず﹂ という ことばを座右の銘としていた。 大道をまっすぐに進むという意味で、 ﹃論語﹄ ぶじようしゅう*

*子涸孔子の門人。姓は言、名

ようや

の﹁薙也第六﹂が出典である。 武城の代官になった子涸という人物が、師の

は慨。子溜は字。子夏とともに 文学にすぐれていた。 たんだいめつめい*

*溜台滅明字は子羽。魯の武城 の人。

孔子から、 ﹁おまえは部下に立派な人材を得たか﹂ と問われ、 ﹁溜台滅明とい う者あり。行くに径に由らず、云々﹂と答えたという。

径は、小路であり、 又近道である。周の時代には‘役人は周道という公 の道を歩行すべきものとされた。しかし公の道はとかく時間がかかりがち

たど

であるため、多く人は径に由ったのである。人の世に処する場合にも‘径 に由る方が早手廻しと考えられる場合が少なくないが、しかしこれを辿れ

かつば

ば、多くは行き詰まりに遭遇する。漁台滅明が行くに径に由らぬのは、彼 が人生に処して大道を濶歩する性格の持ち主であることを示したものであ

1 4

る。︵諸橋轍次﹃論語の講義﹄ 一九五三︶

大道をまっすぐに進むがよい。それは、よしまわりみちには見えても‘ 平らで正しい。 これに反し、近道とも見え、変化の魅力をもっていても、 小道はやがて行きづまりがくる。︵同﹃中国古典名言事典﹄ 一九七三︶

古典の注解には、 その人の人生観が色濃く反映される。他の注釈書が、 た とえば﹁大通りを通って抜け道をしない。⋮⋮人物の公正なことを示す。行 為についての比喩的な意味もある﹂などと、至極あっさりと片付けてしまっ ているのと比較してみれば、諸橋轍次がいかにこの段に思いをこめているか、 誰の眼にも明らかだろう。 それにしても、人生に処して大道を濶歩するというのは、 いかにも明治人

かず

らしいスケールの大きさが感じられる。明治は学問の世界において、おおく はいしゅっへんさん

の巨人を輩出した。辞書編纂者だけを見ても、﹃言海﹄の大槻文彦、上田万

者。文部省から国語辞書編纂を

*大槻文彦(-^唱│-を-^)国語学

者、国語学者。﹃国語学の十講﹄

言海﹄として完成。 委嘱され、 r *上田万年(-^窄│-九-︱︱七︶言語学

*松井簡治(-^さ――—一九翌)国文学

者、教育家、文学博士。西欧の 言語学を導入。

*物集高見(-^翌│-九-K)国学

者。その子高量(-^芸ー一九八立︶と ともに﹃広文庫﹄を編纂。 *斎藤秀三郎︵一八突ー一な一九︶英学

者。正則英語学校を経営。その r 斎藤和英大辞典﹄は現在も版

を重ねている。

理学者。独学で﹃大日本地名辞 書﹄を完成。

年•松井簡治の『大日本国語辞典』、物集高見の『広文庫』、『斎藤和英辞典』*吉田東伍︵一八六四ー一九一八︶歴史地 の斎藤秀三郎、﹃大日本地名辞書﹄の吉田東伍その他、枚挙にいとまがない

『大漢和辞典』を作る

1 5 第 1部

が ヽ

これらの人々は生涯を一冊の辞書編纂に捧げつくしたという点で共通し

ている。近代という時代が学問の基礎づくりのための時代であり、 その見取

一生を費やしてもなお足りない作業となった。現代

り図を描くために辞書を必要としたためである。必然的にそれは前例のない 大がかりなものになり、

のように既成のデータを積み上げてコンピューター処理をするような編集方 式とはちがって、すべてが最初からの、 しかも手作業だけに頼らなければな らない苦しい仕事であった。このような仕事をする者の誇りとして、あるい

︱つの分野における総合的、統

は苦闘に満ちた日常の支えとして、﹁行くに径に由らず﹂というような座右銘 が意味をもったということになる。 しかし、 そこにはきわめて創意のある

的業績を目ざせという意味も含まれていると思われる。とすれば、細部にか かわりすぎて全体の展望を失いがちな現代の学問への、頂門の一針という こともいえるのである。現代人にとっては‘辞書づくりに生涯を費やすなど

ひえき

ということは考えにくいが、かつてそのような生き方があり、その成果がい まなお私たちを袢益してやまない。諸橋轍次の生涯と業績は‘ 私 た ち に 人 生 に関する根源的な主題を投げかけているのではないだろうか。

これから諸橋轍次がいかにして ﹃大漢和辞典﹄という大きな辞書を編纂し たかということを述べるわけだが、 それは小手先の技術ではなく、彼の信念 と生き方から生まれたものと考えざるを得ないがゆえに、まずその生涯を振 り返ることからはじめなくてはならない。

山紫水明の地に育まれて しただ

新潟県の下田村は、東西十里、南北二里の細長い形をしている。東の山地 いからし*

は福島県に接し、西は五十嵐川の清流に沿うように平地が開ける。人口約二 万、県下第二位の大村であり、農業以外にはこれといった産業もないが、風

脈から下田村を経て、三条市街

*五十嵐川新潟県中部、越後山

地で信濃川に注ぐ、全長四十一

キロメートルの川。諸橋轍次は

少年時代から水泳に親しみ、そ

の感慨は村立森町中学校のため に作詞した校歌﹁見よや我が友

そそり立つ/八木の高嶺も五十

しるし

1

に反

嵐の/真澄める水も学舎の/を

しへ床しき象徴なれ﹂ 映されている。

やすへい

*諸橋安平︵一八奎ー一九一八︶漢学 者、教育家。号は嵐陰。新潟県

南蒲原郡大面村の大庄屋、諸橋

諸橋家の本家は新発田藩四十八ヶ村の大庄屋で、祖父はその中の一っ、大

となり、前後四十年間郷土の初 等教育に努力した。

新潟師範学校卒業後小学校訓導

楽山の九男。嵐陰義塾を創設。

面村の諸橋楽山の長男だったが、明治になって下田村に移り、名を紀抑と改

︵一八八三︶六月四日、父は漢学者の諸橋安平であった。

やすへい*

蒲原郡四ツ沢村大字庭月八番戸︶が彼の生まれたところである。明治十六年

涯この地を愛した。現在、下田村の中央あたり、字庭月五百一番地︵もと南

あざにわつき

光の美と人情の純朴をもって知られる—~。諸橋轍次はこの地に生まれ、生

1 6

『大漢和辞典』を作る

1 7 第 1部

ひよりみ

めた。墓碑に﹁懐慨にして義を好む﹂とあるのは‘戊辰戦争のとき新発田藩 の態度が官軍にもつかず、幕軍にもつかない H和見主義に終始したため、過 激の言をなして座敷牢にとじこめられたことをさしているという。下田村に 移住してからは漢学塾を開き、 さらに小学校の校長となった。自宅を塾とし、 六畳︱つ、三畳が二つ、それに四畳半の茶の間が一っという狭い間取りに六 人の生徒を寄宿させていたという。 のち、長野校の開設とともに校長に就任したが、三十三歳の若さで世を去 った。その子、 つまり諸橋轍次の父安平は新潟師範学校を卒業後、やはり長 野校の校長となった。明治十五年(-八八二︶、長野校が焼失した後も、地元 の有力者が提供した土地で嵐陰義塾をおこし、二十三年(-八九 0)、小学校 の創設とともに校長となり、あらゆる誘いを断って初等教育だけに力を尽し、 前後四十年間、それこそ一歩も村を出なかった。このように、父祖二代にわ たる教育者の家系として敬慕されてきたため、地元ではいまでも﹁訓導さま

かもく

の家﹂という呼称がのこっているほどである。

1

小学校校長となっ

諸橋轍次は、この脱俗的で寡黙沈静な父親の影響を強く受け、自叙伝﹃私 の履歴書﹄(-九六五︶にも回想の筆を費やしている。

4諸橋轍次の生家

1 8

はり

て間もないころ、校舎の新築か改築の祝賀会が行なわれ、生徒一同や村人が 二階に着席していたところ、その重みで梁が折れ、二階の中央が窪んできた。 生徒はバタバタと倒れ、村長はあわてふためいている。泣き叫んでいる子ど

ちよくご

ももある。しかし、その間、父親だけは泰然として、身の傾いてくるのを耐

せいけい

えながら勅語の奉読をつづけていた。﹁後年、宋の学者の本を読んでみると、

ひちょ

心に誠敬を持するものは、外部に何事が起こっても動ずるところはない。百 雷が一時に落ちてきても持っているヒ箸を失わないということが書かれてお

てんこく

った。それらの文を読むごとに父のことを思い出すのである﹂。 漢学のみならず、和歌・俳句の素養もあり、絵や策刻もよくした。太陽暦 を普及させ、村人の喧嘩の仲裁をし、差別廃止に努めた。当時の知識人であ り、啓蒙家であった。 r J盲

母親シヅの影響もまた大きなものがあった。画工の巻悟石の娘で、 とく こ 学問はしなかったが、諸橋が後年になってからふしぎに思うほど読書をして おり、 十人の子どもをかかえての忙しい家事に加えて裁縫を教えながら、夜 には子どもにせがまれて﹃弓張月﹄や﹃西遊記﹄、﹃南総里見八犬伝﹄などを 語り聞かせるのが常であった。これは幼児の情操教育に資するところ、非常

『大漢和辞典』を作る

1 9 第 1部

に大きなものがあったようだ。 しかし、夫の俸給は明治十五年ごろに十三円。そのころとしては少ない額 で は な か っ た が 、 四 十 年 後 も さ し て 変 わ ら な い 額 だ っ た と い う か ら 、 十人の 子どもをかかえての労苦は並大抵のものではなかったろう。しかし、村人の 尊敬を集めた家柄であるから、秋になれば米俵が台所に二十俵も積まれ、 っしてひけめを感じることはなかった。のちに諸橋轍次は当時を回顧し、﹁あ

一言もいわなかった。

同年齢の、自分より背丈の高い生徒もいて、運動場ではいっしょに跳びまわ

十六歳で塾を去り、小古瀬村の代用教貝となり、補修科一年生を教えた。

たが

古い方針を批判する文章を書いたときにも‘呼びつけて面前でそれを読ませ

う教育方針をもって、諸橋轍次に深い人格的な影響をあたえた。諸橋が塾の

松藩の家老だった奥畑米峯という人で、 叱 る よ り も 不 言 の 訓 戒 を 垂 れ る と い

おくはたべいほう

嵐川の清流に臨んだ小さな建物で、 い ま も 当 時 の ま ま 残 っ て い る 。 塾 主 は 村

小 学 四 年 、 補 修 科 三 年 を 経 て 、 諸 橋 轍 次 は 隣 村 の 静 修 義 塾 に 入 っ た 。 五十

りもありがたく感じている﹂と述べている。

の貧乏生活の中にも、少しも卑屈な気象を抱かせなかった父母の教育を何よ



2 0

っていたので、村長から﹁村会の開かれている間だけは、慎んでもらいたい﹂ と、注意されるしまつだった。 翌年、新潟師範学校に入学した。三年生のときに病死した伯父の解剖立会 いに赴こうとして、学校の許可が得られず、 かんしゃくを起こして無許可外 出したため、三週間の謹慎処分を受けたこともある。校長はなんとか諸橋の 罪を免れしめようとして、謝罪のことばを引き出そうとしたが、 正義感に駆 られていた彼はいっこう聞き入れず、 とうとう放校寸前に至ったのである。 校長から、将来望みなしといわれた諸橋は、その怒りを日記に記している。

ああふんがい

嗚乎、奮慨奮慨又奮慨。校長は我を目するに将来望なきを以てす。従来処 罰を受くるもの少なからず。而して唯々諾々ただ之れ順ふの徒は将来望な

まんごうきも

きを以て目せられず。正義を主張して校長の意に逆ふの我は、将来望なきを

せんしんばんくしようがい

以て目せられたり。痛嘆又痛嘆、余は万劫正に今日の言葉は肝に銘ずべし。 千辛万苦何かあらむ、前途の障碍は今日の恥を受くるよりは苦しからず。

あや

奮励一番志業の彼岸に達して、以て今 H の恥を雪がずんば止まざるべし。 校長をして本日の言葉は過まてりと、後日に日はしめざれば止まざるべし。

A新潟師範卒業当時

︵止軒は諸橋轍次の号︶

ぐ明治三十七年の日記﹃止軒日暦﹄

『大漢和辞典』を作る

2 1 第 1部

諸橋が生涯に一度、本当に怒ったという出来事だが



彼の一徹な性格がよくあらわれているといえよう。

教学は相長ず

このような挿話にも、

諸橋轍次は教育者として出発し、教育者として精神を豊かにしていった。 彼ほど教育という仕事を通じて、人生に本質的なものを獲得した人はないで あろう。

かのう*

︶ 、 彼は東京高等師範学校に入学した。 そ の こ ろ の 明 治 三 十 七 年 ( - 九 0四 なかみちょ*

*教学は相長ず教学相長也︵礼

ということは、互いに助け合う

記︶教えるということと、学ぶ

ものだ。教えることがすなわち

学ぶことになり、学ぶことがす

なわち教えることになる。︵諸橋

七三年講談社刊︶

轍次﹃中国古典名言事典﹄一九

*嘉納治五郎︵一八六0│︱九︳︱-八︶教育

H-︶

哲学

の開拓者。﹃カントの平和論﹄

者、哲学史家。西洋哲学史研究

*朝永三十郎︵一八七一ー一九

史﹄﹃日本史講話﹄

国文学者、歌論家。﹃中等 H本国

*萩野由之(-八六=│︱な一四︶国史、

などの著書かある。

﹃東洋歴史地図﹄﹃近世朝鮮政鑑﹄

学者、文学博士。﹃成吉思汗実録﹄

最初の国際オリンピソク委員。

家。講道館柔道の創始者。日本 ともなが*

高師は帝大につぐもので、 校長は嘉納治五郎、 漢文科の教授には那珂通世、



*そうそう

*那珂通世︵一八五一ー一九0八︶東洋史



とばり*

国文科には萩野由之、 松井簡治らがいた。 哲 学 に は 朝 永 三 十 郎 、 英 語 は 岡 倉

しんむらいずる**

由三郎、上田敏、 ドイツ語は登張信一郎、 教 育 学 は 乙 竹 岩 造 な ど と い う 鉾 々 たるメンバーで、 新村出、字野哲人、 鈴 木 虎 雄 な ど は ま だ ” 少 壮 “ ク ラ ス に すぎなかった。 くんとうみち

諸橋はこれら有力教授の薫陶をうけ、はっきり漢学への路をとるべく決意 する。卒業後は群馬師範に赴任したが、東京への向学の念もだしがたく‘ わ

2 2

ずか一年で退職、母校高師の付属中学で教鞭をとることにし、 ほとんど同時 に結婚もした。明治四十三年(-九一 0) 二十八歳のときである。 自伝によると、付属中学時代の七年間ほど楽しかった時代もなく、また多 くの自省、反省を得た時代もないという。わんぱくな生徒たちからアダ名は つけられる、 いたずらはされる‘授業中にからかわれる、という経験もした が、彼は﹁こんな頭のよい生徒を相手にしてはもう隠し立てをしてもだめだ。 飾ったり、街ったりしてもなんの役にも立たない。もともと自分は気がきか ぬいなか者だ。 いっそこれからは地金を出して真裸でいこう﹂と決心した。

学者、英語学者。岡倉天心の弟。

*岡倉由三郎︵一八交ー一九早六︶英文

新村出らと﹃言語学雑誌﹄を発 ー 。 井 ・

論家、英仏文学者。﹃明星﹄を中

*上田敏︵一八七四ー一九一六︶詩人、評

心にフランス象徴派の作品を紹

介。主訳書﹃海潮音﹄﹃牧羊神﹄

風。ドイツ文学者。評論家、随

*登張信一郎︵一令︱︱-│︱九登︶竹

筆家。ニーチェの紹介で知られ る 。

者。﹃日本庶民教育史の研究﹄

*乙竹岩造︵一八芸ー一曾︱)教育学

者、国語学者、文化史学者、随

*新村出︵一八芙ー一九六七︶言語学

筆家。﹃東方言語史叢考﹄﹃広辞

教員生活は楽しかったが、数年を経て四十歳に近くなったころ、彼の脳裏 に﹁このままでよいのか﹂という疑問が生じるようになった。教師生活も長

*宇野哲人︵一八七エー一九七 g) 中国哲 学者、文学博士。﹃支那哲学の研

史論史﹄﹃国訳杜少陵詩集﹄

学者、漢詩人、文学博士。﹃支那

究 ﹄ *鈴木虎雄︵一八七八ー一九六︳︱-︶中国文

苑﹄

くなると、学問のための時間に制約をおぼえるようになる。それに付属中学 というところは薄給で、 五年たっても六十円という額が少しも上がらない。 ﹁人並の生活をして、しかも勉強したいと思うと、 まことに深刻な迷いが出 てくる﹂︵﹁中国旅行と中国留学﹂ 一九七六︶。 このような迷いの半面、彼は以前から漢字の本場中国へ行って、偉い学者 の学問のやりかた、実際の姿を見てきたいという希望を抱いていたが、 それ



には先立つものが必要である。教師一筋で、あまり内職をしない彼は途方に くれてしまった。

たけぞえせいせい*

ところが嘉納校長がポンと旅行の資金を出してくれたのである。これは嘉

びようぷ

納の妻が漢学者竹添井々の娘で、その未定稿を諸橋が整理していたという縁 から生じたことであった。 たまたま竹添は生前三井のために屏風を書いてや

あつら

ったが、報酬を受け取らなかった。困った三井から相談を受けた嘉納は、ち ょうどお誂えむきと、その金五百円を諸橋に与えるように依頼したのである。 嘉納はそれに自分の三百円を加えて諸橋に与えた。この義挙によって諸橋は‘ 大正六年(-九一七︶、約二箇月にわたって念願の中国学界視察に出かける ことができた。そして清朝いらいの学者が跡を断つような情勢となっている ことを知り、本格的な留学を考えるようになった。 留学ともなれば、前回の視察旅行を上回る費用の算段をしなければならな かった。この年父親を亡くし、子供もすでに三人を数えていた。 ふたたび諸

ところが最終的に彼の決心を促したのは、元日の参賀の式に列席しようと

口橋は思案にくれた。

『大漢和辞典』を作る

2 3

官、漢学者。維新後大蔵省に出

*竹添井々︵一八空一ー一九一七︶外交

日記﹄を著す。﹃左氏会箋﹄によ

仕、中国各地を慢遊、﹃棧雲峡雨

り学士院賞。﹃論語会箋﹄

2 4

のように赤い美しい頬をした生徒たちの姿であった。

これを聞いた瞬間、 どうしたことであろう、 私は全身冷汗三斗をあびせ られた思いがした。これは従来の生涯にまったく経験しなかった心理状態 であった。恐ろしさとも言わず驚きとも言わぬ、 ただ頭の先から足の先ま で身の毛のよだつような気持ちがした。なんのためであったか自分にはさ っぱり解釈がつかない。しかし、その晩つくづく考えたところでは、結局 これは気の低えた者と気の満ちた者との接触において、気の餘えた私がま さに頂門の一針をくわされたのではなかろうか、 と解釈したのである。も ししかりとすれば、 こんなつまらぬことにさえ驚かなければならぬ自分が、 このままでおることは危険であり、また純真無垢な気力に満ちた生徒に対 しては相済まぬことだと考えた。そしてその瞬間、断乎支那留学を決意し、 せめて一、二年の留学でいくらかなりと自己の内容を充実し、気を養おう と考えたのであった。︵﹃回顧私の履歴書﹄︶

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校門を入ろうとしたとき、﹁先生、おめでとう!﹂と飛びだしてきた、りんご



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『大漢和辞典』を作る

2 5 第 1部

諸橋轍次の生涯を決定した瞬間は二つある。その︱つについては後にふれ

りようりようしんせい

ることにするが、あとの︱つはこの赤い美しい頬をした生徒との出会いだっ こ 。 f

当時中国に留学する者は ﹁窄々晨星のごとき﹂ 少数派にすぎなかった。 日清•日露戦役後、 日 本 人 の 多 く は も は や 中 国 に 学 ぶ も の な し と 考 え る よ う になっていたのである。そのような風潮の反映か、中国留学が許可されると いうことは非常にむずかしく、ましてや中学校の教師が出かけることなど論 外であった。 しかし、 そうした時流に反する、 というよりは、まったく無関係な生きか たを選択するところが彼の身上であって、 この性格のゆえに後年漢字制限に 向かう時流とはまったく無縁に、自己の信念とする漢和辞典の編纂に従うこ とができたのである。 さて、留学の算段をしなければならない。前年にかの地で知りあった坂西 利八郎という、国防軍関係の実力者を思いだし、北京滞在中にその官舎へ寄 食させてもらいたいと依頼したが、なかなか返事がもらえなかった。あとで 知ったところでは、坂西は非常に危険な仕事に従事していたため返事が遅れ

4中国留学のころ

2 6

たのであるが、諸橋は一時持ち家を換金処分する決心をした。ところが、 きゆうじようこやた*

からずも窮状を見かねた知友が岩崎小禰太に相談してくれたため、援助資 金が出ることになったのである。 中国留学がめずらしいということもあり、諸橋の壮挙がったわるや、未知 の犬養毅をはじめ多くの人々から励まされ、渋沢栄一からは自宅に招待さ れ 、

一千円の大金を恵まれた。もって、当時の政財界における開明派の関心

をうかがうことができる。

留学で得たもの

態だった。

一時は荷物の陸揚げすら覚束無いという状

過去の教えへの反対、家族を中心とした儀制の破壊などを運動方針とする‘

育の振興、国語国字の改良、通俗講演・出版物などによる文化宣伝、孔子ら

学界もまた祭元培の主導する新文化運動で揺れ動いていた。 これは平民教

さいげんばい*

極端な排日気分が支配しており

諸橋轍次が留学したころの中国は‘あたかも五•四運動の勃発直後とて、



*岩崎小禰太︵一八共ー一九翌︶実業

財団法人静嘉堂を設立。

家。三菱財閥四代目の指導者。

憲政擁護運動に加わり、孫文ら

*犬養毅︵一八尭ー一九︱︱︱︱-︶政治家。

件で暗殺さる。

中国革命派を支援。五•一五事

*渋沢栄一(-八翌ー一窒︶実業家。

ともに、社会・公共事業で知ら

近代的金融、信用制度の創設と

れる。

会議における日本の二十一カ条

*五•四運動ヴェルサイユ講和

月四日、北京の学生デモに端を

要求を不満とし、一九一九年九

発した反帝反封建運動。

中四 国の倫 *禁元培(一八六八— 0一 )九

﹃中国倫理学史﹄

理学者、教育家。北京大学校長。

一種の近代化、啓蒙運動であった。 しかし諸橋はこのような歴史的転換ともいうべき現象にはまった<興味を いけん

持たず‘ひたすら当初の予定である旧学者・遺賢とされる人々と親交をもつ

*謬笙孫︵一八四四ー一九一九︶清末民国 初期の学者。清史館総纂。﹃金石 目﹄﹃蔵書記﹄などの著書があ る 。 *陳宝珠清の礼楽館総纂大臣。

者たちであるが、最も長く交際を願ったのは上海の張元済、博増湘らで、諸

*鄭孝脅︵一公 oー一九︱︱-^︶近代中国 の政治家、文人。辛亥革命後、

を治めるにも、やたらに法律を

れて、形を失ってしまう。大国

︵中略︶つつきまわすと肉が破

さい魚を煮るようなものである。

を治めるやり方は、たとえば小

*大国を治むるは⋮⋮大きな国

*校勘異本を比較参照し、本文 を定める書誌的作業。

*博増湘民国の学者。王士珍内 閣の教育総長。故宮博物館長。

*張元済︵一八六六ー?︶中国の歴史 学者。﹃百納本二十四史﹄

の学者、革命家。﹃章氏叢書﹄

*章柄麟︵一八究ー一九癸︶清末民初

(-^X ^ー一去一七︶中国清末 の思想家、政治家。﹃孔子改制考﹄

*康有為

退位した宣統帝の教育に従事。

こうかん*

るという。 たとえば老子の ﹁大国を治むるは小鮮を烹るが若し﹂を、﹁小鱗

大正十年(-九ニ︱)八月に帰国した彼は、岩崎小禰太に頼まれて静嘉堂

二年余にわたる留学の成果以外のなにものでもない。

の一例﹂﹁経、経学および経学史﹂﹁尚書源流私考﹂ほかの論文は、 いずれも

いうまでもなく、帰国後堰をきったように発表された﹁支那における大家族

せき

ろう。さらに、 この留学そのものが彼の学者としての業績に寄与したことは

学者は例外なく﹁謙虚﹂で﹁温雅﹂な性格の人であったのは注意すべきであ

自伝にはそのほかの学者についても言及しているが、諸橋が好意を抱いた

たのである。

を烹るが若し﹂と訂正することができたのは、博氏所蔵の北宋道蔵本によっ

しようりん

橋が清朝校勘の学に興味を持つようになったのは、この二学者のおかげであ

*ふぞうしよう

統帝博儀の待講となり、革命 7 生知 ことに専念した。配 記『主芍鄭李酎"蔚布加‘釦•固配がど宣後と いう学 も幼帝の輔育に務める。

『大漢和辞典』を作る

2 7 第 1部

文庫長となり、図書目録の作成や新たな典籍の購入などの仕事を担当した。 しゅうしょけいう

静嘉堂文庫は明治二十五、六年ごろから蒐書をはじめ、明治年間に中村敬宇

設け術策を弄すると、かえって

ってくる。︵諸橋轍次﹃中国古典

取り返しのつかない争乱が起こ

*静嘉堂文庫岩崎禰之助•小禰

名言事典﹄一九七三年講談社刊︶

源の蔵書四万三百八十九冊ほかを収蔵し、昭和にはいってからも国語国文学

中心とする図書館。国宝七件‘

の蔵書一万一︱一千二百十八冊、楢原陳政︵外交官︶の蔵書四千八百十一冊、陸心

者松井簡治の蔵書一万七千十六冊などを購入している。後年諸橋自身も春秋

橋轍次は大正十年から昭和三十

この文庫は昭和二十三年(-九四八︶、国立

心配“をされたという。世間的配慮とはこのようなものであろうが、諸 I t

から購入した。

三千二百十八冊を陸心源の子孫

九四︶の漢籍四千百四十六部四万

大蔵書家の一人陸心源︵一八︱︱ -g│

治四十年(-九〇七︶、中国の四

*陸心源の蔵書静嘉堂文庫は明

年まで、文庫長をつとめた。

重要文化財七十六件を所有。諸

太父子が設立した和漢の典籍を

学関係の漢籍千二百冊を﹁百国春秋楼書﹂として寄贈している。現在和書約 八万、漢籍約十二万冊であるが、その大部分の目録を整備して学者・研究者 の閲覧しやすいようにしたのは、諸橋の功績である。その間、大震災による

﹁一日も心安らかな日はなかった﹂︵自

停頓、軍部からの土地明け渡し要求、中国からの陸心源の蔵書返還要求の動 きなど、さまざまな問題が発生し



た君が、国会図書館の一司書としてその幕を閉じるのはどんなものか﹂とい

国会図書館の支部になったが、 これに関連して友人から﹁大学教授を経験し

全を見届けて職を辞した。なお

結局彼は昭和三十年まで、前後一二十五年間も文庫長の職にあり、文庫の安

` 伝゜

2 8

『大漢和辞典』を作る

2 9 第 1部

橋としては恩義のある岩崎からの付託に応え得たことに、純粋な満足を覚え

ここに︱つの事件が起こらなければ、諸橋は単なる篤実な漢学者

ていたのであった。 しかし

として終わっていたかもしれないのである。その事件の震源となったのは‘ 諸橋とはまったく関係のないところで活躍していた、ある出版人の意志であ こ 。 つf

漢字無用の風潮に抗して ﹃大漢和辞典﹄編纂の動機について、諸橋轍次はつぎのように述べている。

編纂の動機は何かとよく人に問われるが、実のところそれはど確たる信 念をもって始めたわけでもない。私は中国に留学中ちょっと考えたことが ある。それは自分の読書生活で何にどれだけの時間を用いているかという

かんこう

ことである。考えてみると一日三分の一か四分の一は辞書をあさり、ある いは原典の勘考をしている。これはつまらない。もし完全な原典によって

3 0

こうきじてんはいぶんいんぷ

完全な解釈を施した辞典があればこの苦労はいらないはずだ。︵中略︶中国 では康熙字典はあるが熟字はなく‘侃文韻府は成語は多いが解釈はない。 では一っ自分がやってみようかと、おぼろげに感じた。もし強いていえば これなどが直接の動機になったのかもしれない。︵﹃私の履歴書﹄︶

わずか八歳で即位した清の康熙帝(-六六ニー一七ニ︱︱在位︶が、その孫の 乾隆帝︵一七三六ー九五在位︶にいたる、約百三十年間の文治の一環として 編纂を命じた﹃康熙字典﹄(-七一六︶は、 二百十四部首、 四万七千三十五字 侃 を解説した最大の辞書で、字義の解釈もかなりくわしい。熟語を集めた ﹃ 文韻府﹄(-七︱-︶は、見出し字を百六の韻で分類し、その下につく熟語が 集 め ら れ て い る 。 親 字 が 下 に つ く も の を 挙 げ て い る の が 特 色 で 、 たとえば ﹁一﹂なら﹁主一、天一、太一、大一、小一、守一﹂というように記載して ぺんじるいへん

いる。 ほかに﹃餅字類編﹄(-七二六︶も熟語を集成しているが、本来の目的 は詩や文章をつくるための語彙を調べるためである。 はかにも辞書はあるが、 いずれも近代的な学問の関心からはズレがあった。一方、わが国の漢和辞典 しげのやすつぐ**

は一九 00 年代の初頭に、重野安繹•三島毅・服部宇之吉編『漢和大辞典』

0)

漢学

者、薩摩生まれ。江戸に出て昌

*重野安繹︵一八︱︱七ー一九一

平費に学び、のち元老院議官兼

文科大学教授。初代静嘉堂文庫

長。﹃成斎文集﹄

号は中州。二松学舎を創設。宮

0 一九一九︶漢学者。 *三島毅︵一八︳︱ -ー

中顧問官。﹃中州詩稿﹄

者、中国哲学者。﹃孔子及孔子教﹄

*服部宇之吉︵一八窄ー一在︱︱九︶漢学

『大漢和辞典』を作る

しげた*

ー一九四

0

哲学者、文学博士。

*小之 柳司・ 気太︵一八七 (一九0三)、小柳司気太『詳解漢和大字典』(-九一六)、上田万年•岡田正

一冊もの、ないしはせ

に五十銭銀貨一枚をふところに上京、質屋をふりだしに、呉服店員、軍艦扶

したが、母親ゆずりの負けん気と積極性をそなえていて、小学校卒業と同時

在木更津市︶に六人兄弟の末子として生まれた彼は、貧しい少年時代をすご

という信念の持ち主であった。明治二十年(-八八七︶、千葉県の木更津町︵現

水準と、 その全貌を示す出版物を刊行することが、出版業者の責務である﹂

大修館書店の社主鈴木一乎は、﹁出版は天下の公器であるから、 一国文化の

いちへい

のは、版元が具体的に大修館書店にきまってからである。

いぜい二冊程度の規模の辞書にすぎなかった。それが大きくふくらんできた

ただし、 この段階において彼の脳裏にあったのは、

一冊で出典から語釈までを知ることが可能な辞書だったのである。

などの面では漢和辞典を補うものであったが、諸橋が作りたいと思ったのは、

九0七︶や池田四郎次郎﹃故事熟語大辞典﹄(-九一三︶なども語彙数や典拠

うに、規模の点でなお及ばなかった。ほかに簡野道明﹃故事成語大辞典﹄︵一

穫を見ているが、﹃大字典﹄の親字数が約一万五千ということにも窺われるよ

0)

中国

*簡野道明(-^究│-九-︱-^︶漢学 者。﹃字源﹄﹃唐詩選詳説﹄

の歳月をかけて﹃大字典﹄(-九 一七︶を編纂。

漢和辞書の必要を痛感、十一年

国語研究室に助手として勤務中、

*栄田猛猪︵一令^ー一九空︶国語学 研究家。東京帝国大学文科大学

考 ﹄

*飯島忠夫(-^品—-九立匹)東洋史 学者、文学博士。﹃東洋暦法起原

者。号は剣西。﹃日本漢文学史﹄

飯島忠夫・栄田猛猪•飯田伝一編『大字典』(-九一七)など、注目すべき収 *岡田正之(-^六四ー一空七︶漢学

3 1 第 1部

3 2

桑の士官つきボーイなど おもてじんぽうちよう

いろいろの職を転々としたが、学歴の必要性を痛

感、出版社に勤めれば勉強もできると思って、神田の表神保町にあった修学 堂書店に入った。 むろん、勉強のひまなどない重労働の毎日だったが、出版 業に興味をいだくようになり、修学堂書店が閉業するにあたって紙型をゆず りうけ、大正七年(-九一八︶九月、大修館書店を創業した。当初は学習参考 書に力を入れていたが、大震災のときにはちょうど所用で出掛けていた彼に かわり、幼児を背負った夫人が参考書の紙型を箱車に乗せ避難してくれたの で、他社よりも早く立ち直り、基盤を確立することができたのである。

そのころのドル箱は『受験準備•最も要領を得たる外国地理』(諏訪徳太郎 著︶であった。昭和三年(-九二八︶には神田錦町に新事務所および自宅を新 築している。ちなみにこのころ、長いあいだの念願だった馬主となった。 実経営で知られる彼と競馬との結びつきは意表をつくものがあるが、馬の世 界ならどんなえらい人の馬でも負かすことができ、 さらに勝馬の口をとった

そうわ

つ 、

‘ さいの気持ちは良書を評価されたときの満足感に通じるものがある、 とし のが彼の主張であった。この人の個性を物語る挿話である。

それはともかく、漢和辞典の出版を思い立ったのは、実用的で正確、他人



>昭和三年新築当時の大修館書店

『大漢和辞典』を作る

3 3

第 1部

に真似ができず‘しかも後世にのこるものをと考えた結果というが、当初は それほど大規模なものではなく、従来の漢和辞書がすべて一冊ものだったの で、それとおなじか、もう少し厚手の中辞典程度のものを考えていた。 まず、編者をきめなければならない。自社に関係の深い東京高師付属中学 の生物学教諭、水野禰作に相談したところ、 それなら諸橋先生がよかろうと

I I

ということで、早速先生の

いうことになった。﹁ひそかに調べてみると、先生はまだ他社から漢和辞典を 出しておられない。私は二著者一出版社主義

お宅を訪ね、辞書出版の企画を交渉した﹂︵﹃大漢和辞典﹄月報﹁出版後記﹂一九 六O)

一著者一出版社というのは、他社と関係のある著者を避けるという方針で あろうが、 それはとりもなおさず、新しい有望な学者の発掘ということを意 味する。諸橋轍次は当時まだ学位もとっていなかったし、著書といえば﹃詩 経研究﹄︵目黒書店、一九︱二︶を数えるのみであった。しかし、そのことは鈴 木の目から見れば‘ かえって適任と映じたのであろう。さっそく、雑司ヶ谷 にあった諸橋宅を訪れて交渉に入ったのであるが、案に相違して、 とても一 度や二度では承諾が得られないことを思い知らされた。

ぐ﹃詩経研究﹄

祐橋紙次蒼

詩紅研究

束京曰黒書店荘兌

3 4

そのころ諸橋は、留学中に作成した語彙索引を、学生などを使ってまとめ る作業をしており、二十冊ほどの分量に達してはいたが、 それよりも留学の 成果を論文にまとめるほうを優先していたので、辞書編纂などは脇道のよう に思えたという。小規模の出版社のために危ぶんだという理由もあるかもし れない。しかし、相手はいくら断っても、何回でも足を運んでくる。閉口し た諸橋はあるとき訪れた学生に、﹁本屋が辞書を作ってくれというのだが、断 っても断っても、きかないのだ﹂と漏らしたほどである。 だが、諸橋は一方で鈴木の性格に惹かれていくのを覚えていたようで、当 時の日記には、﹁同氏まことに男らしくて心地よし﹂と記している。結局、 年後の昭和三年(-九二八︶九月十四日、諸橋は﹁最初から引きうけるような 気がしていました﹂と述懐しながら編纂約定を結ぶ。当日の日記には次のよ つにある。

いよいよ

夜、鈴木一平氏来宅。愈、辞典編纂の契約をとりかわす。けふは吉日な りといふ。鈴木はなかなか男らしく‘此ならば大丈夫と思ふ。自分も十分 責任を以て事を運ぶ決心なり。

*編纂約定の年度について、﹃大漢

は昭和二年とあるが、ここでは

和辞典﹄第十三巻の出版後記で

とする。

諸橋轍次の日記により昭和三年

る 作



知 辞 nμ 禾 漢 大

じつはこのとき、諸橋には側面の事情があった。昭和元年(-九二六︶から 大東文化学院で教鞭をとっていたが、 たまたま学園紛争で百名近い学生が退 学処分となった。 これを気の毒に思った彼は、将来性のある学生にアルバイ トの道をこしらえてやりたいと思っていたのである。﹁これらは皆ある時期 がくればりっぱに学界にも働き得る有為な人々だ。もし辞典の仕事を手伝っ

こんな考えが起こったのである﹂

てもらえたら、 ひとり仕事の上につごうがよいばかりでなく、三人でも五人 でも方途に迷わせずに助かるだろうと

いかにも人情家の彼らしいエピソードである。

︵﹃私の履歴書﹄︶。のちに諸橋は﹁本来の立場からは邪道であったが:・⋮﹂と記 して い る が

このようにして編纂事業は発足したのであるが、間もなく学生に分類させ

それでもいいかね﹂ と相談をかけ

二冊ではおさまりそうもなくなってきた。

たカードを整理していた諸橋は、 それが十万枚というたいへんな分量になる ことがわかったので、﹁とても

<、自分のペースで仕事をつづけていた。

しばらく音沙汰がない。しかし、諸橋のほうでは、別に心配するわけでもな

た。さすがの鈴木も﹁しばらく考えさせてください﹂と引きさがったきり、

r 前例のない大規模のものになりそうだが ー

部 第

5 3

*大東文化学院国学・漢学の振

二︶国会の決議により創立。昭

興のため、大正十二年(-九二

和二十四年東京文教大学と改称‘

のちに二十八年大東文化大学と なる。

36

ようやく、半年ほどして再び現われた鈴木は開ロ一番、 ﹁私も出版界には いりましたのですから、小さいながらも出版の目的に立つようなものをひと つやってみたいと考えておりますから、もし先生がそれをやってくださるな ら、わたしどもできるだけのことをやりますから⋮⋮﹂といった。 これには

わっせい

諸橋もおどろき、﹁本当にやるか﹂と念をおした。﹁とにかく‘ やりましょ

葛 O'C●9 な... . , .つ た い そ れ に ど シ ゆ う い み が ・ , る か

う﹂。鈴木は熱誠を顔にあらわして応じた。

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ろ、中村壮太郎という人が考案

*ひので字昭和十年︵一九︱︱

s , c , ,ぷ L , . , _ .な tから., " .つ て き ・ c ,

ここで注意しておかなければならないことは、 そのころの時代背景である。

した文字。ロシア文字に似た字

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をカナの代用としている。

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当時文部省は漢字制限の意向を示し、新聞社や論壇でも国語ローマ字化・か な化の論議が横行していた。ややくだって、 石原忍ら二十四名が﹁新国字に 関する請願書﹂なるものを貴衆両院に提出している。趣旨は国民の八割が小

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とぎさえある,,.

学校卒にとどまる現状では、小学校で千三百五十六字もの漢字を教えるのは

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時間的ロスであるから、新しい国字を開発すべきであるということである。

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このような動きに呼応するように、 ﹁ひので字﹂ほかの奇妙な字体の活字が

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鬱 ' .じ " ' 't

開発されたりした。新聞社は、国民の平均寿命が四十二、三歳にすぎないの

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だから、学校教育における漢字学習の比率を少なくすべしというような主張 をしていた。

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『大漢和辞典』を作る

3 7 第 1部

こうした漢字否定の時代風潮に逆行するかのような数冊セットの漢和辞典 が出版企画として成功するものであろうか。 のちに諸橋は、四千年の漢字文 化が滅びるわけがないと信じていた、 と語っているが、現実の出版企画とし て不安を抱かなかったといえばウソになろう。ましてや、出版者側の鈴木が 半年にわたって考えこんだのは当然であった。 ともあれ、無名の学者と小さな本屋が手を結んで、大きな計画がスタート した。ちなみに編纂約定の成立した昭和三年(-九二八︶は‘ 日本軍が山東に ちようさくりん*

出兵し、張作雰爆死事件が起こっている。しかし、諸橋轍次は意欲に満ちた おういつ

四十六歳、鈴木一平もまた気力横溢の四十歳であり、前途に横たわる困難な ど窺い知るよしもなかった。

廿を分かち苦を共にす とよたま

当初の編纂所は豊多摩郡高田町、いまの豊島区雑司ヶ谷一ノ三三八の諸橋 邸に設けられた。まず‘十三経、老荘、荀韓、国語、戦国策、史記、前後漢 配 ‘三 想 辟、‘ 匁 忠 ‘ 印 氏 塁 妬 閲 家 幻 ‘選文 釘 釦、‘ 国史 唐詩 、章三 体詩

*張作諜︵一八七 H │︳空八︶中国の軍

による列車爆破で死亡。

人。一九二八年、関東軍の陰謀

の経書。易経︵周易︶、書経︵尚

*十三経宋代に確定した十三種

書︶、詩経︵毛詩︶、周礼、儀礼、

孟子。

礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝‘ 春秋穀梁伝、論語、孝経、溺雅、

3 8

孔子家語などの基本的な書物について学生の分担者をきめ、精力的に語彙・ 熟語のカードをとった。三、 四年後の夏に分類に入ったときには、約四十万 枚に達していたという。 風が吹いてカードがとばされては困るので、猛暑のさなかでも障子をしめ きりにし、汗だくになって整理をした。分類が終わると引用文によって成語 の解釈をつけるのが、諸橋と川又武の役割だった。川又は、諸橋が帰国後す ぐ語彙の整理をはじめたときからの協力者で、国学院の教師であったが、 ちにこの仕事のせいもあって健康をそこね、再起不能となった。 四十万枚のカードを目のまえにして、諸橋は到底二、三冊では収まりきれ

このことを鈴木に相談すると、今度は即座

ないのを知った。そうなると、完成にどのくらいの期間が必要になるものや ら見当もつかなくなる。しかし

に﹁お考えどおりの方針で、 どうか完全な大辞典を作るようお願いします﹂ との頼もしい答えが返ってきた。 諸橋には頼もしかったかもしれないが、鈴木はやはり不安であった。当時 諸橋邸に行くには護国寺前で電車を降り、 さらに五町ほどの狭い路地を歩か なければならなかった。昼は仕事の手が離せないので、 たいてい夜になる。



暗い道を歩きながら、 この先いったいどうなるのだろう、という不安が脳裏 をかすめる。さてこそ漢和辞典に大きなものがないわけだ、などと思うと、 絶望的な気持ちにさえなる。 ところが諸橋の温顔を目にするとそうした心配 がうそのように消えうせて、帰途は顔もはころび、もしこれが実現するなら

を編纂助手として能率向上をはかった。そこを﹁遠人村舎﹂と名づけたのは‘

陶淵明の﹁帰園田居﹂から﹁曖曖たり遠人の村‘依依たり墟里の煙﹂という

*遠人村舎

当時の看板

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ば、余人の及ばない大事業となるだろう、出版人としてこれ以上の仕合わせ はない、 という気持ちで足どりも軽くなるというぐあいだった。 六年間の雑司ヶ谷時代に、﹃康熙字典﹄その他から文字六万字、語彙・熟語 は百二十万語を採集、 これに出典を併記し、菊四倍特製原稿用紙約七万枚に 記載して﹁原簿﹂とした。本文用には二十二字詰め二十行の原稿用紙約六万 枚に清書したものを使用した。編纂所を増築しただけでは不足となり、昭和 八年(-九三三︶からは杉並区天沼一ノニ六三に家を一軒借り、文理大の学生

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一節にちなんだもので、あまり人が訪れて邪魔されないようにという心から であった。

最も困難なのは、すべての熟語について出典・引用を探索することで、今

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『大漢和辞典』を作る

3 9 第 1部

4 0

日とちがって参考にすべき索引類もまったくないままに、﹃春秋左氏伝﹄を数 人で手分けして探したり、目次を見てカンで何篇にあるという見当をつけな ければならなかった。出典・用例のない語は入れない方針としたが、現代語 はともかく、古い語彙で出典のありそうなものは全部探さねばならなかった。

一語を求めて、

そのなかの典拠がありそうなことばをあらゆる古典のページから探しだすの は、まさに大海から︱つぶの真珠を探すようなものだった。

8ねもす一冊をめくっているということもあり、 いっこう能率はあがらない。 このころ諸橋の妻は弟子に向かって、﹁いったいいつできるんでしょうか。 本ができなければ諸橋家の借金となってしまいます﹂と、不安を打ち明けた という。

しんちよく

一日何枚というノルマを定めることにした。いまだ全体

これが原因でもなかったろうが、昭和九年(-九三四︶四月には﹁あと一年﹂ という目標を立て、

の三分の一ぐらいしか進捗していなかったが、助手たちは学校にも出ず、昼 夜兼行で努力し、予定通り一年間で完了させた。そしてさらに清書原稿から 内容を厳選し、あわせて挿入図版約三千個をこれも原典から採集し、原稿と したのである。

▽r 大漢和辞典』編集当時の諸橋轍次

0 年ごろ) ▽遠人村舎における編集風景(昭和 1

4 2

出版社側でも‘困難にあえいでいた。見本組にとりかかってみると、四万

六ポを木版彫刻によって作字しなけれ

︱っ︱つの字について、親文字用の三号を

九千字必要な親活字がわずか八千字しかなく、しかも辞書活字としては使い ものにならないことがわかった。 はじめ、十ニボ、九ポ、 八ポ、七ポ

ばならない。この種字木版製作という数年がかりの大仕事に従事したのが、 当時牛込区赤木元町に在住の木版彫刻師木村直吉はか五、六十名であったが、 およそ一点一画の誤りも許されないため、せっかく彫った印材を大量に破棄 しなければならないこともあった。昭和十一年(-九三六︶に入社し、 のちに 副社長になった川上市郎は、あるとき﹁シンニュウ﹂ の彫りかたを間違えた だけで何万本という活字が一度にフィになるのを見て、 ﹁これはたいへんな 仕事だ﹂と緊張したという。 昭和五年(-九三 0) ごろから木版代が毎月千円を越すようになっていた。 昭和八年(-九三三︶には自社のそばに建坪六十坪二階建の整版専門の工場 を特設し、原版そのものを︵紙型にとらずにそのまま︶ 一万五千ページ分組み 置きにするという、常識破りのことを実行した。これは全巻を通じて各文字、 関連語彙、熟語などの相互検索を可能にするためだった。ほかに製版所二箇

た版を、何らかの事情でそのま

*組み置き印刷のため組み上げ

ま保存すること。長期の組み置

きは印刷所にとって、置場所や

が多い。

管理、資金回転などの面で問題

『大漢和辞典』を作る

4 3 第 1部

所を設けたが、組版のためのエ員だけでも四十八名を数え、経営の圧迫要因 となったばかりか、十年一 H のごとき単調な仕事に倦んで、辞めていく者が 多いのも悩みの種であった。 昭和十二年(-九三七︶日中戦争の勃発したころには、金属不足によるイン テル︵活字組版の行間に入れる金属板︶が入手できなくなり、大工に依頼して木 型のものを作らせた。 このほか細字の画をはっきりさせるために、活字を薬

おちあい

品で特殊加工した細磨き活字を開発した。これらは整版の直接担当者だった 小林康麿の功績であった。 そのころ編纂所は淀橋区西落合一ノニ四に移転した。編纂作業は、新刊書 などから実用語、中国現代語・新造字などを採集、吟味する段階に入ってお

*鎌田正︵一九一一ー︶中国古典学

り、その結果収集した百五十万語から五十万語を選び、既成原稿と対比検討 した。さらに策文一万百余字を写真複写したものを木版に彫った。昭和十四

授。文学博士。﹃左伝の成立と其

﹃広漢和辞典﹄︵共著︶

とを継いで静嘉堂文庫長となる。

昭和三十一年より諸橋轍次のあ

*米山寅太郎︵一九-四│︶漢学者。

の展開﹄﹃広漢和辞典﹄︵共著︶

︵春秋学︶。東京教育大学名誉教

年︵一九四 O)には‘校正を六回ほど取るまでに進行していたが、 このときは じめて参加した鎌田正と米山寅太郎から、引用のしかたなどに問題があると 指摘され、全篇にわたって見直しを行なうことになった。 昭和十六年(-九四一︶からようやく仕上げ段階に入り、親文字や語彙に一

4 4

*﹃四庫全書﹄清の乾隆帝が編集

七八一年完成。

させた大叢書。三千四百九十八

この過程は予想以上の難

連番号を付し、最終的な校正を行なった。しかし

事だった。四人の助手︵前述の川又武のほか、渡辺実一、真下保爾、佐々木新ニ

種‘七万九千五百八十二巻。一

郎ら︶が必死の努力を続けたが、結核などの病気でつぎつぎに倒れ、戦局が悪

*紀暁嵐︵一七︱︱四ー一八 0立 ︶ 清 の 学 者。応即。約十年にわたって﹃四 しこ

一時は書棚を代用

化するにつれて棺材すらも求め難い状況となってしまい、

亡くなったばあいには、﹁天、予 ほろぼわれほろぼ を喪せり。天、予を喪せり﹂と つうたん 痛嘆され、 ﹁突して、し配して釦﹂

われ

斯の人にして斯の疾あること﹂ なげ といって、ひじょうにお歎きに がんかい なっていらっしゃるし、顔回が

ここや拿い

病気になったときには、先聖は その手をとって、﹁命なるかな。

*伯牛・顔回・子路の例伯牛が

載されている。

轍次との対談は昭和三十一年 ︵一九五六︶五月二十日号に掲

︶ -︶から十六年間︵四0 0回 連載された対談記事。徳川夢声 のホスト役が好評だった。諸橋

間もない昭和二十六年(-九五

*問答有用﹁週刊朝日﹂に戦後

微草堂筆記﹄がある。

庫全書﹄編纂を指揮。小説﹃閲

ぜんしよ*きざようらん*

することまで考えるという悲惨なことになった。のちに彼は、﹁中国の﹃四庫 全書﹄という大きな本をつくった紀暁嵐というひとがありますがね、しごと



をやってるあいだに、 たくさんの同志が倒れたので、非常にかなしんだそう です。わたしもつくづくそんな感じがしましたですよ﹂︵﹃問答有用﹄ 一九五六︶ と語っている。最晩年の ﹃孔子・老子・釈迦﹁三聖会談﹂﹄という著書(-九 どうこく

八二︶ のなかで、とくに﹁門弟の死と孔子の慟哭﹂という一節を設け、伯牛・ 顔回・子路の例をあげているのも、夭折した自らの門弟の思い出が背景にあ ると思われる。

かつけ

諸橋自身もまた健康に恵まれなかった。子供のころはともかく‘十九の年 に脚気と腸チプスで死にかけたのをはじめ、壮年時代を通じてずっと虚弱体 質だったから、四十五歳までには死ぬと思いこんでいたほどである。 この辞 書編纂の過程でも、肺炎、肋膜炎、百日咳などでそれぞれ二、三箇月も床に

『大漢和辞典』を作る

4 5 第 1部

伏した。 最も大きな障害となったのは視力だった。もともと近眼のうえに乱視がく わわり、空を見上げると月が二十ぐらい花輪のように見えた。昭和七年(-九 三二︶、五十歳を過ぎるころから白内障にかかっていたが、十五年(-九四 O) ごろから校正で眼を酷使したため、失明同然になってしまった。二十年(-九 四五︶四月には皇太子教育奉仕のため皇后宮職御用掛を命ぜられたので、失 礼があってはならないと手術に踏みきったが失敗、右眼はまったく見えなく なってしまった。左眼で細字の校正をしようとしたが、拡大鏡を用いても不 可能であった。夜間目がさめると、白壁の上に画数の多い文字がありありと 映ってみえた。その文字は一行二、三十字のものが十行ほどもあり、すべて 見たこともないような異体文字であった。医者によると、 こうした幻覚は脳 溢血が起こる前兆だということであった。その後再手術で左眼は回復したが、 日常においても何かと不自由であった。 一方、出版社側はようやく前途が見えてきたというのに、戦争の拡大につ れて、用紙その他の資材難に悩まされはじめた。軍部にとって漢和辞典など というものは戦力に無関係であるから、統制機関である日本出版会の審議が

しろえいこくなん

の肉を塩づけにしたと聞くや、

されました。子路が、衛の国難 に虎じ、あまつさえ、敵が子路

わが家の塩づけ肉をすっかりお 捨てになったという。まことに かな 人情に叶った自然の行動だと思 います。︵諸橋轍次﹃孔子・老子・

釈迦﹁三聖会談﹂﹄一九八二年講

談社刊︶

*日本出版会戦時下の昭和十八

の一環として設立された出版統

年(-九四三︶、国家総動員体制

制機関。企業整備、雑誌統合を はじめ、用紙の割り当てを実施。

6 4

あとまわしにされ

いつ許可になるか皆目不明だった。著者同道で軍部にお

百度をふみ、中佐、少佐などというあたりにソッポを向かれつつ、ようやく



一万部ほど﹁特別継続発行﹂ の許可と﹁用紙購入配給切符﹂を得ることはで きたが、 今度は肝腎の用紙を漉いてくれるところがない。八方手をつくして しようぞうひかく

たままゆ

王子製紙十條工場において抄造してもらえることになった。造本は皮革を使 用できないため、あらゆる代用品を試し、玉繭を原料とした模造皮革を開発 することができた。当時の大出版、冨山房の﹃国史辞典﹄︵全四巻︶も類似の

その びよう

装禎材料を用いているが、 この種の労苦はとかく忘れられがちである。

しゅくこっ*

—昭和十八年(-九四三)九月十日、ついに第一巻が刊行された。

序文で諸橋は、 ﹁初め斯の業に着手してより條忽既に二十年、 其 の 間 砂 た る しんせいまた

身世亦多少の波瀾無きに非らず。然かも尚素志に酬いて以て今日あるを得た るは聖代の餘澤、抑も亦盆反・素軒.黙堂等諸友の補翼と、 大修館主の協力 を得たればなり﹂と、感慨深げに記している。 反響はすばらしく、新聞はこぞって諸橋の業績を讃え‘版元大修館書店の

いかん

努力を称賛した。同年度の朝日賞を受賞、予約者は三万を数えたのも当然で あったが、如何せん、用紙は一万部を副るだけしかない。それよりも、戦局

第一巻

>昭和十八年刊行の﹃大漢和辞典﹄

かに。すみやかに。︵﹃大漢和辞

*條忽はやく。たちまち。には

典﹄第一巻︶

ふ。◎此の世。この身。︵﹃大漢

*身世〇人の一生涯。生命をい

和辞典﹄第十巻︶

る同学の士。盈反は近藤正治、

*いずれも諸橋轍次の当時におけ

素軒は藤塚鄭°黙堂については 未詳。

『大漢和辞典』を作る

4 7 第 1部

がいよいよ悪化の様相を示し、直接戦火の危険が迫る中で、 いかに第二巻以

ついに名目的ながら研究社と合併しなければな

降を出していくかが問題だった。出版統制による企業整備の要請が強くなり、 鈴木は最後まで抵抗したが

より行なわれた、出版社の合併

*出版統制による企業整備戦時 中の出版統制機構日本出版会に

までに三千六百六十四社あった

統合策。昭和十九年(-九四四︶

出版社を一︳百六社に整理したの で、社名を存続できない出版社

ほとん

この事業が、今後自分の名前で発行できぬことを思うと、もはや生き抜く気

も多かった。

らなくなった。﹁いかに時世とはいえ、精魂を傾け、人生の殆どを捧げて来た

塊もなく、総べてが体内から消え去る思いであり、全く失望した﹂︵﹁出版後 記 ﹂ ︶ 。 諸橋としても‘ この前後が正念場だった。前述のように長年頼りにしてい た助手が倒れ、小林信明︵のちに東京教育大学教授︶が編纂事務と校正を担当 したが、連日早朝の五時から夜の十一時まで費やしても足りない。続々再調 査や補正の必要が生じてくる。

この時‘唯一の力になってくれたのは、米山寅太郎君︵注、のち静嘉堂文庫 長︶である。米山君は、士官学校の教官をしていた。忙しい校務の中を遠人 村舎へ呼びつける。すると戦闘帽に長靴で、侃剣をガチャつかせて駆けつ けてくれた。その人に無理を言って、徹夜のような仕事を言いつける。尋

4 8

一仕事済まして帰っていく。それが加賀栄

常なことではなかった。そのころ、もう一人、特に目についた男がいた。 私が早朝に出勤すると、もう、

治君︵注、 のち北海道学芸大学教授︶で、まだ学生服を着ていた。︵﹁遠人村舎 の思い出﹂︶

﹁出勤﹂というのは、遠人村舎が自邸の別棟にあったからである。 しかし、 戦局はいよいよ悪化するばかり。 ついに諸橋は鈴木と最悪の場合 について話しあわなくてはならない羽目に陥った。現在の状況のもとでは‘ この種の事業は不可能ではあるまいか? 鈴木は、もとより事業遂行の決心にかわりはないが、なにしろ資金面も苦 しい。年額三千六百円ぐらいまでなら出せるが、それ以上はむずかしい、と 具体的な数字をあげて苦衷を訴えた。予想以上の窮状を知った諸橋は、岩崎 小禰太に一箇月七百五十円の援助を求めたが、暫く時期を待つようにといわ れ、当面の活動をあきらめざるを得なくなった。

こんせい

昭和十九年(-九四四︶三月、折から病床にあった彼は小林信明を呼び、自 分の生前に出版ができなくても、志を継いでくれるように懇請し、快諾を得

『大漢和辞典』を作る

4 9 第 1部

た。師弟ともに悲愴な決意であった。 昭和二十年(-九四五︶二月二十五日、空襲によって組み置き一万五千ペー ジ分の活字と、苦心して入手した用紙のいっさいが烏有に帰してしまった。

”万事休す“というのが関係者すべての気持ちであったろう。

校正刷が三部ほど疎開してあったことだけが、不幸中の幸いだったとはい え 、

ついで終戦。のちに諸橋は当時の心境を、﹁かえってホッとして、それほど 失望もしなかった。国がこんな状態になったなら、もう自分の仕事もこれま でだと思った﹂と述べているが、 終戦そのものはショックで、疎開先で涙を 流し、﹁男が泣くのは父親が死ぬときと、国が滅びるときだ﹂と語っている。 彼がカードを焼き捨てたり、編纂資料の蔵書を人にくれてやるのを見て、弟 子たちは途方にくれた。 鈴木は焼跡に立って、 かえってせいせいとしていた。それまでに投じたニ 百万円︵現在の物価にして約三十億円︶は大金にしても、企業整備のため自分

半ば自暴自棄というべきものであったが

じぽうじき

の名前で出版できないくらいなら‘焼けてしまったほうがよいと思ったので ある。 ていかん

それぞれの思いは、 半ば諦観

5 0

りようえん

事態の深刻性をいくぶんなりとも和らげる役には立ったかもしれない。 このとき諸橋轍次、六十三歳。鈴木一平、五十八歳。前途はなお遼遠であ こ 。 つf

廃墟の中から 諸橋は終戦の年の十月に文理科大学および高師を依願退職し、東宮御用掛 はか宮内省での奉仕をつとめることになった。鈴木一平は若い川上市郎とと もに、大修館書店復興のために努力していた。英語辞書の原版と英語会話書 の原本が焼失を免れていたので、資材調達に苦しみながらも、比較的早く立 ち直ることができた。新検定制にしたがって、教科書を出すことができたの もプラスであった。 さて、諸橋は﹃大漢和辞典﹄ のことが片時も脳裏を去ることなく‘万一大 修館で刊行ができなければ、前述の岩崎の援助でも受けて静嘉堂文庫からで

ふによい

も出そうかと考えながら、校正刷に朱を入れはじめていた。時世は大きくか わったが、何もかも不如意で、大出版が可能な状況とは思われなかった。

『大漢和辞典』を作る ー 5

第 1部

だが、間もなく鈴木から、﹃大漢和﹄継続の決心がついたという便りがあり、 その内容は諸橋を感動させるに十分であった。﹁ついてはいま東京慈恵会医

*写真植字従来の活字を手作業

科大学に在学中の長男敏夫を退学させて経営に参加させ、東京大学をめざし て勉強中の次男啓介を断念させて、写真植字を習得させたいと思います。さ

変えることができるのが特徴。

により平体•長体・斜体などに

すいことと、それを変形レンズ

る方式。原文字を比較的作りや

印画紙などに感光させて植字す

ないし機械により組む方式に対

らに三男荘夫の東京商科大学卒業を待って経理の実務につかせ、 私亡き後で

し、文字板の原文字をフィルム、

かんすい

も私の分身がかならずこの事業を成し遂げられるようにします﹂。 父子二代の命運を賭しても、この事業を完遂したいというのである。諸橋 は意気に感じ、﹁それなら、 やらなくちゃならん﹂と決心した。 ある意味では戦前よりも困難な状況だった。川上が諸橋のところに十五箇 月通い`ようやく計画案が成立した。﹁これで辞典は、 できたも同然だ﹂│ __ 諸橋は目をうるませた。 当時修正作業に加わったのは近藤正治、小林信明、 渡辺末吾、鎌田正、米 山寅太郎らであったが、少し遅れて土橋八千太が加わった。 この人はもと上

ごびゆう

智大学の学長で、文理大グループとは異質だったが、戦前第一巻刊行と同時 に誤謬を指摘してきた。それが識見に富んでいたので、校閲を依頼すること にしたのである。

5 2

上智大の構内にいる土橋のもとへ校閲用の原稿を届けに通ったのは米山で あるが、食糧事情の最悪なときに世田谷から四谷までの往復はこたえた。冬 は暖房のない応接間で、 たがいに外套の襟を立て、長いときには四時間も修 正についての意見を聞いた。足の先から冷気が全身に泌みてくる。若い米山 が身体の震えをおさえるのに懸命なのに、齢八十を越える土橋は端然として、 白哲の風貌をいささかも崩さなかった。のちに米山は‘辞典編纂の全工程の うち、このときほどつらかったことはなかった、 と述懐している。 このころ親字番号を再整理したが、新品のナンバリングが五万字分を打つ までに使いものにならなくなり、静嘉堂文庫から頑丈な古物を借りたが、作 業の終了とともにまったく動かなくなり、 それを長年愛用してきた文庫の老 人を嘆かせた。

いまだ戦中のつ

また、校正刷の段数や枚数をきっちり数え、予定の十二巻に区分する作業 にも神経を費やし、失敗した夢を何度もみた。夢といえば

もりで防空壕に避難するとき、原稿を書斎に置き忘れた夢を見たりした。

大修館書店も‘このころ勝手のちがう悩みを経験していた。火災にこりた

『大漢和辞典』を作る

5 3 第 1部

鈴木は、鉄筋コンクリートの社屋と整版工場を新築したうえで、中野にあっ た単式印刷に印刷を依頼しようとしたが、あまりにも膨大なために断られて

一向にはかど

しまった。自社工場での活字母型の製造にしても、金属資材の入手困難はと もかく、肝腎の木版彫刻師がめっきり少なくなっていたので、

らない。完成が十年、二十年も先の話になりかねない有様となり、あまつさ え組版に関する最大の協力者だった小林康麿が亡くなるという事態が生じた。 このようなときに、知人から写真植字にしたらどうかといわれ、斯界の第 一人者である写真植字機研究所︵現在の写研︶の創立者、 石井茂吉を紹介され

一日に二十字を書くとして七年。それまで体力が持つだ

た。さっそく交渉してみたが、当時六十歳を過ぎていた石井は容易に首をた てに振らなかった。

ろうか。字体は癖がでるので、統一のためには一人でやらなくてはならない。 交渉役にあたった川上は石井の妻から、﹁長年連れ添う私としては主人の身

一年三箇月の熟慮の後、 石井はついに決断した。損得を抜きに、

を案じますので、 今 ま で の 話 は な い も の に し て 頂 き た い ﹂ と 、 涙 な が ら に 訴 えられた。 しかし、

ライフワークとして引き受けることにしたのである。そして立派にその重責

出身。大正十四年(-九二九︶、

*石井茂吉︵一八令ー一九六︱︱-)東京都

邦文写植機を完成。写真植字機 研究所︵現在の写研︶を設立。

5 4

を果たし、 昭和三十八年(-九六三︶七十五歳で没した。その功は菊池寛賞を もって酬われたが、晩年の八年間、 父親が心血を注ぐ姿を見守った娘の裕子 は‘﹁石井茂吉は亡くとも石井文字は大漢和辞典の中に永遠に生きておりま す。︵中略︶活字にはない五万字の石井文字を残すことが出来ましたことを、

げんめいほういわそうけつ

心から感謝しております﹂ と記している ︵﹁大漢和辞典と石井文字﹂︶。

すなわせんぞう

いま彼女は父親が生前、諸橋から贈られた ﹁春秋元命芭に曰く‘倉頷、字 を製するや、 天為に粟を雨らし、鬼為に夜哭し、 竜乃ち潜蔵す﹂という書を

かこく

蔵している。漢時代の﹃春秋元命包﹄という書物によれば、黄帝の左史とい われたる倉頷がはじめて文字を作製したとき‘ 天はために嘉穀を降らした。 文化の進展によって鬼は出現の場所を失い、竜もまた深い淵に隠れてしまっ た、というのである。諸橋は‘ 石井こそ写植という新しい文字の創造者であ り、現代の倉頷というにふさわしい、 といっているのであろう。

それはともかく、大修館側は社屋内に写真植字用の印字設備を整え、特別 に養成した社貝をこれにあてた。すべての準備が整い、第一巻の印刷が終了 したのは、昭和三十年(-九五五︶八月であった。

▽戦前の第 1巻刊行当時の諸橋轍次

▽『大漢和辞典』刊行発表会(昭和 3 0 年 4月 )

5 6

このときまでに費やされた歳月は二十七年、携わった人員は延べ二十二万 二千六百八十二人、費用は当時の物価に換算して六億をこえていた。

悠然として南山を見る 文字の数で﹃康熙字典﹄の四万七千をしのぐこと二千字、語彙は﹃侃文韻 府﹄の四十二万に勝ること十万という規模の﹃大漢和辞典﹄の内容が発表さ れたのは、昭和三十年(-九五五︶四月二十五日であった。発表会での挨拶に

よししげ

立った諸橋轍次は、編纂の苦労を控え目に語り、将来にわたって改訂してい きたいと述べた。このとき出席していた安倍能成は、小泉信三に対し﹁これ を聞いて日本人が頼もしくなった﹂と漏らした。 予約募集がはじまり、内容見本の前後約三十年におよぶ詳細な編纂史と、

じゃっく

﹁三十年間の血闘的著作と時価六億の巨費とによる世紀の大出版遂に成る﹂ という惹句は、人々をおどろかせるに十分だった。考えてみるまでもなく‘

一挙に空白をうめてなお余りある重厚な出版物が出現し

戦後ようやく十年目、 いまだ日本文化のバックボーンとなるべき業績を見る ことがない時期に、

十年 1三十五年︶

A ﹃大漢和辞典﹄全十三巻︵昭和一

『大漢和辞典』を作る

5 7 第 1部

とうとう

たのである。それは沿々たるアメリカ文化、漢字制限の風潮のさなかでは、 大きな文化的衝撃にほかならなかった。 部数は八千組。同年の十一月三日に第一巻が配本され、 五 年 後 の 五 月 二 十

おさらぎ

五日に最終巻の第十三巻﹁索引﹂が刊行された。吉川英治は自宅と仕事場に 三組を注文し、大佛次郎も二組を揃えた。諸橋はこの業績によって紫授褒章 ︵一九五五︶、 文化勲章(-九六五︶を得たが、鈴木一平もまた菊池寛賞(-九 五七︶によって、出版人としての功績を評価された。 だが、よいことずくめではなかった。当初一万部を期待していた予約が、 六千余部にすぎなかったのである。これは主として、戦後まだ日が浅いため 継続出版に十分な信頼が得られにくかったこと、 五千円︵上製本︶という定価 が当時のサラリーマンや教師の一箇月分の給料に匹敵したことなどに原因が あるが、鈴木を落胆させるに十分だった。このこととは別に、高校用教科書 ついに社屋および土地の売 一時は社長の地位も他人に譲らなければなら

の不振がもとで、大修館書店は経営不振に陥り 却を余儀なくされたのである。 なかった。

その後、﹃大漢和辞典﹄は安定的な部数を刊行できるようになり、昭和四十

4 文化勲章受章時の諸橋轍次

5 8

一年(-九六六︶に刊行された縮写版は予想以上の普及をみた。ちなみに、本 書の内容に関する問題で、音韻の出しかたについての不備、日本での用例や

いしよく

仏教関係の用語に乏しいことなどは‘夙に刊行時点で諸橋自身が反省してお り、諸橋は、その改訂作業の一切を高弟の鎌田正、米山寅太郎に委嘱した。 その結果、昭和四十一年(-九六六︶に刊行された縮写版では親文字の解説

一貫して改訂作

にかなりの修正が施された。さらに、昭和四十九年(-九七四︶には諸橋の 意を体して鎌田正を所長とする東洋学術研究所が設立され、

こうこつぶん

業が進められることになった。そして、昭和五十六年(-九八一︶刊の﹃広漢 和辞典﹄︵諸橋轍次・鎌田正・米山寅太郎共著︶では甲骨文や金石による字源解 釈が補われ、 さらに五十九年(-九八四︶から刊行の﹃大漢和辞典﹄修訂版全 十三巻では、このような研究の進歩を全面的に吸収、 さらにすべての項目に ついて出典・用例を再調査している。 漢和辞典の世界では、 ほかにこのようにふだんの改訂作業をしっかりした システムをもって継続している例はない。 鈴木一平は、﹃広漢和辞典﹄以降については知ることなく、昭和四十六年 ︵一九七一︶、八十三歳で没した。法名﹁大修院徹漢一道居士﹂。諸橋轍次は友

>菊池寛賞を受ける鈴木一平

では安らかに眠りについてください﹂という弔辞を述べた。

ちようじ

人として、﹁君こそはまさしく成すべきを成し終えた。思い残すことは何も無 し



新潟県下田村の八つの小学校では、社会科.の時間に、地元教育委員会が編

ずまいを

二条と新屋の間をバスが通るよう

もみじ

ひねもす飽かず眺め暮らしていた。庭先の松と椛のあいだから、

居間の柱に背をもたせながら、諸橋は眼前にひろがる蒲原平野の静かなたた

明治二十七年(-八九四︶に建てられたという古い住まいの、北東に面した

期的な出来事であったことが窺われる。

成長以前の農村にとって、毎年の夏避暑のために帰郷する名士の受章が、画

五︶には、 ﹁諸橋博士が文化くんしょうをもらった﹂という記載がある。高度

になったことなどが記されているが、 そ れ に つ づ い て 昭 和 四 十 年 ( - 九 六

田村のトップで完全給食をはじめたこと

繁殖地として、 天 然 記 念 物 に 指 定 さ れ た こ と 、 笹 岡 小 学 校 と 大 浦 小 学 校 が 下

和三十五年(-九六 O)の頃には、 八 木 ヶ 鼻 と い う 奇 岩 の 景 勝 地 が ハ ヤ ブ サ の

纂した﹃わたしたちの下田村﹄という副読本を用いているが、巻末年表の昭

。 、

『大漢和辞典』を作る 59 第 1部

>下田村の名勝八木ヶ鼻

一番地にある諸橋轍次の旧家は‘

*古い住まい下田村字庭月五百

明治初期に建てられた生家は六

村の文化財に指定されている。

だけであったというが、現存の

畳一間、三畳二間、四畳半一間

どの規模になっている。

ものは二階部分を中心に、倍ほ

6



目にしみるような緑の田畑と、はるかに八木ヶ鼻の奇岩と弥彦山を望む光景 は、八十年まえの幼き日といささかも変わりはなかった。 いまやこころざし を果たして園田の居に帰った彼の脳裏に、ありし日の父母やなつかしい友の 面影が絶えまなく去来していたのは当然といえよう。そんなとき‘炭焼きと

ひようひよう

なった幼友達が、丹精をこめて作った炭の俵をかついで訪れると、諸橋は驚 喜して迎え、 みずから風呂をたててやるのだった。 照ればパナマ帽、降れば茶色のこうもり傘をさしての割々とした散歩姿 は、村の名物だった。東京では散歩の途中であいさつされ、﹁どちらさまで﹂

しんせきちき

と問うたら、﹁隣の者です﹂といわれてしまったというエピソードもあるが、

これはそのまま諸橋育英基金として今日におよんで

村ではすべての老若男女が親戚同様の知己であった。受章を機会として村に 一千万円を寄付したが

ぽだいじ*

A 八十歳当時の諸橋轍次

*長禅寺新潟県南蒲原郡下田村

いる。 昭和四十一年(-九六六︶ の六月、彼は父祖の菩提寺である長禅寺におい

地の中腹には、諸橘轍次とその

て碑文が刻まれている。

の墓には、石井写植文字によっ

両親、祖父の墓が並び諸橋本人

森町にある。本堂裏手の丘陵墓

て、盛大に父嵐陰の五十年祭を行なうと、自らの墓の位置を母親のそれに近

けんしようひ

い場所で、しかも高さは母親のよりも低くすべきことを指定した。 九十二歳の夏はゆかりの荒沢小学校に父親の顕彰碑が建立されたが、その

『大漢和辞典』を作る ー 6

第 1部

ころには足がいよいよ不自由となり、両親の墓のある丘の中腹にのぼること もできなくなり、﹁ことしかぎりで、もう村には帰らないから﹂と、寂しそ つに後事を住職に託すのだった。 最晩年も毎日三時間は机に向い‘ ﹃孔子・老子・釈迦﹁三聖会談﹂﹄ の執籠 に力を傾注、昭和五十七年(-九八二︶白寿の祝いには‘﹁もう一度中国に行 きたい﹂などと、意欲的なところを見せていたが、間もなく病の床についた。 気がかりはただ︱つ、 ﹃大漢和辞典﹄の修訂版を実現することであったが、 上から具体化の動きを知らされると、 ベッドから双の手をのばして握手を求 め、﹁いよいよはじめてくれましたか。ありがとう。今後生き抜くことに努力

きごう

一代の碩学は天寿を全うした。その

せきがく

して、必ず見届けていきたい。よろしく頼みます﹂と‘ さらに強く握りしめ るのだった。 昭和五十七年(-九五二︶十二月八日、

少し以前、著淫会︵旧高等師範学校同窓会︶の百周年式典のために揮奄した ﹁穆如清風﹂の四文字と、それに付した﹁人柄にしても事業にしても、 人目につかないが、自然に深く影響を他に及ぼすさまである﹂という意味の 解説が絶筆となった。

6 2

享年九十九。 清風のごとき生涯であった。

『大漢和辞典』を読む

6 5 第 2部

漢字の威力

象徴としての漢字

森本哲郎

v-s lowと書かれているのである。路上

久しぶりにイギリスの各地をドライプして、妙なことに気がついた。注意 を要する路上に必ず白い文字で大き

にこのような文字が書かれているのは、なにもイギリスに限ったことではな い。日本でも車道のいたるところに、そのような注意書きが大書してある。 私が妙に感じたのは、それが日本だと﹁速度をおとせ﹂というぐあいに、 なりの文字を使わなければならないのに、英語だと簡単に slow という四文 字で事足りるということであった。 むろん、 日本語のほうが簡単な場合もある。たとえば﹁とまれ﹂だ。英語



6 6

だと、それが stopと四文字になる。自動車を走らせているときには、とうぜ ん短い言葉のはうが読みやすいわけで、 だから﹁速度をおとせ﹂と書くより ﹁ゆっくり﹂としたほうがいいのではないかな、などと私はハンドルを握り ながら考えた。 が、そのとき、私は中国をマイクロ・バスで走ったときのことを思いだし た。走ったといっても私が運転していたわけではないが、運転台のすぐ脇に すわっていたのである。 いやでもいろいろな交通標識が目にとまった。なる ま,ど 、 と思ったのは、列車の踏切りなどに立てられている﹁一慢二看三通 J

過﹂という注意書きだった。 日本語に直訳すれば、﹁一にゆっくり、 ニによ く見よ、三に渡れ﹂ということになろうか。標語のように訳すと、﹁あわて ず、よく見て、さあ渡れ﹂となる。句読点をふくめると中国の二倍の文字数である。 しかし、私がいちばん感心したのは、﹁慢﹂という一文字だった。 つまり、 ﹁速度をおとせ﹂であり、英語の slow である。それがたったの一文字で充 分に事足りているのである。しかも、 かなりのスピードで走っていても‘ そ の文字は一瞬のうちに目に入り、 即座に理解できる。﹁看﹂、すなわち﹁左右 をよく見よ﹂も一文字でドライバーヘの注意を立派に果している。そうした

大漢和辞典』を読む 6 7 第 2部 r

標識をながめながら つくづく漢字という文字は便利だなあ、

ためて漢字の効用を思い知らされた。

漢字ほど見事に文字というものの伝統を担い、文字としての

おそらく世界の文字のなかでといっても‘私はそのはんのわずかしか 知らないが I

役目を充分に果している例はほかにないのではあるまいか。 と い う の は 、 世 界の文字のほとんどが、 いまや表音文字となり、文字の出発点であった象形

サイン

的性格を捨ててしまっているからである。記号としては‘ た し か に 表 音 文 字

シンボル

ぐ象形文字の例

多 m 門 4~ ~ ~ 羅門門林目 棗 首雨門行耳糸

のほうが簡略化され便利であるように思われる。だが、文字はたんなる記号

にとどまるものではない。同時に象徴としての機能を持っている。持ってい 、、、、 るというより持つべく要請されているというほうがいいかもしれない。そし

かた

いうまでもなく形を象どったものであり、視覚に訴えるものだ。

て漢字はまさしく、そのふたつの性格を備えているのである。 象形とは

漢字の何よりの特質はそれが視覚的であるということだ。それに対して表音 文字は‘字義どおり聴覚を基本としている。だから文字のひとつひとつはた だ音を想起させるだけである。 たとえば黒板に大きくBという文字を書いて 先生が黙っていたとする。生徒にはそれが何を意味しているのかわからない。

羅 w l し半 ¥ , ! J f 夭 5 ( 山子大刀水牛

h



~

~

ら あ は 私 、 と

6 8

なぜなら、 B は た だ ビ ー 、 あ る い は ブ と い う 音 を あ ら わ し て い る に す ぎ な い からである。 だが、漢字の一文字、 か り に ﹁ 朝 ﹂ と い う 字 を 黒 板 に 大 書 し た としよう。生徒はたちどころに、 そ の 文 字 が モ ー ニ ン グ と い う 意 味 で あ る こ とを理解する。

ひたい

私が中学生だったとき、数学を担当してくれたのは、まだ若い天才的な教 師だった。先生は痩せてひょろ長く‘頬はこけ、額はおどろくはどひろく‘ ロ 数 は 極 端 に 少 な か っ た 。 あ る 日 、 先 生 は 教 室 に 入 っ て く る な り 、 黒板にB という文字を書いて、なんと一時間、 ま っ た < 何 も い わ ず に じ っ と 正 面 の 壁 を見つめていた。 だ が 、 蒼 白 な 顔 は け っ し て 放 心 し て い る よ う に は 見 え な か った。何かを懸命に考えていることはあきらかだった。 だから私たち生徒は、 その真剣さに打たれ、怖れをなして授業の終わりのベルが鳴るまで、水を打 ったようにシーンと口をつぐんでいた。あとでわかったのだが、先生はフェ ルマーの問題を解こうと夢中になっていたのである。 そ の と き 先 生 が 黒 板 に 書 い た ﹁B﹂という文字は‘ むろん、先生にとって はたんなる記号以上の意味を持っていたのかもしれない。しかし、私たちに はビーというサイン以上の何者でもなかった。 だ か ら 生 徒 は み な 退 屈 し 、 ま

『大漢和辞典』を読む 第 2部

6 9

るで坐禅を強いられたような気分だった。 あしび

つぎの時間は国語の時間で、受け持ちは俳誌﹃馬酔木﹄ の同人でもあった

A先生だった。先生は教壇に立つと、 黒板に書き残されていた﹁B﹂という 文字を一瞬、不思議そうに見たが、すぐ、それを消して﹁朝﹂という漢字を 大きく書いた。そして、﹁さあ、この題で作文してごらん﹂といって自分は教 壇にすわったまま雑誌ー~おそらく『馬酔木』だったのだろう—|—を読み始 めた。生徒たちはしばらく﹁朝﹂という字をながめていたが、 やがて思い思 いに想をまとめ、作文にとりかかった。そのとき私はどんな作文をひねりだ したのか、 はっきり覚えていないが、 たしか﹁朝﹂という漢字の一文字から‘ 長塚節と石川啄木の歌を思い浮べ、それぞれ夏と冬の朝の情景を心に描きな

つぎのような二首である。

がら文章をつづったことだけは記憶している。 その歌とは

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり︵長塚節︶

なつかしき冬の朝かな。

令灼

器h

てんぶん

A ﹁朝﹂の策文

1

7 0

湯をのめば、 湯気やはらかに顔にかかれり︵石川啄木︶

私がいいたいのは、 こういうことだ。すなわち、 おなじ文字でありながら、

ローマ字の場合はイメージを

ローマ字の﹁B﹂と、漢字の﹁朝﹂とでは、それを見る人間にかくもちがう イメージを与える、 ということである。 いや

なんら喚起しない。 ただ記号としてそこにあるにすぎない。ところが象形文 字であり、表意文字であり、 さらに表音文字でもある漢字は、 たった一文字 を見ただけで、じつに多くのイメージを浮びあがらせるのである。

何と詩的

﹁朝﹂という文字は草と月を合体させてつくられたという。つまり、草にま だ月が残っている、 という意であり、形である。草に月が残る I

なイメージではないか。それは月がようやく傾き、 やがて草のあいだに没し て、同時に東からは日が昇ってくる情景をあらわしている。 いうなら、蕪村 の名句﹁菜の花や月は東に日は西に﹂と逆の景色をたったの一文字で描きあ げているわけである。あるいは﹁東の野にかぎろひの立つ見へてかへりみ すれば月傾きぬ﹂という人麻呂の三十一文字を、 そっくり一字で描破してい

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るといってもよい。 それだけではない。﹁朝﹂という漢字はモーニングの意味のほかに、王朝の ﹁朝﹂、朝廷の﹁朝﹂、すなわちディナスティという意味も持っている。 だか ら﹁朝野﹂と書けば、 それは前記のように月が草のあいだに没する草原の朝 のことではなく、朝廷と在野、 つまり政府と民間の意である。﹁朝命﹂といえ

ちようじつ

ば﹁朝廷の命令﹂となる。そして、その﹁朝﹂に﹁L ﹂ を つ け る と ﹁ 廟 ﹂ に なるが、それは天子が毎朝﹁朝日の礼﹂を行うところだからである。 私はこの﹁朝﹂という漢字を知り合いのフランス人に大きく書いて見せ、 おなじように書いてごらんなさい、 と、失礼ながら試してみた。彼は大学出

つぎに会うとき

こ 。 一週間後に彼とまた としヽ つf

の知識人なのだが、不器用に私の字を模写して吐息をついた。そして、 こん な複雑で面倒な文字はとても覚えられない

会うことになっていたので、私は笑いながら、どうですか

までに手本なしで書けるように練習しては‘ とすすめた。彼は引き受けたが、

再会したとき—~やはり満足に書けなかった。 むろん、筆順はまった<滅茶 苦茶だった。じつはそのとき、 私は﹁朝﹂とならんで﹁霧﹂という字も宿題 として与えたのであるが、﹁霧﹂に至っては、彼は初めから投げ出していたの

7 2

その子はまだ四歳になったばかりだっ

字が収録され、くわしく解説されている。

わが国の諸橋轍次著﹃大漢和辞典﹄には、それを上回る四万九千九百六十四

清の﹃康熙字典﹄に収められている漢字は四万七千三十五字だそうであり、

こうきじてん

しかも、そのような複雑な文字が、漢字の場合はそれこそ、五万とあるのだ。

も、おなじ文字といいながら、漢字がいかに複雑な記号であるかわかろう。

いや、 七日かけても満足に記憶できなかった。それに対してローマ字は四歳 、、、 の幼児でさえ、あっという間にそらで書けるようになる。これをもってして

たった一字を覚えるのに大学を出たフランスの知識人が一週間もかかった。

I 漢字は—ーむろん簡単な字から複雑きわまりない難しい字まであるが

なしで書けるようになった。私はあらためて、うーん、 と考えこんだ。

むずかしい字である。にもかかわらず、その子はたちまち覚え、すぐに手本

ピツで手本通り書いたのである。 G という字はアルファベットのなかでは‘

と、どうだろう、 その男の子はさしたる苦労もなく‘ たちまち画用紙にエン

たが—ーーにローマ字の「G」という文字を見せ、書いてごらん、 と試みた。

つ ぎ に 私 は 知 人 の 日 本 人 の 子 供I



A ﹃康熙字典﹄︵和刻本

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風雪に耐えた文字

とはいえ、何万という文字がみなおなじように使われているわけではない。 白川静氏によると、じっさいに使われている漢字は、﹃老子﹄で八百二字、﹃論 語﹄で千三百五十五字、李白の詩には三千五百六十字、杜甫が四千三百五十 字、白楽天で約四千六百字だそうである。しかし、 それにしてもこれはおど ろくべき字数であり、文字の多さにおいて世界一であることはまちがいある まい。漢字をやたらに制限した戦後の日本でも、 用いられている文字、 いわ ゆる常用漢字は二千字近くある。これをアルファベットの二十六文字、大文 字を入れても五十二文字、 それとくらべてみるとよい。しかも、前記のよう に、漢字のひとつひとつが高度の教育を受けた大人でさえ一週間かかっても 容易に覚えられないというほどの複雑な記号なのである。 だから習得に時間がかかり、 そのために数学や理科の勉強が犠牲にされて

くみ

しまう、 と憂うる論がある。戦後、漢字が大幅に制限された理由のひとつは それだった。しかし、そうした考えに私は与しない。それどころか、漢字と いう複雑な文字を多くの時間をかけて学ぶということこそ、 頭脳にとってこ の上ない訓練になるのだと確信している。人間の思考力とは、要するに記号

ぐ正平版﹃論語﹄

の操作能力であり、象徴の解読力である。だとすれば、まだ幼いうちから漢 、、、、 字の読み書きをするということは、思考力を養う上にたいへん大きな効力を 発揮するはずである。私は日本人の高い知的水準は‘ そ の 多 く を 小 学 校 の 読 み書き教育に負っていると思う。 漢字とローマ字とでは‘ だれの目にもあきらかなように複雑さがちがう。 だからそうした文字を何千も使うのは、 たしかに非能率のように思えるだろ う。けれどもその一字一字はローマ字のような表音だけの機能しか持たぬ文 字にくらべ、きわめて多くの意味を持ち、表現力を秘めている。前記のよう

いろいろなイメージを汲み出すことができるのだ。

に﹁朝﹂という一文字だけでも、そこからさまざまな意味を引き出すことが でき

それは別言すれば‘漢字がそれだけ多くの情報量を内に持っているという ことである。 つまり、漢字は一種の I C ︵集積回路︶のようなものなのであ る。新聞や週刊誌を読むのでさえ、 私 た ち は 二 千 近 く の 常 用 漢 字 を 頭 の な か ↓

、 日本人のだれもが漢字という に入れていなければならない。 ということ ま 1

ンピューター技術を、かくも短時日のあいだに自家薬籠中のものとし、欧米

I Cをびっしりと頭脳のなかに埋めこんでいるということだ。日本がなぜコ

7 4

7 5 第 2部 『大漢和辞典』を読む

に脅威を与えるようになったのか、その秘密はここにあるといっていい。子 供のころからの漢字の読み書き訓練によって、 日 本 人 は 複 雑 な 記 号 操 作 の カ を充分に蓄え、 そ の お か げ で コ ン ピ ュ ー タ ー 技 術 の 先 進 国 に な り 得 た の で あ る 。 表 音 文 字 の ほ う が 表 意 文 字I そ れ は 象 形 的 な 性 格 を あ わ せ 持 っ て い る │ よ り も 進 ん だ 記 号 体 系 で あ り 、 発展した文字であるという説を多くの人 は受け入れているようだ。しかし、果してそうだろうか。何を根拠にそうい えるのか。私はむしろ逆だと思う。表音化とはたんなる単純化にすぎない。 ただ音だけしかったえない文字が、多くの情報を内蔵し、 さ ま ざ ま な 意 味 や 多彩なイメージを伝達する表意 I I象形文字にくらべて、 どうして進化したも のといえるのであろう。文字はたんなる記号にとどまらず‘ そ れ 自 体 が 文 化・歴史・情感を体現している文明の結晶でなければならない。漢字とは、 まさしくそのような結晶体であり、何千年の風雪に耐え抜いた唯一の文字と いってもいいのだ。

私は地球上のかなりの

私は中国を旅するたびに、あらためて文字の威力に激しく打たれる。文字 というものがこれはどの力を発揮している国は I

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国々を旅して歩いたが—|_中国をおいて、ほ か に な い 。 私 が 中 国 を 旅 す る の は、その文字に会いたいがためなのである。シェークスピアの故郷ストラト フォードの美しい街には数多くの記念碑や記念像が見られる。けれどもシェ ークスピアの世界は碑のなかに小さく刻まれているだけだ。英語の文字は‘ ただ何かを指示しているだけである。それらは標識にすぎない。 だ が 、 中 国 の 文 字 は ま っ た く 異 る 。 私 は 中 国 の 裏 町 を 歩 き 、 どんな貧しい 家 並 の 戸 口 に も 文 字 が 躍 動 し て い る の を 見 て 、 何 と 文 化 の 豊 か な 国 か 、 と感

いや

いたるところで豊かな精神世

動した。文字は場末の食堂にも、 工場の応接間にも、商店の壁にも‘ 公園に も、空港の待合室にも‘列車の駅にも

界 を 、 詩 情 を 語 り か け て い る の で あ る 。 たとえば﹁柳煙﹂、あるいは﹁清 風﹂、﹁放鶴﹂、﹁江雨﹂、﹁花港﹂、﹁孤帆﹂⋮⋮たった二文字で何と見事なイメ

そうろうていてい

ージをそれぞれに表現していることだろう。

あずまや

蘇州の名園、淮浪亭を逍遥していたときのことだ。池辺の亭にたたずんで、

のわきたらひきく

ふと見ると、亭の壁に﹁芭蕉夜雨﹂と筆太にしたためられていた。私はとっ さに﹁芭蕉野分して盟に雨を聞夜哉﹂という俳人芭蕉の名句を思い浮べた。 俳句はたった十七文字。世界で最も短い詩ともいわれている。けれども漢字

A淮 浪 亭

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をもってすれば、 わ ず か 四 文 字 で そ の 情 景 は 見 事 に 描 破 さ れ る と い っ て も い いだろう。 これこそ漢字の威力、文字の神通力でなくて何であろうか。 いや 日本で俳句という短詩が成り立ち得たのも‘じつは漢字の力によるのだ。 た った一文字から波紋のようにイメージが拡がってゆく漢字‘ そ れ な し で ど う

つくづく幸福だと思うのである。

して俳句という短い表現が詩になり得たであろうか。私はこうした漢字文化 圃に生れたことを、中国を旅しつつ

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大漢和﹂ 人名と r

ある俳優の名前から 私は﹁如﹂という漢字が好きである。

れいめい





いつ、 どこで私はこの字を知ったか。おそらく、まだ小学生のころ、広告 で見た映画の題名に﹁黎明以前﹂というのがあっ た 、 そ れ が 最 初 だ っ た と 思

この映画は昭和六年五月、松竹下加茂

昭和六年というこの年、まだ小学校五年生になったばかりの私は‘﹁黎明﹂

林長二郎といっていたころの長谷川一夫、月形龍之介ほかが出演した。

作品︵原作大佛次郎、脚色監督衣笠貞之助︶として封切りされたことがわかる。

いま、 日本映画史の文献を見ると

。 フ

8 0

という二字の正しい読みかたとその意味を、母に質問して知り得たのだと思 う。以来私は‘﹁黎﹂という字が好きになった。この黎に明を添えて﹁しのの め﹂とも読むことを、母はまた私に教えてくれたが、 その﹁しののめ﹂ のは うを先に知っていた私は、なるほどそれを漢字で書けばこうなるのかと、 はりそのときに知ったわけである。︵のちに﹁東雲﹂を知った。︶ しかし、 その後の私は、﹁黎﹂の一字を、 たとえば﹁黎明﹂のように、普通 名詞の中の一字としてよりは、むしろ固有名詞の中の一字として馴れ親しむ かわむられいきち

なかずまさご

一八九七年に東京深川に生まれ、 十三歳で中洲の真砂座で初舞

出身が出身なので、時代劇も現代劇も‘二枚目から三枚目がかった役どこ

憶する限りでも‘ まさに河村黎吉は、 そのとおりの役者であった。

きたえた退しい演技﹂で、 たちまち頭角をあらわした、 とある。私などが記

篇﹂によると、この河村黎吉は‘﹁面長のひと癖ありげな風貌と、ドサ回りで

最後まで映画俳優で通した。キネマ旬報社発行の﹁日本映画俳優全集・男優

をつづけ、大正十年、舞台をあきらめて創立まもない松竹蒲田の人になり、

台を踏んだ人である。新派劇の無名劇団に加入して転々と各地に巡業の生活

明治三十年、

ようになる。まず河村黎吉という男の映画俳優がいることを知った。河村は、



録﹂より︿早稲田大学演劇博物館提

A 河村黎吉︵右︶。映画﹁長屋紳士

供﹀。

ろまで、手広く器用にこなし、押しも押されもせぬバイプレイヤー︵傍役︶の 巧みな芸達者で鳴らし、 その時代の映画ファンの記憶にのこる名演技を示し

年に渡米、プリンストン大学に学び、当時の総長ウッドロウ・ウィルソン︵の

新潟県南蒲原郡本成寺村︵現在の三条市︶の地主の家に生まれた人で、三十九

かんばら

話のついでに、 この内藤民治について簡単に記すと、内藤は明治十六年、

ストであった。

佐竹黎。この女性は旧姓を内藤といい‘ 父君は内藤民治というジャーナリ

みる。

そこで私は、もう一人、 この﹁黎﹂の一字を名前に持つ女性の例を挙げて

い字なのであろうか。

人名における﹁黎﹂は、 そもそも男の名前、女の名前のどちらになじみ易

前にも一癖、という印象である。

の芸風とともに、名前の﹁黎﹂の一字が強く記憶に残った。芸にも一癖、名

例に洩れなかったが、幼いころからこの俳優を見慣れていた私は、その独特

俳優には、悪役や憎まれ役の名人に限って好人物が多い。河村黎吉もその

tこ。

大漢和辞典』を読む 8 1 第 2部 r

8 2

一コライニ世に謁

ちの大統領︶の推せんで﹁ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン﹂に就職し

ロンドン特派員から大戦前にロシアに入り

たという変わりだねである。 彼内藤は

見して記事を書くというやり手で、モスクワではまだ女優になる以前の東山 千栄子︵当時は実業家夫人河野せん︶にも会ったというが、革命の少し前にロ

のちに日魯漁業の社長になる堤清六︵同郷の友人︶に協力しなが

シアを離れ、 アメリカを経て大正三年に日本に帰る‘ という活動家であった。 この内藤は

ら資金の援助を受け、帰国後は﹃中外﹄という綜合雑誌を創刊し、堺利彦、 大杉栄、 山川均、荒畑寒村ら当時の社会主義者をはじめ、学者、思想家、作 家、政治家たちとも広い交際を持つようになる。本人は社会主義者ではなく‘ それまでの広範囲の外国生活、特派貝生活での見聞から、当時の日本人には 珍しい広い視野と、新しい国際感覚の持ち主であったらしい。当時の日本人 よりは、 はるかにロシア、 とくに労農ロシアや革命政府に理解が深く‘革命 政府との﹁新条約締結﹂を説くほどの進歩的な識見の持ち主だった。 さて、彼が発行した ﹃中外﹄ という雑誌だが その編集部に、 内藤の友人 、、、、、 いまのことばでいえばアルバイトの ﹁女性記者﹂ 上山草人︵俳優︶の紹介で

『大漢和辞典』を読む 第 2部

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いざわらんじゃ

つわの

として入ってきた伊澤蘭奢という女性がある。彼女は上山草人門下の新劇女 優であった。 この伊澤という女性は本名を三浦シゲといい、島根県津和野町の出身、 度結婚して家に入ったが、女優への志望やみがた<、上京後離婚し、内藤民 治の﹁中外杜﹂に雇われたという経歴の持ち主である。 一体この伊澤蘭奢という女性を私がなぜ知ったかというと、先年ふと思い ついて私達タレント業者の大先輩にあたる徳川夢声という人物のことを調べ ているあいだに、実はこの女性こそ、夢声の若き日の熱烈な恋愛の相手であ ったことを知ったからであった。 くわしくは書く余裕もないが、青年夢声︵当時はまだ夢声と名乗る前のこと

この伊澤蘭奢という女優が、中外社社長内藤民治

であった︶との恋は実らず、蘭奢は才能を惜しまれつつ若死にしてしまう。 しかし、大切なことは

の愛人であったことで、 私は夢声の伝記のようなものを書き進めるあいだに、 どうしてもこの内藤民治という人物についても調べてみなければならぬと痛 せいきよ

感し、 いろいろ探索するあいだに、本人の内藤はとうの昔に逝去しているが、 その娘にあたる女性が健在であることを知り、取材源のいとぐちをつかむこ

A伊 澤 蘭 奢

4徳 川 夢 声

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とに成功したのである。そして、その女性が結婚後佐竹姓を名乗っていて、 名前を﹁黎﹂といった。黎という名を持つ女性がいることを知ったのも、 こ のときである。 私は、この佐竹黎さんから、絶大な協力を得て、﹃徳川夢声の世界﹄という 一冊の本を書き上げることができた。この本は、幸いにも昭和五十四年度の ﹁芸術選奨文部大臣新人賞﹂を受賞することができたが、佐竹黎さんの協力 がなければこの受賞があり得たかどうか、至って自信が無いのである。

こんな因縁があるのだ。

このような縁から、私は﹁黎﹂という一字に、絶ちがたい愛情を抱くよう になった。最初に書いた私と﹁黎﹂との間には

さて、 それはそれとして、黎というこの一字は‘ そもそもどんな成り立ち の、どんな性格を持つ字なのであろうか。私はその問題を、 ためらうことな く﹁諸橋大漢和﹂にぶつけてみたのであった。

ところで、 私のような漢字漢文についてのアマチュアが﹁諸橋﹂を引くと きの︱つの便法として、 い き な り ﹃ 大 漢 和 ﹄ に 挑 戦 す る こ と を つ つ し み と りあえず小型の﹃新漢和辞典﹄︵諸橋・渡辺・鎌田・米山著。大修館書店発行︶に

8 5 第 2部 『大漢和辞典』を読む

当たってみるという手があるだろう。そこで私は、まず﹃新漢和﹄ で﹁黎﹂

レ イ ① お お い ︵おほし︶。 たくさん。もろもろ。②ととのう。③

を引く。すぐ出てくる。﹁黍﹂の項の二字目に、それはあった。

︻ 黎 ︼

くろ︵黒︶。黒い。④くろっち︵黒土︶゜⑤ころ︵頃︶。ころおい。⑥おい る︵老︶。

一っ︱つ見てい

このあと、熟語として﹁黎元︵レイゲン︶﹂﹁黎庶︵レイショ︶﹂﹁黎民︵レイ ミン︶﹂﹁黎明﹂﹁黎老︵レイロウ︶﹂の五語があげられている。

く。まず﹁黎元﹂﹁黎庶﹂﹁黎民﹂の三語は‘ ほぼ同意語で、﹁多くの民﹂を意 味する、 ということがわかる。①として﹁おおい︵おほし︶﹂が挙げられてい る理由もこれであろう。 しかし、それと表裏をなすかのように、﹁黎﹂には、前にも記したように ﹁ぐろ﹂とか﹁黒い﹂という意味があるという。そこのところをよく見ると、

L



ここに生きてきているのであって、﹁黎明﹂とは﹁夜明けがた﹂

﹁黎明﹂の解で、すべてがわかる。 つまり、⑤に示されている﹁ころ﹂﹁ころ



がヽ

てん上ん

V ﹁黎﹂の豪文



8 6

﹁夜明け﹂ のことである‘という。 しかし、 さらにおもしろいと思うのは‘﹁一説には⋮⋮﹂として解かれて いることで、﹁黎は空の暗いことで、明と暗とがまじわるころ、すなわち夜明 け前という﹂と、 いうのだ。 つまり、帰するところは︱つだが、﹁黎明﹂は、まず﹁明るくなるころ﹂と 解され、次にあらためて﹁明と暗とがまじわるころ﹂という﹁一説﹂による 解が示されている‘ そこがおもしろいのではないだろうか。 おそらく、漢字のような成立の古い文字には、結果としては同様の意味に 到達するが、本来はニュアンスを異にする二つの解釈がとられていた、 としヽ つ例が往々にしてある、 ということである。 いまさらのように、漢字が帯び ている歴史の古さに驚かざるを得ない。 この段階で一応整理してみよう。 ﹁黎﹂には、まず﹁おおい﹂という意味があり、それに次いで﹁くろい﹂と いう意味が示されている。この二つで、まず大体はつくされていると思うが、 せっかく﹃新漢和﹄を引いたことでもあるので、﹁ころ︵頃︶﹂とか﹁ころお い﹂とも解されることがある、 それもついでに頭にとめておいて、 ひとまず

『大漢和辞典』を読む

8 7 第 2部

このハンディな﹁小漢和﹂とお別れするとしよう。諸橋先生の名を冠した小 さな辞典は、小なりといえども‘ その情報量の侮るべからざることは‘ この

いよいよ﹃大漢和﹄に立ち向かうことになる。

一例でもわかろうというものではないか。 さて

︵数字で、黒い円の中に﹁白抜き﹂で示される︶から

﹃大漢和﹄ の第十二巻には、﹁黎﹂について正味五ページの解と用例が示さ れている。

風雅な旋律

まず字義から見ると

十四まである。予想はしたが、 やはり賑やかだ。その字義でおどろいたのは、

゜ どうやら﹁黍米﹂で作った強力な糊だったらし<、もしかすると﹁ト

﹁一﹂に﹁のり。くつのり﹂とあることで、﹁履を作る時、布をはる糊﹂だと ヽ

つ 、



ウモロコシ﹂や﹁モロコシ﹂と同類の植物から作られた、当時の工業用接着

﹃大漢和﹄を見てはじめて知ったのであった。

剤でもあろうか。 いずれにせよ‘﹁のり﹂﹁くつのり﹂という字義が﹁黎﹂に あることは

さて、次にはやはりさきほどの﹃新漢和﹄とおなじく﹁おほい﹂﹁もろもろ﹂

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が示され、以下順に写すと、﹁ととのふ﹂﹁くろっち﹂﹁くろ。くろい﹂﹁おい る﹂﹁およぶ﹂﹁ころほひ﹂﹁おもむろ﹂﹁ガラス﹂﹁國の名﹂﹁種族の名﹂﹁高辛 氏のまつる火の神﹂﹁姓﹂と、多種多様である。 ただ、 ここに及んで、﹁黎﹂ が﹁人名﹂のほかに﹁國﹂の名前でもあったことには注意する必要があるだ ろう。 ﹁黎﹂とは、 どんな国であったか。﹁山西省長治縣の西南﹂とある。﹁春秋の 時、晋に属す﹂ともある。 当然、﹁黎﹂は地名にも見られ、雲南省易門縣の南に﹁黎龍﹂という山があ り、別名を馬頭山というとあるから、その形が馬の頭部に似ていたのかもし

きき

れない。また河南省には﹁黎丘﹂という村があった。黎丘には﹁もののけ﹂ が住んでいて、﹁黎丘奇鬼﹂の名があった。この﹁もののけ﹂に惑わされ、﹁も ののけ﹂と見誤って一老人がわが子を刺し殺し、以来、 この老人は﹁黎丘丈 人﹂と呼ばれ、 この故事からして、真なるもの偽なるものの判別を誤り、真 じようじん

なるものを棄却したり傷害を加えたりする人のことを﹁黎丘丈人﹂と呼んだ

゜ いろいろなことがあるものだ。 7 としヽ、 ﹁黎﹂が人名に見られる例も多いのは、 や は り 私 の 予 想 し た と お り で あ る

8 9 第 2部 『大漢和辞典』を読む

が、美しいことばとしては、鶯︵うぐいす︶の異名としての用語に﹁黎黄﹂が あり、また日本人にも親しまれる﹁黎明﹂がある。 従って、黎を冠した人名が、地名に劣らず多いこともうなずけるわけで、 私たちのような大正人間には広く記憶されている黎元洪という人名もある。

えんせいがい

彼は民国湖北省の人、ドイツに留学したインテリで、日清戦争で捕虜となり、 南京臨時政府成立後は臨時総統に挙げられ、哀世凱の死後は一時大総統にも なった。 他に、 明の人に黎民懐という詩人もいて、その詩は﹁清拡間逸﹂であった という。兄が二人いて、やはり詩に長じ﹁三鳳﹂の称があったともある。 このように、 どちらかといえば、﹁黎﹂は人名になじみやすい。最初に紹 介した内藤民治という人も、中国人に知人が多かったためもあり、 人名とし ての﹁黎﹂に早くから着目し、自分の愛する女児にも、進んで﹁黎﹂と名づ けたのであろう。﹁黎﹂を日本風の発音で﹁れい﹂と読むのは、音からいって も美しい響きをもつ。その美しい響きは、 日本人の耳に﹁礼﹂とも﹁伶﹂と も﹁麗﹂ともきかれ、 そのいずれもが美しいイメージにつながるからである。 ついつい﹁黎﹂の一字にこだわってしまったが、諸橋先生の﹃大漢和辞典﹄

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に親しんでいると、 ときには珍しい人名事典を見ているような錯覚におちい ることもある。 それぞれの項に挙げられている人名について記されている簡にして要を得 た記述を読むと、 それぞれにドラマが秘められていることに、あらためて感

しようかいせき

じ入るのだ。そこには人生があり、運命がある。 かつて私は、何かで蒋介石という人物を、﹁諸橋漢和﹂で引いてみたことが ある。﹁蒋﹂という字は、もともと﹁まこも︵菰︶﹂のことと説かれているが、 また周の国の名ともなり、人の姓ともなった。そこで名字としての蒋を見る

つい ﹁蒋介石﹂を探していることを忘れてしまい

いることいること、驚いた。 のべ八ページにわたっている。次から次へ

と読んでいるうちに

テ、自分は何を求めてこの字引きを見ているのかと、 天を仰いで嘆いたよう なこともあった。 しかし、 地名の解説も要を得て風雅であることはいうまでもないが、諸橋 先生の辞典の人名の解説には、 いうにいわれぬリズムとメロディがあり、ど んな短章にも‘ ふと風に運ばれてわが耳を訪れた美しい旋律と歌唱をきく思 いがあることを、私はつねづね感じている。 ついつい我が手に感じる重さを

ノ‘

とヽ

忘れ 、 そ の 一 冊 に 読 み ふ け っ て し ま う の で あ る 。

『大漢和辞典』を読む 第 2部

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『大漢和辞典』を読む

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日本文のなかの漢字

漢字は大切に扱いたい

高田



この二年ばかり、私は、あるカルチャースクールでエッセーの教室を受け 持っている。生徒のみなさんは二十代前半から七十代後半まで、 その大半は 女性であるが、年齢のひろがりはたいへん広い。 この人たちの書く作品を見て、 たいていの人に共通していることがある。 漢字がとても多い。 六十代、 七 十 代 の 人 の 書 く も の に 漢 字 が 多 い の は あ た り ま え だ け れ ど も ‘

||l

これもたいていの人が「例えば」と書くーー—つぎのような

はたちをすぎたばかりの人たちにも‘けっこう漢字が多いのである。 たとえば‘

9 4

ことばは‘漢字をつかっていることのほうが多い。





⋮⋮の様な ⋮⋮の為に ⋮⋮と一 Kう︵人︶ 、 、 ⋮⋮が出来る

私ならあまりつかわない漢字である。 このほかにも、ずいぶんある。﹁子ども達﹂﹁沢山﹂﹁等︵など︶﹂﹁そんな事﹂ ﹁⋮⋮迄﹂﹁⋮⋮した時﹂﹁︵彼の︶そういう所﹂﹁致します﹂﹁居ます﹂﹁⋮⋮ する毎に﹂﹁此の﹂﹁是非﹂﹁如何に﹂﹁然し﹂﹁有る﹂﹁無い﹂﹁⋮⋮し易い﹂﹁⋮⋮ して頂く﹂﹁⋮⋮して貰う﹂﹁更に﹂﹁誠に﹂﹁又﹂﹁度々﹂﹁遂に﹂﹁漸く﹂﹁⋮⋮ を以て﹂﹁⋮⋮に依って﹂﹁⋮⋮に当って﹂﹁尚︵なお︶﹂﹁多分﹂﹁勿論﹂﹁先ず﹂ ﹁正に﹂﹁⋮⋮程﹂。 思いつくままに並べてみたのだが、 ほんとうはまだまだある。 みんな、漢 字が好きなのだろうか。 いや、 どうもそうではないらしい。知っている漢字



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2部

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はすべて使うという癖があるのではないか。高齢の人も若い人もおなじであ る 。 私はまず‘この人たちに、﹁いくら漢字を知っているからといって、むやみ やたらに使わないはうがいいですよ﹂ということにしている。 こう言うと漢字反対論者と思われるかもしれないが、私はカナモジ論者で もローマ字論者でもない。漢字仮名まじり文という現在の日本語表記はたい へん優れたものだと思っている。アルファベットだけで書かれている欧米の 文章などとちがって、見た目にリズムがあり、メリハリがある。 なにより、表記についての大幅な自由がある。 がんじがらめの規則がない。

どの字は仮名でなくてはならないといった息苦しい制約がない。

句読点の使いかたなどもまったく自由だし、 ど の 字 は 漢 字 を 使 わ な く て は な らないとか

おなじ語をあるときは漢字で書き、別のときには仮名で書いても‘ いっこう にかまわない。その人の好きにまかされている。 書く人が、 その人らしい書き方をえらべる。また、 おなじ人でも‘ そのと きの気分でいろいろの書き方ができる。それでいて、 そのどれもが、 ほかの 人にちゃんと読める。 こ ん な 便 利 な 表 記 法 が ほ か に あ る だ ろ う か 。 堅 苦 し く

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言うなら、個別と普遍が融合している表記法である。 校正者のなかには‘表記を統一したがる人がいる。 たとえば私が

︱つの

どちらか一方の表記に直されてしまうことがある。しかし、

文章のなかで、あるところでは﹁歩く﹂と書き、別のところで﹁あるく﹂と 書いていると

それはおかしい。越権行為である。文章表現そのものへの介入である。私は そこでは﹁あるく﹂をえらんでいるのであって、﹁歩く﹂に変えられては困る のである。その逆もおなじことである。 話しことばとちがって、文章表現とはそういうものである。ありがたいこ とに日本語の文章では、﹁歩く﹂も﹁ある<﹂も、 そのときどきに自由につか うことがでぎる。必要なら﹁徒歩﹂﹁歩行﹂といった漢語もつかえる。英語だ と walkしかつかえないところである。すくなくとも一語としては、 そうだ ろう。 goという語にいろいろくっつけて walkの代りをつとめさせることも できるけれども、 それはちょっと別の話になる。 walk に は 漢 字 表 記 も 仮 名 表記もない。 walk は walk である。 漢字仮名まじりという日本語表記は‘ そういうふうに、不変のルールを持 っていないことが、ずばぬけて優れた点である。規則好きの役人がいくらが

『大漢和辞典』を読む

2部 第

9 7

んばっても‘ ﹁歩く﹂と﹁あるく﹂のどちらか一方に決めてしまうことはでき ない。役所の文章だけは型にはめられても、日本じゅうの文章表記を︱つに はできない。 とりわけ文芸表現は、 そうである。書く人の息が表記にまでつ ながっている。句読点も漢字のえらびかたにも、表現者の呼吸がある。 だから私は、漢字制限論者でもない。使いたいとぎには、常用漢字などと いうものの枠からはみだして漢字をつかっている。 ペ ダ ン チ ッ ク に 自 分 で も 読めないような漢字まで動員しようとは思わないが、 ど ん な 漢 字 を つ か う の も自由だと思っている。 そのうえで、 エッセー教室の生徒に、むやみに漢字を使うなと言っている のである。 それは‘漢字を大切に扱いたいということである。その漢字を知っている から使うというのではなく‘ その文章のその場所で、 ど う し て も そ の 漢 字 を 使いたいときだけ、大切に使おうということである。 漢字仮名まじり文のなかで、漢字は濃い意味を持っている。見た目にもめ だっている。仮名という地の上に漢字という模様が浮き出して、全体の諧調 が生まれている。仮名という脇役を背景にして漢字という主役がドラマをう

9 8

ごかしてゆく。 ロ ー マ 字 ば か り の 欧 米 文 に も ‘ 漢 字 ば か り の 中 国 文 に も 、 ま ねのできないことである。 この漢字仮名まじり文を生かすためには、 だいたいは漢字を使いすぎない ほうがいい。地が見えなくなるくらいに模様でうめつくしたり、脇役なしで 主役だけにしたりすれば、デザインも芝居も退屈なものになるだろう。 すくない漢字を、 つ か う と き に は 強 く つ か う 。 そ れ が 、 漢 字 仮 名 ま じ り 文 というものだと、 私は思う。 もちろん、そのためのルールはない。漢字が全体の何パーセントであるべ きだ、 といったルールもなければ、 どの漢字はよくてどの漢字がだめだとい うルールもない。書く人の自由にまかされている。それだけに面白く‘ それ だけにむつかしい、 とも言えるだろう。 さきにあげた、﹁の様な﹂﹁の為に﹂なども、 だから、絶対に使わないとい うことではない。そのとき書いている文章が、そういう表記をもとめること がないわけではない。しかし多くの場合、 そ れ ら の 漢 字 は 知 っ て い る か ら と いうだけで、なんとなく使われている。そういう使い方をしたのでは漢字仮 名まじり文の良さが死んでしまうので、私は生徒に、漢字を控えめにするよ

『大漢和辞典』を読む

2部 第

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つにすすめている、というわけである。 それだけでなく、漢語を軸にした表現のあぶなさもある。たとえば、﹁炎天 一陣の涼風が吹き過ぎた﹂といった表現はよくみられるものだけれども、 ことばがすべってしまう。漢語をつ

きに使いたい。そうすることで、借りものではない、自分のことばが、文章

うというのでもない。漢字と漢語を安売りしないで大切に、 ここぞというと

や漢語をきらっているのではない。漢語表現を追放して和語表現にしましょ

そういうこともふくめて、漢字はなるべく少なめに、と言っている。漢字

合が減って、仮名の割合が増えることになるだろう。

るので、 どれがいいということはできないが、 たぶん、 どの場合も漢字の割

た﹂とするかもしれない。その一行が入っている文章の全体とかかわってい

れない。ある人は、﹁ぎらぎら照りつける太陽の下で、ふっと涼しい風を感じ

か。ある人は、﹁暑い日だった。ふいに涼しい風が吹いてきた﹂と書くかもし

﹁炎天下、一陣の涼風が吹き過ぎた﹂というのをやめたら、どう書くだろう

とばではなく‘借りもののことばであることが多い。

かえばとりあえず便利であるが、それは自分のなかで日々に息づいているこ

それだといわゆる月並み表現になって





゜ 。 となって生まれ出るだろうと思うからである。

ことばの世界をひろげる エッセー教室の生徒には、辞書にたよらないように、 とも言っている。 辞書のなかから探し出してきたことばは、そのままではまだ自分のことば ではない。そんな生まかじりのことばで表現ができるわけがない。文章表現 は、自分のなかに根をおろしていることばだけでこころみるものである。 ただ、その人のなかにあることばの数が少なくては、文章もやはり痩せほ そるだろう。ある︱つの語を使うときにも、その一語しか知らないから使う のと、その語に似ているたくさんのことばのなかから選ぴ出して使うのとで

︱つの作品となると、その違いが

は、書かれた語はおなじであっても、じつは違っている。その語の入ってい る一行くらいでは見分けがつかなくても、

ことばの貧しい人が無理をし

出てしまう。この人はことばの豊かな人だな、 ということは、平凡なことば しか使っていなくても分るものである。逆に

て借りもののことばを使っているときにも、よく分るものである。 しかし、自分のなかのことばを豊かにするのは、なかなかむつかしい。

し 、

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1 0 1 第 2部

ちばんの道は‘すぐれた文学作品にたくさん触れることだろう。小説にはか ぎらない。評論もあれば詩もある。 エッセーもある。哲学書のなかにも文学 作品とみなしていいものがある。先人の書いたものも同時代人のものもふく めて、 それらの作品を読むことが、自分のことばを豊かにする王道だろう。 その一方で、辞書が助けてくれる。本を読んでいて、 そ れ が 日 本 語 の 本 な らば、まるで意味の分らないことばに出くわすことはめったにないだろうけ れども、知っているはずのことばが自分の知っている意味からほんのすこし ずれて使われているらしいと思えることはある。そんなときに国語辞書を引 いてみると、納得できることがある。それまで知っていたことばが、読んで いた本を契機にして、辞書の助けでひとまわり豊かになる。これは、うれし いものである。 書きものをしながら、 たしかめるために辞書を引くこともある。ある一っ のことばの使い方が我流かもしれないという不安を持ったときなどである。 その不安はたいてい当っている。三つ四つの国語辞書を引いてみても、自分 の使い方とぴったり同じのはない。しかし、 そ う や っ て 何 冊 か の 辞 書 に あ た ってみると、 そ の こ と ば の 全 体 像 が 見 え て く る 。 そ の 像 か ら み た ら 自 分 の 使

1 0 2

い方だって、それほど無理とはいえないだろうと、読者を信じて押しきって

一語

しまうのだが、 こういうときの辞書との対話も、自分のことばを育ててくれ る 。 ただ、辞書はどんな辞書でも、あるところで思い切りをつけている。

一語にそれほど深入りできないのが辞書である。そして、辞書それぞれに思 い切りのつけかたがちがっている。 一冊の辞書だけ持って、それをまるごと信用するのは‘ とても危険ですと、

一冊の国語辞書が私たちのことばのすべてを収めているわ

私はエッセー教室の生徒に話している。辞書は便利なものだけれども、盲信 してはいけない。

けはないし、 各語についてもすべてを語っているはずがない。 辞書は規範で はなくて、 めやすである。ときどき辞書は神聖なる規範だと思いこんでいる 人がいて、某作家が有名な某国語辞書にのっていないことばを使っているの はけしからんと、 いきまいていることがある。あれは本末転倒ですと、 これ も生徒に話している。こういうことは辞書についての常識なのだが、言われ てはじめて気づく人が多い。 国語辞書はすくなくとも二種類持たなくては、あまり役に立たない。 でき

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1 0 3 第 2部

︱つの

れば四、 五種類、 なるべく編集方針のちがうのを持つはうがいいし、現代語 辞書だけでなく古語辞書も複数持つのがいい。辞書を読む面白さは、 ことばを、 いくつかの辞書で引いてみることだと思う。 国語辞書だけではない。外国語辞書もやはり複数持つのがはんとうだろう。 英語でいえば、英和を二種類、英英を二種類というのが最少限だろう。専門 家はそのほかに古語辞書などいろいろそろえるが、なみの読書人でもそのく らいはほしい。

︱つの日本語に対応する外国語を引いてみることで、その

英語なりフランス語なりの本をめったに読むことのない者にも、外国語の 辞書は役に立つ。

一語の世界がひろがることがよくあるからである。私は前に、﹁森﹂と﹁林﹂ について、 日英仏の辞書を引いてみて、 たくさんのことを思ったものだった。

これは言うまでもない。

外国語辞書でもあり国語辞書でもある漢和辞書は、英仏独などの辞書以上 に、私たちのことばの世界をひろげてくれること

私たちの祖先がそこから多くを学んできた中国大陸のことばと文化は、も ちろん、 いまの私たちのなかに深く根づいている。しかし、あの大陸が外国 であることもたしかである。私たちの列島はその文化国に入っていたが、大

1 0 4

陸国家に組み入れられていたのではない。 外国のものである漢字と漢語がどうやって私たちのところにやってきたの

I I

外国語"こそ、私たちのことばの世界を

か、私たちの先祖がどういうふうに受け入れてきたのか、 これには長い歴史 があるわけだが、 そういう特別な

ひろげてくれたものであり、 いまもやはり私たち自身のことばを鍛えてくれ る 。 漢和辞書はたしかに、 むつかしい漢字や漢語を引くためのものである。

一割にみたないことは明らかである。 はっきり知って

とえば﹃大漢和辞典﹄ の五万字、 五十万語のうち、私はいったいどれだけを 知っているだろうか。

いる字と語となれば、もっと、ずっと少ない。 だから、国語辞書を引くのと はちがって、漢和辞書には知らない字やことばを教えてもらう。 だが、それだけではつまらないだろう。漢和辞書という”外国語辞書“も また、私たちの日本語の世界をひろげてくれるものだろう。英語やフランス 語の辞書よりも、その力は大きいはずだと思う。 いつか、ある編集者から、﹁好きな漢字はありますか﹂と聞かれた。私はと っさに、﹁雪﹂と答えた。ほんとうは、文字としての雪よりも自然現象の雪そ





『大漢和辞典』を読む

2部



﹁ 雪 ﹂ の項を読んでみた。音はセッ

のものが好きなのだが、﹁雪﹂という字もわるくない。 その後、思いついて﹃大漢和辞典﹄

ゆきあおシュエチン

でにまして目につくだろう。とりあえずは、それでいい。﹁雪青﹂と呼ぶか、

ばを思い出すだろう。 いや、雪青ということばのために、雪の影色がこれま

しかし、 これから雪の原に立ち、雪の影を見るときには‘雪青ということ

死ぬまでに使えるかどうか分らない。

けない。私の中でこのことばがはんとうに生きるには、時間がかかるだろう。

くる。ちょっと使ってみたいことばである。 だが、あわててとびついてはい

あの青さを、雪青と呼ぶのか。雪国育ちの私の目裏に、雪の色がうかんで

藤色、菫色のことだという。降りつもった雪の影の色をさすのだろう。

も思い、なつかしいような気もしたのだが、 ﹁雪青﹂ということばもあった。

で、中国大陸でもやはり、熱帯植物である竹に雪がつもるのだなと、面白く

セチである。語彙は三一八個のっている。﹁雪竹﹂などということばがあるの



﹁雪の青﹂と呼ぶか、﹁ hstiehch'ing ﹂と呼ぶか、それはともかく‘ ことばは

5 そうやって育ってゆく。



く﹃大漢和辞典﹄第十二巻﹁雪﹂の項

︵部分︶

h,ueh'•

切>.、園 【雪5 】セセッチ︹集韻︺相絶T U せ

J

ー§饂︶に作 小●ゆき。もと霧 (110 冒豪る。︹正字通︺零、本作 霧。︹説文︺

雪 汰 雨 説 A物者也‘ハ缶雨彗警。︹段注︺泳‘ 各本作と犠`今正、凝者、沐之俗也、説、今之 者↓︹繹名、糟天︺雪‘ 悦字、物無示'し喜 雲 J 絵也、水下翌寒氣︱而凝‘紐絵然下也。︹埠

る。︹世説新語、文學︺了時始零五虞倶賀。

雅‘繹天‘雪︺韓詩外傭云零華日玉英‘凡草 木華多五出雲募獨六出‘是也。●ゆきがふ

●ぬぐふ。きよめる。︹孔子家語、子路初見︺

︹集韻︺霧‘一日、除也。︹呂覧、不荀︺故雪︱︱

黍者所︱ー以雲,桃。︹注︺雪‘拭。●のぞく。

般之恥↓︹注︺零、除也。●すすぐ。そそぐ。

あらふ。︹韻會︺零‘洗也。︹荘子、知北遊︺

喪雪而精紳↓︹史記‘朱建偉︺浦公濾雪し足

杖と矛日、延る客入。●白い。白いものの喩。

偲、白菊詩︺正憐香雪飛土'片↓〇きよい。

1

︹虞思道、孤鶴賦︺振︱︱雪刃 而臨レ風。︹韓

高潔。〔貫休‘送•慧道士-南 鱒 1岳―詩〕松品 落落、零格索索。●姓。︹萬姓統譜︺雪‘見,, 姓苑る零霧、山西人‘洪武間呉江扮湖巡検゜

1 0 7 第 2部 『大漢和辞典』を読む

ジャーナリズムのなかの漢字

現代新聞記事の基本

︵ 例 l)

邦夫

た政府見解の変更に、野党各党や関係団体は、戦後の平和路線に逆行する

政教分離原則に反する恐れが強いとして﹁私人﹂形式の参拝にとどめてき

では初めて﹁内閣総理大臣﹂の資格で靖国神社に参拝。これまで、憲法の

主催﹁全国戦没者追悼式﹂。そして、この日、中曽根首相は、戦後の首相

いを新たにする行事が各地であった。東京・日本武道館では、恒例の政府

四十回の節目を迎えた終戦記念日の十五日、戦没者を悼み、平和への誓



1 0 8

と反発、集会や街頭演説で抗議と対決の姿勢をとった。

︵ 例2) せきを切ったようにあふれる涙、すすり泣き。 日航ジャンボ機墜落事故 から四日目を迎えた十五日、早朝から遺体確認作業が再開された群馬県藤 岡市の市民体育館。犠牲になった乗客のうち、出張や休暇明けの単身赴任 のビジネスマンも大勢いた。全国で二百万人を超えるといわれる単身赴任

族 。 つかの間の一家団らんから勤務地に帰る途中や、単身赴任をやめるた め一家で引っ越す途中の悲劇も。終戦記念日のこの日、事故現場では企業 戦士たちへの鎮魂とは裏腹に抜けるような青空が広がっていた。

どちらも今年の終戦記念日ーー—一九八五年八月十五日の日本列島を描いた

新聞記事である。︵例 1) は朝日新聞︵東京本社版︶の夕刊一面トップのリー

いわゆる硬派記事、軟派記事

ド部分であり、︵例 2) は毎日新聞︵東京本社版︶の夕刊社会面トップのリー ドである。それぞれに描いている対象は違い

の違いはあるが、今日のジャーナリズムの文章を知るサンプルとして挙げて

A ︱九八五年八月十五日付夕刊

『大漢和辞典』を読む

1 0 9 第 2部

みた。 両方の記事を読んで、まず気づくのは硬派、軟派の違いを超えて分かりや す<、読みやすい文章を目指していることだろう。体言止めを多用してセン テンスを短くしようとする努力、意識した平易な語り口が見える。もちろん 常用漢字表外の漢字など使われていない。︵例2) で﹁一家団らん﹂と交ぜ書 きにしているのは﹁団槃﹂の﹁槃﹂が制限漢字になっているための苦心だろ

を与えるが、新聞記事の場合は日時、場所名、人名など記事として不可欠な

︵ 例 2) は百九字で四八%である。 どちらもやや漢字が多いようなイメージ

る。ここで漢字だけを数えたところ︵例 1) は百二十六字で漢字率五六%、

ているのだろうかー~。(例 l) (例2) はともに二百二十字前後の文章であ

では、 そんな新聞記事で漢字の使われ方、漢字と仮名との割合はどうなっ

読みやすい漢字率

名交じり文が現代新聞記事の基本である。

こんなふうに常用漢字表や現代仮名づかいに基づいてのやさしい漢字平仮

゜ つ

l l O

要素があるのでどうしても漢字が多くなるためだ。それでも︵例 1) と︵例

2) をくらべた場合、漢字率が一 0%近くも違うあたりに、記事の性格によ る差異が出てくる。 一般的に読みやすい文章の漢字率は三 0%とよくいわれる。漢字が二 0 % になると締まりがなくなり、四0%になるといくらか堅い感じになるという のだ。その三 0%の代表例として挙げられるのは三島由紀夫の﹃潮騒﹄ の書 き出し部分である。関心のある人はぜひ﹃潮騒﹄を手にして頂きたいと思う。 もちろん、文学作品の文章と新聞記事では比較しようという方が無理だろ う。それに文章というものは極めて個人的であり、また時代によって感じ方 も変わる。 ﹁性意識は変わった。とりわけ女性の変化が激しいといわれる。が、その証 拠となるとそれほど確たるものはない。”このごろの女性はすすんでいるよ“ などと語られるのは、こんな例である⋮⋮﹂││_︿8.15﹀の翌日、毎日新 聞朝刊の続きもの﹁閲夏ー戦後四十年の座標・性﹂の書き出しである。ここ では漢字率は二 0%に満たない。︵例 1) ︵ 例 2)と比較して、﹃潮騒﹄と比較 してあなたはどう感じるか。それぞれの美意識につながる問題だけに結論は

1 1 1 第 2部 『大漢和辞典』を読む

なかなか出そうにない。

簡潔でわかりやすい表現 そんないろんな記事を書く新聞記者も、初めから常用漢字表などに基づく きちんとした記事が書けるわけではない。まして、大学の﹁講義﹂を﹁講議﹂ と書いたり、﹁漫画が大好きです﹂といった本人が﹁慢画﹂と書くような大学 生たちも入社してくる時代である。 いろんな社員訓練のなかで、 用字、 用語 をどう身につけさせるかが大きなポイントを占めてくる。 その教科書となるのが毎日新聞の場合では﹃毎日用語集﹄ である。教科書

I J

とも呼び、また、 かつての﹃毛語録﹄と体裁が似

というより小型辞書といってもいい。五百ページほどの真っ赤なハンディな 一 冊 、 その色から”赤本

ているので”毛語録"と呼ばれた時期もある。 この﹃毎日用語集﹄ の内容は、常用漢字音訓表とか送り仮名の付け方と用 例、用字用語集から地名、 人名、外来語の書き方と用例、敬語の使い方、避 けたい言葉、誤読されやすい文字一覧⋮⋮など、まことに親切なハンドブッ ク。この用語集を片手に、なるほど、常用漢字になって﹁猿﹂も﹁蛍﹂も﹁猫﹂

1 1 2

も漢字で書けるようになったのだなあとか、﹁遵法﹂は﹁順法﹂、﹁無気味﹂は ﹁不気味﹂と書くなどと知りながら原稿を書く。 用語集は﹁国の国語政策を尊重すること、新聞・放送界の用語統一を図る こと、毎日新聞社のこれまでの実績と一般社会の慣用との調整﹂を三つの柱 にしている。 だから、常用漢字表を中心に、表外漢字はでぎるだけ使わない。 もっとも固有名詞とこれに準ずるものとして、 たとえば﹁旭日大綬章﹂とか ﹁弥勒菩蔭像﹂﹁歌舞伎﹂﹁長唄﹂﹁弥生式﹂など栄典、称号、官職名、文学作 品、美術品、古典芸能関係の名称、テレビ、映画などの題名、学術上の用語 などで特例を認めているし、文芸作品や古文など原文を尊重する引用文、あ るいは社外原稿での表外字を認めているので実際の紙面には多様な漢字が並 ぶことになる。 常用漢字のうちでも﹁謁﹂﹁且﹂﹁脹﹂﹁朕﹂﹁附﹂など十一字は使わないで、 別に﹁亀﹂﹁舷﹂﹁挫﹂﹁狙﹂など六字を追加することも新聞協会用語懇談会の 取り決めで決まっている。 新聞記事はこんな用語集をよりどころに、 それぞれの記者が知恵をしぼり ながら簡潔でわかりやすい表現を目ざす。各社とも事情は同じである。

r 大漢和辞典」を読む 2部 第

1 1 3

用字用語への違和感

*当用漢字と常用漢字日常漢字

当用漢字表が生まれて四十年近く、常用漢字表が実施されてからも四年に なる。 これらを尊重して記事を書いている側では、もうすっかり慣れきって、

昭和五十六年三月国語審議会か

月蝕“で I I

字ふえて、一九四五字ある。

ご八五 0字 の ほ か 、 新 た に 九 五

ら答申された。従来の当用漢字

を使用する目安となるもので、

定着したと思っている表現が時に見出しなどで出た場合、意外な反応を引き 起こすことがある。

I I

日蝕“

﹁朝刊の見出しの”委縮“という言葉はおかしい。”萎縮“であるべきだ。 大新聞ともあろうものが、もっと気をつけるよう﹂

の間違いでないか﹂ こんな用字用語についてのおしかりの電話やは

I J

﹁”日食“”月食“ では宇宙の神秘もだいなしだ。やはり ないと﹂

年配の読者を中心に

﹁夕刊の”希少価値“は”稀少価値 1

がきは今でも多い。当用、常用漢字表の実施は知っていても実際にどのよう に一っ︱つの言葉に生かされているか知らない年配の人たちには、新聞の用 字用語にはイライラさせられることも当然だろう。使っている方でもなんと なくひっかかる用語も少なくないからだ。 そんな時には﹁委縮﹂ の場合なら、確かに﹁なえる‘ しおれる﹂は﹁萎﹂

1 1 4

なのですが、常用漢字では使えません。同音で、 やはり﹁しおれる﹂の意味 のある﹁委﹂を書き換え字として使っています。決していいかげんな当て字 ではありません、などと説明するが、中国での成り立ちの上の意味はともか <、日本では﹁萎﹂を﹁なえる、しおれる﹂、﹁委﹂を﹁くわしい、 ゆだねる、 まかす﹂と読んで意味の上では別字にしているので、なかなか納得してもら えない。

﹁扮装﹂か﹁粉装﹂か 先日もこんな騒ぎがあった。横浜市で発生した警察官の制服を着た銀行強 盗事件のニュースの見出し﹁警官粉装市販品で﹂の﹁粉装﹂が問題になった のである。本来なら﹁扮装﹂だろう。が、﹁扮﹂は表外漢字である。﹃毎日用 語集﹄を見ると、書き換え字として﹁装い、 こしらえ、粉装﹂とちゃんと載 っている。見出しをつけた整理部貝としては﹁ふん装﹂の交ぜ書きを嫌い、

とひもどいてみる。こうある。

こうしたのだろうが社内スズメがうるさい。こんな時に頼りになるのが ﹃ 大 漢和 辞 典 ﹄ だ 。 そ れ っ

『大漢和辞典』を読む

1 1 5 第 2部

こなにする、 こまかになる

かざる、 いろどる

扮︵フン︶ 11にぎる、あはせる、うごく‘ かざる、 みだす 粉︵フン︶ 11こな

なるほど﹁粉﹂にも﹁かざる﹂意味はある。決して間違いではない。 が 納得とともになんとなく違和感も残るのだ。

校閲部の役割



新聞社でこんな用字用語を担当するのは校閲部である。 日 々 の 原 稿 の 正 誤 に目を光らせながら表現の的確さ、 ことわざの誤用、慣用句などに鋭いメス を入れる。目立つものは﹁校閲月報﹂︵毎日新聞の場合︶に登場する。そんな 指摘は﹃毎日用語集﹄にも収録されているが慣用語句︱つにしてもいかにあ いまいに使われているかがわかる。そのいくつかを紹介すると︵カッコ内は 正しいもの︶ー _ o

青田刈り︵青田買い 1 1求人競争などの︶ 悪評さくさく︵悪評高い 11好評さくさく︶

1 1 6

一刻千秋の思い ︵一日千秋の思い︶ 汚名ばん回︵汚名返上︶ 垣間︵かいま︶聞く‘見せる︵垣間見る︶ 古式豊かに︵古式ゆかしく︶ 綽︵さお︶さす︵舟を進めるのに、最近は”逆らう“の意味で誤用されて いる︶

まだまだたくさんあるが、訓練を受けているはずの新聞記者でも、こんな 間違いが多いところに今日の国語力の問題が改めて問われそうだ。 ﹁校閲月報﹂はこんな揚げ足取りばかりするわけではない。いつかも、近ご ろはやりの﹁漢語+サ行変格動詞︵する︶﹂についてじっくり考えた問題提起 をした。ある原稿が原因だった。プロ野球日本シリーズで連敗、第三戦も先

1 1 イ ヤな思い

I I

ばかり胸に抱き込んでいた。ベンチも沈痛した﹂と

手をとられた広島ベンチを描いた部分に﹁⋮⋮ふがいない攻撃が重なって古 葉監督は

あったからだ。 旅行する、活動する、取材する、配達する、涙する、 スキーする、ダイヤ

『大漢和辞典』を読む

1 1 7 第 2部

ルする⋮⋮もともとはこの造語形式は行為を意味しない物資名詞、抽象名詞 には使わない慣用だったが、今日ではかなりエスカレート‘ ついにはコマー シャルの﹁タバコ、する﹂にまでなったのは有名な話だ。 ﹁校閲月報﹂子は悩む。﹁沈痛﹂という言葉を辞書で調べ直し、 その用法が ﹁沈痛そのもの﹂とか﹁沈痛な面持ち﹂といったことを披露しながら、同種 の語﹁哀切する﹂﹁不安する﹂﹁冷笑する﹂﹁名誉する﹂⋮⋮など成り立ちそう

と。新聞が造語も含めて

︱っ︱つの言葉につ

もないケースをあげて、なお考える。﹁沈痛する﹂を否定し去ってしまうのも 惜しい気がしないでもない

いていろいろ考え、検討を重ねていることがわかる。その際に、漢字、漢語 の意味を十分に考えることはいうまでもない。

常用漢字の意味 新聞社に入社して三十年余、当用漢字、常用漢字とともに暮らした。これ らのおかげで難しい漢字や漢語が追放され、日本語がかなりやさしくなって きた公算は極めて大きいと思う。その方向は支持したい。が、 メリットの半 面、その弱味も無視できないようになったと思う。その例の一っが、最近の

1 1 8

若者たちの誤字、当て字のひどさに現れているからだ。その原因に当用漢字 がからんでいるといったらいい過ぎだろうか。 日本人は漢字を中国から移入、

︱っ︱つの漢字は別々の日本的意味を持たされていた。が、当用漢字

それを日本語を書き写す文字として採用した時、漢字の音とともに訓を発明 した。

表の採用の際に、数々の当て字や換え言葉を作るのに音が同じで意味もかな り似ている文字に換えたり、音も文字も異なるが意味の似たものに換えたり した。こんなことから字形が似ていたり、音が似ていたらどの字を使っても いいという考え方が、 ひどい当て字などに結びつくからだ。 当用漢字千八百五十字に新しく九十五字を加え、常用漢字千九百四十五字 が生まれたのも当用漢字三十余年の評価と反省に立つものだ。新しいよりど ころと考えたい。

﹁斎藤﹂と﹁斉藤﹂ いま最も気になるのは﹁斎﹂と﹁斉﹂の混同である。﹁斎藤﹂という姓で﹁斉 藤﹂と間違えられなかった人はまずないだろう。﹁斎﹂の略字が﹁斉﹂だと思 われているのだ。

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1 1 9 第 2部

さいとうゆき

人気タレントの斉藤由貴の悩みの︱つは逆に斎藤由貴と書かれることが多 いことという。﹁卒業﹂を歌って歌手としても認められ、本職の女優の方でも

この夏は N H K銀河テレビ小説﹁父︵パッパ︶からの贈りもの﹂に出演、

来春︵昭和六十一年︶からの朝のテレビ小説﹁はね駒﹂の主人公に起用も決ま り

人気が高まった。その人気につれ斎藤由貴と書かれることも増えた。 その度に。フロダクションは間違えて書いた雑誌や新聞に﹁由貴ちゃんは斉 藤です﹂と電話、 かなり改善(?)されてきたそうだ。 こんな話を聞いてい て、朝日、毎日などのラジオ・テレビ欄をのぞいてびっくりした。斎藤由貴 となっている。調べたら、番組を各紙に送る配信センターの方で、﹁斎﹂と ﹁斉﹂は間違えやすくて困るのでタレントは全部﹁斎﹂に統一しました、 としヽ つ返事。驚くべき文字感覚というべきだろう。もっとも‘ この﹁斎﹂と﹁斉﹂、 本人でもどちらかはっきりしないので、まかせます‘ という人も割にあるの でよけいにややこしくなる。選挙などで﹁斎藤﹂をわざわざ﹁斉藤﹂とする 候補者がいる。有権者にやさしく、すぐ書いてもらえると思っているのだろ うが、言葉にうるさいフランスだったら間違いなく落選するだろう。

ぐ斉藤由貴︿東宝芸能提供﹀

1 2 0

奥深い漢字の世界

0

﹃大漢和辞典﹄ の 五 万 は と も か く 、 中 型 の 漢 和 辞 典 で も 一 万 か ら

ところでわれわれは暮らしのなかでどれくらいの漢字と接しているのだろ うかーーー

一万五千字を収録している。しかし、国立国語研究所が行った調査では雑誌 や新聞に使われているのは大づかみなとらえ方で四千字程度といい。範囲を しぼると二千から二千五百字でたいていのことは書けるようだ。国語学者た ちも三千字から三千六百字くらいでかなりまかなえるとしている。 とすれば、よほど専門の道でない限り、無理に多くの漢字を覚える必要も ないようだ。まず常用漢字をしっかり覚え、 それからプラスアルファにーーー その漢字への道は限りなく広く奥深いはずだ。

0

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 2 1

古澤

漢字とのつきあいー~悩みもたのしみも||

漠字不要論のアメリカ学生

ひろう



一応規準に達していた。ところが彼は漢字全廃賛成

室に入るなり﹁今日はじゅうてんてきにやりましょう﹂と言った。

一瞬、彼

めなかったわけである。復習は一応終り、最終日の仕上げであった。私は教

読みも書きもちゃんとレベルに達しているのだから、教師としては実害を認

していた。アメリカ人らしい、 明快単純な論理である。そうは言いながらも‘

派で、教師の前で堂々と漢字不要論を披露するのである。私は笑って聞き流

生徒で、会話も読解も‘

読本巻五まで終えた彼は、 ひきつぎの先生の言葉通り、真面目なよくできる

その頃、ある日本語学校で、修了試験を受ける学生の補習を頼まれていた。



1 2 2



は聞きとれなかったらしく‘ ﹁ジューテンテキ?﹂と訊き返した。私は黙っ て黒板に﹁重点的﹂と書いた。それですぐ﹁あ、分りました﹂と言ったが、

かぶとなか

次の瞬間、頭のいいこの生徒は、事の意味をさとったらしく‘﹁漢字ハベンリ デス﹂と兜を脱いで笑った。私もニャリとして、お腹の中で﹁ザマアミロ﹂ と言ったが、彼の学習はまだ俗語を教える段階ではなかったので、 ロには出 さなかった。

しごく

日本語教育と二足の草鞘をはくように

わらじ

﹁漢字ハ便利デス﹂この実感は、百万言の反論より、彼の漢字不要論に水を さす効果があったと思っている。

ハングルと仮名 校正に関わり始めてから四十余年

なってから三十年足らず、前者の方で漢字の問題にぶつかることは至極当然 だが、けっこう日本語教育の方でも‘ それも初歩の段階で、しばしば思いが けないことに目をみひらかされる。 日本語の仕事で韓国へ行った時、困ったのは町で漢字を見ないことであっ た。店の看板はみなハングル︵日本の仮名に当る文字︶で、漢字があるのは中

華料理店だけである。その他に漢字を多く使っているのは、新聞である。漢

ノ‘

字の利点の︱つがスペースの倹約にあるという点で、 日本語の仮名と同じ事 情がある。したがって、韓国語のできない私にも、新聞が読めたりする。

なま

ングルは合理的だから、 ちょっと教わるとじきに文字が読めるようになる。 もっとも読めても意味は分らない。しかし外来語は、多少訛り方は違っても 共通だから分る。ある時新聞を見ていて﹁xxでダイナマイト爆発﹂と言っ

ダイナマイト以外は漢字で書いてあったのである。

たら、挨拶もろくにできないのに新聞が読めるのかと驚かれた。何のことは ない

次に漢字の目についたのは劇場のパンフレット。 ハングルの間に括弧して

,,..叩祠」'・'"'● q 凶 臼 ● . .,● 患 三 人 9

漢字が入っている。 日本のよみがな挿入の逆である。 つまり﹁きょうのがく

<韓国の新聞

ー~」一_Jlli(talf “ 配

しゅう︵学習︶ はじゅうてんてき︵重点的︶におこなう﹂というような表記 法である。

訓か当てよみか 実は、 日本の仮名に比べてハングルには﹁仮名書き﹂にしやすい事情があ る。それは第一に訓が無いということである。 ﹁無い﹂ というのは当らない。

"'

3●●

t ・ f f l 1 0 1 1 f A -へ _ _ 馴 , , 』

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 2 3

1 2 4

むしろ日本語に訓が﹁有る﹂ことのほうが特殊だというべきだろう。しかし 日本人にこのことを話すと、+人が十人、﹁へえ、‘訓が無い?﹂と目をまる くする。現代表記法では、当てよみというと、無理なこじつけよみとして排 するが、 ひとさまの国の文字と自分の国のことばを勝手にくっつけたという 点では、訓も当てよみと変らない。﹁あの娘﹂とよめば当てよみで、﹁あの子﹂

おん

なら訓というが、子という漢字にはそも/\.こという発音は無いのだし、 ﹁シ﹂という音だけでは、日本語としての意味は無い。また﹁ひと﹂を漢字 で表わすには、現代表記では﹁人﹂しかみとめない。 だから上記の﹁ひとさ ま﹂を漢字で書くと﹁人様﹂となって、人間様を拝むようである。ついこの

ごと

間まで﹁他人﹂をひととよめたのだが、これが使えなくなった結果、﹁他人

一ュアンスどころか、意味合いも違ってくる

事﹂というよみが無くなって、タニンゴトという不思議な言葉が出現した。 ﹁タニンゴトのように﹂では、 ように思える。 訓と当てよみの違いは、要するに習慣の定着度である。もし、根本的に当

おん

てよみを否定するとならば、韓国を学んで訓なしにするほかない。たとえば、 花を音よみすると、日本語では力︵クワ︶、韓国語では 7ヮ、どちらも中国の

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 2 5

おん

二、三⋮⋮の漢字を、 日本語のヒト‘ フタ⋮⋮

日本のように﹁花﹂ のよみとしては用いない。漢語は漢

音を伝えているから似ているが、 日本語のハナに当る韓国語のコッは、必ず ハングルで書いて 字で、自国語は自国の文字 類する用い方としては に当る韓国語でよむことがあるだけである。

仮名書きか漢字まじりか この事から考えられるのは、おそらく韓国では、漢語と純粋の韓国語とは 別々の系統として実感されているにちがいない。﹁感謝シマス﹂は漢字で書け ても﹁アリガトウ﹂に当ることばは漢字では表記しないのだから。そのこと ばが何から来たものか、相当教養のある人でなければ分らないのではないか。 日本なら﹁有難う﹂とも書ける、﹁難有う﹂と書く人さえあって、 このことば が、世にも稀な厚意や出来事に対する感謝の意であることはすぐ分る。 ついでに﹁御座居ます﹂とまで書いたり、はては意味の無い ﹁ます﹂まで

はがみはか

﹁升﹂を使って表わしたりする。私の子供の頃には、店の外に﹁何々有/]﹂ とか﹁コネコ上げ□﹂などという貼り紙を見た°□]は字ではない、米を量る

ますヽ

枡の絵である。これをみると、 日本人が漢字を、表意文字としての便利さの

一語単位で分かち書きになっている欧米のつづりは、仮名に比べて

他に、発音をまとめて表わせる見やすさを利点としていることが分る。この 点では、

見やすい。文字の幅や高低の変化もある。︵子供のとき英語の文字を憶えるの

ハングルではK

得ないのが現実である。さきの、劇場のパンフレットの表記もその表れの一

ないような状態にまで徹底させていながら、なおやはり、漢字を残さざるを

韓国語において、しかも政策的にも、前述のように町の看板にさえ漢字を見

このように、 日本語よりは、 はるかに仮名書きしやすい条件を持っている

厄介である。

あるということになって、活字やタイプライターのキイは、 日本の仮名より

とiと n gを組み合せた一文字として表わす。現実にはいろいろの形の仮名が

ば、英語の kingを日本の仮名ではキングと書くのに対し、

ルは母音と子音に分かれていて、それを一音節にまとめて表記する。 たとえ

ぽいんしいん

しかし、ハングルは日本の仮名よりは、ずっとまとまって見える。 ハング

語の形がそれを代用するようになるのは当然であるが。

こよ‘ スペルでなくてつづりの形によっていた。︶表意文字が無いのだから、

•3•99

1 2 6

『大漢和辞典』を読む

1 2 7 第 2部

つである。まして日本の仮名においてをや。

かく

日本語教師を始めたばかりの頃、 ベテランの先生に、木と林と森の漢字を、 どの順で教えるのがよいかと質問され、答に窮した。常識では画の少ない方

かくすう

が簡単だといえるが、 その反対らしいとは察せられたものの、説明がつかな かったからである。それは、画数の多い字の方が、形の印象が強いので、 かみやすいということだった。 たしかに、まだ字を勉強していない生徒が、

この便利な漢字はまた、校正屋を悩ませるたねにもなる。厄介な

せた事件は、駈け出し時代の苦い思い出である。

を当然と思いこみ︵この略字は登録商標であった 1・︶、雑誌の広告料をフイにさ

組まれる。それで、塩之義製薬︵今は片仮名だが︶の塩が堕になっていること

しおのぎせいやく

めなかったので、原稿に書いてあっても筆記体とみて自動的に正字か俗字に

のは、まず、字体である。私が校正を始めた頃は、略字は正式の文字とは認

しかし

校正屋のなやみー_•字体

きることがある。 ローマ字や仮名では‘ ちょっとできにくいことである。

町で見かけた文字を﹁こんな形だった﹂と書いてみせると、 どうやら推理で



1 2 8

いわなみ

戦後もしばらくは同様で、岩波書店へ入った頃は、略字はもちろん、俗字 もなるべく使わず、 正字を甚本にしていた。しかしあまり見馴れぬ正字もあ り、せっかく使った﹁唇﹂が﹁唇﹂の誤植と思われたという笑えぬ話もあっ て、校正課では‘字体の採用不採用を表にしておき‘随時相談しては修正し



ていた。不採用欄の正字が次第にふえていったのは当然のなりゆきである。 当時は普通であった﹁著る﹂﹁到著﹂なども‘大正生まれの私にさえ、 いくぶ ん抵抗があったくらいである。 これに活字のタイプの問題がからむと、 さらにややこしくなる。 正字の纏 に対し、﹃字源﹄は纏を、﹃大漢和﹄は纏を俗字として挙げてある。 ところが 実際にゲラ刷に出てくる活字は、纏、縄‘纏などなど││_さまざまである。 こうなると校正屋は、字体の選択でなく‘ タイプの統一のために悩まされる。 また、姉(シ•あね)は字源では「姉と同じ」となっているが、 ﹃大漢和﹄

シ︶は柿の本字、柿は柿の俗字となっているので姉との関連

でも分りやすい。回・同・廻.廻の関係も‘辞典によっていろいろになるの

柿が中心で、柿

ら︶に同じ、 と同格あつかい‘柿は見当らないのが﹃字源﹄。﹃大漢和﹄ では‘

は姉は姉の俗字、似た形でも‘柿は柿(かき)の俗字で、柿は杭(ハイ•こけ



で困る。中でも困ったのは覇︵旅の意味の︶で、当時は﹃字源﹄を根拠にして いたので、覇をひくと﹁覇の本字、 覇•覇は俗字」とあり、覇のところには

しやれ

﹁覇の俗字﹂、覇のところには﹁覇は俗字﹂とあり、闘には﹁覇は俗字﹂とあ って、 馬の洒落ではないが、どうどうめぐりしてしまう。その点、﹃大漢和﹄ では謡も覇も覇の俗字で、闘は独立して扱われ、解釈のところに﹁覇に同じ﹂ とあるので、やっと関係がすっきりした。

誤用と慣用 漢和辞典でみとめなくても、慣用されている文字は校正には必要で、字 体・用字ともに著者の個性や時代の傾向を表わすものは、単なる正誤では片 づけられない。﹁さえる﹂は﹁直﹂だけで﹁冴﹂は﹃字源﹄には無い。寒さの 表現の﹁さえ﹂は直寒という漢語もあることだし﹁直﹂でもいいが、頭や腕

ぎじ

のさえはどうも冴の方がピンとくる。冴子さんという名も現に多い。﹃大漢 和﹄では冴は直の調字として挙げてあるので安心した。たとえウソ字でも‘ 現在生きて使われていることは無視できないと思う。用字もまた同じく‘ 得、的確などは、 独特、適確でも許容してよいのではないか。



『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 2 9

1 3 0

、、、 ﹁病膏盲に入る﹂﹁彼の独檀場﹂﹁体力が消耗する﹂を、 それぞれコウコウ、 ドクセンジョウ、ショウコウと発音すると、 お里が知れると校正屋は笑い合 ったものだ。 コウモウ、ドクダンジョウ、ショウモウの方が今では普通にな っている。消耗や膏盲は字はこのままで慣用訓みと扱ってもいいが、 独檀場 は字まで壇になってしまっている。﹁得意の壇場﹂などという言葉の連想か ら起ったものであろうか。音を残して文字を正しくするか、 文 字 と 音 を 合 わ せて、字の誤用の方を許容にするか、 むずかしいところである。 一所懸命も、 一生懸命と書くと誤用だと言われる。しかし私は‘ふだん﹁一 生﹂の方を用いている。なぜなら、現にイッショウと発音しているし、それ 、 、 はイッショの伸びたのではなく‘ 明らかに一生のお願いなどの強調の感じを 持っている。それに、語源の通り、領地の一所を命を懸けて守るという気持 なら、アクセントが、イッショケンメイとなるはずだが、実際にはイッショ ケンメイとなっている。つまりイッショーケンメイと同じ形である。もう、 ﹁一か所﹂という感じは消えてしまっていると思うのである。鮎が本当はな まずだとしても‘ いまさらもとに戻すわけにはいかない。鮭をふぐの意味で 使って医者に問い合せ、命を落したという笑話もある。

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1 3 1 第 2部

かんにん

だからといって、何でもかまわないというつもりはない。錯覚で誤用して

かんべん

いるものは、修正のきくうちは、なるべく正しい方にもどしたい。堪忍を勘 忍と書くのは勘弁からの連想であろうが、堪と勘は意味がちがう。寺子をあ ずかるから寺子屋で、小屋で勉強するのではないから寺小屋はおかしい。鍛

かねう

冶︵タンヤ︶をカジと読むのは変だと思って、わざわざ鍛治と書いたりする が、かじ︵旧表記ではかぢ︶は金打ち←かぬち←かぢで訓だから、意味が合わ

ごうふく

なくて音だけ通じる字を並べてはまずい。気概がしっかりしなくて慨いてし まっては困るし、剛複が腹になってはゴウハラ︵業腹︶みたいで、せっかくほ



これは気がつけば誰でも分るからご愛嬌である。

めたのに台無しである。 おかしいのは、低脳、撤底、除行、往珍などがある が

漢字制限の功罪 ところが、漢字制限ということが起ってから、代用という大義名分のもと

よろん

に、いろいろの誤用が堂々とまかり通るようになった。車両‘拠出、世論︵セ ロンではない、輿論の代り︶、謀反、洗浄、活発、反発ーなど、など。世論な どは、 ちゃんとセロンという言葉があるのだから、 輿が使えないからといっ

1 3 2

て、生きている言葉に乗りかえて、もとの住人を追い出すなどは少々乱暴で はないかと思う。 当用漢字が常用漢字になったのは、数がふえただけでなく‘根本の態度が 変ったということが重要だと思うのだが、漢字を制限するというはじめの誤 りがもう浸透してしまってとり返せない。功罪のうちの罪の大なるものと思 、、、、 う。ここまででなければいけないなどという枠をきめて使わせるなどという のでなく、官報や公共機関からの通達などの、 どうしても通じさせたい方の 側で、ある範囲の目安をつくれば、新聞や雑誌は自然とその辺に落ち着いて

がいたん

しまう。制限は提供する側で考えればいいので、大衆に命令すべきことでは ない。庶民の智慧は、学者先生がいかに慨歎しようが、不便な気に入らない ものはどんどん捨てて、遊びもたのしみながら整理していることは、 日本製

︱つの漢字に︱つのよみ、また︱つの言葉を表わすに

の略字やウソ字を見ても分る。 音訓制限にしても

は、用の足りる字︱つで間に合わせる、 という考え方を養うことが、短絡し た思考法を生んではいないだろうか。もっと深い、精神のはたらきに影響し ていないだろうか。

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 3 3

頭は箱ではない それに漢字を憶える負担を減らすというのもおかしい気がする。記憶とい うのは、たくさん憶えようとしてその中の何。ハーセントかが自然に定着する のである。始めから少なくしておいて、 だから一 0 0パーセント憶えられる

すきま

はずだといわれては、 かえって苦しい。また、憶えるものを減らしたら、 そ れだけ隙間ができて、他の知識が入るというのも、何やら脳が箱かなにかの ようで変である。ある時、校正のベテランが注文主から﹁これこれの事だけ 注意してくれればいいから、他のことは構わず軽くやってくれ﹂と言われて、 ﹁注意力をフルにはたらかせるから、その事にも気がつくのですよ﹂と笑っ たというが、全くその通りである。 たくさんの漢字と、漢語と和語の入り< んだ関係をさばこうと、始終頭を働かせるから、 われわれの祖先は‘ いろい ろの物をこなす力を持ったのではないだろうか。漢字や音訓を制限してから、

へんつくり

子供たちは読み書きが達者になったろうか。漢字に悩まされたはずの戦前の 子供たちが、 せっかくの休み時間に、 黒板で、同音の漢字や‘扁や帝の同じ 字などを書きくらべして遊んでいたのをどう考えたらいいだろう。 何も頭につめこまなくても、無精しないで辞書をひけばいい。校正者の心

1 3 4

得として、自分の知識を過信せず、調べる、確めることが大切だと言われて いる。私はいつも﹁漢字を国語辞典で調べるな、訓の仮名づかいを漢字辞典 で調べるな﹂と言う。しかし若い人は漢和辞典を引きは引いても、 ど う も う しろの音訓索引で調べるらしい。何でも目的の物に早くたどりつけばいい‘ 画数など数えているのは無駄手間だ、そういう考え方も﹁制限﹂の影響から 生まれたのではないか、 そんなことも考えてしまう。 駈け出しの頃だった、 ふだん調べることもなかった﹁流﹂という字を、何 かの必要でひいてみたらなかなか出て来ない。やっと、荒ではなくて土 J I L であ ることを発見し、恥かしいので隠していたが、ためしに周りの人に当ってみる と、意外や、 かなりの人が私と同じ間違いをおかしていた。冒の字を日でひ いたり目でひいたりしてさがしまわり、 n の部に属する目に気づいてひとり 赤面したのも、漢和辞典とのつきあいの思い出である。骨折って辞典と取り くむ方が、記憶力でつめこむより遥かに効率よく身に着くし、 た の し く も あ

一年中歩かない

る。健康のためにはエレベーターに乗らずに階段を歩けというではないか。 足も頭も同じである。富士山に登る力を残しておくために、 でいる人があるだろうか。

『大漢和辞典』を読む

1 3 5 第 2部

明治の漢語

﹁文明﹂を運んだ漢字

前田

樋ロ一葉の ﹃たけくらべ﹄は‘ 千束神社の夏祭から物語がはじまるが、

長吉の期待とはうらはらに、信如は祭の宵にこれといって横町組に力をか

も漢語で仕かへしておくれ﹂。

お前は学が出来るからね、向ふの奴が漢語か何かで冷語でも言ったら、此方

ものこっち

以前から気になっていたのは‘こういう言葉だ。﹁己れは此様な無学漢だのに

おこんわからずや

胸のうちの口惜しさを思うさま信如にぶちまける長吉のセリフの中で、 私が

組の餓鬼大将‘頭の長吉が、龍華寺の信如に加勢を求めにくる場面がある。

かしら

太と美登利をいただく表町組の子どもたちに気押されて勢いが振わない横町





1 3 6

した形跡はない。表町組の子どもたちがたむろしている筆屋の店に、万燈を ふりかざしておどりこんだ長吉は、漢語ぬきながら歯切れのいい唆呵を美登 利に浴びせかける。 いかにも下町の子どもたちを描いた ﹃たけくらべ﹄にふ さわしい物語の運ぴだが、信如と同じ私立の小学校に通っている長吉が、 立の小学校に通っている正太にたいして、ある劣等感をもっていることはの みこめる。明治時代の私立小学校は寺子屋が昇格したものが大部分で、教貝

つまりはずばぬけた学力が長吉にとっ

の質にしても、教材や設備にしても‘ 公立の小学校とはくらべものにならな かった。それだけに信如の漢語のカ

ては‘頼もしく思われたわけであった。 漢語・漢文の読解力が学問の代名詞であり、 その能力を身につけた人物が

時代の造語が加わったことで、漢語の語彙そのものの絶対量が増加した。文

否かが、開化と旧弊を切りわける標識になった。何よりも‘ お び た だ し い 新

に、恥の意識をともなうことになった。あるいは、漢語を沢山知っているか

せただけに、漢語の知識の不足は、 ﹃たけくらべ﹄ の 長 吉 が そ う で あ る よ う

しかし、維新後の公教育の普及は‘庶民の日常生活のなかにも漢語を浸透さ

一目置かれるのは、 江戸時代からうけつがれた伝統であるにちがいなかった。



A ﹃たけくらべ﹄さし絵

r 大漢和辞典』を読む 1 3 7 第 2部

明開化の時代は、言葉のレベルではまぎれもなく漢語の時代だった。

1

いみ

これは、明治初年に出た﹃新作

﹁当今文運盛大にして、人智至大に開明し、三尺の童子ですら俗言を忌、競 ふて漢語を弁解して、嘲諧雑話に用ふ﹂

漢語都々一﹄︵刊年未詳︶の序文であるが、﹁三尺の童子云々﹂は、明治五年に 新学制が公布されたことを考えあわせると、 べつに誇張の言ではない。小学

の論議をはじめた、 というたぐいの記事が、

明治十•四•五)。

一種の美談として新聞の雑報欄

校に通う子どもに新聞を読んでもらったことがきっかけになって、親が新聞

を賑わせる時代だったのである︵﹁読売新聞﹂

明治二︶

ところで、 明治初年に流行した漢語どどいつの作例はこういうものだ。

ヘ鐘は七ツか八ツ山下を 月落烏暗霜満天 江楓漁火対愁眠 かご

駕で飛せる早帰り ︵唐詩作加那

1 3 8

かえ

\広い宇内や欧羅巴にもおまへに見換る人はない ︵漢語都々逸明治三︶

せかいぢうおろしやはじめいしんのくに

へ机上燈下の博覧ぢやとて女迷はず学は別 ︵ 同 ︶

よるひるとなくしよもつをみたひと

とりのけ

明治八︶

みについたとく

へ切れる取除しておくれならぬしに売ます身の権利 ︵声くらベ

へ主に惚れるの権利があれば主に尽すの義利もある

明治十三︶

曰権利。 日 義 務 。 安 知 一 作 者 非 洋 学 先 生 ︵春風一夢

こう

明治初年、柳橋をはじめとする東京の花街で遊興をはしいままにした明治 政府の官員たちは、幕末の志士気分がぬけきれなかったために、宴席では懐

慨詩の高吟と白刃をひらめかせての剣舞を座興とした。成島柳北の﹃柳橋新

ふうきようやはく*

、、、、 こうもんかい* 誌﹄が鴻門の会に見立てたとおりの遊びの流儀である。 ど ど い つ の 上 の 句 と 下の句の間に、 楓 橋 夜 泊 の 詩 の 一 節 を 挿 入 し た ﹁唐詩作加那﹂ のスタイル nd

一種の辞書の役割を果したわけであった。

文体の ﹃通俗花柳春話﹄、 というように、 二つの文体が共存していたコミュ

えらばれている小新聞の雑報、漢文体の翻訳小説﹃花柳春話﹄にたいする俗

文を基調にした大新聞の論説と、ルビつきの漢字に口語文に近いスタイルが

おお

を考えるうえで、恰好のモデルになると思われる。それは、漢文の書き下し

然に組みこまれて行く過程がよく判る。 、 、 漢語の俗解から新漢語の俗解へ、 さらに注釈ぬきの新漢語へ というどど 、 、 いつに見る三段の変化は‘ おそらく明治初年における漢語の造成とその受客

である﹁権利﹂や﹁義務﹂ の漢語が、しだいにどどいつ形式のなかにごく自

さらに﹁声くらべ﹂﹁春風一夢﹂になると、明らかに文明開化時代の新造語

た﹁漢語都々逸﹂は

燈下の博覧﹂に﹁よるひるとなくしよもつをみたひと﹂といった左訓をつけ

ぷんだったから、その俗解が必要になった。﹁宇内﹂に﹁せかいぢう﹂、﹁机上

ょ、 こうした殺伐な宴席の風景を房髭させる。 ところが、官貝や田舎書生が 、、、、、、 さかんに振りまわす漢語は、芸妓や娼妓にとっては文字どおりちんぷんかん

『大漢和辞典』を読む

1 3 9 第 2部

新聞記者。文明開化の世相と明

*成島柳北(一八_―-七—八四)漢詩人、

誌﹄︵明治七年︶で知られる。

治政府の高官を諷した﹃柳橋新

項羽が鴻門に会した故事を踏ま

*鴻門の会漢の高祖劉邦と楚の

により、劉邦は危地を脱する。

える。奨噌の武勇と張良の智略

転・結句は‘﹁姑蘇城外寒山寺/

*楓橋夜泊唐の張継の七言絶句。

夜半鐘声到客船﹂。なお楓橋は蘇

州城の西にある橋の名。

1 4 0

ニケーション状況を示唆しているのだ。

漢字の造語力 明治初年にあたらしくつくられた漢語の大部分は‘ いうまでもなく西洋か ら輸入された文物・制度・学術思想にかかわるものであった。 フラフ︵旗︶、 テレガラフ︵伝信機︶、 ステンショ ︵停車場︶、 ケット︵毛布、ブランケットの なま

略。赤ゲットとして通用︶など、庶民のレベルでは原語の訛った形で通用した ものがすくなくないが、書き言葉ではこれらの言葉も漢語に訳された形で記 された。やまと言葉にくらべて漢語の造語力は、 はるかに優っていたからで ある。

一例として、当時の歌人が文明開化の世相を詠ずるにあたって考案し

たやまと言葉の訳語をあげてみよう。

鉄道すちかねみちまかねのみち 蒸気車むしけくるま

かをりひけふりひ

電信機はりかねたよりたよりのいと 瓦斯燈

l -

O愈割叩

団ぃ心が︵りもぷし

t

うなr ー で 疹 灯

改\

i

f

が i i ずふけ 禁名かす字が

. f f] ‘ な て

f0 みちみふ

一 褐 Y 会 了

ヘ r }

A ﹃明治の骨董﹄︵光芸出版刊︶より

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 4 1

避雷針 ちごそだて

かみさけ

か、ぬうつしゑ

ちごのふみや

軽気球あまはせふねあまかけりふね

幼稚園 7つしかげ

ものあらひのあく

かみよけ

写真 石鹸あかとり 小泉苓三﹃近代短歌史明治篇﹄による︶

﹁むしけくるま﹂は﹁虫気車﹂にまぎれるだろうし、﹁かみさけ﹂は﹁神酒﹂ とうけとめる方が自然だろう。﹁あまはせふね﹂が﹁軽気球﹂ということにな ると、 これはほとんど判じ物だ。歌人自体がそのことをよく承知していて、

横山申清

明治の新題を詠むときには、 かならず漢語の表記をえらんだ。 たとえば‘

軽気球

人をさへのせて遥に天とぶや軽き気による術ぞあやしき ︵明治詩文歌集︶

.1 4 2

という具合である。具体的なモノの世界でさえ

うろん

こうした胡乱な有様だから

制度や抽象的な観念をあらわす言葉になると、 やまと言葉は‘ いっそうその 無能力を露呈してしまうことになる。 郡県制か封建制かという論議がそうであったように、 明治初年には国漢洋 三学の優劣論がさかんに闘わされた。実学としての洋学がもっとも敬重され

一時は国学の支持者も結構多かった。江戸時代には

たのはいうまでもないが、教学を督する教部省がその草創期には国学者の勢 力圏内にあったために

学問の主流を占めていた漢学は、洋学と国学の双方から圧迫されて、 旧弊の 遺物視された時期がたしかにあったのである。しかし、 明治十年代になると、 洋学を理解するための基礎教養としての漢学の役割が再評価の機運を迎える ことになる︵明治十四年ごろから明治政府は民権思想に対抗するイデオロギーと して儒学の効用を再認識するが、これはべつの問題である︶。すくなくとも、外来 の文物制度、学術思想にわたる言葉の多くが、漢語をかりて表現されたため

*中村敬宇︵一八︱︱︱︱-│九一︶儒者、洋

学者。明六社同人。ミルの﹃自

に、漢文の学習は洋学を学ぶ者が通過しなければならない楷梯として考えら

由の理﹄︵明治五年︶、スマイルズ

かいてい

れるようになった。﹃西国立志編﹄ の訳者として知られる中村敬宇は、晩年に

の﹃西国立志編﹄︵明治三年︶の訳 者として知られる。

なかむらけいう*

なってから、 かつて漢学無用論を唱えたことを反省しながら、 つぎのように

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 4 3

いっている。﹁今日洋学生徒ノ森然トシテ頭角ヲ挺ンデ、前程万里卜望ヲ属セ

どうさい

ラル、者ヲ観ルニ、皆漢学ノ下地アル者ナリ、漢学二長ジ詩文ヲモ能クスル

しようへいこう

者ハ、英学二於テモ、亦非常二長進シ、英文ヲ能シ同楕ヲ圧倒セリ﹂︵﹁漢学不 可廃論﹂明治二十年︶。昌平覺の俊秀だった敬宇自身にもまたキリスト教の天 地創造を﹃易経﹄ の説卦伝から、 その隣人愛を﹃孝経﹄ の﹁愛敬﹂から、 そ れぞれ理解しようとした体験があった。﹃百一新論﹄︵明治七︶のなかで、ヨー ロッパの学問体系についての豊富な素地をよりどころに儒学的な世界が内包 するさまざまな矛盾に批判をつきつけた西周も、もともとは祖棟学の信奉者 だった。 西周・中村敬宇など、 明治初年の洋学者が漢学の素養を手がかりに、西洋 の思想やキリスト教を理解しようとした姿勢は、たとえば哲学用語の画定に すくなからぬ実績をあげた井上哲次郎編﹃哲学字彙﹄︵明治十四︶にも看てと

絶対 (absolute)と相対 (relativity)、先天的 (apriori)と後天的

ることができる。私たちが哲学的な思索をめぐらすときに欠かせない基本的 な用語 I

(ap 、範疇 (category)な ど ー を 定 め た こ の 語 彙 集 は ‘ 可 能 な か o s t e r i o r i )

ぎり儒学ないしは仏教の教典に、その根拠を求めようとしている。︿アプリオ

社同人。﹃百一新論﹄︵明治七年︶

*西周(-八︱-九│九七︶哲学者。明六

して活躍。

など、明治初期の啓蒙主義者と

*井上哲次郎︵一八登ー一九器︶哲学

ト、ショーペンハウアーなど、

者。東京大学教授として、カン

あった。

ドイツ観念哲学の移入に功績が



4 4

後天而奉天時、天且弗違

按‘易乾、先天而天弗違、

リ﹀の項を見ることにしよう。

r i o r i 先天 Ap

さきだ

イタリックは、英語以外の原語︵この場合はラテン語︶を表わす。︿先天﹀の訳 語の典拠として、﹃易経﹄乾の文言伝からの引用があるが、これは﹁天に先ち て天違はず、天に後れて天の時を奉ず。天すら且つ違はず﹂と訓む。﹁諸橋大 漢和﹂によれば、︿先天﹀の語義は天に先だつ義、 天 運 時 機 の 来 る こ と を 前 知 する、 天地の初、宇宙の本体、生れながら知る、生前から我が身に備はる、 などとなっている。私たちはふつう先天的をほとんど生得的の意で使ってい るが、もともと︿アプリオリ﹀は中世スコラ哲学の用語で、結果から原因に 遡ぼる推論の形式を意味していた。神とその属性、理性や道徳についての概 念・判断・認識が︿アプリオリ﹀と考えられたのである。明治初年は‘ 天 I I キ リ ス ト 教 の 神 と い う 等 式 が 知 識 人 の 常 識 に 近 か っ た か ら 、 この︿先天﹀は スコラ哲学の原義を含みこんだ苦心の名訳ということになる。ただし﹃易経﹄ についての知識が一般教養人から遠くなった現在では、 明 治 の 人 び と の 思 索

『大漢和辞典』を読む

過程がたいへん判りにくくなっているわけだ。

按、易繋辞、天地細編、万物化醇、疏、万物変化而精醇也

もう︱つ、同じ﹃易経﹄ に典拠を求めた訳語をあげてみよう。

Eo u t i o n 化醇 ミl

又淳化之字、出干史五帝本紀、進化、開進

明治十年代の進化論は、動物や植物を支配している進化の原理が、 人 間 の 社 会にも適用されるとする社会進化論が注目されたところに特色がある。 スペ ンサーの社会進化論を逆手にとって、 天 賦 人 権 論 を 撃 つ 思 想 的 武 器 に 転 じ た かとうひろゆき*

加藤弘之の ﹃人権新説﹄︵明治十五︶は、東京大学を中心に受客された進化論 の︱つの方向を指し示している。 おそらく︿化醇﹀の訳語の妙味は‘ ﹃易経﹄ 繋辞伝にある︿万物﹀ の 語 と の 対 応 が 配 慮 さ れ て い る 点 に あ る だ ろ う 。 現 在 明治十年代には︿進化﹀ *

ヘボンの ﹃和英語林集成﹄第三版では、

ではまったく使われなくなった︿化醇﹀ の訳語は と拮抗して使われていたらしく‘



で進化論を講じていた外山正一は‘ ﹃新体詩抄﹄初編︵明治十五︶に収めた﹁社

︵但し和英の部には、 Kwajunも S hinkwaも立項されていない︶。また、東京大学

ronとが併記されている ronと Shinkwa, E v o l u t i o nの訳語として、 Kwajun,

1 4 5 第 2部

*加藤弘之︵一八︱︱-六│︱九一六︶啓蒙学

して天賦人権説を批判した﹃人

者。明六杜同人。進化論を応用

権新説﹄︵明治十五年︶がある。

版慶応三年(-八六七︶上海刊。

*﹃和英語林集成﹄ヘポン著。初

三版明治十九年(-八八六︶刊。

幕末から明治初年にかけての国

語語彙を知るためには最も墓本

的な資料。

米国平各先生著

g 翌珠素

教育者、

a水 束 京 丸 善 命 社 歳 汲

OO)

文学者。東京大学教授。井上哲

*外山正一︵一八哭ー一九

︵明治十五年︶を撰する。

次郎・矢田部良吉と﹃新体詩抄﹄

1 4 6

会学の原理に題す﹂では‘﹁化醇の法で進むのは/まのあたりみる草木や/ 動物而巳にあらずして/凡そありとしあるものは﹂というように、︿万物﹀と の呼応で︿化醇﹀を採用している。 では典拠が明示されていない場合はどうか。 たとえば︿エクスタシイ﹀。

E c s t a c y 消魂、奪塊、大悦

私たちにすくなからず抵抗を感じさせるこれらの訳語は、しかし、それぞれ に立派な典拠がある。︿消魂﹀は、陸涸の﹁剣門道中遇雨詩﹂にある﹁遠遊無 処不消魂﹂をふまえているし、︿奪塊﹀は﹃左伝﹄、︿大悦﹀は﹃孟子﹄にそれ ぞれ、れっきとした典拠をもっているのだ。おそらく‘ この出典さがしには ﹃ 侃 文 韻 府 ﹄ あ た り が 大 い に あ ず か っ て い る に ち が い な い 。 Ecstacyに kotsu の訳語をあてた ﹃和英語林集成﹄とくらべてみることで Seishin,K01

﹃哲学字彙﹄ の訳語が担当者のなみなみならぬ学識と常識と情熱の産物であ ることが納得される。 しかし、︿エクスタシイ﹀ の訳語︿消魂﹀︿大悦﹀はもちろん、堂々たる出

の著作がある。

宋代の詩人。 *陸消(ニ―-五I |D -~ ―) 放翁。﹃剣南詩稿﹄﹃入蜀記﹄など

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 4 7

典をもった︿化醇﹀も、平易な︿進化﹀にとってかわられて姿を消してしま った︵中国でははじめ︿天演﹀、 のちに︿進化﹀が用いられるが、これは日本から の輸入らしい︶。﹃哲学字彙﹄のなかにあるこの手の消滅した訳語をひとつひと つ眺めていると、 明治の漢語のたどった不思議な宿命のようなものが、たし かな手応えで伝わってくる。 たしかに漢語・漢文の素養は‘ 明治も後半期に入ると、急激に低下したに ちがいない。それに、西洋の思想体系を束洋の思想体系に包摂しようとする 先覚者の試みは、貴重な努力ではあったが、もともと木に竹をつぐ不整合を まぬがれなかった。たとえば、鵡外や漱石の世代は、﹃哲学字彙﹄が画定した 漢語を書記しながら、 その背後にドイツ語や英語の原語を透視していたので ある。

『大漢和辞典』を読む

1 4 9 第 2部

漢 詩 と ﹃大漢和﹄

貧乏書生の宝物

石川忠久

昭和三十年、わたしが大学を卒業した年に、﹁諸橋大漢和辞典﹂が復刊され た。大学の研究室で、戦時中に刊行されたその第一冊を、すでに利用してお り、待望の復刊であっただけに、早速全十三巻の購入の予約をした。 当時、毎月千円払いこみ、半年で一冊手元に届くという購入方法であった。 並製と特製とあったが、思い切って特製の方を奮発した。高校の非常勤講師 をして得た報酬六千円の中からの千円である。因みにそのころの公務員の初

一冊二万円するが、当時の六千円からす

•J

任給は、 たしか七千八百円だった。だから割のいい報酬だったのだが、 と こ かく千円は相当の負担である。今、



1 5 0

れば、 非常に安いことになる。 半年に一度、本屋から知らせが来る。 いそいそと受け取りに行き、持って

︱っ︱つゆっくり玩味して、それから

がんみ

帰って箱を開け、ずしりと重い中味を取り出した時の嬉しさは、今も忘れな い。天金、革表紙、表紙裏の書と画、 あつら

書棚に置く。特別誂えの専用書架が売り出されると、それも買った。 一冊ず つ増えて、六年を要して遂に全部揃った。これはまさしく‘貧乏書生の宝物 であった。 それから三十年、 その間どれほどの回数、 この辞典を引いたことか。随分 気をつけて大切に扱ってきたつもりだが、 それでも天金は剥げ、革表紙はす り切れて取れてしまったものが二冊、取れかけているものが三冊、以て愛用

この辞典の有用性は、今更言うも愚か

の度の尋常ならざるを知る。今は、再刊の新品が、全部揃う日を待っている ところである。

豊富な熟語と索引 中国の古典文学を学ぶ者にとって

なことである。これがなかった時のことを考えればよい。それまではもっぱ

発行︶

A ﹃大漢和辞典﹄︵初版・昭和三十年

ぶんいんぷ

ぺんじるいへん

ら中国出版の ﹃辞源﹄や﹃辞海﹄ の世話になっていたものだ。 詩語の検索に

この﹃大漢和﹄ のお蔭で随分楽になったわけ

は﹃侃文韻府﹄に頼らざるを得なかった。 ﹃絣字類篇﹄や、 類書に直接当るこ

たとえば、﹁風﹂の部を引くと

ある。﹃侃文韻府﹄は、周知のように、熟語の下の字によって分類してある。

便なのはもとよりのことだが、熟語の検索に、﹃侃文韻府﹄と並用する用法が

この辞典には、詩の名句、警句が丸ごと項目に立てられていて、 はなはだ

さて、漢詩に引きつけて話をしよう。

︵あるいは和語ー日本製の漢語︶、 と決めつけることができる。

ということができる。また、 ここで用例の記していない語は、熟していない

﹃侃文韻府﹄ の語は全て採ってあるというし、 ここで見当らなければ、ない、

の書籍を渉猟するのであるが、 この辞典の豊富な記載に助けられるのである。

古典を調べる場合、用語の出典や用例を見る必要がある。それでいろいろ

である。

ともずっと頻繁だった。今は

1 5 1 第 2部 『大漢和辞典』を読む

く﹃侃文韻府﹄﹁風﹂の項︵部分

↑ ↓

' .

1 5 2

山風好風余風国風変風谷風

というふうに並んでいる。そして語の排列は、 五経︵易経・書経・詩経・礼記・

ひようそく

春秋︶を始めとして、出典の年代順になっている。下の字で引くのは、作詩 の時の韻字合わせや平仄合わせに便なためである。そもそも﹃侃文韻府﹄ は、作詩作文に資料を提供する目的で編纂されたものである。 漢和辞典はおおむね、上の字で引くように編纂されている。目にするもの

言院長公欝近衛●麿序

員文學碍士重野七繹序三

凋やク含典︱

鼻*綸星が.

青集院議員文學博士重野宅繹 東宮檜讀文學碍士三島攣重修 北京大學全最琶文學博士贋輝守之言

行 ︶

i



A ﹃漢和大字典﹄︵明治三十六年発

では‘ 明治の末に出版された三省堂の『漢和大字典』(重野安繹•三島毅·服部 宇之吉監修︶が、下の字で引くようにできているだけだ。この﹁諸橋大漢和﹂

︱っ︱つ用例に当りながら、適当な語を探す

も、上の字で引く。そこで、﹃侃文韻府﹄と並べておけば、上を基準にするも のも、下を甚準にするものも

ことができる。﹃侃文韻府﹄に上の字で揃えた索引のついている縮刷版もあ るが、索引ではもう一度本文に当り直さねばならない。やはり用例を知るた めには﹃大漢和﹄を見る必要があるのだ。 以前、詩を考えていて

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 5 3

高士五車オ

ごくさくろれんせい

︵高士五車のオ︶

という句を思いついた。高士とは、志の闇い立派な人物、の意で、古くは﹃戦

けいし

国策﹄に、﹁魯連先生は斉国の高士なり﹂と見える。五車とは、五台の車に積 むほどの多くの書籍、 の意で、﹃荘子﹄に、﹁恵施多方︵才能が豊か︶、其の書

ついく

五車﹂と見える。蔵書が沢山あって博識、 ということである。そこで、 この

ひようせいそくせい

句に合わせた対句を作ってみようと思い、まず‘淘丑に対して割凡を考えた。

・ 。 野人

ここのところの平仄は次のようになっている。 0は平声、●は仄声。 。・・。。 高士五車オ

平仄についてちょっと説明を加えておこう。

1

上声 I

下から上がる調子

平らな調子

入声ーー語尾がつまる調子

につしよう︵につせい︶

上から下がる調子

すべての漢字は音声上、次の四つの声調のどれかの調子を持っている。

平声

去声 I

1 5 4

杓︵上声︶

竺︵去声︶

ニ︵入声︶

この区別は‘辞典を引くと‘ 口の四隅を利用して表わしてある。

記︵平声︶

口の中には‘韻の種類が書き入れてある。 たとえば、﹁風﹂の字を引くと、

上声ーーーニ十九

去声ー︱︱-+

仄声十七

困という記号がついている。これは‘﹁風﹂の字が、平声の東韻に属すること を示す。韻の種類は

平声—~三十

へいすい

合計百六種である。これを﹁平水韻﹂と称する。すべての漢字はこの百六種 のどれかに属する。 四声のうち、上・去•入の三声は、平らな調子でない、 という意味でひと

くくりにして仄声と呼ぶ。 対句を作る場合、 五言の句だと、二字めと四字めの平仄が逆になるという 原則があって、句と句とではそれが反対になる。

『大漢和辞典』を読む

・ 。



0

0

つまり、﹁高士五車オ﹂に対しては、対になる句の二字めは 0、四字めは● にならなくてはいけない。 まず、高士に対して、野人はよいとして、 下の三字は、 五車オに対して 0 ●●という平仄の排列になるように按配する必要がある。 また、 意味の上で も、高士と野人はどちらも人を意味し、語の構成は、高←士︵修飾語と被修飾 語︶、野←人の方も同じである。従って、下の三字も、五車←オ、さらに五車 は、五←車、となっているように構成する。﹁五﹂と相対するところは数字が

の意や、「松•竹•梅」を指す場合もあるが、白楽天の詩に

・ 。

結局、﹁三友﹂という語を探し出す。これは、﹃論語﹄に見える﹁三人の友﹂

体呑みこんでおく必要がある。

法で次々消していく。実は、このあたりの作業の基礎には、漢字の平仄を大

二千十三も並んでいる。﹁五車﹂だから、﹁︱︱︱□﹂でなければならない。消去

引いて、熟語をずっと洗っていく。﹃大漢和﹄には、﹁三﹂が上につく熟語が

につけた熟語がほしい。そこで、﹃大漢和﹄のお出ましとなる。﹁三﹂の字を

数字は、﹁三﹂と﹁千﹂を除いて全部仄字だから、ここは一っ、﹁三﹂を上

来るようにする。

1 5 5 第 2部

1 5 6

琴罷輔挙酒

三友者為誰

酒罷んで輻ち詩を吟ず

琴罷んで輔ち酒を挙げ

三友とは誰とか為す



酒罷輻吟詩 三友邁に相引く

たがい

やすなわ

二友遁相引

とあって、「琴•酒・詩」を指すとある。また、単に酒をいう、 とも見える。

高士五車のオ

野人三友の楽しみ

これがよい、 と決めて、 その下に﹁楽︵たのしみ︶﹂とつけた。

圧A o -﹃一加知

、志車が

と、これでできあがり。これを元にしてもう一組み対句を考え、 五言律詩に 仕立て、友人を招く詩としよう、

ながら選択していくことができる。

このように、﹃大漢和﹄には、豊富な用例がついているので、熟語を吟味し

と ゜

A 白楽天︵白居易︶

『大漢和辞典』を読む

1 5 7 第 2部

また、﹃大漢和﹄ の索引を利用する方法もある。たとえば、同訓異義の検索 に、字訓索引が役立つ。﹁うつ﹂という訓に該当する字は二百三十八もある。

r

自分の意図する字義を探すわけである。

﹁おさめる﹂は百八十八字、﹁はかる﹂は百三十七字という具合である。その 中から

0

0



0

りゆうじよ

冬のある日、雪が降ったので、雪の詩を作ろうと思い、次の句を考えた。

0

東林飛柳案東林に柳案を飛ばす

しやどううん

我が家は東と北が林と岡に囲まれている。そこで、東の林に雪が舞うのを、

ちんしようげいさん

柳紫が飛ぶのに見立てた。これは、東晋の謝道饂の故事に基づく。﹃大漢和﹄

しんじよおうぎようし

で、﹁柳架﹂の項を引くと、﹁雪の形容﹂と説明があって、陳樵や促噴の詩が

しやあん

掲げてあり、その隣に﹁柳案オ﹂の項があり、﹃晋書﹄の﹁王凝之妻謝道饂伝﹂ が引用されている。道饂が子どものころ、叔父の謝安のところに集った時、 雪が降った。安が子どもたちに、雪を何かにたとえてごらん、といった。甥 の一人が、﹁塩を空中に撒けば差似るべし﹂という。そこで道饂が、﹁未だ柳 案の風に因って起るに若かず﹂とやった。こちらのたとえの方が上等なので、

1 5 8

叔父の安も感心した、という話である。 さて、この句に何とか対句をこしらえたい。北の岡の方を見ると、すでに 白く積もっている。飛ぶ様子を柳案︵柳のわた︶に見立てたので、 白く積もっ ている様子も何かこれに類するもので言えないか、と思案して、﹁氷執﹂︵氷 せい

のような白絹︶の語を得た。﹃大漢和﹄で引くと、﹁斉国に産する、精好で潔白 な絹﹂とある。漢の班捷好の﹁怨歌行﹂に、﹁新たに斉の執素を裂く‘絞潔霜 雪の如し﹂とあって、雪を白絹に見立てるのは、やはり女性の典故であるか ら、柳案とうまく合う。おまけに、架と執とはどちらも糸に関する語だ。 北の岡を、北岡と表現しても、北丘と表現しても‘﹁東林﹂とは合わない。 二字めが林と反対の仄字●にならなければならない。そこでまた﹃大漢和﹄ の字訓索引を引く。﹁おか﹂は三十七字ある。その中で条件を満たす﹁阜﹂︵音 はフ︶を選び出す。同様にして、﹁しく﹂三十字の中から、﹁布﹂を選び出し

0

0

●●

て、次の句を定めた。

0

e

0

0



東林飛柳案東林に柳架を飛ばし 北阜布氷執北阜に氷執を布<

e•

C

. .. い ﹁ 卜

9iri

A班捷好

『大漢和辞典』を読む

1 5 9 第 2部

さいことざ

雪に対す

いささみずかゆる

一日柴戸を関し 雪中聯か自ら寛うす

ほくふ

東林に柳累を飛ばし

きせいせき

北阜に氷執を布<

おかけいき

夜に入って希声寂として 窓を侵して勁気寒し 明朝深さ幾尺 出でざること哀安に似ん

哀安は後漢の人。雪の降る日に、 人に迷惑をかけないように家に閉じこもっ

の詩に用いられている。﹁勁気﹂も、淵明詩中の語で、きびしい寒気、 の意。

とうえんめい

この対句を元にして、﹁執﹂の字の属する韻﹁上平声十四寒﹂の中から、適当

安 ◎ 尺• 寒◎寂• 執◎案• 寛 ◎ 戸•

な字を選び出し、次の詩をまとめてみた。◎は韻字。

出• 朝。窓。夜• 阜• 林。中。日• 対 似• 深。勁• 希。布• 飛。聯。関 0 哀。幾•気• 声。氷。柳•自• 柴。雪

右のうち、﹁希声﹂は﹃老子﹄に基づく語で、音のない音の意。陶淵明の雪

不• 明 0 侵0 入• 北•東。雪• 一•

<淘淵明

6 ー

。 ていたという隠者である。

漢詩の楽しみ 漢詩を作るのは楽しい。ちょうど。ハズルを解くように、平仄を当てはめ、 対句を仕立て、韻を合わす。 かたわらに﹃大漢和﹄と﹃侃文韻府﹄があれば、 それで十分。 日がな一日、言葉と遊ぶことができる。 日常の仕事を忘れて漢 詩作りにひたっていられたらどんなにいいか、 と時々思う。日常が忙しいは

ぞくりようすす

ど、”風流願望“が強くなるようだ。夏目漱石が新聞小説﹁明暗﹂を書きなが

おこ

ら、毎日漢詩を作って、俗了された心を絲いだという、その心境がわかる‘ といったら烏滸がましいか。 それはともかく、実は、今、漢詩を作りたい人が増えているのである。学 校では漢文をだんだんやらなくなっているのに、 おもしろいことだと思う。 私のところへも随分習いに来る。年配の人が多いが、戦後派もかなりいる。

手ほどきをしている。平仄の規則を説明し、要領を一通り話し

私としては仕事が増えていよいよ困るのだが、 この道はまた別だ。時間をさ し繰 り し て

〗 か、 終えると、 実作に入る。 「舶如町剛」とか、「約広忠鮎 季節 にと 因ん

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 6 1

一年ぐらいで、全くの白紙状態から、結構形

だ題を出し、二週間に一度ずつ作るようにする。それを講評し、 ま た 次 の 題 を出す、というやり方である。

を成すようになる。漢詩を作る、 と い う と い か に も む ず か し い と 思 う か も し れないが、 やってみれば案外なのである。案ずるより産むが易し、 というこ とだ。

なにちご

A氏

実作例を紹介しよう。題は﹁炎暑納涼﹂である。去年の五月から始めて、 一年二か月経ったところ。



暑熱猶ほ留まる日午の天

炎暑納涼 暑熱猶留日午天

庭中の草葉恰も然ゆるが如し ま

あたかも

庭中草葉恰如然

樹陰に水を撒いて涼味を求むれば



樹陰撒水求涼味

双蝶翻飛して蒼竹鮮かなり



あざゃ

双蝶翻飛蒼竹鮮

草葉だの、樹陰だの‘蒼竹だのと並べ立て、水を撒いたり、 つがいの蝶が 飛んだりと忙しいが、 と に か く ‘ 題 意 を 詠 も う と し て 形 を 成 し て い る 。 材 料

1 6 2

の多過ぎるのは、初学の陥りやすい弊である。 次は‘﹁炎暑納涼﹂を変化させて作ったもの。

避暑尾瀬原 宿露林を侵して暁気生ず

暑を尾瀬が原に避く

B女史

宿篇侵林暁気生

朝陽将に出でんとして湿原晴る

まさ

しゅくあいぎようき

朝陽将出湿原晴

晨禽妙囀す涼風の裏



晨禽妙囀涼風裏

木道花開いて歩歩軽し





木道花開歩歩軽

暁気、朝陽‘晨禽と重複の嫌いがあるが、朝もや晴れる中、湿原を行く爽 快さはよく出ており、景色も尾瀬が原らしい。﹁木道﹂は見かけぬ語で、﹃大 漢和﹄にもないから、和語と決めつけてよいのだが、意味はよくわかるし、 他にうまい言い換えもない。これでよし、 としておく。 右は二首とも‘ とにかく七言絶句の規則に忠実に作ってある。絵でいえば、 石膏像のデッサンから、水彩の静物、 といった段階になろう。漢詩も絵と同 様、デッサンから入らないとうまくならない。ありきたりの詩題で規則に慣

1 6 3 第 2部 『大漢和辞典』を読む

きしようてんけつ

いきなり天下国家を論じたり、時事を諷したりしよう

れ、語彙を増やし、要領をつかむ。起承転結の句法は‘絵の構図に当り、語 彙は絵の具だ。よく

とする人がいる。 だが、意余って語足らず‘自分だけ判っても他人には判ら ない詩しかできない。これをやっていると、 いつまでたっても上手にならな

いんしよ

いのだ。 ばかばかしいようだけれど、﹁春林暗鳥﹂﹁炎暑納涼﹂から始めてい くのである。 初めは‘簡単な詩語集と韻の分類してある書︵韻書という︶があればよい。 一通り使いこなして、囲棋・将棋流に言えば‘ 十級といったところ。三年も 辛抱するうち、おもしろくてやめられなくなる。そうすると、﹃大漢和﹄がど うしても必要になってくる。ここまで来れば、 入段も間近ということになろ

つ いうのが、漢詩を作ろうとする人にいう、 私の口ぐせだ。

﹁とにかく三年辛抱しなさい。 お も し ろ く て や め ら れ な く な り ま す よ ﹂ と



漢字の神話学

霙窪という怪物

I

文字空間としての I

中野美代子

想しにくい。﹁瑳﹂の字のなかの﹁契﹂が﹁ケイ﹂音と結びついてしまうせい

いだった。それに、この字面からは、﹁アッュ﹂という漢字音がすなおには連

じづら

音符とする﹁瑳﹂が﹁アッ﹂となること、 ふしぎではないのだが。ちなみに、

もあろう。もちろん、﹁契﹂には﹁セッ﹂と読む入声音もあるので、それを

につしようおん

それはともかく、出会いのそのときから、私はこの二つの字の字面がきら

つだろう‘ この書物以外には‘ このことばは出てこないのだから。

ばに出会ったのは、中国古代の空想的地理書﹃山海経﹄であった。それはそ

せんがい

『大漢和辞典』を読む

﹁窮脱﹂ということばがある。﹁アッュ﹂と読むのだが、 はじめてこのこと

2部 第

1 6 5

如とは、古代神話のなかの帝王の名で、記朝の祖とされる。母の即印氏が水 浴びしていたとき、玄鳥が生み落とした卵を呑んで牢んだのが、 この契だと いわれる。 また、﹁寇﹂を﹁ユ﹂と読むのも‘字面とは調和しにくい感じだ。これに は、﹁ワ﹂音もあり、それは﹁窯︵クヮ←力︶﹂と同義だというが、それならま

あっ

だしもピンとくる。 ﹁契﹂を﹃大漢和辞典﹄ で引いてみると、﹁O 大きいあな。●しづか。●し ひたげる﹂とあり、 これを頭字とする熟語は‘くだんの﹁靱臨﹂ただ︱つ。 その解説には‘﹁●国の名。●獣の名。楔楡。 O 暴威をふるふ。しひたげる。 契窺は人を食ふ獣。よって人をしひたげるに喩へていふ﹂とある。

O 獣の名。 O 或は窪に作る。ロュ゜●地名。●愉に通

﹁底﹂も引いてみると、﹁日ュ°●ひくい。くぼむ。●ゆがむ。いびつ。● よわる。Rぉこたる。

C

牛のような姿をしているが、からだは赤<、人面に馬足。赤ン坊のような声

のか。﹃山海経﹄によって検べてみるとー│_

なかなか厄介なようだが、では﹁靱紐﹂と呼ばれる獣とは‘ ど ん な も の な

ず。□ワ/エ。ひくい。窯に同じ﹂と見える

1 6 6

『大漢和辞典』を読む

1 6 7 第 2部

じふ

をして人を食らう︵巻二﹁北山経﹂︶のもあれば、弱水に住んでいて、龍の首 をもち人を食らう︵巻十﹁海内南経﹂︶のもある。さらに、人面蛇身の訳負とい う神に殺されたともいい、戴負に殺された奥紐が人面蛇身だったのだともい う︵巻十一 ﹁海内西経﹂︶。 これだけでは、 はっきりしたイメージは湧かないが、人を食らうおそろし い怪物であることはたしかで、姿が人面牛身馬足だったり、龍頭だったり、 人面蛇身だったりするのは、もしかすると、出没する場所によって変身して いたことになろうか。

かんしゅくちょうえき

このうち、 弱水に住む襄底は、その後の伝承の世界において、おもしろい るさじんしやヽ‘、、、、、 展開を示す。 すなわち、 流沙河に住む深沙神という怪物とこんがらがってし

一方、流沙河という

まうのである。弱水とは、 いまの甘粛省に実在する張液河の古名であるが、 海には流出せず、流沙つまり砂漠の中に消えてしまう。

川は実在せず、砂漠の砂が河のように流れるところという意味なのだが、流 沙河を水の流れる河と誤解し、 そこに人を食らう深沙神という怪物が住みつ いているという伝説が唐の末期ごろから生じた。さらに、弱水はすなわち流 沙河であるという混同も生まれたが、それは、それぞれの川に住みつく怪物

1 6 8

が人を食らうという共通点をもっているためであるらしかった。

あっゅあずか

こうしてみると、沙悟浄のイメージの形成には‘ ﹃山海経﹄

じつは、流沙河に住む深沙神なる怪物、小説﹃西遊記﹄に登場する沙悟浄 の前身なのだが

に見える古代の怪物契窺も、ほんのわずかではあるが与っているらしいので ある。このこと、よりくわしくは‘拙著﹃中国の妖怪﹄および﹃西遊記の秘 密﹄を参照されたい。 靱寇という怪物については不明のことがなお多いが、そのあらましは以上 のようである。ところで、 こ の 怪 物 に つ い て は 、 人 を 食 ら う と い う 一 種 の す ご味もあってか、﹃山海経﹄以後も伝承はひき継がれた。ただし、もはやこの 二字は用いられず、同音の﹁楔稼﹂﹁楔楡﹂﹁楔獨﹂などが用いられた。さき に私が﹁瑳窺﹂ということばは﹃山海経﹄以外には出てこないと言ったのは‘ げんみつに言えば、 この怪物のことを示す﹁籾﹂と﹁寇﹂ の二字の組みあわ せは ﹃山海経﹄だけに見える、 という意味だったのである。

怪物専用の漢字 この二字に限らず、﹃山海経﹄に登場する怪物のためだけにしか使われたこ

八一︳一年七月刊。

*﹃中国の妖怪﹄岩波新書。一九

と煉丹術のシンポリズム﹂。一九

*﹃西遊記の秘密﹄副題は﹁タオ

八四年十月、福武書店刊。

『大漢和辞典』を読む

1 6 9 第 2部

はんぼう*

とのない漢字、というのがやたらに多い。 いくつかの例をあげれば、 ﹁磐鵬﹂

砒﹂﹁配﹂﹁剛﹂ など。 これらの見なれない漢字は、﹃山海経﹄地理学ないし 博物誌が荒唐無稽のものとみなされるに及んで姿を消してしまい、 わずかに 辞典類に記録されるにとどまった。 えんか

﹃山海経﹄の成立年代は不明であるが、中国の著名な神話学者哀珂氏の最近

つまり紀元前五世紀から二世紀にかけて書きつ

の研究によると、戦国時代︵紀元前四八〇ーニニニ︶の初期から前漢︵紀元前二

0六ー後八︶の初期にかけて

がれたものであろうという。そのころ用いられていた漢字は金文と呼ばれる 書体であったが、全国に共通する字体上の約束ごとは確立していなかった。 そのため、 アニミズムないしシャーマニズムにもとづく無数の神々あるいは 妖怪たちの名は、それを記録する人の数はど多様にあることになる。 戦国時代と漢とのあいだにはさまる秦︵紀元前ニニニーニ O六︶は短命であ ったが、有名な始皇帝が、 天下統一とともに漢字を整理したことでも重要な てんれ、

時代とされる。書体を、 皇帝専用の豪書と臣下用の隷書とに整理したことは

あた

*磐鵬人面鳥身。これを食べる

ふくろう

と暑気中りする。︵図右上︶

もつ。

*鵡鳥に似て人面。四つの目を

︵図左上︶

*塁人面で羊角と虎爪をもつ。

尾をもつ。︵図下︶

*蛯牛に似た魚で鳥の翼と蛇の

*衰珂﹁︿山海経﹀写作的時地及篇

二年、上海古籍出版社刊、所

目考﹂︵同著﹃神話論文集﹄一九八

載︶。なお、哀珂氏には﹃中国神

辞書出版社刊︶という近著もあ

話偉説詞典﹄(-九八五年、上海

こうしたいわば文字改革が、それまでほとんどアナーキー

り、以上のことの検索に便利で ある。

よく知られるが

な状態に置かれていた、 無数の神々ないし妖怪たちの名を表わす多様な文字

1 7 0

をも、次第に整理する方向へと促すようになったに違いない。 ﹃山海経﹄にしか見られない漢字が、さきの例からも明らかなように、奇妙 な怪獣の名のためだけに用いられる例が多いのは、戦国時代の文字の、 いわ ばアナーキーな状態のせいだと思われる。

それまで

漢字をはじめて系統的に整理したのは‘紀元後︱ニ︱年、 後漢のなかばに へんつくり

成立した許懺の﹃説文解字﹄である。扁や帝など部首別に編纂し

野 放 し に さ れ て い た 漢 字 を カ テ ゴ リ ー 別 に 分 類 し た わ け だ 。 そ の ﹃説文解 字﹄には、あの﹁究紘﹂は見えない。かわりに、﹁楔楡﹂が登場している。こ 、、、、、 れなら、けものへんであるから、怪獣にしろ何にしろ、所属するカテゴリー がわかるので、 ピンとくるわけだ。あなかんむりなら、﹁靱﹂も﹁紐﹂も、な るほど、﹁あな﹂﹁ひくい﹂﹁くぼむ﹂などの意味をもつから、 それは納得でき ても、怪獣のイメージを喚起するのは難しいのである。﹁瑳寇﹂というこの字

この二つの字の字面を見ていると、文字空間の感覚からして、

面が、出会いのそのときからきらいだったのは‘ どうやら以上のような理由 によるらしい。 さらにまた

どうにも落ち着きのわるい字という印象が拭いきれないのである。こんな漠

也諸艘悶遺請町 謡ふ守?幻虹る晶蔵

説文虹字弟一︱︱

・話池品贔 匂 咋 5屈

A ﹃説文解字﹄の部首︵部分︶

然とした印象でも、漢字の文字空間というものを考察する手がかりになるか

v

べ、漢字を四桁の号硝に還元してしまうのである。

けたナン

かどすみ

から 9までの数字に分類し、左上・右上・左下・右下の順序にその数字を並

ごらんいただきたいが、要するに、漢字の四角の形に着目し、形によって O

よすみゼロ

に四角号砥索引をつけている。くわしくは、その部分のはじめにある説明を

た。﹃大漢和辞典﹄別巻﹁索引﹂にも、総画索引・字音索引・字訓索引のほか

人は、部首や筆画数による検字法のほかに四角号碍という検字法を考え出し

しかくごうま

という意味にもなる。漢字のこうした形態上の特徴に着目して、近代の中国

方形性が強いということは、漢字の多くは四つの角ないし角をもっている、

れているのである。

正方形であり、書き手の私は、筆記体の漢字であっても、そのマス目に縛ら

の形状の基本とする。 はやい話、 この原稿を書いている原稿用紙のマス目が

漢字とは、そもそも方形性の強いものである。 いいかえれば‘ 正方形をそ

漢字の方形性と四角号碩

もしれない。

1 7 1 第 2部 『大漢和辞典』を読む

1 7 2

これでいくと、 れいの﹁契﹂は 、﹁底﹂は

3043 すみ

30430

とい

となるが、同ナンバー

3023

の漢字がけっこう多いため、右下の角のすぐ上の形も数字にして、

うように準五桁にして実用化している。この検字法だと、 い ち い ち 籠 画 を 数 える必要もなく‘形を思いうかべるだけでパッと検索できるのである。

よすみしかく

それはともかく‘漢字をこんな具合に四桁ないし五桁の数字に還元してし

8000

とする。

こんな字でも、四角の一部と

まえるというのも、文字通り四角がある四角形なればこそである。﹁一﹂や



、﹁人﹂なら

1 00 0

﹁人﹂のような字は見た目には四角ではないが みなして、 たとえば﹁一﹂なら

漠字の輪郭と四角号碩

ところで、渡辺茂氏の ﹃漢字と図形﹄によれば、われわれは、﹁漢字を見 て、瞬間的に認識する﹂ことができる﹁瞬間認識特性﹂をもっているが、﹁こ

・ ︱秒であり、 O・O 一秒よりは長い時間を指す﹂という。 こで瞬間とは約O その漢字認識の複雑な手順のはじめにくるのは、﹁漢字全体を把握しようと する認識の手順﹂ であって、それはさらに

*﹃漢字と図形﹄ NHKブックス。 一九七六年九月、日本放送出版

協会刊。

『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 7 3

(A1) 認識しようとしているその漢字を、何となく‘ぼうと見る。

(A2) 漢字全体の濃淡を知ると同時に、 その漢字の輪郭を眺める。 (A3) 漢字中の特徴に注目したり、漢字をいくつかの部分に区切ってみよ うと試みる。

‘ . ︷ じ` こ た J.

. . 芸

ヽ 9T1.1•9.5



T

芦し

J

、 以上の手順をわかりやすく という手順を踏むのだそうである。次の図 1は t ぶ ` ぶ 切 地必 珈



19-Jif.g

渡辺茂『漢字と図形』より転載



△図 1

J

( c ) 輪郭のみのもの

1J

9

( a ) 類 似 し た 2漢字 2 5組 ( b ) 焦点をずらせたもの

. i ム ' .

宕口E芸

( c )

他改吝ぷg"

. .9

f j「 : ;i l f . l

.^

•..i.

ロ空且四

( b )

•••.• •••

こI. ’ ヘ ヽ ー7▼.`ヘ , ^ . .ヽ l ー ・ ナ ー . f “ , l . . . ﹄ .^‘ヽJ , uヽ . . . J ‘ ・ 、 ,1 ' .; ーでp. ~ • し9 1.2

コ 竺竺 j ] ;

愧.唸

地惑垂象勧 他感乗衆勤

切 ; :J j じ ;i ! . Jf . : ,t 、 ; , i l1t1i·~ 、 f.~H Hr t1 ー ・ ・ '、.‘rム r払 l囮 ' r u f 1 1吝 巾 眠 な

こごご口くよ

氾填□口

各族無輸熟 名旅典輪熱 ⑥

A む K 名各 E f i lt 1 1 t e t~;-s、

. . 図 !~I

•:']

ー ・ ・ _ . . . . . . . ― . . , , ·-~·

o",・ " ・

水使圏網届 木便園綱屈

田普域防賀 王善城妨貿 回容両眼婆 口客雨眠姿

ヽ ' ;l l ' .

ヽ 'f II , : ヽI J ; ~. .

1 7 4

説明するために、字形が似ている二つの漢字のグループを二十五組えらび出 し︵①︶、以上の (A12) の手順を具体的に示した︵⑮い︶ものである。 ここでとくに面白いのはいで、輪郭だけにしてしまったものなのだが、中

よすみ

心部の欠落した、文字通り間抜けのこの漢字どもを見ていると、さきに述べ

ナンパー

た四角号砥検字法がいやでも思い出される。四角号砥における四角の定義づ けには独特の約束ごとがあるので、 四角に号硝をつける根拠となる部分以外 の部分を除いてしまっても、必ずしもこのいと図形的には一致しない。それ でも、 四角号硝に従って漢字を書けば、 ほぼこんな形になるのである。もっ 、、、、、 とも、 ﹁ 園 ﹂ や ﹁ 圏 ﹂ の よ う な く に がまえの字はすべて 6000となってしまうの 、、、 で、最後のふた桁の数字は‘ か ま え の 内 部 の 筆 形 を 採 っ て 、 ﹁ 園 ﹂ な ら 、 60232 なら 60717のようにする。 これなら、図 1い に お け る こ の 二 字 ﹁ 圏 ﹂ 、、、、、 ともにくにがまえだけが残って中は空っぽという状態であるのより、識 、、、、、、 別に便利であろう。 門がまえや門がまえの字も同様である。

というのも、 さきに述べたような漢字の方形性によるのであろう。 ローマ字

だけでおおむね識別できるという面白い事実に直面してしまうのだが、それ

さて、 いずれにしても‘図 1団を見ていると、少数の例外を除いて、輪郭

カ ゞ

は、﹃漢字と図形﹄ニ︱八ーニニ

*これ以下の具体的手順について

四ページ参照。

シノロ

ジーの博物誌﹄(-九八五年、南

*拙著﹃中国の青い鳥I

想社刊︶所収﹁空白論﹂に、四角

号硝のナンバーが示す形状だけ

で描いた漢字の図形をいくつか あげておいた。

『大漢和辞典』を読む

1 7 5 第 2部



やアラビア文字なら、 とてもこうはいくまい。

天円地方説と漠字 方形性といえば、中国古代の宇宙観として有名な天円地方説が思い出され る。天はお椀を伏せたように円<、地は方形である、 という思想であるが、

すごろくつくえ

方形の大地は、あらゆるものにそのミニアチュアを押しつけた。都市プラン ニング、住宅構造‘六博や囲碁の盤、案几、そして文字ー。古代の案几は 神聖なものであって、人間の食べる食物などは載せてはならなかった。それ は、大地のなかから人間が踏むべからざる神聖な領域を切りとり、少しばか り浮きあがらせたものとして意識されていた。そんな神聖な案几には、しか し貴ぶべき書籍は載せるのを許されていた。そして、その書籍には、方形の 漢字が並んでいる仕儀となる。 漢字の祖型とされる甲骨文字には、しかし方形性は乏しい。しかし青銅器 に刻された金文は方形性をより強く帯びはじめ、秦始皇帝の定めた策書に至 って、漢字の方形性はほぼ確立する。甲骨文字も古代の神権政治のシンボル であったが、策書は国家権力のシンボルであった。天円地方説という宇宙観

*とはいえ、アラビア文字の装飾

体も、時あっていちじるしい方 形性を示す。拙稿﹁方形幻戯

カリグラフィの力学﹂ ︵﹃アートジャパネスク﹄ 6 ﹃書と

人と詞ー│'真行草のすがた﹄一

九八三年、講談社刊所収︶参照。

テ 9プル

神聖と卑猥の空間﹂参照。

*前掲拙著所収﹁卓の上と下I

1 7 6

は、方形の漢字を媒体としても、国家権力に結ぴつくことができたのである。 さて、完全な方形性を手に入れた漢字は、その方形性を楯にして、小さな 方形の宇宙のなかで勝手に自己増殖する。かくして増殖した漢字約五万字、 そのことごとくは﹃大漢和辞典﹄に収められているが、 たとえば次の図 2に

( e )

あげる⑥ーりの九つの漢字を見られたい。

鑢伽 襲

画⑯



sg

( c ) ( i )

籐⑥

( a )

た由因を考えてみよう。

音は﹃大漢和辞典﹄でお検べいただくこととして、。ハッと見て眩彙をおぽえ

人の文章のなかに見出すこともほとんどないであろう。それぞれの字義と字

うちで、自らの文章のなかにこんな漢字を使うことはまずあるまいし、中国

めまい 、 、 いずれを採っても、眩量をおぽえるような漢字、 いや感字である。生涯の

繹⑧

胃 騒



『大漢和辞典J を読む

2部 第

1 7 7

いずれの字も、 み ご と に 方 形 性 を 持 し て い る こ と は 申 す ま で も な い こ と と

じゅうてん

して、その字画の多さから当然ではあるが、文字空間のなかの空白の部分、 、、、 つまりすきまがなく‘ ぴっしり詰まっている感じが、 いわゆる﹁空白への恐 怖h a c u i﹂ と 呼 ば れ る 感 情 に よ っ て 促 さ れ る 地 間 充 填 の 法 則 の サ ン o r r o rv

とうてつもん*

プルとなっているように思われるのである。文様の世界でいえば、古代青銅 器の表面をぴっしり埋めつくした誓養文がそれにあたる。 漢字も、 こ こ ま で く る と 、 輪 郭 だ け で 瞬 間 認 識 で き る は ず も な く 、 従 っ て 四 角 号 硝 検 字 法 も か な り 無 力 に な っ て し ま う 。 ち な み に 、 図2⑥の漢字は‘

となる。 01211

現存する漢字のなかで最多筆画数の六十四画をもつが、四角号砥では、当然 のことながら﹁龍﹂と同じ

これらの、実用から隔絶した漢字をながめていると、本稿はじめに掲げた

かんけん

﹁靱底﹂という二字が思い出される。この二字の字面がきらいだと私は述べ

たが、それはただ竿見の文字だから、というのではない。〖千見というなら、 ﹃説文﹄ で﹁契底﹂ の こ と を ﹁ 楔 楡 ﹂ と し て い る の は 、 決 し て き ら い で は な いからだ。 漢字を図形として冷やかにながめる目は、さきの渡辺茂氏の﹃漢字と図形﹄

七三ページ参照。

*前掲拙書『中国の妖怪』五三—

ぐ讐養鼎︵﹃大漢和辞典﹄より︶

1 7 8

によって学んだが、漢字を一種の文様としてながめ、そのデザインのよしあ しを論ずることだってできるはずである。図 2 の九つの漢字をデザインとい う点からいえば、⑥がきわめて不安定な感じがする。下の﹁変﹂の部分が上 部の重みに耐えきれないからだ。またりは、この一字を構成する四つの部分 の自己主張が強く、すぐにもバラバラになりそうな不安を感じる。 思うに、﹁奥﹂も﹁底﹂も、デザインの点で同様の不安を抱かせるのではな 、、、、、、 かろうか。あなかんむりと調和しない下の部分、それはまた方形性に逆らお うとして、字義とは別の自己主張をしているようにも見える。そんなところ が、字面が気に入らなかった主たる要因だと思われるのだが、 そんな私の主 観はまた、古代中国人のそれとも通ずるところがあったに違いない。﹃説文﹄ がこの二字を排除し、﹁楔楡﹂を採ったのも、そのあたりに︱つの遠因があっ たのではあるまいか。 文字空間について考察することは、伝統的な文字学とは全く違う領域に属 する。私は、古代の文様や、より後世の絵画空間とも通底させながら、漢字 の文字空間について考察を進めたいという意欲をもっているが、 紙数も尽き た。いずれ再論を試みたい。

大漢和﹂ 動•植物名と r

植物名のむずかしさ

山下正男

植物博士で有名な故牧野富太郎氏は﹃随筆志﹄の中の﹁チョット﹃大言海﹄

I I

紫陽花はアヂサヰではな f l

という三個の主張を述べておられる。

燕子花はカキツバタではないヘ I I

“馬鈴薯はジャガイモではない

うなるだろうか。やはり﹁かきつばた﹂、﹁あぢさゐ﹂、﹁じやがいも﹂となっ

さてこころみに、﹃大漢和辞典﹄ でいまの三つの植物名を引いてみると、ど

ヽ、 し I I

植物三つ﹂で、

さらに牧野博士は、昭和十九年に出た﹃続植物記﹄ の中の ﹁さうじゃない

述のまちがいを正しておられる。

と い を覗いてみる」という一文の中で、”こかI の Iき • う項目をあげて、その記

『大漢和辞典』を読む

1 7 9 第 2部

*牧野富太郎(-^さ-│︱九壱︶小学 校中退の学歴で東大の助手、講 師をつとめた。日本中を歩きま

めた。そして﹃日本植物図鑑﹄

わり、膨大な数の植物標本を集

等のすぐれた業績を世に出した。

奇行の数々でも有名である。

1 8 0

ている。

elphiniumg r a n d i f l o r u m である I、 ところで牧野博士は”燕子花は D ”紫 I 陽花はどういう植物かテンデ判らぬへ”馬鈴薯もこれまた判らぬ“とおっし ゃる。漢和辞典たるもの、 こうした意見を採録するに越したことはないが 漢和辞典たるものの使命として、 たとえまちがっているとはいえ、過去の日 本人の読みくせを載せることはそれ自体必ずしも悪くはなかろう。 牧野博士の ﹃ 植 物 随 筆 ・ 我 が 思 い 出 ﹄ と 銘 打 っ た 遺 稿 の ﹁ 誤 謬 散 点 す る 漢 和辞典を検して見る﹂という標題の箇所で、博士は﹁日本文化のために、 こ れまで、世間に出版された、すべての漢和字引の書中の諸処に、 文 字 の 誤 訓 を正さねばならんと、痛感している﹂といわれている。筆者は、現在の最先 端にいる‘某植物分類学者にこのことを質したところ、 いまでは、古典に出 てくる漢字の植物名︵もちろん現代中国語の植物名はこの中に入らない︶の約八 割までは‘ 比定あるいは比定不能が決定されているそうである。 ただしそう した成果を一冊にしたものはまだでていないようであるが、 とりあえず‘ こ こで筆者がおすすめしたいのは‘昭和四年初版、昭和四十八年増補版の ﹃ 国 みん

訳•本草綱目』全十五巻である。これは明代に編輯された ﹃本草綱目﹄とい

版本を復刻して新注を加えたも

*東京、東陽堂書店刊。これは初

のである。

う書物の完訳であり、それぞれの植物、動物の名に対して、和名とリンネ式 の学名とが付けられている。そしてわからぬものはもちろん未詳と記入して ある。 ただし残念なことに、そこでとりあげられている件数は、動物、植物、 鉱物を含めて、二千足らずに過ぎない。ちなみに﹃本草綱目﹄とは、中国古

椿樗 I I

I J

なる植物の説明に耳

来の薬用の動・植・鉱物を網羅したもので、本草といわれるのは、そのうち で植物がもっとも多いからである。 さて『国訳•本草綱目』 の中に含まれている

を傾けよう。 まず椿の方であるが、 これは和名﹁ちゃんちん﹂、学名は Cedrelas i n e n s i s であるとされる。 つぎに樗の方は、和名﹁にわうるし﹂または﹁しんじゅ﹂、 学名は Ailanthusaltissimaとされる。 これを﹃大漢和﹄の方でみると、椿の方は﹁ちゃん﹂およぴ﹁ちゃんちん﹂ となっており、樗の方は﹁ぬるで﹂およぴ﹁ごんずゐ﹂となっている。椿の 訳語は﹁ちゃんちん﹂でいいとして、樗の訳語は困る。なぜなら﹁ぬるで﹂ も﹁ごんずい﹂も日本原産の樹木であり、中国原産のものとしては、やはり ﹁にはうるし﹂でなければならないからである。

4椿樗︵﹃本草綱目﹄より︶

椿



『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 8 1

1 8 2

とはいえ、椿を﹁ちゃんちん﹂とし、樗を﹁にはうるし﹂とするのは、あ くまでも﹃本草綱目﹄ の記述からして推定したものである。もちろん椿も樗 も﹃本草綱目﹄よりはるかまえから使われてきた。例えば、 こ の 両 語 は 、 大 椿とか樗樫という形で﹃荘子﹄に使われている。しかし﹃荘子﹄と﹃本草綱 目﹄との間には二千年ほどのへだたりがある。したがって、椿や樗が、 それ ら二つの書物の中で、 おなじ意味で使われているという保証はなにもないの である。 さて﹃大漢和﹄にはいまのような訳語とは別に、邦語・国訓というものも 付されている。 つまり椿の場合は﹁つばき﹂であり、樗の場合は﹁あふち﹂ または﹁せんだん﹂である。 ところでこの国訓なるものが、あやまりであることは明らかである。漢語 の椿つまり﹁ちゃんちん﹂と﹁つばき﹂とは似ても似つかぬものだからであ る。それゆえ、 日本人がつばきという意味で使う﹁椿﹂は漢字というよりは‘



国字といったはうがよいであろう。というのもツバキは春に花を咲かせる木 という意味で椿の字が宛てられたからであり、 これは榊や峠といった国字と なんらかわりがないからである。 ついでにいえば、日本のツバキの正確な漢

字名は山茶であり

この山茶はやはり﹃本草綱目﹄ にツバキの絵をそえて、

ちゃんと採録されている。 つぎに樗の方の国訓は﹁あふち﹂﹁せんだん﹂となっている。 これに関して はふたたび牧野博士に登場願うことにしよう。さて、 さきほどの ﹃我が思い

これを この樹は、今

かの高山樗牛と書いてある、樗の字であるが、昔から

出﹄にこうある。

樗の字は

ヌルデだの、 アフチ︵今のセンダン︶だのとするのは誤りで

日いう神樹 (Treeo fHeavenの訳字︶ 一名ニハウルシのことである。

牧野博士のこの意見は、やはり認めざるをえない。しかしながら、﹃大漢和﹄ が国訓を採録していること自体はなにも非難すべきではない。 いまだからこ そ誤りだということがわかっているものの、 過去の日本人はみんなそう信じ ていたのであって、それを記録することはもちろん大いに意味がある。 ただ し欲をいえば、 コメントとして、現在の植物学者の見解ではこうであるとい っ一項を付加すべきであろうが、 これはもはやエンサイクロペディックな事

く山茶︵﹃本草綱目﹄より︶





『大漢和辞典』を読む

2部 第

1 8 3

1 8 4

典的辞書に属する仕事であって、﹃大漢和﹄ のような、古典の漢文ないし漢字 まじりの古典日本文を読むための字典の守備範囲を越えるものといえよう。

中国式分類の原理 冒頭からして﹃大漢和﹄に対し無理な注文をつけるかっこうになってしま ったが、籠者としては﹃大漢和﹄を研究室の座右において、毎日のように愛 用しているのであって、近ごろやってみた ﹃大漢和﹄ の面白い使用法を一っ だけ披露してみよう。 漢字で﹁カニ﹂に当る字として、蟹と蝉がある。﹁アワビ﹂に当る字に、 と飽がある。﹁エビ﹂に当るものに蝦と蝦があり、﹁ハマグリ﹂に当るものに 蛤剃と鮎がある。また﹁タコ﹂に当るものに蛸と鮪があり、 さ ら に 海 蛸 子 と 章魚もしくは鱒がある。

︱つの

以上のリストは、語彙数の多い ﹃大漢和﹄からならたちどころにつくりあ げることができる。ところでいまのリストは一見してわかるように、

生物体を、中国では虫とみなしたり、魚とみなしたりしていたという例を集 めたものである。植物におけるそうした例を挙げるならば、﹁イバラ﹂には



『大漢和辞典』を読む

1 8 5 第 2部

華と箪があり、 ま た 茨 と 檄 が あ る 。 そ し て ﹁ フ ジ ﹂ に は 、 藤 の は か に 晶 と 憂 がある。 さて漢字には部首というものがあるということはだれでも知っている。し かしこの部首というものはヨーロッパでいうカテゴリーに相当するといえよ

を指すといえるのである。 動植物の分類といっても

つまりクラシフィケーションの原理を抽

axonomy) である。しかし、 (folkt

エビなどの例であるが

は民族分類がうかがいしれるというものである。 ところでさっきあげたカ

これらはすべてそう

ヘンやツクリのつけ方によってまさしく、中国風のそうした民俗分類もしく

的分類ではない。 いってみれば民俗分類

いまの場合、当然のことながらリンネ風の科学

の漢字は木に属する植物を指し、﹁くさかんむり﹂ の 漢 字 は 草 に 属 す る 植 物

動植物名についても、もちろんそうしたことがいえるのであり、﹁きへん﹂

出することが可能なのである。

というものから中国的な分類原理

物がどのカテゴリーに属しているかがわかるわけであり、 こ の 意 味 で 、 部 首

つまりそれぞれの漢字の部首をみれば、 そ の 漢 字 で 指 し 示 さ れ て い る 事

つ ゜

1 8 6

いくぶん科学的なスタイルをとる﹃本草綱目﹄ では

した民俗分類におけるコウモリ的存在、ボーダー・ライン的存在だというこ とができる。とはいえ

そうしたどっちつかずの存在は許されなくて、例えばカニは蟹に、 エビは蝦 ハマグリは蛤悧に、 タコは章魚に、 と確定されている。

devilf i s h (悪魔の魚︶と呼んでいるのである。ちなみに、

いまの語

の中に fishと い う 語 が 含 ま れ て い る こ と か ら み て 、 イ ギ リ ス の 民 俗 分 類 で は

頭足類を

であるイギリス人にもそなわっていたとみえて、彼らはタコとイカといった

の悪い存在、気味の悪い存在であった。この意識は‘ お な じ 印 欧 語 族 の 後 輩

つかず﹂といった、排中律を犯す存在はギリシア人にとってはたいそう気持

さて、﹁魚であって魚でないもの﹂といった、矛盾律を犯す存在、﹁どっち

いう新しい独立の類を立てて、 タコとイカをその中に入れたのである。

れゆえ﹁その性、嘘多し﹂と考えてきた。しかしアリストテレスは頭足類と

トテレス以前のギリシア人はタコやイカを、﹁魚であって魚でないもの﹂、 そ

ありながら、きわめて良質な科学的分類学の書﹃動物誌﹄を著した。 アリス

ーロッパにおける動物分類学の元祖はアリストテレスである。彼は哲学者で

中国におけるいまのような事情は古代ギリシアの場合とよく似ている。 ヨ



タコ、イカが魚だとみなされていることがわかる。そしてこのことはイカが inkfish (すみを吐く魚︶といわれていることからも裏づけられる。

ところで、 どっちつかずのコウモリ的生物は越境種といわれるが、 こうし た生物はどの民族、 どの部族においても‘薄気味悪いものとして忌み嫌われ てきた存在だということは、最近の民族学が見出した︱つのテーゼであり、 じっさい、 これを裏づける各種の報告は枚挙にいとまがない。そして、高度 の文明に到達したギリシア人も中国人も、 それ以前にはやはりそうした両義 的生物に対する恐怖をもっていた。しかし、 やがて学問的分類学が成立する に及んで、両属的な生物は、二つのうちのどれか︱つ、もしくは二つのどち らでもない第三の類に強制的にはめこまれ、太古の意識は深層意識の中に押 し込められてしまうのである。

両属の生物

4仙人杖︵﹃本草綱目﹄より︶

•一ー・

さて中国における両属の生物、 どっちつかずの生物であるが、 まず竹をと りあげよう。竹は古来、﹁非草、非木﹂とされてきた。それゆえ、部首ではち ゃんとタケカンムリなるものが設定されている。 つまり文字どおり草でもな

杖• 人 . 仙 , ・

『大漢和辞典』を読む 第 2部

1 8 7

1 8 8

<、木でもない第三の類である。 とはいえ﹃本草綱目﹄ では‘竹は木の部類 にいれられている。 ところでこの ﹁非草非木﹂なる竹は中国では不気味な存在というよりはむ しろ神秘的な存在と考えられてきた。実際、竹も﹃本草綱目﹄ の中に薬物と してとり入れられているが、そこでは‘﹁仙人杖﹂という名で登場する。そし てこれは﹁竹の立ち枯れになったもの﹂ のことである。 この仙人杖という名 からしても薬用となることからしても、竹というものに対して並々ならぬ敬 意が払われていることは確かである。しかしこの仙人杖は、煉丹術でいう仙 *

いわゆる仙薬をけっして認めないのである。

草ないし神草ではけっしてない。﹃本草綱目﹄ の著者、李時珍は科学的開明主 義者であって、仙草といった

動物性の仙薬としてはコウモリとガマがもっとも有名である。しかし李時 珍はそうしたものを激しく攻撃する。 ﹃本草綱目﹄ で 彼 は 蝙 蝠 に つ い て こ う 述べている。

仙経に、 千百歳になったものを服用すれば人は不死になるなどと書いて あるのは方士の大法螺というべきである。宋の劉亮は‘ 白蝙蝠と白媚餘か

*李時珍︵一五一八I竺 ︶ 中 国 、 明 代

って﹃本草綱目﹄五十二巻を書

の在野の本草学者。三十年かか

った書物であり、それらの薬物

きあげた。この書は‘薬物を扱

は鉱物性、植物性、動物性の三

種に分類されている。日本には

され、広く愛読された。

江戸初期に入り、なんども翻刻

『大漢和辞典』を読む

1 8 9 第 2部

らつくった仙丹を手に入れて服用したが、立ちどころに死亡したといわれ る 。 この事実を述べただけで、仙薬なるものが愚かな迷信だということが

この書の著者、葛洪が世の人を誤らせた罪は絶大だといわね

十分に立証できるだろう。 この不死の説は﹃抱朴子﹄の中に始めてでてく るものだが ばならない。

啓蒙主義者、李時珍の面目躍如たる文であるが、しかし彼がこれほどいき りたったのは、仙薬と本草薬とが商売敵の関係にあったからだと勘ぐること もできるのであり、実際、李時珍はコウモリを自分なりの処方でちゃんと薬

シェークスピアの ﹃マクベス﹄ の中に、魔女が

に仕立てあげているのである。 コウモリとガマといえば

コウモリとガマを大鍋で煮て、まじない薬をつくっている場面がみられる。 おなじコウモリとガマが中国ではけっこうな仙薬の材料になり‘ ヨーロッパ ではまがまがしい魔女の薬の材料となったのはなぜだろうか。 よくいわれるように、魔女の術は始めは悪魔の術ではなかった。 witch の 語源的意味は単に﹁もの知り﹂ であった。実際、 ウィッチたちは、野山に生

K *葛洪 ( ︱-│-︱-四-︱-︶中国の神仙家。

になる方法を教えたものであり、

﹃抱朴子﹄を著す。この書は仙人

いろいろの仙薬の製法が述べら れている。

ぐ蝙蝠︵﹃本草綱目﹄より︶

蝙蝠

1 9 0

えている多種多様の薬草について豊かな知識をもつひとのことであった。し



ぐこうもりの翼をもつサタン

A蜻蛉︵﹃本草綱目﹄より︶



かし新しくやってきたキリスト教の聖職者たちが、 そ う し た ウ ィ ッ チ た ち に 強烈なライバル意識を抱いた結果、 そ う し た 種 類 の 民 間 治 療 者 を 、 魔 女 に し たてあげたのである。 とはいえ、中国、ヨーロッパのいずれにおいても‘ コ ウ モ リ と ガ マ は 一 種 異様な存在であった。そしてその理由としては、外見の醜悪さもさることな がら、それらが越境種であるということが大きな要因になっている。 中国ではコウモリは蝙蝠という字形からすれば虫の類であり、夜燕という 表現からすれば鳥のようでもあり、 天 鼠 、 飛 鼠 と い う 表 現 か ら す れ ば 哺 乳 動 物のようでもある。︵実際、哺乳動物である。︶そして仙鼠といういい方から

コウモリはイソップの寓話にもでてくるように、自分の都合次第

すれば、 やはり神秘的な動物として意識されていたといえる。他方、 ヨーロ ツ。ノ ヽ、 +ー ふ て

で鳥に味方したり獣に味方したりする、悪賢い生物だというよからぬイメー ジがちょっぴり存在していた。しかしそうした﹁両属的で利巧なコウモリ﹂ も中世のキリスト教世界に入ると、俄然、魔女の化身とされ、 ついには ウモリの翼をもつ大魔王サタンが登場するようになる。 つまり善玉•悪玉と



『大漢和辞典』を読む

2部 第

いう強烈な道徳的二分法の一方に押しこめられてしまうのである。

意識の変化とともに 中国の民俗分類を語るときに逸してはならないもう︱つのことがらは、古 来、中国人は辺境の未開民族に対してケモノヘンの字を使って命名したとい う事実である。例えば北方民族に関しては瞼統または搬統︵ともに匈奴のこ と︶、猿栢︵満州、朝鮮北部に住む︶などがあり、 そ れ ら は 一 括 し て 北 秋 と 呼 ば れる。これに対し南方民族に関しては、もっとも有名な獨獨または裸獨︵雲南 に住むロロ族︶を始めとして、神︵貴州・雲南︶、 撲︵雲南︶、猥︵四川︶、 揺︵両

いくら蛮族とはいえ、人間をけだもの扱いにするとはひどすぎる。

いっせいにニンベンに変えられていく。

こころみに、一九八三年に北京で刊行された四冊本の中国語の辞典﹃辞源﹄

ノヘンカゞ

である﹃大漢和﹄にはまだ登場していないものの、 現 代 中 国 の 辞 典 で は ケ モ

したがってそうした偏見は徐々に訂正されていく。もちろん古典漢語の辞典

しかし

にいとまがない。

広・胡南・雲南)、撞(湖南・両広)、択姥(広西•湖南・貴州)などなど、枚挙

1 9 1

1 9 2

を引いてみよう。例えば猫はこうなっている。﹁我が国の現在の瑶族に対し、 かつて使われていた侮辱的名称。また係とも稿ともいう﹂。こうして、未開の 蛮族である猫は、革命とともに、少数民族と呼ばれ、 その名も瑶、係、稀と なったのである。漢字というものはなんと便利で、結構なものであろうか。 ちなみに、 この﹃辞源﹄には‘ ちゃんと別に一項を立て、 ﹃大漢和﹄にはない 偕という字が堂々と掲げられているのである。

r 大漢和辞典』を読む

2部 第

1 9 3

広告と漢字

後閑博太郎

この本をお読みになっているあなたに問題。資料を一切使わず‘ー

象形文字の特質

まず

︵サンズイ︶の漢字をいくつ書けるか。十五分位で七十字以上書けたら、そう‘ あなたは相当の年輩者か、もしくは、よほどの漢字好きである。この本を、 ちょっと閉じ、紙と筆記具を用意して挑戦してください。

やみくも

さて、何文字の‘ 1の漢字が書けたかな。そして、どうやったかしらん。も し、闇雲に書きつづったとしたら、あなたは、すこし想像力が欠けている。 漢字のなんたるかを、じっくり考えてみる必要がありそうだ。 川をイメージして、河、流、 江、池、沼、沢‘渓、滝‘瀧、湖、浅、深、

1 9 4

洪水があると氾濫、これで十五文字。 海からイメージして、泳、浮‘潜、沈‘ 溺‘湾‘潟、溝、淵、波、浪、渦‘ 渚、洋、洲、浜、灘、澪、渉、浸、 そして海の幸をとる漁、漁に疲れたら港、 湊で休もう。ここで二十四字、合わせて三十九字。 水の状態からイメージして、清、濁‘汚、泥、液、 油、湯、沸‘泡、溶‘ 滴、そして薄い、濃いがある。ここで十三字、ようやく五十二になった。 これで満足したら、あなたは初心者。もうひとふんばり、頑張ろう。 水の感じ方からイメージして、温、湿、涼、暑くてかく汗もある。ここで 四字、あわせて五十六文字。

いけないこんなことを考えては

人間の感情からイメージして、淋しさのあまり泣いて出る涙、泊。愛に渇 き、涙も消え、涸れる。あっ、 いけない

と淫。思わず渋っ面をつくる。酒に飲まれて外泊。くれぐれもご注意を。こ こで十二字、ぜんぶで六十八字になった。 こんな風にイメージが湯水のように湧いてくるのは、なぜだろう。漢字が 象形文字という、意味をもつ言葉として、本来的に生まれたものだからだ。 十五分で七十字を書けたあなたは、相当の漢字の使い手だ。百字以上の人

1 9 5 第 2部 『大漢和辞典』を読む

はもう達人、漢字博士の称号を与えよう。 ちなみに、この文字、﹃新漢和辞典﹄には四百一字、﹃大漢和辞典﹄には千 七百六十七字ある。

広告には、遊ぴ心が必要である われわれ人間は、社会の中で日々暮らしている。生きるためには食べなけ ればならない。食べるためには、 お金が必要だ。人の経済活動のもともとは‘ この単純な論理である。

^お金 ( I I貨幣︶を貯えれば、財を成し、費やせば貧となり、貴賤の差が 生まれる。資を成すために、人は売買をする。V

貨、貯、財‘費、貧、貴、賤、資、売、買。われわれの経済活動を、 ほん 1

の 一 行描写しただけなのに、もう+の経済行為の漢字。お気づきですね。不 思議といえば、不思議。当り前といえば当り前なのだが、よく見ると、これ らの漢字には、 ぜんぶ︿貝﹀の字がついている。

1 9 6

貝は昔、中国ではお金として使われた。そこで経済行為に関する文字には‘ 貝の文字が多く使われている。漢字の面白さは、象形文字から生まれた面白 さでもある。 この︿貝﹀の漢字の面白さ、楽しさ、不思議さ。これを、 ズバリ、 お金に 直接関わりのある銀行の広告にできないか。 こうして、ここに紹介するごらんの広告が生まれた。貝の文字の所に本物 の貝のイラストレーション、漢字を憶える年齢に合わせた﹁財貨の﹃財﹄は、 なぜ貝へんがつくの、 お父さん﹂のキャッチフレーズ。 遊び心が、枠を着たような礼儀正しい漢字を、見て楽しく、読んで楽しい 絵文字に変えたのである。 ここで、広告の世界を余りご存知ない読者に、広告について、中でも銀行 広告について、すこし説明したい。 銀行の広告は、 TVCFがないので、新聞、雑誌が中心となる。新聞の場

︱ページの五分の一という小さ

合、紙面に規制があり、全三段以上のスペースは使用できない。新聞の一ぺ ージは十五段からなり、 その三段というと、

なスペースである。ふつう、この三段か、半五段(-ページの六分の一︶で銀

e r貝」シリーズ広告

▽ 昭和 5 8年 6月 ▽ 昭和 5 8年 5月

賞与の「賞」は、

なぜ貝の字がつくの、お母さん。

呼 ; : 褻..

ぷ : ; ・ .. 翌 : 吝 忍

罰 ● 与たを

i

T o

賞⑯悧て に報貨の こ︵な t 貝 て労る味 幣功た意

たくわえるとなったのてす。 太 隔 神 戸 鎮 行





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昔合にを は み ︶貝 物 貝組︵ る

しなみを ての組る 幣るる諏 貨せすし ‘ゎ価買

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貨はあウ

昔、貝は貨幣として使われま―うちの銀行一

こ ょ のこ t . 貝 るる︵

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昔のれる

▽ 昭和 5 9年 2月

の字にい

言 は 言 ; ; 雷 こ ●

は賞そえ 貝の 5 与

▽ 昭和 5 9年 5月

”) `g ~疇

サオトメ イトヒキマイマイ

購入の「購」は、 なぜ貝へんなの、お母さん。

1 9 8

行の広告活動は行なわれている。 ︱ページの五分の一から六分の一という小さなスペースでも広告である以 上、目立たなければならない。目立つことが、広告の宿命である。大きなス

コミュニケーションしていかなければならない。広

ペースの一般企業の広告に、他の競合銀行の広告にも負けずに、キラリと光 った表現でお客さまに

告には、 たくさんのお金がかかる。その企業の大切なお金を生かすも殺すも‘ コピーライターやデザイナー、 いわゆる広告クリエーターの腕次第というわ けである。遊んではいられない。 で も 遊 び 心 が な け れ ば 、 伝 え た い こ と も 伝

こうした、はっきりとした目的

わらないのが、広告なのである。 で は 、 何 を 伝 え る か 。 そ れ は 、 広 告 す る 商 品の主張であり、企業の主張だ。広告には

があるのである。 か の ハ ー ド ボ イ ル ド 探 偵 7ィ リ ッ プ ・ マ ー ロ ー の 名 文 句 を

r 貝﹂シリーズ、

︳年目

拝借して結論的にいえば、”広告は、面白くなければ存在する意味がない。面 白いだけでは存在する意味もない“のである。

太陽神戸銀行

一年十二回のシリーズ広告として展開する。これが、貝の漢字広

辞典は、貝の漠字の宝庫だったI 月一回、

『大漢和辞典』を読む

1 9 9 第 2部

告のスタートからの決まりである。さらに、銀行にはたくさんの商品がある

九月

八月

七月

六月

五月

四月

期日指定定期

年金自動受取り

ポストボーナス

ボーナス

ボーナス

ボーナス

財形ローン、給振ローン

が、ボーナス期を中心に、広告する商品は、次のように決まっていた。

十月 十一月ボーナス 十二月ボーナス 一月年賀

教育ローン

二月自動支払い 二月

2 0 0

さて、一年十二回分の貝の字のつく漢字があるかしらん。ここで、﹁貝﹂の 字のつく漢字をじっくり探すために、本格的に辞典を調べることになった。 コピーライターは調べることが仕事。 コピーライターは‘ ふつう五、六社の 企業の広告を担当している。当然、 それぞれの企業、商品、技術、市場背景 の知識が必要である。食品、化粧品、 ファッション、金融、自動車、産業資 材、薬品、精密機器、 O A機器、 コンピューター⋮⋮。雑誌、関連書、技術 書、専門書を読んだり、専門家、技術者にインタビューしたりして知識を求 める。情報の量が、知識の量が、生活の幅が、そして健全な常識が、 コピー の質を定める。もちろん、 コピーの言葉は、 だれにでも理解できるやさしく‘ わかりやすい言葉に翻訳されていなければならない。貝の漢字を調べるなら、 余りにも有名な﹁諸橋漢和﹂、それも全十三巻の﹃大漢和辞典﹄である。 貝の漢字。第十巻、六九四ページ、ある、ある、ある。問題は各月の商品 テーマに合った貝の漢字があるか、 ということだった。 たとえば、四月。新 入社員が生まれる月。初月給の月である。そこで、﹁賃金の﹃賃﹄﹂というわ けである。

五月

四月 貯蓄の﹁貯﹂

賃金の﹁賃﹂

資産の﹁資﹂

賞与の﹁賞﹂

八月 貴重の﹁貴﹂

六月

九月

財産の﹁財﹂

賜物の﹁賜﹂

十月

賞賛の﹁賛﹂

年賀の﹁賀﹂

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a•`

I

;資産の「資」はなぜ貝の字がつくの、お父さん

七月

十一月

一月 購入の﹁購﹂

十二月賑うの ﹁ 賑 ﹂

二月

賢明の﹁賢﹂

▽昭和 5 8 年 8月



二月

こうして、 十 ニ カ 月 の 貝 の 漢 字 が 見 つ か っ た 。 も ち ろ ん 、 前 述 し た 漢 字 の 中でも、貧とか、賤とかいったマイナスイメージの漢字は‘禁字である。 この間、 デ ザ イ ナ ー は 、 貝 の 字 を 絵 に す る た め 、 本 物 の 貝 探 し 。 絵 に な る

I-

『大漢和辞典』を読む 第 2部

2 0 1

2 0 2

貝、珍しい貝⋮⋮見る見るうちに、 デスクのまわりは貝でいっぱいとなった。 さながら、貝類学者かコレクターの研究室といった風情。 た と え ば ブ ラ ン デ ー一本と交換する価値があることから、 ブランデー貝。貝そのものも勉強し た。貝の図鑑の専門書もデスクに五、六冊並んだ。貝を見ながら、写真のよ うに精密に、 そして写真より美しく貝を描いたイラストレーターの大橋正先

はベ

生︵武蔵野美術大学教授︶、貝のキャプションの監修を親切にご指導してくれ た波部忠重先生︵東海大学教授︶。広告をつくる楽しみは‘ このようにチーム ワークでできること、 そして様々な分野の専門家の方々に会えるという、プ ラスアルファも生んでくれる。広告作品には、 たくさんの人々が関係してい

_r貝﹂シリーズ、二年目

ることも‘ ここで知っていて欲しい。

五月

四月

貢献の﹁貢﹂

財貨の﹁貨﹂

責任の﹁責﹂

貝の漢字探し、宝の山見つけた

六月

二月

一月

十二月

十一月

十月

九月

八月

七月

素質の﹁質﹂

費用の﹁費﹂

貫徹の﹁貫﹂

贈物の﹁贈﹂

買物の﹁買﹂

信頼の﹁頼﹂

功績の﹁績﹂

積立の﹁積﹂

賦与の﹁賦﹂

一 芦8

] [ I

ん’︱︱︱︱



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B

よヽ

ヘ 貝 ぜ な





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武 ^ "

▽昭和 5 9年 7月

二月

一味違った切り口でアプローチしたこの広告は‘好評だった。新聞広

銀行の広告といえば、夢‘ マイホーム、幸福家族といったスタイルが多い 中で

告賞、雑誌広告賞など種々の広告賞を受けた。そしてシリーズニ年目へと継

3 貝のつく漢字がいくつあったか、すべてを列挙してみよう。 2





2 続となる。それが右の表の漢字である。 ここでわれわれ制作チームが調べた



『大漢和辞典』を読む

2 0 4

++ 八七

十 , Iヽ

++

五四

t士!+ 九 八 七 ' '

慣 償 類 債 遺 憤 債 頬 傾 勘 側 倶 則 具 貝 掴 贋 頼 噴 隕 晴 勤 頑 債 禎 偵 員 貞 櫃 嬰 頭 械 額 噴 置 項 勤 厠 厠 唄 負 楕 籟 頻 潰 願 墳 噴 頑 噸 憔l 惧 贋 頁 蹟 嶺 頴 涌 願 憤 賓 頌 填 棋 敗 狽 澱 撲 願 碩 頷 憤 帳 頓 坦 測 根 真 漬 横 慰 穎 頷 穎 慣 頒 寅 胎 貨 貢 積 頷 潰 憤 預 恩 賀 貫 財 簑濱 貨顛痕棟 慎貴責慎 績猜 猜資 損脱貪 瞳碩 績 梢貿販 膝績 碩漬 脈 積煩 演貰貧 萱願 資 煩貸頃 贄謄 貨 廣瑣 贅嫌 賛填 禎貯頂 積 贈膊 賢 賣貼 賜碩 蹟購 賭 質顧 資戴 賊買 胴昧 顛顆 胴 蹟頷 賞除 頼 賃費 賂賞 賤賑 鎖髭 顔 額 賣賓 鎮領 賄貶 闇頻 頷 賠貰 逍貿 頬 賓頗 貫殷 郎項 隕須 賦頼 額 頸 頑順 顎 頷 資領

画 数

,



L

の つ < 漢 字

2 0 5 第 2部 『大漢和辞典』を読む

二十二

二十

楕環櫻鑽顧顧

嗜讚顧損痙籟観讀讃贖贋蹟鄭顧顛餓蹟頸

楓臨櫻喝癖廂顧類績績趨誠贔繭鞘顧願願餓齋

顔顛顕顆顧題類賜

二十三 屈瀬掘績緊骸賢

十八

二十四 績顧鷺

噸瀬賓瀬瀬横楕潰瀕瀬贖禎難瞭費贋賛贈韻願顕顛願顛

二十五 讚顧

十九

二十六 鑽顧顧頸

顛曖菱賓櫻碩賓績墾穣福巖瞭贖闇顧翼

二十七 懇鶴

二十

二十八 三十二

た。そして、 日常ほとんど使われていない漢字も消した。使用した文字には‘

きた貝のつく文字、③真︵首をさかさまにした形︶のつく文字を、まず消し

ていても貝からきていない①頁︵おおがい︶のつく文字、②鼎︵かなえ︶から

貝のつく字は、 ぜ ん ぶ で 三 百 三 十 一 字 あ っ た 。 こ の 中 か ら 、 貝 の 字 が つ い



2 0 6

とひとつ、 ひとつ丹念に

辞典の ︹貝の部︺にない文字もある。 これは﹃新漢和辞典﹄ の最後にある総 画索引のすべての漢字を、 貝のつく漢字はないか

探した結果である。績‘慣⋮⋮。物を調べるには、 こうしたしつっこさも‘ また必要だろう。

六月ー讃歌の

こうして、 いまシリーズ三年目に入った﹁貝﹂シリーズの広告も‘ 六十

ひき

慣 ﹂ 年 三 月 で 終 る 予 定 で あ る 。 四 月 ー 膿 、 五月 I 習 慣 の ﹁ ﹁ 讃 ﹂ 、 七月 I贔贋の ﹁ 贔 ﹂ 、 八月ー国債の﹁債﹂⋮⋮。

このように辞典の中にも

一見、時代の空気をいっぱいに浴びた新しい装いの広告。 この

広告の素材は、日常の暮らしの中ばかりでなく 生きている。

中にも、ひとつ、 ひとつの広告の言葉をつぶさに読んでみれば、しっかりと した言葉、 日本の言葉が生きていることに、あなたは気づくはずである。

クリエーティプディレクター・後閑博太郎/アート 11

ディレクター•若松洋/コピーライター・後閑博太郎・小林穂太郎

●太陽神戸銀行「貝」シリ—ズ広告制作チーム

r 大漢和辞典』を読む 第 2部

2 0 7

電字と漢字

新しく生まれたデジタル書体

隆男

代の明朝体やゴシック体の模倣と再生であり、後半は様々な書体を生み出し

明朝体を完成させ、 ゴシック体が生まれる。写真植字の時代は前半が活字時

時代となって木版や木活字の時代に宋朝体や明朝体を生み、鉛活字の時代に

ルの変化である書体が確立されてくる。そこまでが筆書の時代である。印刷

た。その後、書道時代に入り、隷書、草書、楷書、行書などの文字のスタイ

態は絵から絵文字、絵文字から甲骨、金石、大策、小策などとして形成され

木版、活字、写真植字、電子植字へと変化してきた︵図1)。漢字としての形



私達の文字による情報の伝達方法は大昔の絵による伝達から始まり‘筆書、



植字・電子植字

*図 1 右から筆書・木版・写真

あ雰~‘られ

たちつてと

まみむめも

わゐゑをん

2 0 8





t

字機の発明家。写真植字機の製 造販売会社、写研の創立者。書 体デザイナー。

*石井茂吉︵一八令ー一九六︱︱-︶写真植

竹水

I

/、

ヽヽり V ヽ ヽ

か&

︶し

ヽヽノ‘、

水私水

て現在に至っている︵図 2)。電子時代に入りつつある現代は、 今までの活字 や写植文字が連続的な線質のアナログ書体とすれば、不連続の線質によるデ ジタル書体でなければ表現できないことから、写真植字のアナログ書体をデ ジタル書体に変換している時である。 ワープロなどに使われている低ドット の書体などは、曲線がギザギザな線質になることから新規な書体としての要 素となるが、まだ新しい書体として認識されるまでには至っていない。

r 大漢和辞典﹄の親字制作期間は八年

﹃大漢和辞典﹄に使われている親字は約五万字だと言われている。ここに使 われている漢字は写研という写真植字機メーカーの創立者である石井茂吉氏 によって制作された。氏は大正十三年に写植機を発明して以来、昭和三十八 年に亡くなられるまで写植機の開発と同時に十万字以上もの文字をデザイン した。特に後半は書体制作に打ち込み、昭和三十五年には﹁⋮⋮写植文字の 筆者としての功績﹂として菊池寛賞を受賞されている。 おそらくそれは昭和 二十七年から三十五年までの八年間をかけて自分の体を削るがごとくして自 分の分身として制作した﹃大漢和辞典﹄ の明朝体に依るところが大きいと思



水水水*水

i

われる。戦後、再出版を目指した大修館の鈴木一平氏から一年がかりで説得 された石井茂吉氏は、昭和二十六年に完成していた石井明朝体四千三百八十 五字の他に四万四千五百十七字を四年間で引き受ける契約をした。 ところが、 文字に渾身を傾ける石井氏にしてみれば、 既にあった四千三百八十五字を含 めた四万八千九百二字を一字一字自分が納得するまで何度でも書き直したい。 結局‘ 四年の契約のところが八年になってしまった。文字デザインの常識か

らいって‘五万もの文字を四年間でデザインするということはとても不可能 なことである。通常一セットの写植文字五千五百字の制作期間は二年間とい

輔氏は﹁石井書体は‘書道的な人間味があり、 フレキシビリティのある書体

ら引用させてもらうと、文字研究家であり文字デザイナーであった佐藤敬之

われている。 日曜も正月もなく毎日朝八時から夜十一、 十二時まで制作した 『大漢和辞典』を読む

生“と I I

くときにボディ︵文字枠︶にこだわらず‘伸び伸びと‘ その文字の本来の形に

である。活字にある硬さ‘隅々にある押さえを意識して書くのではなく‘書



引きかえの大事業と見るべきである。また、写研発刊の﹁文字に生きる﹂か

な業績である。完成一年前に病に伏してもなお自分で筆をとった、

ことを加味しても‘ 五万字を、 八年間というのは常識をはるかに越えた偉大

2部 第

2 0 9

*佐藤敬之輔︵一九一︱-│︱九七

H)

活字

著書﹃英字デザイン、日本字デ

書体の研究家、書体デザイナー。

シリーズ﹃ひらがな上・下﹄﹃カ

ザイン I .II﹄、文字のデザイン

タカナ﹄﹃漢字上・下﹄など。

したがって書いてあるので、驚くほど優雅に見える。⋮⋮﹂とある。また写 研は、﹁活字書体と石井書体の違いは、一口で言えば活字が機械的な画線で文 字が作られているのに対し、 石井明朝体は毛筆の柔らかさ、運筆のリズムが

ラついて見えるので好みによるが、本文用として集合美に欠ける点がある﹂。

はあるが、文字の黒さ、大きさがそれぞれ異なる点があるなど、文字組がバ

デザインされた書体の方が、本文用として集合美がある。石井書体は優美で

の方向に向かえば向かうほど、写研が言っているように﹁ボディいっぱいに

体として君臨してきた。しかし電算写植とか電子植字というようにデジタル

この石井明朝体は昭和三十年頃からの三十年間、 日本の代表的な写植明朝

持ち得たとも思う。

組版面ができ、﹃大漢和辞典﹄が﹁引く﹂機能だけでなく﹁読ませる﹂機能を

との引きかえの、柔らかで読みやすく格調の高い書体によって、抵抗のない

在する全ての漢字をこの本に凝集された⋮⋮﹂と同様、 石井茂吉氏の”生“

り、鈴木健二氏が言うように諸橘轍次先生の﹁視力と引きかえに、 地 上 に 存

﹁諸橋大漢和辞典﹂の偉大さは、世界中のいかなる辞典よりも包括的であ

生かされている﹂とも言っている。

2 1 0

『大漢和辞典』を読む

2 1 1 第 2部

さらに、線質が微妙であるために直線的なデジタルには向かないこともあり、 そろそろ時代に適合しなくなってきたようだ。このようにどんなに優れた書 体でも時代の感覚や文字を出力するメカニズムの変化に適応しきれなくなる。 その時に次の新しい概念の書体が生まれてくることになる。

デジタル書体は低ドットが新しいイメージ 二、三年前までワープロは高額で会社の事務や編集などの仕事でしか使え ないものと思っていた。 ところが、 今 年 七 月 か ら 四 万 円 台 の パ ー ソ ナ ル ワ ー

︱つの文字が横方向 1 6ド

プロが発売され個人でも買えるようになった。使用されている文字は 1 6x16 ドット︵点︶文字である。 16x16ド ッ ト 文 字 は

ット X縦方向1 6ド ッ ト の 計 二 百 五 十 六 の 点 の う ち 必 要 な 点 を 黒 く し て 作 ら れ ている。これらの文字は従来の印刷書体と比較すると‘線がポッポツと切れ てとても文字らしくない文字である。そのような文字らしくない文字を打ち 出すワープロでも、時の流れというか、科学や文化の進歩や変化によって大 勢の人達が日常の生活道具として使うことになってゆく。 印刷書体としての漢字を見るとき、活字や写真植字の書体︵文字組するため

2 1 2

に必要な一セットの文字の骨格に共通したイメージで肉付けされたもの︶な どのアナログ書体に対し、 ワープロなどのデジタル書体は、文字を構成すべ

二十万円前後のもので

き点の数が多ければ多いほど、自然の線質のアナログ書体に近づく。市販のワ ープロで六万円以上のものになると、 24x24ドット

32x32ドットの文字が印字できる。 1 6ドットより2 4ドットの方が従来評価の 文字らしく‘ 2 2ド ッ ト の 方 が よ り 活 字 や 写 真 植 字 の 文 字 に 近 く 4ドットより 3 なる。

0x40 情報処理機と言われている大型コンピューターによる文字出力には 4 、 2x32、° ドットや 48X48ドットあるいは 24x24、3 4x 4O 48X48ドットとい

うように複数の書体を持っていて使い分けているものもある。 朝日新聞は横5 3ドット‘縦4 3ドットの文字で組まれている。 おそらくはと んどの読者は曲線のギザギザを感じることはないだろう。もちろん新聞紙と いうことで面が粗い紙のために文字の再現性が悪いということもある。



0 0 x 1 0 0ドットから4 電 子 植 字 機 な ど は 普 通1 0 0 x 4 0 0ドットぐらいのものが使わ れている︵図 3)。また、 ベ ク ト ル 文 字 と 言 っ て 文 字 の 輪 郭 を コ ン ピ ュ ー タ ー が記憶しておき、どのような大きさも自由にアナログ文字として出力したり、

泳泳泳泳i i

32X32

40X40

『大漢和辞典』を読む 第 2部

2 1 3

輪郭線上に最も近いドットを選び出して文字として構成してゆくなど、より アナログ的な文字の記憶と出力の方法がある。

以上のように種々のドット数のものが使われているが、 l o o x 1 0 0ドット以上

の文字になると、 アナログ文字により近いものが再現されるようになる。と

いうことはアナログ文字を単にデジタル化したということであり、デジタル

という新しい法則のもとにデジタルに合った書体を制作したことにはならな

い。現状では、もっともデジタル、言い換えれば電子の文字にもっともふさ

6x16とか 22X22ドットあたりの少ないドットという厳しい条件 わしいのは 1 の中で制作された漢字である。それらは、もっともアナログ文字とは違い、

かつ、 アナログ文字と同じように読めるというおもしろさや新鮮さを持って いるのでデザインしていても楽しい。

書体は書くから作る時代

くアナログ文字

泳 誘 涵 詠

﹃大漢和辞典﹄に使われている石井明朝体の漢字のようなアナログ書体は筆

によって書かれたものであり、 ワープロなどに使われている低ドットのデジ

タル書体はコンピューターによって作られるものである。 日常生活にコンピ

2 1 4

ューターが入り始めたことによって印刷を目的とした文字も書くから作る時 代に入ったと言えよう。 石井茂吉氏の﹃大漢和辞典﹄ の漢字制作の状態を前述の﹁文字に生きる﹂ から抜粋してみる。 石井茂吉氏は﹁掘ごたつに腰を下し、 こたつの上にライトテーブルを置き‘ その上に原字用紙をのせ左手に拡大鏡、右手には小筆か丸ペン‘ と き に は 修 正刀という形だった。作業台の右側には硯を置き、 そ の 前 に は 廃 物 利 用 の ビ ンの水さし、 そ の 少 し 左 に コ ロ ジ オ ン 溶 液 、 そ の 左 の 筆 立 て に は 五 十 本 に も 及ぶ筆と修正刀そして丸ペン。修正刀も筆も大小様々だった。修正刀は文字 の修正場所によって使い方が区別された。しかも修正刀は自分でノコ歯を必 要な大きさに切断して研ぎ出したもので、 ペン軸か竹軸にそれを差し込んで 抜けないように根元をきっちりしばったものだった。それから、なくてはな らぬのがガラスの丸棒で、その左右両端にはテープがまかれていた。字を書 くには一辺十六ミリ正方形の中に、 十 五 ミ リ の 正 方 形 が 薄 く 入 っ て い る 原 字 用紙を用い、 その枠の中に初め鉛筆でおよその下書をし、 ガ ラス の 丸棒を 定 規代わりに器用に使って直線は丸ペンで、曲線は小筆を使って巧みに書いて

A原 字 制 作 中 の 石 井 茂 吉

2 1 5 第 2部 『大漢和辞典』を読む

いく。定規とか烏口はほとんど使わなかった。書き終ると次は、気に入らな いところを修正刀で削り、更に筆を入れてでき上がったところでコロジオン で仕上げるという具合だった﹂。 現在の若いデザイナーのアナログ文字制作用の道具は‘鉛筆、烏口、筆二、

この程度である。文字用紙には

一字の一辺が四ー五センチぐらいの

三本、三角定規二、三枚、雲形定規一、二枚‘ 墨汁、 ポ ス タ ー カ ラ ー の ホ ワ イト

正方形が青色で印刷され、 その中は一ミリ方眼になっている。先ず鉛籠でで きるだけ正確にデッサンする。墨汁を入れた烏口で定規を鉛筆線の上に当て



て輪郭を墨どりする。輪郭内を筆で塗りつぶす。修正は筆や烏口を使ってポ スターカラーのホワイトで線を少し消したり、墨で加えたりする︵図4)。 この行程を複数の人間で行なう場合もある。アナログ文字の制作手法もこの 二十年以上の間に少しずつ変化してきた。それだけ石井茂吉氏のような芸術 家であり、名人といえる文字デザイナーは存在し得なくなったとも言える。 現在のアナログ文字も書くから作る方向へと変わってきているようだ。

一般的

低ドットのデジタル文字にはもう書く作業はほとんどない。既にあるアナ ログ書体の原字かサインペンで書いた骨格程度のものがあればよい。

*図 4

台紙に書かれた原字

*図5

デジタル書体の製作工程

鯛縁I 料縁層

なデジタル文字の制作機はイメージ・スキャナと画像処理機能を備えたパソ コン一式、ドットの付加、削除やオペレーションのためのタブレットやマウ ス、プリンターなどによって構成される。イメージ・スキャナはファクシミ リ型と複写機型、 カ メ ラ 型 の 三 種 類 が あ る 。 テ レ ビ カ メ ラ が 使 わ れ て い る 場

通常ワープロなどに必要とされている七千字に対して一貫したイメージを生

る人によって異質のものができる。高品質のドット文字をデザインするには、

この整えていく作業がデザイン作業である︵図 5)c デ ザ イ ン で あ る 以 上 携 わ

同様の作業でドットの付加と削除を繰り返し文字としての形を整えてゆく。

ット上の X Yの 位 置 を ペ ン で 指 し ス イ ッ チ をO Nする。ドットが付加された。

る 。 C R T上 の 消 え て し ま っ て い る ド ッ ト の X Y上 の 位 置 と 同 位 置 の タ ブ レ

た文字は文字と言うにはほど遠く、横線や斜めの線がなくなってしまってい

らかじめ設定しておいたドット数にデジタライズされる。デジタライズされ

スプレイ上に映し出す。タブレット上の指定位置をペンで押すと、瞬時にあ

制作手順はアナログ原字をカメラ台に置き、 カメラで撮影してC R Tディ

フィックやC A Dの機器と同じようなシステム構成である。

合が最も多い。記録はフロッピーディスクにされる。 コンピューター・グラ

2 1 6

むための思想が必要である。それとともにアナログ書体制作の経験と造形力、 時代に即した感性、文字組されたときの情景判断などが要求される。例えば‘ 文字組されたとき、画数の多い漢字などは黒くつぶれてしまう。 アナログ文 字のときは画数の少ない文字よりも線を細く書いて線と線のアキをできるだ

け保つようにした。 ところが 22X22ドットのような場合、横線はもともと一

*図 6 ドット文字制作上の工夫

雌郵

ドットしか使っていないので変えようがない。立て線を細くするためには二

はどの線をどこまで細くするかを工夫しなければならない︵図 6)。そのよし

ドットを一ドットにするのだが、 それは五 0%細くすることである。そこで

願誕

より広い範囲の人達が得ようとすれば、低価格でなければならない。当然、

あしが文字組されたときの組版面が一定の黒さを保ち、読みやすさの良否に

漢字の出力は低価格のパソコンや複合端末機になり、低ドットの文字出力に

ある。残り四万字強の漢字のドット化と、 そのドット文字を読者が自分のパ

ならざるを得ない。そのとき‘ ワー。フロなどが持っている漢字は七千字弱で

ソコンから必要な漢字の情報を得ることができるかもしれない。その情報を

将来、﹃大漢和辞典﹄がデータベース化され、 I N SやV A Nを通じてパ

つながってくる。

『大漢和辞典』を読む

腕嚇 鎌臨

2部 第

2 1 7

ソコンで持つのは不可能である。読者が仮名で呼び出す漢字が、出版社側に 図やグラフや写真と同じレベルの情報として記憶されており、送られてくる のだろうか。 また、データベース化と同時に、現在の﹃大漢和辞典﹄ の改訂版として組 版が電子植字で、 ということになるかもしれない。五万字の漢字を高ドット でデジタル化しなければならない。大変な時間と労力とお金がいる。この五 万字の漢字の多くは﹃大漢和辞典﹄以外にほとんど使い道がないだろう。﹃大 漢和辞典﹄が永遠であればあるほど漢字の電子化は不可欠であり難事業であ 一度は制作した活字を灰にし、 八年をかけて制作した写植文字が三十年

﹁諸橋大漢和﹂が常に背負っている漢字の宿命的な”業"とも言える。

近くたった今、電字化という新たな波にぶつかっているのではないだろうか。

る 。

2 1 8

﹃大漢和辞典﹄を引く 禰吉光長

r 大漢和辞典』を引く 2 2 1 第 3部

私の﹃大漢和 l活 b 用法

世界最大の構想

諸橋轍次博士の﹃大漢和辞典﹄は全十三巻、各巻一千ページを越す。これ らの巨冊には、親字が四万九千余ふくまれている。過去の漢字字典では﹃康

えんかい

熙字典﹄が、親字四万七千を誇っていたから、文字数だけでもその水準をは るかに抜いたものである。

そうまとうはや

さらに諸橋博士が最近の修訂版の序文に﹁語辞は煙海の如く広く‘ 時世の 転変は走馬燈に似て迅い﹂と述べている通り、 単に文字数だけでなく‘ 内容

まと

も時代の進展と学問の進歩にしたがって改訂していかなければならないだろ つ。まことにその通りである。 博士が﹁昭和六十一年を一応の纏まりとして第三期の作業を終え﹂と述べ ているのが現在の修訂版である。この種の修訂事業を将来にわたって担える

2 2 2

人は学問、能力、根気、 人柄の上で限定される。博士は幸運にも後継者に恵 まれ、鎌田正、米山寅太郎の両氏に託せられた。博士は五十七年十二月に逝 かれたが、 よい後継者を得、天命を完うしたのであった。 諸橋博士の大事業は、 わが国が漢字文化圏に属するという事実を踏まえて 着手されたものだと思う。もと東洋文化の中心は中国にあった。あたかもヨ ーロッパ文化が地中海を中心に形成されていたのと同様である。ゆえに漢 字・漢語はラテン語のように古い言葉ではあるが、 それよりも広く深く東洋 の諸民族の精神にしみこんで、 今もなお生きている点は特筆すべきであろう。 中村真一郎は﹁江戸の知識人は主として、極東文化圏の共通用語である中 国古代語によって、考え語り歌うという文学的習慣を保持していた﹂︵﹃江戸漢 詩 ﹄ 一九八五年︶といっている。古代文字がいまなお使われているという例

は、世界でも漢字だけである。 ちなみにこの大きな編纂事業の意味について次のように評価している人が いる。

私が生れた時、亡父は、自分の代りに私の友となれと、当時出始めた三

『大漢和辞典』を引く

2 2 3 第 3部

省堂の百科辞典を︵家計の︶苦しい中から購ひ求めたといふ。 私も五人の子供達にこの棚の上にある︵諸橋博士︶の﹃大漢和辞典﹄が最 も強靱なるものを伝へる師友であれと祈ってゐるのである。︵加藤鍬邦︶

すぐれた辞典は、単に学問ばかりでなく‘ 人生にも深い影響を与えること を示すものだ。 さて、 ﹃大漢和辞典﹄全十三巻の上手な使いかたであるが、なにも特別な 方法があるわけではない。しかし、どんな辞典でもその辞典を上手に活かそ うと思えば、第一に﹁序文﹂と﹁凡例﹂をていねいに読むことにつきると思 う。そのあとは﹁習うより慣れよ﹂のことわざどおり、機会があるごとにお っくうがらずに﹃大漢和辞典﹄をのぞいてみることである。

I

辞典の特色•構成・活用

一般に﹁凡例﹂には、その辞典がどのような編集方針で作られているのか、

さらに何がこの辞典によって明らかになるのか

例ー│などが、豊富な実例をあげて、組織的に解説されている。 浩濡な﹃大漢和辞典﹄には‘﹁序文﹂と﹁凡例﹂がかなりくわしく‘しかも ながながと書かれていると想像されるだろう。 だが、実際は﹁序文﹂が五ペ

*福本和夫著﹃私の読書論﹄所収

2 2 4

へんさん

ージ、﹁凡例﹂が七ページにすぎない。﹁序文﹂には諸橋博士によって編纂の 動機と編纂の経緯が、 ひかえめではあるが、実に格調高い文章で簡明に述べ られている。また、﹁凡例﹂には﹃大漢和辞典﹄を活用するための必要最小限 の事項が簡潔に記されている。 とくに﹃大漢和辞典﹄に慣れ親しんでいる人は別として、初学者が、 いき なりこの﹁凡例﹂を読もうとすると、 たちまち消化不良をおこしてしまい、 辞典を活用してみようという気持ちが失せてしまう可能性もある。というの

一人でも多くの方々に﹃大漢和辞典﹄を手にとって、

一般の利用者には、 とっつきにくい感を与えるのである。

は、この﹁凡例﹂は‘漢字漢文・中国文学の専門家などのために書かれたも のであるから、 この項のねらいは

楽しく読み味わっていただきたいというところにある。 ここでは、まず読者が﹃大漢和﹄に少しでも親しんでいただければと思い‘ 私自身の活用法を、熟語や故事成語をテーマとして簡単にお話してみたい。 次に本格的に活用していただくために、凡例および索引は問答形式でできる だけわかりやすく説明することにしよう。

r 大漢和辞典」を引く

2 2 5 第 3部

熟語敵策

一般にこの ﹃大漢和辞典﹄を使う場合は、まず熟語や名句を引くことが多 いと思う。そこには種々様々な人物・地名・書名などのはかに風俗・習慣に

きんていここんるいじゅう

﹃ 欽 定 古 今 図 書 集一 成万 ﹄ 巻唐 をは のじ ﹃め芸 文 類 緊 ﹄ 百

一時間や二時間はたっぷり楽しめる。 この中の引用文は、古今を通じて選ばれた

おそらく百万件に達すると思われる。 ほかの故事熟語辞典には‘ 七 、

含め、実に内容がゆたかで百科事典の代用にもなる。

﹁学﹂についての熟語・成句は二百九十七に達している。 日本の事項をも

例えば、第三巻﹁学﹂をひもといてみよう。

るところは、 ほかに類がないだろう。

とになる。しかも詩文に限らず‘老子、荘子、楚辞、 詞曲、戯曲までにわた

八万件しか収録されていないのだから、 それに二十数倍する引用文を持つこ

もので

とくに一言しておきたいのは

味に引かれて読んでも

巻などの百科全書から、戯曲類にまでおよび、 きわめて多彩であるから、 興 ヽ

しかし、資料は

記述は簡略で、十分な説明が得られない場合があるかもしれない。

関する字句もある。まるで中国百科事典を見るような気がする。事典ではな

‘ ~ しヽ

ぐ大漢和辞典﹁學﹂の項︵部分︶





︻學山︼蒻"グ●丘陵は山の如く高くならうとし ても出来ないこと。學問の成就せぬ喩。︹法言‘ 學行︺百JII患海而至︱干摂丘陵學;山不な主子 山↓●字贅。④宋、周夷敏 (10-3441: 639)の 舅 ⑨清‘胡光北 (8-294g : 448)の饒°〇高瀬忠 を見よ。R 敦の競。高瀬學山 (1g ーな 313: 918) e1 松浦則武の嶋松浦篤所( 4 5 1 4: 389)を見





·I

[學山録︼m 9 9 書名。六筈。中村明遠撰。明 遠、本姓は藤原、械は蘭林、又、盈進齋。江戸の 人、賣暦十一年卒す。年六十五。此の書は一名、 盈進齋随筆ともいふ。其の目は春一、天地部、奉 ミ事倍郎、登二、言論部・行事部惑四‘藝文部・ 醤異部、告五、文酔部`巻六`稽謂部・字義部。

ー3 冨山海居〗"”せ清‘黄杢烈(12

CB91:I

ー (12

So:44

8)

の馨°

(O,2gg.44

9_ほ

薩︶の室名。 [學山先生︼斡"せ消、顔光穀 45) の尊紐゜ [學山老 A ] 8 9”夕清‘胡光北 8) の饒。﹁ ︻學山老樵︼"訂梵清‘胡光北︵

2 2 6



このうち人名については、相互参照によってただちに知ることができる。 数えてみたことがないので人名がどのくらいあるかわからないが、 このよう に号、字などから十数万人の情報が得られるであろう。中国人名辞典として も比類がないことがわかる。 ﹁ 学 ﹂ の熟語で興味のある語句を二、三紹介してみよう。 ﹃老子﹄二十篇に﹁絶学無憂﹂という語がある。﹁学を絶てば憂いなし﹂と いうのはいかにも皮肉で老子らしい文だと思っていたが、 この句には次の句 ﹁唯之輿阿、相去幾何。﹂︵帯卜即血ハハ‘榔去ルコト船犀ゾ︶が続いていることを 知った。

︻葬學無レ憂︼函竺芦乃ハ學問をやめれば心配 がなくなる。︹老子、二十︺絶レ學無レ憂‘唯之卑ハレ 阿、相去幾何゜

2 7 8努 ' ャ

リトム

5

通儒をほめていふ

ほかに学問に関連することばでは、 ﹁学冨五車﹂がある。

1 1 ︻學富 五 車︱︼

*二五八ページ参照。

*一体、人間が学問などを励み努 めるから、憂いが多くなって来

るのであって、この学問を断ち

憂いなどある筈はないのである。

棄ててしまえば、初めから心の

るに文化を追うことであるが、

学問をするということは、要す

そのいわゆる文化なるものは、

果してどれだけの利益があるも のであろうか。例えば、人に返

事は、長者に対する鄭重な返事

ていちよう

事をする場合の﹁唯﹂という返

とされ、﹁阿﹂という返事は、人 に対して侮蔑を意味する返事で

るが、しかし唯と返事したから、

あると、普通には考えられてい

阿と返事したからといって、そ の間にどれだけの本質上の差別

﹃掌中老子の講義﹄一九五四

があるのだろうか。︵諸橋轍次

年 ︶ 。

2 2 7 第 3部 『大漢和辞典』を引く



1

語。大學者。五車 ( 1 257: 536)の働を見よ。︹故 事成語考、文事︺多才之士、方儲 一八斗二博學之 儒‘學富︱︱五車↓ ﹁学は五車より富む﹂と読み、故事成語であって、﹁目先のきくオ子は米八

けいし

斗を貯めこむが、学者は五車に積むほど図書を集めて読む﹂というのである。 ちなみに﹁五車の書﹂とは戦国時代の宋の恵施が蔵書家で、車五台分の蔵書 をもっていたことを指す。 ﹁学生﹂のところを見ていると

︻學生︼ 144E り〇學問を修める者。學校の生徒。學 徒。學者。︹後漢書、震帝紀︺光和元年、始置︱鴻 都門學生↓︹顔氏家訓、勉學︺召置怠店士親為︱︱教 翌︹唐書、選學志︺律學生五十人、書學生三十

1

人、算學生三十人。O俗に弟子をいふ。︹通俗編‘ 文學・學生︺按、此皆學校之生、今概呼 一弟子否竺 學生韮介也。●後輩が先輩に封する自稲。尊長に 封する謙稽。︹留青日札︺宋陳省華封レ客、子発 斐等列侍、客不な安、省華日、學生列侍、常也。⑲

2 2 8

同官の自稽゜︹稲謂録、同官謙稽‘學生︺詞林典

1

1

z e

e

1

1

1

故、故事翰林前輩括後輩玉翌老先生一自稲學 、 圭又翰林初見︱︱前輩ぶ空名束 應レ梢︱︱侍生 者 相見自梢日正記去終身無レ改。O 圃恐ウ寺院に 寓して佛典以外の學問をするもの。︹寄蹄傭、三︺ 凡諸・白衣‘詣応綿所一若専誦一佛典一情希︱︱落 髪畢願 細衣ぶ葱民童子工或求 一外典こ無尺少出 考'ウ我が國でもと大學寮及び 墨 名 曰 一學生 國學に籍を有した生徒。 ④商 hstieh2 sheng 家の小僧。@男の子供。

R圏とあり、仏教用語で﹁ガクショウ﹂と読む。﹁寺院に寓して佛典以外の 学問をするもの﹂それが義浄の﹃南海寄帰内法伝﹄に根拠を置いているのに は驚いた。その引用文を意訳すると、﹁俗界の人々が寺院の門をくぐりもっぱ ら教典を読むようになると、落髪したいと思うようになり、 ついには墨染め の衣がほしいとさえ願うようになるものだ。このような者は小僧と呼ばれる。 しかし、なかには仏典以外の書物を読むばかりで、出家の気持ちがない者も いる。これを学生という﹂となる。本来の学問から逸脱しがちな学生の存在

2 2 9 第 3部 『大漢和辞典』を引く

は、中国を起源とするようだ。 次には熟語・成句を探す場合を考えてみよう。 探すときは単純に最初に読む字から探せばよい。例えば﹁白髪三千丈﹂と いうのは誰の句だろうと思ったら、﹁白﹂で探せばよいので、﹁髪﹂からでは ない。よく﹁髪﹂を探して、出ていないという人がいる。単純に第一字から 探せるようにしてあるからこそ、 その通りに引くと、

97 ぢ6 劣名‘ウ白髭の長いのをい 〖白髭三千丈〗 ふ。︹李白、秋浦歌︺白髭三千丈、縁レ愁似レ箇長‘ 11

不レ知明鏡裏、何虞得 秋霜↓

とあり、唐、季白の詩﹁秋浦の歌﹂に出ていることがわかる。

かわたけも︵あみしらなみ

﹁白﹂のところは読んでいてもおもしろいものが多い。ちょっと興味のあ りそうなところを紹介しよう。河竹黙阿禰に﹃白浪五人男﹄という戯曲があ るが、 その﹁白浪﹂とはなんであろうか。﹁白浪物﹂とか﹁跡白浪﹂などとい う言葉があるが、 その語源を﹃大漢和﹄に当たってみる。

2 3 0

︻白波︼912f0しらなみ。︹荘子、外物︺白波如レ

12 ー

-1

1

1

1

42245: 163) の字。Rぢ盗人の異名。

E B

山。︹鄭谷、江際詩︺萬頃白波迷 一宿鷺二林黄葉 送︱︱残蝉↓︹杜甫‘奉 一観巖鄭公巖事眠山泥江董圏 1 1 梁↓●堡の名。山 十韻詩︺白波吹︱︱粉壁一青蝉挿 離 西省扮城縣の東南。今名は永固村。黄巾の賊が此 慮に居ったため、轄じて、盗人をいふ。しらなみ。 ︹後漢書、璽帝紀︺中平四年、黄巾餘賊郭大等、 起︱︱於西河白波谷西竺太原河東 h云云、九月南箪 子叛‘興 白波賊寇河杢︹元和志︺黄巾賊由 一 西 河白波谷云翌太原ぶ炉此築レ 至。︹東鑑︺建保四年 二月十九日、有百波ァ今東寺元ぎ含利↓●明、 雷鯉︵

ほんちようもんずい

1

おおえのあさつな

とある。ちなみに﹃広漢和辞典﹄の﹁白波﹂の項には、大江朝綱の上表文が ﹃本朝文粋﹄に﹁隅頭ノ秋水白波之音間二聞工⋮⋮﹂と記してあって、そこ に﹁白波﹂の語が現われる。実に古くからあったことがわかる。 ﹁白馬非馬論﹂という詭弁的論理もおもしろい。戦国時代の昔、公孫龍と いう詭弁家があった。彼は白は色を指していい、馬は形に名づけたものであ る。形には白色の概念を含まないし、色には形の概念は含まない。ゆえに白

『大漢和辞典』を引く

2 3 1 第 3部

馬という概念と馬という概念は同一ではないという。外延、内包という概念 の近代論理が生まれる前にしか、通用しない。 新井白石の名前の由来を知りたいと思って、﹃大漢和﹄﹁白石﹂の項をみる と、三十二項目ある。その最初は﹃白石︳奄﹂である。

1

奄〗6ぢ 4忠 5直山五老峯山下に在る僧含 〖白石i の名。︹蘇献‘李氏山房蔽書記︺余友李公揮‘少 時讀 一書於薩山五老峯下白石奄之僧含↓

そしよく

そのほかには﹁白石先生﹂﹁白石英﹂﹁白石翁﹂﹁白石河﹂などがあり、最後は ﹃白石道人詩説﹄となっている。私は白石が蘇献︵蘇東破︶の文に啓発された に相違ないと思っている。 戦前ある新聞が﹁白虹日ヲ貫ク﹂という表現を用いて一部に物議をかもし たことがあるが、 ﹃大漢和﹄によれば、二つの相反する意味があるようだ。 つは精誠が天に感応してあらわれること、もう︱つは白虹は兵、 日は君を意 味するので、 君に危害を加えるという意味になるという。

2 3 2

︻白虹︼ 4 0 6お〇白色のにじ。︹周證、春官‘抵設、 掌十憚之法云云六曰レ臀七曰レ禰、注︺禰者、 1

白虹禰レ天也。︹謄‘聘義︺君子比 一徳子玉︱焉‘氣 如百虹一●賓剣の名。︹古今注‘輿服︺呉大皇 帝、有賣剣六︱︱日‘白虹。

〖白虹貫レ日4 〗ぢ 07 翡ヌク●白色の虹が日の面

1

1 1 1

1

を突きとほす。精誠が天に感應してあらはれる 象といふ。又‘白虹は兵の象、日は君で‘君に危 害を加へる象といふ。︹戦國‘魏策︺夫専諸之刺二 王障也、彗星襲レ月、贔政之刺二韓愧一也、白虹 貫レ日。︹史記‘鄭陽傭︺昔者荊飼慕︱︱燕丹之義舌 I 虹貫レ日、太子畏レ之。︹注︺集解日‘應勒曰‘燕太 子丹‘質 一於秦五始皇遇レ之無藉‘丹亡去‘故厚養︱︱ 荊飼了令 一西刺 一秦王云精誠感レ天‘白虹為レ之貫レ 日也‘如淳曰‘白虹兵象‘日為レ君‘列士傭日、荊 阿登後、太子自相レ氣‘見 一虹貫レ日不>徹日‘吾事

不レ成矢、後聞――阿死事不>立曰‘吾知→—其然一也、

1

索隠曰‘王勁又云‘飼将レ入レ秦‘待︱︱其客︱未レ獲‘ 太子丹疑︱︱其畏濯了故日‘畏レ之‘其解不レ如レ見︱︱ 虹貫レ日不>徹也、戦國策云‘贔政刺 韓愧六亦日ニ 白虹貫>日‘是也。︹後漢書‘獣帝紀︺初平元年ニ

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2 3 3 第 3部

こんなに興味の深い辞書はない。

月王辰‘白虹貫レ日。●白眼が多いこと。白眼が 1 1 ち。︹南齊書、猪淵債︺以 淵 眼多 白 精云ザ之白 n 1 虹貫>日。

とにかく漫然とひろい読みすれば

一番上の字から引くものですよ、と教えたが

ある時﹁葡萄美酒夜光杯﹂という有名な詩が、誰の作で、 ど ん な こ と を 詠 じたのかという質問がきた。 ﹃大漢和﹄ で引きなさい。 見つからないと抗議された。

りようしゅうし

﹁葡萄酒﹂の項には﹁本草綱目﹂による﹁葡萄酒﹂の引用しかない。やむを えず﹁夜光杯﹂を引くと唐の王翰の﹁涼州詞﹂が出典と判明した。﹁夜光杯﹂ は名玉で作った酒杯で、夜中に光を放つということがわかり、 たいへんよろ こばれた。 ガラスの杯という新説もあるようだが、現在でも夜光杯を西域旅 行土産に持ち帰ることがあるから、当時既に軟玉で作ったと思われる。昼光 をあてておけば夜螢光を発する玉もあるという。 いま正倉院にあるような西 域を経て輸入された高価なガラス杯を常用したとは考えにくい。

2 3 4

﹃文選﹄ の一節が引いてある。﹁詠気﹂は探し出せない。

﹁金風詠気﹂と書いた額面を持っている人から何の意味かと聞かれた。﹁金 風﹂は秋の風とあり

乗り出すようにして、差し出された﹃大漢和﹄をよく読むと、﹁えいき﹂は﹁詠 帰﹂がある。引用文をみると﹃論語﹄先進篇の楽しい句が引用してある。

︻詠蹄︼ 4仔 郊 外 の 風 景 を な が め 詩 を 吟 じ つ つ 蹄る。風流を架む意。蹄詠゜︹論語、先進︺︵貼︶曰‘ 莫春者、春服既成‘冠者五六人‘童子六七人‘浴二 乎煎風二乎舞零一詠而蹄゜︹朱窯‘四時讀書築詩︺ 山光照レ檻水撓レ廊、舞響蹄詠春風香。

郊外の風光を眺めつつ詩を詠じて帰る。という光景が鮮やかに現われてく る。この額を書家が仮に﹁祈風詠帰﹂と書いていたとすれば、その出典が﹁先 進篇﹂にあるとただちに判明したのに、と思った。 英語に b r o w s i n g (ブラウジング︶という語がある。牛や羊が牧場で、草を 食べては歩き、歩いては食べ、陽光のもとに楽しんでいることである。これ を読書にたとえると、本屋の立ち読み、書斎でのひろい読み、 そして寝なが

『大漢和辞典』を引く

235 第 3部

かこう

らの辞典読みということになろう。 ふだんからの辞書とのつきあいが必要な のである。 還暦を華甲というのはなぜだろうと引いてみると、﹁華﹂の字は六つの十と 一の字の組み合わせだという。甲は甲子で六十一歳になるそうで、宋の苑成 大の詩が引用されている。

1

-1

︻華甲︼ 67努敷へ年‘六十一歳。華の字は十の字 六箇と一の字とから成るからいふ。甲は甲子の 甲゜還暦。花甲゜︹苑成大‘丙午新正書レ懐詩︺祝三 人深勧二玉東西↓︹西遊記、二 我謄周 一花甲子︳謝 一 n 十回︺問 年 壽 幾 何 函 央 凝 長 六 十 二 行 者 道 、 好 好、華甲重逢英。

その中で、「祝二我謄周二花甲子一、謝—一人深勧玉東西」というのに行き当た り、およその意味がわかった。 しかし、喜寿とか、米寿とかは江戸時代に日本で始まったことで元来、中 国にはないことがわかった。

かいろうどうけつ

﹁偕老同穴﹂は日本製の熟語だと思いこんでいたのであるが、念のため引 いてみた。

〖偕老同穴]1昇 4務●生きては共に老い、死 11

んでは一っ穴に葬られる。夫婦のちぎり。比翼 連理の契り。︹詩‘邸風、撃鼓︺執 子之手ご宍レ子 偕老。︹詩、王風、大車︺穀則異レ室、死則同レ穴。 ●贔の名。海綿類に層する筒形網状の海晶。う みのへちま。うみわた。

である。

引用文は修訂版のものを用いた。

*本文に使用した﹃大漢和辞典﹄の

なるほどと合点した。プラウジングで雨読の一刻を楽しむ。これまた一楽

シテハ則チ穴ヲ同ジウセン﹂。

子夷餌二老イン﹂また王風篇の﹁大車﹂の詩に﹁知 Tへ島チ室ヲ異ニシ、死

その出典は古く、﹃詩経﹄にある。攣風篇の﹁撃鼓﹂の詩に﹁子と手ヲ翫リ、

2 3 6

﹁凡例﹂ 問答

l b

一般に漢和辞典においては見出し文字のことを親字とよびます。 ﹃ 大

ですか。

﹃大漢和辞典﹄ に 収 録 さ れ て い る 見 出 し 文 字 の 数 は 全 部 で ど の く ら い

親字・語彙の採録範囲

﹃大漢和辞典

︹ 問 ︺

︹ 答 ︺

漢和﹄ の親字数は総数四万九千九百六十四字です。 親字には通しの﹁文字番号﹂︵太い洋数字︶がついています。﹁文字番 号 ﹂ 1 は第一巻の﹁一﹂に始まり、第十二巻の最後は 4 8 9 0 2 ﹁ 鑢 ﹂ となっています。さらに、この番号は索引︵第十三巻︶の補遺の文字に 続いていて、 49964﹁翻﹂で終わっています。 ﹃大漢和﹄ の親字数 を一口に五万と称するのはこの 49964番までをいうのですが、 こ ﹁文字番号﹂とのちに説明する﹁語彙番号﹂は、ともに﹃大漢和﹄ の

『大漢和辞典』を引く

2 3 7 第 3部

として千六十二字の親字を掲げ

*第十三巻︵索引︶には、﹁補遺﹂

る。さらに付録として‘常用漢

字表︵千九百四十五字︶、人名用

漢字別表︵百六十六字︶、中国簡

かある。

化文字表︵二千二百三十八字︶

参照番号

T-

字音

に通ず。︹玉篇︺抒、通レ I)

生レ子日レ乳。︹廣雅‘繹詰一︺字、生也。O は らむ。︹易‘屯︺女子貞不に子。︹虞注︺字‘姫

tl

牝 者 能 牢 字 ‘ 故 謂 牝字↓︹史記、平準書︺

︹注︺字‘養也。@めす。︹正字通︺字‘畜之

敬叔↓ 字‘育レ子也。︹左氏、昭‘十一︺使レ字 一 1

娠也。〇やしなふ。はぐくむ。︹正字通︺

反切

現代中国語音



-l

1

A 日レ字。

l

l



竺草字之所鯉見〗只如一字彙一編次之面盗;,,

に子也、補し`注文を補足し、地名・氏姓等の誤を正し、

︹廣雅‘秤拮一︺字‘飾也。 O 古 は 字 ( 8 - 6 9 ︻字引︼・ヤ漢字を集め、部首によって分類し` 78) に作るぺ集韻︺字、古作レ牢。 O 拌 (7ー貼蓋に従って排列し‘其の字昔意義を説明した 費又、現在は廣<酔書の義にも用ひる。字書 20012) に通ず。︹正字通︺字、別作レ拌。 O を見よ。 (45)・辟書 (10-38671: 56) 姓。︹萬姓統譜︺字‘見 一直音↓︹正字通︺字‘ ︻字印︼ sし、活字をいふ。︹夢埃筆談、技藝︺欲レ 姓‘宋廉州判官字誇。︹奇姓通︺漢字長揺‘ 印‘則以︱︱︱鐵範﹄巴鐵板上一乃密,,布字印三,,, 見印藪↓◎囲書きつけ。書類。□やし鐵範為二板↓

︹顔氏家訓‘風操︺字以表社徳。 O

有>字何、所"'以冠レ徳明レ功敬 一 人一也。 1

1

世 家 ︺ 躊 一於尼兵得二子三云云‘故因名一帯清‘呉任臣撰。[{子彙敦求瞥︼+=一懲虞徳 日レ丘云‘字仲尼゜︹白生通‘姓名︺所和 5 升撰。︻壻注校正頭書字彙︼+二集附‘首末二 を・補遺一春簡室増注。 ︻字育︼ 3ケはぐくみそだてる。字養。︹列子、 ざる。黄帝︺風雨常均‘字育常時、年穀常豊゜

字レ之。︹注︺字、所↓ー以尊一也。︹史;‘孔子︹参考書︺︻績字彙補︼+二集附‘正韻字橿榊微

-l

是 敬 其名也。︹磯證上︺男子二十‘冠又部陽を髪更し‘呉任臣も補字・補昔義・較謡の 三項に分けて之が増補を試み‘且、原書には怪 名↓︹證、特牲︺ 而字。︹注︺成人芙‘敬 奇の字を避けてゐるが、此には務めて牧鎌し 冠而字レ之‘敬真名︱゜︹磯冠義已冠而た。明史藝文志に著録す。

︹疏︺君父之前稽レ名、二於他人

字。〇あざな。賓名ののよび名元服のから十七書まで三萬三千七十九字を二百十四 部とし、正韻を宗とし、説文韻會を参考し、音 時、名を尊んで字をつる。名と︷とは表 切・訓詰を施し‘説文制字の旨を鋒し、集の首に 裏してゐる。孔子のは丘、字仲尼の は一圏を作って検閲に便ならしめてゐる。字書 類。︹儀腿士冠硯︺冠子レ之‘敬ーー名一也。の憲引は此の書に始まる。清の張自烈が訂正増

則日レ字‘字者、滋也、‘、盆而名、故稽日レ明、梅膚詐撰。各集は十二支を以て題し、一蜜

︹疏︺古者之文字少、直レ名、後代字多‘稽考也。●害名。十二集。首末二巻を添ふ,

逹書名子四夜注︺日レ名、

言︱︱摯乳而浸多也。︹證、春官‘史‘掌レ

。 謂乏吝其後形瞥相、即謂"之︷一字者、愛於小人 也 3 ︻字彙︼2"O字引。酔書。清の石梁に草字彙+ 二巻の編がある。︹石梁‘草字彙後序︺草字彙‘

1 9 0 字叙︺倉頷之初作レ書蓋依レ類象形、故而況埜公侯伯子男乎‘疏︺子者、字也、言 字 A -

韻目と四声

‘ ’

邦語・日本特有の意味 現代中国語の意味

6ん’文字の韻。︹四嘩提要‘経部、小學

□口鳳〗 1 名乗

なふ。︹集韻︺字‘也。閥あざ。町村内の一︻字韻︼

言 しむ。愛する。慈 (4ー1 1 0 4 1 )に通ず。︹説文

乗︱︱字牝一者、償而不レ得︱︱緊會↓鋤いつく

也、愛也。︹左氏、昭‘元︺柴王鮒字而敬。

通訓定瞥︺字‘段借為レ慈゜︹正字通︺字‘撫

解字

︹注︺字、愛也。O もじ。ふみよ許慎‘説文解

字義の解説



現代中国語

子部

義未詳。︵五昔篇海︺利‘昔義。

子 (8-6930)の古字。︹説文 子、半、古文A%m‘象レ髪也。

月一︹集韻︺疾置切閣 。通じて草︵ Sー7 0 1 1 ) に作

t)

(7ー 180

る。︹集韻︺仔、一産二子五通作レ撃。O し げ

日口O ふ た

6 9



丁〗 [□ /ff[[ 日 集 韻 津 之 。 者一冬狩皆取 之 5 ︻卒乳︼"翌子をはらみ‘生むこと。乳は子を 生むこと。︹後漢書、烏桓博︺見︱︱烏獣卒乳百盆仰 四節一る。滋 冨婦︼””'はらみ女。︹書,泰誓上︺剖馴卒婦↓滋、蕃長也。

シ︹集韻︺疾置切面 口シ︹集韻︺津之切甲{

字 ] 的 日ノ=晶卜F

︹荘子、天運︺民牛婦十月生子。︹墨子、明鬼下︺国歯‘ンゲ 剖削卒婦↓︹間詰︺帝王世紀云、討剖比干支以 塵其胎↓︹史記嘉陽博︺修卒婦之墓一︹淮南子、 l j,,/&婦↓︹李商隠雑纂‘遅 本経訓︺討剖諫賃g 滞︺卒婦行歩 o [

1



陪碁 小曰在〇うむ︷。下︹示説亦文︺臀字。‘︹乳段也‘注炊︺︱人︱及︱烏子

〖卒婦緩レ刑〗"””ゎュルクス卒婦が罪を犯した

1

時‘刑に営てることを産後まで延期すること。 刑︺北史怪浩偉`定 一律令五婦 ︹核餘叢考‘卒婦緩 s 人嘗レ刑而有レ卒者、許 一産後百日乃決云後世卒婦 緩レ刑始レ此。 ,唐代‘懐辛中の婦人が 〖拷決卒輝〗"”tt"

i

罪を犯して‘拷又は笞杖の刑に嘗るときは、産 後百日を待って決行するを法とした。︹唐律,断 獄‘拷決卒嬌︺諸婦人懐牢‘犯レ罪塁拷及決[杖笞玉若未レ産而拷決者、杖一百‘傷重者依下 削人 不レ合︱︱唾拷正兵産後未レ涌︱︱百日一而拷決者、減︱︱ 一等ご失者各滅三一等一

t

r J︼2,芦子をうむ。別は胎兒が母とわかれ ︻卒g る意。分娩。又‘雄に別れて子を懐にすること。 ︹荀子、王制︺醜最魚鼈鱚罐年別之時,︹注︺別、 謂 一生育愚母分別也‘國語、里革諫魯宣公一 日、魚方別卒‘車昭日、自別︱︱於雄一而懐レ子也。

豪文

組見本(修訂版を 64%に縮小)

隠祖a竺

親字と親字番号

語彙と語彙番号 種類の冠と服。︹塁書拾唾︺二十一服‘唐制‘輩 臣之服‘二十有一‘衰晃・鵞晃・喬晃・稀冤・玄冤・ 平晏・爵弁・武弁・弁服・進賢冠・遠遊冠・法冠・高 山冠・委貌.祁非冠・平巾績・慧介帳・介績・貝服・ 平巾緑績・従省服。 [二十家子]艇竺,地名。 O 涌 洲 吉 林 省 伊 通 縣の西北。●桜遠省和林格爾縣の冶゜蒙古語 では二十を和林‘房室を格爾といふ。

'漢定‘伏生求

1

一其責亡二散+

gぢ圃衆生の流韓する三界を [二 十 五 有 〗

g-

二十五種に分けた‘其の憩捨。欲界の十四有と色 界の七有と無色界の四有との併稽。︹涅鯰経、十 +五三昧面全 四︺菩薩摩詞薩佳無畏地五 二十五有↓

仏教語

の夜月の出るのを待って供物をする。︹今宮の 心中、中︺二十三夜の代待や。

i

陽建・謬徴・杜斌·摯虞•諸葛詮•王梓·杜育・郡

捷・左思•劉環・周恢・牽秀・陳胎・許猛・劉訥.劉

i

輿 •1 1。 1〔晉書‘劉現博〕秘書監賣謡、参ーー管朝 現 政一石崇•欧陽建・陸機・陸雲之徒‘並以ー一文オー 峰レ節事レ謡`現兄弟亦在︱其間 琥曰︳︳︱-十四友↓ ︹小學紺珠‘氏族類、二十四友︺。

〖二十四考】竺俎唐の郭子儀が甚だ久しく中

-l

i

e-

姑・趙孝宗・飽山・韓伯喩・球子・楊香。︹狩谷椛齋 誠孝行録古抄本‘二十四孝︺゜●書名。元‘郭居 敬撰。古今の孝子二十四人の事を記す。 O の④ を見よ。 ]mg 一年の氣候をいふ。十五日 〖二十四氣 を一氣とし、一月を二氣とし、一年を二十四氣 とする。漢代の制定に係る。今博はるものは漢 の劉飲の改めたものであるといふ。ニト四節。 ニャ四時。

〖二十五里〗知口上縛國の地名。〔安齋叢書績 〕・。 王武子・曹蛾•丁蘭•劉明逹・元覺・田慎・魯 E 二十歳前後。はたちばか 〖二十左右〗磁 り。︹日本外史、源氏正記`源氏︺其年歯二十左 右‘面目俊邁゜ ︻︱-+︱二史]碑ちグ汲古閣原本の十七史に‘奮 五代史・新五代史・東都事略・契丹國志・大金國

志・横雲山人明史稿の六史を加へて‘席氏の補 刊したもの。︹叢書書目彙編︺。 苔〗 陰暦十月二十三日の夜。此 g夜 〖二十――一

二記言い 〖二十四友寄店晉の劉理の兄弟及び石崇.

獣陽建等‘頁論に師事した二十四人の交友。郎 ち‘郭彰・石崇.陸機.陸雲・和郁・濡岳・雀基・欧

図表

四三〇

図版

430



1

[-i

経室記︺段玉裁謂、︷具以↓︱國語・大戴穐・史記・漢 書令になつてゐて‘士を試瞼することが二十四 書・資冶通鑑・説文解字・九章算術・周悴算経︱ 回に及んだことをいふ。考は考試。︹唐書‘郭子 為’二十一経 3 儀 偲 ︺ 校 中書令一考︱︱十有四↓︹全唐詩話︺李 5位(史記·前漢書・後漢書·―二國 史 (478)を見よ。︹開明書店刊`二十五史︺。 [二十一史〗 義山謂︱︱温庭跨一日‘近得こ聯句二 K、 遠 比 輝 志・晉書・{木書•南齊書·梁書・陳書・魏書・︷ 北︱ 齊-十五諦]磁た豆;園印度の散論派ゞ,の哲 竺三十六年宰輔`未レ得︱ー偶句 温日、何不レーデ 書・周書・隋書・南史・北史・唐書・五代史・宋史・ 學に於て`宇宙萬有の展開する順序を説明する 近 同 ︱ ︱ 郭 令 ⇒ 一 十 四 考 中 書 い を見よ。︹日 遼史・金史・元史。二十四史 (478) 根本原理。神我︵精神的本惰︶と自性︵物質的本 ]m 五 ● 古 今 の 孝 子 二 十 四 人 。 其 [ 二 十 四 孝 知鎌‘監本二十一史︺宋時止有二十七史一今則 惰︶との作用によって‘順次に自性・大・我慢・五 疋 の人と排列の順序については異同がある。 井束遼・金・元四史食三十一史﹁ 唯(色・贅·香・味·躙)·五大(空・風・火•の 水郭 ・居 地敬 )の '説。虞舜・漢文帝・曾参•閲損•仲由・ 五知根(服・耳•鼻·舌・身)・五作業根(ロ・手葦 ・水 足・ ・刻子・江革・陸績・唐夫人・呉猛主祥•郭 ︹参考書︺︻︱-+一史徴︼一帯清、徐市撰。︻ニ 小遺虞・大遺慮︶・心平等根・我知者を生ず。︹唯 十一史四譜︼五十四告清‘沈柄震撰。︻二十一史 巨・楊香・朱壽昌・庚酔婁・老莱子・禁順・黄香・姜 識進記‘一末︺廣玲三十五諦ー者、一自性‘︱一大、 弾詞輯荏}帯清、孫徳威環 詩•王褻・丁蘭・孟宗・黄庭堅。〔郭居敬`一十四 我慢‘四五唯‘五五大‘六五知退七五作業根` [二十一服〗但り[’唐代、群臣の用ひた二十三 一 孝︺.︹明‘苑乱編‘典籍便覧‘︱-︺。@云況に、大舜. 八心平等根、九我知者。 董永・丁蘭•閲損・刻子・孟宗・朱壽昌・田箕・郭 [-︱十五部]磁砂園密教で金剛界の五智を五 巨・老莱•呉猛•曾参・漢文帝・王褻•揚香・庚酔 部とし、又其の各,が五智を具するから二十五 婁•張孝·黄香・黄山谷・陸績・唐夫人・王祥•姜 部といふ。︹泌誡記︺建︱︱立二十五部一如何‘五部 詩 ・祭順。︹清家認本、二十四孝詩註︺.︹二十四章 二十五部 卸五智‘一智所なュ具五智函mゎ以成 l 孝行鋒抄︺。〇又.一説に‘虞舜・老莱子・郭巨・董 如レ是展韓有 一無量部↓ 永•閲損·曾参・孟宗・劉殷・王祥•姜詩·保順.陸

記・春秋左偉公羊偲・穀梁偶・論語・孝経・爾罪 孟子・國語・大戴證・史記・漢書・資治通鑑・説文 解字・九章算術・周牌算経をいふ。︹劉恭菟、廣

[二十一経〗知←仔易·書・詩・周證・儀證·譜

謳分。二千戸を一郷とす。︹國語‘齊語︺管子 於 t是制﹄國‘以総三十一郷一エ面之郷六.士郷 十五゜

[[>>

〖二十幾兒]460shill chi ech 月の下旬。 4だ 6ア 1伏生が壁中から得た尚書 [二 十 九 篇 〗 の篇散。今の今文尚書。尚書 (4-7493: 85) を 見よ。︹史記、儒林博︺秦時焚レ書、伏生壁繊之﹁

ech•

46 苔3 二十五筋の絲を張った琴。 〖二十五絃〗

出典と用例

(247··456) — (247··474)

2 4 0

を自在に活用するうえでたいへん重要な役割をはたします。 わくたい

こうき*

親字には、 正字、 略字、 俗字、 或体、 古 字 な ど の 多 様 な 字 体 や 国 字

せつもんかいじ*

iカ 、ー こ ﹃説文解字﹄ ﹃玉篇﹄﹃広韻﹄﹃集韻﹄﹃字彙﹄﹃正字通﹄

がふくまれています。 採 録 に あ た っ て 用 い た 主 な 資 料 は ﹃康熙字典﹄ ですが ヽ .

︹ 問 ︺

﹃大漢和﹄ における親字の字体の区別は‘ およそつぎのとおりです。

正字、略字、俗字、或体、古字、国字とはどういうものですか。

﹃中華大字典﹄などをも参考にして補正しています。

︹ 答 ︺

正字とは、 ﹃康熙字典﹄ で標準とされている字体の文字です。 ﹃大漢 和﹄で字義の解説がおかれている文字は‘だいたいこの正字と考えて よいでしょう。

( I I應︶・学 ( I I學︶・斉 ( ︶ I I齊

略字とは、正字の点画を省いて簡略にした文字です。 例応

俗字とは、正字に対して、正式でない通俗の文字という意味です。 俗字の大部分は字画の省略された略字です。 例証は恥の俗字稿は橋の俗字

或体とは、同音•同義で、成り立ちのうえで異なる形体をとる文字

熙帝の勅命により編集した字書。

*﹃康熙字典﹄清の張玉書らが康

康熙五十五年︵一七一六︶完成。

に分類し、画数順に配列。中国

四万七千余字を二百十四の部首

威あるものとして、わが国の漢

歴代の字書を集大成し、最も権

﹃字彙﹄﹃正字通﹄はともに﹃康

和辞典にも大きな影響を与えた。

熙字典﹄に先行する明代の字書。

*﹃説文解字﹄後漢の許慎の著。

九千三百五十三字を五百四+の

西暦一 O O │︱二 0年ころ完成。

部首に分類して掲げる。見出し

字は策文。中国最初の体系的な

り立ちを説く。

字書で、六書によって文字の成

紀、北宋の時代にできた韻書︵発

*﹃広韻﹄﹃集韻﹄ともに十一世

音引きの字書︶。二百六韻目に分

﹃集韻﹄はこれを増補して約五万

類し、﹃広韻﹄は二万六千余字、

る甚本資料で、﹃大漢和﹄の漢字

字を収録。隋•唐代の音韻を知

音もこれにもとづく。

2 4 1 第3部 『大漢和辞典』を引く

です。同字・別体字ともいいます。 例坂は阪と同字嶋は島と同字 古字とは、文字どおり古い字体という意味で、 ﹃説文解字﹄に古文と か箱文などと記された文字が含まれます。 例キは一の古字弄は棄の古字 国字とは、和製漢字。 日本で漢字にならって別に作られた字体です。

︱つの文字に或体・古字・俗字・略字など、 いくつ

例凩(こがらし).峠•畑・躾(しつけ).鰯(いわし) r 大漢和﹄では、

かの字体のある場合は、その文字の説明は、 正字のところでなされて

親字の左側にでている文字はなんですか。

います。 ︹ 問 ︺

﹃説文解字﹄に記載されている簗文とよばれる文字です。策文には、小

てんぶん*

︹ 答 ︺

*豪文秦の始皇帝のころ︵前三

世紀︶に行なわれていた字体で、 主としては当時の標準字体であ

る小豪をいう。 小豪⋮始皇帝の天下統一の政

策として、李斯が作ったといわ

れる。 古文⋮魯の恭王が孔子の旧宅

を壊したとき得たといわれる。 箱文⋮周の宣王の史官の箱が

作ったといわれる。 或体:・小撞に対して、その異

g

ei•

なり。もと重 (110,6518)に作る。︹康熙字 典︺雷‘貌文、本作 重 。④空中の陰陽の電 J 氣が相膚れて登する烈しい響。いかづち。

x眉 [ ば

国ライ︹集韻︺虞酎切鵬

ロルイ︹集韻︺書*切菌

ヵヽー

日ライ︹集麟︺慮回切困

字体をいう。

︻ 雷 ︼

, 白 : "

豪•古文・箱文・或体などの種類がありますが、その小豪は秦の始皇 帝が定めた標準の字体、古文・箱文はそれより古い時代のものですか ら、これによって親字の歴史がわかります。﹃大漢和﹄には策文が約一 万百字収録されています。

H -

︹翫文︺重、贄易簿動生 物 者也、A﹄雨‘贔 J 象︱︱回韓形↓︹段注︺薄‘昔博‘迫也 陽迫 動、即謂る重也`迫動、下文所謂回韓也`回ニ

2 4 2

︹ 答 ︺

︹ 問 ︺ 語彙の総数は約五十万です。

語彙の数はどのくらいありますか。

語彙には必ず﹁語彙番号﹂︵細い洋数字︶がついています。この﹁語 彙番号﹂は﹁文字番号﹂と違い、全巻通し番号ではなく‘ おのおのの 親字内で一番から始まっています。 たとえば、﹃大漢和﹄第三巻に収載されている﹁大﹂は﹁文字番号﹂ が5831ですが、﹁語彙番号﹂は﹁大哀﹂の 1から始まり、﹁大睛主レ

︹ 問 ︺

﹁語彙﹂はつぎのようなかなり幅のひろい分野から採録されました。

五十万もある語彙はどのような分野から採録されていますか。

美大雨主レ滞﹂の 2632で終わっています。

︹ 答 ︺

﹃大漢和﹄が漢字・漢語文化の一大百科といわれるゆえんもここにあ ります。 ①漢語の普通の熟語 ②故事成語 ③格言・佳言 ④詩文の成句

『大漢和辞典』を引く 第 3部

2 4 3

⑤人名 *

①中国人は本名で掲げてあります。 たとえば

﹁白楽天﹂を﹁白居

この場合は号で掲げました。

易﹂とし、 ﹁蘇東披﹂を﹁蘇拭﹂ とする類です。 ②日本人の漢字者名も含みますが たとえば、﹁頼襄﹂は﹁頼山陽﹂ です。 ③主な外国人名の漢訳も収録されています。たとえば、﹁アレキサ ンダー﹂うは﹁亜歴山大﹂、 ﹁アリストテレス﹂は﹁亜理斯多得﹂ とでています。 ⑥地名 ①中国の地名は、中国の古蹟名勝はもちろん、歴史や文化に関係 の深いものが選ばれています。 ②日本の地名は、主要地のほか、 とくに難訓と思われるものをあ げました。 たとえば‘ ﹁厚岸﹂の類です。 ③外国の主要な地名の漢訳もおさめてあります。たとえば、﹁ロン ドン﹂は﹁倫敦﹂、 ﹁アジスアベバ﹂は﹁亜的斯亜比巴﹂とあり ます。

えば、白楽天は名は居易で、楽

*中国では名︵本名︶のほかに、 字︵あざな︶、号を用いる。たと

天は字、香山居士・酔吟先生と

ける。また、死後にその人の遺

号した。字は成人したときにつ

徳をたたえて盆︵おくりな︶を つけることもある。

2 4 4

︹ 問 ︺

⑦書名、篇名(詩文•楽府・戯曲の題名もあげてあります) ①﹃四庫全書総目提要﹄所載のものなどはもちろん、近世の小説 の主なものまで収録してあります。叢書はその細目をも列記し てあります。 ②日本の書名は主として漢文で書かれたものにかぎって収録しま した。 ⑧官職名︵日本の官職名も含みます︶ ⑨年号︵中国・日本・東洋関係で漢字を用いたものはすべて網羅︶ ⑩動植物名 ⑪学術用語・欧米の翻訳語 ⑫仏教語 ⑬現代中国語 ⑭邦語︵和製漢語︶

親字の排列 第一巻から第十二巻までの親字はどんな順序で並べられているのです

は清の乾隆帝︵一七表ー一七芸在位︶

*﹃四庫全書総目提要﹄四庫全書

一大叢書。その解説目録をいう。

が全国から古今の文献を集めた

『大漢和辞典』を引く

2 4 5 第 3部

︹ 答 ︺

︹ 問 ︺

~゜



親字の排列は、主として﹃康熙字典﹄の例にしたがい、 つぎのように しました。 ①まず、すべての文字を二百十四部の部首順に分類しました。 ②つぎに各部首内の文字は画数順に排列しました。 部首が二百十四部もあるそうですが、部首とはひとことでいうとどん なものですか。 部首とは漢字をその字画構成上から部分けする場合の、目印になる字

二百十四部首の一覧を示してください。

︹ 答 ︺

形をいいます。ふつう漢字の部首は、﹁偏︵へん︶﹂﹁妾︵つくり︶﹂﹁冠︵か んむり︶﹂﹁脚︵あし︶﹂﹁垂︵たれ︶﹂﹁構︵かまえ︶﹂﹁饒︵にょう︶﹂の七種類に

︹ 問 ︺

﹃大漢和﹄に﹁部首索引﹂というカードがついています。二五︱ページ

大別されます。

︹ 答 ︺

をご覧ください。第一巻には部首の一画と二画、第二巻には二画と三 画というように部首の画数の少ない順から並べてあります。最後の第 十二巻には八画から十二画までの部首を収録しています。

*二四六ーニ四七ページ参照。

ん 版炉残歩松腹服明施江壮邦限狩打

1 漢字の部首は次の七種類に大別されるか、 このいずれにも含まれないものがいくつかあ る 。

つば

へね んへ ん

と き 肉 つ ひ か 水 卦 邑 阜 犬 手 め ヘ - き へ た . _ ,. _ ,. _ ,. _ ,. _ ,. _ , へん へんへ に ん ん さ し 固 侶 け て ん んょぉこもへ づ ずぅおざのん き いへざとへ んとへ ん ん

て、これと一致しない場合がある。

ひ 夕 ヘ._, ん がか

2 図示した部首の位置は便宜的なものであっ

漢字の左側の部分を

ドドオオ

'へ^へ~~~~~

部首の名称

へん

J 偏 I

一1 士乍 イ

, 玉 冷

こ呼吸

麗域 羞妹

;孤孫

かたへん

片火万止木月月日方? ~

占める

イ︵人︶にんべん

ヽ/にすいへん

っちへん

くちへん

おんなへん

こへん

峡峰

祠帳

︳己 ー蚕 一 JEJ

至イ ~往/

i

りっしんべん 性 快

やまへん

J



ぎょうにんべん

心 ^

巾山子女土口 はばへん

弓 ゆみへん

. ,q

牌煙殊歴植胸朋晴族海将郡陽猛投 牛︵牛︶うしへん

田たへん

王︵玉︶たまへん



めへん

ご つ 衣 む ふ み す ひ い こ た の 刀 い しねみきつとめつぎ~ し ベヘ ヘ へ へ へ じ へ へ へ へ へ んんこ ん ん ん ん へ ん ん ん ん し ん ろ め も す んの~

やへん

まめへん

豆言角ネ虫舟耳未羊糸米立禾ネ石矢目



豊記触被蚊航聴耕玲紙粒竣秋社砂知眼町珠牧 婉話解裕蛾船職耕群結精端移祝砕短眠略球特

~

~

いのこへん

つくり

漢字の右側の部分を

りっとう



占める



芳"

I J︵刀︶ -

歯 鳥 魚 骨 馬 倉 金 里 釆 酉 車 身 !貝 琢 歯とうはう食かさのひとくみ星:翌 ~ りおねま~ ね と ご よ り る ヘ へへへへ へへめみへまん あ ヘ は んんんんしんんへのんへ ヘ よ ん と ん し ん ん り ん ん

----------齢鳴鮮骸駆飲針野釈酌軌射距財豚 鮫鶏鯨髄駐飯鈴量釉酔輪躯跡販猪

力ちから~功助

︵巳︶ふしづくり

又こ及 また叔

d

i こっくり

i

印即

云戒戦

;料斜

脚-

かみかんむり

あめかんむり

あさかんむり

あし

漢字の下部につく

ニ書替

ひとあし~元兄

― `

老爪ぅサ

とた'---'あは'---''---'か・ らけ なつ ん叫中 か力、あかがおつ む んん なんしいめ,) かか かく むむ むら んん

らりI~、『さ

りりしり

磨髪雪虎笛罪空発老妥宇草

tロ くにがまえ

きがまえ

しきがまえ

ゆきがまえ

もんがまえ

魂麺越道建出教夏乳

によう

魅魅起迎延凶改変乱

饒駈





盛暴 門行代

漢字の左方から下部 をとりまく

おつにょう

すいにょう

'、

ご v こょう

L

きヽ/そ.._,え い か に う んんん ょ ば に し ににに ぅ < ょんょょょ に、 ‘‘ ぅ に `つつつ

したみず

さら

たれ

盆泰

病扇属店原

, ― `

*︵水︶



垂”

鴫• 一 -

疲戻尾床厚

漢字の上部から左方 へおおう

がんだれ

まだれ

しかばね

とだれ

やまいだれ

な え

漢字の外側を囲む

つつみがまえ

まきがまえ けいがまえ

はこがまえ

かくしかまえ

構I IU□

r戸 戸 rr

鬼 麦 走 i_ L U 欠 文 乙



+ 1 -

~~,





匿匡包再



面新

~次歌

ぷ仇親

五殺

輝雌

二眼類

JL

~

磨駿雲虐箱置窓登考爵宙葉

匹匠勺冊



とます

おのづくり あくび けんづくり

みる

るまた

ふるとり

おおがい

かんむり

漢字の上部に位置する。 ﹁かしら﹂ともいう

にんにょう

曰ひらぴ

小︵心︶したごころ丁志慕

~(火)れんが二烈熱

けいさんかんむり~亡交

なべぶた

二几冠

はちがしら又ム兼

わかんむり

麻影雨屯竹四穴双少 x , ,-4

C に勺日

, ,

すん射 寸こ対

頁佳見女欠斤斗文

さん 多こ形 影ずくり

八上

冠 ロ



n

▽部首の名称『漢文学習小事典』(大修館書店刊)より

開術気式囲 間街築拭国

2 4 8

︹ 問 ︺

親字の項では、

親字の項ではどんなことがわかりますか。

親字の解説

︹ 答 ︺

①字形 ②字音 ③字義 を説明しています。 ほかに心要に応じて ④解字 ⑤参考 ⑥名乗︵なのり︶

字形︵字体︶はどのようにして決められましたか。

などの項目を設けて、解説しています。 ︹ 問 ︺

まえにも説明したように主に﹃康熙字典﹄をもとにし、字源にさかの

字音はどのようにあらわされていますか。

をも検討して慎重に決定しました。

ぼり、字形の歴史的な変遷をさぐり、 さらに現代に通用している字形

︹ 答 ︺

︹ 問 ︺

『大漢和辞典』を引く 第 3部

2 4 9

︹答︺

︹問︺

︹答︺

一字に二音以上ある場合には日□

字音は、漢音・呉音•唐音・慣用音をあげ、カタカナで歴史的かなづ かいによって表記してあります。 国などの記号で区別しました。 並列してあげてある場合、右側が漢音、左側が呉音を示します。漢 音・呉音が同じもの、また、並記する心要のないものは単に一音だけ 記載しました。

これはなにをあらわ

慣用音は園、唐音は圏]の記号で表示しています。 字音の下に﹁︹集韻︺ー切﹂などとありますが していますか。 これは宋代に編集された韻分類の字書﹃集韻﹄﹃広韻﹄などにもとづ き、中国語の古い字音をあらわしたものです。﹁切﹂とは反切のことで す。反切とは、ある漢字の音をあらわすために、他の既知の二つの漢 字の音を組み合わせて一字の音を表示する方法です。すなわち、上の 字の声母︵頭子音︶と、下の字の韻母︵母音および尾音︶とを合わせて 一音を構成します。 たとえば、﹁三﹂ の 反 切 ︵ 蘇 甘 切 ︶ は 、 既 知 の 二 つ の 漢 字 、 蘇 廿

l

漢音…隋•唐の時代の都の長

*字音日本の漢字音は‘それが 中国から伝わってきた当時の現 地の発音を反映して、次のよう な種類がある。

唐音・・・宋・元•明•清の時代

安︵今の西安︶地方の音が、日 本の遣隋使・遣唐使・留学生ら によってもたらされたもの。 呉音⋮漢音伝来以前に伝えら れたもので、中国の南方︵呉の 地方︶の音にもとづく。

H

TUせ

hsoeh'

' Tlk hs, ●o

日 □ ? ー ︱ ︱ 一 □ 戸 ' ニ

にわたり、鎌倉時代の禅僧やそ の後の中国との交流によっても たらされた音にもとづく。 慣用音:・上記以外に、わが国 で古くから読みならわしてきた 音。

︻ 學 ︼ 血

カ,ウ 曰ヶ , ウ

rJ2

nE2

l

3

隠四童与

︱︱︱七f 4 3-

r2

一欠大

6 き︱用 器猜 7-0 6翌田 7豆 一 老 ヂ O疋 6 八O 7-︱盟而 九r 7 - ︱写四未 6 八0 6 八棗双 ︱ ︱ ︱ ︱ 耳 7 -︱ 八翌白一幸 8

76

9-

9 一会豆

I

1 2八 九 四 0六 七 八 九 量 歯 女 3六 ︱︱︱心→ 4 九一毛水‘1 6 八 語 皮 益8肉 月 9 ︱ ︱ 四 六 含 1 部首索引 1 2 九0 ︱水‘ 1 7 一 皿 一8 O 1 0 六甜面 12-gO鹿 ︱ ︱ 臣 子 3 真文 ︱︱会貝 四 5 9洋数字は巻数‘和数字 12空七 登 火 12 ~7-――発目 8 一塁自 ― 八 況 革 一 究 変 { 3 5 9 四 0 -―赤 10 八芸戸 は各巻毎の頁数を示す 2九 0~l 1 2 l一 l l 早 九 10八1 一手オ 5 夫爪ふ 7 契一――矛 ―― 八 ︱ ︱ ︱ 廠- 1 寸 9 四―――走 4 8 二究至 0 八芸非 -12︱︱七十二書︳ 力 2 - 0小 4 哭 支 5 四登父 7 立夫矢 8 -︱芙臼臼 9E-︱宍足 1 冗 ︱ ︱ 1 2 ︱ ︱ 五 黄 九 四 六 1 2 一勺 2 六 1 0 ー 5 7 哭 一 身 九 交 昔 四 ︱ ︱ ︱ ︱ 尤 、 4 し ︱ ︱ ︱ 文 欠 四 六 四 交 哭 ︳ ︱ 石 ︱ 究 舌 9 8ノ ー ' 1 2究 七 1 0 九老頁 1 2 1 2 四癸戸 1羹ヒ 1 0文 5 写六=卦 0黍 7 立公示ネ 8 四一四舛 9 翌︱︱車 4 -︱ ︱ ︱ ︱ ︱ 1 01 ︱風 12 六 0 2 四空中 ︱ ︱ 茜 黒 1 2 = 0 5怠片 4 一芙斗 7翡 内 9 四七八辛 8 写云舟 七1 ヽ ー︳言に g〕 誓亡 山 2-―0 ――――― 2八 5 六ズ牙 10九 -0 7 空写禾 一――1飛 ―薔 六 ~12-o〔 )14-^―斤 8 翌一艮 9 五呂辰 乙し 1 -︳謳十 2 四七九巡川 4 - k方 5 六語牛 7 0穴 8 六晃色 9 0足 ︱︱竺+=一畳 ‘ ` を 1 1 -食貪 12︱ ︱ 写 六 立云邑 B11 言 首 酋 1 2 四天眼 1 21 四元卜 2癸工 ︱︱翌元光 5 竺一犬 1 7一 六窄立 j1 8 六癸帥サ 9一 0 4︱ ︱ ︱ 四 六云己 12 5 四 翌 鼎 I O l t l : 1 , 1 J ― ― 翌 香 酉 ~ 1 2 -四 0九 二童 4 ︱ ︱ 八 一 日 七 一 四 五 婁 六 萱 屯 9 六翌巾 4 1 2 四 二 l四 一 六 5 芸一玄 7 七益竹 虫 1 0 ︱釆 1 1 四四 ︱︱甜曰 O 十 畳 鼓 8 o ︱ 七 上 2 六交干 2 四哭鼠 1 21 0 1塁ム 5 一 言 玉 王 7喜 米 八 八 ︳ ︱ 血 ︱ ︱ ︱ 馬 1 1 0 一元里 1 1四 4翌月 8︱ 六 人イ 1羹 又 2 交︱︱名 2 立六九十四董 四 6 一瓜 4塁木 7 九会糸 ︱︱行 10-︱ ︱ ︱ 立 八 童 骨 1 8空 几 1九 究 1 21 0 1 2 哭八鼻 ︱︱童 L,4 立翌欠 6 六一四瓦 0 O金 7 九命缶 ︱衣ネ 1 1 1 四翌高 9 四 七 七 一 入 11 ︱ ︱ 七 口 2七 一 七L 4 六翌止 1 2 六癸齊 1 2 -= 0一七阿皿 9 九両面 10 6 六薩甘 71 1 六空影 七 九 0 1 ︱芸長長 1 0 1 八 2 一口 3 一升 4 癸︱︱ニタタ 6 菩一生 7 1 ︱七羊羊 9 究 七 肇 門 1 2 六写八十五董 1 1 六矢門 日 2 -︱0土 3 10八 2 t 4 窄︱︱父 109 芸見 1七 公 一 幽 9 1 2 六盃歯 1 ︱︱云阜い 1 ︱ ︱ ︱ 士 3 -︱共弓 [2- ︱ 2 六六九十六董 4 六苫母 10︱ ︳ 立 ︱ 東 1 9 1九 七 九 一 回 1 一 翌 角 i 2 -︱︱酉欠 3 -︱ 1 0︱ユ註 4 七夫比 1 2 六芙龍 1 2三 9 一奈言 10- 0佳 1 1 九八一鬼 ︱ ︱ ︱ ︱ 几 2 一六四交 3 ︱多 ︱ 七一谷 1 1 0 1 4盗毛 0八 + ︳ 童 編 1 2 -︱立一 9 一 六 天 雨 圭 1 2 U 2 一七一夕 八天氏 1 2 七0 1 2 矢魚 1 0 六老青 八十七童 ――――1 二0六 琢語非 12七完倉~12-―尭 ――――1 ―2 鳥



ID~

10~~



カガ クイ

カガ イ

カオオ ンク

オオ ウ

工工工エイイ キ ンツイ ン



クグ ワワ クイ

クグ ワワ イ

クヲヲヲワアアヲ ワンクウウフウ

ヱヱヱヱヰヰ



ンツイ



ンキ

l 日 ぞ そ れ

排 列 さ

I

典 辞 本



れれの

郭外塊回瓦禍禾化温屋翁王凹央汗援垣曰衛恵員域尉位 音 ア てい語 熟 蜜 會快臥過科花穏 甕往押奥烏圃怨戊 慧韻 偉委 f ! 1 1 行 ゜ る は 獲 潰怪驚華果火怨 皇鴨櫻悪園苑越 會院 為威字 攘懐悔寡課文 横 鶯 遠 媛 専 綸 蒟 維 胃 イ の た 字 " ‘ だ し コ ギ キギ キガ カ カ 予• 、 ウ ヨ ヨユ ユン ンツ ォヮ ウ ウウ ウ

仮 名 遣

i

クカ ワフ ウ



カゲゲギケケ ウフウャフウ ウ

キギキ ヤウフ ウ

キグ ウワ ン

クク ワワ ンツ

光甲耕更考交業莞仰怯叫経享兄牛及求休九丸緩慣冠完活 晃治降岡孝向鄭瞭行協数郷京況 給救朽究元還款桓官間 宏閤高幸行好 形峡橋境強匡 泣糾臼久頑観換息館滑 紘孟港香抗江 頬徴驚彊狂 急嗅奮丘願隕寛貫巻諮 ジ ヨ

シジ ヨヨ

デ ウ

ヂゼ ャウ



ジ ユ





ジセ ャフ



シ フ



の次音 行い



に置のヰに ょ か・り れヱ五



て• : い ヲ 十 ゜ る は `に

シジジジジ ュックキ



シヂヂヂヂゴガ 7 7 ウックキ

ガ ウ





シヂヂジジ ャョュフウ ウ ウ







新 い 旧

條娘丈邊常上妾笑小将尚上女住十柔輯拾袖周牧暁世直地劫合奄拷皇 応 鰯嬢杖饒情成渉焦少章昌正除重汁獣襲執就秋州 治業盆豪剛荒 拾 習醜修舟 軸 琥強黄 醸定擾浮城捷燒召傷相生 持 集繍臭秀 譲状撮慧肖詳商床 轟傲廣 澁 場 ヒビ ヨユ

ゥゥ

ノニニド ウヨユウ

卜 ウ

ゥゥ

ヘヒピナナネニダタ ウヤウ 7 ウウ 7 ウ 7 ウ

チ ユ

チ ヤ ウ

チザザサ ウ 7 ウ 7



タテ ウ 7

テ ウ

ゾ ウ

チ ヨ



ソズジジ ウ ンヨ ク サヅヂヂデ ンヨフ ウ ク

表平謬納惜尿入堂答陶桃刀帖鳥弔張丁萱丑雑造匝葬曹相爪豆陣濁帖 道塔嘗逃到蝶朝兆腸町桐肘 豹評 納脹饒 象指雙窓倉早頭塵 昼 騒操巣草途 導踏栢討唐諜超彫聴頂躊宙 蔵 示 習~丘 蹟 嚢 長 抽 蘭椙黛悼島輔肇釣 捜掃争圏 諷 ロ ウ ララレレ 7 ウ 7 ウ

リ ヨ ウ

リ ユ ウ

リリリ ャフウ ウ

ヤエ ウフ

ヨ ウ

ユモ

エイ ウ 7

イマメミパ ウウウャフ ウ

ウウ

ミ ヨ ウ

ポ ウ

ホ ウ

ノゞホハ ウ 77

ハベビ ウウャ ウ

ビ ヨ ウ

脹老撒了涼良立柳様羊葉要夭邑遊由又亡妙名乏棒望亡法法報包秒平 蟻朗 料量雨笠流養洋熾揺妖把猶幽友毛藍命 貌厖忘 棚方苗病 窯幼揖誘悠右猛 褒放紗 明 暴冒坊 臓努 僚領亮粒留 揚 陽 憂郵有網 賓邦廟 潔 蓼璽梁 曜杏 膨傍房 (新旧仮名遣いの一致するものは省略)

2 5 2

︹ 問 ︺

︹ 答 ︺

蘇 (su) の声母

と甘 ( k a n ) の韻 anから sanを導きだします。 日本

S

の漢字音も、同じ原理によって反切から導きだすことができるわけで す 。 反切の下の四角でかこまれた文字と四隅の小さな丸はなにをあらわし ているのですか。 これは韻の表示です。 つまり韻母の種類をあらわしたものです。四角 でかこまれた文字は韻目をあらわし、四隅の小さな丸は四声を示して います。韻目と四声は詩の韻律を構成するうえでたいへん重要な役割 をはたしています。 韻目とは、韻の名称のことです。漢字の一音節を声母と韻母とに分 けて、 その韻母を百六種に分類し、同じ韻母をもつ文字のなかから代

U 平声︵ひ

表となる一字を選んでおのおのの韻の名称にあてたものです。 しせい*

四声︵声調ともいう︶とは、漢語特有の音調のことをいい、 f

ょうせい︶ヽt J上声︵じょうせい︶‘﹁]去声︵きょせい︶、口 入声︵にっせい・ にっしょう︶の四種類があります。 この四声は、声母・韻母とともにこ とばを区別する不可欠の要素です。以上のことをまとめると、漢語で

声は失われている。隋•唐の時

*四声日本の漢字音ではこの四

が、一般的にはその名称からお

代の四声については諸説がある

平声⋮平らな調子

して次のようにいわれる。

上声⋮しり上がりの調子。

g

日ガク

,Kで終

-t,

カク︹集韻︺轄覺切

わる短くつまった音。

入声:・語尾が -p,

去声⋮しり下がりの調子

︻ 學 ︼

r 大漢和辞典』を引く 第 3部

2 5 3

は声母・韻母•四声という―つの音のまとまりが一語二意味)

をな

親字の現代中国語音はわかりますか。

し、それが漢字一字と対応しています。 ︹ 問 ︺

よく使われる親字には注音符号およびウェード式ローマ字によって現

**

︹ 答 ︺

ピンイン

代中国語の発音を示しました。 いまの中国では排音字母という中国式 ローマ字が使われています。修訂版第一巻の﹁凡例﹂のあと︵八 - 1 0 ページ︶に、注音符号、ウェード式および排音字母の対照表がついてい

︹ 問 ︺

親字の意味の解説では、本義から転義へ、歴史的に古い意味から新し

字義の解説ではどんなことがわかるのでしょうか。

ます。

︹ 答 ︺

い意味へと説明するものと、現在主に使われている意味から、あまり 使われていない意味の順に説明するものの二通りがあります。 前者は本格的な大辞典で、後者は普及用の小辞典で用いられます。

1

本義は﹁︵子を︶生む﹂が最初に、現在主に使われ

﹃大漢和﹄ では原則として前者の方法を採用しました。 たとえば、﹁字﹂

ている﹁文字﹂ の意味は六番目にあげられています。古い歴史をもつ

*注音符号漢字の発音符号。︱︱︱

のすべての音節を表わす。民国

十七の字母の組合わせで北京語

七年(-九一八年︶に教育部が

公布。

主に行なわれている中国語の発

*ウェード式ローマ字英語圃で

ヴ︹ 集 韻 ︺ 居 炊 切 甜 ' gヵ ヶゥ

-^会︶の創案。 ェード︵一八一八I

音表記。イギリス人、トマス・ウ

︻學︼碑

*ニ︱︱︱八ページ参照

2 5 4

漢字の解釈には最も適した方法といえましょう。 それらの字義について、●●●の分類番号の下に、まず字訓︵訓読 みないしは意味︶を太字で示し、必要によってはさらに細字を用いてく わしく説明しました。 字音によって意義の異なるときは、字音の日□国の番号に対応し

︹ 問 ︺

圏は仏教語です。仏教語は‘梵語の原語と詳細な解釈を記し、 さらに

圃と固はなんの記号ですか。

て、字義も口□国に分けて解説をしてあります。

︹ 答 ︺

仏典の語彙や成句も豊富に採録しました。仏教語辞典としての役割も 兼ねるようにしてあります。願はわが国だけで行なわれる訓義を説

︹ 問 ︺

日本人の人名に用いられる特殊な訓読みのことです。﹃大漢和﹄には

﹁名乗﹂とはなんですか。

明してあります。

︹ 答 ︺

﹁名乗﹂の項が設けてあります。 たとえば、﹁一﹂の項の名乗は﹁クニ、 モト‘ カツ、 ヒヂ、カタ、カ ズ﹂とあげられています。

『大漢和辞典』を引く 第 3部

2 5 5

︹ 問 ︺

文字のなりたちをくわしく説明しています。象形・指事・会意の三種

﹁解字﹂ の項にはどのようなことが書かれていますか。

名前を読むとき、名前をつけるときなどは役立ちます。

︹ 答 ︺

かたど

個々の形のあるものを簡略に絵

*象形﹁形を象る﹂という意味で、

例日•月・山•川

面的に表した文字。

さらに各種の字義の生じる過程をも明らかにしました。

記号を加えたりして﹁その事柄

点や線などの記号によって、ま た、すでにある象形文字の上に

*指事象形文字のように絵面的 に表すことのできない事柄を、

﹁参考﹂ の項にはどのようなことが記載されていますか。

例上・下•本・末

の文字については、 その文字の構成と原義︵字源︶とを説明しました。

︹ 問 ︺

参考欄では‘字形、字音、字義について異説がある場合、また、字形

語彙はどんな順序で並べられているのですか。

例林•森・信•武

って新しい意味を表した文字。

二つ以上組み合わせることによ

*会意すでにできている文字を、

を指し示す﹂文字。

︹ 答 ︺

の類似したものがある場合にはその異同について補足説明してありま す 。

︹ 問 ︺

語彙の排列は、次のようになっています。

語彙の排列

︹ 答 ︺

①二字のもの、三字のもの、 四字のものというように、字数の多少 によって、まず分類しました。 ②同じ字数のもののなかにおいては、歴史的かなづかいで五十音順

2 5 6

︹ 問 ︺

︹ 答 ︺

に排列しました。ただし、ヰ、 ヱ、ヲは便宜上イ‘ エ、オのつぎ におきました。 ③-︱一字以上の語彙で、最初の二字、三字がそれ自体で語をなすもの は、それぞれ二字、三字の語の直後にのせてあります。 たとえば、﹁一意﹂のあとに﹁一意奉レ上﹂をおくの類です。 ④返り読みの熟語は、他の熟語の最後におきました。 たとえば、﹁傲レ世忘レ榮﹂を﹁世﹂の字の四字熟語の最後におく 類です。 ⑤同じ返り読み熟語どうしの先後はこれを直読した際の音の順とし ました。 たとえば、﹁震レ主之威﹂を﹁背レ主投し螢﹂の前においた類です。 語彙は歴史的かなづかいで五十音順に排列されているということです が、実際引く場合になにか注意すべきことがありますか。 たとえば、﹁勘校﹂という意味を調べるときは、﹁カンコウ﹂ではなく‘ ﹁カンカウ﹂で探さなければなりません。 つまり、﹁校﹂の歴史的かな づかいは﹁カウ﹂だからです。

参考までに代表的な文字の一覧表をあげておきます。二五︱ページ をご覧ください。 個々の文字の歴史的かなづかいは字音・字訓ともに第十一二巻のそれ ぞれの﹁索引﹂にあたればわかるようになっています。

︹ 問 ︺

語彙の項では‘ その文字に即した直接的な意味・解釈を最初にあげ、

語彙の項ではどんなことがわかりますか。

語彙の解説

︹ 答 ︺

こ 。 f

代中国語と日本で作られた和製漢語については引用例文を省略しまし

語彙には、出典、あるいは引用例文をできるだけ豊富にのせてあり

つぎのとおりです。

ます。これは﹃大漢和﹄ の最もすぐれた特色の︱つです。 ただし、

解説の記載順は原則として ①漢語



次にそこから派生した意味︵転義︶を示しました。また、同義語、類語 『大漢和辞典』を引く

があればこれをあげ、解釈を補うようにしました。

3部 第

2 5 7

2 5 8

②現代中国語 ③仏教語 ④邦語

親字や語彙の相互参照のしかたを教えてください。

縣祭二社穫一祀︱ー風伯雨師雷神[﹃-ー小祀

*二三八ページ参照

A図版の例

i

︻雲梯︼螂セ●雲に達する程のたかいはしご。 古の攻城具。︹六餡`虎餡、軍略︺有︱︱雲梯飛棲↓ ︹墨子、公輪︺公輸般為ら楚造︱︱雲梯之械 成、将二

l

︻雷神︼だ牙かみなり。雷公。︹山海経、海内東

亨◎

なお、 語彙の説明をたすけるために、図表や挿図をのせてあります。

︹ 問 ︺

参照を要する語彙があれば、その巻数と文字・語彙番号を明示して

二千八百枚の図版は中国の文献を厳密に模写したものです。

︹ 答 ︺

(6-14459・ ・1124)

(圏経海山)紳雷

梯雲

(志鯖武)

ただちに参照できるようにしました。 たとえば、第三巻八一六ページの一段一行目の

六巻にある 14459番の親字の 1 1 2 4番の語彙を示します。 これを活用すれば、親字五万字‘ 語彙五十万語という厖大な数のな

語彙の読みかたはどのように表記されていますか。

かから、関連する項目を簡単に見つけることができます。 ︹ 問 ︺

カタカナであらわしています。 ただし、現代中国語だけはウェード式

同じ意味で二通りの読みかたがあるものは‘並記してあります。ま

ローマ字によってあらわしてあります。

︹ 答 ︺



2 5 9 第 3部 『大漢和辞典』を引く

︹ 問 ︺

︹ 答 ︺

た、読みかたの異なるにしたがって意味も異なる場合は‘各項のはじ めに別々の読みがなをつけてあります。

出典と用例 ﹃大漢和﹄ の特色の︱つは、出典と用例が豊富に引用されているという ことですが、 その記載にあたってどんな配慮がなされていますか。 出典・用例の記載の原則はつぎのとおりです。 ①出典用例は、和漢の原典によって正確に引用しました。 ②書物には書名のほか編名、巻数など、詩文の作品にはその作者名 と題名を記しました。 ③原典を引用する順序は‘字書・経書を先とし、他は書物もしくは 作者の時代順としました。 ④引用文にはすべて句読点・返り点をほどこしました。文中に省略 する部分があれば、﹁云云﹂として前後を連結しました。 ⑤引用文に適当な注のあるものは‘ なるべくこれを付載し、解釈の 根拠を明らかにしました。

2 6 0 ︹ 問 ︺

検索法

﹃大漢和﹄をじょうずに活用するための主な検索方法を教えてくださ ヽo



①まえに説明した﹁文字番号﹂と﹁語彙番号﹂とが検索上の︱つの基

﹃大漢和﹄にはどんな種類の索引がついていますか。

︹ 答 ︺

本です。 ②各ページの上の欄外の数字は‘ そのページ収載の文字・語彙の最初 と最後の番号を示しています。 ③解説の文中にあげた数字は、参照すべき文字・語彙の巻数と番号を 示しています。 ④柱︵ハシラ︶にはそのページに収載する文字とその文字の属する部首 と画数を明示しました。 ⑤柱の下の縦書きの数字は各巻別のページ数を示しています。

︹ 問 ︺

つぎの六種類の索引が用意されています。じょうずに使いわけをすれ

⑥下の欄外の洋数字は第一巻から第十二巻までの通しのページ数です。

︹ 答 ︺

ば、検字のスピードもいちだんとますでしょう。

『大漢和辞典』を引く 第 3部

2 6 1

第十三巻の﹁索引﹂から説明いたします。 ①総画索引 すべての親字を総画順に排列し、同じ画数の文字は部首順に、 さ らに同一部首に属する文字は親字番号順に並べてあります。 画数は一画からはじまり六十四画で終わっています。 ②字音索引 すべての親字を字音によって五十音順に排列し、同一字音の文字 は部首順に、 さらに同一部首に属する文字は親字番号順に並べてあ ります。 同一文字で二つ以上の字音をもつものは、原則として、 いずれの 字音によっても検索できるようにしてあります。 字音索引は現代かなづかいを用いて表記し、歴史的かなづかいに よる表記がこれと異なるものはその文字の下にルビで示しました。 ③字訓索引 すべての親字を字訓によって五十音順に排列し、同一字訓の文字 は総画順に、 さらに同一画数に属する文字は親字番号順に並べてあ

2 6 2

ります。 同一文字で二つ以上の字訓をもつものは煩瑣にならないかぎりな るべく多くあげました。 字訓は現代かなづかいを用いて表記し、歴史的かなづかいによる

しかくごうま

表記がこれと異なるものはその文字の右にルビで示しました。 ④四角号砥索引 漢字の四隅の筆形・筆画をみて、それぞれあらかじめ約束されて いるOから9までの番号におきかえ、漢字一字を四けたの数字にか えて排列していく方法です。



「u ・・—,’

つぎのような索引も付されています。

くわしくはつぎの﹁四角号砥索引﹂問答をお読みください。 a

キt、こ、

⑤部首索引 付録として﹁部首索引﹂のカードがついています。これは、各巻 がどのような部首で構成されているか、 ひとめでわかりたいへん便 利です。 ⑥各巻の巻首の二つの索引︵総文字︶

『大漢和辞典』を引く

2 6 3 第 3部

①部首順による検字 各部首内の画数順に並べられています。部首・画数で文字を探 すとき、同じ画数の文字が多いので、まずこの検字によって正確 なページ数をあたり、 それから本文を開くのがかえって早道です。 ②総画順による検字 各巻内の親字を総画順に並べています。

『大漢和辞典』を引く 第 3部

2 6 5

ひとことでいっ

はやく引けること。この"はやく“というのは、覚えるのもはやいし、

て 、 この索引の特色はなんですか。

﹃大漢和辞典﹄ に は 四 角 号 硝 索 引 が つ い て い ま す が

しかくごうま

﹁四角号砥索引﹂ 問答 ︹ 問 ︺

︹ 答 ︺

引くのもはやい。簡単にその方法を説明しましょう。図 1をご覧くだ さい。

これに O から 9までの番号を与えます。

漢字の四すみ︵左上・右上・左下・右下︶にあらわれる筆形をこの表 のように十種の類型に分けて

それをおのおの漢字にあてはめると、漢字一字が四けたの数字におき かえられます。 たとえば、図 2 の﹁端﹂は左上角の土︵頭 O)、右上角のー︵垂 2)、左 下角の/︵横1)、右下角ー︵垂 2) の順に四すみの筆形をとり、 これに よって o 2 1 2の番号が得られます。これが基本のルールです。この

2 6 6

﹁四角﹂は四すみ、 では﹁号砥﹂はどんな意味ですか。

番号に従って索引に漢字を排列しておくわけです。 ︹ 問 ︺

中国語で”番号"です。この索引は王雲五という言語学者が一九二五

I i

でしょう。漢字のことを﹁方

しかし、漢字は四角形ばかりと限らない。 たとえば﹁丁﹂は逆三角形

塊字︵四角な文字︶﹂ともいいます。

は、正確には”かど、 つまりコーナー

では Four‘ I n d e x ) というらしい。﹁四角﹂の角 Cornerednumbers (

年ごろ考案したもので、 いまでは国際的に広く通用しています。英語

︹ 答 ︺

︹ 問 ︺

のような気がしますが⋮。 この﹁丁﹂の上部の筆形はいうまでもなく一︵横 1)です。しかもこの

﹁丁﹂の左下・右下には角がないわけですか。

︹ 答 ︺

一は、左上と右上の両方の角にまたがっている。こういう場合、まず 左上角として 1を与え、右上角は欠番として O にします。 1 0にして 1 1

︹ 問 ︺

該当する筆形が漢字の上部または下部の中央に一っしかない場合も‘

とはしません。 いちど番号化した筆形は、もう用ずみというわけです。

︹ 答 ︺

やはり左の角として番号を与え、右の角は欠番にします。 だから﹁丁﹂

▽図 l 筆形と番号一覧表

番号

筆名









言王

..L-

(『ペプ--;)

1

2

3



( ヨ

コ )

垂 ( タ

テ )

‘占 ’ ‘

叉 (交十錯)

5 6 7

挿 (ヌキ〔貫〕) ツラヌキ

方 (シカク)



( i

し ゃ )



8

Iノ

("

,小

チ )

(ショウ)

. x . .

十 才





r ム



刈 打

独立の点と独立の横線とが結合 したもの。点と一と合したもの, いわゆるナベブタ形。



ネ r→ 之 衣 杏 皮 大 圭 寸 邦 丸

え 申 史

鳴 目 甲 由 四 1 r 」 羽門灰陰 L ( → 雪衣印冗 ‘ ノ ヽノ 分 頁 羊 余 人 火全足午 小 、ヽヽ ヽI> 尖 糸 舜 * / l ' -t ・ 忙





1r

地 5 エ元 風





▽図 2



横線。左下からのハネ(地;, i の左下すみ)や,カギハネ(元, 風の右下すみ)を含む。 垂直のタテ線 ( I Jl 。 右上からのハネ(ノ)を含む。

点と捺(ヒ・ノノゞリ)。

Lの末筆もこれに入れる。

二線か交錯するもの。

一線が他の二線以上を貫いてい る場合。中・羊・書などの中央 タテ線もこれに入れる。 四すみがそろっている四角形。 (皿・且などはこれに含まれない) 四すみのいすれにあるを問わす 縦横の二線か接して作るカド・ カギ。

八の字とその変形。

小の字とその変形。

▽図 3

①左上角 Q••••

③左下角



j 山月千則 ヽ

ン )

( テ

4

し ‘ ヽ





1 ・ ・ ・ ・ ・

喘 =0212

. . . .② 右上角 2

喘 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 付 号 =7

. . . . ••••④右下角 2

=02127

268

は1o2Oです。番号としての O にはナベブタ︵頭︶の Oと欠番の Oと

︹ 問 ︺

そうです。そういう同一番号の重なりがでてきます。そのため、実際

それでいくと、二も 1O10、三も 1O1O、王も正も亜も⋮

があるわけです。

︹ 答 ︺

の索引の上では﹁付号﹂という下位分類をもう一けた与えます。図 3

この場合だと﹁

角7)をもう︱つ加えて、 0212の

の﹁端﹂ の例にあるように、最後の右下角の上のいちばん近いところ にある筆形

7とするわけです。同じ方法で、二の付号は O ︵欠番︶、三の付号は一

︹ 問 ︺

たしかに、部首を知っていてその上にとなると、なんでよけいなもの

なんだか複雑のように思えるのですが、 これですぐに覚えられますか。

︵ 横 l) になります。

︹ 答 ︺

をという拒否反応をおこす人もいるでしょう。その点、西洋人のほう

一から十までの漢字の部首をいえと

が既成の観念なしに便利なものはすぐに使おうという気になるのかも しれません。しかし、たとえば

いったら、 正答率何パーセントになるでしょう。三は一部か二部か、 六はナベブタか八部か、 九はノ部か乙部か、漢和辞典を何年使っても

『大漢和辞典』を引く

3部 第

2 6 9

︹ 問 ︺

いまだに迷います。 へんつくり

一般には、木偏とか三水偏とか

そういうような、偏と傍とが明確でない文字は困りますから、総画や 音訓の索引のはうがはやい。 しかし

いう非常に明確なパターンが字形のなかに含まれているでしょう。

ろんそういえば、相はなぜ目部にないのか。和はなぜ禾部にないのか、 勝はなぜ月部にないのかという反論がでるかもしれませんが。 部首分類というのは、字形だけでなく‘字義による分類もかねそなえ ているということでしょう。ある文字が何の部首に所属しているかを

中国の辞典ではどうですか。

知ることは、 その文字のなりたちを理解する助けになります。 ︹ 問 ︺

四角号砥索引をつけたものがふえています。本文の排列は発音順か部

るかによって並べていくわけです。

その順番を決めておき、ある文字の第一筆め︵起筆︶がそのどれにあた

どうしの排列で、四角号砥と同じように、ヽ一ーノ﹁のような筆形と

味深いのは、発音順や画数順の場合でも、同音の文字や同画数の文字

首・画数順ですが、四角号砥の番号順というのも一種類あります。興

︹ 答 ︺

︹ 答 ︺



2 7 0

︹ 問 ︺

︹ 答 ︺

日本でも印刷用の文字の排列にはむかしから独特のエ夫があるように、 作業の能率や速度を考えたら、部首と画数だけにはたよれません。 と ころで、 四角号碍を覚えるコツのようなものはありますか。 ものはためしで、 まずやってみること。 ひとりで覚えるのはおっくう

一時間もやれば、相当はやく番号が出るようにな

でしょうから、 はじめはグループを作って、筆形表を片手に、番号の あてっこをします。

かんむり

るはずです。その場合、単純な字形はかえって引きにくい。四角ばっ た文字から入って、基本のルールを覚える。そのうちに草冠の字なら

44xx、 木 偏 の 字 な ら 4x9Xというような、従来の部首と番号と の対応関係も記憶されてきますから、 いっそう速度がつくでしょう。

『大漢和辞典』を引く

漢和辞典の歩み

開化期の漢和辞典 へんさん

現在私たちが使っているような近代的な編纂意図による漢和辞典が出現し

たのは、ようやく大正時代になってからで、例えば上田万年・岡田正之•飯 たけい

︵同十二年︶などは今日なお版を重ねている。

こやおう

いつしよ

ぎよくへん

よく利用された。中国ではすでに逸書となっているが、 わ が 国 で は 石 山 寺 や

顧野王の編纂になるもので、全三十巻が奈良朝の初期に輸入され、 たいへん

四三年︶を参照しているが、後世の増補があるとされている。﹃玉篇﹄は梁の

りよう

の二体で示し、さらに韻と訓を記したものである。訓については﹃玉篇﹄︵五

義﹄全三十巻︵八三 0年︶にたどりつく。 これはいろいろな事物を策字と隷字

しかし、漢和辞典の起源をどこまでもたどると、 弘 法 大 師 の ﹃ 策 隷 万 象 名

てんれいばんしようめい

島忠夫・栄田猛猪•飯田伝一共編『大字典』(大正六年)や簡野道明編『字源』

2 7 1 第 3部

蔵 ﹀

4 国宝﹃玉篇﹄︿早稲田大学図書館

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2 7 2

わごくへん

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﹃ H本古典全集﹄による︶

A 易林本﹃節用集﹄︵現代思潮社刊

むふん忠さ底.む 1 様

射卑尺:心汎烈ぷ知担応

如檎が中如配

娠島 石 清 水 妙



早稲田大学図書館などに唐代のものが保存されている。

室町時代の中ごろには﹃倭玉篇﹄があらわれた。語彙の発音をカタカナで 書いて、漢文による注釈を加えたものである。編者は不明だが、慶長の古活

かが︵しゅう

字版でも印刷され、のちには簡略版も行なわれて普及した。おなじころ、や はり編者不明の﹃下学集﹄が出現した。これは語彙を分類してある点が目新

普 及 と い う 点 で は 室 町 時 代 の 印 刷 に な る ﹃ 節 用 集 ﹄ におよぶもの

しく‘ 江戸全期を通じて版を重ねた。 しかし

はないだろう。 日 常 用 い ら れ る 語 彙 の 訓 を か な で 示 し た 実 用 本 位 の 辞 書 で あ

一般家庭にまでも用いられた。

るが、多種多様な版本があり、 い わ ば 百 科 辞 典 の 代 用 と し て 、 江 戸 期 に は 寺 子屋や商家、

漢和辞典としては以上の三系統のものが、 明治に入っても‘ な お 出 版 さ れ ヽt こ。 H本 人 は 語 源 を 調 べ る よ り も 、 日 常 の 用 に 際 し 、 意 味 や 訓 を 調 べ る てv

康熙

こうき

ために辞書を引く傾向が強い。そのために﹃節用集﹄ が 普 及 し た も の と 思 わ れる。 ちなみに、中国の辞書がわが国でどのように用いられたかといえば てい

帝勅撰の ﹃侃文韻府﹄四百四十四巻のような大部の書は‘ な か な か 日 本 の 詩

•L•9

,"

『大漢和辞典』を引く

2 7 3 第 3部

こかんしれん

人には求めがたいとあって、 南北朝時代の名僧虎関師錬の ﹃集分韻略﹄ のほ うが普及した。﹃康熙字典﹄四十二巻のほうは刊行後間もなく徳川吉宗によっ て輸入されているが、広く民間に用いられるようになるのは八十年も後の寛 政ごろである。翻刻も行なわれたが、 むしろ明治に入ってからのほうが盛ん であった。 明治初期の辞書翻刻は和紙に木版刷りという前時代の形態をとどめていた が、やがて整版によって縮小するなどの工夫を重ねながら、辞書としての使

和二七五丁

いやすさを追究するようになった。 この時代の辞書を系統的に見ると、 たと えばつぎのような種類と版本がある。

小西長一郎補

の﹃いろは引数引節用集﹄の版木を買って再版した︶

﹃ い ろ は 引 数 引 節 用 集 ﹄ 大 阪 広 文 堂 三 版 和 七 四T ︵明治十一年

﹃社ぃろは節用﹄宮本興晃編和一五一丁水野慶次郎

霜ぃろは字引﹄市岡正一編和一七二丁東京辻岡文助

大阪豊田宇左衛門、和田治郎兵衛

﹃いろは引数引節用集﹄高田改度編

いろは字引節用集 明治十一年 明治十二年



明治十三年

2 7 4

明治十五年

社ぃろは節用集﹄

和三一〇丁京都中村浅

二︱丁崇文堂

一 六 0頁 大 阪 前 川 善 兵 衛 、 中 尾

棚橋広編和二冊

大館熙編

﹃請いろは新節用﹄ 甲斐山久三郎編

新助

大塚子成編

明治二十一年 明治二十二年 ﹃以呂波引明治節用集﹄

﹃いろは数引節用集﹄ 吉

和二六七丁大阪自家版

明治四十四年

開化題名の節用集

﹁開化﹂を冠した節用集と、その系列に属する辞書は多い。漢語に新語を

山口

遠藤平左衛

﹃ 開 化 掌 中 節 用 ﹄ 牧 野 豊 太 郎 編 和 ︱ 二 O丁 水 野 慶 次 郎

安兵衛山口新助

﹃音画両引開化節用集﹄福寿信編総生寛訂和二七八丁

﹃開化新撰字引﹄西野古海編和︱四四丁万笈閣

贔開化節用字集﹄ 宇喜多小十郎編 和一六五丁 京都 門︵明書楼︶ ﹃音訓新聞字引﹄萩原乙彦編和︱二四丁弘文堂

混じえた、当時の現代用語辞典である。

明治八年



明治十三年

﹃開化いろは字引﹄倉田鉦太郎編和七四丁伊東武左衛門 贔虹伊呂波字引﹄上田貢太郎編和二六丁丸善



明治十五年

明治九年



『大漢和辞典』を引く

2 7 5 第 3部

明治十五年 ﹃日用開化三用便﹄

﹃開化早引大成﹄ 便利

新撰

明治十八年

﹃雌頭正虹開化玉篇大全﹄和三︱二丁文江堂

﹃開化玉篇大全﹄橘鵡郷編和六︱︱六丁山中市兵衛

吉野喜之輔編和六一丁真盛堂

武 田 福 蔵 編 和 二 四0丁 大 阪 花 井 卯 助

明治八年

贔且懐中玉篇﹄笠原常道編九九丁金花堂

﹃玉篇﹄系列の辞書

明治十年

﹃ 懐 宝 三 書 字 引 ﹄ 松 浦 宏 編 六 0三 丁 中 林 堂

明治十四年

﹃訓蒙康熙字典﹄和二冊橋爪貫一編須原鉄二

﹃康熙字典﹄立野胤政校正和三七四丁山中市兵衛

大阪

﹃懐宝玉篇﹄松浦宏編和二三五丁東崖堂︵稲垣武八︶ 贔広玉字典﹄森源造編和一九八丁前橋書店 ﹃五餌広集玉篇大全﹄鈴木音彦編和三四四丁 京都中村風祥堂

明治十六年

田中宋栄堂

﹃翡懐宝以呂波字引﹄宇野具応編和八九丁大阪近藤太十郎 寺井米吉

﹃翡会玉篇大全﹄陶山直良編和三一三丁大阪赤志忠雅堂

明治十二年 ー ー



二十十十 十九七三 四年年年 年

﹃康熙字典﹄の翻刻とその系統の辞書

明明明明 治治治治

2 7 6

明治十六年 明治十七年 明治三十八年

﹃康熙字典﹄和一︱十冊 石川鴻斎編 甘泉堂



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キよ ~こ

鳳文館︵明治︱︱十九年博文館再

﹃訓蒙康熙字典﹄和四冊長谷川政忠編

版銅版︶

﹃唐熙字典﹄洋一冊吉川弘文館

独自の企画による漢和辞典 以上は近世までの遺産を直接的に明治に継承したものといえるが、

明治六年

明治二年

﹃漢語明解一名、古事詳説﹄二冊草野玄章編

﹃漢語字解﹄池田観編︱︱九丁稲田佐兵衛

『漢語二重字引』萩原乙彦補和一

﹃漢語字類﹄荘原和編︵庄原謙吉︶和︱四三丁青山清吉

浜野知三郎の ﹃漢和大辞典﹄︵六合館︶が字源の解説を採りいれた。

明治七年

一七 0頁

0九丁玉養堂•万青堂

明治二十五年

家版

大阪



入ると久保天随の漢和辞典などが親字の解説を行ない、 さ ら に 明 治 末 年 に は

なると山田美妙らによる熟語成句の辞書も出現するようになり、三十年代に

の 熟 語 に 当 時 の 常 用 語 を 加 え た と い う 程 度 の も の で し か な い が 、 二十年代に

明治年間にはつぎのような独自の発達径路がある。初期においては﹃玉篇﹄

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久亭開*大れ久 A 頃巧知 一 u 軒輯着

1 ' 一久争?;穀

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析諄漠和大辞典

1 伍

束*六合館嶽仄︱︱

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A ﹃漢和大辞典﹄

明治二十五年



明治三十四年

﹃ 漢 語 熟 字 典 ﹄ 木 戸 照 陽 編 和 二 二 0丁 大 阪 田 中 宋 栄 堂 ﹃鴎靡漢語大字典﹄荒川義泰編和二三五丁大阪青木嵩山堂

0 五頁三省堂付国訓•国

﹃漢語故諺熟語大辞林﹄山田美妙編一三五九頁大阪青木嵩山

『漢和大辞典』重野安繹ほか編一八



﹃漢語辞彙﹄久保天随︵得二︶編八五一頁育成会

字・濠文 ﹃漢和大辞林﹄芳賀剛太郎増訂一八六六頁郁文社

明治三十六年 明治三十七年

﹃ 大 辞 典 ﹄ 全 二 冊 山 田 美 妙 編 五 0五 六 頁 嵩 山 堂

﹃氾叶漢和大辞典﹄後藤朝太郎・上野三郎編二三四一頁東雲堂

﹃新訳漢和大辞典﹄浜野知三郎編一九六八頁六合館

明治四十三年 明治四十四年 " 明治四十五年

現代漢和辞典への展開

大正六年(-九一七︶に出現した﹃大字典﹄︵啓成社︶は‘上田万年ほかの編

ぐ﹃大字典﹄︵普及版︶

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集名義だが、実質は東京帝国大学図書館に籍を置いていた栄田猛猪の編纂に

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なるものである。彼は従来の国語辞典が漢語の収録に熱心でないことに不満

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を抱き、同僚の飯田伝一の協力を得て語彙を蒐集、規模においては親字二万、

•...

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熟語十万、内容においては漢音と国語の訓を︱つにまとめ、親字に通し番号 を付し、本文の欄外に見出し語を載せるなどの新機軸を編みだした。

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『大漢和辞典』を引く

2 7 7 第 3部

2 7 8

啓成社

服部宇之吉•小柳司気太著 冨山房

ロ = ︱ ﹃大字典﹄上田万年・栄田猛猪ほか編

昭和元年増

索源触窒道製幕

ぐ﹃字源﹄︵増補版︶

A ﹃詳解漢和大字典﹄︵修訂増補版

炉 ∼

﹃詳解漢和大字典﹄

﹃字源﹄簡野道明著北辰館

ー 大正六年

一九五O)は国語改革



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●之拿嘩履

太氣回勘ヽI•

大正五年

大正十一一年 ﹃新修漢和大字典﹄小柳司気太博文館 ﹃新漢和大字典﹄宇野哲人編三省堂

昭和七年



三省堂

これについては繰り返さない。ちなみに戦

そ の 後 、 大 家 に よ る 漢 和 辞 典 が 輩 出 し 、 諸 橋 轍 次 著 ﹃ 大 漢 和 辞 典 ﹄ の壮挙 へとつながっていくのであるが、

後の﹃新漢和辞典﹄︵服部宇之吉・長沢規矩也編

﹃大漢和辞典﹄を圧縮したうえ新機軸を出

を反映し、部首をふくめて略字を採用した辞典である。 近年の漢和辞典で特筆すべきは

﹃角川漢和中辞典﹄貝塚茂樹ほか編角川書店

『新漢和辞典』服部宇之吉•長澤規矩也三省堂

し た ﹃広漢和辞典﹄ であろう。

昭和三十四年

﹃新漢和辞典﹄諸橋轍次はか著大修館書店

﹃明解漢和辞典﹄長澤規矩也編著三省堂

昭和二十五年



昭和三十八年

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昭和五十三年

昭和五十二年

昭和四十三年

昭和四十二年

昭和三十八年

『広漢和辞典』全四冊諸橋轍次•鎌田正•米山寅太郎共著 大 修 館 書

﹃学研漢和大字典﹄藤堂明保編学研

﹃旺文社漢和中辞典﹄赤塚忠ほか編旺文社

﹃角川新字源﹄小川環樹ほか編角川書店

﹃三省堂新漢和中辞典﹄長澤規矩也編三省堂

﹃新選漢和辞典﹄小林信明編小学館



昭和五十七年

﹃広漢和辞典﹄の規模は親字二万で、﹃大漢和辞典﹄を除けば最大規模であ るし、熟語の排列を五十音順とし、引用文に返り点・送りがなを施し、出典 を詳述している点もすぐれている。索引は﹃大漢和辞典﹄と同様、総画索引、 字音索引、字訓索引、四角号硝索引があり、そのほかに中国語音索引、熟語 索引などが備えられている。さらに付録には、常用漢字、人名用漢字別表、 中国簡化字およぴ日本の字体対照表が付されるなど、実用的かつ親しみやす い工夫がなされている。ここにいたって、誰にも便利で、楽しみながら引け

雑るような漢和辞典が出現するようになったとの感が深い。

『大漢和辞典』を引く

2 7 9

V﹃広漢和辞典﹄

付 録 諸 橋 轍 次 略 年 譜 / ﹃大漢和辞典

編纂・刊行史 l b



283 付

諸橋轍次略年譜

明治十六年(-八八三︶ 六月四日新潟県南蒲原郡四ツ沢村に諸橋安平・シヅの 次男として生まれる。初め尚由子、後に止軒と号す。 明治二十年(-八八七︶四歳 父に従い﹃三字経﹄の素読を学ぶ。 明治二十二年(-八八九︶六歳 四月四ツ沢村立尋常小学校入学。 明治二十六年(-八九三︶十歳 三月四ツ沢村立尋常小学校卒業。 四月同校補習科入学。 明治二十九年(-八九六︶十三歳 三月四ツ沢村立尋常小学校補習科卒業。 四月南蒲原郡本下田村院内奥畑米峯の静修義塾に入り、 以後三年間もっぱら漢学を修業。 四月新潟県第一師範学校入学。

明治=︱十三年(-九00) 十七歳 明治ー︱-+七年(-九 0四 ︶ 二 十 一 歳

三月新潟県第一師範学校卒業。

四月東京高等師範学校入学。

三月東京高等師範学校国語漢文科卒業。

明治四十一年(-九 0八 ︶ 二 十 五 歳

四月群馬県師範学校教諭兼舎監兼訓導となる。

四月東京高等師範学校漢文研究科入学。同月、東京高

明治四十二年(-九0九 ︶ 二 十 六 歳

等師範学校付属中学校の授業を嘱託される。

三月東京高等師範学校研究科卒業。

明治四十三年(-九一 O)-︱十七歳

十二月山本キン子と結婚する。

四月東京高等師範学校助教諭となる。

大正二年(-九一三︶三十歳

四月束京高等師範学校教諭となる。

大正六年(-九一七︶三十四歳

十月初めて中国へ出張する。

八月文部省より中国哲学及び中国文学研究のため一一か

大正八年(-九一九︶=一十六歳

年間中国留学を命ぜられ、九月留学の途に上る。

八月帰国。同月、岩崎男爵より静嘉堂文庫長を委嘱さ

大正十年(-九︱︱-︶︱二十八歳 れる。

2 8 4

九月東京高等師範学校教授となる。 十一月国学院大学講師となる。 大正十︳年(-九二二︶三十九歳 二月帝国学士院より帝室制度の歴史的研究の調査委員 を嘱託される。 四月東京高等師範学校漢文科主任となる。同月、大東

大正十五年(-九︱一六︶四十三歳 文化学院教授•駒沢大学講師となる。

二月文部省より中国へ出張を命ぜられる。

昭和三年(-九二八︶四十五歳 九月大修館書店との間に﹃大漢和辞典﹄編纂の約定成 る 。

三月国学院大学教授となる。

昭和九年(-九三四︶五十一歳

八月文部省より中国へ出張を命ぜられる。

一月講書始の儀に漢籍進講控を仰せつけられる。

昭和十一年(-九三六︶五十三歳

三月東京帝固大学文学部講師となる。以後四年間と昭

和十七年より一一年間とも担任。

一月講書始の儀に漢籍進講仰せつけられる。

昭和十二年(-九三七︶五十四歳

昭和+=一年二九三八︶五十五歳

二月文部省より中国へ出張を命ぜられる。

六月﹃大漢和辞典﹄出版記念会を東京会館において挙行

五月国語審議会臨時委員となる。

昭和十八年(-九四三︶六十歳

する。︵九月第一巻発行︶

昭和四年(-九︱︱九︶四十六歳 一月﹃儒学の目的と宋儒の活動﹄により東京帝国大学よ

任 。

十月東京文理科大学教授兼東京高等師範学校教授を辞

八月東宮職御用掛を仰せつけられる。

昭和二十年(-九四五︶六十二歳

八年度朝日文化賞を受ける。

一月﹃大漢和辞典﹄の編纂により朝日新聞社より昭和十

昭和十九年(-九四四︶六十一歳

り文学博士の学位を授けられる。 四月東京文理科大学助教授兼東京高等師範学校教授と なる。 四月東京文理科大学教授となる。

昭和五年(-九三 O) 四十七歳 昭和七年(-九三︱-︶四十九歳 三月東京文理科大学付属図書館長となる。 昭和八年(-九三三︶五十歳



2 8 5付

十二月学習院講師となる。 五月東京文理科大学名誉教授となる。

昭和二十一年(-九四六︶六十三歳 六月小金井東宮仮御所において皇太子明仁親王殿下に 対し初めて漢学を進講する。以後毎週二回ずつ学習院教 室において進講する。 十一月春に手術をした右眼が全く失明する。

十一月 刊行。

紫綬褒章を受ける。同月、﹃大漢和辞典﹄第一巻

昭和三十二年(-九五七︶七十四歳

九月都留短期大学長に就任。

十一月皇孫御命名の勘申役仰せつけられる。

昭和三十四年(-九五九︶七十六歳

御誕辰、浩宮徳仁親王と申しあげる。︵博士の御命名によ

二月都留文科大学創設され、学長となる。同月、皇孫

昭和三十五年(-九六 O) 七十七歳

五月宮内庁御用掛を命ぜられる。

昭和二十二年(-九四七︶六十四歳

る ︶

昭和四十年(-九六五︶八十二歳

四月第一回生存者叙勲に際し、銀盃御下賜゜

三月都留文科大学学長を辞任。

昭和三十九年(-九六四︶八十一歳

十月八十寿の賀会が若深会館にて開かれる。

昭和三十七年(-九六︱-︶七十九歳

和辞典﹄発行完了、完刊記念会を東京会館にて開く。

五月中華民国政府より学術奨章を受ける。同月、﹃大漢

十月国学院大学教授となる。 昭和二十三年(-九四八︶六十五歳 六月青山学院大学教授となる。 九月国立国会図書館支部静嘉堂文庫長となる。 二月六年間にわたる皇太子殿下に対する御進講終了。

昭和二十七年(-九五二︶六十九歳 昭和二十八年(-九五三︶七十歳 十月古稀祝賀会が日本工業倶楽部において開かれる。 昭和三十年(-九五五︶七十二歳

せられる。同月、第二皇孫御誕辰、礼宮文仁親王と申し

十一月宮中にて天皇陛下御親臨の下、文化勲章を授与

あげる。︵宇野哲人・久松潜一と博士の三人の勘申により

二月静嘉堂文庫長を辞任。 て開かれる。

御命名︶

四月﹃大漢和辞典﹄刊行発表会が日本工業倶楽部におい 五月順天堂病院にて開眼手術を受ける。

2 8 6 青山学院を退職、一切の公職なし。

昭和四十二年(-九六九︶八十四歳 昭和四十五年(-九七0) 八十七歳 米寿祝賀会が日本工業倶楽部にて開催される。 四月より十月末まで坐骨神経痛にて大いに悩む。

昭和四十七年(-九七二︶八十九歳

十月新潟総合テレビより、県出身の文化功労者として

昭和四十八年(-九七三︶九十歳 表彰される。 ﹃諸橋轍次著作集﹄全十巻刊行。

昭和五十二年(-九七七︶九十四歳

永眠。

『広漢和辞典』全四巻(諸橋轍次•鎌田正•米山寅太郎共

昭和五十七年(-九八二︶九十九歳 著︶刊行。 十二月八日

●﹃諸橘轍次著作集﹄第十巻所収の﹁年譜﹂にもとづいて作成。



2 8 7付

﹃大漢和辞典﹄編纂・刊行小史

る。この編纂所を遠人村舎と称した。 昭和十二年(-九三七︶

昭和九年七月より組版を開始、十二年七月、全原稿の棒

組み︵三万八千五百九十一段︶完了。 昭和十七年(-九四二︶

製作の準備にかかったが、本文用紙をはじめ、あらゆる

を極める。統制機関と種々折衝の結果、ようやく一万部

資材が国家統制を受けていたため、製作資材調達に困難

大正十四年︵一九二五︶ 大修館書店社長鈴木一平、諸橋轍次先生に、漢和辞典の

六月、東京会館において﹃大漢和辞典﹄出版記念会を催

昭和十八年(-九四三︶

発行の許可を受けた。

編纂を依頼。 昭和=一年(-九二八︶ 著作者諸橋轍次、発行者鈴木一乎との間に出版に関する 契約が成立。

九月十日、﹃大漢和辞典﹄巻一を刊行。予約数は発行許可

し、予約募集を発表。

部数の三倍以上に達した。

昭和六年(-九三一︶ ぬ膨大な分量になることが判明。著者、発行者が協議を

諸橋博士﹃大漢和辞典﹄編纂の功により朝日文化賞受賞。

昭和十九年(-九四四︶

四年にわたる編纂基礎作業の結果、当初の計画に収まら

に踏み切る。

重ねた末、今日の姿にみる大規模な漢和辞典の編纂刊行 昭和八年(-九三三︶ に大修館書店付属特設組版工場(︱二 0坪︶を新設。

本辞典の組版のため東京市神田区錦町三丁目二十四番地 昭和九年(-九三四︶ 沼一丁目二六三番地に移転し、原稿の整理、浄書を進め

大漢和辞典編纂所を東京市豊島区雑司ヶ谷より杉並区天

当時の新聞広告

2 8 8 備に着手。

る。諸橋博士は戦災を免れた校正刷をもとに原稿の再整

鈴木一平、諸橋博士に﹃大漢和辞典﹄の再挙を申し入れ

昭和二+︱│二十二年(-九四六 I 七 ︶

校正刷三部を諸方に分けて疎開していた。

を焼失した。諸橋博士は不慮に備え、全ページにわたる

ニを印刷中であったが、三巻以降の原版とともにすべて

特設付属工場の一切を焼失。この時﹃大漢和辞典﹄は巻

二月二十五日、戦災により、大修館書店の事務所、倉庫、

昭和二十年(-九四五︶

戦前の内容見本より

昭和二十五年(-九五O) 約を更新する。

新しく編纂・刊行方法などについて協議が調い、出版契

﹃大漢和辞典﹄用原字製作を、写真植字の発明者、写真植

昭和二十六年(-九五一︶

字機研究所長石井茂吉氏に依頼。

大修館書店内に写真植字部を新設。

昭和二十八年(-九五三︶ 昭和二十九年(-九五四︶

び写真植字機研究所印字部において開始。

十月、写真植字による組版を大修館書店写真植字部およ

四月、日本工業倶楽部において﹃大漢和辞典﹄刊行発表

昭和三十年(-九五五︶

十一月一︱一日、﹃大漢和辞典﹄巻一を刊行。諸橋博士、﹃大

会を開く。

漢和辞典﹄編纂の功により紫綬褒賞受賞。 昭和三十二年(-九五七︶

鈴木一平、﹃大漢和辞典﹄の出版発行の努力に対し菊池寛 賞受賞。

五月二十五日、第十三巻総索引を刊行。これをもって

昭和三十五年(-九六 O)

﹃大漢和辞典﹄全十三巻の刊行を完了した。編纂開始以



2 8 9付

来実に三十五年の歳月を延べ二十五万八千人の労力、お よぴ巨額の経費が注ぎこまれて、ここに﹃大漢和辞典﹄ が完成した。 昭和四十年(-九六五︶ 十一月、諸橋博士、文化勲章受章。 諸橋博士の文化勲章受章を記念し、﹃大漢和辞典﹄縮写版

縮写版(昭和 4 1年ー43年 )

修訂版(昭和 5 9年ー 6 1年 )

昭和四十一年(-九六六︶

五月、﹃大漢和辞典﹄縮写版巻一を刊行。

五月、﹃大漢和辞典﹄縮写版の刊行を完了。

昭和四+=一年(-九六八︶

五月、東洋学術研究所︵所長鎌田正博士︶を設立し、﹃大

昭和四十九年(-九七四︶

漢和辞典﹄の本格的な修訂作業を開始。 昭和五十六年(-九八一︶

(諸橋轍次•鎌田正•米山寅太郎共著)の刊行を開始。

十一月、﹃大漢和辞典﹄の姉妹編、﹃広漢和辞典﹄全四巻 翌年十月に完結。

十一月、﹃大漢和辞典﹄修訂版︵修訂者/鎌田正・米山寅

昭和五十八年(-九八三︶

太郎︶の予約募集を発表。

四月、﹃大漢和辞典﹄修訂版の刊行を開始。

昭和五十九年(-九八四︶

四月、﹃大漢和辞典﹄修訂版の刊行を完了。

昭和六十一年(-九八六︶

●大修館書店作成

2 9 1 あとがき

あとがき

諸橋轍次著﹃大漢和辞典﹄は、昭和三十年(-九五五︶の初版刊行時から数えても、すでに三十年を超え

る歳月が経過し、縮写版•修訂版をも合わせて約十三万セットが普及している。漢字の本場である中国で

も愛用されていて、各地の大学で手垢にまみれているのを見かけることがあり、近年の修訂版も中国から 五百セットの注文があったという。

これほど世に行なわれている辞書ではあるが、内容が浩諭かつ膨大であるため、 そ の 特 色 を 十 分 に 引 き

だし、活用している人は意外に少ないのではなかろうか。﹁﹃大漢和﹄はあまりにも大きすぎて、使うのが

積んどく

I I

I I

になっ

億劫になってしまう﹂という声を耳にすることもある。非常に奥行の深い辞書であるから、使えば使うほ

ど、新たな知的刺激を覚えるということはいえるけれども‘ そこまでいかないうちに てしまうことがあるとすれば、 いかにも残念なことである。

そのような状況に思いをいたし、ここに現代社会人や学生が﹃大漢和﹄により親しみ、使いこなすため

いささか参考になるような本を編んでみることにした。もとより編者である私自身は、漢字に関して

い要素を盛りこむことができるのではないかと考えた。

まったくの素人、それこそ門外漢にすぎないが、 むしろ一般利用者という立場と視点から、専門書にはな



2 9 2

辞書というものは本質的には道具であるが、﹃大漢和﹄のように大きな努力と歳月を傾けて完成された辞

書には、編者をはじめとする関係者の人格的要素や、社会的・文化的背景などを知ることによって、 その

本質がよりよく理解され得るという面がある。とくに諸橋轍次の場合は、中国の伝統的学問を生き方のう

えに体現していたからこそ、この種の大事業が可能になったといえよう。数年まえ、私は﹃生涯を賭けた

一冊﹄という本を書くにあたって、 はじめて諸橋轍次の人柄や生き方について知る機会を得たが、 いらい

﹃大漢和﹄ への親しみの念がより深くなったような気がしている。すでに編纂事業をめぐるドラマチック

な挿話はかなり知られていると思うが、本書で伝記的な要素を︱つの柱としたのは、そのような体験によ る 。 コンピューターとコピーマシンだけでは、辞書はできないと思う。

ついで各界の執筆者に、ご自身の日常のなかで、 どのように漢字・漢語と関わりを持ち、 ひいては﹃大

漢和﹄を使っておられるかということを語っていただいた。漢字は現代において使用されている唯一の古

代文字であるそうだが、そのような文字が昨今のように変化のはげしい時代に機能している不思議さとい

うものが、これらのエッセイを通して浮かぴあがっているようだし、 さらに﹃大漢和﹄が現実の社会のな かでどのように役立っているかの一斑を窺うことができると思われる。

最後に、この辞書を利用するための基本的な知識と方法を示すとともに、諸橋轍次略年譜、﹃大漢和辞典﹄

編纂・刊行史などを付した。辞書を使いこなすための﹁凡例﹂は、面倒なせいか、あまり読まれないとい

うことがわかっているので、四角号礁の解説と合わせて問答形式にするなどの工夫をしてみた。

2 9 3 あとがき

なお、表記の問題として、﹃大漢和辞典﹄が正確な書名であるが、本書では﹃大漢和辞典﹄に統一したこ

とをおことわりしておきたい。用字用語については、各執筆者のものを尊重させていただいた。編纂にあ

たっては、鎌田正、米山寅太郎の両先生をはじめ、松井秀孝︵新潟県下田村中央公民館︶、 川上市郎︵大修館

書店相談役︶、中原尚道︵同編集部︶、池澤正晃︵同編集部︶、森田六朗︵同総合企画課︶、鈴木隆︵タングラム︶ の各氏のほか、多くの方々のお世話になった。厚くお礼申しあげたい。

本書が﹃大漢和﹄を知り、活用するうえでの参考になるとともに、漢字についての肩のこらない読み物 として広く迎えられることを祈りたい。

昭和六十一年一月

編者紀田順一郎

『大漢和辞典』を読む一__執筆者紹介(掲載順)

紀田順一郎(きだじゅんいちろう)・評論家

1 9 3 5年(昭和 1 0 ) 生まれ.主著『 H本の書物』『本の環境学』『知の職人たち』. 森本哲郎(もりもとてつろう)・評論家 1 9 2 5年(大 1 4 ) 生まれ.主著『文明の旅』『ことばへの旅』『書物巡礼記』. 三國一朗(みくにいちろう)・放送タレント

1 9 2 1年(大 1 0 ) 生まれ.主著『徳川夢声の世界』『肩書きのない名剌』『戦中用語集』. 高田宏(たかだひろし)・作家 1 9 3 2年(昭 7) 生まれ.主著『言葉の海へ』『言葉の影法師』『雪 H本 心 H本 』 . 林邦夫(はやしくにお)• 新聞社編集委員

1 9 3 1年(昭 6) 生まれ.主著『当世出版事情』. 古澤典子(ふるさわのりこ)・校正者・ H本語教師

1 9 1 7年(大 6) 生まれ.主著『校正の散歩道』. 前田愛(まえだあい)・立教大学教授(国文学) 1 9 3 2年(昭 7) 生まれ.主著『成島柳北』『都市空間のなかの文学』『近代読者論』. 石川忠久(いしかわただひさ)・桜美林大学教授(中国文学) 1 9 3 2年(昭 7) 生まれ.主著『漢詩の世界』『漢詩のこころ』『陸源詩集』. 中野美代子(なかのみよこ)•北海道大学教授(中国文学)

1 9 3 3年(昭 8)生まれ.主著『砂漠に埋もれた文字』『孫吾空の誕生』『中国の青い鳥』. 山下正男(やましたまさお)・京都大学教授(西洋哲学史) 1 9 3 1年(昭 6)生まれ.主著『動物と西欧思想』『植物と哲学』『論理的に考えること』. 後閑博太郎(::かんひろたろう)・コピーライター(昧旭通信社)

1 9 4 2年(昭 1 7 ) 生まれ.「貝」シリーズ(共同制作)て第 4回新聞広告賞受賞. 林隆男(はやしたかお)・條タイプバンク代表

1 9 3 7年(昭 1 2 ) 生まれ.ワードプロセッサーのデジタル文字、約 4 5 , 0 0字をデザイン. 国学院大学講師(図書館学) 1 9 0 0年(明 3 3 ) 生まれ.主著『辞典活用ハンドプック』『禰吉光長著作集』全 6巻 .

禰吉光長(よしやみつなが)•

cJ.Kida1986

『大漢和辞典』を読む 0日 初 版 発 行 1 9 8 6年 3月1

定価

1 , 8 0 0円

編者紀田順一郎

検印省略

発行者鈴木敏夫 発行所累}大修館書店

1 0 1 東京都千代田区神田錦町 3 2 4 電話 ( 0 3 )2 9 4 2 2 2 1 (大代表) 振替東京 9 4 0 5 0 4 企画・編集協力/タングラム 組版•印刷横山印刷/製本関山製本

ISBN4 4 6 9 2 3 0 3 9 1

P r i n t e di nJapan

巻諸橋轍次 鎌田正共著 全米山寅太郎

4



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夕方ま

1に → →は大 こ-漢 ^ 大和 申れ が漢辞 込 5和 典 み 万 辞し 期 限 L字 典 全 を 1 3 I I を読巻



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諸橋轍次•渡辺末吾•鎌田正•米山寅太郎共著

蛮*修館新漢和辞典

〒1 0 1 東京都千代田区神田錦町3 2 4 振替/東京 9 4 0 5 0 4 電話 2 9 4 ・ 2 2 2 1く大代表〉■内容見本呈

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